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CAN

ご自宅でビールをお飲みになる場合、皆さんはピン・缶どちらをお買い求めになるでしょう?


おそらく殆どのご家庭では缶ビールなのではないでしょうか。 


実際スーパー・量販店の売り場に並ぶのは、殆どが缶ビールですし・・・。

ビンは重いし、もし落としたら割れちゃいますからネ。


さて、この缶ビールが世界で初めて発売されたのは今日・1月24日なのですが、それは一体何年前だと思いますか?


正解は、今から85年前の1935年。


発売元は、アメリカのクルーガー(krueger )社・・・こんな缶ビールだったそうです。(


        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-krueger-ale-beer


※ 『缶』 は英語の〝can 〟またはオランダ語の〝kan 〟が語源。


当初は 『罐』 が当てられていましたが、戦後当用漢字から外されたため偏の「缶」が代用され、1981(昭和56)年から常用漢字として採用されたそうな。


この当時は、当然ながらスチール缶。


継ぎ目がないアルミ缶ビールが登場したのは、1959年のやはり1月24日にクアーズ(Coors)社から・・・現在ではほぼ100%が、このアルミ缶で販売されています。


一方日本で初めて缶ビールが発売されたのは1958年。


       


そして初のオールアルミ缶が登場したのは1971年・・・いずれもアサヒビールからでした。


そして缶ビールを語る時、外せないのは 『注ぎ口』 の歴史。


前述のクルーガー社の缶ビールは、別に用意された開口具で2ケ所穴を開ける方法。


昔、缶ジュースなどを同じ方法で開けた経験がある方もいらっしゃるでしょう。


小学校の理科の授業で、「何で穴を2つ開けないと中身が出ないのか?」 なんて問題がありましたが、現在の子供さんには、質問の意味自体が理解できないでしょうネ。


そして、簡単に開けられる方法として発明されたのが、“EOE easy open end )” の〝プルトップ〟方式。(↓)


        


1963年にアメリカで開発され、日本では1965(昭和40)年頃から普及したそうです。


おそらく昭和世代の方なら、この開け口で飲んだ経験がおありでしょう。


しかし、この画期的な飲み口には致命的な欠陥がありました。


それは、開けた時にプルタブが本体から分離され、ゴミになること。


道端にこのプルタブが散乱することを防止するため、1980年代に登場したのが、本体と分離しないステイ・オン・タブstay on tab )”方式。(


       


1990(平成2)年から日本でも急速に普及し、現在はごく一部を除き、全てがこのタイプに統一されています。

ですから平成生まれの方は、このステイ・オン・タブしか知らないはず。


コレを私が初めて見たのは、確かバドワイザーの缶ビールだったと思うのですが、当時は外側の表面を中に押し込むのが不衛生に思えてイヤだったんです。


ところが、今では全く違和感なく缶飲料に平気で口をつけて飲んでいる私・・・ホント、慣れとは恐ろしい。あせあせ


皆さんは、この〝ステイ・オン・タブ〟に抵抗感はないですか?


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女 王

・・・と言っても、私の女房の話ではありません。


皆さんは、嘗て〝空の女王〟と呼ばれた旅客機をご存知でしょうか?

このニックネームを知らずとも、昭和世代の方なら〝ジャンボ〟の愛称でピンときますょネ。 そう、その


ボーイング 747
 Boeing


がパン・アメリカン航空のニューヨーク~ロンドン間で初就航したのが、今からちょうど50年前の今日・1970年1月22日のことでした。

    


1960年代末期まで、国際線旅客機は乗客数200名までの飛行機が主流でしたが、更なる輸送の効率化を追求する当時最大の航空会社・バンアメリカン航空は、ボーイング社に対して従来の2倍以上の乗客が登場できる大型旅客機の製造を依頼。

 ※ボーイング(社)に関する過去記事は、こちら。(↓)



そして同社は貨物機としてもコンテナを横2列に積めるよう、機体の一部を2階建て・操縦席も上部に上げるという画期的な設計で、大量輸送の実現に成功します。


 全長 70.6m  全幅 59.6m  全高  19.3m

 重量 162.4t  乗客 452名   巡航速度 マッハ0.84


強力エンジン4基搭載・機内通路2本という、時代を先取りしたジャンボ・ジェットは就航するとやすぐに注目を集め、日本(羽田空港)に初めてパンナムのジャンボ機が降り立ったのが、初就航から2ヶ月後の1970(昭和45)・3月11日・・・大阪万博の開幕直前でした。

※〝ジャンボ〟の愛称は、19世紀後半にロンドン動物園やバーナム&ベイリー・サーカスで活躍した有名アフリカ象の名前に由来しているとか。
また日本のゴルフ界で一時代を築いた尾崎将司選手の愛称も、このジャンボ・ジェットからつけられました。


当日は世界最大の旅客機を一目見ようと多くの見物人が押しかけ、あまりの巨大さにド肝を抜かれたとか・・・。

従来の旅客機と並んだら、その差は一目瞭然です。


     

                       B747 B707


その後、他の航空各社もこぞって同型機の採用を決定。


日本航空も同年4月に導入・・・以降2007年までモデルチェンジを重ねつつ、世界各国の航空会社に延べ1,500機以上が納入され、ロングセラー旅客機として人々に愛されてきました。


アメリカのスペース・シャトルを背負って飛ぶのも、また同国の大統領専用機エアフォース・ワンや、日本の政府専用機もかつてはジャンボ。


    


    


一方で1983年の大韓航空機撃墜事件や、1985年の日本航空・御巣鷹山墜落事故もジャンボ機・・・良くも悪くも歴史に残る機種だといえましょう。


大量輸送を可能にしたことで、航空運賃の引き下げに大きく貢献したジャンボ・ジェットでしたが、やがて到来した石油価格高騰や不況により、航空機は省エネ・中型機トレンドに移行。

主役の座をボーイング777やエアバスA340にとって変わられることに。

ジャンボ機は、座席ひとつにかかる燃費が新鋭機に比べ30%も割高になるそうですから、それも致し方ないでしょう。


また同機開発の契機となったパンアメリカン航空は、一気にジャンボ機の大量導入を行った結果その莫大な代金支払の負担が一因となり倒産してしまう・・・という、何とも皮肉な結果を招くことに。


ところで1980年代に入り、ポツポツ飛行機に乗る機会が出始めた頃・・・私の夢は、当時ジャンボ機の2階にあったファーストクラスに座ることでした。


「いつかはあの螺旋階段を上り、ファースト・クラスで海外旅行を!」

        


1階のエコノミー席に座るたびに思い描いていた私の願望・・・しかし残念ながら、現在飛んでいる後継機種では既に螺旋階段はなく、2階席もエコノミークラスのシートが当たり前になったとのこと。


これまで何度もモデル・チェンジが繰り返されてきたものの既に生産が打ち切られ、次々と後継機種に取って代わられている現在、螺旋階段を昇るという私のささやかな夢が実現することは、残念ながらなさそうですダメだぁ顔


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領 有

皆さんは、『竹島の日』や『北方領土の日』があることをご存知だと思いますが、

 『尖閣諸島(開拓)の日』


もあることを知っている方は、どれほどいらっしゃるでしょうか?

実は、それが今日・1月14日なんです。

これは沖縄県石垣市が条例により2010年に定めたものですので、制定後ちょうど10年目ということになります。

今日を記念日とした根拠は、今から125年前の1895(明治28)年1月14日に (その10年前から現地調査を行い清国はじめいずれの他国にも属しないことを確認した上で) 日本政府が尖閣諸島の日本編入を下記の如く閣議決定したこと。


 

明治28年1月14日

別紙内務大臣の請議、沖縄県下八重山群島の北西に位する久場島魚釣島と称する無人島へ向け近来漁業等を試むる者これあり、そのため取締まりを要するについては、同島の儀は沖縄県の所轄と認むるをもって標杭建設の儀、同県知事上申の通り許可すべしとの件は、別に差し支えこれなきにつき請議の通りにて然るべし


 


尖閣諸島とは、魚釣島・北小島・南小島・久場島・大正島・沖の北岩・沖の南岩・飛瀬の5島3岩礁で構成される、総面積5.56㎢の沖縄県石垣市に属する島嶼(とうしょ)群。

 


領有を閣議決定した翌1896年、政府は実業家・古賀辰四郎に対して魚釣島他3島を30年間無償貸与し、以後1年契約の有料貸与に。

そして1932年に辰四郎の嗣子・古賀善次に払い下げられ、私有地となりました。


古賀親子はアホウドリの羽毛の採取、グアノ(海鳥糞)の採掘、鰹漁業、鰹節の製造等の事業を経営し、1909年には248人の日本人が居住していましたが、1940年に古賀善次が事業撤退したため、尖閣諸島は無人島に。


そして1945年、敗戦によって尖閣諸島を含む南西諸島はアメリカ軍の管理下に置かれ、1972年5月の沖縄返還に伴い、尖閣諸島も日本に返還されました。

そして1978年、政治団体・日本青年社が魚釣島に私設灯台を設置。


2005年にはこれが国に譲渡され、現在は海上保安庁によって管理されています。

       


一方1969年、この尖閣諸島近海の調査により大量の石油埋蔵量の可能性が報告されると、1971年6月に台湾が、そして同年12月に支那が領有権を公式に主張。

その狙いがどこにあるかは、誰が考えても分かります。

その主張に客観性がない事は明らかですが、2012年9月に当時の民主党・野田政権が石原都知事の上前をはねるように突如地権者から購入して国有化して以降、盛んに近海に支那の漁船が入り込んでいることは、ご存知の通り。



そのような嫌がらせ・示威行為には断じて屈してはなりませんし、一刻も早く尖閣諸島に基地を来るなどして自衛隊の常駐を行うべきだと、私は考えます。

せっかく中曽根政権時に海上保安庁が魚釣島にヘリポートを設置したのに、支那の抗議を受けてか撤去してしまうような弱腰では、相手にナメられますから。

国防は、まず自国で。 
同盟国の虎の威を借りるようでは、真の独立国とは言えません。


まして自国の領有を主張しているのに、日本人の立ち入りを禁ずるって・・・こんな言行不一致があるでしょうか?うー


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開 運

今日は1並びの1月11日・・・〝ピンゾロ〟でおめでたい感じがしますが、更に


 鏡 開 き


を行う日でもあるのです。


そもそも正月にお餅を食べるのは、平安時代に宮中で健康・長寿を祈願して行われた 〝歯固めの儀〟に由来するのだそうな。


神に捧げる神聖な食物であり、長く伸びて切れないことから長寿を願うのにもってこいのお餅。


円形は人間の心臓(魂)を模したものとも言われ、昔の鏡が丸かったことから 『鏡餅』・・・月(陰)と日(陽)を表す2枚の丸餅を重ねることで〝福徳が重なる〟縁起物と考えられたとか。


(※ちなみにその上に乗せる橙は、木から落ちずに大きく育つことから、「代々大きくなって落ちない」 という願いを込めたものだそうです。)


       


その鏡餅を割る〝鏡開き〟・・・一部地域では別の日に行うそうですが、江戸時代から旧暦の1月11日に行われていたものが太陽暦になってもそのまま引き継がれてきたそうな。


この行事、元来は鎧などの具足に供えた餅を雑煮にして食べた〝刃柄(はつか)〟という武家社会の風習が一般化したといわれています。


刃物で餅を切るのは切腹を連想させ、またお供えした鏡餅には神霊が宿っているとされるため手や木槌で割るのですが、「割る」 という言葉を避けて縁起の良い 「開く」 という言葉を使うとのこと。


子供の頃は、お供えしていたカチカチ・ガビガビの鏡餅をトンカチ(!)でガンガン叩いて粉々にしたことを憶えています。


       


しかし今時のスーパーで売られている鏡餅は、プラスチック製の型の中に小さなパック入りの餅が入っているタイプが殆ど。


マンションなど最近の住宅は高気密化が進み、餅がカビやすくなったからなのかもしれませんが・・・それによって伝統的行事が消滅するのは寂しい限り。


私としては1年の無病息災を願い、木槌でパック餅を叩いてせめて形だけでも鏡開きをしたいと思っています。


皆さまのご家庭でも、是非子供さんたちに伝統行事の継承を!扇子


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禅 語

今日は

 とんちの日

なのだそうな。  1月9日 → 1・9 → 一休さん ・・・というヒネリ(?)を効かせた記念日のようです。

※臨済宗の僧・一休宗純に関する過去記事は、こちら。(↓)



とんちは、漢字だと過去記事のタイトル通り、頓智(知)と書きます。

〝頓〟は「時を移さずその場で、立ちどころに」という意味があり、頓智とは咄嗟の場合にすぐにはたらく知恵・・・という意味。


頓智が効く人は、やわらか頭の持ち主ってことになりますか。

さて一休さんというと、まずアニメを思い出す方が殆どでしょう。

あの番組で、一休さんと蜷川新右衛門がよく、

「そもさん」 「せっぱ!」

って言ってましたョネ。

あれは一休宗純が禅宗の僧であったこともあり、修行で行われる禅問答に由来した、いわゆる禅語なんです。

そもさんは、漢字で〝作麼生〟と書き、「さぁ、答えられるか?」 という問いかけというか挑発する言葉で、〝説破〟と書くせっぱは、「あぁ、答えてやるさ」 という、応酬なんだそうな。

         

一休さんの頓智で有名なのは、屏風に描かれた虎を捕える話と、「このはし渡るべからず」でしょうか?

それでは今日は、私から皆さんに「作麼生!」

とある女性は性格が悪く、太っていて見た目も良くありません。
  しかも家事は何もできず、働かずに毎日ゴロゴロ怠けてばかり。

  しかし、そんな彼女に 「結婚してくれ!」 と頼み込む人が2人も。
  さて、その2人とは誰?


② あの女性に職業を尋ねたら、彼女は黙ってメモ紙にサラサラと
  ペンを走らせると、黙って手渡てくれました。 そこには
  2.9999999・・・・という数字が。
  さて、彼女の職業はナニ?

③ 海外旅行に出かけた際、とある高層ホテルが気に入り、そこに泊まろうとフロントへ。
  そこは1~3階がショッピングモールになっていたのですが、
  できるだけ見晴らしが良い部屋を取ろうとしたところ、6階以上
  の部屋は満室とのこと。
  さて、このホテルはどこにある?


さぁ皆さん、座禅を組んで考えてください。

答えは、明日! 笑2


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白 黒

今日は1月5日・・・ってことで、語呂合わせから

 囲碁の日

だそうな。

囲碁とは、黒と白の碁石を交互に打って、相手の石を囲って取るなどしながら、地(自分の領域)が多い方が勝ち・・・・という、平たく言えば陣取りゲーム。

将棋は升目の中に駒を置きますが、囲碁は盤上の縦横19×19本の線が交差点に打つのが特徴。


         


このゲームの起源・・・実ははっきりとわかっていないそうですが、少なくとも春秋時代には成立していたようで、『論語』の中に碁に関する記述が出てくるとか。

それが5世紀には朝鮮、7世紀頃に日本に渡来したといわれ、正倉院には碁盤と碁石が収蔵されています。


     


そして室町時代末期からは碁打ちが公家や武将に招かれるなどの専業化が進み、戦国時代には戦国武将たちに大いに好まれたとか。

1578年、織田信長が僧侶・日海に
「そちはまことの名人なり」 と褒め称えられたことが、囲碁界において使われている名人という言葉の発祥といわれ、現在囲碁において最高位とされている〝本因坊〟という称号も、彼に起因しています。

 ※日海に関する過去記事は、こちら。(↓)



そして江戸時代に入ると幕府から家禄を受ける家元制度が成立し、将軍御目見えによめ御城碁が行われるとともに、碁会所が生まれて庶民の娯楽として広まりました。


・・・と言われても、現在日本における囲碁人口は200万人弱だそうですから、打つ人は概算で50人に1人くらい。

拙ブログ読者でも、碁を打つ方は殆どいないかもしれませんが、そんな方も無意識に囲碁用語をいくつも日常使われているはず。例えば、

◆岡目八目


傍から見ている方が、対局者より手が見え八目くらい強く見えることから、当事者より第三者の方がよく事象が見えるという意。

◆一目置く


実力差がある場合、弱い方が前もって何目か石を置くことから、相手を自分より優れていると見做して敬意を払う意。


◆ダメ(駄目)押し

終局後、計算しやすいように駄目(どちらの地にもならない場所)に石を置いてふさぐことから、念を入れて確かめる意。 または勝利がほぼ確定しているのに入れる追加点のこと。

◆八百長


明治時代に八百屋の店主・長兵衛なる人物がいて、大相撲の年寄・伊勢の海五太夫と囲碁仲間だった彼が商品の取引を有利にするため、本因坊と互角の腕前だったのにわざと対戦成績を五分にしてご機嫌をとっていた・・・という逸話から、「八百屋の長兵衛」転じて『八百長』に。 

その他にも、〝布石〟・〝定石〟・〝捨て石〟・〝大局観〟などなど、これらの単語を使ったことがない方は、まずいないはず。

たとえ囲碁を打たずとも、囲碁のお世話(?)になっていることがお分かりいただけるでしょう。

ところで皆さんは、囲碁と将棋どちらがお好きですか?

こんな記事を書いておきながら、私は勝負の白黒がはっきりつく将棋の方が好きなんですけどネ。
あせあせ


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最高層

2011年に公開された人気映画シリーズ『ミッション・インポシブル/ゴースト・プロトコル』で、主人公イーサン・ハント演じるトム・クルーズが目も眩むような高さの超高層ビルのガラス窓をよじ登ったり飛び降りたりするシーン・・・ご記憶の方も多いでしょう。

その舞台となった、中東のドバイにある現在世界一高い最高層ビル


 ブルジュ・ハリファ

Burj Khalifa


がオープン(営業開始)したのが、からちょうど10年前の今日・2010年1月4日のことでした。


   


当初このビルは『ブルジュ・ドバイ』と呼ばれていましたが、当時アラブ首長国連邦のハリファ・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤー大統領が経済的に建設を後押ししたため、その名前に由来してオープン・セレモニーの席上で突然 『ブルジュ・ハリファ』 と発表されたそうな。
ちなみに〝ブルジュ〟はアラビア語で〝タワー〟を意味します。


建設は計画が遅れに遅れて約5年かかったものの、全高828.9m、軒高(ビル本体屋根の地上高)636.0m、206階建てのこのビルは、それまでの世界一高かったビル・・・台湾101の509.2m、また世界一高い建造物だったアメリカのKVLY-TV塔628.8mをそれぞれ300m前後抜く圧倒的な高さ。

建造物の高さとしてはブルジュ・ハリファに次ぐ第2位の東京スカイツリー(634m)の1.3倍も高いビル・・・ちょっと想像できません。

下から見上げると、後ろにひっくり返りそうです。

    


しかし206階建てとはいえ、155階以上は機械室等になるため、人間が行けるのは154階まで。

屋外展望台は124階になりますが、それでも高さ452mあるそうですから、東京スカイツリーの第2展望台より2mだけ高い計算になります。(※屋外展望台としては世界第2位)


この高層ビルの主たるテナントはアルマーニが運営するホテルですが、その他にオフィス・エリアもあり、また44〜72階と77〜108階は住居区になっているのが特徴。

日本人でもここを買って住んでいる方がいらしゃるそうですが、こんなに高いマンションに住んでいると、砂嵐とか来た時に揺れて不安にならないんですかねェ・・・ってのは、とても買えない庶民のやっかみ?

ただ当初の計画より入居率が悪く、価格かかなり下落したそうですが、最近では186㎡で約2億5千万円で購入した日本人がいたそうですから、貴方も1部屋如何ですか?


現地まで行けそうもない方のために、ブルジュ・ハリファを紹介する動画を見つけましたので、どうぞご覧ください。



しかし記録は破られるためにある、といいます。

今後1,000mの大台を超えるビルの建設計画が囁かれています・・・が、どうも遅れたり中止になっている模様。

果たしてブルジュ・ハリファが世界一の座をいつまで保っていられるのか?

なんかブックメーカーの賭けの対象になりそうですネ。


 


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水 甕

東京・新宿駅西口を出ると、目の前に広がる副都心。


都庁を始めとして数多くの超高層ビルが立ち並んでいますが、かつてその場所には東京都民(市民)の水甕であった広大な

 淀橋浄水場

がありました。 その落成式が行われたのが、今からちょうど120年前の今日のこと。


    


江戸時代から明治初期にかけて江戸(東京)の人々の飲料水を供給していたのは、主として玉川上水と神田上水でした。

しかし幕府から新政府への移行による行政の混乱や、コレラ流行など木製給水管の老朽化等による衛生問題、更に近代国家移行の体面を保つため、明治政府は首都水道の抜本的な近代化を決定。

紆余曲折の末、1890年4月に
『東京水道改良設計書』が内閣総理大臣の認可を受け、新しい浄水場の建設が決定。

しかしその建設予算は約1千万円。 当時の一般財政は年50万円だったそうですから、その20年分という巨額なもの。

当然その負担は市民にかかりますから反対運動も起きましたが、1891年には水道改良事務所が開設され、新宿の千駄ヶ谷村から改称した淀橋町に建設を決定。


※淀橋とは、神田川を渡す青梅街道にある橋の名であり、当時は地名にも使われていました。


「まぁるい緑の山手線~・・・♬」というCMでお馴染みのディスカウントショップ 『ヨドバシカメラ』 は1967年に その淀橋に設立した株式会社『淀橋写真商会』がルーツ。


    


         赤矢印が淀橋 右下の青枠が浄水場建設地


1894年に日本製鉄疑獄という不祥事が起きて東京府知事が辞職、同年に勃発した日清戦争による資材不足と価格の高騰、1898年1月には東京市制がスタートするなど混乱もありましたが、1898年12月1日には神田・日本橋に通水を開始。

そして翌1899(明治32)年2月から各家庭にも順次通水が始まり、同年12月17日に
落成式が盛大に挙行されたのです。

その後関東大震災による大打撃も乗り越え、同浄水場は都民の喉を潤しただけでなく、高水圧で消防の放水にも大いに貢献しました。


しかし大正末期になると、新宿の繁栄を願う住民から広大な面積を占める浄水場の移転要望が出され、1932年には東京市会で東村山ヘの移転が決定・・・したものの、戦局の悪化により計画は頓挫。

戦後の1960年に東村山浄水場が完成したことで淀橋浄水場は徐々に縮小して職員も移転、1965年には廃止されました。

その跡地には京王プラザホテルを皮切りに、次々と超高層ビルが建設され、都庁の移転により新宿西口は副都心として大きく変貌を遂げました。


    

                現在の浄水場跡(青枠内


 ※京王プラザホテルに関する過去記事は、こちら。(↓)



現在の副都心には浄水場跡であった名残は殆ど残ってしませんが、かつて使用されていた蝶型弁がひっそり(?)と置かれています。

       

新宿西口に行かれた際には、探してみてください。

住友三角ビルの辺りをウロウロすれば見つかるはずですョ!


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滑 空

人類で初めて空を〝飛んだ〟のは、自ら設計・制作したグライダーで滑空したドイツのリリエンタール。

彼は1891年から墜落事故が原因で亡くなる1896年まで、2,000回も飛行実験を行いました。(↓)



彼の名前を知る方は多いと思いますが、では日本で最初に空を飛んだ人は誰? と聞かれると、答えられる方は少ないかも。 


その人物の名は

 相原 四郎 海軍大尉

彼が日本で初めてグライダーの滑空に成功したのは、今からちょうど110年前の今日・1909(明治42)年12月9日のことでした。

       

相原大尉は、1879(明治12)年に現在の愛媛県松山市の農家で生まれました。

松山中学在学時に父親を亡くした彼は、1898年に海軍兵学校に入校。 同期には米内光政などがいました。

1903年1月に少尉に任官されると、日露戦争後は水雷学校に入って無線通信を専攻。

1909年9月に大尉に昇進する直前、近所に住んでいたフランス海軍兵学校を首席で卒業した
大使館附武官ル・プリウールと昵懇になったことが、彼を日本で初めて空を飛んだ男にしました。



        


というのは、このプリウールが航空に関心がありグライダーを製作していたから。

相原大尉はそのグライダー製作に参画し、同年8月に青山学院の校庭で飛行実験を行うも、失敗。


そこで相原大尉は、かねてからの知り合いで8月末に彼と共に臨時軍用気球研究会の委員に任命された、田中舘 愛橘(たなかだて あいきつ)・東京帝国大学理科大学(現・東大理学部)教授を紹介。


          


3人は、最終目標を発動機付飛行機開発とするグライダー製作に着手し、プリウールが設計した機体の模型を基に田中舘教授が理論的修正を加えた上で風洞実験を繰り返し、相原大尉は海軍の工場で部品を製作。


そして同年12月5日、一高の校庭で無人および子供を乗せての飛行に成功するも、相原大尉やブリウールが搭乗した飛行には失敗。

(厳密には、日本人で初めて滑空したのは、その子供と言えるかも?)

この失敗から昇降舵の位置を前に変えた全長7.4mの布・竹製のグライダーを一高の校庭より広い上野不忍池に持ち込んで、実験開始。

プリウールが2回目に100mを飛んで成功した後、相原大尉が日本人初の飛行に成功!

    


ただ20m上昇したところで曳航綱の1本が切れて墜落・・・幸運にも池に落ちたため無事でしたが、もしかしたらこの事故が後に彼を襲う不幸の予兆だったのかも。

この初飛行に成功後、彼は海外派遣将校に任命されドイツへ。

当地でドイツ語の習得や気象学の研究、飛行船の操縦研究を行いましたが、1911年1月4日に搭乗していた飛行船が墜落。

この時に受けた衝撃が原因で彼は急性腹膜炎を引き起こし、墜落から4日後に31歳の若さで亡くなってしまいました。

1907年に結婚した妻を日本に残したまま・・・。


相原大尉の死は軍の意向により伏せられたようですが、それ故に彼の名があまり後世に語り継がれていないのかもしれません。

リリエンタール同様、墜落が原因で亡くなった〝日本航空界のパイオニア〟相原四郎大尉の名を、是非記憶してあげてください。


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自 動

これを1回も利用したことのない日本人は、子供を除いて殆どいないでしょう。 その

 現金自動支払い機
     Cash Dispenser


所謂〝CD〟が日本で初めてお目見えしたのが、今からちょうど50年前の今日でした。


この画期的な機械を開発したのは、京都に本社を置く大手電気機器メーカーのオムロン。


同社がCDを手掛けるキッカケになったのは、自動食券発売機の開発でした。

東京五輪が開催される前年の1963年、同社が開発した自動食券販売機・両替機が大丸百貨店京都店に設置され、大きな話題に。


それは121種類もの食券を販売し、硬貨の真贋を判別し釣り銭も出せるという、それまでにない画期的な機械でした。


         


同社はその技術力を見込んだ科学警察研究所から緊急依頼を受け、百発百中の識別性能を持つニセ札発見機を開発。

更には当時世界最大の自動販売機メーカーだったアメリカのオートマティック・キャンティーン社と共同で、1965年に世界初のカード式自動食品販売機も。

これら一連の技術を生かして、磁気カードによるオフラインの現金自動支払機を開発して住友銀行に納入。


1969(昭和44)年12月1日、同行が新宿など4つの支店に配置したのです。


       

当時は現在とは違い引き出し額が1万円単位でしか指定できず、千円札10枚が入った袋が出てきたとか。

この2年後には三菱銀行本店で世界初のオンラインCD機が稼働。


その後預入専用の機器の開発を経て、支払いと預け入れの二つの機能を併せ持つ、現金自動預払機ATM Automatic teller machine) の開発へと繋がりました。

現在は銀行だけでなくコンビニ等でも24時間現金を引き出すことがてできますが、このATMが無かった時代は口座を開設している銀行窓口に届け出印鑑と通帳を持って行き、列に並んで引き出したもの。

しかも平日のみ午後3時まで・・・今ではちょっと考えられない不便さですょネ。

ただ便利になった反面詐欺を目論む連中に悪用される事例が増え、静脈認証等々様々な新技術も導入されていますが、当分イタチごっこが続きそう。

ところでこのATMを利用された時、出てくるお札が一万円札と千円札のみだってことを、ご存知でしたでしょうか?

二千円札はもちろん、五千円札を出さないのは経費節減のためだそうで、五千円札が出るATMは全国でも殆どないんだそうです。

今度ご利用される時、ちょっと確かめてみてください。

でもいくら便利になったとはいえ、このATMをパチンコ屋に設置するのだけはやめて欲しいですけど・・・。


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