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イージー・リスニング

今日は、昭和世代には懐かしいイージー・リスニングの王者、


 アンヌンツィオ・パオロ・マントヴァーニ

Annunzio Paolo Mantovani

の命日・没後40周年にあたります。

       

マントヴァーニは1905年、ヴァイオリニストだった父親の息子としてイタリアのヴェネツィアで生まれました。


彼が4歳の時に一家でロンドンに移住すると、同地のメトロ・ポール・ホテルのサロン・オーケストラを率いてプロの音楽家としてのキャリアをスタートさせました。

そして1930年代に彼の名を冠したマントヴァーニ・オーケストラを結成。

当初は小規模でしたが、やがて42名を擁する楽団に成長。

しかも42名の2/3にあたる28名を弦楽器で占めるという、当時としては革新的な編成。

それを3つに分けて高音から低音へと音を重ねながら滑らせるという、所謂〝カスケイティング・ストリングス奏法〟を確立。

それによってメロディーの美しさを際立たせロマンチックな音色を生み出すことで、人気を博しました。

それではまず、皆さんが一度は耳に下であろう、その楽団の特徴がよく表れているこの曲・・・『シャルメーヌ』をお聴きください。




如何でしょう?  ストリングスの美しい響きが心地良いですょネ。

1940年にイギリスのレコード会社デッカと契約し、以後マンドヴァーニが1980年3月29日、老衰により74歳でこの世を去るまでの40年間に、延べ767曲も録音。

シャルメーヌの他にも、『グリーンスリーブス』 や 『ムーランルージュのテーマ』 など数々の大ヒット曲を生み出しました。


同楽団はリーダーの死後も解散せず現在でもムードミュージック分野で高い人気を誇っていますが、その結束の固さもマントヴァーニの力量・人格の為せる技なのかもしれません。

それでは最後に大ヒット曲のひとつ、『80日間世界一周』を聴きつつ、彼の冥福を祈りたいと存じます。




昭和世代の方は、『兼高かおる世界の旅』を思い出したでしょうネ。

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代表的日本人

かつて第35代アメリカ大統領にジョン・F・ケネディが就任した時、日本の新聞記者が日本で最も尊敬する政治家は誰か? と質問した際、

「それは上杉鷹山だ」

と彼は即答したのですが、逆に日本の記者たちでその名を知る者は誰もいなかった・・・という逸話は有名です。

日本でもあまり知られていなかった、この江戸時代に生きた米沢藩主を、なぜケネディが尊敬し影響を受けたのか? それは


 内村 鑑三

の著書を読んでいたからだ、と言われていますが・・・今日はケネディ大統領にまで影響を及ぼした、このキリスト教思想家の命日・没後90周年にあたります。

       


鑑三は1861(文久元)年に、高崎藩士・内村宜之の長男として江戸・小石川の武家長屋で生まれました。

幼少期に父から儒学を学んでいた彼でしたが、明治維新の廃藩置県によって父親が隠居すると英学校に入り、英語に親しむように。

そして1874年に東京外国語学校(後の東京大学予備門)に入学すると、そのまま在学すれば東京大学卒となるところを、学費の問題で官費生の特典が受けられる札幌農学校へ。

この間、新渡戸稲造や宮部金吾と同級だった彼は、入学後揃って(半ば強制的に?)洗礼を受け、キリスト教徒に。

       

       札幌農学校時代の左から新渡戸・宮部・内村(1883年)


卒業後、開拓使御用係、農商務省農務局水産課勤務を経て退職。

その直後に結婚したものの僅か3ヶ月で離婚した彼は、私費でアメリカに留学しアマコスト大学で回心(
自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験)。

帰国後、第一高等中学校(現・東京大学教養部他)で教鞭を取りましたが、その最中の1891年に、講堂で行われた教育勅語奉読式に於いて、彼が明治天皇親筆の署名に対し最敬礼をせず敬礼したのみで降壇したことを同僚・生徒らに非難されてしまいます。


間が悪いことに、ちょうどその頃悪性の流感に罹って寝込んでいる間に事態は悪化し、これが『不敬事件』として世間を騒がせるまで話が大きくなり、結局辞職することに。

しかしそれが却って彼の執筆活動を活発化させました。

後に『余は如何にして基督信徒となりし乎』として翻訳された“HOW I BECAME A CHRISTIAN”など多くの著作を発表。

1897年には新聞社に入社して 『万朗報』 英文蘭主筆となり、幸徳秋水らと共に社会評論家として頭角を現すと、足尾鉱毒事件の反対運動に参画。

しかし日露戦争直前から〝非戦論〟を展開したことで 『万朗報』 を退社。

その後は社会運動からキリスト教の活動に重点を置くように。

1900(明治33)年9月に 『聖書之研究』 を、また1901年に 『無教会』 を創刊し、無教会主義を創唱。


生涯、平信徒として聖書の研究と執筆活動を続けた彼が69歳の誕生日を迎えた直後に天に召されたのは、1930(昭和5年)3月28日のことでした。

さて、冒頭ご紹介したケネディ大統領が読んだとされる彼の著作は、(日清戦争中の1894年に刊行された“Japan and the Japanese

とそれを改訂して)1908年に再版された“Representative Men of Japan ”。

もちろん英語で書かれたものですが、これが後に和訳され 『代表的日本人』 として出版されました。

        

西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の5人を取り上げており、新渡戸稲造の『武士道』と並び広く世界に日本(人)を紹介した名著ですので、是非ご一読をお勧めします。

今宵は、かつてケネディ大統領が読んだであろう上杉鷹山の項を久しぶりに読み返しつつ、著者の冥福を祈りたいと思います。
笑3


ところで、皆さんが 「日本を代表する5人を選べ」 と言われたら、誰の名を挙げますか?

私なら・・・昭和以降自分が存命中を知る人物であれば、松下幸之助・安岡正篤・田中角栄・東山魁夷・王貞治の各氏でしょうか。


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【本日増刊】 武 人

今日は、かつて文部省唱歌にまでなったにもかかわらず、戦後教育では全く教科書に記載されなくなった大日本帝国海軍軍人、


 広瀬 武夫 中佐


の命日にあたります。


       

1868(慶応4)年に現在の大分県竹田市に武家の次男として生まれた武夫少年は、母と7歳の時に死別・・・祖母に厳しくサムライ教育を施されました。


9歳の時に西南戦争で生家は消失し、かつて坂本龍馬と盟友であった父親が裁判官として単身赴任していた飛騨高山に転居。

同地の小学校を卒業後そこで代用教員となりましたが、退職後海軍兵学校に入校し講道館で柔道を学び4段の腕前に。


        

                                   16歳の広瀬青年


兵学校卒業後は海軍少尉に任官され、海門・比叡・筑波・扶桑 に乗船して太平洋での遠洋航海を体験、その間清水港では豪傑ぶりで鳴らした清水次郎長との交友エピソードも残しています。


日清戦争に従軍後、1985(明治28)年には海軍大尉に昇進。


必ずやロシアと戦う時期が来ると考えた彼は、敵国を熟知する必要性を痛感し独学でロシア語を学び始めます。


その努力を評価され2年後にロシア留学生に抜擢されると、ロシア語を学ぶ傍ら軍事施設を見学するなどして同国の情報を収集。


1899(明治32)年には駐留武官となってドイツ・フランス・イギリスを視察。


3年後の帰国時わざわざイルツークまで鉄道に乗って輸送能力を調べ、更にそこからは酷寒のシベリアを馬ゾリで横断し実情を探索。


ちょうどその頃、日本ではあの八甲田山の陸軍遭難事故があったのですから、それよりも過酷な条件の中16日で約2,000kmを走破したことは、実に驚くべき離れ業です。


そして彼の予想通り、やがて日露戦争が勃発。


戦艦 ・朝日の水雷長として出撃した広瀬大尉は、1904(明治37)年3月27日・・・ロシア艦隊の停泊する旅順港の入口に船を自沈させて動きを封じる決死の作戦実行部隊に志願。


第2回目の閉塞作戦は4隻の船を沈める計画であり、その中の一隻・福井丸の指揮官となって出撃。


そして一旦船を離れたものの、行方不明となった杉野孫七上等兵曹捜索のため帰船。


3度も船内を捜索したものの見つからず、仕方なくボートで離船した際に敵砲弾の直撃を受け戦死・・・まだ35歳という若さでした。


生涯独身で、部下への体面から女性とデートしても一切手を出さなかったという超硬派。


次郎長との付き合いや横綱・常陸山と義兄弟の契りを交わしたことからも、気骨ある人柄が偲ばれます。


その生真面目で職務に忠実な性格、そして我が身の危険を顧みず部下を探し回ったということで、彼は2階級特進で中佐となり日本軍初の〝軍神〟として崇め奉られました。


彼の壮絶な戦死はヨーロッパにも軍人の鑑として伝えられ、イギリス・ドイツでは絵葉書にもなり海軍士官教育の模範になったといいます。


また亡くなった後にロシア海軍軍人の娘・アリアズナ嬢との文通が明らかになりましたが・・・彼女は愛する異国人の悲報を聞きその場で卒倒、しかも以後生涯にわたって胸につけた喪章を外さなかったとか。


         


敵国の白人女性をそこまで惚れ込ませた広瀬中佐の人間的魅力は、その言動や逸話の数々から容易に想像できますが、その彼の生涯については、この本によって詳細を知ることが出来ます。(


  『 広瀬武夫  旅順に散った「海のサムライ」   
                     (櫻田 啓・著 PHP研究所・刊)


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


私は常々不思議というか、不満があるのですが・・・なぜ現代の学校教育では、ケネディ大統領やチャーチル首相などの外国人や信長・秀吉・家康など中世の有名人・天下人を扱っても、広瀬中佐のように国の行く末を案じ部下を救うために自らの命を賭けた素晴らしい日本人を取り上げないのでしょう?


ただ軍人だから、と言う理由で除外するのはおかしいと思うのです。


伝説に近い有名人だけでなく、人の道を貫き私たちと同じ世紀を生き抜いた人物とその生き様をこそ、未来を担う子供たちに教えるべきではないでしょうか? 


以前拙ブログでご紹介した、400名以上の溺れかかった敵兵を救助した工藤俊作中佐など、学校で教えない誇るべき先達の逸話を、私たちは子々孫々に語り継がねばなりません。(↓)


いい加減自虐教育から逸脱しなければ、子供たちが自分の国に誇りを持てなくなってしまいます。


最後に、お祖母様が広瀬少年に叩き込んだ 〝八か条〟 をご紹介致しましょう。


 ◆ 他人の悪口を言ってはなりません
 ◆ 嘘をついてはなりません
 ◆ 弱い者いじめをしてはなりません
 ◆ 人を軽蔑してはなりません
 ◆ 愚痴をこぼしてはなりません

 ◆ 人をねたんではなりません

 ◆ 約束は守らねばなりません

 ◆ 口にしたことは実行しなければなりません


・・・嗚呼、耳が痛い。ダメだぁ顔


同郷の作曲家・滝廉太郎にとっても憧れだったという武人・広瀬中佐のご冥福を、尊敬の念と共に衷心よりお祈り申し上げます。


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男 装

女スパイ、男装の麗人・・・といえば、マタ・ハリが有名。(↓)



しかし、日本にも〝東洋のマタ・ハリ〟と言われた女スパイが実在していました。 今日はその

よしこ
 川島 芳子

の命日にあたります。


          


日本名がつけられていますが、実は彼女、日本人ではありません。

本名を愛新覺羅顯
(あいしんかくら けんし)といい、父親は清朝最後の皇族であった第10代粛親王・善耆(ぜんき)。

彼には
正妃1人と側妃4人がおり、彼女らとの間に王子21人・王女17人をもうけましたが、
は一番若かった4番目の側妃の長女・第十四王女として1907年に生まれました。


しかし1911年に辛亥革命が勃発すると、清朝廷内は主戦派と講和派


に分裂。

隆裕皇太后が講和派の主張に傾いて1912年2月に皇帝退位を決断すると、それに反対する粛親王善耆らの皇族は復辟運動を行うため北京を脱出・・・当然ながらも同行しました。


粛親王善耆および家族は日本軍参謀本部の保護を受けて旅順に数年間滞在。

日本政府と復辟運動交渉をするために代理人として指定したのが、義和団の乱以降通訳官として現地入りし、粛親王と親交を結びそのまま現地に残って警務学堂の総監督として清朝に雇用されていた川島浪速(なにわ 1866-1949)でした。


       

               川島浪速(左) と  粛親王


そしてその身分を補完すべく、粛親王は8歳のを彼の幼女とし、川島芳子という日本名がつけられました。

※ただし浪速は籍を入れず、故に彼女は日本国籍未取得のまま。


1915年に来日した彼女は、東京・赤羽の川島邸から豊島師範付属小学校に通い、卒業後は跡見女学校に進学。

その後川島家が郷里の長野県松本市に転居すると、松本高等女学校(現・松本蟻ケ崎高校)に聴講生として通学しますが、1922年に父・
粛親王が死去。

葬儀参列と遺産分配交渉のため帰郷し長期休学を余儀なくされましたが、復学は認められず松本高女を中退。


17歳の時にピストル自殺未遂事件を起こしたり、断髪・五分刈りにして男装するように。 (その原因として川島浪速が肉体関係を迫ったとか恋愛のもつれが原因とする説あり。)

その断髪直後に 「女を捨てる」 という決意文書を認め、それが新聞に掲載されたことで彼女の断髪・男装はマスコミに広く取り上げられ、〝男装の麗人〟と呼ばれました。


端正な顔立ちや清朝皇室出身という血統の良さから高い関心を呼び、彼女の真似をして断髪する女性が現れたり、ファンが押しかけてくるなど、ちょっとした社会現象を巻き起こしたとか。


それから2年後、彼女は関東軍参謀総長・斎藤恒の媒酌により、旅順のホテルで蒙古族の巴布扎布(バブチャップ)将軍の二男と結婚。

        


しかし性格不一致や相手親族との不和が原因で、僅か3年後に離婚。

その後上海に渡った彼女は、そこで駐在武官・田中隆吉と交際し始めると日本軍の工作員として諜報活動に従事。

1931年に満州事変が勃発した際は愛新覚羅溥儀の皇后を天津から旅順に逃す護送に関与。


また第一次上海事変の勃発工作に加担した・・・と言われていますが、それを証言したのは田中隆吉のみで、真偽は不明。


1932年に満州国が建国されると、彼女は小説 『男装の麗人』 の主人公として再び脚光を浴びることに。

〝東洋のマタ・ハリ〟〝満州のザンヌ・ダルク〟などと持て囃され、ラジオ番組に出演したり歌をレコーディングするなど、ちょっとした芸能人並みの注目を集めました。

       


しかし1934年頃から講演会などで関東軍の振る舞いや日本の政策を批判したため軍部から目を付けられるようになり、そのストレスからか薬物を常用するように。

1937年7月に日本軍が天津を占領すると、彼女は同地で料亭を経営し、女将に。

その頃、笹川良一や李香蘭とも交際があったそうですが、1945年に終戦を迎えると、彼女は各地に潜伏。

しかし同年10月に国民党軍に逮捕され、漢奸(売国奴)として訴追され、1947年10月に死刑判決が下されました。

日本で助命嘆願運動が起きたものの、その願いは叶わず・・・1948(昭和23)年3月25日、彼女は北京で銃殺刑に処され、40歳でこの世を去りました。

(死刑になったのは、彼女が日本国籍を持っていなかったから・・・とする説、また処刑されたのは替え玉で実は存命だったとする説も。)


一時交流があったものの、程なく疎遠になった李香蘭宛に、彼女からこんな文面の手紙が届いたそうな。


<「すっかり君も大スターになったな。 もう君と会うことは無いだろう。

君は自分の好きなこと、信じることだけをやりなさい。

僕のようになってはいけない。 今の僕を見てみろ。

利用されるだけされて、ゴミのように捨てられる人間がここにいる。」

世間に注目されながらも、孤独だったのかもしれませんネ。

そんな彼女に興味のある方には、その生涯を丹念に辿ったノンフィクションのご一読をお勧めします。


   『男装の麗人 川島芳子伝』  

                   (上村冬子・著 文藝春秋・刊)

       


久しぶりに同書のページをめくりつつ、寂しき〝男装の麗人〟の冥福を祈りたいと存じます。笑3


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入 水

今から835年前の今日・1185(文治元)年3月24日、源平の最終決戦・『壇ノ浦の戦い』が行われ、ここで平家が滅亡しました。

  


その時に武将だけでなく多くの女性も命を落としましたが、その中で最高位だったのが平清盛の正室、

 平 時子


でした。


彼女は中級貴族だった平時信の娘として1126(大治元)年に生まれました。

宗盛を産んだ1147年に、武家であった平清盛との政略(公武合体?)結婚により正室となったようですが、清盛には前妻がいて2人の間には既に重盛・基盛の2人の男子がおり、清盛にとって宗盛は三男、時子は後妻でした。

 ※平清盛に関する過去記事は、こちら。(↓)



その後二条天皇の乳母となった彼女は、長女・徳子(後の建礼門院)が高倉天皇に入内すると彼女の出産に立ち会うなど清盛一門と皇室の関係を深くする役割を果たします。

1180年に徳子が生んだ外孫が安徳天皇として即位すると、清盛と共に従三宮の宣旨を受け、また清盛が長男・重盛ではなく三男・宗盛を後継者とする意志を強くしたため、時子の出自が嫡流となりました。

そして1181年2月に清盛が亡くなると、彼女は剃髪し〝二位の尼〟と呼ばれ、平家一門の家長的存在に。

しかしその後の源氏との戦いで徐々に追い詰められた平氏は、壇ノ浦の戦いで滅亡したのですが、その際に時子は

「私をどこへ連れて行こうとするのですか?」

と問いかける、まだ6歳だった孫の安徳天皇を腕に抱き、

「心憂き世を去り、極楽浄土に案内致す。
浪の下にも都のさぶろうぞ。」

と答え、共に入水し自害を遂げました。

※この時、安徳天皇の母・建礼門院も入水しますが、源氏将兵の熊手によって引き上げられ、京に送還された後出家。 

大原寂光院で安徳天皇と平一門の菩提を弔い、1214年に59歳で没したとされています。 


この入水時に、彼女は〝三種の神器〟をも手にして海中に没し、神璽と神鏡は源氏軍が確保したものの、宝剣は見つからなかったと言われています。

       

           『安徳天皇入水像の碑』 山口県下関市・みもすそ川別館


それにしても、目に入れても痛くないはずの孫・・・しかも天皇を自らの手で海中に沈めるなんて、現代ではとても考えられない事。

そうしたのは、可愛い孫の行く末を案じ憎き源氏の手に渡すくらいなら・・・という、祖母としての愛情、あるいは平氏の総帥としての意地だったのか?

この辺りの心情、是非女性の皆さんに伺いたいところです。


もし貴女が時子の立場だったら、かわいい孫を水に沈められるでしょうか・・・と。


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超長期

「平時は合議制民主主義でも良いが、有事の際は強いリーダーの登場が望ましい」

とよく言われます。

日本ではその好例として織田信長の名が出ますが、彼の場合は天下統一の志半ばで亡くなってしまいました。

しかしこの方は、第二次世界大戦後に祖国の独立を果たすと同時に初代首相に就任、その後30年余りにわたってその地位を守った、まさに強烈なリーダーシップの持ち主。

今日は、そのシンガポールの


  リー・クアンユー  元首相
  Lee Kuan Yew


の命日・没後5周年にあたります。


        


にこやかながらも強い目力を感じさせる彼は、1923年生まれ。

曽祖父が広東省からイギリスの海峡植民地だったシンガポールに移民した客家系華人の4世にあたり、英語を話す上流階級の出だったそうですが、逆に中国語は話せなかったとか。

ラッフルズ大学に進学したものの、大東亜戦争時に日本軍のシンガポール占領によりイギリス植民地政府が崩壊したため学業を中断。

その後闇市で接着剤を売ったり、シンガポール華僑粛清事件が起きた際は危うく難を逃れると、1943~44年には日本軍に協力して連合軍の通信傍受・翻訳業務に従事。


終戦後はイギリス・ケンブリッジ大学のフィッツウィリアム・カレッジに留学して法律学を学び1949年に首席で卒業すると、同年に帰国後弁護士資格を取得し法律事務所に勤務。


その勤務先の上司が親英政党・進歩党の候補者として立法審議会選挙に立候補。

その運動員を務めたことが、彼の政界入りのキッカケに。


労働組合や学生自治会の法律顧問を務めた際、華人系の住民と繋がりを持つようになり、労働組合の運動指導者にまでなった彼は、1954年11月に人民行動党を創設し党書記長に。


1957年にシンガポール市民権法が成立し、1959年6月に行われた総選挙で同党は51議席中43議席を獲得。

国内の自治権を獲得したシンガポールの初代首相に就任したクアンユーは、イギリスから独立を果たしたマラヤ連邦との合併を画策。

1963年にはマレーシアの一部となりましたが、マレー人と華人との人種対立が激化。

1965年8月9日にマレーシア議会がシンガポールとの関係断絶決議を可決したため、シンガポールは独立国家に。

しかし天然資源や水源が乏しく、また軍事力も脆弱な同国の船出は、多くの難問が山積していました。

 

この国難を乗り越えるべく、シンガポールは独立翌月には国際連合に加盟し、1967年8月には東南アジア4ヶ国と共にASEAN(東南アジア諸国連合)を設立。

また税制優遇措置を実施し、外国資本誘致による輸出志向型工業化戦略を打ち出すことにより、雇用も促進。

その一方で観光局を設置して観光事業に力を入れ、観光立国化にも成功、外貨獲得の有力な柱となりました。

クアンユーは1990年に退任するまで30年余りにわたって首相に在任し、不本意な独立から国土面積が東京23区程のシンガポールを、見事東洋有数の安定国家にしたのです。

退任後も上級相や政府顧問として隠然たる力を誇示したクアンユーが肺炎から合併症を引き起こし、91歳でこの世を去ったのは、2015年3月23日。

没後TIME誌が若き日のクアンユーの写真を表紙に掲載したことからも、その影響力の強さが偲ばれます。

        

現在国難を迎えていると言っていい日本にも、彼のような強烈なリーダーシップを持つ指導者の登場を期待する国民は少なくないでしょうが・・・果たして?


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開国派

今日は、幕末の日本を大きく開国に舵を切らせた大老、

  ほった  まさよし
 堀田 正睦 


の命日にあたります。

       

正睦 (初名:正篤 [まさひろ] )は、 1810(文化7)年に下総佐倉藩第3代藩主・堀田正時の次男として江戸藩邸で生まれました。

その翌年に正時が亡くなり、彼の養子であった正愛が第4代当主となりましたが、正愛自身が病弱で子も夭折していたため、正篤は正愛の養子となり、藩内の跡目争いを経て15歳だった1825年には家督を相続し第5代藩主に。

蘭学を奨励し佐倉順天堂を開くなどしたことから〝蘭癖〟と呼ばれた正篤は、1829年に奏者番(江戸城内における武家礼式の管理役)に任命されて幕政に関わると、1834年には寺社奉行に。

そして1837年には大阪城代として異動し、1841年・30歳で江戸本丸老中と、順調に出世。

老中首座・水野忠邦が推進した天保の改革に関わります・・・が、彼はこの改革が失敗すると見抜いており、1843年に病気を理由に老中職を辞任。

それは水野忠邦が罷免される僅か5日前でしたが、これにより彼は忠邦失脚連座を免れましたから、なかなか政治的嗅覚に鋭い人物だったようです。


老中辞任後、国元に帰って藩政改革に尽力しましたが、開国派だった正篤は1855年10月、当時の老中首座で彼より10歳近く年下だった阿部正弘の推挙により老中に復帰。

※阿部正弘に関する過去記事は、こちら。(↓)



阿部の後任として老中首座に就いた彼はその翌年、第13代将軍・家定に篤姫が輿入れしたことから、〝篤〟を憚り正睦に改名すると、1858年にはアメリカ総領事タウンゼント・ハリスが調印を求めてきた日米修好通商条約締結に対応。


       

                   Townsend Harris


下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震を全権としてハリスとの交渉に当たらせる一方、彼自身は条約調印の勅許を孝明天皇から得るべく上洛。

しかし強硬な攘夷論者だった天皇や公卿らの反対に遭い、勅許を得られませんでした。

※本来その必要が無かった勅許を求めたことが天皇家の政治参画意識に火を点け、後の薩長連合に討幕の勅許を出す契機になったともいわれています。 つまりは寝た子を起こしてしまった・・・ということ?

そして彼が上洛中に将軍継嗣問題が持ち上がり、徳川慶福を推す紀州派と慶喜を推す一橋派が対立。

しかしやはり彼が江戸を空けている1858年4月に大老の座に就いた井伊直弼が、正睦をはじめとする一橋派を排斥。


井伊大老が勅許を得ぬまま同年6月19日に日米修好通商条約に調印 (実際には、前述の井上・岩瀬の全権2名が直弼の許可を得ぬまま独断で調印) すると、その4日後に正睦は直弼に老中を罷免され、幕政から離れることに。

ご存知のように、井伊大老はその後反対派を〝安政の大獄〟で悉く粛清し、その恨みを買って1860年3月に起きた〝桜田門外の変〟によって水戸藩士らに暗殺されます。(↓)


  https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12424484001.html


その2年後、正睦は朝廷・幕府双方から命じられ佐倉城内に蟄居させられ、1864(元治元)年3月21日に53歳でこの世を去りました。

とかく日本史の中では、開国に舵を切ったのは井伊直弼・・・というイメージがありますが、実はその水面下の工作・根回しを行ったのは堀田正睦だったのです。

晩年は不遇でしたが、大正時代に入って彼が従三位が贈られたことからも、その功績は大だったと言えましょう。

阿部正弘・井伊直弼の両名に挟まれてあまり目立たぬ正睦に関して詳しく知りたい方には、こちらの書籍をオススメします。


 『開 国  愚直の宰相・堀田正睦 』 

            (佐藤雅美・著 講談社文庫・刊)


        


もし彼が勅許なしに直接ハリスと条約締結をしていたら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれまぜん。

どう変わったのか? そんなことを想像しながらお読みいただくと、一層面白いと思います。
笑3


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だめだこりゃ

若い世代には、『踊る大捜査線』シリーズでの渋い刑事役のイメージが強いでしょうが・・・昭和世代の私にとって、彼は毎週土曜日午後8時に、ハッピ&鉢巻姿でブラウン管に登場する元気のいいおじさん。


今日は、そのザ・ドリフターズのリーダーであった


 いかりや 長介 さん


の命日・十七回忌にあたります。


       


いかりや(本名:碇矢 長一)さんは、1931(昭和6)年に現在の東京都墨田区で生まれました。

4歳の時に母親を亡くし、疎開先の静岡で終戦を迎えたいかりやさんは、東京の高校を中退後静岡の製紙工場に勤める傍ら同僚らと  「女性にもてたい」 一心(?)でハワイアンバンドを結成。


1959年にミュージシャンを目指して上京、クレイジーウェスト・ジミー時田とマウンテンボーイズに所属。

しかし1961年の大晦日に交通事故を起こしたことで所属事務所との関係が悪化。

翌年、桜井輝夫とザ・ドリフターズに加藤茶さんとほぼ同時期に参加。


1964年には仲本工事さん、高木ブーさん、荒井注さんが加わってザ・ドリフターズを再結成しナベプロに所属。


当時人気絶頂だったハナ肇とクレイジーキャッツの後輩として大々的に売り出されました。

※いかりやさん始めドリフ・メンバーの芸名は、全てハナ肇さんが名付け親。


    


純粋(?)なバンド活動として最も注目を浴びたのは、1966年に来日したビートルズの日本武道館での公演で前座を務めた時でしょうか。


しかしドリフといえば、やはり1969~1985年まで毎週土曜日に放映された 『8時だョ!全員集合』。


私が小学生の時から社会人になるまで続いた長寿・人気番組でした。


毎週笑わせてもらいましたが、そのネタ作りは実に熾烈なものだったことを、彼の著書 『だめだこりゃ』(新潮文庫・刊)で知りました。


       


平均視聴率27.3%、1973年4月に叩き出した最高平均視聴率が50.5%というこのお化け番組は、驚くべきことに殆ど毎週生放送。

ゆえに本番中停電したり火災が発生するなど様々なハプニングがありました。

しかしもっと大変だったのは、本番前。

オンエアの2日前・木曜日に毎週ネタの打ち合わせ会議をしたそうですが、そこでリーダーのいかりやさんがネタを思いつくまで室内は重い沈黙が支配。

当時番組制作に参加していた作家の高田文夫さんは、あまりの重苦しさに耐えきれずその場から逃げ出したことさえあったとか。

その生みの苦しみを15年以上繰り返し、また60歳過ぎても水を被ったり一斗缶や洗面器で頭を殴られたりという身体を張ったコントを続けたのですから、頭が下がります。

『全員集合』 が終了した2年後、1987年にNHK大河ドラマ 『独眼竜政宗』 に出演したことがキッカケで、本格的に俳優業へと転身。


全員集合時代のいかりやさんを知らない若い世代までもが、『踊る大捜査線』 シリーズでの刑事役を高く評価したのも、コント時代の苦労が演技に生かされていたからでしょう。


長く芸能人として活躍したいかりやさんが、原因不明の頚部リンパ節がんで緊急入院したのが2003年5月。

7月には一旦退院し、テレビ出演などの仕事をこなしましたが、翌2004(平成16)年3月15日に転移が見つかり再入院。

その僅か5日後の3月20日に、72歳で天に召されました。

PTAからは子供に見せたくない番組のトップクラスに名を連ね続けた 『全員集合』 でしたが、私にとっては忘れられない思い出の番組。


その中で常に中心で活躍していたいかりやさんは、その後の俳優業と合わせテレビを通じて最もお世話になった芸能人だったと断言できます。

そんな私にとって、最も印象的ないかりやさんの姿は・・・2000年に亡くなったドリフのメンバー、荒井注さんの葬儀で弔辞を読み上げた時。

「出発間際の忙しい時に、とアンタは怒るかもしれないけど、ちょっとお話しましょうや。」


そう言って始まった彼の弔辞は、まるでそこにチューさん本人がいるかのような語りかける口調で淡々と・・・しかしその中身は、かつて黎明期から絶頂期へと向かうドリフターズで共に頑張った戦友ヘの惜別の言葉。


思わず聞き入る、素晴らしい別れの言葉でした。


そのいかりやさん、今は天国で注さんと2人でまたネタ作りに励んでいるのかも。

最後に、いかりやさんが元来ミュージシャンであったことを彷彿とさせる、この撮影時のスチール写真が葬儀の遺影に使われたキリン・ビールのCMを観ながら、昭和時代を代表するコミックバンドリーダーのご冥福をお祈り致します。


いかりやさん・・・ちっともだめじゃなかったですょ!笑2


 


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効 果

皆さんは、救急車やパトカーが目の前を走り過ぎた際、サイレンの音が近づくにしたがって高くなり、遠ざかるにつれて低くなる・・・という体験をお持ちだと思います。

今日は、それを数学式で初めて示し、その現象に名を冠されたオーストリア物理学者・数学者・天文学者だった


 クリスティアン・アンドレアス・ドップラー

Christian Andreas Doppler


の命日にあたります。

       


(失礼ながら)ちょっとロボコップのマーフィ巡査に似た風貌のドップラーは、1803年に音楽祭で有名なザルツブルクに生まれました。

父親は石工だったのですが、なぜか息子の彼は生まれつき病弱・・・そのおかげと言っては何ですが、彼は石工になることを諦め、そのおかげ(?)で学問の世界で名を遺すことに。

1822年から4年間ウィーンの工芸学校に通った後、1835年にはアメリカ移住を目論んだものの果たせず、プラハの州立中等学校で数学と会計学の教授に。

1841年にはプラハ工科大学で基礎数学と実用幾何学を受け持つ教授に就任。

その翌年に、『二重星と若干の他の天体の色光について』 と題する論文を発表し、その中で観測される波の振動数が、波の伝搬する媒体に対する波源の運動や観測者の運動に関係すること・・・つまり冒頭の〝ドップラー効果〟の数式を発表。

そしてその3年後、オランダ人気象学者クリストフ・パロットがオランダのユトレヒトでトランペット奏者を列車に乗せてGの音を吹かせ、それを絶対音感を持つ音楽家に聴かせることで音程が変わることを実証し、ドップラーの算式が正しいことを証明しました。

なぜそうなるか?・・・については文系の私には詳しく説明できませんが、下のイメージ図の通り進行方向が音波の振動が詰められて周波数が高くなり、逆に離れていく際はその逆になるため・・・とご理解いただければ。


     


その後彼は、1850年にウィーン大学の物理学研究所の所長に就任。

同研究所では、後に遺伝の法則で後世に名を遺すこととなるメンデルが教え子の一人でした。

 ※メンデルに関する過去記事は、こちら。(↓)



さてこのドップラー効果・・・私のような一般人には音に関することしか実感がありませんが、実は光の世界や原子炉にもドップラー効果と呼ばれる現象があるのだそうな。

してみると、1853年3月17日に49歳の若さでこの世を去ったこの科学者を、私たちはもっと高く評価すべきでしょう。

今後救急車やパトカーのサイレンを耳にした時には、ロボコップ 
ジャナカッタ  ドップラーの顔と名前を思い出してください。笑3

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被 虐

相手を肉体的・精神的にいたぶることで満足するのがサディズム。

それとは逆に、相手にいたぶられることで性的快感を得る被虐症が、マゾヒズム。


サディズムの語源となったマルキ・ド・サド伯爵については、以前拙ブログ記事で取り上げました。



そして今日は、マゾヒズムの語源であるオーストリアの貴族であり小説家だった

 
レオポルド・フォン・ザッハー=マゾッホ

Leopold Ritter von Sacher Masoch


の命日・没後125周年にあたります。


       


マゾッホは1836年にガリツィア(現ウクライナ共和国)地方のレンベルクに生まれました。

プラハとグラーツの大学で歴史学を学び小説家となった彼は、当初故郷ガリツィアを題材にした歴史小説を書いていましたが、彼の名を一躍有名にしたのが、1871年に発表した


 『毛皮を着たヴィーナス』 (河出文庫・刊)


        


ある青年貴族が、自らの生殺与奪の権限を委ねる旨の契約書を貴婦人と交わします。

そして彼女に支配される喜びを感じた彼は、彼女の前に別の美男子が現れることで嫉妬に狂い、更に快感が・・・。

実はマゾッホ自身、ファニー・ピストールという愛人と 「貴女の奴隷となり、その願望と命令を全て実現する」 という契約書を交わし、彼女に隷属したのだとか。

毛皮を身に着けた彼女に跪くマゾッホの写真が残されていますから、この作品はノンフィクションだと言えましょう。


    


また彼はアウローラ・リューメリンというお針子の若い女性と結婚し、彼女に同作の登場人物と同じ名前・ワンダを名乗らせた上で貴婦人に仕立て上げ、ファニー同様の誓約書を交わし隷従したとか。

しかし小説のエンディング同様、
ワンダは青年ジャーナリストとパリに行ってしまい、2人の関係は10年程で終止符を打つのですが・・・。

たとえ契約書を交わしても、相手がサディストでないと長続きしないんでしょうかネ?

この小説を元にした映画 『毛皮のヴィーナス』 が、2013年に公開されています。


         


『戦場のピアニスト』(2002年)、『ゴーストライター』(2010年)などを手掛けたロマン・ポランスキー監督がメガホンを取り、ワンダ役に自らの妻エマニュエル・セニエを起用したこの作品で、1895年3月9日に59歳でこの世を去ったマゾッホの世界≒マゾヒズムの原点に触れてみませんか?

えっ、そういうお前は観ないのかって?

そりゃあ自分の日常生活と同じ光景を、お金出して観る気しませんもの。
うー


 


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