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礼 儀

先月3日、作家のC・W・ニコルさんが79歳で我が故郷・長野市で亡くなられました。

日本人女性と結婚し、日本に帰化。

自らを〝ウェールズ系日本人〟と称し、日本人よりも日本人であった彼に関する思い出話を同じ作家の五木寛之さんが月刊『致知』6月号のエッセーで披露されていましたので、以下に一部編集にてご紹介致します。

           ◆     ◆     ◆     ◆


ニコルさんはウェールズ出身の日本人である。

ドナルド・キーンさんと同じく異国に生まれ、日本を愛し、この国に帰化して日本で死んだ。

ニコルさんは冒険家であり、自然環境保護運動家であり、そして作家でもあった。

若い頃プロレスの前座を務めたことがある、というのはニコル伝説の一つだが、堂々たる体格と草花のような繊細な感覚の持ち主だった。

何十年か前、F・フォーサイスが来日した折に、帝国ホテルで私がインタビューをしたことがある。

その時、少年のように興奮して

「通訳はボクに任せてくれ」

と言ってきかなかったのがニコルさんだった。

当日フォーサイスと会った瞬間、ニコルさんはすごくあがってしまって滑らかに口が動かない。

これはまずかったかな、と思ったが後の祭りだった。

堂々たる体格のニコルさんが、しどろもどろになっている姿が面白かった。

       

そんなニコルさんが極地探検の体験を語ってくれた中で、興味深かったのが、

「どんなタイプの人が極限状態の中で強いか」

という話だった。

体力でもない。 勇気でもない。

寒気と嵐の中で何日も耐え抜くことのできる人間は、礼儀正しいタイプのメンバーだったというのだ。

テントの中に閉じ込められて何日も何日も待つ。
いつ嵐が過ぎ去るか知る術もない。
誰もが苛立ち、時には口論したりする。

そんな中で、最後まで耐え抜くことができる男は、意外なことに〝礼儀正しい男〟だったというのだ。

朝、起きるときちんとひげを剃る。
髪をなでつけ、歯を磨く。

顔を合わせると笑顔で 「おはよう」 と挨拶する。
横をすり抜ける時には、「エクスキューズ・ミー」 と言う。

そして時々、冗談を言って仲間を笑わせる。
出来るだけ身綺麗にして、荷物の整理も忘れない。

「そんなタイプの男が、いざという時に強かったんです。」


と、ニコルさんは言っていた。

「ガタイが大きくて荒っぽい男は、意外に頑張れなかったんだ。」

一度、山の中のニコルさんの家を訪ねて、食事をごちそうになったことがあった。

熊の肉を煮てもてなしてくれた。

私が食べ残したのを見て、ニコルさんは言った。

「ダメ。ちゃんと全部食べてください。熊さんに失礼じゃないですか。」

熊のような体格のニコルさんが、珍しく怒った顔をした事を憶えている。

「良き者は逝く」

という古い言葉を、私はしばしば思い出す。
長く生き残るのは、すれっからしばかりだ。

ニコルさんのはにかんだような笑顔を忘れることができない。


           ◆     ◆     ◆     ◆

礼儀正しき者は強い・・・可愛い我が子や孫をそういう人間に育てるためには、やはり小さな頃からの躾が大切でしょうネ。


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劣等生

私のような中高年世代の方なら、この方の名をご存知のはず。

 君原 健二 

1964年の東京五輪のマラソンに円谷選手と共に出場、そして次のメキシコ五輪では見事銀メダルを獲得した、日本を代表するマラソン・ランナーです。

       


現役時代に35回、そして引退後も市民ランナーとして39回の合計74回フルマラソンに出場し、その全てを完走したという、まさに鉄人。       

その君原氏が、我が愛読誌・月刊『致知』3月号に掲載された対談でオリンピック出場までの少・青年期を述懐されておられましたので、以下に抜粋・編集にてご紹介させていただきます。

           ◆     ◆     ◆     ◆

私は小学生の時から勉強もスポーツもできない劣等生でした。

夢や希望を持つことがない、気が弱く喧嘩もできない子供だったんです。

小学校の通知表を今も大事にしていますが、5年生の通知表の先生のコメント欄には、

「温良ではあるが絶えずぼんやりとして真剣味がない。 積極的に努力する気が少しもみられず、態度に明るさがない」

と書かれています。 しかし、そんな私にも欲はありました。

人間は欲がないと成長・進歩はないと思いますが、私が当時持っていた欲は、勉強もスポーツこのままではあまりにも恥ずかしいので、その恥ずかしさを少しでも小さくしたいというものでした。

その小さな欲が小さな力となって少しずつ自分を高めてくれたように思います。

中学2年生の時、私はクラスメートから駅伝部に入ることを勧められました。

運動会で一等を取ったことは一度もありません。


走ることは得意ではないし関心もなかったのですが、気の弱い私には断る勇気がなくて何の目標もないまま駅伝部に入部したんです。

自分でも驚いたのは、中学3年になった時、7番目の最後の選手として学校の代表に選ばれたことでした。

変だな、おかしいなと違和感を感じながらも、これが固定観念を変えるひとつのキッカケになったように思います。

中学時代は目標や夢を持っているわけではなく、友達について行くのに必死でした。

高校時代は教えを受ける環境に恵まれていたわけではありませんので、先生の指示・指導は殆どなく練習は自分から取り組まなくてはいけません。

そういう中で自主性も芽生えていきました。

そのうちに練習の効果が出たんでしょうね。
高校時代にはインターハイに出場することができました。

そのインターハイですけど、思いがけない人物が出場していたことを後で知りました。

福島県の円谷幸吉さんです。

 
※〝悲劇のランナー〟円谷選手に関する過去記事は、こちら。(↓)


円谷さんは5,000m走に出場して予選落ち。
私は1,500m走で予選落ち。

予選落ちした2人の高校生が共に6年後の東京オリンピックに出場し、円谷さんは銅メダル、私は8位でした。

高校のインターハイで予選落ちするような人間でもオリンピックで活躍できることがあると、是非申し上げておきたいですね。


           ◆     ◆     ◆     ◆

劣等生がなぜオリンピックのメダリストになれたのか?

君原氏は少しでも多く練習した方が強くなれる気がして、練習後にグラウンドを1周で半周でも多く走ろう、あるいは道路で練習する時は1つ先の電柱まで、それが出来たらもう1つ先の電柱までいって折り返そうというように、小さな努力を惜しむことなく積み重ねたそうな。

ですから苦しくなるとそこで夢を諦めてしまう人が多いですが、そういう人には目標を小さくするのもひとつの方法だ、と仰います。

マラソンでいえば、ゴールまで20kmという時、あと5km、あと1kmと目標を小さくしながら一つひとつクリアしていくことで、その苦しさを乗り越えることができる、と。 そういう積み重ねの末、

「ひとつのことに10年間、一所懸命に頑張れば相当大きな成果が出せると思っています。 

私の場合、中学2年生から走り始めて10年間で4万km、地球1周に相当する距離を走りました。

そして東京オリンピックに選ばれたんです。」


もし成績が伸び悩んでいるお子さんやお孫さんがいらっしゃれば、是非君原氏の経験談を教えてあげてください。

       


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老 恋

いきなりですが、皆さんは

 川田 順

という方をご存知でしょうか?


1882(明治15)年に東京・浅草に生まれ、一高から東京帝大に入学・・・当初文学部に籍を置きましたが、小泉八雲の薫陶を受けたものの、彼が退任したため「もう文科で学ぶことはない」として法科に転科したという秀才。


卒業後住友に入社し1930年には理事に就任、同年には一足飛びで常務理事となり、住友総本社のトップ・総理事就任が確実視される中、「自らの器に非ず」 として1936年に突然自己都合退職してしまいます。

その後佐佐木信綱門下の歌人、また 『新古今集』 の研究家として活躍し、戦後は皇太子の作歌指導や歌会始の選者を務めたという、ビジネスマンとしても歌人としても頂点を極めた人物でした。

・・・が、彼の名が世間で注目を集めたのはその業績ではなく、不倫愛でした。

1939年に妻を脳溢血で亡くした彼は、1944年から旧知の仲だった元京都帝大教授・中川与之助の夫人・鈴鹿俊子の作歌指導をしていました。

『新古今集』 研究の手伝いも彼女にしてもらっているうちに、2人の仲は師弟関係から恋愛関係へと発展。

それが中川元教授の知るところとなり、2人は彼の前で別離を誓ったものの・・・結局はその後も逢瀬を重ね、1948年8月に中川夫妻は離婚。

その自責の念に苛まれた川田氏は、今から71年前の今日・1948年11月30日に家出。

翌日、亡妻の墓石に頭を打ちつけて自殺未遂を図ったのです。

幸い一命は取り止めましたが、谷崎潤一郎ら友人に遺書を、また新聞社に告白録を送っていたため事の顛末が報道されることに。


     

                 12月の朝日新聞社会面


この一件は、川田氏が書いた 『恋の重荷』 の序文、

「若き日の恋は、はにかみて おもて赤らめ、

壮子時の四十歳の恋は、世の中にかれこれ心配れども、

墓場に近き老いらくの恋は、怖るる何ものもなし


から、〝老いらくの恋〟が当時流行語になったとか。


しかし世間の冷たい視線にもメゲず、2人は翌1949年に結婚。

川田68歳、鈴鹿41歳・・・27歳という父娘程の年齢差でしたが、2人は京都から神奈川・湘南に転居し、中川元教授との間にもうけた3人の子供の内、成人した長子を除く2人を引き取り生活を共にしました。


    

そして2人は川田氏が1966年に84歳で亡くなるまで添い遂げ、奥さんは96歳まで生き抜きました。

この不倫愛を題材にした小説があります。


 『虹の岬』 (辻井 喬・著 中公文庫・刊)


       


著者は、5日前に拙ブログで取り上げた、セゾン・グループの元総帥・堤清二・・・いや、辻井喬氏。


川田氏と同じく、企業経営者から詩人・作家へと転じた彼がこの不倫愛をどう描いたのか?

中にはこの作品を辻井喬の最高傑作という方もいらっしゃいますが、発表当時川田氏は既に亡くなっていたものの夫人はまだ存命だったことを併せ考えて読むと、面白いかもしれません。

これからますます高齢化社会となる日本・・・たとえ不倫ではなくても、配偶者を亡くした者同士の〝老いらくの恋〟は増えるはず。

葬儀屋時代、母親を亡くした子供たちと、父親と再婚した後妻(義母)との微妙な家族関係を垣間見たことがある私としては、周囲に理解される恋愛であって欲しいと願うばかりですが・・・。

えっ、お前は大丈夫なのかって?

どうかご心配なく。 


私にはそんな恋愛をするカネも時間も気力も、まして鬼より怖い女王様を裏切る度胸もないですから~。あせあせ


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記者魂

一昔前に〝翔んでる女(性)〟という言葉が流行りましたが、この方はその元祖と言って差し支えないかもしれません。 その人の名は、


 ネリー・ブライ 

    Nellie Bly


彼女(本名:エリザベス・ジェーン・コクラン)19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカで活躍した女性ジャーナリスト・・・というか、今でいうスキャンダル(暴露)記事の先鞭をつけた記者でした。


1864年に現在のアメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグ近郊の農家に生まれた彼女は、寄宿制の学校を学費が払えなかったため、やむなく中退。

しかし生まれつき文才があったようで、無職だった時に地元のピッツバーク・ディスパッチ紙のコラムに性差別主義に対する反対意見を投稿。

そのハイレベルな文章力に目をつけた同紙の編集長ジョージ・マドンが彼女をリポーターとして採用することに。


たまたま給仕が口ずさんでいた〝アメリカ音楽の父〟フォスター作の名曲 『ネリー・ブライ』 をそのまま彼女のペン・ネームにしたのです。


       


美貌の中にも非常に意志の強そうな眼をした彼女は刑務所や工場に自ら足を運び、今でいうところの〝潜入ルポ〟を執筆して注目を集めます。

しかしスポンサーの圧力などで書きたい記事が書けなくなると、彼女は単身ニューヨークへ。

そして自らを売り込んでジョゼフ・ピューリッツァーの主宰するニューヨーク・ワールド紙に移籍。


入社の条件としてビューリッツァーと交わした約束通り、彼女は患者になりすまして精神病院へ入院すめという、前代未聞の潜入取材を敢行します。


そこでの実体験を綴った連載記事 『精神病院鉄格子のかなたに』 は、ニューヨークで知らない者はいない程の大反響を巻き起こしたとか。

そんな彼女の名を一躍世界的に有名たらしめたのは、今からちょうど130年前の今日・1889年11月14日に彼女が挑戦をスタートさせた一大企画でした。


それは、1872年にフランス人作家ジューイ・ベルヌが発表し世界的ベストセラーになった小説 『八十日間世界一周』 を、実際にやってみようというもの。

まるで 『進め!電波少年』 のヒッチハイク旅行の如き破天荒な企画ですが、飛行機も電車もない時代に蒸気機関車と蒸気船、それに馬車を使って女性が単独で世界一周し、その旅行記を記事にするというのですから、電波少年以上に危険かつ無謀なチャレンジだったと言っていいでしょう。

この旅行を出発の僅か3日前に打診されたという当時25歳だった彼女は、躊躇なく快諾。

11月14日午前9時40分3秒、ニューヨーク近郊のニュージャージー州ホーボーケンの埠頭からオーガスタ・ヴィクトリア号に乗ってイギリスに向け出発した彼女は、途中原作者ヴェルヌにフランスの自宅で会うなどしながら見事翌1990年1月25日、72日6時間11分14秒で世界一周を成し遂げたのです。

その間、連日電報で送られてくる彼女の紀行記事は新聞に掲載され、大人気を博したとか。

ところで、これには裏話が。

ブライの世界一周旅行を知った雑誌社コスモポリタンが、これに対抗すべく急遽同社の女性記者エリザベス・ビスランド(当時28歳)に同じ世界一周旅行をさせたのです。

しかも彼女がその社命を受けたのは、なんと出発日・14日の朝!

ろくな準備もしないままブライは東回り、ビスランドは西回りで世界一周に旅立ち、インド洋上ですれ違った2人は、いずれも日本にも立ち寄っています。

 

しかしビスランドはブライよりもわずかに遅く76日を要して負けた(?)ためか、あまり名前が出てきません。

(とは言え、彼女から富士山や横浜の商店街の美しい情景を聞き及んだ知人の小泉八雲がいたく感激し来日するキッカケになったそうですから、我が国にとっては彼女の方が大きな存在だったのかも。)


でもこの2人には、共通点がありました。


南北戦争で敗れた南軍側の出身で、家は貧しかったこと。


そして男性社会の中で筆一本で生きていくためにどんなチャンスにも飛びつき、度胸と自らの才能でのし上がろうとしたこと。

強烈なハングリー精神がなければ、こんな無謀な企画には乗らないですょネ。


とは言え、女性の強さをまざまざと感じさせます。


その後1895年に富豪と結婚し一時ジャーナリズムの世界から引退したブライでしたが、1904年に夫が他界。

彼の会社を引き継ごうとしましたが、さすがに素人経営ではうまく行かず破産の憂き目に遭い、再び彼女はジャーナリズムの世界に復帰。

女性投票権に関する記事や第一次世界大戦のヨーロッパ戦線を取材するなど精力的に活動しました。


1922年に57歳で天に召された彼女の波乱万丈の人生は、こちらの

 

 『ネイリー・ブライ物語 世界最初の婦人記者 

                                (三省堂・刊)


       


で詳しく知ることができます。


個人的には、ロクに取材もしないのに見てきたかのようなフェイク記事を書いたり、他メディアの情報だけを頼りにしつこく質問をぶつける東京新聞の某女性記者にこそ、この本を読ませたいと思うのですが。


・・・さて、皆さんは会社から 「今日から世界一周して来い!」 といきなり命じられたら、やりますか? やりませんか?あせあせ


 


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仕 事

食欲の秋・・・と言うわけではありませんが、今日は誰もが好きな〝寿司〟の世界のお話です。

2008年の〝ミシュラン東京〟において三ツ星を獲得し、2014年には当時のオバマ大統領と安倍総理が会食をしたことでも有名な、銀座の寿司店・『すきやばし次郎』


この有名店の大将は、言わずと知れた


 小野 二郎 


1925(大正14)年に静岡県で生まれた小野氏は、7歳の時に奉公に出されて以来料理人の道一筋。 


79歳の時にガンの摘出手術を受けて1ヶ月安静を言い渡されたのに僅か3日後に退院。

その翌日、中野から銀座の店まで2時間半かけて歩き、その3日後には仕事をしたという、まさに〝鉄人〟です。


その小野氏が1965年に独立・開業したのが、この店なのですが・・・今日は今年3月にミシュラン三ツ星レストランの最高齢料理長(Oldest head chef of a three Michelin star restaurant )」(93歳128日)としてギネス世界記録に認定された彼自身の経験を通した仕事に対する心構えについて語った言葉を、以下にご紹介させていただきます。


          ◆     ◆     ◆     ◆


職人の世界は教えるじゃなくて覚えろですから、教わるということはありません。 全部自分で見て、盗んで覚えるしかないわけです。


親方とか先輩に教えてもらおうと思って入ってくるのは大きな間違いで、自分が上の人のやり方を盗んで勉強し、進歩していかなければいけない。 


というのは、教えてもらったことは忘れるんですょね。


自分が盗んだものは忘れない。


自分が苦労して苦労して、これを必ず自分のものにしようと思って、


やっと盗んだものは決して忘れない。


私は寿司を握り始めたのが26歳、皆より10年近く遅かったですから、皆が昼休みで遊んでる時も、自分は調理場へ入って握りをしました。 


人よりも上に行こうとすれば、人の二倍も三倍も努力をしなかったらやっぱりダメだと思いますし、私はそうやってきたから、現在の自分があるんだと思っています。


        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-小野次郎


うちの店でも、修業に来て3日も持たない子がいっぱいいますょ。


一番短いのは、午後にお母さんが連れてきて、その日の夜にそのまま帰っちゃったという子。


他にも空きが出るのを半年も待ってて、やっと声をかけたら、何も知らない素人だから皆が仕事をしてるのをただ見てるだけ。


それで 「立ってるのが疲れたので辞めます」 って。


その程度の者が多いんです。


実際この店に来て、まともにやって残るのは10年に1人か2人位でしょうね。


自分が鮨屋になるのであれば、いい鮨屋でしっかり勉強した方が独立した時にいい仕事ができて、いいお客様を取れると思うんですよ。


でもそういう店は厳しいから嫌だと言う。


自分のわがまま放題、好き勝手なことをやってて将来もずっと通るかといえば、私は通らないと思います。


何事も一番底辺から覚えていかなかったら、一人前にはなれません。


まず10年は辛抱しないと、その仕事を本当に芯から覚えていくのは難しい。


でも朝が早いから嫌だとか夜遅いから嫌だとか、そういう人達ばかり。


これは、人間の基礎ができていないんじゃないかと思うんです。


だから私はこの仕事は合うとか合わないとかっていう若い人の言い分を聞くと、つい言いたくなるんです。


仕事っていうのは合う合わないじゃなく、こっちから努力して合わせていくものだって。


          ◆     ◆     ◆     ◆


この名人の生き様からは、プロとしての心構えと、技術を習得しようとする者・技術を伝承する立場の者双方に対する貴重な教えが伝わってきます。


宮大工の西岡常一棟梁同様、超一流の仕事師の持つ厳しさを知るにつけ、身が引き締まる思いです。


以前拙ブログでご紹介しました、〝料理の鉄人〟道場六三郎氏の記事も、是非併せてお読みいただきたく・・・。



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五目並べ <番外編・下>

オフィスに戻ると、ペアの女性社員はエラい剣幕で出て行った私を心配して、帰りを待っていてくれました。


「渡辺さん、また社長と喧嘩したんじゃ・・・。」


「あははっ、大丈夫だょ。 ちょっと五目並べしてきただけだって。」


「本当? ならいいんだけど。」


「心配ないって。 待たせちゃって、ごめんナ。」


そう言うと、ようやく安心した素振りで彼女は帰りました。


さて、翌日。


営業の外回りで朝から出歩いていた私が夕方帰社すると、ペアの女性社員がニコニコしながら待ってました。


「ちょっと渡辺さん、信じられないことがあったのョ。

 D社長がさっき来てネ、私にコレをくれたの。」


彼女が指を差した先には、高島屋の紙袋が・・・。


       


「こんなこと、初めて・・・渡辺さん、昨日社長に私の好物を教えたでしょ!」


「いやっ、そんな事話してないって。 きっと前から知ってたんじゃない。

それよりもケーキを渡した時、何か言ってた?」


「いえ、何も。 『ほれっ。』 っていきなり渡して、すぐ帰ったわょ。」


「ふ~ん。 じゃ、きっと社長も昨日は言い過ぎたって反省したんじゃない? 恥ずかしくて言えなかったんだょ、きっと。」


「そうかなァ・・・そうだといいけど。」


そして彼女が帰った午後6時過ぎ・・・私は再びD社長の事務所へ。


「こんばんは~、また五目並べしに来ましたョ~。」 


D社長、ブスッとした顔でソファに腰掛けてました。


「なんだ、お前か。 また説教でもしに来たのか?」


「またまた、ご冗談を。 じゃ、今日はもう帰りましょうか?」


「まぁ、せっかく来たんだから、少しやろうか。」


「そうこなくっちゃ。」


・・・しばし黙って碁盤を囲む2人。

そしてまた3局目に入ったところで、私から口を開きました。


「さすがですねェ、社長。」


「何がだョ。」


「今日ちゃ~んとケーキ持って来てくれたらしいじゃないですか。」


「あぁ・・・まぁな。」


「で、ちゃんと謝ったんですか、彼女に。」


「・・・・・忘れた。」


「あらまっ・・・でも彼女、喜んでましたョ。 

しかし社長も、意外と素直なところがあるんですねェ。」


「うるせェ。 あっ、これで四・三の出来上がりでオレの勝ち。」


「ありゃりゃ・・・。 やっぱりイイ事した日は強いや。」


「お前、ホント口の減らねェヤロウだな。 

 また出入り禁止にしたろか?」


「はいはい、ご自由に。」


その晩は、10局以上付き合ったナベちゃんでありました。


そんなD社長も、既に鬼籍に入られました。


怖いけど、カワイイところもあった・・・なんて書いたら、「日本軍人をナメるなっ!」 って今晩あたり日本刀を手に、私の夢枕に立つかも?


・・・そういえばD社長、私には何もくれなかったなァ。あせあせ


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五目並べ <番外編・上>

先月、私が取引先とケンカして仲直りした 『五目並べ』 シリーズの記事、ご記憶でしょうか?


今日はその相手だったD社長が再び登場です。 あせあせ


1ヶ月にわたる冷戦の後、〝雨降って地固まる〟じゃないですが、何となく以前より仲が良くなった(?)D社長と私。


な~んて思っていたら・・・それから数ヶ月経ったある日の夕方、外回りを終えてオフィスに戻ると、私とペアを組んでいた女性社員の目が泣きはらしたように真っ赤。


「どうした? 何かあったの?」


と聞いても黙って俯くばかりの彼女。

しかしどうにも気になってしつこく尋ね、ようやく事態が判明。


私が帰ってくる小一時間前にD社長が来社した際に書類の記入方法を巡って彼女と押し問答になり、挙句に彼女をどなりつけて出て行ったとの事。


かつて日本陸軍の軍人だったD社長、怒ると手がつけられないというかちょっと怖いくらいの迫力がある御仁。


その勢いで若い女性を怒鳴りつけるなんて・・・しかも話を聞けば、非があるのはD社長の方。 またまた頭に血が上った私は、


「あのオヤジ、そんなこと言いやがったのか。 

 ちょっと事務所に行って来る。」


と、彼女が制止するのも聞かずにオフィスを飛び出しました。


「D社長、います? ちょっと五目並べでもしましょ~か?」 


そう言ってD社長の事務所に入ると、


「おぉっ、珍しいこともあるもんだ。 こんな時間にお前からやりたいなんて。  いいょ、やろうじゃないの。」


         ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-五目並べ


そして1勝1敗で迎えた3局目・・・碁石を手にしながら、おもむろに私が口を開きます。


「そういえば、社長。 さっきウチの女の子泣かしたんですって?」


「あ、あァ。 ちょっと生意気な事言いやがったからな~、キツく言ってやったんだ。」


「ふ~ん。 で、社長・・・どっちの言い分が正しいと思ってます?」


「そりゃ、お前・・・。」 


口ごもる社長。


「なぁんだ、さすが社長。 ちゃ~んと分かってんじゃないですか。

いい歳して、自分の孫みたいな年頃の女の子泣かしたまんまじゃ、男が廃るってもんじゃないですか?」


「じゃ、どうすりゃいいんだョ。」


「そりゃあ、明日にでも彼女の好物を差し入れて、一言ゴメンっていえばいいんじゃない?」


「おい、オレに謝れってか? 

 バッカヤロ~、そんなことできるワケないだろ!」


「そうっすか? まぁ、ワタシャ無理にそうしろとは言いませんが・・・ちなみに彼女の大好物、高島屋の地下で売ってる○○○ってケーキですけどネ。 


おっと、これで四・三の出来上がり~、私の勝ちですョ。 

これで2勝1敗の勝ち越し、ちょうどキリがいいんで帰りますワ。j


「なんだ、お前。 それを言いにわざわざ来たのか? 

 お前みたいな若造に説教されるほど耄碌してないワ。 帰れ帰れ!」


茹でタコみたいに顔を真っ赤にして叫ぶ社長。


「あれっ、怒りました? はいはい、言われなくても帰りますって。」


そういって逃げるように事務所を出た私。


さぁて、またひと悶着・・・冷戦再開か?


 


                   ・・・・・To be continued !


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戦 友

地方では、明日から〝お盆〟・・・ご先祖様の魂を祀る、これからも子々孫々に伝えるべき伝統行事ですネ。


亡くなった方を偲ぶ気持ちは大切にしたいものですが、それが最も強くなるのが、以前私がお手伝いしていたご葬儀の時。

ご遺族が嘆き悲しむ姿は、何度見てもグッと来てしまいますが、ご遺族・ご親族以外の会葬者がそれ以上に感情を露わにされる場面もありました。

それは・・・〝戦友〟。


大東亜戦争時に旧日本軍兵士として従軍された方々、特に外地から九死に一生を得て生還された方のご葬儀をお手伝いをさせていただく機会が過去しばしばあった(戦後70年を過ぎたてからは殆どなくなりました)のですが、そのご葬儀に嘗ての戦友の皆様が参列された時がありました。


         


『第○師団○○会』 等と縫い込んだ旗を祭壇横に飾られ、80歳を超えていらっしゃるにも拘わらず背筋をピンと伸ばし矍鑠として椅子に腰掛けられ、静かに遺影を見つめるご老人達。


出棺間際にお柩に花を手向けながら、

「お~い、○○。俺達を置いて先に逝きやがって・・・バカヤロウ! もうすぐ俺達も行くからなぁ。

キサマ、あの世で酒でも呑みながら待ってろよぉ~っ!」


と大声で最後のお別れをされる戦友のお姿を拝見すると、そこには奥様やお子様らご遺族でさえ入り込めない、強い絆を感じざるを得ませんでした。

私自身体育会出身ですから、チームメイトとは同じ釜の飯を食った仲・・・ですが、やはり生死を共にした戦友はそれ以上の連帯感があるのでしょう。


しかし戦友だから全員に連帯感がある、とは限りません。

拙ブログの過去記事・『インパール作戦』で取り上げた〝ムチャグチ〟こと牟田口中将は遺言を残して自らの葬儀の場で自己弁護の書面を会葬者に配り、顰蹙を買いました。

 ※インパール作戦・牟田口中将に関する怒記事は、こちら。(↓)


更に酷いのは、上記過去記事にも名を挙げた花谷正陸軍中将。


       

自分のキャリアを鼻にかけて威張り散らし、部下に自決を強要したり陸軍士官学校の同期を部下が観ている前で顔の形が変わるほど殴りつけ、〝酷将〟と言われた人物です。

彼が病に倒れた時、知人が義捐金を募ったものの、誰一人として応じる部下はなく、また彼の葬儀の際にも誰一人参列する部下はいなかったとか。

逆に(戦友ではありませんが)元小学校の先生だった方の葬儀には、30年以上前に卒業した教え子が100人近くも参列し、祭壇の前で涙ながらに校歌を合唱し、口々に感謝の言葉を送られたことも。

葬儀の現場には、故人様の生き様が端的に表れるものなのです。

貴方の葬儀には、一体誰が参列して悲しんでくれると思いますか?

なぁんて言ってる私の葬儀には、誰も来なかったりして。うー


 


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恐怖感

これを一回も経験していない方は、あまりいないのではないでしょうか?

今日は、その


 人間ドックの日

なのだそうです。

今から65年前の今日・1954(昭和29)年7月12日に、国立東京第一病院(現・国立国際医療研究センター病院)で人間ドックが始められたことに因むとか。


※この人間ドックに関する過去記事は、こちら。(↓) 



でも実は私・・・この人間ドックというか健康診断って大嫌いなんです!


昔、凄く悲惨(?)な経験をしまして、それがトラウマになっているからなんですが・・・それは私が社会人2年目、23歳の時のことでした。


社員全員の定期健診ということで、(どうせどこも悪くないのに、時間の無駄だョ)と内心思いつつ、同じ部署の先輩方と一緒に健診を受けたのです。


ところが数日後、私の手元に 『至急再検査を要す』 という通知が! 


(またまたぁ~、何かの間違いだろっ。)


と、すぐに診療所に電話で問いあわせたところ、何でもレントゲンに〝影〟が写っているとのこと。


(健診日に風邪ひいてたワケでもないのに・・・も、もしかして?)


再検査は1週間後に行われると言われたのですが、正直その日から毎晩殆ど寝られませんでした。


(オレ、来年あたり死んじゃうのかなぁ。

まだ結婚もしていないのに・・・しかも、親より先に? 

遺書を書いた方がいいのかなぁ。)


毎晩頭の中でグルグルと同じことを考える日々が続き、仕事なんか全く身が入らず。


そして運命の再検査の日。


再度レントゲンを撮って、今度はその日の内に診察室に呼ばれました。


そこにいらしたのは70歳過ぎとおぼしき老先生。 

       


レントゲンを暫し見た後・・・一言。


「う~ん・・・。どこも悪いところは見当たらんなぁ。」


(ホッ!)・・・とはしたものの、すぐに先生に尋ねました。


「じゃあ、この前のレントゲンで影があったって、どうなんですか?」


先生は最初のレントゲン写真を取り出して見せてくれました。・・・と、確かに胸の下半分がウッスラとベルト状に白くなっているのです。 


「先生・・・こ、これは?」


先生は、しばし私の体とレントゲン写真を交互に見比べて、一言。


「キミィ、いい体しとるからなぁ。 


人一倍大胸筋が発達しとるから、筋肉の厚みで白く写ったんじゃろう。フォッ、フォッ、フォッ。」 


(おいおいお~いっ! じゃあ、ボディビルダーは全員再検査かいっ! 

オレのこの1週間は何だったんだァ~!)怒


・・・と喉まで出かかったのを寸前で堪えつつ、


「な、な~んだ、そうだったんですか。 じゃ、大丈夫ですね?」


「あぁっ、問題なしじゃよ。」


という、ありがたいお言葉で、〝運命の再検査〟は呆気なく終了したのでした。


まぁ、あのおじいちゃん先生の怪しげな〝胸板診断〟・・・それから幸いにも40年近く生き続けてきたわけですから、正しかったってことでしょう。


でもあの一週間の恐怖感は、以後私の頭から消えることはなかったのです。


ということで、私はサラリーマン時代には簡単な定期健診のみで済ませ、1回も人間ドックに入ることはありませんでした。


しかし脱サラして経営者の端くれとなってからはそうも言っていられなくなり、しっかりと受診するようにはしていますが。


診断結果が出るまでのドキドキが、一番身体に悪い・・・そう思うのは、私だけ?うー


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五目並べ <下>

足音高く、オフィスに入ってきたD社長。


私は知らんぷりして書類整理をしていると、部屋の奥で新聞を読んでいる部長のところに行って怒鳴り散らすのかと思っていたら、私の目の前・・・女子社員の座っているイスに腰を下ろすではありませんか。


下を向いたままチラッと見ると、彼はタバコを取り出してあさっての方角を見ながら一服してます。


(一体、何しに来たんだろ・・・灰皿でも投げてくるかナ?)


見て見ぬふりをしたまま書類整理を続ける私。


部長もD社長の来訪に気づいているはずなのに、読んでる新聞で顔を隠したまま。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」


気まずい沈黙が2,3分続いたでしょうか、おもむろにD社長が口を開きます。


「おいっ。」


聞こえないふりをする私。


「おいっ、なべちゃんョ。」


「あれっ? 口きかないって言ったの、社長じゃなかったですっけ?」


視線を書類に落としたままそっけなく答えると、


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」


また重い沈黙が2,3分。


そして、再びD社長が口を開きました。


「じゃあさ、喋らなくていいから・・・五目並べやろうョ。」


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-五目並べ


「・・・・・・・・。」 


「なぁ、頼むョ。」


「しょうがないなァ。 喋らないでいいんなら、付き合ってあげますョ。」


私の返事を聞くが早いか、D社長はスタスタと応接セットに移動。

テーブルの下から碁盤を出すと、満面の笑みで私を見つめるのです。


1ヶ月間誰も相手してくれなかったのが、余程辛かったんでしょうネ。あせあせ


私がソファーに座ると、勝手に先手の黒石を真ん中にチョコンと置くと、


「なぁ、ナベちゃん。 明日からもやろうょ・・・な?」


「だから、喋らないって約束でしょうが。」


「あっ、悪かった悪かった。 悪かったから、なっ、いいだろっ?」


「ったく、しょうがないなァ。 

 頼まれちゃあ、立場上イヤッて言えないし。」


応接セットのすぐ横にあるデスクに座っていた部長は、相変わらず顔の前で新聞を広げたまま・・・でも手にしていた新聞は小刻みに震えていました。


今までは、五分五分の対戦成績だった五目並べ・・・この日は頭を下げたD社長に敬意(?)を表して、殆ど負けてあげましたョ。


えっ、出入り禁止はどうなったのかって?


そんなの、ウヤムヤですがナ。


【 教 訓 】


  将を射んと欲すれば、まず趣味を押さえよ!扇子


 


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