現在ではその存在がポピュラーになっている、通勤電車の
女性専用車両
・・・これ、いつ頃からあったか、皆さんはご存じでしょうか?
「え~っと、平成に入ってから?」
などと比較的歴史が浅いと思っていらっしゃる方が多いかもしれませんが・・・実はこれ、100年以上前から存在していたんです。
最初に登場したのは、今から103年前の今日・1912(明治45)年1月31日。
東京・中央線の朝・夕の通勤・通学時間帯に『婦人専用電車』としてお目見えしたのです。
車両の側面に〝婦人専用〟と右から左に書かれた札が掛けられているのが、お分かりいただけますでしょうか?(↓)
これが誕生した背景は痴漢対策ではなく、男女が同じ車両に乗るのは好ましくない・・・という当時の国民常識(?)の反映から。
婦人専用車両には女性が列をなして乗り込んだそうですが、なぜか短期間で廃止されたそうな。
その後関西地区でも何回か登場しましたが、それらも程なく廃止。
再び首都圏にお目見えしたのは、戦後の1947(昭和22)年。
やはり中央線で再登場し、その後京浜東北線にも導入されたそうですが、この時の導入理由は、乗車率が300%にまで達した激しい通勤・通学ラッシュから女性・子供を守るためだったとか。
しかしこれも1973(昭和48)年のシルバーシート登場と入れ替わる形で消滅しました。
そして1980年代末期に大阪で痴漢に端を発した性犯罪が起き、これをきっかけに市民団体が鉄道各社に改善を訴えたことが、現在の女性専用車両誕生の伏線に。
2000年に東京・京王線で平日深夜帯の下り臨時列車の最後部1両を試験的に女性専用としたのを皮切りに、以後徐々に他社でも導入が進んで現在に至っています。
おそらくこの専用車両に関しては、存続して欲しいと要望する女性は多いと思います。
また男性の私としても、存続に大賛成です。
いや、むしろ男性専用車両も作って欲しいくらい。
最近よく報じられる痴漢の冤罪などに巻き込まれたくはないですし、またハイヒールで思い切り踏まれて痛い思いもしたくないですから・・・。
ただ、勘違いしている方もいらっしゃるようですが、この女性専用車両にもし男性が乗っても罪に問われることはありません。
あくまでも〝男性の理解と協力のもと、鉄道事業者が自主的に行っているサービスの一環〟という位置づけなのです。
もちろん、だからと言って 「法的に問題ない」 と突っ張って男性が女性専用車両に乗り込むのは
迷惑行為に近いですが・・・。
まぁ私とすれば、男性がそれと知らずに乗り込まないよう、(既に一部では導入されているようですが)車両全体をピンク色にするなど、一目で分かるような工夫をして欲しいもの。
以前、発車寸前に乗り込んだのが女性専用車両で、ハッと気づいたら乗客はほぼ全員女性。
次の駅に着くまで、私は痛い視線を背中に浴び続けました。
あんな心臓に悪い経験は、もうこりごりですから~!
てっきり 「お待たせして済みません。 どうぞこちらへ・・・」 と迎えてくれると思った私の期待(?)は、見事に裏切られました。
「あっ、今まだ朝礼中なんで入らないでください。」
「えっ、もう開店時間とっくに過ぎてるけど?」
驚いて聞き返した私に、彼は更にこう言ったのです。
「とにかく困ります。 シャッター開けるまで、下でお持ちください。」
シャッター開けるまでって、我々がこじ開けて入ってきたと思っているのか、コイツは?
木で鼻をくくるとは、このこと・・・私も女房も、目がテン。
憤然と階段を下りた私は、これから私ら同様に不快な想いをする方が増えないよう、シャッターを完全に閉めて差し上げました。
「アッタマくるワ。 こんなところ、もう2度と来てやるもんですかっ!」
女王様のお怒りは頂点に・・・そしてその言葉通り、現在に至るまで我が家では当該レストランには以後一度も訪れて、いや近づいてもおりません。
昨日のラーメン店といい、このレストランといい、こういう顧客対応をしていることなど経営者や本部は何も知らないんでしょうねェ。
さて、酷い対応のお店ばかり書き連ねてきましたが、もちろん気持ちのいい対応をしてくれるお店も(数少ないながら)あります。
そのひとつは、私が社会人になってからズ~ッとお世話になっている、理容室。

最初の配属先が銀座営業所だった私は、先輩の紹介で会社近くにあったその理髪店にお世話になり始め、以来(地方転勤した時を除き)30年以上通い続けています。
人気店ゆえに混み合うので、私はいつも開店時間の10時に行くのですが・・・時々道が空いていて開店時間より10分程早く到着する時があります。
ガラス越しに覗き込むと、朝礼の真っ最中。
ところが私の姿を見るや、すぐに朝礼を打ち切ってドアを開け、満面の笑みで
「いらっしゃいませ~!」
「ゴメンね、早く来ちゃって。」 と申し訳なさそうに言うと、
「いえいえ、気にしないでください。 いつもありがとうございます。」
と気持ちよく応対してくれるんです。
そしてカットが終わって店を出るときも、階段を上がって私の姿が見えなくなるまで見送ってくれ、最後に
「ありがとうございました~!」
と大きな声でお見送り。
ここは本店で、当初からM社長自らが私のカットを手掛けてくれているのですが、教育熱心な社長の企業理念が行き届いているんでしょうねェ。
デフレで1,000円カットの理容室が持て囃された時期でも、一流ホテルや都内一等地にいくつも店を出しているのも頷けます。
私を含め、お客様の多くはカット代金以外にもサービスにお金を払っている・・・それをこのM社長さんはよく分かっていらっしゃるのでしょう。
開店時間とは単にドアを開けることではなく、お客様を万全にお迎えできる体制を整える時間のはず。
チェーン店経営者の皆さん、抜き打ちで開店時間に視察した方がいいかもしれませんョ。
以前、拙ブログで開店時間になっても照明をつけず、真冬なのにお客さんが入店してから暖房をつけるラーメン店について記事にしたことがありました。
私自身サービス業に従事しているだけに、どうしても他業種であっても接客・応対に関心が向いてしまうのですが、特にそのお店のサービスに対する本音って開店時に垣間見えるように感じます。
先日、某ラーメン・チェーン店に行ったときのこと。
このお店は開店が午前11時。
ちょうどその時間に通りかかった私はその店でランチを・・・とクルマを駐車場へ。そして入口に行ってみると、時間は既に11時3分なのに、先客の数組が店の外で待たされているではありませんか。
実はその日の天気は雨だったのですが、開店時間を過ぎても店員は傘をさして立ち尽くしているお客さんを放ったらかしにして、店内で朝礼の真っ最中。
店内からは、「いらっしゃぃませ~!」、「ありがとうございました~!」という発声練習がガンガン聞こえてきます。
そして11時5分・・・「それでは本日もよろしくお願いしま~す!」 という一斉唱和が聞こえてきてからしばし、「はいっ、いらっしゃいませ~!」 という掛け声と共に、ようやくドアが開いたのです。
雨の中待たされた先客の皆さんはそそくさと店内に入っていきましたが、私はちょっと腹に据えかねたので、応対した店員に皮肉を一言。
「あなた方、威勢よく発声練習してたけど 『お待たせしました』 とか 『申し訳ございません』 ってのも、しっかり練習した方がいいョ。」
しかし言われた店員は、「は、はぁ?」 とキョトン・・・。
マニュアルをこなすだけで、そのマインドが何なのかを全く理解できていない、典型的な例といえましょうか。
ちなみにこのお店、開店当時はやたら店員の掛け声がうるさい・・・と評したお店だったのですが、それから1年近く経った今、逆に掛け声は殆どなし。
店員の一人が掛け声をかけても、他の店員は全く無反応。
やはり無理にやらせる形だけの挨拶は、長続きしないんでしょうネ。
過去様々なお店で、開店時間になってもドアが開かないお店はこのラーメン店以外にいくつも見てきた私ですが・・・その中でも最も腹の立ったのは、某レストラン・チェーン店。
今から10数年前、まだ私がサラリーマン時代のこと。
とある日曜日に女房と池袋で買い物をした後、「昼過ぎだと混むから、早くランチ食べましょうョ。」 という女房の提案で、以前行った時に美味しかったレストランへと向かいました。
開店時間の11時30分ちょっと過ぎに店の前に着いたのですが、どういうわけかシャッターが半開き。
(あれっ、まさか日曜日に閉店するワケないょナ?)
そう思ってシャッターをくぐり階段を上がって2階の入口に行くと、ドアが開くのです。
(なんだ、やっぱりやってるんだ。)
ホッとして2人で店内に入ろうとしたら、奥から男性店員が飛んできました。
「いらっしゃいませ~」 と迎えてくれると思った私に、彼はアンビリバボーなことを口走ったのです。
それは・・・。
・・・・・To be continued!
アメリカ航空宇宙局(NASA)が1981~2011年の30年間に135回も打ち上げた、機体を再利用する有人宇宙船・スペースシャトル計画。
膨大な科学的データの収集等に貢献しましたが、反面悲しい事故も起きました。
家族を含む多くの見物人の目の前で起こった予期せぬ事故は、人々に大きなショックを与えました。
事故の原因は、Oリングという重要部品の損傷。
現場のエンジニアからはかねてより低温状態におけるこの部品の安全性に疑義を唱える声が上がってしましたが、NASA幹部はこれを無視。
殆ど人災と言える事故でした。
この事故に関して、その衝撃的な事故映像と共に私が忘れられないのは、搭乗員の一人が日系人宇宙飛行士として初めてスペースシャトルに乗り込んだ
エリソン・ショージ・オニヅカ (鬼塚 承次) 氏
Ellison Shoji Onizuka
鬼塚氏は1946年、ハワイ島コナでコーヒー農園を営む移民の両親の間に日系2世として生まれました。
太平洋戦争終戦直後に生まれた彼は、戦時中活躍した日系人部隊の話を幼少期より聞き、日系人であることを生涯意識していたそうです。
小学生の頃、ガガーリンの宇宙飛行を見て宇宙に憧れ、ロケット実験と称し花火でイタズラをよくしたそうですが、母親は特に叱責しなかったとか。
1964年にコロラド大学に入学し航空宇宙工学を専攻、スカラーシップで米空軍予備役将校訓練課程を受講。
しかし在学中に父親が死去したためハワイに戻ろうとしましたが、ここでも母親がそれを押し留め、彼はそのまま勉強を続けることに。
1969年、大学卒業時に空軍少尉となった彼は、その年に月面着陸に成功したアポロ11号の映像を見て感激し、本格的に宇宙飛行士を目指します。
1978年にスペースシャトル計画の第1期飛行士候補に応募し、8,079人中35人という230倍の競争率を勝ち抜き選ばれました。
1985年1月にディスカバリー号に日系(アジア系)人宇宙飛行士として、またハワイ出身者として初めて搭乗を果たすと、日の丸の鉢巻を締め、船内で箸を使って寿司を食べるなどのパフォーマンスを披露。
しかし翌1986年1月28日、2度目の搭乗となったチャレンジャー号で事故に遭遇、志半ばの39歳という若さで天に召されたのです。
この3年前、自身の日本におけるルーツを探したいという新聞記事が掲載されたのを機に情報が寄せられ、血縁親族や祖父母の墓の所在が判明。
日系2世だからこそ日本人以上に日本人であったことを強く意識していた鬼塚氏にとって、家族と共に来日し福岡県にある先祖の墓にお参りできたことが、せめてもの慰みだったのかもしれません。
日系人としてはもちろん、ハワイ出身者として初の宇宙飛行士となった彼の功績を称え、ハワイ島マウナ・ケア山にある 『マウナケア展望台ビジター・インフォメーション・ステーション』 は 『オニヅカセンター』 と命名され、彼の墓碑はオアフ島・パンチボウルの国立太平洋記念墓地にあるとのこと。
ハワイに旅行された際は、誇り高き日本人の足跡に触れてみてはいかがでしょうか?
あらためて、鬼塚氏及び6名のチャレンジャー搭乗員のご冥福をお祈り致します。
三船 久蔵 十段
今日は、『名人』 の称号も受け、嘉納治五郎氏と並び称されるこの〝柔道の神様〟の命日・没後50周年にあたります。
三船氏は1883(明治16)年、現在の岩手県久慈市に米問屋の三男坊として生まれます。
父親は腕白坊主だった彼に社会勉強をさせるべく高等小学校卒業後地元の役所に就職させたものの、給仕の仕事に馴染めずたった2週間で退職。
呆れた父親は、郷里から遠く離れた仙台二中に進学させたのですが、これが彼と柔道の出会うきっかけとなるのですから、人生は分かりません。
入学した彼は、たまたま仙台一高と仙台二高(現・東北大学)の柔道対抗戦を観戦し、大いに感激。
自ら仙台二中に柔道部を創設すると、在学中は柔道にのめり込みます。
仙台二高に通い詰めて大和田義一師範の教えを受けた三船氏はめきめき上達。
高校生相手に10人抜きをする程になった彼の対戦相手は仙台にいなくなったため、彼は二中を卒業した1903(明治36)年に上京して講道館に入門します。
全国から並み居る強豪が集結する講道館で、身長159cm・体重55kgの三船氏は極めて小柄。
しかし彼は人並み外れた稽古量をこなし、入門して3ヶ月後に初段に昇進すると毎年のように商談を続け、入門後僅か5年余り後の1909(明治42)年には5段に昇進し、〝講道館の風雲児〟の異名を取りました。
翌年、東京大学・日体大など11校の柔道師範に就任し、ますます柔道に専心した三浦氏は、関東大震災が起きた1923(大正12)年に7段に昇進。
それまで大車・踵返し・三角固めなど多数の新技を開発してきた三船氏でしたが、その頃に彼が唯一の使い手とされる伝説の〝空気投げ(隅落とし)〟を編み出します。
ところで、幻の技・空気投げ(隅落とし)とは、一体どんな技なのか?・・・興味ありませんか?
こちらの映像の1分過ぎから、三船十段の実演をご覧いただけます。(↓)
< https://www.youtube.com/watch?v=1ye5DC7sVTw
>
柔道というより合気道のようでもあり、何となく初代・若乃花の得意技・仏壇返しに似ているような気もしますが・・・一見すると相手が勝手にコケて見える、素人や凡人には分かり得ない神技。
三船十段曰く、「相手が大きい程決めやすい」そうですから、まさに〝柔よく剛を制す〟の見本のような技といえましょうか?
そして遂に終戦直前の1945(昭和20)年5月、62歳で歴代4人目となる講道館最高段位の十段に昇段。
戦後は世界柔道選手権で審判を務めたり、1964年の東京五輪では柔道競技の運営委員を務めるなど、柔道の国際化にも尽力された三船十段・・・五輪開催から僅か3ヶ月後の1965年1月27日、喉頭腫瘍と肺炎のため82歳でこの世を去りました。
ところで、亡くなる前日まで稽古を休まなかった程三船十段が柔道に専心できたのは、郁子夫人の献身的な支えがあったからだったとか。
その奥様とは、親同士が持ち寄った縁談がきっかけで、なんと話が出た僅か2日後に挙式。
ご両人が初めて会ったのがその式当日だったという、今時の若者にはアンビリバボーな結婚ですが・・・2人の息はピッタリ。
弟子たちが、「三船久蔵の十段は、先生の五段に奥さんの五段が合わさった」と 語るほどの仲睦まじい夫唱婦随ぶりだったとか。
やはり偉業を達成するためには、まず夫婦・家族がしっかり支え合わなければいけないようです。
ウチの女王様に、この話をちゃんと聞かせなきゃ・・・。
最近問題噴出・低迷気味な日本柔道の復活を願いつつ、〝柔道の神様〟のご冥福をあらためてお祈り致します。
と び た すいしゅう
飛 田 穂 洲 氏
の命日・没後50周年にあたります。
飛田 (本名:忠順) 氏は1886(明治19)年、現在の水戸市生まれ。
家は父親が村長も務めた豪農で、彼自身は無類の負けず嫌い・・・その性格が、後の野球人生に大きく関わってくることになります。
水戸中学(現・水戸一高)時代、下妻中学に破れた悔しさに、再戦を申し込むも断られると、その下妻中学に勝った東京・郁文館と対戦してこれを撃破。
しかし東京遠征中に敗れた慶応普通部に敗れると、彼は主将となって再び上京、リベンジを果たします。
そんな形で野球にのめり込んで逝った飛田氏は、親の反対を押し切って早稲田大学に入学し、野球部に入部。
セカンドを守った彼は第5代主将を務めますが、ここでまたしても屈辱的な敗戦を喫します。
1910(明治43)年に来日したシカゴ大学に大差で6戦全敗・・・この責任を取って、彼は引退しコーチに。
1913(大正2)年に卒業すると武侠世界社に入社し雑誌の編集者に。
その後読売新聞社に転職しましたが、同社社会部記者だった1919(大正8)年に請われて早大野球部の初代監督(専任コーチ)に就任。
既に結婚し2人の子供がいながら収入減を承知で引き受けたのは、現役時代にシカゴ大学から受けた屈辱を晴らさんがためだった・・・といわれています。
〝(彼が生みの親である)千本ノック〟などの猛練習で選手を鍛え上げ、第一期早大黄金時代を築いた飛田監督は、1925(大正14)年秋のリーグ戦で優勝すると、再び来日したシカゴ大学と対戦。
1勝1敗2引き分けで迎えた最終第5戦・・・4点先行された試合をひっくり返して見事逆転勝ちを収め、シリーズを勝ち越して見事にリベンジを果たし、監督勇退の花道を飾りました。
監督在任中から読売新聞などで随筆を掲載していた飛田氏は、監督退任後東京朝日新聞に入社。
飛田穂洲のペンネームで中学(現在の高校)・大学野球の評論を行なうと共に、東京六大学野球連盟理事・公式記録員、また早大野球部顧問として学生野球の発展に尽力されました。
そして太平洋戦争に突入し、有名な〝最後の早慶戦〟の実現にも奔走。
戦後も日本学生野球協会の創設や学生野球基準要綱の作成に尽力されました。
その功績により、毎日スポーツ賞や紫綬褒章などを受賞、そして1960(昭和35)年にはアマチュウ球界から特別顕彰として野球殿堂入り。
しかしその5年後の1965(昭和40)年1月26日・・・持病の心臓病が悪化し、78歳でこの世を去りました。
飛田氏は、野球を武(士)道と同様に〝野球道〟と捉え、精神修養の場と捉え、人一倍厳しい練習を通して人間形成を行なおうとしていたようです。
野球経験者なら皆耳にしたであろう〝一球入魂〟という言葉は、飛田氏が最初に口にしたとされるのも頷けます。
しかしその一方で、彼は勝利至上主義者でもありました。
やられたらやり返す・・・彼の野球人生がその繰り返しであったことからも、それは明らか。
意外に思われるかもしれませんが、勝つためには四球も止む無しとして敬遠策も否定していません。
気を失う程の猛練習は今時流行らないでしょうが、科学的に合理的な練習法を取り入れたとしても、飛田氏が提唱する学生野球の本質は変えるべきではない・・・と、私には思えます。
母校・水戸第一高校には、飛田氏の胸像と共に野球をこよなく愛したサトウハチロー氏が彼に捧げた詩を刻んだ碑文が。
ひとつのものを つらぬくことのすばらしさ
ひとつのものに 何から何まで打ちこむうつくしさ
ひとつのものを 大事にそだてるやさしさ きびしさ
ひとつのもの以外 ふりむかないガンコさにも
われわれは笑顔と拍手をおくろう
ひとつのもの ただひとつのもの
ひたむきにそれと取り組んできた人
その人にわたしはいままでしたことのない おじぎをする
一意専心、野球に生涯を懸けた〝学生野球の父〟のご冥福をお祈り致します。
葬儀屋の私が話題にするのは如何かとは思いますが・・・皆さんはご自分の結婚式で流れた曲を憶えていらっしゃいますか?
一般的に有名な『結婚行進曲』といえば、この2曲。
まずは、メンデルスゾーン作曲 『夏の夜の夢』 の中の1曲。(↓)
< https://www.youtube.com/watch?v=9Wd-KwthQ7s
>
次に、ワーグナー作曲 『ローエングリン』 の〝婚礼の合唱〟(↓)
< https://www.youtube.com/watch?v=vgRdpuJZSzM
>
おそらく殆どの花嫁が、このどちらかの曲を聴きつつバージンロードを歩かれたかと・・・。
で、この2曲が結婚式の定番BGMになったのには、あるキッカケがありました。
それが、今から157年前の今日・1858年1月25日に行われた結婚式。
新郎はプロイセン皇太子・フリードリヒ3世、そして新婦はイギリス王女ヴィクトリア。
彼等2人の盛大なる結婚式でこの2曲が初めて 『結婚行進曲』 として演奏され、以後ポピュラーになったのです。


『夏の世の夢』 はシェイクスピアが書いた同名の戯曲を元にした劇音楽であり、その物語は人間の男女や妖精の王などが登場し、ドタバタの末主人公は結婚しハッピーエンド・・・という物語。
結婚式に相応しい物語なのですが、一方のローエングリンはちょっと問題が。
主人公ローエングリンとヒロインのエルザはめでたく結婚し、その式にこの曲が流れるのですが・・・その後2人は別れエルザが死んでしまう、という悲劇。
本当は結婚式には相応しくない不吉なストーリーなんです。
それは、団伊玖磨氏が1959年に作曲した、『祝典行進曲』。(↓)
< https://www.youtube.com/watch?v=BuZKNOsZBVs
>
日本人にとっては実に目出度い曲であり、美智子妃殿下のような素晴らしい女性になりたい、と思う新婦には最適かも。
さぁ、皆さんがご自身あるいはお子さんやお孫さんの結婚式に流したい曲は、
① 夏の世の夢 ② ローエングリン ③ 祝典行進曲
どれでしょう?
えっ、オマエの結婚式の時はどうだったんだって?
・・・き、記憶にございません。

古今東西、国王など国家最高権力者の座に就いた人物には毀誉褒貶が付き物ですが、ネロと並んで暴君のレッテルを貼られているのが
ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス
Gaius Julius Caesar Augustus Germanicus
名前から察せられるとおり、かの名君ジュリアス・シーザーの遠戚・・・彼の5世代後に出現し、俗に〝カリギュラ〟と呼ばれた第3代ローマ帝国皇帝の、今日は命日にあたります。
カリギュラは西暦12年生まれ。
父親のゲルマニウスはローマ帝国軍人でありながら執政官にも就任し、将来はローマ皇帝と目されていた傑物でした・・・が、彼は34歳で急死。(※毒殺説あり)
人望が厚かったゲルマニウスの息子・カリギュラは幼少時から父親と共に戦地を歩いて経験を積みましたが、父親の急死により一旦追放の憂き目に遭います。
しかし第2代皇帝ティベリウスに巧みに取り入った彼は、他の兄妹らが流刑・監禁など不幸な末路を辿った中、〝老害〟といわれ不人気だったティベリウスが79歳で病没した後を引き継ぎ24歳の若さで第3代皇帝に即位すると、その若さと父親の血筋に期待する国民から熱狂的歓迎を受けました。
そして彼は就任直後から前皇帝が遺した莫大な遺産を惜しみなく使い、兵士たちに特別賞与を支給するなど大盤振る舞いして人々を喜ばせます。
その彼に大きな変化をもたらしたもの・・・それは病気でした。
即位して僅か半年後、彼は病に侵されてしまいます。
一説には入浴やセックスに耽った末のウィルス感染とも言われていますが、それによって臨死体験をしたことが彼を変えたとのこと。
刹那的になったのでしょうか、映画『ベン・ハー』に出てくるような馬車レースのために巨大な競技場を建設したり、船を大量に作って横並べに浮かべ橋にするなど、散在の限りを尽くしたばかりか、かつて自分のために命を捧げると忠誠を誓った者たちを集め、何人も崖から突き落とすなど、行動が次第に狂気を帯びて行ったとか。
それが果たして病気のせいなのか、はたまた甥のネロが暴君と言われた如く血の為せる業だったのかは、定かではありません。
しかし妻をも追放し義父を自殺に追い込むなど、次第にエスカレートする彼の行状は元老院の信頼を完全に失わせ、28歳・皇帝即位4年目の紀元41年1月24日・・・彼に不満を持つ将校たちの手によってメッタ刺しにされ、その場で息絶えたのでした。
さて、それ程ローマの歴史には興味のない私が、なぜ彼の名を記憶しているのか・・・それは1980年に彼の名そのままの 『カリギュラ』 という映画が公開されたから。
30年以上前に46億円という巨費を投じて制作されたローマ時代の一大スペクタクル・・・というのは表向きで、今でいえばハードコア。

酒池肉林の毎日を過ごす狂気の皇帝を描いた作品でしたが、当時大学生だった私には刺激が強過ぎる内容・・・しかし洋モノだっただけに、ボカシが入りまくり。
欲求不満に身悶えた記憶があります。
その当時の私のように、見るなと言われたり隠されると却って見たくなる・・・こういう人間心理を、この映画から〝カリギュラ効果〟と言われるようになりました。
当時流行語大賞があれば、間違いなく入選したであろうこの言葉ですが、30年以上経過した今では、もはや死語?
若者は、誰もカリギュラなんて知らないんでしょうかねェ。
今日は、ノルウェーの紙幣にも肖像が印刷されている国民的画家、
エドヴァルド・ムンク
Edvard Munch この作品を描いた1889年にはノルウェー政府の奨学金を得て正式にフランス留学し、パリではロートレックやゴーギャン、ゴッホなどポスト印象派の画家から大きな影響を受けた彼は、父親の死去から〝生のフリーズ〟という構想を抱き始めます。 この人物の幻覚・幻聴とは実際にムンクが体験したものとされ、その瞬間について次のようなムンクの日記が残されています。 突然、空が血の赤色に変わった。 私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。 友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。 そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた。」
の命日にあたります。
そう、あの〝叫び〟で有名な方ですょネ。
ムンクは1863年生まれ・・・父は医師で親類には学者が多いものの、同時に神経過敏傾向の家系でした。
そんな彼が暗く寒い北欧で生まれ育ち、5歳の時に母親が30歳で、また14歳の時に15歳の姉を共に結核で亡くすという不幸に見舞われたことが、彼の生涯にわたって愛、生と死、またそれらに対する不安感にまとわりつかれる素地になったといえましょう。
人一倍感受性の強く、自分が心理的に不安定になると絵を描くことによって落ち着けるということを幼少時から気づいていた彼は、エンジニアになることを勧める父親の反対を押し切り画家の道を選びます。
1881年、画学校(のちの王立美術工芸学校)に入学し、その3年後〝クリスチャニア・ボヘミアン〟いう当時の前衛作家・芸術家のグループと交際するように。
この頃に描いた作品には、『叫び』とは違った自然主義基調の『春』などの傑作も残しています。(↓)
しかし彼の作品は当初一般的には受け入れられず、1892年にベルリン芸術家協会で開いた展覧会は、たった数日間で保守的な協会側から中止を要求され、開催後僅か1週間で閉鎖。
この騒動の影響でドイツの美術家協会は分裂してしまいますが、逆にムンクの作品を認める勢力も誕生させることに。
それが証拠に、閉鎖から2ヶ月後に再度ムンクの個展が開かれ、彼の評価は高まっていきました。
しかし大胆な構図と印象的な色彩で観る者の目と心に強烈な印象を残す彼の作品が有名になるに従って、彼のナイーブな精神は変調をきたして行きます。
ムンクは結婚に対する不安感からか生涯独身を通しましたが、1902年にその彼と結婚を望んだ恋人トゥーラ・ラールセンとのいざこざで銃の暴発(?)事件を引き起こします。
真相は不明ですが、結果的に彼は左手中指の一部を吹き飛ばされることに。
1908年には強迫観念に苛まれ、アルコールに溺れてサナトリウムで長い療養生活を送りました。
しかしゴッホのように自らの命を絶つことはなく、第二次世界大戦中の1944年1月23日に80歳で天に召されるまで絵を描き続けました。
さてムンクといえば、『叫び』に触れぬわけにはいきますまい。
この世界的に有名な絵は、少なくとも5枚以上の存在が確認されているとか。
中央の人物が叫んでいる・・・と思っている方も多いかもしれませんが、実は彼自身は叫んでいないのだそうな。
彼は夕暮れ時に突然の幻聴・幻覚に遭遇、恐怖を感じ手を耳に当てて懸命に不安と戦っている様子が描かれているとか。
「私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。
それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。
・・・この一文を読むと、作品の見方が変わるのではないでしょうか?
ちなみに掲載した画像は1985年に制作されたパステル画ですが、2012年5月にニューヨークの競売に掛けられ、著名な投資家レオン・ブラック氏が1億2,000万ドル(約96億円)で入札。
これが現在のところ1枚の絵としては史上最高額だそうな。
【※イギリスの画家フランシス・ベーコンの作品 『ルシアン・フロイドの三習作』 が2013年11月に手数料込みで史上最高額の約1億4240万ドル(約141億円)で落札されましたが、これは3枚の画の合計額。】
心の中の不安感をキャンパスに描き続けた彼が、自らの作品に目も眩むような超高額の値段がついたことを知ったら・・・天国でも訳が分からず、一層不安に苛まれているかも?
私は今まで、これが嫌いって方に会ったことがありません。
今日は、おそらく私たち日本人なら殆どの方が大好きであろう、咖喱・・・すなわち
〝カレーの日〟
なのだそうです。
その昔、全国学校栄養士会が全国で子供達の好きなメニューの調査をした結果がカレーライスだったことと、そして全国どこでも材料が手に入りやすく調理しやすいことも決め手となり、1982(昭和57)年1月22日をカレーの〝統一献立日〟としたことが由来だとか。
もっともこのカレー給食の日、既に献立が決まっていて変更できなかった学校も多く、実施できたのは全体の約2割だったそうです。
私も子供の頃は、オフクロが人参ゴロゴロ、確かジャガイモは摩り下ろして煮込んだカレーをよく作ってくれました。
しかし大学進学で上京して以来オフクロの作ったカレーを口にしなくなったため、残念ながら味の記憶がありません。
また結婚後は一時期カレー作りに凝って、スパイスをいろいろ買いこんではそれをビンに入れて床で転がし本格的なカレーを作ったこともありましたが、部屋中にスパイスの臭いが染み付いてしまったため、これも断念。
今はもっぱら美味しくて辛いカレー屋さんを探すのが楽しみなんですが・・・そんな私にとって、忘れられないカレーショップがあります。
そのお店との出会いは、高校生時代に遡ります。
夏休みを利用して某大手予備校の夏期講習を受講するため、初めて東京に1人で長期滞在した時のこと。
学生が安く宿泊できる青少年センターのようなもの(?)が代々木にあり、そこから通う毎日だったんですが・・・今のようにコンビニなんかない時代ですから、食事をする場所を探すのが結構大変でした。
そんな時、偶然に目に飛び込んできたのが、代々木駅の近くで見かけたこの看板だったのです。 〝S&B カレーの王様〟
空腹に沁みわたるような芳しい香りに誘われて、フラフラ~ッと店内へ。
金欠状態でしたから、一番安い 『王様カレー』 を注文。
確か肉団子が3つくらい入っただけのシンプルなものでしたが・・・いゃ~、一口食べた時の感激は今でも強烈に覚えて言います。
(う、うんめェ~!)
世の中に、こんな美味しいカレーがあったとは!
人生で初めて、東京の凄さを肌 ジャナカッタ 舌で感じた瞬間でした。
それから講習が終了するのまでの約2週間、夕食は毎日〝王様カレー〟
日によっては、昼・夜連続で食べた事も。
おかげで田舎に戻った時、顔色はすっかり茶色に・・・。 ウソウソ
残念ながら、当時通い詰めた代々木店はもう存在しませんが、市ヶ谷や大手町であの看板を見るたびに、私は〝パブロフの犬〟状態。
ただ現在はエスビーが撤退し、看板はそのままでも経営は別会社。
果たしてお味の方は、いかに?
皆さんには、忘れられないカレーって、ありますか?
【 余 談 】
大手牛丼チェーン店でもカレーライスを販売してますが、皆さん食べ比べたことはおありでしょうか?
美味しい順に並べると、私の場合はこうなります。
① すき家 ② 松 屋 ③ 吉野家
因みに、牛丼はこの逆になりますが・・・皆さんの判定は、如何に?