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包 括

昨日のジョージアに関する記事をツイッターにアップしたところ、即座にティムラズ・レジャバ駐日ジョージア臨時大使代理がリツイートしてくれました。

ちょっと驚きましたが、これもネット時代ならではの出来事ですネ。(↓)


   https://twitter.com/TeimurazLezhava/status/1218770680881152000


さて今でこそ海外旅行はご家族で気軽に行けるレジャーとして定着していますが、1ドル=360円という超円安時代には、そうそう簡単には行けませんでした。


私たち庶民にその海外旅行を身近にしてくれたのが、 


 ジャルパック

  JALPAK


いわゆるパッケージ・ツアーの草分けです。


この画期的商品の発売開始が、今から55年前の今日・1965年1月20日のことでした。


       

              第1回会員募集の新聞広告


戦後著しい経済復興を成し遂げつつあった日本は、外貨獲得高が急成長。


1964年・東京五輪の年に海外渡航制限が解除されたことを受けて、日本航空が航空券やホテルまで一括で予約し、日本語の話せる添乗員と共に海外へ出るというパッケージツアー・全7コースがIATA(国際航空運送協会)加盟旅行代理店47社を通じて全国一斉発売されたのです。


そしてジャルパック第1号として1965年4月に出発したのは、ヨーロッパ16日間コース・・・当時の価格で675,000円。


    

当時大卒の初任給が約2万円、サラリーマンの年収が約45万円という時代の675,000円は、現在の貨幣価値に換算すると約700万円!驚き顔

まさに高嶺の花・・・私が子供の頃は、鶴のマークが入ったバッグを肩にかけて飛行機に乗るのが憧れでしたが、長野の田舎者にとっては東京に行くのでさえ大騒ぎ、残念ながら海外旅行なんて夢のまた夢。


とは言え、この年海外(※返還前の沖縄を含む)に出た日本人は20万人いたそうですから、ジャルパックはまさに海外旅行の先鞭をつけたと言えましょう。


かつて保険会社勤務時代に 『ハワイアン・オープン観戦&ゴルフツアー』 を企画した私・・・地元旅行社に協力してもらったとはいえ、ツアーの手配は大変でした。(↓)



それに比べれば予め行程が決まっているパッケージツアーは、パスポートさえ取得すれば誰でも単に参加でき、添乗員も同行しますから初心者でも安心して旅行できるメリットがあります。


もっとも、行きたくもないお土産屋に連れて行かれたり、日程がタイトでゆっくりマイペースで観光できないのが欠点ですけどネ。うー


ジャルパックによって日本人の海外旅行客は飛躍的に増えましたが、一昔前の団体旅行客は〝農協ツアー〟などと海外でバカにされた時期がありました。


海外の慣習を知らない人々が、パンチ一丁でホテルの廊下に出たり、キーを持たずに部屋の外に出て戻れなくなったり、風呂場を水浸しにしたり、洋風トイレの使い方が分からずに便座の上に乗ってしゃがんだり ・・・今なら考えられない珍プレーの数々。


海外旅行初心者を引率する添乗員さん、さぞ大変だったでしょうネ。


そんな苦労話や珍談・奇談を、こんな本で楽しませてもらったことも。

 『添乗員騒動記 世界の果てまでお供します
                      (岡崎大五・著 角川文庫・刊)


       添乗員


「旅行が大好きだから」 という理由で旅行会社に就職して希望通り添乗員になれたものの、数年後にストレス過多で退職してしまった知人がいましたが・・・その苛酷な仕事ぶりをこの本で知れば、とても旅行好きなだけでは勤まらないことが良く分かります。


成田空港で旅行客から吊し上げられている添乗員を過去2、3人目撃したことがありますが、只でさえ自分勝手な日本人が増えている昨今、ますます厳しい仕事になっているのかも。

〝旅は恥のかき捨て〟・・・これが死語になる日は、果たしていつやってくるのやら? うー


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公 営

皆さんは、こんな暖簾が下がっているお店に入ったことがありますか?

       

私は幸いにしてありませんが、言わずと知れた質屋さんですネ。


質屋とは、財産価値のある私有物品を担保(質草)として預かり、流質期限までに弁済を受けない場合は当該担保を以ってその弁済に充てる条件でお客に金銭を貸し付ける事業者のこと。

その歴史は古く、西洋では古代ギリシァやローマ帝国に、また東洋でも約1,500年前の隋に現在とほぼ同じシステムの質屋業務を寺院が行っていたとか。

我が国では、鎌倉時代に出現したといわれています。

そして現代日本の質屋は民営ですが、意外なことに以前は


 公益質屋

が存在していました。

それが東京都内で初めて日暮里に登場したのが、今からちょうど100年前の今日・1919(大正8)年12月5日のこと。


(運営は、1917年に発足した東京府慈善協会・・・現在の東京都福祉事業協会)

※日本初の公益質屋が登場したのは、これより7年前・1912年。 

場所は宮崎県・細田村だといわれています。

時の村長が既にヨーロッパで登場していた公益質屋の存在を知り、貧しい漁村の困窮を救うべく知事に相談して開設したとのこと。

    

                公益質屋の受付窓口

この公益質屋と民間質屋の違いは、

◆民間が実質月利9%なのに対し、公益は3%と低く、しかも利息は半月計算。
◆民間より公益の方が流質期間が1ヶ月長い。


◆流質しても、公益質屋では競争入札で売ることが要請され、その代金から元金・利息を引いて残金があれば、顧客に返す。

今なら民営圧迫だと質屋さんから猛抗議されるでしょうが、不景気だった当時に生きた人々にとっては、まさに天の助けだったはず。

この公益質屋はその後徐々に増え、1925年には39軒。

       

                東京・下谷の公益質屋


そして公益質屋法が施行された1927(昭和2)年には81軒、1940(昭和40)年には1,127軒と急増。

しかし戦後の好景気やサラリーマン金融の登場でニーズは徐々に減り、2000(平成12)年に公益質屋法が廃止され、日本からは消滅。


ですから今は利用したくてもできないんです。

公益質屋同様、民営の質屋もサラ金の登場で一時はかなり苦境に立たされたようですが、最近は従来の貸金業というよりもブランド品や宝飾品の買取で、再び息を吹き返しているのだそうな。


バブル期後半からでしょうか? 主に女性が高級ブランド品を質屋さんに持ち込んで換金するようになったのは・・・。


リアリティーTVやニュース番組の企画で質屋さんの窓口に隠しカメラを設置し、店員さんとお客さんのやり取りを紹介することがあります。

女性客が入りやすいような、明るくて清潔感のある店内に持ち込まれる品々と繰り広げられる会話は、実に味わい深いものが・・・。


一番ビックリしたのは、ホステスさんらしき女性が、全く同じ色と型番の高級ブランドバッグを5つ持ち込んだ時のこと。


「何でこんな同じ品物ばかり持ってるんですか?」


と訝る店員さんに、カラカラと笑いながらその女性が言うことには・・・複数のお客さんに同じバッグをおねだりおねだりして買ってもらい、一個だけを残して全部を換金に来たとのこと。


「だってぇ、そうすれば誰とデートした時でも、『アナタに買ってもらったバッグ、いいわよォ』 ってごまかせるじゃない!」 驚き顔


いやはや、女性の逞しさというか、したたかさを見せつけられました。


こんなケースが多いからでしょうか、質流れ品のバーゲンセールは、新品同様のモノが安く手に入るってことで、大変な人気だとか。


さすがに今では、こんな裏ワザを使える女性は限られるでしょうけど、 


下心を持って言われるままにプレゼントしようとする男性諸氏は、くれぐれもご用心、ご用心!うー


 


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定 年

皆さんの勤務先は、何歳で


 定年退職


になりますか?

おそらく60歳かそれ以上という方が多いと思いますが、私が社会人になった1981(昭和56)年当時は、私の勤務先を含めて55歳という会社が殆どだったと思います。

しかしそれ以前には、平成世代には信じられない状況がありました。
それは、男性は55歳でも女性が30歳という男女格差があったこと。

いわゆる〝寿退社〟が当たり前の時代のことですが、これが男女差別だとして複数の会社が女性社員に訴えられました。

その中の一つである名古屋放送が訴えられた訴訟で、今からちょうど45年前の今日・1974(昭和49)年9月30日に、名古屋高裁が

「女子の定年を30歳と定める就業規則は民法90条に反し無効」

と、原告勝訴の判決を下しました。

まぁ今から考えれば当然のことですけどネ。


この後も男性より女性の定年が5歳若いことを不服として訴えられた日産自動車事件でも、ちょうど私が社会人になった1981年に最高裁が会社側の上告を棄却。

また男女雇用機会均等法の改正などを受け、日本企業における定年の男女格差はなくなりました。

       

一方で55歳という年齢は、時代と共に徐々に引き上げられることに。

1986年には『高年齢者雇用安定法』で60歳に引き上げる努力を義務化し、1998年には60歳未満の定年制を禁止。

その後2000年には65歳までの雇用確保措置の努力が義務化され、2013年には希望者全員の65歳までの雇用が義務化されました。

少子高齢化が進む我が国では、致し方ない措置だと言えましょう。

現在、定年制を定めていない企業は、全体の7.4%。
従業員数1,000名以上の大企業は0.3%ですが、100名以下の中小企業では10%を超えているのが実情だとか。

もう少しすれば、希望者には定年を廃止する時代がやってくるかもしれません。

な~んて言ってる私自身は、60歳でリタイアしちゃいましたけど。


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ゆとり

先程も書きましたが、今日は祝日

 山 の 日

2014年3月に自民党ら9党合同で祝日法の改正案が出され、成立。

2016年から施行されました。

その趣旨は
、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことだそうですが・・・はっきり言って、こんなのはこじつけ。

要はお盆休みを長期に取りやすくすることが主たる理由でしょう。

現に、この祝日はお盆の前日・8月12日を祝日とする案が出されていましたが、この日があの『日航ジャンボ機墜落事故』だったために前日にずらされた、という経緯がありますから。


       


さて、この祝日は、1948(昭和23)年7月20日に施行された『国民の祝日に関する法律』に基づき定められたもの。

この施行以降、国民の祝日は徐々に増えています。
時系列で並べてみると、

1966年  9月15日 敬老の日 (※2003年から9月第3月曜日)

1966年 10月10日 体育の日 (※2000年から10月第2月曜日)

1967年  2月11日 建国記念の日 

1996年  7月20日 海の日  (※2003年より7月第3月曜日)
1989年 12月23日 天皇誕生日 

2007年  5月 4日 みどりの日   



そして今日の山の日と、7日も増えた勘定。

今や祝日がないのは6月だけとなりました。

そして祝日とは別に、大幅に休日が増えた要因として、『週休2日制』があります。


これは1980年代後半に入り我が国が貿易摩擦を起こした際、諸外国から「日本人は働き過ぎだ」という批判に晒されたため、1992年から国家公務員の完全週休2日制を導入したことがキッカケとなり、地方公務員や民間企業で続々と導入が決まったもの。

私が勤務していた保険会社でも、1981年に入社した当時は土曜日は出勤日でしたし、その後第2土曜のみ休日、更に月2回、そして毎週土曜日が休日と段階的に週休2日に移行した記憶があります。

そして教師も週休2日にする必要上、学校も段階的に週休2日に。

週休2日制導入時、家庭の主婦からは 「土曜日も朝から亭主と子供が家にいる」 という不満が漏れ聞こえてきたものですが、人間は慣れるもの…最近はそんな不満は聞こえなくなった気がします。


それどころか、昨年あたりからは週休3日制なんて話題も・・・。

残業過多のブラック企業が問題になっているとはいえ、私は思うんです。 そんなに休日を増やして、大丈夫か? って。

私が社会人になった当時から比べれば、休日数は年間で60日近く、つまり1年で15%強も増えています。

新人だった私は週休1(.5)日が当たり前で、それが働き過ぎだとは感じませんでした。

まして現在年中無休・24時間体制の葬儀屋をやっている感覚からすると、「こんなに休日が多くて国際競争に勝ち残れるのか?」 と心配になってしまうのです。


かつて称賛された〝ゆとり教育〟は、今では学力低下の元凶と批判されています。

果たして日本は、〝ゆとり労働〟を続けていて良いのでしょうか?
うー


 


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苦 情

先日、帰宅時に郵便受けを覗いたら、こんな封筒が入っていました。


       


『近隣の皆様』という印刷が、真ん中からちょっとズレていることにちょっと苦笑いしながら中身を取り出すと、こんなA4の紙が一枚・・・。


 


近隣の小学校長名で出された文書には、

「今週より雨天以外はプールでの水泳指導が行われます。
水しぶきを浴びた子供たちの歓声や指導の声等が響くかと思います。

指導期間中、できるだけ近隣の皆様にはご迷惑をかけないよう注意をしていく所存でございますので、児童のため何卒ご理解とご協力をよろしくお願いいたします。」


と記されていました。

要は子供達の歓声や指導でうるさくしますが、お許し下さいってこと。

お住まいの近くに小学校がある方にも、こういった告知書というか挨拶文は配布されていますでしょうか?


私がこの小学校のすぐ近くに引っ越してきたのは約20年前ですが、その頃にはこんな文書の投函はなかったと記憶しています。

それがしばらくしてから、運動会の練習で鼓笛隊の音が・・・という同様の挨拶文が投函されるようになり、更にその数年後にはプール使用に関するものが加わりました。

そして今回私が驚いたのは、封筒入りだったこと。

今までは、ただA4の告知書がビラッと郵便受けに入っていただけでしたから。

見方によっては、より丁寧な対応になったとも言えるでしょうが・・・ここまでする必要があるのでしょうか?


そもそも子供が大勢集まってくる小学校で子供たちの歓声が響き渡るのは当たり前。

「静かにしなさい」と注意したって、言うこと聞くわけがありません。

大人だって、海やプールに行けば歓声上げるでしょうし、そもそもクレームつけた本人だって子供の頃は騒いでいたはず。。

またそれは運動会やプールだけでなく、毎日の休み時間で子供たちが校庭で遊んでいる時も同じです。

そんなのは常識のはずなのですが、今までなかった挨拶文が配布されるようになったのは、学校に 「うるさい」 というクレームをつける近隣住民がいるからでしょう。

それも、極々一部の・・・。

私は小学校が近くにあることも、そして子供たちの歓声が聞こえることも承知で引っ越してきました。

それが苦痛な人は、最初から学校近くに来なければいいだけのこと。


それなのに苦情を申し立てるのは、先に作られた沖縄の普天間基地のそばに後から引っ越してきた住民が、「うるさいし危ないから、基地をなくせ」 と文句を言うのと同じ。

ここ数年来、公園で 「子供の声がうるさい」 という苦情が役所に寄せられたり、除夜の鐘がうるさいと言われて、夜ではなく昼間についたり取りやめてしまう寺院が出たことが報じられたりしています。

これらも同様に苦情が寄せられたことが発端でしょう。

確かに音に関する感じ方は人それぞれでしょうが、ごく一部の苦情にそこまで対応することはない、と私は思うのです。

役人や学校はトラブルを恐れるあまり、そういったクレーマーに腰が引け過ぎているのでは?

理不尽な苦情は突っぱねる強い姿勢を示さないと、彼等はどんどん増長して行きます。

日本の伝統行事や学校教育に関しては、特に。

そもそも、まともな日本人ならそんなクレームつけないはずですから。

ということで、私は翌日この小学校に電話して、挨拶文の配布取りやめを申し入れ、下らないクレームに屈しないよう激励しました。

こんなことに浪費する時間やカネは、子供たちに使って欲しいですから。
扇子


 


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公 示

早速、クイズからスタートです。

2005(平成17)年までは、毎年今日・5月16日に発表されていたのに、翌年から廃止になったものは、何でしょう?

ヒントは、私を含め殆どの方は縁がないもの・・・って、これじゃ分かりせんょネ。 正解は、

 高額納税者公示

そう言われてみれば、毎年マスメディアがこぞって報道していたなァ・・・と、思い出す方も多いでしょう。

この『高額納税者公示制度』が始まったのは、戦後まもなくの1947(昭和22)年。

毎年5月31日まで公示されていました。

目的は、〝高額所得者の所得金額を公示することにより、第三者のチェックによる脱税牽制効果を狙う〟こと。

信じられないことに、開始初期には(脱税の)情報提供者にその額に応じた報奨金を支払っていたそうな。


まるで共産主義国家の密告制度の如き手法ですが、さすがにこれは怨恨や報復を生むため1954年に廃止。

また当初は収入額を発表していましたが、1983年からは納税額に変更されました。


しかし、この制度により氏名を公表されることは、即ち金持ちであると世間に知らしめるようなもの。

実際、名前が公表されたことで神戸の資産家の家族が暴力団に殺害されたり、多くの高額納税者が空き巣や窃盗の被害に遭いました。

つまりは役所の意図と違い、役所が犯罪に加担するような形になってしまったわけ。


またこの公示は個人の所得税に限られたため、当該個人が法人を設立し、それを利用して親族に所得を分散することにより、節税や公示逃れを合法的に行うことが一般化したため、個人としての高額所得者を公示する意味がほぼなくなってしまいました。

更にこの制度の公示対象が3月31日までに提出された申告書に基づくという規定を逆手にとって、同日までは所得税額1,000万円を超えない所得で申告し、4月1日以降に修正申告するという抜け道を利用する人も続出。

このやり方だと追徴課税を取られるのですが、そこまでしても自分の名前が公表されるのを嫌がったんですねェ。

私のような凡人には分からない感覚ですが・・・免許証に本籍すら掲載しない個人情報保護に煩い現代では、納税額公表なんてとんでもないって話。

実際、廃止になった直接の理由は、2005年から個人情報保護法が施行されたことでしたから。


 

上の表は、この公示制度の最後となった2005年の高額納税者名簿ですが、13年前からユニクロの柳井氏が載っているのは、さすが。

この公示制度は廃止になりましたが、某海外雑誌は現在でも毎年高額所得番付を発表しています。

公的な納税額が公表されていないのに、どうして所得が分かるのか実に不思議ですが・・・。

ただひとつ気になるのは、少なくとも日本ではその所得番付と高額納税者のランキングが必ずしもリンクしないこと。

何故か?

それは、高額所得であってもそれに見合う納税をしていない人がいるから。

そういう人には、ある共通項があるのですが・・・っと、ここから先の解説は控えさせていただきます。

気になる方は、ネットで検索してみて下さい。

その理由を知った方は、皆怒りがこみ上げてくるニダ。うー

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改 装

弊社近くにあって、私がよくランチを食べに行く某牛丼チェーン店が、3月から改装工事のため一時閉店。

そして1ヶ月半ほど経って、先日新装オープン・・・ということで、どんな感じに変わったのか早速偵察(?)に。

以前はアスファルト舗装された駐車場に大きな穴がいくつか開いていましたが、しっかり埋められていました・・・って、それは当然でしょう。

まず変わったのは、入口。(↓)

    

そう、(車椅子用の)スロープがつけられたのです。

私が今まで都内で利用した牛丼チェーン店に、こういうスロープはありませんでした。

高齢化が進み老人の利用頻度が上がるでしょうから、今後こういう入口の店が増えるんでしょうネ。

店内に入ると、当然のことながらバリアフリー。

そして以前はU字型のカウンターのみで椅子が固定されていましたが、カウンター3列にテーブル席も1列と席数も増え、椅子も軽い素材で簡単に動かせるようになっていました。

そして最大の変化は・・・セルフサービスになったこと。

以前と同様に券売機でチケットを買うと、

「番号ヲオ呼ビシマスノデ、席ニ座ッテオ待チクダサイ。」

と自動音声に言われた通り席に座って周囲を眺めると、こんなモニターが・・・。

       

ここに番号が出て、スタッフから番号が告げられると、店の奥の受け渡し口で注文品を受け取る寸法。

役所や病院、あるいは高速SAと同じサービス・スタイルになりました。

(じゃあ、つゆだくとか細かいオーダーする時は、どうするの?)

と思ったら、ちゃんと食券に書いてありました。
あせあせ

 

当然食べ終わった後も、食器はお客さん自身が返却口まで持っていく・・・まさに、完全なるセルフサービス制。

これなら接客スタッフは要りませんから、近年問題となっている人手不足解消には有効なのでしょう。

またスタッフとお客さんが受け渡し口を挟んで完全にセパレートされていますから、夜間などの犯罪防止にもなりそう。

このリニューアルは(車椅子対応を除けば)店側の都合重視と言えますが、おそらく今後は他チェーン店にも広がっていくんでしょうネ。

個人的には、これだとスタッフとお客さんの珍問答がなくなり、ブログネタを拾えなくなるのが若干不満・・・なんてのは半分冗談ですが、このチェーン店にはひとつ要望が。

以前はスタッフがお茶を湯呑みで出してくれたんですが、改装後は当然の如くお茶もセルフ・・・それは仕方ないにしても、使うのはペラペラの紙コップ。


せめてもう少し良質な容器にしてもらえませんかねェ~。
これじゃ、食べる前から食欲無くしちゃいます。


        


・・・って、そのうちコレにも慣れちゃうのかナ?うー



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依 存

永田町では、カジノ法案成立に向けて与野党の攻防が続いていますが、この時に必ず持ち出されるのが〝ギャンブル依存症〟対策。

これに関して、依存症患者のケアをしている一般社団法人の代表を務める大崎大地さんが月刊 『致知』 4月号でその実態について寄稿されておられましたので、以下に抜粋・編集にてご紹介致します。

          ◆     ◆     ◆     ◆

536万人・・・これは、日本におけるギャンブル依存症患者の数です。


その家族を含めると、約2千万人がギャンブル依存症であると言われており、その原因の9割がパチンコ・スロット(以下バチスロ)なのです。

更にギャンブル全体の売り上げは年間30兆円程ですが、その内パチスロは約20兆円と突出しています。

国の年間歳入が約90兆円であることを考えると、一民間企業のギャンブルが得ている金額が、どれほど巨大かつ異常であるかがご理解いただけると思います。

まさに日本は〝ギャンブル大国〟と言ってよいでしょう。

私はこれまで千人以上のギャンブル依存症患者とその家族に向き合ってきましたが、実は私自身もかつては重度のギャンブル依存症に苦しむ一人でした。

高校卒業後、地元・函館の企業に務めていた私が、ふとしたきっかけでパチンコを始めたのは20歳頃のことでした。

当時は本当に遊び感覚で始めたのですが、その後東京の企業で働き始めると状況は一変。

パチンコ好きの同僚の影響もあり、次第に止められなくなっていったのです。

家族を持ち、38歳で独立してからもパチンコ通いはどんどんエスカレート。 借金はアッという間に数千万円に膨れ上がっていきました。

それでも 「ギャンブルが止められないのは自業自得」 との意識から、誰にも相談できません。

そして遂に私は 「これ以上周囲に迷惑はかけられない」 と、睡眠薬自殺を図ったのです。

幸い一命は取り止めましたが、この頃は今思い出しても震えてしまう程の苦しい日々でした。

そんな私に、ギャンブル依存症を断ち切り再び人生をやり直す気力を与えてくれたのは、迷惑をかけてきたはずの妻と子供達の

「お父さん、必ず生きて帰ってきて!」


という言葉、家族の愛情でした。


       

家族に恩返しがしたい、自分と同じように苦しんでいる人を救いたいという強い思いがこみ上げてきた私は、2006年に自宅を事務所にしてギャンブル依存症の問題と闘うことを決めました。

当初は、自分の体験を生かせば他人の依存症も断ち切れると前向きに考えていたのですが、いざ始めてみると考えの甘さを思い知らされました。

ギャンブル依存症によって、自分とは比べ物にならない多額の借金や家庭崩壊、自殺、鬱病の併発、犯罪に追い込まれた方々が、全国から次々と相談に訪れるようになりました。

それでも全国での講演会や相談活動を通じ、依存症の方と地道に向き合っている内に、次第に克服の実績を上げられるようになっていきました。

その中で、私が依存症克服のために確立したのが 【学習→気づき→認知→決意→行動→克服→完全克服】 という7つのサイクルです。

この中でも最も大切なのが、依存症の実態について学ぶ〝学習〟であり、患者とその家族がギャンブルを必要としない生き方や、依存症が歴とした精神病であることなどを知る〝気づき〟です。

それによって初めてギャンブルの害悪をしっかりと〝認知〟することができ、もうやらないと〝決意〟することができるようになります。

そして依存症を克服するにあたり、私が繰り返し相談者に伝えてきたことがあります。

それは〝自己責任ゼロ〟という考えです。

ギャンブルが止められないのは、その人の性格や意志など、自己責任の問題として片付けられてしまいがちです。

しかしそうした姿勢が克服の妨げとなり、依存症蔓延の大きな原因になっているのです。

実際、依存症から犯罪を繰り返して刑務所を出たり入ったりしていたAさんは、私のもとで〝自己責任ゼロ〟の考え方を学んだことで自分はダメな人間なのだという意識から抜け出し、周囲の理解も得て依存症克服に真剣に取り組むようになりました。

ギャンブル依存症は特殊なことではなく、誰もがなり得る病気です。

またギャンブルに関心がないという方も無関係ではありません。

依存症患者が増えれば、社会生活の破綻から家庭が崩壊し、勤労意欲のある人材が減り、納税義務を果たせない人が増え、いずれ国全体が潰れていくことになりかねないからです。


          ◆     ◆     ◆     ◆


現在バチスロ店経営者の90%前後が在日朝鮮人と言われています。

そしてその売り上げの一部が北朝鮮に送金され、ミサイル・核開発の資金になっているとも。

韓国では2006年から法律でパチンコを禁止しているのに、なぜ日本で彼らはパチンコを経営しているのか?・・・その理由を考えれば、このギャンブルを日本で許して良いわけがありません。

〝臭いニオイは元から絶たなきゃダメ〟と言います。

大崎さんは、依存症患者のパチスロ店入場を制限する仕組みの導入をパチスロ店に働きかけるなどしているそうですが、依存症患者を無くす最良の方法は、パチンコを国策として法律で禁止することだと思います。

それが年間20兆円という莫大な個人資産の流出を防ぎ、かつ国防・国益に叶うことだと・・・。
うー


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奇 抜

1980年代初頭、当時一世を風靡した 『竹の子族』 なる集団(?)が出現したことを、私と同世代以上の方はご記憶でしょう。


もっとも、今の若者には意味不明かももしれませが・・・。冷や汗

私はてっきり、毎週日曜日・原宿のホコ天に〝雨後の筍〟のように出没するからそう呼ばれたと思い込んでいましたが、これは大間違い。

原宿の竹下
通りにある

 ブティック 竹の子

で彼らが衣装を買い求めたことから名付けられたんだそうですネ。

この当時一世を風靡したブティックが開店したのが、今からちょうど40年前の今日・1978(昭和53)年3月18日だったそうです。


       


それ以前の1970年代後半、アメリカ映画〝サタデー・ナイト・フィーバー〟の大ヒットをキッカケに若者の間でデイスコ・ブームが巻き起こりました。


そこで踊る若者たちの服装に注目したのが、ファッションデザイナーの大竹正則さん。


彼が日本の着物やもんぺをアレンジして踊りやすく派手な衣装を考案し、それを販売するため原宿に出店したのです。


この店の衣装は斬新なデザインと手頃な価格でたちまち若者の間で流行し、それを身に纏った彼らはディスコで踊るようになったのですが・・・。


いつしか〝竹の子族〟と呼ばれグループ化して踊る彼らと他のお客とのトラブルが頻発。


結果、多くのディスコ店が彼らを出入り禁止に。


締め出された彼らが踊るために集まった場所が、原宿の歩行者天国でした。


毎週日曜日になると、東京だけでなく関東近県から原色の派手な衣装に身を包んだ多くの中高生が集まりディスコサウンドに乗って踊る姿は、時々ニュース等で報道されました。


1981年の最盛期には、約5,000人が50前後のグループに分かれて踊り、その見物人が10万人も訪れたとか。


       


その頃の私は体育会所属の大学生・・・毎日学生服しか着ない生活でしたから全くそういう世界とは無縁でした。


しかし一度代々木体育館に行った際にこのフィーバーに遭遇し、歩道橋に見物人が溢れて渡れないという異様な光景を目撃したことは、はっきり憶えています。


彼らの中からは、沖田浩之や清水宏次朗らスカウトされて芸能人としてデビューした人気者も輩出したのですが、ブームはそれほど長くは続きませんでした。


1981年以降は一世風靡のようなフィフティーズ系のダンサー達が主役になり、竹の子族はいつしか消滅。


そして1996年にホコ天自体が中止され、昔のような若者のフィーバーぶりは代々木公園前では見られなくなりました。


しかし元祖(?)であるブティック竹の子は、コスプレ衣装などを扱いつつ、今でも竹下通りに健在。(↓)

 

    所在地:渋谷区神宮前1-6-15竹下通りジュネスビル1F


当初は真っ先にいなくなると大家さんに思われていたそうですが、今では竹下通り最古の店なのだそうですから、大したもの。

外国人がキャーキャー歓声を上げながら買っていくそうですし、数年前にはあのレディー・ガガが突然来店してまとめ買いしていったそうですから、その名声(?)は海外にまで鳴り響いているようです。

もっとも、その時店長はそれがレディー・ガガだと気が付かなかったそうですが・・・。
あせあせ


今50歳代となった元竹の子族のメンバーの中には、子供連れで同窓会を開いている人もいるとか・・・青春の思い出は永遠ですネ。


まぁ、その歳になって再び暴走族をやるのは論外ですが、竹の子族くらいは大目に見てあげていい・・・かも? 笑2


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【本日のおまけ】 お下品

明日は節分・・・ということで、コンビニやスーパーでは


 恵 方 巻


が山積みになるはず。

お子さんに食べさせようと思っている方、あるいはご自分で食べるつもりの方もいらっしゃることでしょう。

しかしそういう方々は、この恵方巻の起源をご存知でしょうか?



この恵方巻のルーツは、花柳界。

節分の日に芸者たちに旦那衆の〝イチモツ〟に見立てた太巻きを一本丸のまま食べさせるという〝大人の遊び〟があったそうな。

それにヒントを得た大阪の寿司屋(海苔屋)さんが売上アップのためにPRしたのが始まりだというのです。


そしてこれをセブン・イレブンがPR商品として1998年から全国展開し、2000年頃から急速に広まったそうな。

清く正しい日本人なら、我が子にこんな下品な食べ方をさせないでいただきたいものです。

私は翌日売れ残って安売りしている恵方巻があれば、それを買って切って食べるつもりですが・・・。
あせあせ


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