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3代目

巷間よく〝3代目が身上を潰す〟と言われます。

確かに苦労知らずのボンボンが先代・先々代が築き上げてきた会社をメチャクチャにする例は数多あります・・・が、逆にその3代目が卒なくこなせば以後会社や組織は安定するのかもしれません。

その好例といえるのが、徳川幕府ではないでしょうか。 


今日は、その徳川幕府の第3代将軍


 徳川 家光


の命日・没後370周年にあたります。


       

家光は1604(慶長9)年に2代将軍・秀忠と彼の正室である浅井長政の娘・江との間に嫡男(二男)として誕生。 

長男・長丸が夭折したため、乳母を春日局(↓)が務めるなど早くから未来の将軍様として育てられました。




12歳の頃には酒井忠利・内藤清次・青山忠俊の3名が守役となり、更には60名以上の小姓がついたといいますから、既に扱いはミニ(?)将軍。

家康逝去のため延期されていた元服を16歳で済ませて名を家光に改めると、3年後には父・秀忠と共に上洛し、将軍宣下を受け正二位内大臣に。

江戸に戻ると秀忠は隠居し、家光は第3代征夷大将軍となり、鷹司孝子を正室として迎えました。


とはいえ当面は秀忠が大御所として政治の実権を握っており、家光に権限は殆どありませんでしたが、1632年に秀忠が死去した後は彼の天下に。

老中・若年寄・奉行・大目付の制度を定め、また武家諸法度を改定(1635年)し参勤交代制度を確立。


※参勤交代に関する過去記事は、こちら(↓)



またキリシタン弾圧を強化し、1641年までにいわゆる鎖国体制を敷くなど、その後200年余り続く江戸幕府の基礎を築きました。

しかし生来病弱だったといわれる家光は、1650(慶安3)年から諸儀礼を長男・家綱(後の4代将軍)に任せるようになり、翌年4月19日に献上品の茶碗を観ている最中、突然痙攣して昏倒。

翌20日に48歳で逝去しました。

生まれながらのエリートが帝王学を授けられ、辣腕をふるった・・・ようにも見えますが、実は家康や秀忠と違い、自らの独断で物事を決定するタイプではなかったとか。

むしろ土居利勝・酒井忠勝・松平信綱・阿部忠昭ら有能な老中や、柳生宗矩・沢庵禅師など有能かつ多才な人財に恵まれ、彼らの力をうまく利用した・・・アンドリュー・カーネギーの墓碑ではないですが、〝自分より賢き者を近づける術を知りたる者〟だったと言えましょうか。

一説には奇行や愚行を繰り返していたとも言われていますが、善意に解釈すれば阿呆を装って周囲の力を集約させていたのかもしれません。

TVドラマ 『暴れん坊将軍』 の如く、折に触れて江戸市内に出ては庶民の生活を肌で感じていたそうですから、単なる変わり者ではなかったはず。


また祖父・家康を東照宮に祀るなど、創業者を敬う姿勢も顕著。


先代と衝突し長年仕えてきた年上の忠臣を切り捨て、独断に走って会社を傾けるどこぞの3代目とは、その辺が違っていたのでしょう。


ただプライベートでは正室の孝子とは仲が悪く、殆ど別居状態だったそうですが・・・しかしそこは将軍様、何人もの側室を愛でていたそうですから、羨ましい限り。😅


まァそれはともかく、家光の生き様が現代人にも参考になることは確かなようです。


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喧 嘩

今日は、イギリスの元首相であり、かつ小説家としても活躍した


 ベンジャミン・ディズレーリ(1804-1881)

     Benjamin Disraeli


の命日・没後140周年にあたります。

ユダヤ人でありながら保守党内で力をつけ、二期にわたって首相を務めた傑人・・・ですが、日本ではそれほど知られてはいません。

正直、私自身も彼の経歴はよく知らないのですが・・・幼少期のエピソードを知ってから、彼の名を忘れられなくなりました。


       


小学生の頃、ユダヤ人だったが故に周囲からイジメられていた彼は、「ボクシングを習わせてください」 と作家だった父親に直訴。

それを聞いた父は、理由を聞かず即座にOK。

実は、その父親自身も同じ理由で子供の頃散々イジメられた経験があったのです。

しかし当時のボクシングは現在のようなグローブをつけない、ベアーナックル。


拳を固めた素手の殴り合い・・・要するに、喧嘩と同じ。

ディズレーリ少年は、ボクシングの名手に特訓を受けました。

その間、ガキ大将とその子分からのイジメを柳に風と受け流し、我慢の日々を送ります。

そして半年後、「もう大丈夫!」 という名手からのお墨付きをもらった彼は、たった一人で3,4人の悪童に立ち向かい、叩きのめしたというのです。

この逸話を自伝的小説の中で何度も書いているそうですから、おそらく彼にとって人生の背骨となった体験だったのでしょう。

さて、転校して悪ガキ共にイジメられて登校したくないと言い出した小学生の我が子2人に、この話を知って喧嘩の家庭教師をつけた日本人の母親がいました。

彼女は訳あって離婚し女手一つで息子2人を育てていたのですが、いよいよイジメッ子たちに我が子が決戦を挑む日を迎えた時、

「思う存分やっておいで。 相手の腕をへし折ろうが、鼻を潰そうが大丈夫、お母さんが責任を取ります。

さぁ、行きなさい。 必ず勝てるから!」

と息子たちを激励。

2人は悪ガキ共をやっつけ、二度とイジメられることはなかったとか。

このお母さんは、決してヤ〇ザの姐さんではありません。

参議院議員も6年務めた、林健太郎・第20代東大総長の前夫人。

林総長自身も文学部長時代、東大紛争の際学生に170時間も監禁されながら
屈しなかったという逸話の持ち主。

2人の息子さんはその後東大に進み、父親から博士号の学位を受け取ったそうな・・・。 

       
 

以前から問題視されていながら、一向にイジメは無くなりません。


マスコミは問題が起こるたび盛んに学校や教育委員会の対応を批判していますが、私はいくら行政や学校側にばかり対策を求めても、イジメは撲滅できないと思っています。

人間は何だかんだ言っても所詮動物であり、人間社会は動物界と同じく弱肉強食。

獣は睨み合っただけで相手の強さが分かるといいますが、親が子供に叩き込むべきは動物としての強さだと思うのです。

(もちろん、それに加えて躾や道徳を教える必要もありますが。)

喧嘩をしたこともなく、受験勉強だけは人一倍できた似非エリートが政治家や官僚になる日本。

そんな彼らが強かな諸外国と対等以上に渡り合うのは、土台無理かもしれません。

ディズレーリが天国から日本の政治家たちを見たら、おそらく “Unbelievable” と言って肩を竦めるでしょうネ。うー


                      参考文献:『男たちの履歴書』(早坂茂三・著)


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軍 神

今日・4月18日は、大東亜戦争当時の日本国民から絶大なる信頼と人気を得た、そして現在も軍人として最もその名を知られているであろう、


 山本 五十六 元帥海軍大将


の命日にあたります。


       


山本大将は1884(明治17)年、新潟県長岡市で高野貞吉の六男として生まれました。 

その名の由来が、当時父親が56歳だったから・・・というのは有名ですネ。


1901年に海軍兵学校に入学、3年後に卒業した直後日露戦争が勃発。 

日本海海戦に従軍した際に、左手人差し指と中指を失う重傷を負います。


1915年に旧長岡藩家老の家柄である山本家の家督を相続し、以後山本五十六と名乗ることに。


1918年には、元会津藩士・三橋康守の三女・禮子さんと結婚。

       

その翌年に
駐米武官として渡米しハーバード大学に留学すると、駐米武官の経験を通じてアメリカの国力を正確に把握。 


また航空機が将来戦闘での主役となることを予想し、戦艦大和の建造や対米開戦について反対論者であったことも知られています。

1936年海軍次官に就任すると、当時の海軍大臣米内光政、軍務局長井上成美らとともに日独伊三国軍事同盟に断固反対の姿勢を貫きました。

そして1939年、聯合艦隊司令長官に就任。 

その後.大東亜戦争の口火を切った真珠湾攻撃を成功させたことにより、国民からは英雄として称えられました。


しかしその後は、自ら戦前に予言した如く状況は徐々に悪化。 

1942年のミッドウェー海戦において聯合艦隊は敗北を喫し、一気に戦局はアメリカ優位に。


そして今から78年前の今日・1943(昭和18)年4月18日・・・前線視察のため搭乗した飛行機は、日本軍の暗号電文を解読して待ち伏せていたアメリカ軍機にブーゲンビル島上空で撃墜され、歴代聯合艦隊司令長官として唯一となる戦死を遂げたのです。

    

             ブーゲンビル島の位置(右下)


山本長官の戦死は、その影響の大きさを憂慮した大本営により1ヶ月以上もの間国民には秘匿され、6月5日に日比谷公園で国葬が執り行われました。


〝軍神〟 と崇められた山本長官でしたが、その力量を疑問視する意見も一部にあるようです。


しかし敵国・アメリカ太平洋艦隊のニミッツ司令長官が、山本長官の前線視察情報を暗号解読により知った時、 

「ヤマモトより優れた司令長官が登場する恐れはない」


と待ち伏せ作戦を決行したことをみれば、その能力は高く評価されて然るべきでしょう。


 ※ニミッツ司令長官に関する過去記事は、こちら。(↓)



博打も非常に強かったという山本元帥は、生粋の職業軍人だったのでしょうネ。


あらためて、山本元帥のご冥福をお祈り申し上げます。

山本元帥に関する著作としては阿川弘之氏の小説が有名ですが、私がオススメするのは、この一冊。


 『山本五十六の生涯』 (幻冬舎文庫・刊)


    

ノンフィクション作家として定評のある工藤美代子さんが、山本元帥を直接知るご長男ら家族・知人の証言を基に執筆したもので、これまでに知られていなかった元帥の一面を知ることができます。


ところで、山本元帥の言葉は名言録として数多く残されており、現在でも多くの方が座右の銘とされていると思います。


「やってみせ、言って聞かせてさせてみて、褒めてやらねば人は動かじ」・・・これは翌知られていますょネ。


しかし個人的には、次の言葉が最も胸に沁みるのです。


 苦しいこともあるだろう 

  言いたいこともあるだろう

   不満な事もあるだろう 

    腹の立つこともあるだろう

     泣きたいこともあるだろう

 これらをじっとこらえていくのが男の修行である。


・・・嗚呼、まだまだ修行が足りない私。うー


この言葉を噛み締めつつ、軍神のご冥福をお祈り致します。


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原 作

今日は、コミック好きの私が大変お世話になった漫画原作者、


小池 一夫  さん


の命日・三回忌にあたります。

       

小池(本名:俵谷 星舟)さんは、二・二六事件が起きた1936(昭和11)年に現在の秋田県大仙市に生まれました。

身長183cmと戦前世代としては高身長だった小池さんは、子供の頃から大柄でガキ大将。

近所のお金持ちの家に入り浸って、蔵の中に遭った講談本や小説を読み漁っては学校で同級生に語って聞かせていたとか。

中学時代からずっと剣道部に所属していたことから、中央大学在籍時
は 『桃太郎侍』 で知られる時代小説家・山手樹一郎さんに師事し小説家を目指したものの、断念。

大学卒業後弁護士を目指しましたが、司法試験に3度失敗。

その後は雀荘の店員・経営や外国航路の船員
など、さまざまな職を転々としました、

そして彼の運命を決定づけたのが、1968年春のこと。

たまたま目にした 『少年マガジン』 に、さいとうプロダクションが原作者募集をしているのを見て応募。

締切を大幅に過ぎていたにも拘らず、採用されたのです。

以後、同プロで『無用之介』や『ゴルゴ13』などの原作に携わり、1970年に独立。

同年7月に 『ノスパイプ作戦』 (ヤングコミック) で原作者デビュー。

1972年には叶精作小山ゆうらの漫画家と共にスタジオ・シップ(現・小池書院)を起こし、多数の漫画作品を発表。

遅咲きデビューからわずか数年で、劇画界に一勢力を築く存在となりました。

その当時の代表作と言えば、何と言っても 『子連れ狼』(小島剛夕・画)でしょう。

       


ただ私自身は劇画より先にTVドラマ(1973~76年)でこの作品を知ったのですが、萬屋錦之助さん演じる拝一刀のカッコ良さにシビレたものです。

※同作は1987年にアメリカでも出版され、同国のコミック界にも影響を与えたといわれ、2002年公開の映画 『ロード・トゥ・パーディション』 は、同作をモチーフに制作されました。

また映画監督のクウェンティン・タランティーノやジョン・ウーなども、小池作品のファンだとか。


その後も多くのヒット作品を世に出しましたが、個人的によく読んだのは池上遼一さんの作画による 『傷負い人』 と 『クライングフリーマン』。

そしてもうひとつ、小池さんにお世話になった分野がゴルフ。

実は小池さん自身ゴルフ場勤務経験があることから、ゴルフに対する造詣が深く、
ご本人も大のゴルフ好きで 『至美(しび)ゴルフ』 と銘打つテレビ番組を複数持ち自らも出演していましたし、1987年にはゴルフ雑誌 『アルバトロス・ビュー』 を創刊。

私も独立して葬儀屋を始めゴルフを中断するまで、毎号欠かさず読んでました。

そしてゴルフ・コミックとして大好きだったのが、同誌に途中から連載された 『キンゾーの上がってなンボ』 シリーズ。

       


叶精作さんの作画が艶っぽくて好きでしたねェ~。

また一方で漫画家育成にも力を入れ、1977年に 『小池一夫劇画村塾』 を設立。

同塾からは 『うる星やつら』 の高橋留美子さんや 『北斗の拳』 の原哲夫さん、ゲーム 『ドラゴンクエスト』 シリーズの堀井雄二さんら数多くの人材が世に出ました。

また大阪芸術大などでも教鞭を取りキャラクターの持論や創作法などを指導。


そして小泉内閣時代より政府の知的財産戦略本部に参加していた小池さんが肺炎により82歳でこの世を去ったのは、2019(平成31)年4月17日・・・時代が令和に切り替わる2週間前のことでした。

残念ながら我が家に小池作品のコミックはもう残っていませんが、リタイアしてゴルフを再開した今、キンゾーシリーズを読み返してみたいものです。

漫画喫茶にでも行って・・・。

あらためて漫画界・ゴルフ界に大きく寄与した小池さんの冥福をお祈り致します。


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御 大

中高年世代でこの方の名を知らぬ野球ファンは、まずいないはず。


 島岡 吉郎 監督


今日は、明治大学野球部を長年率いたこの名伯楽の命日・三十三回忌にあたります。

       


島岡監督は私と同じ信州人・・・1911(明治44)年に長野県下伊那郡で生まれました。


野球の名門・松商学園から誘いもあったのですが、父親の勧めで上京し旧制豊山中学(現・日大豊山高校)に入学。


しかしそこで教師を殴って退学(!)させられ、その後いくつかの学校を転々とした後明治大学政治経済学部に入学、応援団長として活躍・・・つまり野球部には所属しませんでした。


大学卒業後は証券会社に勤務するなどしましたが、終戦直後の1946年に明治中学の野球部監督に就任し、同校を3度甲子園に出場させます。


そして1952年、かねてより助監督を務めていた明治大学野球部の監督に就任。

ところが野球部OBでなかった島岡さんの抜擢は、OB会の反発・部員の集団退部という混乱を招きます。


しかしそんな逆風をものともせず部内の改革などを推し進めた島岡監督は、早くも翌年秋に10年ぶりの六大学リーグ戦優勝を達成して周囲の雑音を抑えると、その後1988年秋季リーグ戦まで勇退・復帰を繰り返し、都合3回監督の座に。


その間六大学リーグ戦優勝15回・大学選手権優勝5回、そして全日本チームの監督としても日米大学野球で2度優勝という、輝かしい戦績を収められました。

       


晩年は糖尿病により体調を崩しながらも車椅子で陣頭指揮を執り続けた島岡監督の姿には、まさに鬼気迫る迫力を感じたものです。


しかし引退の翌年・1989(平成元)年4月11日・・・母校が開幕戦で早大から勝ち点を挙げた翌日、77歳でこの世を去られました。


慶應・早稲田に勝ちたくて寝食を共にした合宿所のスリッパに両校の名を書いて選手に踏ませる等々、選手のモチベーションを上げる独特の工夫は有名。


しかしその一方で上下関係が厳しかった戦前に、しかも10代半ばで教師を殴った程の暴れん坊でしたから、鉄拳制裁は当たり前。


歴代の主将で一度も殴られたことがなかったのは、かつて巨人V9に貢献した名外野手で横浜DeNAの初代GMを務めた高田繁さんと、闘将・星野仙一さん(↓)の2人だけだったとか。



(※その理由について島岡監督ご自身は 「高田は万事に隙がなかったから殴れなかったが、星野は殴ると理屈をこねそうだったから」 と語っていたそうな。 高田さんはともかく、島岡監督と同じタイプに見える星野さんに対する評価はちょっと意外?)


        


しかし多くの教え子たちは〝御大〟と呼んで慕い、現在でも墓参りをするOBが多数いらっしゃるとか。


おそらくそれは鉄拳・スパルタ教育のウラに、飽くなき勝利への執着心と選手たちへの深い愛情があったからではないでしょうか。


4年生の就職活動では選手の志望企業に自らが足を運んで推薦し、しかも控え選手や裏方を優先したという逸話に、それが表れていると思います。


モンスターペアレンツを恐れ、生徒たちを腫れ物に触るかのごとく接している今時の教師たちには、是非島岡御大関連の著書を熟読していただきたいもの。

       


日頃から口癖だったという〝人間力〟なる言葉には、ドライな現代人の心に響くものがありますし。


もっとも御大と同じ鉄拳制裁を今やったら、タダではすまないでしょうが・・・。


明治男の気骨と底知れぬ人間的魅力を持ち合わせた名監督のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3


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ストッパー

・・・といっても、プロ野球の抑え投手ではありません。

キアヌ・リーブス主演の大ヒット映画 『スピード』(1994年公開) の冒頭で、高層ビルのエレベーターに閉じ込められた男女を、彼が同僚隊員と救出するシーンがあります。


犯人はワイヤーを爆弾で切断して停止させ乗客を人質に身代金を要求したのですが、ここで緊迫感を引き立たせたのがエレベーターの落下防止装置。

もしそのストッパーがなければ、エレベーターは地上に即落下・・・ストーリーは緊迫感のない単調なものになってしまったはず。

さて皆さんは、もしエレベーターにこのストッパーがなかったら、利用しますか?

私を含め、多くの方が躊躇すると思うのですが・・・このエレベーターの安全性を保証する画期的な装置を発明したのが


 エリシャ・グレーブス・オーチス
        Elisha Graves Otis

今日は、このアメリカ人発明家の命日・没後160周年にあたります。


 

       

彼の名前を見て 「あれっ?」 と思った方、多いと思います。

そう、よくエレベーターのドア下ステップやボタン付近に〝OTIS 〟の文字を見かけますょネ。


同社は彼が創業した会社であり、現在世界トップのエレベーター・メーカーなのです。


もともと滑車とロープを利用した昇降機自体は、紀元前の古代ローマ時代から存在したといわれています。


かの有名なアルキメデスが紀元前236年に発明したとされ、動力はもちろん人力(!)😅


そしてこのの昇降機の動力に、人力以外となる蒸気機関が利用されたのは1835年・・・実に2,000年の時が必要でした。


しかしいかに強力な動力を利用したとはいえ、この機械は全くと言っていいほど普及しませんでした。

その原因は・・・危険だから。

ロープの切断等でひとたび落下したら、利用者の生命は全く保障されないのですから、誰しも怖がって利用しなかったのは当然。

その昇降機を一挙に普及させる契機となったのが、オーティスの落下防止装置(調速機)の発明でした。


オーティスは1811年のバーモント州生まれ。


20歳で家を出てニューヨーク州に出てきた彼は、ワゴン車の運転手をして生計を立て、結婚し2児をもうけました。

製粉所や製材所を運営したもののうまくいかず、彼は34歳で人形メーカーに就職しておもちゃ作りを担当すると、その後ロボット玩具の設計などに携わり、やがて独立。


40歳の時に、工場で輩出されるゴミの上げ下ろしに昇降機を安全に利用するため、落下防止装置の開発に着手。


翌年の1852年、遂に逆転止め歯型を利用した落下防止装置(ガバナマシン)を発明し、翌年エレベーター制作・販売会社 『オーチス・エレベーター・カンパニー』 を設立。

そして翌1854年にニューヨークで開催された万国博覧会で、自ら乗ったエレベーターのロープを切るというデモンストレーションを行い、その安全性をアピール。

これがエレベーター普及に大きな役割を果たしたのです。

       


1857年には、ニューヨークで初めて乗客用エレベーターが設置されましたが、オーチスはその4年後の今日・1861年4月8日に50歳の若さで死去。


しかし残された2人の息子が1867年にオーチス・ブラザーズ・カンパニーを設立して父親の遺志を継承。

1890年にはパリ万国博でエスカレーターを発表するなど、この分野におけるトップカンパニーの地位を確立していきました。


今後エレベーターに乗られた際にそれがOTIS社製であったら、彼の偉業に感謝してください。笑2


そうそう、映画と言えば2001年に公開された 『ニューヨークの恋人』で、メグ・ライアンが演じる主人公が恋に落ちるお相手の公爵(ヒュー・ジャックマン)は、このオーティスがモデルだとか。


       

但しオーティスの名は、その公爵ではなく彼の執事に付けられていますが・・・。

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カメレオン

彼の作品をクラシック音楽という範疇に入れて良いものかどうかは判断しかねますが、私は大好き・・・今日はその20世紀を代表する作曲家、


 イーゴリ・フォードロヴィッチ・ストラヴィンスキー

    Igor Fyodorovitch Stravinsky


の命日・没後50周年にあたります。


          


ストラヴィンスキーは、1882年にロシア・サンストペテルブルク近郊で生まれました。


父親は歌手でしたが、彼自身は当初法律家を目指したとのこと。


しかし遺伝子はそれを許さなかったようで、大学在学中に作曲の道に進路を変更した彼は20歳から6年間リムスキー=コルサコフに師事し、作曲法を学びます。


そして1908年、26歳の時に発表した 『幻想的スケルツォ』 ・ 『花火』 がロシア・バレエ団の主宰者セルゲイ・ディアギレフの目に留まり、彼の依頼でバレエ曲 『火の鳥』 が生まれました。


これが大成功を収め、次作の 『ペトルーシュカ』 も好評を博します。


そして1913年に発表された 『春の祭典』 が、音楽界に賛否両論の渦を巻き起こしました。


この作品がパリで初演された時は演奏途中から会場は騒然、肯定派・否定派の聴衆が乱闘を始め大混乱。


※この様子は、2009年に公開された映画 『シャネル&ストラヴィンスキー』 に描かれています。 (↓の予告編冒頭)



しかしこの初期のバレエ3部作で、彼の名は音楽界の革命児として世界中に知られることに。


1914年からスイスに移住したものの、3年後に勃発したロシア革命によって祖国の土地は革命政府に没収されたストラヴィンスキーでしたが、その後も創作活動に衰えを見せず様々な曲を発表。


しかし1938年に長女を、そして翌年に妻と母を立て続けに失うという不幸に見舞われた彼は、アメリカに亡命。


ハーバード大学で教鞭を取る傍ら再婚した彼は、尚も作品を発表し続けました。


そんな彼の作風は、年代と共に大きく変化するのが特徴といわれています。


革新的な初期のバレエ3部作を発表した原始主義の時代。


1920~50年頃までをバロック音楽に回帰した新古典主義の時代。


そしてそれまで対立していたシェーンベルクの提唱する十二音技法を取り入れた第二次世界大戦以降のセリー主義の時代。


その激しい曲想の変わりように、彼についた渾名が〝カメレオン〟。

まぁ、顔写真を見ると似ていなくもないですが・・・。😅


1959年に来日した際には、我が国を代表する作曲家・武満徹氏を見出して世界に紹介するなどしたストラヴィンスキーが89歳で亡くなったのは、1971年4月6日のことでした。


命日の今宵は、彼の代表的作品であるバレエ3部作を聴きたいところ。(


    ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


指揮は、自身作曲家でありストラヴィンスキーを高く評価するピエール・ブーレーズ。 歯切れが良く、いつ聴いても躍動的で心地よい演奏です。


まだストラヴィンスキーの音楽を聴いたことがない・・・という方に、そのサワリをお聴きいただきましょう。


前出の映画 『シャネル&ストラヴィンスキー』 から、春の祭典の最も有名な〝春の兆し〟の部分を、改めてご覧ください。(↓)



この曲想、『ゴジラ』 のテーマに似ていると思いませんか?


それもそのはず、ゴジラを作曲した伊福部 昭 さんは、学生時代にこの曲を聴いて感銘し、ストラヴィンスキーの音楽から大きな影響を受けたそうですから。


日本映画にまで影響を及ぼした偉大な現代音楽家のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3


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新手一生

TVゲームなどなかった私の子供時代・・・家の中でやる事といったら、トランプや花札くらいでしたが、中でも将棋が好きでした。


毎日、朝刊の将棋コーナーを読んでいた当時、大好きだった棋士が、

 升田幸三 第4代名人


今日は、この稀代の勝負師の命日・没後30周年にあたります。


       


1918(大正7)年、広島県に生まれた升田少年は、14歳の誕生日を目前に控えた1932年2月、母親の使う物差しの裏 に 『この幸三、名人に香車を引いて勝ったら(勝つため?)大阪に行く』 と墨でしたためて家出。


広島市内の飲食店やクリーニング店での丁稚奉公などを経て、大阪の木見金治郎八段の門下生となります。


その後メキメキと頭角を現し順調に昇段していった升田棋士は、1957(昭和32)年7月に大山康晴名人(↓)を破って念願の名人位を獲得。




既に手中に収めていた王将・九段を含め、将棋界初の三冠制覇を成し遂げました。

       


そして極め付きは1956(昭和31)年、王座戦において対戦相手の大山名人に(当時の規定により)香車を引いて勝利を収め、物差しに書き残した夢(?)を実現。 


将棋界で史上唯一の 〝名人に香車を引いて勝った男〟となったのです。

しかし戦時中に患った病気が元で体調を崩したことが原因で休場の都年も多かったためタイトルなどの実績面では大山に押され、永世名人などの称号は得られぬまま、1979年に引退。

※但しA級順位戦からは一度も陥落しませんでした。


そして1991(平成3)年4月5日、多くの将棋ファンに惜しまれつつ73歳で世を去りました。


私が子供心に升田名人が好きだったのは、その強さもさることながら、〝昭和の宮本武蔵〟を思わせるような野武士の如き独特の風貌・雰囲気に惹かれたから。


酒とタバコをこよなく愛し、そして一見コワモテの雰囲気とは裏腹な独特の発言には、ユーモアや温かみがありました。

終戦直後、GHQが 「将棋は相手から奪った駒を味方にするが、これは捕虜虐待の思想に繋がる野蛮な行為だ」 と難癖をつけて禁止しようとした際、升田棋士は将棋連盟の代表として

「将棋は人材を有効に活用する合理的なゲームである。
チェスは取った駒を殺すが、これこそ捕虜の虐待ではないか。

キングは危なくなるとクイーンを盾にしてまで逃げるが、これは貴殿の民主主義やレディーファーストの精神に反するのではないか。」


と反論し、危機を脱したとか。

そんな升田名人が引き起こした〝陣屋事件〟に、私はその心優しき人間性を垣間見るのです。


升田名人が残した最も印象的な言葉・・・それは、〝新手一生〟

常に新しい手筋を追い求めた勝負師・升田名人の著書の一節、


「精読するという概念からもう一歩突っこんで、不可能を可能にする努力、―将棋を創作し、また勝負を勝ちきるには、“えぐる” という修練が必要である」


現代のようにパソコンで手筋の研究・検証などできない時代に、常に他人の指さない新手を編み出し実行する創意工夫と気概は、大いに見習わねばなりません。


もし健康を害さなければ、大山康晴永世名人とは互角以上の対戦成績を残したでありましょう・・・が、そんな悲運も升田ファンにとっては魅力の一つなのかもしれません。

現代の棋界は羽生善治永世七冠に端を発して藤井聡太二冠などスマートな若手棋士が席巻していますが、対戦相手が驚くような奇想天外な手を指したと思えば、信じられない〝トン死〟で呆気なく負けたりする・・・升田名人のような独特のキャラを持った強豪棋士の出現を待ち望む将棋ファンは、果たして私だけでしょうか? 笑3

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若大将

近年、尖閣諸島問題で中国漁船の領海侵犯の実態が映像を通して国民に明らかになりましたが、今から750年近く前にも我が国が侵略の危機を迎えたことは、多くの方が歴史の授業で習ったはず。


所謂〝元寇〟ですが・・・当時日本で最高権力の座にあったのが


 北条 時宗


今日は、この鎌倉幕府第8代執権だった若き総大将の命日にあたります。


1251(建長3)年、第5代執権・北条時頼と正室・葛西殿の間に生まれた時宗は早くから執権後継者として育てられ、僅か6歳の時に盛大な儀式をもって元服、相模太郎時宗を名乗ります。


10歳で結婚、14歳で執権の補佐役・連署に就任し帝王学を学び、そして1268年・・・17歳で執権職に就任。


その後、自分に不満を持つ異母兄・時輔らを殺害(二月騒動)するなどして支配体制を確立していった時宗にとって、ほぼライフワークとなったのが〝元寇〟対策でした。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-北条 時宗


彼が執権となる以前から、元の皇帝・フビライから数度にわたり属国となる旨の国書を持った使者を黙殺し続けた幕府に業を煮やした元は、1274(文永11)年に元・漢・高麗人の連合軍3万人で対馬を襲撃、更に博多湾へ侵攻し日本軍と衝突します。(文永の役)


圧倒的な兵力に日本は大敗を喫しますが、一旦船に引き揚げた元軍が夜来からの台風(神風)によって壊滅・撤退したと伝えられています。


(ただしこの説には矛盾点もあり、元軍は日本軍の力量を図るための偵察攻撃であり、かねてより撤退する予定であったと主張する専門家も。)


この翌年、再び来日した使者を、なんと時宗は2度とも斬首・処刑。


これに怒ったフビライは再度日本襲撃を計画 (弘安の役)・・・1281(弘安4)年に14万もの大軍をもって襲来するも、前回の経験を踏まえて防衛策を講じていた日本軍は善戦。


そして折から襲った暴風雨によって大打撃を被った元軍は、日本軍の追い討ちを受けて敗走・・・大陸に戻れたのは、僅か1~2割の兵だけだったとか。


10代で幕府のトップに立ちながら20歳代の青春時代を元軍襲来に殆どのエネルギーを費やした時宗は、弘安の役から3年後、そして今から737年前の今日・1284(弘安7)年4月4日、33歳の若さで病没。


663年の『白村江の戦い』以降、1019年の 『刀伊の入寇』 を除けば600年以上も外国軍との戦闘をしていなかった日本人にとって、この襲撃の恐怖は想像を絶するものだったと思われます。

 ※『刀伊の入寇』に関する過去記事は、こちら。(↓)


まして幕府トップの執権・時宗のストレスとプレッシャーたるや・・・。


元寇から日本を守るために生まれてきたかのようなプリンスが、もし使者を厚遇し元に屈していたら、現代日本の姿は微塵もなかったかもしれません。


彼の毅然たる態度を、簡単に 「命がけで・・・」 と口にしたり弱腰外交を繰り返す現代の政治家たちに見習ってほしいものですが、果たして彼らにそんな気概や覚悟があるや否や? うー


生涯を国防に捧げた若大将に敬意を表しつつ、ご冥福をお祈り致します。


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改 心

今日は、日本人なら皆知っている大手食品メーカーの創立者である

 鈴木 三郎助

の命日・没後90周年にあたります。

その会社名は後程ご紹介することにして・・・。

       

三郎助は、明治維新を直前に控えた1868(慶応3)年に現在の神奈川県三浦郡葉山町で、穀物・酒類販売店『滝屋』を開業した初代・三郎助の三人兄弟の長男として生まれました。

そして父親が35歳で腸チフスにより他界したため、僅か9歳で家督を相続することに。

尋常小学校を卒業し12歳の時に米穀商で住み込みの見習いをした後、18歳で自宅に戻り2代目三郎助を襲名し、家業を継承。

しかし米相場に入れ込んで失敗し、家屋敷や山林の大半を失い、借金生活にハマったため、母・ナカが自宅の奥二間を避暑客に間貸しすることに。

そして偶然そこを訪れた大日本製薬の技師・村田春齢から勧められ、母と妹が自宅近くの浜辺に漂着する海藻・かじめからヨードを製造する事業を始めます。

これが成功し、借金取りから逃れるため家を飛び出していた三郎助も、必死に働く母と妹の姿を目にして改心し手伝うことに・・・これが彼の実業家としてのスタートとなりました。


日露戦争による需要で莫大な利益を上げ日本最大手のヨード製造業者として力をつけた彼は、1907年に同業者をまとめて日本化学工業を創立、社長に大倉財閥の総帥・大倉喜八郎(↓)を招き、自らは専務に。


その翌年、東京帝大の池田菊苗博士がグルタミン酸を主成分とする調味料の製造法を発見し、特許を取得。

たまたま池田博士と知り合いだった三郎助が、葉山の自社工場でこれを製造することを決意、1909(明治42)年から販売を始めたのが、『味の素』でした。 (↓)



1917年に設立した株式会社鈴木商店が1946年に味の素株式会社と改称し、現在に至っているわけです。

その後三郎助は、商品の製造に電力の安定供給が欠かせないことから、東信電気株式会社を設立し、建造した発電所を東京電燈に売却するなどして莫大な利益を上げてもいます。

米相場の失敗、同業者とのかじめ買占め合戦、味の素の特許期限延長問題等々、様々な難局をその都度独特の論理・戦略で乗り切った三郎助が、食道がんにより65歳でこの世を去ったのは、1931(昭和6)年3月29日のことでした。

うまみ調味料だけでなく、食用油や冷凍食品など多くの製品を製造販売している味の素の製品・・・全く利用していないご家庭は、まずないでしょう。


    

今日同社の製品を口にする時は、二代目・三郎助に感謝しつつ冥福を祈ってください。


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