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軍 人

かつて田中真紀子氏に〝軍人〟と揶揄されたのは梶山静六氏ですが、今日は彼のお話ではありません。

今日は将校として数々の戦争に従軍し、また 『戦争論』 の著者として名高い


 カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ
      Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz


の命日にあたります。


         


クラウセヴィッツは1780年にプロイセン王国のマクデブルク市で生まれました。

ポーランド系ドイツ人の父親は従軍経験のある徴税官で、彼の息子4人のうち3人は将校になりました。(クラウセヴィッツは末弟)


早くも12歳の時にフェルディナント親王歩兵連隊に入隊した彼は、2年後に第一次対仏同盟戦争に従軍。


少尉に任官された彼は、上司から非常に頭脳明晰で有能かつ熱心と高い評価を受け、1801年にベルリンの士官学校に推挙され、そこで後に 「父でもあり、心の友であった」 シャルンホルスト中佐の元で軍事学を修得。

また中佐が主宰する郡司学会に出席を許され、そこで数学・地理学・歴史学などの一般教養や軍事学の専門知識を深め、1803年に首席で卒業。


その後は軍事学会の会員だったアウグスト親王が指揮する近衛大隊の副官となりますが、1806年に仏軍と交戦した際は大敗を喫し、捕虜となる経験も。

釈放後ベルリンに移った彼は、恩師・シャルンホルスト推進する軍制改革に助力し、1810年に新設された陸軍大学校の教官に任命され、またプロイセン皇太子の軍事学教官をも務めました。


その後ロシア軍の参謀を務めるなどした彼は、1818年に少将に昇進し陸軍大学校々長に就任。


そして50歳になったことを契機として再び現場勤務を希望した彼は、東方監視軍司令官グナイゼナウの参謀長となり、ボーランドの暴動鎮圧に向かいますが・・・1831年11月16日に突然激痛と痙攣に襲われ、心臓麻痺により51歳でこの世を去ってしまいました。

軍人としては、戦場で死ねなかったことを無念に思ったことでしょう。

さて彼の名が後世に残されたのは、冒頭ご紹介した 『戦争論』 の著者として有名だからですが・・・実はこの著作、彼一人の力で世に出たわけではありません。

大きな力となったのは、1805年に結婚した愛妻の伯爵令嬢マリー・フォン・ブリュールでした。


『戦争論』 は、戦争の暴力性や形態を決める重要な要因として政治を位置づけ、軍事戦略を主題とする最も重要な論文のひとつとして、今日でも各国の士官学校や研究機関で扱われている名著。

クラウセヴィッィツはこれをナポレオン戦争終結後の1816~1830年にかけ、主として陸軍大学校々長時代に執筆しましたが、未完成のまま死去してしまいました。

そこで妻マリーが遺稿と断片的に残された2つの章を編集し、『戦争および戦争指導に関するカール・フォン・クラウセヴィッツ将軍の遺稿』 全10巻として出版。

この第1~3巻が、『戦争論』 として世に知られることになったのです。

夫の著作とはいえ、戦争に関する著作を整理・出版にこぎつけるには、聡明な頭脳と深い愛情がなければできなかったでしょうネ。

『戦争論』で最も有名なのは、この一節でしょうか。

〝一頭のライオンに率いられた百匹の羊の群れは、一匹の羊に率いられた百頭のライオンの群れに勝る〟

まさにリーダー論・組織論の根幹を表現しています。

その壮大な論文に興味がある方には、この書籍をお勧めします。

 『クラウゼヴィッツと戦争論』


           (清水他吉&石津朋之・編 彩流社・刊)


       

これは単なる 『戦争論』 の翻訳・解説ではなく、クラウゼヴィッツの生きた時代や彼の思想を現代に置き換えた場合の考察など、複数の論文を集め元防衛省に勤務していた石津氏らの編集によりまとめられたものです。

これを読むにつけ、人間の本質って昔も今も同じ・・・変わっているのは使う兵器だけって気がするのは、私だけでしょうか?うー

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軍 人

かつて田中真紀子氏に〝軍人〟と揶揄されたのは梶山静六氏ですが、今日は彼のお話ではありません。

今日は将校として数々の戦争に従軍し、また 『戦争論』 の著者として名高い


 カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ
      Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz


の命日にあたります。


         


クラウセヴィッツは1780年にプロイセン王国のマクデブルク市に生まれました。

ポーランド系ドイツ人の父親は従軍経験のある徴税官で、彼の息子4人のうち3人は将校になりました。(クラウセヴィッツは末弟)


早くも12歳の時にフェルディナント親王歩兵連隊に入隊した彼は、2年後に第一次対仏同盟戦争に従軍。


少尉に任官された彼は、上司から非常に頭脳明晰で有能かつ熱心と高い評価を受け、1801年にベルリンの士官学校に推挙され、そこで後に 「父でもあり、心の友であった」 シャルンホルスト中佐の元で軍事学を修得。

また中佐が主宰する郡司学会に出席を許され、そこで数学・地理学・歴史学などの一般教養や軍事学の専門知識を深め、1803年に首席で卒業。


その後は軍事学会の会員だったアウグスト親王が指揮する近衛大隊の副官となりますが、1806年に仏軍と交戦した際は大敗を喫し、捕虜となる経験も。

釈放後ベルリンに移った彼は、恩師・シャルンホルスト推進する軍制改革に助力し、1810年に新設された陸軍大学校の教官に任命され、またプロイセン皇太子の軍事学教官をも務めました。


その後ロシア軍の参謀を務めるなどした彼は、1818年に少将に昇進し陸軍大学校々長にら就任。


そして50歳になったことを契機として再び現場勤務を希望した彼は、東方監視軍司令官グナイゼナウの参謀長となり、ボーランドの暴動鎮圧に向かいますが・・・1831年11月16日に突然激痛と痙攣に襲われ、心臓麻痺により51歳でこの世を去ってしまいました。

軍人としては、戦場で死ねなかったことを無念に思ったことでしょう。

さて、彼の名が後世に残されたのは、冒頭ご紹介した 『戦争論』 の著者として有名だからですが・・・実はこの著作、彼一人の力で世に出たわけではありません。

大きな力となったのは、1805年に結婚した愛妻の伯爵令嬢マリー・フォン・ブリュールでした。


『戦争論』 は、戦争の暴力性や形態を決める重要な要因として政治を位置づけ、軍事戦略を主題とする最も重要な論文のひとつとして、今日でも各国の士官学校や研究機関で扱われている名著。

クラウセヴィッィツはこれをナポレオン戦争終結後の1816~1830年にかけ、主として陸軍大学校々長時代に執筆しましたが、未完成のまま死去してしまいました。

そこで妻マリーが遺稿と断片的に残された2つの章を編集し、『戦争および戦争指導に関するカール・フォン・クラウセヴィッツ将軍の遺稿』全10巻として出版。

この第1~3巻が、『戦争論』として世に知られることになったのです。

夫の著作とはいえ、戦争に関する著作を整理・出版にこぎつけるには、聡明な頭脳と深い愛情がなければできないかったでしょうネ。

『戦争論』で最も有名なのは、この一節でしょうか。

〝一頭のライオンに率いられた百匹の羊の群れは、一匹の羊に率いられた百頭のライオンの群れに勝る〟

まさにリーダー論・組織論の根幹を表現しています。

その壮大な論文に興味がある方には、この書籍をお勧めします。

 『クラウゼヴィッツと戦争論』

           (清水他吉&石津朋之・編 彩流社・刊)


       

これは単なる 『戦争論』 の翻訳・解説ではなく、クラウゼヴィッツの生きた時代や彼の思想を現代に置き換えた場合の考察など、複数の論文を集め元防衛省に勤務していた石津氏らの編集によりまとめられたものです。

これを読むにつけ、人間の本質って昔も今も同じ・・・変わっているのは使う兵器だけって気がするのは、私だけでしょうか?うー

 


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人 柄

私のような昭和世代はもちろん、若い方でもこの女性の名前を知らぬ方は殆どいないでしょう。

今日は、日本を代表する演歌・歌謡曲歌手だった


   島倉 千代子  さん

の命日・七回忌にあたります。


       


島倉(本名同じ)さんは、1938(昭和13)年に警察官の四女として東京・品川で生まれました。

1945年に両親の実家がある群馬県桐生市に疎開していた際に、井戸から水を運ぼうとして転倒し、左手首から肘にかけて大ケガを負い、その傷が残ったことで引きこもりがちに。


しかし歌が上手だった姉・敏子さんが小児麻痺で歌手になれなかったことで、千代子さんは彼女の代わりに歌手になろうと決心。

地元の若旦那楽団に入団してアコーディオンを担当したり、ボーカルにも起用されると、12歳の時にはテイチクレコードから童謡 『お山のお猿』 を発売。

そして15歳の時に品川の日本音楽高等学校に入学すると、翌年にはコロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、同社の専属歌手に。

翌1955年に発売されたデビュー曲 『この世の花』 は、いきなり200万枚という大ヒットを記録し、一躍人気歌手の仲間入り。

その年23曲、翌1956以降は34曲・37曲・33曲と、1ヶ月で3曲ペースという現代ではとても考えられない猛烈なさいくるペースで新曲をリリース。


19歳だった1957年にリリースした 『東京だョおっ母さん』 が150万枚の大ヒットを記録。

映画化もされて自身が主演すると、この年NHK紅白歌合戦に初出場。 
(紅白は以降30回連続、通算35回出場。)


翌1958年に初めて共演した1歳年上の美空ひばりさんは意気投合・・・それ以降、彼女からは実の妹かそれ以上に可愛がられました。


       

 ※ひばりさんの過去記事は、こちら。(↓) 


しかし好事魔多し・・・その年、島倉さんを殺害しようとした16歳の無職少年が逮捕される事件が起きると、1961年にはファンの投げた紙テープが目に当たってあわや失明というトラブル。

そしてその翌年には後援会事務所に爆発物が送り付けられて負傷者が出たことも。


1963年に父親が他界し、その悲しみの中彼女を支えてくれた元阪神タイガースの藤本克己さんと家族の反対を押し切って結婚するも、出来た子供3人を中絶した上、離婚。

更に追い打ちをかけるように、1975年には失明の危機を救ってくれた眼科医に頼まれて貸した実印をアカの他人にまで悪用され知らぬ間に保証人に仕立てられ、それに加えて手形の裏書による債務を加えると当時で20億円近い借金を背負うハメに。

その返済のために、島倉さんは全国のキャバレー回りや地方興行までこなし、約7年で完済したといいますから、凄いです。


そして1987年に、あの 『人生いろいろ』 をリリースして、130万枚の大ヒット。

当時の人気バラエティー番組・オレたちひょうきん族で山田邦子さんやコロッケさんが同曲の物真似をしたことで、若者の間でもブレークしました。


しかし、55歳だった1993年に初期の乳癌であることが判明。

会見を開いて公表しましたが、これが有名人による初めての癌の公表でした。

幸い手術は成功し、彼女は仕事に復帰。

ところが2007年にましてもスタッフの不正によって多額の借金を抱え事務所を解散する羽目に。

これに懲りて自ら経理を行うために簿記の勉強を始めたと言いますから、ご立派の一言。


しかしそんな彼女も病には勝てず・・・2010年に発見された肝臓癌が3度の手術を経ても好転せず、肝硬変に。

そして芸能生活60周年を直前に控えた2013(平成25)年11月8日、島倉さんは75歳で天に召されました。


     

2000曲以上をレコーディングしたという彼女の芸能生活は、人一倍の栄光に包まれた反面、何度も騙されたり裏切られるという波乱万丈なものとなりました。

しかしその苦難に襲われた時、騙した人の何倍もの音楽・芸能関係者が彼女を助けてくれたそうな。

それは、偏に彼女が誠実な人柄の持ち主だったからでしょう。

よく芸人に物真似をされると怒る芸能人や有名人がいるそうですが、島倉さんは逆に


「山田邦子さんとコロッケさんのおかげで、『人生いろいろ』が若い方にも親しまれるようになり、光栄です、」

と二人に感謝したという逸話がありますが、これこそが彼女の人間性を如実に物語っていると言えましょう。


ステージ上で一度も口パクをしなかった〝お千代さん〟が紅白で熱唱した 『人生いろいろ』 を聴きつつ、あらためてご冥福を祈りたいと思います。


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寵 臣

あまり日本史に詳しくない方でも、映画やTVドラマなどを通じて、この人物の名は聞き覚えがあるはず。


 柳沢 吉保


今日は、江戸・元禄時代に権勢を誇ったこの幕閣の命日・没後305周年にあたります。


       
                  
狩野常信・画


1658(万治元)年に上野国館林藩士・柳沢安忠の長男に生まれた吉保(保明)は、当時館林藩主だった綱吉に5歳の時初めて謁見した後、小姓として仕えます。


1680年、綱吉が将軍になると同時に彼も幕臣となって小納戸役を任ぜられると、その後は綱吉の信頼を一身に受けトントン拍子に出世。

1684年に老中・堀田正俊が暗殺されると、1688年には側用人に。

1694年1月に武蔵川越藩主、そして同年12月には老中格に、そして4年後には左近衛権少将に任じられます。


更に1701年、綱吉から一字を与えられて吉保と名乗り、その3年後には天領でもあった甲府藩15万石の藩主に任ぜられ、1706年には大老格にまで登り詰めます。


総理大臣秘書補佐(?)になってから僅か26年、48歳で副総理か官房長官の地位にまで出世したのは、偏に将軍・綱吉の寵愛があったればこそ・・・一体この2人はどういう関係だったんでしょうネ?


「吉保は綱吉の隠し子」 説もあるそうですが、その真偽の程は不明。


あるいは・・・あっ、その先は皆様のご想像にお任せ致します。


そんな吉保も1709年に綱吉が亡くなると、その僅か3ヶ月余り後には自ら役職を退き、長男に家督を譲って隠居してしまいます。


新将軍・家宣が新井白石を重用していることから権力の移行を察知して即座に身を引き、一族の安泰を図ったところは見事といえましょう。


1714(正徳4)年11月2日に57歳でこの世を去った柳沢吉保は、松の廊下で刃傷沙汰を起こした浅野長矩を十分な吟味もせずに即日切腹させるなど、江戸庶民の間には〝ヒール役〟のイメージが定着していました。


しかしかつて藩主を務めた川越藩では、着任半年で三富新田 (さんとめしんでん) の開発に着手し、また甲府では甲府城修築や城下町整備などを行うなど、地元民には大変評価された為政者だったとか。

吉保の生涯を詳しく知りたい方には、こちらのご一読をお勧めします。


 『将軍側近 柳沢吉保』 (福留真紀・著 新潮新書・刊)


       


政治家はイメーシではなく、あくまで実績と行動で評価されなければ、ご本人も浮かばれないですょネ。

以前拙ブログでご紹介した、やはり側用人の田沼意次も、然り。


映画・ドラマや小説だけでその人物像を決めつけるのは、危険です。


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国 学

今日のタイトル・〝国学〟とは、『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』 など日本の古典を研究して古代の思想・文化を明らかにし、そこに生き方の拠り所を求めようとする、〝漢学〟に対して江戸時代に登場した新しい学問のこと。

代表的な学者として多くの方がご存じなのは、おそらく本居宣長でしょう。


 ※本居宣長に関する過去記事は、こちら。(↓)



今日は、この過去記事にも登場する本居宣長の師でもあり、宣長と荷田春満・平田篤胤と共に〝国学の四大人(しうし)〟に名を連ねる、


賀茂 真淵


の命日・没後250周年にあたります。


       


真淵は1697(元禄10)年に、現在の静岡県浜松市で賀茂神社の神職を務める父・岡部政信の三男として生まれました。


※賀茂真淵の賀茂は神社の名から、真淵は出身地名の敷智(ふち)郡から取ったとされます。


10歳の頃から前述の〝四大人〟の一人・荷田春満の弟子で、春満の姪を妻として浜松で私塾を開いていた杉田国頭(くにあきら)の許で手習いを受けます。

26歳の時に結婚するも翌年に妻を亡くした彼は、浜松宿脇本陣・梅谷家の養子となるも、30歳を過ぎた頃に家を捨てて京都に出て、荷田春満に入門し、詠歌・学問に励みました。

その春満が1736年に死去すると、真淵はその翌年に江戸に出て、多くの門人に国学を教えるように。


真淵は『万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を追求すると同時に、和歌の革新に貢献。

人為的な主従関係を重視する朱子学の道徳を否定し、日本古来の作為なき自然の心情こそ人間本来のあるべき姿とする〝古道説〟を確立。


主な著書として、『歌意考』・『万葉考』・『国意考』・『祝詞考』・『にひまなび』・『文意考』・『五意考』・『冠辞考』・『神楽考』 等々、多数を残しています。


       

                   『万葉考』 原本


そして50歳の時に第8代将軍・徳川吉宗の次男・田安宗武の和学御用となった彼は、また多くの優秀な弟子を育成したことでも知られています。

特に〝県門の四天王〟といわれる加藤千陰・村田春海・楫取魚彦・河津美樹、更に特筆すべきは〝県門の三才女〟といわれる油谷倭文子・土岐筑波子・鵜殿余野子ら女性の弟子を育てたことは有名。

またあの平賀源内も弟子のひとりに名を連ねています。

そして1763年、伊勢神宮への旅の途中伊勢松坂の旅籠に宿泊していた真淵を本居宣長が訪れて生涯ただ一度の面談を果たし(松坂の一夜)、即時に宣長が弟子入りして以後文通で師弟関係を続けたことは、宣長の記事でご紹介した通り。

歌人としても約1,000首を残した真淵が71歳でこの世を去ったのは、1769(明和3)年10月30日のことでした。

残念ながら彼の著書は現在ほとんど市場に出回っていませんが、契沖や師・春満が創始した国学を確立し、それを発展させた宣長を育てた彼の名は日本人ならば記憶に留めるべきだと思います。



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至 誠

今日は、幕末に活躍した有名な青年思想家・教育家であり、現在でも、政財界人をはじめとして多くの方に尊敬・私淑されている、

 吉田 松陰


の命日・没後160周年にあたります。

       吉田松陰


1830(文久13)年に長州藩士・杉 百合之助の次男として生まれた彼は、4歳の時に山鹿流兵学師範である叔父・吉田大助の養子になります。


11歳の時に、藩主・毛利敬親の前で山鹿流 『武教全書』 戦法篇を朗々と講じ、藩主をはじめ居並ぶ重臣たちの目を見張らせ、「松本村に天才あり」 とその名を萩城下に知らしめました。


21歳で藩校・明倫館の独立師範(兵学教授)に就任した松蔭は、その後西洋兵学を修めるため九州に遊学したり、江戸に出て佐久間象山に師事。


「西洋列強各国から日本を守るためには、彼等を知る必要がある。」


そう信じた松蔭は1854年1月に金子重之助と共に密航を企て、再来航したペリーの黒船に乗船を願い出るも拒否され、2人は自首・逮捕されます。


老中・阿部正弘の反対で辛うじて死罪を免れた松蔭は萩に送還。


野山獄に投獄された彼は、獄中で囚人達を相手に 『孟子』 の講義を始め、彼らを啓蒙します。


1年2ヶ月後に自宅謹慎となった松蔭は、自宅に設けられた幽囚室で親族・近隣の者を相手に再び『孟子』講義を開始。

その内容の濃さが評判となり、やがて松陰の叔父・玉木文之進が開いた 『松下村塾』 を引き継ぐ形で主となります。


松陰が松下村塾で塾生たちの指導に当たった期間は約2年余りに過ぎませんでしたが、その間彼から教育を受けた門下生には、久坂玄瑞・高杉晋作山県有朋そして昨日ブログで取り上げた伊藤博文など、明治維新に関わった多くの重要人物が。


塾生には身分に関係なくどんな者でも受け入れ、


「学者になってはいけない。 実行しなければならない」


と、学んだことを活かし実行に移す大切さを強く説き、自らが脱藩や密航を試み実行を重ねる松陰の言葉に、若者達の心は強く揺さぶられ惹きつけられていったのです。

そして松蔭は、老中・間部詮勝が朝廷を厳しく取り締まろうとしていることに激怒。 


間部要撃計画を実行しようと塾生に声をかけ要撃隊を組織しようと試みますが、この計画は弟子たちの反対で頓挫。


再び藩に自首しますが、この過激な行動によって藩から危険分子と見做され、松下村塾は閉鎖。 


松陰は再度投獄され、遂に幕府から江戸送還命令が下されます。


幕閣の多くは自首した松蔭に同情的で遠島が妥当と考えたようですが、安政の大獄を指揮する大老・井伊直弼は彼を厳しく処断。


 ※井伊直弼に関する過去記事は、こちら。(↓)



1859(安政6)年10月27日に松蔭は斬首に処せられ、30年という短い生涯に幕を閉じたのです。


人を信じ、己の信念に真っ直ぐに生きた松蔭・・・もし正直に自首などしなければ、もっと生き延びて更に多くの人々に影響を与えたかもしれません。


が、そういう生き方こそが後世に名を残し人々を感動せしめたともいえましょう。


吾れ今 国の為に死す   

死して君臣に背かず    

悠々たり 天地の事

鑑照 明神に在り

  私は今、国の為に死ぬ。
  死ぬけれども、君や親には一切背いていない。
  果てしなく、永久に天地は存在する。
  神様が私の心をきちんと見通してくださっている。


処刑直前に詠んだといわれるこの詩に、彼の想いが凝縮されているのではないでしょうか。


この気概を、現在の政治家に持ってもらいたい・・・いや、私たち国民が抱かなければなりますまい。


そんな松陰の教えを知りたい方には、こちらの書籍をお勧めします。

  『吉田松陰 一日一言』 (川口雅昭・著 致知出版社・刊)


       

因みに上記の〝辞世の詩〟は、今日・10月27日の項に掲載されています。


今宵は同書を再読しつつ、〝志士の師〟の冥福を祈りたいと存じます。笑3

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初 代

私のような昭和世代にとって、この方は〝ミスター千円札〟・・・今日は、その日本憲政史上において初代内閣総理大臣に就任した

 伊藤 博文 

の命日・没後110周年にあたります。


        


伊藤公は1841(天保12)年に現在の山口県光市で百姓・林十蔵の長男として生まれました。

9歳の時に萩に移った彼は、その後父親が養子入りした水井武兵衛が足軽・伊藤弥右衛門の養子になったことから、伊藤姓に。


そして17歳の時に松下村塾に入門。

吉田松陰は彼を、「
才劣り、学幼し。 しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」、「周旋(政治)の才あり」と評したそうですから、やはり人を見る目は確かだったようです。

その後同塾で出会った木戸孝允・高杉晋作・久坂玄端らと交友を重ね、1862年には品川御殿山のイギリス公使館を焼き打ちするなど、尊王攘夷の志士として活動。


        

                志士時代の博文公


しかし翌年、自ら志願して井上聞多らと共に〝長州五傑〟の一人としてイギリスに留学すると、西洋列強との国力の違いを目の当たりにして開国・富国強兵論に転向。

1864年、長州藩に対し外国船が攻撃を仕掛けるという情報を知るや、井上聞多と共に急遽帰国して戦争回避のため奔走するも、下関戦争は勃発。

下関の砲台は外国船からの砲撃で完全に破壊され、長州藩は敢え無く敗北を喫すると、彼は戦後の和平交渉に通訳として参加。

その後第一次長州征伐で藩が恭順の姿勢を見せると、『力士隊』 を率いて挙兵。

高杉晋作の 『奇兵隊』 らと共に勢力を伸ばし、藩論を倒幕へと変えることに成功。


そして明治維新後は英語が堪能なことを見込まれ、木戸孝允を後ろ盾に長州閥の有力者として参与・外国事務局判事・大蔵兼民部少輔・初代兵庫県知事・初代工部卿・宮内卿などを歴任。

またその間1871年からは岩倉使節団の副使として渡米、1873年にはベルリンに渡りビスマルクと会見し強い影響を受けたとされます。

そして1877年に木戸と西郷を、また翌年に大久保が暗殺されて〝明治の三傑〟を失い、更に1881年10月に起きた『明治14年の政変』によって、大隈重信が下野。

 ※この政変に関する過去記事は、こちら。(↓)




これにより明治政府の中枢を担うようになった博文公は、同政変時に10年後の憲法制定を約すと、明治天皇の命により憲法調査のため渡欧。

この視察で、博文公はドイツ(プロシア)式の内閣府・憲法導入を決定します。

帰国後1885年12月に新たな内閣制度の下、初代総理大臣に就任。


この時も、対抗馬の三条実美を制した決め手は、英語力だったとか。

まさに、芸は身を助ける・・・ですネ。

448ヶ月という、日本憲政史上最年少で総理大臣の座に就いた彼は、大日本帝国憲法の起草に全力を尽くし、1889年2月に同憲法発布に漕ぎ着ける(※この時は黒田内閣)と、その後も
第5・7・10代と4度も内閣総理大臣を務め、その他にも初代枢密院議長・初代貴族院議長などを歴任し、常に明治政府の中心に身を置きました。

そして日清戦争終結後の日清講和条約の起草・調印に関わり、清国から朝鮮を独立させたのですが・・・結果的に、それが彼の寿命を縮めることに。

1905年11月に韓国総督府が設置され、初代総督として赴任した博文公は、同
国の国力・自治力が高まることを期待し、文盲率が94%だった同国の教育にも力を注ぎました。

しかし1909(明治42)年10月26日、69歳の博文公がロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフとの会談のため訪れたハルビン駅で、韓国の民族運動家・安重根により銃撃され、その30分後に絶命しました。

   
        


※但しこの暗殺にはケネディ大統領と同様に、単独犯ではなく(韓国併合に消極的だった彼を併合強硬派が消したという)陰謀説あり。

11月4日に日比谷公園で国葬が営まれたた博文公は、とかく西郷どんなど維新前後に華やかな活躍をした人々に比べ、あまり目立たず調整型だったためかドラマ・小説などでは脇役的な扱いが多い気が。

しかし内閣総理大臣をはじめ前例のない初代のポストを歴任し、近代日本の道筋をつけた功績は、もっと評価されるべきだと思います。

明代の儒学者・呂新吾が自著『呻吟語』で〝深沈厚重(しんちんこうじゅう)是第一等素質〟と説いていますが、言葉少なに長期的視野に立って考えた博文公は、まさにその典型例。

そんな博文公が残した言葉をまとめた、唯一の自伝といえるのが、こちらの書籍。


 『伊藤博文 直話』 (新人物文庫・刊)


       

長州藩を中心とした志士たちとの関りやその人物評、また憲法や政党に関する考え方が率直に語られており、行間から博文公の人となりも読み取れます。


久しぶりに読み返しつつ、一切賄賂を受け取らなかったという清廉な政治家の冥福を祈りたいと思います。


 


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悲 運

今日は、20世紀末に活躍したアメリカのプロ・ゴルファー、


ペイン・スチュアート
  Payne Stewart


が非業の死を遂げた命日・・・早いもので、没後20周年にあたります。


        


スチュアートは、1957年にミズーリ州スプリングフィールドに生まれました。

かつてミズーリ州のアマチュア選手権で優勝した父親から手ほどきを受け、4歳からゴルフを始めた彼は、1979年にプロ入り。

しかし決して順風満帆ではなく、当初はPGAツアーのQT(予選会)を通過できず、2年間アジア・ツアーを回りました。

その間結婚した彼は心機一転、1982年からPGAツアーに参戦すると、早くもその年に 『クワッド・シティ・クラシック』 で初優勝。

1989年には全米プロゴルフ選手権でメジャー初制覇を果たすと、2年後には全米オープンも獲って、メジャー2冠に輝きました。

そして1998年の全米オープンでリー・ジャンセンに悔しい逆転負けを喫したスチュワートは、翌年2月のAT&Tプロアマに勝つと、その勢いに乗って6月には捲土重来を期して全米オープンへ。

名門コースのパインハースト・リゾートで行われた同大会で、スチュワートは激闘の末に見事フィル・ミケルソンを下し、メジャー3勝目を飾りました。


        


最終ホールでパーパットを沈め優勝を決めた瞬間のガッツポーズは、後に銅像が作られた程有名です。

    

我が家には、この激戦の模様を録画したビデオテープが・・・。

     


更なる飛躍を期待されていた彼に突然の悲劇が訪れたのは、この優勝から僅か4ヶ月後のことでした。

10月25日、賞金ランキング上位30人にのみ出場資格が与えられるPGAツアー選手権に参戦するためコースのあるダラスに向かう途上に悲劇が起きました。

搭乗していたプライベート・ジェット機が、突然交信を絶ってしまったのです。


    
               
墜落したリアジェット35


おそらく急減圧によりスチュワートを含めた乗員・スタッフ6名は機内で死亡したと考えられますが、飛行機は自動操縦でそのまま飛び続け、住宅地に墜落の危険があった場合を想定し、撃墜するための戦闘機が追尾。


この模様は全米に生中継され国民は固唾をのんで見守ったそうですが、結局燃料切れにより予定コースから大幅に逸れたサウスダコタ州アバディーンの沼地近くに墜落。


    

            緑・予定コース 赤・実際の飛行経路


全員の死亡が確認され、アメリカとゴルフ界に衝撃と悲しみが走りました。

ツアー選手権第2日に行われた追悼セレモニーで、霧に包まれたコース内に響く悲しげなバグパイプの音色、中継を観ていた私は今でもはっきりと憶えています。


この時スチュワートは、現在のタイガー・ウッズとほぼ同じ42歳・・・まだまだ活躍ができる年齢だっただけに、残念でした。

タイガー・ウッズはこの年の全米オープンでミケルソンに次いで3位に入り、翌年の同大会では優勝と、2001年まで第1期黄金時代を迎えましたが・・・もしスチュワートが生きていれば、そう簡単には勝てなかったかもしれません。

その強さと同時に、二枚目でスタイル抜群。


NFLと契約を交わして各チームのチームカラーを採り入れた派手なウェアを着こなし、独特のニッカーボッカー&ハンチング・スタイルが似合うダンディーなプレーヤーであり、また時々星条旗やその3色をウェアに使う愛国者でもありました。

あの派手なニッカボッカ・スタイルでシニア・ツアーを戦っている彼の姿を想像しつつ、あらためて冥福を祈りたいと思います。
笑3


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無伴奏

クラシック音楽ファンなら、この方の名を知らなければ〝モグリ〟と言われても仕方ないかも。

パブロ・カザルス

 Pablo Casals


今日・10月22日は、チェロの近代的奏法を確立したと言われる、この20世紀最高のチェリストの命日にあたります。


        


カザルスは、1876年にスペイン・カタロニア地方で生まれました。


4歳でピアノを始め、6歳の時に作曲もしたという彼がチェロを手にしたのは、11歳の時。

1888年から5年間、母親の勧めでバルセロナ市立音楽院でチェロ・ピアノ・音楽理論・作曲などを学びましたが、入学から半年後から町はずれのカフェ・トストで働き始めました。

その店でのカザルス少年のチェロ演奏が評判となり、遠くからも客が聴きに来たとか。


そして20歳の時からバルセロナの音楽学校で生徒を教える傍ら、パリやニューヨークなど演奏旅行で世界を回るように。

1905年にはピアノのアルフレッド・コルトーとヴァイオリンのジャック・ティボーと共にカザルス三重奏団を結成。

1908年からは指揮活動も開始しました。


1939年にスペイン内戦が勃発したことからフランスに亡命。

第二次世界大戦後は各国がフランコ政権を支持したことに抗議し演奏活動を停止したことも。


そして1955年には母親と妻・マルタの故郷・プエルトリコに移住し、1961年には弟子・平井丈一朗のために来日もしています。


「私はまず第一に人間であって、芸術家であることは第二だ。

私の人間としての責務は同胞の安寧にある。


これからも私は、音楽という神が私に与え給うた手段によってこの責務を精一杯果たして行きたい。

なぜなら音楽は、言語や政治や国境を超越したものだからだ。


私の世界平和への貢献などささやかなものであるかもしれない。

だがその神聖な思想のために、私のできる限りを捧げるつもりだ。」


こんな言葉を口にする程積極的に平和運動を行ったことでも知られた彼は、1971年にニューヨーク国連本部で、


「私の故郷カタロニアの鳥は、“Peace, Peace” と鳴くんです。」


と語って〝鳥の歌〟を演奏し、国連平和賞を授与されています。


※その時の演奏が、こちら。(↓)



この歴史的演奏から2年後の1973年10月22日・・・カザルスは心臓発作により96歳で大往生を遂げました。


名指揮者・フルトヴェングラーをして


「カザルスの音楽を聴いたことのない人は、弦楽器をどうやって鳴らすかを知らない人である」


と言わしめた彼については、従来の窮屈な奏法から右手を脇から離して自由なボウイング(弓使い)を行う画期的な近代奏法を確立した功績も見逃せません。

そしてもうひとつ彼を語るうえで外せない功績は、バッハの無伴奏チェロ組曲の発掘と名演を残したこと。


       


彼がこの組曲と出会ったのは、14歳の時。

バルセロナの古い楽器店でこの楽譜を偶然見つけ、以後10年以上に渡る研究の末1904年に初の公開演奏をしてからは、彼の代表的なレパートリーになりました。


 ※その名演を、こちらでお聴きいただけます。(↓)



今宵は、超一流の弦楽器奏者がこぞって使う名器・ストラディバリウスを 「自分には合わない」 と決して手にすることなく、1733年製のゴフリラーを愛用し続けたカザルスの奏でる重厚な音色を楽しみつつ、冥福を祈りたいと思います。笑3


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俊 足

今日は、昭和から平成時代にかけてアニメなどの声優として活躍した

きもつき かねた

肝付 兼太 さん


の命日・没後3周年にあたります。


        


肝付(本名:兼正)さんは、かつて島津氏と熾烈な勢力争いをした戦国大名・肝付氏の末裔として、1935年に鹿児島市で生まれました。

3歳の時に引っ越して東京で育った彼は、中学生時代にNHKのラジオ番組『話の泉』の公開録音を見学した際、「この場所で仕事が出来たら・・・」と思ったのがきっかけで、エノケン(榎本健一)に憧れて映画俳優を目指します。

しかし祖母から「俳優をやれる容姿じゃない」と言われ、ラジオドラマなど声だけで勝負する声優を目指すことに。

今から考えれば、おばあちゃんは先見の明があったのかも?

帝京高校時代に自ら演劇部を創部し芝居の道に進むも、父親の死去により大学進学を諦めざるを得なかった彼は、高島屋に勤務する傍ら、劇団七曜会に入団。

同会がNHKの仕事を受注していたことから、彼もNHKのラジオドラマに出演するようになると、プロの役者を目指すため高島屋を退社。

しかしすぐに役者で食える訳もなく、旅行会社の添乗員や靴磨きなど、様々なアルバイトで凌いだとか。


1956年公開の 『こぶしの鼻の咲くころ』 でデビューしたものの、映画俳優としてはあと1本の作品に出演したのみ。

ラジオドラマや洋画の吹き替えで出演していた彼を救ったのは、国産アニメの登場でした。


そして『エイトマン』などの作品に端役で起用されるようになった彼の運命を好転させてくれたのは、あの藤子不二雄さん。


「スタジオの外だと面白いのに、中ではつまらない」

とマネージャーに言われた彼か、開き直ってアドリブを入れまくって収録したところを、たまたま見学に来ていた藤子さんが手を叩いて大喜び。

すっかり気に入られた肝付さんは、それ以降ご指名で役をもらえるように。

『ジャングル黒べえ』 で初主役を務めましたが、何と言っても当たり役は、1979年の放送開始以来26年間にわたって担当した、『ドラエもん』(テレビ朝日版)の骨川スネ夫でしょう。


       


また 『おそ松くん』 のイヤミや 『銀河鉄道999』 の車掌、『ドカベン』 の殿馬一人等々多数の役をこなし、また自ら劇団を立ち上げプロデュースする一方、東京アニメーター学院・声優科の講師を務め若手を指導するなど多方面で活躍した肝付さんが肺炎により80歳でこの世を去ったのは、2016(平成28)年10月20日のことでした。

その肝付さん、容姿は俳優向きでなかった(失礼!)とは言え、運動神経は抜群で、ゴルフを始めスポーツ全般何でもこなしたそうな。

特筆すべきは、その健脚ぶり。

50歳の時に 『ビートたけしのスポーツ大賞』 の100m走に出場し、11秒2という驚異的なタイムを叩き出して優勝!

少しトレーニングすれば、ワールドマスターズゲームズに出場できたかもしれませんネ。

そんな肝付さんの懐かしい声を聴きつつ、韋駄天声優のご冥福をお祈り致します。



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