FC2ブログ
副 業

世界で最も有名な探偵・・・といえば、おそらく皆さんもご存じのシャーロック・ホームズでしょう。

〝七夕の日〟の今日は、この名探偵の生みの親


 サー・アーサー・イグナチウス・コナン・ドイル

    Sir Arthur Ignatius Conan Doyle


の命日・没後90周年にあたります。


       


彼は世界的に有名な作家ではありますが、決して最初から文筆業で成功したわけではなく、そこに至るまでに苦労を重ねた人物でした。


ドイルは1859年に測量技師チャールズ・ドイルの長男としてスコットランドのエディンバラに生まれました。


ドイル家は祖父や叔父たちが皆画家やイラストレーターとして社会的に成功する中、父親だけが普通のサラリーマンでしかもアルコール依存症で入院するなどしたため、生活は苦しかったそうな。

それでも裕福な叔父の支援でエディバラ大学医学部に進学し医師の道を目指しますが、勉強は退屈であまり馴染めなかったとか。

しかし同大学に在籍していた教授のイメージから、後に彼が生み出したシャーロック・ホームズやチャレンジャー教授が誕生したそうですから、結果的には貴重な体験だったことは確か。


大学卒業後にアフリカ汽船会社の船医として就職したものの、船内で次々発症したマラリア感染患者の手当てに忙殺された挙句本人も感染して生死の境を彷徨う羽目に。

また友人と共同経営で診療所を開業したものの、ものの2ヶ月で喧嘩別れ。

どうも彼は、生まれつき医師には向いていなかったのかも・・・。

しかしそんな彼が副業として小説を書き始めると、短編小説が安値ながら出版社に買い取ってもらえるように。


そして1884年には、シャーロック・ホームズ・シリーズの第一作となる長編小説 『緋色の研究』 を発表。

1891年に(無資格で)開業した眼科医院に全く患者が来なかったことで、彼は執筆業で身を立てる決心をしました。

そこで彼は、既に2作読み切り小説で主人公として登場していたシャーロック・ホームズのシリーズ化に踏み切るのですが、これが大成功。

『ストランド・マガジン』 に連載された短編小説は人気を博し、同誌の売り上げも急増。

そして1892年にはそれまでの短編12作を集め、『シャーロック・ホームズの冒険』 として単行本化。


       


                      『シャーロック・ホームズの冒険』 初版本


彼の許に届くファン・レターの殆どがドイル宛てではなくホームズ宛てだったそうですから、その人気ぶりが伺えます。


しかし、彼自身は本来推理小説ではなく歴史小説家として世に認められたかったのだとか。


実際彼に会った日本人も、そう打ち明けられたそうですが・・・しかしファンや出版社はそれを許さず。

業を煮やした彼は1893年12月に発表した 『最後の事件』 でホームズを滝に落として死んだことにしてしまいます。

そして1900年にはボーア戦争の従軍医療奉仕団として戦地に赴き、その2年後にはイギリス軍を擁護する 『南アフリカ戦争 原因と行い』という小冊子を発表。

その功績で国王から〝サー〟の称号を賜ることに。

その間政治家を目指して選挙に打って出たものの敢え無く落選した彼は、再び文筆業に専念。

(まるで沈んだはずの宇宙戦艦ヤマトが蘇った如く)死んだはずのホームズも見事に復活、ファンを安心させました。

その後も冤罪事件に関わったり心霊現象にハマるなどしましたが、ホームズ・シリーズを始め歴史小説を書き続けたドイルには、かねてより心臓疾患があり、1929年頃から発作が頻発・・・そして1930年7月7日朝に71歳で天に召されました。

彼の願いも虚しく、現在でもドイルといえばホームズの生みの親・・・他の作品は殆ど読まれていません。

しかもホームズ・シリーズで得た莫大な遺産に関しては、次男と三男(長男は第一次世界大戦で戦死)が散財し、2人の娘を巻き込んで裁判沙汰が絶えなかったとか。

本人の意に沿わぬ形で売れた本の遺産で子供たちが争う・・・ドイルは天国からその様子を見ながら、大きな溜息をついていたことでしょう。

さすがのホームズにも、解決の妙案は浮かばなかった?うー


              人気ブログランキング

スポンサーサイト



変 人

まずは、こちらをお聴き下さい。 (↓)



穏やかというか、けだるいというか・・・何とも言えぬ旋律ですが、TV番組や飲食店のBGMとして多くの方は聴き覚えがあることでしょう。


しかし曲名をご存知の方は、あまりいらっしゃらないかも・・・。


今日・7月1日は、この〝ジムノペティ〟を世に出した


  エリック・サティ
 Erik Alfred Leslie Satie


という、フランスが生んだ異色の作曲家の命日・没後95周年にあたります。


1866年、同国・オンフルールに生まれたサティは、6歳の時に母親が亡くなったため祖父母に預けられ、祖父から音楽の手ほどきを受けました。


1879年パリ音楽院に入学すると、在学中に冒頭の〝ジムノペティ〟などのピアノ曲をいくつか発表。


しかし学校の水が合わず退学・・・酒場でピアノを弾くことに。


その後は薔薇十字教団聖歌隊長に任命されたり、急進社会主義委員会に入党したりしますが、1925年7月1日に肝硬変により59歳でこの世を去りました。


       


写真を見る限り堅物・大学教授風のサティですが、「犬のためのブヨブヨした前奏曲」 などヘンテコな曲名をつけるなど、良くも悪くも相当変わった人物ではあったようです。


グレゴリオ聖歌の分類に用いられる)教会旋法を取り入れたり、調子記号や小節線のない楽譜を書くなど、その音楽は自由奔放。 


しかしその作風は、ドビュッシーやラヴェルら印象派の音楽家にも少なからず影響を与えました。


あまり一般には知られていない作曲家といえるサティですが、意外(失礼)にも彼の名がギネスブックに載っているんです。


それは、〝世界で最も長い曲〟の作曲者として・・・。


曲名は、 ヴェクサシオン(Vexations )』


実は私、この曲の楽譜を持っているんです。


世界一長いというからには、楽譜も電話帳程の厚さがある・・・と言いたいところですが、実はたったの一枚。(


    


なんでこれが?・・・と思うでしょうが、実は楽譜の冒頭に


「このモチーフを連続して840回繰り返し演奏するためには、大いなる静寂の中で真剣に身動きしないことを予め心構えしておくべきだろう」


と書かれているのです。


以前日本の某TV番組の企画で3人のピアニストが交替で演奏したところ、総演奏時間は何と18時間以上!驚き顔 ヒェ~


曲名の意味は 『嫌がらせ』・・・う~ん、納得です。


さぁ、貴方ならこの曲、何回繰り返し演奏しますか?

私は2,3回で満腹ですけどネ。


変わり者といわれる人物が多い作曲家の中でも、おそらく横綱級であろうサティのご冥福をお祈り致します。笑3

              人気ブログランキング 

オンリーワン

一代で大企業を育て上げた実業家は数多いですが、その中でも自ら数多くの製品を発明・開発した人物といえば、私はまずこの方を思い浮かべます。


 早川 徳次


今日はこの〝日本のエジソン〟とも言われた、現・シャープ創業者の命日・没後40周年にあたります。


       


早川氏は1893(明治26)年、東京・日本橋に生まれました。


父親はなかなかのアイデアマン、母親も自らミシン縫製で事業を起こすやり手だったそうですから、早川氏には生まれつき発明家・実業家のDNAが息づいていたようです。


しかし母親が病に倒れたため、早川氏はまだ1歳11ヶ月の時にミシンの下請けをしていた出野家へ養子に出されました。


子供がいなかった出野家は彼を可愛がってくれたのですが、養母がその2年後に急逝。 

その後出野家に迎えられた後妻は、早川少年をひどく苛めたとか。


「小学校に行っている時だけが楽しかった」 という悲惨な毎日を送っていた彼に転機が訪れたのは、1912年。


15歳の時から丁稚奉公をしていた早川氏は、ある日観た映画で登場人物のベルトの先が長く垂れ下がっているのを見たことがキッカケで、長短自在に止められるバックルを考案し、特許を取得。


これと時を同じくして自分が養子であったことを知り、実兄と 『早川兄弟社』 を設立・・・実業家としての第一歩を踏み出しました。


そして同社が大きく飛躍するキッカケとなったのは、後の同社名にもなった〝シャープペンシル〟の開発。


元々原型となる製品はあったそうですが、早川氏はそれに付属グリップをつけるなど様々な工夫を凝らし、1920年に実用新案を取得。

ところが当初は不評で見向きもされず。

それでも新製品に絶対の自信があった早川氏は、
それを日本一の文具店である銀座・伊東屋に持ち込みます。


番頭さんからいろいろ難癖をつけられても挫けず何度も改良を加え、半年間で36種類も試作し続けました。


それが伊東屋の主人の目に留まり、やっとまとまった受注を獲得。


そしてこの画期的な筆記具は、むしろ海外で大好評。


それを聞きつけた国内の問屋から大量注文が入るようになり、その後も改良を重ねた 『早川式繰出鉛筆』 はシャープペンシルを名前を変え、これ1本だけで48種類もの特許を取得し会社を大きく発展させる原動力となりました。


ところが早川氏の人生は、その後ますます波乱万丈。


1922年に腸出血で生死の境を彷徨い九死に一生を得た翌年、今度は関東大震災で会社や自宅、更には妻と8歳・6歳の子供を全て失います。


更に取引先の日本文房具から借入金の返済を迫られ、やむなく同社に特許を無償譲渡するなどして借金を清算、ゼロからのスタートを余儀なくされました。


しかし彼は再び立ち上がります。


1924年に大阪に出て早川金属工業研究所(※シャープの前身)を設立すると、ラジオに着目。

     


ちょうど東京や大阪でラジオ放送が始まったこの頃に、同社は小型鉱石ラジオを開発し、1929年には真空管ラジオを発売。


折からのラジオ・ブームに乗って会社は急成長、1942年に社名を早川電気工業に改称。 


その後も朝鮮戦争特需などを経て、テレビ・電卓などの開発に成功し総合電機メーカーに成長した同社は、早川氏が会長に退いた1970年に社名をシャープに改称し、現在に至っています。


そんな早川氏を私は尊敬してやみませんが、それはその経営手腕よりも人間性に関して。


継母に苛められた幼少時代、見かねた盲目の女性に助けられ奉公先を紹介してもらったことをきっかけに、早川氏は常に他人に優しかったとか。


自分を騙した男を 「真面目に商いせなあかんで」 と諭しただけで許したり、自宅に連れ帰って面倒を見てやった行き倒れの若者がカネを待ち逃げしても怒ったりしなかった、といいます。


失明者が働ける会社を作ったり、福祉会館建設に多額の寄付をしたことは、全てその幼少時の体験に根差しているのでしょう。


まさに七転び八起きの人生、何度かの会社存亡の危機を乗り越えわれたのは、早川氏の経営手腕もさることながら、その人間性・徳性があったればこそ・・・と思えてなりません。

       

          『私の考え方』 (早川徳次・著 浪速社・刊)


残念ながら現在のシャープは、経営の失敗から外資傘下に。


是非、早川氏の言葉・・・「他社に真似される商品をつくれ」を 思い出し、独自製品の開発で挽回を図って欲しいもの。


モノ作り日本の代表格・シャープの復活を願いつつ、1980(昭和55)年6月24日に87歳で逝去された稀代の発明王・大実業家のご冥福をお祈り致します。笑3

              人気ブログランキング

聞き上手

今日は、第74代内閣総理大臣だった・・・というより、若い方にはタレントDAIGOの祖父、と言った方が通りがいいかもしれない、


 竹 下 登 


の命日・没後20周年ににあたります。

       


竹下氏は1924(大正13)年、現在の島根県雲南市で江戸時代から造り酒屋を営む素封家の12代目として生まれました。


1944年に早稲田大学商学部に入学、雄弁会に所属します。


学徒出陣で陸軍に所属しましたが、終戦後は郷里に戻り代用教員を務め、青年団活動に精を出すようになります。


p>大地主の支援を受けて島根県議会議員となり2期務めた竹下氏は1958年の衆議院議員選挙に出馬し、34歳で見事当選・・・以後連続14回当選を果たしました。


佐藤派-田中派に所属し、内閣官房長官・建設大臣そして大蔵大臣は通算5期務め、次第にニューリーダーとしての地位を固めていきます。


そして田中氏がロッキード事件で表舞台から姿を隠し、 闇将軍 と呼ばれ始めた1985年に 『創政会』 を立ち上げ、更にその2年後 『経世会』 を旗揚げして過半数の田中派議員の取り込みに成功。


(この時の主要メンバーには、七奉行といわれた橋本龍太郎・小渕恵三・梶山静六・羽田孜・奥田敬和・渡辺恒三、それに小沢一郎。 また鳩山由紀夫、岡田克也各氏も・・・。)


そして同年11月、中曽根首相の裁定により総理大臣の座に。


人一倍の気配り・目配り・金配りで敵が少なく、また 〝おしん〟 と言われる程忍耐強かった竹下氏でしたが、早くも就任翌年にはリクルート事件が発覚して支持率が急落。


平成に年号が変わった1989年6月に総理大臣を辞職した後も、田中氏の如く政界に隠然たる力を持ちましたが、東京佐川急便事件や誉め殺し事件などで急速に派閥の結束が弱まり、程なくして竹下派は分裂、政界再編へと向かって行きました。


親分・田中氏同様、志半ばでスキャンダルによって退陣・引退を余儀なくされた竹下氏ですが、それまで誰もが為し得なかった消費税の導入を果たしたことで、日本政治史に名を残す宰相ともいえます。

 ※消費税に関する過去記事は、こちら。(↓)


 


そんな竹下氏に関するエピソードで私が最も印象的なのは、彼が類稀なる〝聞き上手〟であったこと。


政界一の情報通といわれた竹下氏でしたが、その情報は必ずしも自ら取っていたわけではなかったそうです。


事務所に来訪客があると、竹下氏は必ずその人の話に 「ほほぅ」、「なるほど」、「へェ~」、「なんと!」 と相槌を打ちながら丁寧に耳を傾け、


「いやァ○○先生、今日はいい話を聞かせていただいてありがとうございました。 また何かあったら、是非おいでください。」


と丁重に見送ったのだそうです。


天下の竹下氏にそう言われれば、話を持ってきた人はいい気分・・・また張り切って情報を仕入れては事務所を訪れること請け合い。


これ、処世術として大いに勉強になります・・・が、実行するのは容易ではありません。

昭和時代最後の総理大臣でもあった竹下氏に関する驚くべき逸話を、ひとつご紹介致します。


           ◆     ◆     ◆     ◆


私が内閣安全保障室長時代に、時の総理だった竹下登氏がある省の局長クラスの人物について、彼の経歴をスラスラと言うのを聞いて


「よくそこまでご存じですね。 かつて秘書官か何かでお使いになったのですか?」

と尋ねたことがある。


「いや、そうではなくて、私は自民党幹事長の時に、中央官庁の局長以上の経歴を掌握しておこうと思い立ってね、人事記録を取り寄せて暗記したんだよ。」


「やってみせようか? 大蔵でも通産でも、誰か局長か次官の名前、言ってごらん。」


酒席の座興で始まったことだが、竹下氏の驚くべき記憶力が、満座の中で披露された。

本当に各省主要局長の経歴を諳んじているのである。 


一同驚嘆していると、


「与野党の国会議員も全部覚えているよ。

 たとえば公明党の誰それ議員ね・・・。」


と言って、出身県・学歴・年齢・所有な略歴・当選回数・得票数をスラスラと暗唱してみせる。

「では今度は、人口の多い順に世界の各国を言ってみようか。」


と言って、立て板に水を流すようにやってみせ、


「今度は少ない順に行こう。」

と、モナコとかサン・マリノから逆順で諳んじるのだ。


その博覧強記ぶり、信じられない程の記憶力は接する人を驚倒させ、只者ではないと兜を脱がさせ、


(この人にはいい加減な話は出来ない、間違ったことを言うと後で大変なことになる)


と、部下はみんな真剣に勉強し、調査をして正確な報告をするようになる。


              (※佐々淳行・著 『平時の指揮官 有事の指揮官』より)


          ◆     ◆     ◆     ◆


竹下氏の親分だった田中角栄氏も、どんなに飲んで帰っても毎日午前3時には起きて各省庁の幹部の名や経歴を憶え、地図を広げて日本全国津々浦々の選挙区や選出議員たちの情報を頭に入れていたといいます。

叩き上げで最高権力者になる人物の努力は、尋常ではありません。


あらためて努力と忍耐の人・竹下登氏のご冥福をお祈り致します。


                人気ブログランキング

渋 声

まずは、こちらの動画をご覧ください。



懐かしい俳優・スティーヴ・マックィーンの遺作 『ハンター』 の一場面ですが・・・今日は、その彼の吹き替え役として有名な声優、

  内海 賢二 さん

の命日・没後7周年にあたります。


        


内海(本名:健司)さんは、1937(昭和12)年に福岡県北九州市で生まれました。

5人兄弟の末っ子でしたが、幼少時に両親を亡くしたため兄弟とは別れ別れに。

中学・高校生時代は仕出し弁当店で住み込みで働き、通っていた夜間高校で演劇部に所属したことが、彼の運命を決めたようです。

高校3年生の時にNHK小倉放送局の専属劇団に応募して見事入団した彼は、ラジオドラマや朗読の仕事をするようになり、その後開局したばかりの九州朝日放送に移籍し、KBCラジオの専属声優に。

しかし地方での仕事に飽き足らなかった彼は、電通に勤務していた友人を頼って1958年に上京。

その友人の紹介で 『熱血カクタス』 の端役をもらうと、続けて 『海賊バイキング』 のナレーターに。

そして1963年には 『狼少年ケン』 で片目のジャック役を演じ、アニメ声優の草分け的存在となりました。


※しかし1960~70年代にかけては、声優だけでなく時代劇やテレビドラマに俳優としても出演しています。


p align="left" style="margin: 0mm 0mm 0pt; text-align: left; mso-pagination: widow-orphan; mso-margin-top-alt: auto; mso-margin-bottom-alt: auto;">その後は前述のマックィーンやジャック・ニコルソンなどの洋画の吹き替えや、『Dr.スランプ あられちゃん』 の則巻千兵衛役などのアニメ声優で活躍する傍ら、1984年には声優事務所・賢プロダクションを設立。

後に野沢雅子さんらと共に、
アニメがビデオ・DVD化された際の使用料支払いを求める訴訟を起こし勝訴するなど、声優業の立場を引き上げる役割も果たしました。

そしてそんな多忙を極める内海さんを助けてくれたのが、事務所開設前に結婚した、『サザエさん』 のワカメ役などを演じた、同じく声優の野沢道子さん。

結婚後、賢プロダクションに移籍して共同経営に参画。
時には共演をしながら、二人三脚で事務所を支えました。
※現在同プロダクションの社長は、長男・賢太郎さん。

2009年に第3回声優アワード功労賞を受賞した内海さんが、がん性腹膜炎によりこの世を去ったのは、2013(平成25)年6月13日のこと。

彼の低音で渋い声がハマッていた、『北斗の拳』 ラオウの懐かしい映像をご覧いただきつつ、声優業界を支えた重鎮の冥福をお祈りしたいと存じます。
笑3



               人気ブログランキング

強硬派

今日は、クイズからスタートです。

①70歳のトランプ大統領が誕生するまでは、歴代最高齢の69歳349日で就任。

②歴代唯一の離婚経験者


だったアメリカ大統領は、誰でしょう?

・・・正解は、


 ロナルド・ウィルソン・レーガン  

      Ronald Wilson Reagan


今日は、今でもアメリカ国民の人気が高い、この第40代大統領の命日・・・日本流にいえば、十七回忌にあたります。


        


レーガン大統領は1911年のイリノイ州生まれで、高校時代はライフガードとして活躍。


1932年に同州のユーリカ大学を卒業すると、幼い頃から話術に才能があった彼はシカゴ・カブスのラジオ・アナウンサーに。


その後はハリウッドで映画俳優として準主役を務めるなど、通算19本の作品に出演。 


1940年に女優と結婚するも、8年後に離婚。 


そしてその4年後に同じく女優だったナンシー・デイビスと再婚・・・彼女が後にファースト・レディーとなりました。


        レーガン大統領


映画俳優組合の委員長を努めたレーガン氏は、やがて選挙支援活動を通じて政治の世界に関わるように。


カリフォルニア州知事を経て、前任のカーター大統領の失政も手伝って選挙に勝利し、1980年に念願の大統領に就任。


彼が在任した2期8年は、東西冷戦の終焉という世界史上における大きな転換期でした。


ソビエトを〝悪の帝国〟 と名指しするなど共産圏と強硬な対決姿勢を鮮明にし、また〝レーガノミックス〟 と呼ばれた減税・規制緩和を主軸とした経済政策を打ち出して強いアメリカ復活をアピール。

その成果をあげたことで、国民から高い支持を集めました。


同時期に我が国の総理大臣だった中曽根康弘氏とは、〝ロン・ヤス〟 と呼び合うほどの友好関係を構築。

レーガン大統領が来日した時、日の出村の山荘に招かれてホラ貝を吹いたシーンは、今でも記憶に残っています。


そして彼の人物像・器量を物語るエピソードとして私が最も印象深いのは、彼が暗殺未遂事件に巻き込まれた時のこと。


大統領就任まもなくの1981年3月30日、ワシントンのホテル裏口を出たところで狙撃され、大統領報道官やSPが死亡しました。

※その時の映像は、こちら。(↓)



パニック状態の現場で専用車にレーガン大統領がSPに押し込まれる緊迫した場面は、まるで映画さながらでした。


実はこの時彼自身も1発被弾しており、銃弾は心臓を掠めていて相当深刻な状況だったとのこと。

んな中で病院に搬送された彼は、摘出手術前の担当医たちにこう言ったそうです。


「君達が共和党員だといいんだかねェ。」


執刀外科医は民主党員だったのですが、その彼の返事もふるってました。


「大統領、今日1日我々は皆共和党員です!」


全身麻酔が必要な程の大手術は、見事に成功。

当時70歳だったレーガン氏は3週間以内に退院し、執務に復帰したのです。


命に関わる状態でもジョークを発する度量と、驚異的な回復力・・・大統領になる人間は、やはり並み大抵じゃありませんネ。


しかしそんな大統領も、年齢には勝てず・・・引退後の1994年に自らがアルツハイマー病を発症していることを公表し、2004年6月5日に肺炎のため93歳でこの世を去りました。


〝強いアメリカ〟の象徴であった、名大統領のご冥福をあらためてお祈り致します。笑3


                人気ブログランキング 

ワルツ王

クラシック音楽ファンにとって新年恒例といえば、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートですが、その際に演奏されるのが、

 
ヨハン・シュトラウス2世
     Johann Strauss II.


の曲。 今日は、『美しき青きドナウ』や『皇帝円舞曲』など数々の名曲を遺し〝ワルツ王〟と呼ばれる彼の命日にあたります。


        


シュトラウスは、1825年にウィーン近くのザンクト・ウルリッヒで生まれました。

父親は、言わずと知れたヨハン・シュトラウス1世。
有名な作曲家・音楽家であることは、皆さんもご存知でしょう。

母親のマリアは居酒屋の娘で、シュトラウス2世は婚前妊娠・・・まぁ、今風に言うなら〝できちゃった婚〟でした。

彼が生まれた時、既にウィンナ・ワルツの作曲家として有名だった父は厳格に自らの楽団を統率すると共に、家庭内でも厳しく体罰を厭わなかったようですが、音楽家の生活が不安定であることを熟知していたが故に我が子がその道に進むことを良しとせず、息子たちが楽器に触れることを厳禁。

しかし他の家庭でも一般的に行われていたピアノの練習だけは認めていましたが、ヨハンが弟ヨーゼフと連弾して遊んでいることを出入りの楽譜業者から聴きつけた父が目の前で弾かせてみたところ、その出来の良さに喜び、褒美にマントを買い与えたとか。

まぁ有名音楽家も人の親というか、親バカというか・・・。

しかしカエルの子はカエル、ヨハン2世は音楽への思いは断ちがたく、父親に内緒でヴァイオリンの弾き真似を鏡の前でしていたところ、それを見つけた父親が激怒してヴァイオリンを叩き壊してしまいます。

普通なら子供にとってトラウマになりそうな出来事でしたが、それを救ったのが母アンナでした。

彼女は息子にすぐさまヴァイオリンを買い与え、息子をバックアップ。

実はヨハン1世は女性好きで愛人の元に入り浸って家庭を顧みようとせず、その夫に対しアンナは嫉妬の炎を燃やし息子を夫以上の音楽家に育て上げることで復讐しようと考えたようです。

そのおかげで私たちは素晴らしい音楽に接することができるのですが・・・実はヨハン2世も音楽だけでなく女性好きも受け継いだようで、生涯に3回結婚しています。

       

               3番目の妻・アデーレと

そんな母の思いに応えるべく、彼は密かにヴァイオリンを練習。

一旦は簿記を学びましたが、17歳の時に音楽の道に専念することを決意。

教会のオルガン奏者ヨーゼフ・ドレクスラーに師事し、本格的に音楽を学び始めます。


そして息子が自分のライバルとなることに反対した父親の様々な妨害工作にもめげず、彼は18歳の時に自らの楽団を率いてデビュー。

自らヴァイオリンを弾きつつ楽団を指揮するスタイルで、この時のために作曲したワルツ数曲を披露したところ、見事に大成功。


ヨハン2世はこのコンサートで指揮者・ヴァイオリン奏者・作曲家としての才能を聴衆にアピール・・・翌朝の新聞には、

こんばんはシュトラウス1世、おはようシュトラウス2世!

という有名な見出しが紙面を飾りました。

これにより、父子は完全なるライバル関係に。
そして母アンナが夫に離縁状を叩きつけて離婚。

1世と2世は完全に決裂・・・かと思いきや、彼らはその後お互いを助け合う関係になったといいますから、分からないものです。


その後1848年革命に加担するなどして政府から睨まれたこともありましたが、ロシアやアメリカでの公演やオペレッタへの進出の成功により、その名声を更に高めます。

そして1894年に音楽生活50周年の祝賀行事を盛大に催された彼が肺炎により73歳でこの世を去ったのは、1899年6月3日のことでした。

単に巷でワルツ王と呼ばれただけでなく、同時代に活躍した多くの音楽家も彼を絶賛。 プラームスは、


シュトラウスの音楽こそウィーンの血であり、ベートーヴェン・シューベルトの流れを直接受けた主流。」

と高く評価しました。


       
                 
ブラームス(右)と


葬儀の際には国民10万人い所が参列したという、オーストリアを代表する作曲家の冥福を、小澤征爾/ウィーン・フィルの優雅な演奏を聴きつつ、祈りたいと存じます。



                人気ブログランキング

強 打

人気ボクシング・コミック 『はじめの一歩』 で、主人公・幕ノ内一歩が編み出した必殺パンチは、〝デンプシー・ロール〟。

今日は、そのパンチの元祖である元世界ヘビー級チャンピオン、


 ジャック・デンプシー

Jack Dempsey


の命日にあたります。


       


(本名:ウィリアム・ハリソン・)デンプシーは、1895年に貧しい靴屋の息子としてコロラド州マナッサで生まれました。


その後ウェストバージニア州やユタ州で育った彼は、家計を助けるために小学校を中退して16歳の時に家を出て炭鉱夫に。

そして賭け試合のボクサーや用心棒をして国内を放浪していた最中、その強さと野獣の如き鋭い目つきを見込まれ、ボクシングの世界へ。

それまでのボクシングは、後ろ足に重心をかけるスタイルでしたが、彼は初めて前掲姿勢を取って体をゆすり、その反動で左右の強烈なパンチを繰り出すスタイル、即ち〝デンプシー・ロール〟で強打を連発。

1919年に入って5連続初回KО勝利を飾った彼は、その勢いに乗って、同年7月4日に世界タイトルマッチに臨みます。

チャンピオンは、黒人初の世界ヘビー級王者ジャック・ジャクソンを破って国民的英雄となった、身長2メートル近い大男のジェス・ウィラード。

対するデンプシーは身長185cm・体重85kgと、ヘビー級ボクサーとしては当時でも小柄な部類。

しかし彼は臆することなく、チャンピオンに向かって猛突進・・・初回にいきなり7度のダウンを奪う(※当時はスリーノックダウン制はなし)と、その後もパンチを浴びせ続け、3回終了後TKOで勝利。

 ※その試合の模様を、こちらでご覧いただけます。(↓)



ご覧になってお分かりの通り、現在ならとっくにレフェリーストップになる一方的な試合。

しかし当時はラウンド途中でレフェリーが試合を止めることはなく、またダウンしても選手はニュートラルコーナーに下がらず、立ち上がった相手にすぐパンチを浴びせられましたから、グロッギーな選手は、まさにサンドバッグ状態。

この試合で負けたウィラードは顎を7ヶ所も骨折して歯も数本折られ、頬骨と肋骨数本を骨折、おまけに片耳の聴力を著しく失う羽目に。

また一方のデンプシーも、試合開始前に 「初回KО勝ちしなければ、ファイトマネーを支払わない」 とプロモーターから通告されており、事実その通りギャラはゼロ。

この〝トレドの悲劇〟と呼ばれた試合でデンプシーはチャンピオンになったものの収入はなく、おまけにあまりに凄惨な内容だったことから、彼にはすっかりヒール(悪役)のイメージが定着してしまいました。


1921年7月に行われた3度目の防衛戦では、アメリカで試合が行われたにも拘わらず、観客は相手のフランス人ボクサーを応援したそうですから・・・。

しかしこの試合で劣勢を挽回しKО勝ちを収めたデンプシーは、ようやくその実力通りの評価を手にすることができました。


その後も勝利を重ね、「大統領の名は知らずとも、デンプシーの名を知らぬ者はない」 とまで言わしめる超人気ボクサーになった彼は、通算戦績83戦 62勝(50KO)6敗9引分け 6無効試合を残して引退。


その後プロモーターを務めましたが、現役時代から付き合いのあったアル・カポネ一味から八百長試合を強要されるなどしたことから業界から手を引くことに。

とは言え、知名度を利用しマイアミ・ビーチでジャック・デンプシー・ホテルやレストラン経営に乗り出した際には、マフィアとの関係は続いたそうですが・・・。


プロモーター業からは手を引いたものの、1960~70年代にはモハメド・アリやジョー・フレージャーの試合会場にはよく顔を出していた彼が87歳でこの世を去ったのは、1983年5月31日のことでした。

       

現在のボクシングとは違う荒っぽい拳闘の世界を生き抜き、日本の漫画でその名を残す〝拳聖〟の冥福を、あらためてお祈り致します。


                人気ブログランキング

下天は夢か

今日は、歴史小説家として多くのファンを持つ

 津本 陽 さん

の命日・三回忌にあたります。

       

津本(本名:寅吉)さんは、1929(昭和4)年に和歌山市で生まれました。

旧制和歌山中学校から旧制大阪専門学校(現・近畿大学)を経て1961年に東北大学法学部を卒業。

同人誌『VIKING』で活動し、同誌に掲載した『岡の家』が直木賞候補作となって注目されると、1978年に故郷・和歌山を舞台にして古式捕鯨を描いた『深重の海』で直木賞を受賞。

そして剣道三段・抜刀道五段で武道に関する造詣が深い彼は、1982年に発表した
『明治撃剣会』以降、塚原卜伝や千葉周作ら剣豪を主人公にした小説で、また同時に戦国武将を扱った歴史小説で人気を博します。

その中でも代表作と言えるのが、1986年から約2年半にわたり日本経済新聞に連載された、『下天は夢か』でしょう。

織田信長を描いたこの長編小説は1989年に単行本化されるや累計200万部を超える大ベストセラーとなり、彼の名は一気に全国区に。

当時転勤族だった私は、この作品を新聞で読んで初めて津本さんの存在を知った次第。

しかし津本さんの作品は戦国武将に留まらず、西郷隆盛や勝海舟ら幕末に生きた人物や、則天武后や項羽と劉邦など、大陸を舞台にしたものまで広範囲に及びました。


豊富な資料を丹念に精査した多くの作品を残しましたものの、その反面剽窃(※ひょうせつ=他人の文章や説などを許可なく転用すること)を取り沙汰されることも1度ならずありましたが・・・。

吉川英治文学賞や菊池寛賞、また紫綬褒章や旭日小綬章を授与され、1995年から10年余りにわたって直木賞選考委員も務めた日本文学界の重鎮が誤嚥性肺炎により89歳でこの世を去ったのは、2018(平成30)年5月26日のことでした。

私自身、津本作品は歴史小説を何冊か読みましたが、意外にも印象に残る作品として書棚に残っているのは現代モノが多いんです。

ひとつは、2000年に幻冬舎から出版された、松下幸之助氏を取り上げた


 『不況もまたよし』


        


それと、やはり幻冬舎から2002年に出された、私が最も尊敬する政治家・田中角栄氏を描いた

 『異形の将軍 田中角栄の生涯』


 


   

いずれも従来の伝記モノとは視点を変えて書かれているところに新鮮味がありました。

そして還暦を過ぎた今こそ読み返そうと思っているのが、これもまた幻冬舎から2003年に出版された


 『老いは生のさなかにあり』 


       


「老境に至ってなお、盛運のいきおいを増してゆく人物は、『考える人』である」


と語る津本さんが、徳川家康や豊臣秀吉から是川銀蔵に至るまで小説の題材にした先人の生き様から紡ぎ出す老後の人生論から、今後の生きる指針を探り出したい・・・そう思っています。

さて皆さんは、どの津本作品がお好きですか?


              人気ブログランキング

紳 士

私のような昭和オヤジ世代にとって、映画『007』シリーズのジェームズ・ボンドといえば、この方のイメージが強いはず。


今日は、そのイギリス出身の俳優


 サー・ロジャー・ジョージ・ムーア
        Sir Roger George Moore

の命日・没後3周年にあたります。

       

ムーア(本名同じ)は1927年に警察官の息子としてロンドンで生まれました。

1940年代にエキストラとして映画出演していた彼は、第二次世界大戦中イギリス軍の娯楽舞台に所属。

除隊後に大部屋俳優となり、モデルやステージ・マネージャーなどもしていたとか。

そんな彼の運命を好転させたのは、渡米。

1950年代に米テレビドラマ出演を続け、1954年にMGMの契約俳優となると、1962年に英テレビシリーズ 『セイント 天国野郎』 の主役を務めてから有名に。


後に第5代ボンド役を務めたピアーズ・ブロスナンにとって、このドラマに出演するムーアは、最高のヒーローだったそうな。

そして彼の代表作と言える冒頭の 『007』 シリーズには、1973年公開の第8作 『死ぬのは奴らだ』 から登場。

実は当初原作者のフレミングが望んだ初代ボンド役は、ロジャー・ムーアだったのだそうな。         


完璧なクィーンズ・イングリッシュを話し、原作通りの長身(185cm)でブルーの瞳、物腰の柔らかさと気品が滲み出る姿はボンドのイメージにピッタリだったから。 


しかし当時ムーアは前述の『セイント』シリーズの契約が残っていたため出演できず。


代役としてムーアが製作者側に紹介したのが、S・コネリーだったとか。

ボンド役として売り出して世界的な俳優となったコネリーにとって、ムーアはまさに恩人といえましょう。


そして1985年公開の第14作 『美しき獣たち』 まで12年間、現在のところ歴代ボンド役としては最も多い7作品に出演した彼は、世界的名優として認知されました。

       

ただ反面、ムーア=ボンドというイメージが強くなり過ぎた感もありましたが、現在のボンド役・ダニエル・クレイグのような体育会系ではなく、会話にジョークがありボンドガールとの絡みも多い〝紳士〟たるムーア・ボンドは、確実に007シリーズの人気上昇に貢献したはず。

私生活に於いても4度結婚していますから、さぞモテたんでしょうネ。

007シリーズ以外てば、『キャノンボール』(1980年)や 『ピンクパンサー5』(1983年)などにも出演し、2003年にはナイトの称号も授与されました。

来日時には 『笑っていいとも』 にも出演して、お得意のジョークで会場を沸かせた彼がガンにより89歳でこの世を去ったのは、2017年5月23日のことでした。

       

今宵は彼の出演した007シリーズを観ながら〝3代目ボンド〟の冥福を祈りたいですが、皆さんはどの作品がお好きでしょうか?

私はちょうどその作品のロケが行われた翌年に野球でブラジル遠征し、あのジョーズと死闘(?)を演じたローブウェイに乗ったこともあって、『ムーンレイカー』 がお気に入りなんですが・・・。


       

              人気ブログランキング