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一球入魂
今日は、私のように学生時代野球にお世話になった人間は絶対に忘れてはならない野球界の大恩人、

  と び た  すいしゅう
 飛 田 穂 洲 


の命日・没後50周年にあたります。


飛田 (本名:忠順) 氏は1886(明治19)年、現在の水戸市生まれ。

家は父親が村長も務めた豪農で、彼自身は無類の負けず嫌い・・・その性格が、後の野球人生に大きく関わってくることになります。

水戸中学(現・水戸一高)時代、下妻中学に破れた悔しさに、再戦を申し込むも断られると、その下妻中学に勝った東京・郁文館と対戦してこれを撃破。

しかし東京遠征中に敗れた慶応普通部に敗れると、彼は主将となって再び上京、リベンジを果たします。

そんな形で野球にのめり込んで逝った飛田氏は、親の反対を押し切って早稲田大学に入学し、野球部に入部。


セカンドを守った彼は第5代主将を務めますが、ここでまたしても屈辱的な敗戦を喫します。

1910(明治43)年に来日したシカゴ大学に大差で6戦全敗・・・この責任を取って、彼は引退しコーチに。

1913(大正2)年に卒業すると武侠世界社に入社し雑誌の編集者に。


その後読売新聞社に転職しましたが、同社社会部記者だった1919(大正8)年に請われて早大野球部の初代監督(専任コーチ)に就任。

既に結婚し2人の子供がいながら収入減を承知で引き受けたのは、現役時代にシカゴ大学から受けた屈辱を晴らさんがためだった・・・といわれています。

〝(彼が生みの親である)千本ノック〟などの猛練習で選手を鍛え上げ、第一期早大黄金時代を築いた飛田監督は、1925(大正14)年秋のリーグ戦で優勝すると、再び来日したシカゴ大学と対戦。

1勝1敗2引き分けで迎えた最終第5戦・・・4点先行された試合をひっくり返して見事逆転勝ちを収め、シリーズを勝ち越して見事にリベンジを果たし、監督勇退の花道を飾りました。


       

監督在任中から読売新聞などで随筆を掲載していた飛田氏は、監督退任後東京朝日新聞に入社。

飛田穂洲のペンネームで中学(現在の高校)・大学野球の評論を行なうと共に、東京六大学野球連盟理事・公式記録員、また早大野球部顧問として学生野球の発展に尽力されました。



そして太平洋戦争に突入し、有名な〝最後の早慶戦〟の実現にも奔走。


戦後も日本学生野球協会の創設や学生野球基準要綱の作成に尽力されました。

その功績により、毎日スポーツ賞や紫綬褒章などを受賞、そして1960(昭和35)年にはアマチュウ球界から特別顕彰として野球殿堂入り。

しかしその5年後の1965(昭和40)年1月26日・・・持病の心臓病が悪化し、78歳でこの世を去りました。

飛田氏は、野球を武(士)道と同様に〝野球道〟と捉え、精神修養の場と捉え、人一倍厳しい練習を通して人間形成を行なおうとしていたようです。

野球経験者なら皆耳にしたであろう〝一球入魂〟という言葉は、飛田氏が最初に口にしたとされるのも頷けます。


しかしその一方で、彼は勝利至上主義者でもありました。

やられたらやり返す・・・彼の野球人生がその繰り返しであったことからも、それは明らか。

意外に思われるかもしれませんが、勝つためには四球も止む無しとして敬遠策も否定していません。

気を失う程の猛練習は今時流行らないでしょうが、科学的に合理的な練習法を取り入れたとしても、飛田氏が提唱する学生野球の本質は変えるべきではない・・・と、私には思えます。


母校・水戸第一高校には、飛田氏の胸像と共に野球をこよなく愛したサトウハチロー氏が彼に捧げた詩を刻んだ碑文が。 


 ひとつのものを つらぬくことのすばらしさ

 ひとつのものに 何から何まで打ちこむうつくしさ

 ひとつのものを 大事にそだてるやさしさ きびしさ

 ひとつのもの以外 ふりむかないガンコさにも 

 われわれは笑顔と拍手をおくろう

 ひとつのもの ただひとつのもの

 ひたむきにそれと取り組んできた人

 その人にわたしはいままでしたことのない おじぎをする


一意専心、野球に生涯を懸けた〝学生野球の父〟のご冥福をお祈り致します。野球ボール




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