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教育者

今日は、関西の雄・同志社大学の創立者として名高い教育者、

 新 島  


の命日・没後130周年にあたります。


        


彼は1843(天保14)年に、上州安中藩士・新島民治の子として江戸・神田にあった同藩江戸屋敷で生まれました。

元服後に友人から譲り受けたアメリカの地図書から同国の制度に触れ憧れを持つようになった彼は、幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶと、アメリカ人宣教師による漢訳聖書に出会ったことで当時は禁止されていた海外渡航を思い立ちます。

1864年、アメリカ密航を企て開港地・箱館に潜伏した彼は、ロシア領事館付の司祭ニコライ・カサートキンの協力を得て、坂本龍馬の従兄弟・沢辺琢磨や福士卯之吉と共に6月14日、箱館港からアメリカ船ベルリン号に乗り出国。

上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換えて憧れの地・アメリカへ。

※この船旅の際、船長から “Joe ” と呼ばれたことから、彼は帰国後実名の〝七五三太(しめた)〟から譲、やがて〝襄〟と名乗るように。

ワイルド・ローヴァー号の船主・ハーディー夫妻の援助を受けフィリップス・アカデミーに入学した彼は、1866年に洗礼を受け、キリスト教徒に。

そして1870年にはリトル・アイビーと呼ばれていた名門校アマースト大学を卒業し、日本人初の学士に。


※同大在学時には、後に札幌に赴任することとなるクラーク博士の授業も受けており、その縁で彼が来日したとか。


そして1872年にアメリカ訪問中の岩倉使節団と出会ったことが、彼の運命を大きく開くことに。

新島の語学力に目を付けた木戸孝允が、自分付きの通訳として迎え入れると、彼は使節団と共にニューヨークからヨーロッパ各地を同道。

その後ベルリンに7ヶ月間滞在し、使節団の報告書とも言うべき 『理事功程』 を編集。

これは後に明治政府の教育制度に大きな影響を及ぼしました。

その後各国の教育制度を調査し、1874年にアンドーヴァー神学校を卒業した彼は、その翌年宣教師志願者の試験に合格してボストンで教師としての任職を受けると、日本でのキリスト教主義大学の設立を訴えると、同年11月に横浜に帰着。

同地でキリスト教の講演を行い、毎週日曜日に聖書研究会を開くと、1878年には30人が彼から洗礼を受け、安中教会(現・日本基督教団安中教会)を設立。

そして1875(明治18)年、かねてより親交の深かった公家華族の高松保実より屋敷の約半分を借り受けて校舎を確保し、また京都府知事や府顧問らの賛同を得て旧薩摩屋敷5,800坪を借り受けて同志社英学校を開校し、初代校長に就任。

同志社とは「志を同じくするものの約束による結社」という意味。

     

               開校当時の同志社英学校

これが現在の同志社大学の前身ですが、開校当初は教員が彼を含め2名、生徒はたった8人だったとか。

それが今や2
つの大学、4つの中学校・高等学校、2つの小学校、幼稚園及びインターナショナルスクールと、合わせて10もの学校園を擁する総合学園になったのですから、大したもの。


この開校時の縁で、府顧問・山本覚馬の妹・八重と結婚。

       


1883年に東京に赴き全国基督教信徒大親睦会に幹部として参加すると、その翌年にはヨーロッパに2度目の海外渡航。

しかしその際スイスで心臓発作を起こして遺書を認めたのですが、これが予兆だったのかもしれません。

1885年に帰国すると、同志社英学校に開校翌年入学した徳冨蘇峰の協力により、井上薫・大隈重信・大倉喜八郎・岩崎弥之助・渋沢栄一ら錚々たる政財界人から寄付の約束を取り付け、同志社大学設立の準備に奔走。

しかし1889年11月に心臓疾患を悪化させて静養するも、翌1890年1月23日に46歳の若さでこの世を去ってしまいました。

徳富蘇峰が尽力し念願の同志社大学が開校したのは、彼が亡くなってから30年後の1920年のことでした。


 ※徳富蘇峰に関する過去記事は、こちら。(↓)



上記記事で紹介した通り、彼は同志社英学校卒業直前に事件絡みで中退を余儀なくされましたが、その後も新島に対する尊敬の念は変わらず、新島の臨終に立ち会った彼はその後も貴族院議員の歳費を封も切らずに八重夫人に手渡すなどして生活の面倒を見たそうな。

巨人・蘇峰をそこまで惚れ込ませた新島襄もまた、秀でた人格者だったのでしょう。

あらためて黎明期の日本を支えた教育者のご冥福を祈りたいと存じます。
笑3


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啖 呵

今日は、私が大好きだった俳優・・・そしてタレントとしても活躍した

 松方 弘樹 さん


の命日・没後3周年にあたります。


        


松方(本名:目黒浩樹[こうじゅ])さんは、戦時中の1942(昭和17)年に現在の東京都北区王子に時代劇俳優の父と女優の母の長男として生まれました。

が生まれると両親は『近衛十四郎一座』を結成し、全国津々浦々を巡業したため、幼少期は座員たちに育てられたとか。

少年時代は歌手志望で、作曲家・上原げんとさんの下で五木ひろしさんらと机を並べて歌を学びましたが、五木さんの上手さを目の当たりにして自信を無くすと、父親から「歌う映画スターってのもいいぞ」と言われ、東映入り。


17歳で主役デビューを果たすと、同学年の北大路欣也さんと競う形で、時代劇やヤクザ映画に出演。


1973年から始まった 『仁義なき戦い』 シリーズで活躍した彼に、翌年NHKの大河ドラマから出演のオファーが。

それは、『勝海舟』 で当初主役を務めていた渡哲也さんが体調不良のため急遽降板し、その代役として。

私はこの時初めて松方さんをテレビで観たのですが、そのカッコよさにシピれ大ファンに。


そして 『勝海舟』 は最も記憶に残る大河ドラマ作品となりました。


        


ただこの時に共演した仁科明子さんとの不倫関係となったのは、余分でしたけど・・・。


そして個人的に最もカッコイイ松方さんといえば、1988年から10年間続いた 『名奉行 遠山の金さん』 シリーズ。

お白州で片肌脱いで桜吹雪の入れ墨を下手人に見せつけて啖呵を切るシーンは、何度見てもスカッとしたものです。(↓)



そんなカッコイイ松方さんのイメージが一気に変わったのは、前述の金さんシリーズが放映されていた1985年から始まったバラエティー番組『天才・たけしの元気が出るTV!!』 に出演したこと。

オファーが来た際、映画関係者全員が反対したそうですが、松方さんは自分と違う世界で人気者になったビートたけしさんに会いたくて出演を快諾。

台本にあった
「熱血漢で汗っかきの部長」 を演じたところ、これが大ウケ。

映画や時代劇とは全く違うキャラに、若い女性にまでファン層が広がったのですから、世の中は分かりません。


    

しかし趣味の釣りでもテレビ番組を持つなど活躍の場を広げていた松方さんに突然病魔が襲ったのは、2016年2月。

脳腫瘍の疑いで歌謡ショーを降板した後、病名が脳リンパ腫と判明。

治療中に脳梗塞を併発して急激に体力が衰えた彼が74歳で旅立ったのは、2017(平成27)年1月21日。

闘病期間中、何度も 「もう一度、芝居やりてぇなァ」 と言っていた願いは、遂に叶うことはありませんでした。

しかし幸いにも、私らファンは映画やドラマの再放送で彼の雄姿を見られるのが救いですが・・・。

あらためて日本映画・テレビ界を背負った名優のご冥福をお祈り致します。


       


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フィクサー

ロッキード事件をご存知の中高年世代の方なら、この人物の名に聞き覚えがあるでしょう。

よ し お
 児玉 誉士夫 


今日は、この戦後政財界の黒幕、〝フィクサー〟と呼ばれ恐れられた超大物右翼活動家の命日・三十七回忌にあたります。


        


児玉氏は1911(明治44)年に、現在の福島県本宮市に生まれました。


父が医師だったため家は裕福だったといいますが、その父親が政治にカネを注ぎ込み過ぎて没落し、一家は東京に転居。

幼少期は極貧だったとされ、7歳で母親を亡くした彼はその翌年に朝鮮に住む親戚の元に。

そして京城商業専門学校卒業後、東京・向島の鉄工所に住み込みで働き始めましたが、12歳の時に関東大震災で父を亡くした後、玄洋社の頭山満氏に私淑した彼は右翼活動家の道を歩み始めます。

 ※頭山満氏に関する過去記事は、こちら。(↓)



1931年に全日本愛国者共同闘争協議会に参加すると、国会ビラ撒き事件や蔵相脅迫事件を起こして逮捕・投獄。

釈放後も皇道派のクーデター誘発計画が発覚して懲役3年半を食らい、その後笹川良一氏が結成した国粋大衆党に参加。


そして1937年に外務省・河相情達夫情報部長の知遇を得て、支那各地を視察し、その翌年に海軍の嘱託に。

(この頃源田実と知り合い、戦後彼から瀬島龍三を紹介されます。)


1941年から上海で〝児玉機関〟を運営してタングステンなどの戦略物資を海軍航空本部に納入する契約を独占で請け負うと鉄や塩・モリブデン鉱山をも管轄下に納め、更には日本にヘロインを売るなどして巨額の資金を手にしたとか。


終戦後その資金を目当てにされてか、いきなり東久邇宮内閣の参与となり、(その後も親密な関係を保つこととなる)鳩山一郎氏が自由党を結成した際には、7千万円という巨額の資金を用立てますが、1946年にA級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され巣鴨プリズンに収監。

(本人は東條英機と敵対関係だったため、不服だったとか・・・。)

1948年12月に釈放されますが、その間に
戦時中は鬼畜米英を叫び愛国者として生きていた彼は親米派に180度方向転換して、CIAの協力者(エージェント)に。


その後河野一郎氏や岸伸介氏のバックアップをする一方で夕張炭鉱の労組弾圧のために暴力団を送り込むなど裏社会で隠然たる力を一方、東京スポーツのオーナーとなり腹心を複数の雑誌社役員に送り込むなどしてマスコミにも影響力を持ちました。


1960年に生前葬を行った際には、多数の大物政治家が焼香したと言いますから、その力の程が分かります。


       

                 岸伸介氏(右)と


1960年代初期には会員数15万人以上を擁する日本最大の右翼団体・全日本愛国者団体会議の指導者の一人となり、1969年には日本青年社を結成。


また任侠界では、1963年に山口組の田岡組長と東声会・町井会長との兄弟盃を実現させて東西暴力団の手打ちに一役買い、フィクサーとしての実力を誇示。


しかしそれまでは、あくまでも黒幕としての存在・・・そんな彼の名が華々しく(?)新聞に書き立てられるようになったのは、あのロッキード事件発覚後のこと。

既に1958年からロッキード社の秘密代理人だったという彼が、1972年に首相となった田中角栄氏に国際興業社主・小佐野賢治氏を介して売り込みをかけたとされました。


衆議院の証人喚問を、発作を理由に回避した彼は、脱税・外為法違反で1976年2月に在宅起訴。

その翌月、世田谷区等々力の自宅2階にセスナ機が突っ込むという事件があり、犯人は死亡したものの児玉氏本人は別の部屋にいて無事でした。

その後1回だけ出廷した時に私は初めて動く児玉氏の姿をニュースで見ましたが、身体は小さくとも人を寄せ付けない鋭い眼光と身体から発散される迫力に、思わず 「さすがはフィクサー」 と感心してしまいました。


       


その後病気を理由に自宅に引きこもった彼は、1983年に有罪判決が出されたものの、控訴中だった1984(昭和59)年1月17日に、再び発作に襲われ72歳でこの世を去りました。

執り行われた葬儀には、生前葬の時と違い政治家は殆ど参列しなかったとか。

既に時代は平成から〇〇に変わった今、昭和はますます遠くなりにけり・・・ですが、戦後政財界で隠然たる力を持ったフィクサーに関して詳しく知りたい方には、こちらのご一読をオススメします。


『児玉誉士夫 巨魁の昭和史 (有馬哲夫・著 文春新書・刊)


        

同書を読むと、彼がロッキード事件前に航空機選定に絡み首相の首を挿げ替える程の隠然たる力を持っていたことが分かります。

また戦後日本の混乱期には、彼のような政界と裏社会を結びつける調整役が必要だったことも・・・。


果たして21世紀の現在、彼のようなフィクサーは日本に存在するのでしょうか?


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遺 言

今日は、中高年世代の方ならよくご存じであろう、


小野田 寛郎 元陸軍少尉


の命日・七回忌にあたります。


         


小野田少尉は1922年和歌山に生まれ、1942年陸軍に入隊。 


その後陸軍中野学校に入校し、1944年12月ルバング島に着任。

翌年2月、米軍による艦砲射撃から逃れるため、島の奥地に潜伏。


陸軍中野学校で遊撃戦の訓練を受け、また師団長から玉砕を厳禁されていた彼は、その後仲間と共にゲリラ活動を続行。

潜伏中に手に入れたトランジスタラジオで日本の短波放送も聞き、競馬中継も楽しんだそうですが、それでも30年近いゲリラ活動中にはアメリカ駐留軍基地を100回以上攻撃し、アメリカ兵士やフィリピン警察軍など30人以上を殺害したとか。

しかし仲間の死亡により孤独に苦しめられるようになった小野田少尉は、彼に会うためにルバング島入りした24歳の冒険家・鈴木紀夫さん
(※1986年11月、ヒマラヤで38歳の時に遭難死)と出会い、彼が連れてきた上官・谷口義美元少佐の任務解除・帰国命令に従い1974年に投降、帰国しました。          


当時中学生だった私にとって最も強く印象に残ったのは、小野田少尉の〝眼〟。


〝鋭い眼光〟という言葉がありますが、まさにそれ。

       


それまで少尉のような殺気を帯びた射るような眼光を持つ日本人を見たことがなかっただけに


(あぁ、軍人さんってこういう目つきになるんだ・・・)


と少なからずショックを受けた事を憶えています。

その後小野田さんは日本政府から渡された見舞金100万円を全て靖國神社に寄附し、次兄のいるブラジルに渡航して牧場経営に成功。


その傍ら、サバイバル術を通して健全な日本人を育成するべく 『小野田自然塾』 を主宰。

       


80歳を過ぎてなお精力的に活動を続けられましたが、2014(平成26)年1月16日・・・肺炎により、91歳でこの世を去りました。


-orphan;">小野田氏は、自らの体験を通して、多くの含蓄ある言葉を遺されています。

その一部をご紹介すると・・・


★ 中野学校は現役兵の中から選抜でした。だから辞退しようと思えば辞退できます。敵の中に飛び込んでいって、どこで死ぬか分らない縁の下の力持ちの任務ですから、こんなことは強制したって無理です。一番大事なのはその人間に覚悟があるかどうかです。


★ 中野学校では、今まであったことは敵も研究して知っているから、とにかく次から次に自分の頭で考えろと。その場その場で新しく考えることを教わりました。また教官から「貴様たちは誰のことも信用してはいけない。俺のことも信用してはいけない。自分の判断だけを信用しろ」と教わりました。だから自分が正しいと思ったら、それに従うのみです。


間違えたら自分の命にも関わるわけですが、それは完全に自己責任です。そういう精神を教わったことは、ルバングでの30年の生活に役立ったと思います。

★ まずは健康でいることが大事です。そして健康でいるには頭をよく働かせなければダメです。自分の頭で自分の体をコントロールする。

健康でないと思考さえ狂って、消極的になったりします。

★ 軍人だからまずは命令です。命令というと受身の印象があるけれども、我々は「俺がやらなければ誰がやる」という教育を受けていますから、使命感といってもいいでしょうね。


完遂できなければ己の名折れだという考えがありました。また、そういう任務遂行の目的意識が常にあれば、いろいろな知恵が出るものです。


★ ブラジルでは500ha・1,000頭以上の牛を飼わないと牧場主と認めてくれないんです。私が開拓した約1,200haといったら、成田空港と同じくらいの広さで、「何の経験もない素人ができるはずがない」とも言われましたが、僕に言わせればルバング島の20分の1でしょう。たいしたことはないですよ。


★ 日本が戦争に負けて、戦前のものをすべて放棄したことから、今の日本の混乱は始まっていると思います。


米国の占領政策で自由と権利ばかり刷り込まれ、結局個人主義ではなく利己主義になってしまった。利己主義だから他人は全然認めないんです。自分の邪魔をする奴は親でも何でも抹殺する。集団とか国とか、自分の自由を束縛するものはすべて悪だと思っているんです。ひどいものです。


だから僕は自然塾に来た子供たちに聞くんです。

「君たち、一人で生きられる?」と。


一人で生きられるかどうかを考えたら、自ずとどう行動すればいいかわかると思います。


★ 戦前、人々は「命を惜しむな」と教えられ、死を覚悟して生きた。

戦後、日本人は「命を惜しまなければいけない」時代になった。


何か命がけでやることを否定してしまった。 覚悟をしないで生きられる時代は、いい時代である。 しかし死を意識しないことで、「生きる」 ことを疎かにしてしまってはいないだろうか。

これら小野田さんの言葉を、私達日本人は深くかみしめる必要があるのではないでしょうか?

そして最後に、小野田さんのご冥福を祈りつつ、彼の肉声をお聴きいただきたいと思います。


まずは、2011(平成23)年8月15日に靖国神社で行われた戦歿者追悼中央集会におけるスピーチです。  



そして、小野田さんが親友に現代日本の精神的な衰退を憂い〝遺言〟として語った動画です。



私たちは、小野田さんがあの世で安心できるような日本にしていかなければなりません。扇子


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激情型?

今日は、映画監督としてだけでなく、タレントやコメンテーターとしても活躍した

 大 島  渚 さん

の命日・没後7周年にあたります。    


    


大島監督は1932(昭和7)年に岡山県玉野市に生まれました。

父親が水産学者でカニやエビの研究をしながら瀬戸内海を転々としていたことから、〝渚〟と命名された大島少年は、6歳の時にその父親が亡くなったため京都にある母の実家で暮らすように。

1950年に京都大学に入学した彼は、学生運動に加わり京都府学連委員長を務めた、バリバリの左翼(とは言え、後に彼は既成左翼を批判していたそうですが)。

そのせいか法学部助手試験に不合格となるも、在学中に劇団 『創造座』 を創設・主催していた彼は、大学卒業後松竹に入社。

助監督を務めた後、1959年に 『愛と希望の街』で監督デビュー。


翌年の 『青春残酷物語』 などのヒットにより、篠田正浩さんらと共に〝松竹ヌーベルバーグの旗手〟として知られるように。

しかし1960年に安保闘争を描いた 『日本の夜と霧』 を発表したものの、公開から僅か4日後に松竹が無断で上映を打ち切ったことに怒った彼は、翌年退社。



後に結婚する女優の小山明子さんや助監督だった田村孟さん、俳優の小松方正さんら6名で映画会社 『創造社』 を立ち上げます。

その後テレビ界にも進出し、活動の幅を広げると共に認知度も高まると、1973年に 『創造社』 を解散し、2年後に大島渚プロモーションを設立。

その翌年、阿部定事件をモチーフに激しい性描写で話題となった『愛のコリーダ』 を発表。

現在販売されているDVDにもボカシが入っているそうですから、当時としては時代の最先端(?)を行っていた同作は、カンヌ映画祭に出品され話題になる一方、スチール写真などを掲載した雑誌 『愛のコリーダ』 は猥褻物頒布等の罪で起訴されました。(判決は無罪)


しかし個人的に最も印象に残る大島作品といえば、やはり1983年に公開された『戦場のメリークリスマス』。


ビートたけし師匠が勝新太郎の代役として起用され、後に北野武監督が誕生するキッカケを作ったこと、また沢田研二さんの代役で出演した坂本龍一さんの音楽が素晴らしかったことやデビッド・ボウイを起用したことなど、まさに日本映画史に残る名作・・・というより話題作でした。


       


大島監督は、以前拙ブログでご紹介した 『少年』(1969年) でも、主役の少年に素人を抜擢するなど、俳優以外の素人をよく起用することでも有名だそうですが、『戦メリ』 もその典型と言えましょう。

 ※『少年』に関する過去記事は、こちら。(↓)



その後も人間とチンパンジーの愛を描いた 『マックス、モン・アムール』 などを発表し、1980年から16年間も日本映画監督協会の理事長を務めた大島さんですが、私としては映画よりも 『朝から生テレビ』 のレギュラー出演など、テレビのコメンテーターという印象が強いです。

実際、ご本人も当初は撮影資金捻出のためにテレビ出演していたものの、この頃にはそれが生きがいになっていたと仰っていますから・・・。

そして最も記憶に残る大島さんの映像といえば、1990年に行われた
結婚30周年パーティーの際、祝辞を頼んでしたのにそれを忘れ、何時間も待たせた野坂昭如さんにステージ上で殴られ、マイクで反撃したシーン。(↓)


まるで子供の喧嘩みたいで笑っちゃいますが・・・実は大島さん、過去に頼んだマッサージが来ないと腹を立てて旅館の女中さんを殴ったり、対談した韓国の文化人に 「バカヤロー」 と言ったりと、かなり血の気が多い方。

でも短気な人に、悪人はいないっていいますけどネ。


そんな大島監督が脳出血でイギリスのヒースロー空港で倒れたのが、1993年。


3年のリハビリを経て1999年に発表した『御法度』は、ブルーリボン賞の作品賞・監督賞を受賞。


2000年には紫綬褒章、翌年にはフランス芸術文化勲章オフィシエ章を受章したものの、再び病状が悪化。

そして遂に2013(平成25)年1月15日、肺炎により80歳で天に召されました。

今は、2015年に亡くなった野坂昭如さんと仲直りして、天国で酒を酌み交わして・・・あっ、飲み過ぎるとまた喧嘩になっちゃうかナ?
あせあせ


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借金苦

皆さんが通った学校の音楽室に、バッハやベートーヴェン・モーツァルトらと並んで、こんな肖像画が壁に並んでいませんでしたか?

きっと見覚えがある方が多いと思いますが・・・今日は、この〝アメリカ音楽の父〟といわれた


 
スティーブン・コリンズ・フォスター

 Stephen Collins Foster


の命日にあたります。


        


フォスターは1826年にペンシルベニア州のルイスヴィルで、比較的裕福な家庭の10人兄弟の末っ子として生まれました。

趣味でヴァイオリンを弾く父親と、詩情豊かで教養のある母親の間に生まれた彼は幼少期から音楽の才能を見せ、7歳から横笛、9歳からギターを独学で弾き始め、15歳の時にはアゼンス・アカデミーの卒業式で自作の円舞曲を自らフルートで演奏したとか。

そして作曲に関心を示した彼は、殆ど独学でベートーヴェンやモーツァルトなどの作品を研究し、20歳前に数曲の歌曲を出版。


1845年にピッツバーグが大火に見舞われたため、翌年オハイオ州シンシナティに転居した彼は、兄が経営する蒸気船海運会社の簿記係として働くように。

オハイオ川を蒸気船がひっきりなしに行き来する中、南部の黒人音楽や荷役作業員の労働歌を耳にしていた彼がその頃作曲したのが有名な 『おおスザンナ』。

この歌は1848~49年にかけて巻き起こったカリフォルニアのゴールド・ラッシュの賛歌となり、多くの人に親しまれました。

その後ペンシルベニアに戻った彼は、1850年にビッツバーグの名医の長女ジェーンと結婚し、翌年に長女マリオンをもうけると、『ケッタッキーの我が家』・『故郷の人々』 などの名作を次々発表。

1853年にはニューヨークに出てファース・ボンド社と契約を結び、翌年には『金髪のジェニー』を作曲。

一見順風満帆に見えた彼の人生は、しかしその後暗転します。

1855年に両親、そして翌年に兄を失ったことで精神的・経済的に打撃を受けた彼は、借金を背負うことに。

ファースト・ボンド社との先払い契約で金銭を受け取るものの、困窮生活は続き、1860年に 『オールド・ブラック・ジョー』 を発表した翌年には全曲の版権を売却し、出版社との契約も切れたことでますます窮地に。

当時はまだ作曲家という職業は確立しておらず、言ってみれば彼が作曲家としてのプロ第1号。

版権その他システムが確立しておらず、またレコードもない時代ですから、十分な報酬を受けられなかったことが悲劇の元凶でした。

前述の『おおスザンナ』は
発表から3年間で16もの出版社が30種以上の楽譜を出版。

当時最高販売部数がせいぜい5,000部という時代に10万部の大ヒットだったにも関わらず、フォスターの収入は僅か100ドルに過ぎなかったそうですから、これではとても食べて行けません。


更に南北戦争による不景気が更なるダメージになったと言えますが、生活が行き詰ったことで妻子にも去られた彼は、酒におぼれるように。

そして1864年1月10日、マンハッタンのホテル滞在中に洗面台のそばで頭部・頸部から大量に出血していたところを作詞家ジョージ・クーパーに発見された彼は、3日後の13日に出血多量により37歳の若さで天に召されました。


数日前から発熱していた彼は、意識朦朧状態でベッドから起き出し、洗面所で転倒し洗面台に頭を打ったと推測されましたが、その時所持金は僅か38セントだったとか。

しかし白人でありながら積極的に黒人音楽を採り入れた彼が〝アメリカ音楽の父〟と称賛されるのは当然でしょう。

       

            1940年に発行された、1セント切手

溢れる才能を、時代背景によって十分に発揮できなかった彼の冥福を、その懐かしき作品を聴きながら祈りたいと存じます。笑3



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余 暇

私のような文系の方でも、その具体的な内容は知らずとも〝フェルマーの最終定理〟という言葉に聞き覚えのある方は多いと思います。

今日は、この多くの数学者が長年にわたって証明しようと試みた定理の生みの親だった、


 ピエール・ド・フェルマー

Pierre de Fermat


の命日・没後355周年にあたります。


           


フェルマーは1607年に南フランスのボーモン=ド=ロマーニュという小さな農村に生まれました。

父親が彼の生後すぐに地元で起きた一揆に巻き込まれて亡くなったため、フェルマーは母親が女手ひとつで育てました。

その母・マリーが法律家の家系の出だったこともあり、フェルマーに熱心に教育を施したおかげで、彼は弁護士として活躍したとか。

「えっ、フェルマーって数学者じゃないの?」

と驚かれた方も多いでしょう。 

そう、彼の本業は弁護士であり、数学はあくまで趣味というか余暇に行っていたのです。


彼が数論(数、特に整数及びそれから派生する数の体系の性質について研究する数学の一分野に傾倒するようになったのは、1630年頃に古代ギリシャの数学者ディオファントスの著書 『算術』 の注釈本を入手し熟読してから。

そしてパスカルと共同で確率論の基礎を作り、デカルトと文通を交わしながら、独自の解析幾何学を創案するなど、プロの数学者を凌ぐ実績を残しました。

そして前述の『算術』の余白に48もの注釈を書き込んでいたのですが、彼が1665年1月12日に57歳で亡くなった後に彼の長男・サミュエルがそれを発見。

その注釈付きで 『算術』 を再出版したことから、それが世に知られることに。


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そして48の書込みの内47の命題は後世の数学者達によって証明または反証が与えられたのですが、最後に残った2番目の書き込み・・・すなわち〝フェルマーの最終定理〟については長年にわたって解かれぬままでした。

それを1995年・・・フェルマーの没後330年を経て証明に成功したのが、イギリスの数学者アンデリュー・ワイルズでした。

※フェルマーの最終定理&ワイルズに関する過去記事はちら。(↓)




それにしても、世界各国の数学者が束になっても証明するのに300年以上もかかる定理を、余暇にサラッと余白に書き込んだフェルマーの頭脳って、どういう構造だったんでしょう。

私のような凡人には想像もできません。

もしかしたら、宇宙人だったのかも? あせあせ


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旅 人

日本では鎌倉時代、元寇があった頃・・・西洋から東洋に長い旅を行った商人がいました。 その人の名は、


 マルコ・ポーロ

    Marco Polo


今日・1月8日は、この〝世紀の旅人〟の命日にあたります。


        


彼は1254年にヴェネチア共和国 (現・イタリア) で生まれたといわれていますが、その出自ははっきりしていません。


代々続く商家に生まれ、父親は中東貿易で財を築いたようですが、マルコはその父と叔父・マフェオと共に、1271年から東洋へに向けて旅立ちます。


元の始祖・フビライにも謁見し、そのまま元朝に仕えて官職を得るなどしましたが、その後も旅を続け再びヴェネチアに戻ったのは1295年。


総行程約15,000km、24年にもわたる長旅でした。


 


帰国して3年後、戦争に従軍し捕虜になるなどしましたが、釈放後は再び商人として活躍。

結婚して3人の娘にも恵まれ、1324年1月8日に病死するまでかなりの財産を残したといわれています。


そしてマルコ・ポーロといえば、何といっても有名なのが 『東方見聞禄』


    
             
(愛宕松男・訳 平凡社・刊 )  


しかしこの書物、実は彼自身が書いたわけではありません。驚き顔 エッ?


捕虜として収監された際に偶然同房となったイタリア人著述家、ルスティケロ・ダ・ピサが彼の話す旅の様子を口述筆記したものだとか。


残念ながら現在その原本は存在しないとのことですが・・・その内容にはビサ自身の伝聞情報が加えられて所々〝尾ヒレ〟がついているようで、しかも印刷技術のない時代の手写本だったため、多くの国で加筆されながら増え続け、現在では約140種近くの 『東方見聞録』 が存在するとか。


日本に関しては、


「チ(ジ)パングは、東のかた、大陸から1,500マイルの大洋中にある、とても大きな島である。 

住民は皮膚の色が白く礼節の正しい優雅な偶像教徒であっても独立国をなし、自己の国王をいただいている。

この国ではいたる所に黄金が見つかるものだから、国人は誰でも膨大な黄金を所有している。」

「国王の一大宮殿は、それこそ黄金ずくめで出来ており、各部屋の床も指2本幅の厚さをもつ純金で敷き詰められている。」


その他真珠が豊富に取れるが、人食いの習慣がある等と記載されているそうですが、彼自身には来日経験がないですから、中国での噂話を元にしていることは明らか。


〝黄金の国〟は、中尊寺金色堂の話が膨らんだものとみられますが、それにしても 〝人食い人種〟 って一体どこから出た話なんでしょうネ?うー


あたかも東スポや三流週刊誌の如き(?)眉唾モノの内容はともかく、西洋人の東洋に対する想像を掻き立たせ、後の大航海時代の引き金になったことは間違いないでしょう。


コロンブスも、同書を何度も読み返していたそうですし。


〝中世の国際的行商人〟マルコ・ポーロ・・・ある意味では過去最高の〝東洋の宣伝マン〟だったのかもしれません。


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校 訓

さて、今日は我が国の女子教育に於ける草分け的存在にして大妻学院(現・大妻中学高等学校、大妻女子大学)の創立者である、


大妻 コタカ 先生


の命日・50周年にあたります。


       


1884(明治17)年、広島県世羅郡で6人兄弟の末っ子として生まれたコタカ先生。 


なんとその名は、6月の農繁期に6番目に生まれた『困った子』が訛ったのが由来とか。驚き顔 


現在だったら、それだけで虐待と言われちゃいそうです。


3歳で父を、そして14歳で母を亡くしたコタカ氏は、広島県立高等女学校を卒業後上京、和洋裁縫女学校に入学。


教員養成所や神奈川の女子師範学校を卒業して、都下の学校で教鞭を取られました。


23歳の時に宮内庁御陵係であった大妻良馬氏と結婚。


       


その後、ふとしたきっかけで瓶細工や手芸等を近所の娘さん達に手ほどきをするようになったとか。


1908年に良馬氏の転勤で宮家の中に転居。 


ここで縫製・手芸の家塾を開き、これが大妻学院の前身となりました。


当初は10人程度の私塾でしたが、コタカ先生の教え方が大変好評を博し、生徒数が急増。


1917年には麹町に私立大妻技芸学校を開校。

翌年には高等女学校に発展し、戦前の良妻賢母教育の代表といわれました。


1923年の関東大震災で校舎が全壊しましたが、教職員と共に一丸となって再建に取り組み、翌年には以前よりも大きな校舎を建設。

 


戦時中に婦人団体幹部として活動していたため終戦後は教職追放になったものの、1949年学校長に復職すると、中学から大学までの一環教育学校を築き上げました。


1964年に女性教育者として初の勲三等宝冠章を受章したコタカ先生が85歳でこの世を去ったのは、1970(昭和45)年1月3日のことでした。


もちろん私は卒業生ではありませんが、大妻学院の校訓が大好きなんです。 それは、


〝恥を知れ〟


     


コタカ先生によると、これは決して他人に対してではなく、あくまでも自分に向かって言うべき言葉なのだそうな。


自分を高め、自らの良心に対して 『恥ずる行いをするな』 ということ。


人に見られたり聞かれて、恥ずかしい事をしたかどうか?

そう自分を戒める言葉
であると、先生はおっしゃるのです。


政治家をはじめとして恥知らずが目立つ昨今、大妻学院OGだけでなく私を含めた日本人全てが新春早々心に刻まねばならない、そして傍若無人の振る舞いをし続ける隣国にも教えてやるべき言葉ではないでしょうか?


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黄金コンビ

殆どの方はそのメロディーに聴き覚えがあっても、作曲家の名を知る人は少ないかもしれません。

今日は、その20世紀アメリカを代表する作曲家、


リチャード・ロジャース

Richard Rodgers,

 


の命日・没後40周年にあたります。


        


ロジャースは1902年にニューヨークのクイーンズ区でドイツ系ユダヤ人外科医の子として生まれました。

10代の頃から作曲の才能を見せていた彼は、17歳の時にまず作詞家のロレンツ・ハートと知り合い、彼の詞に曲をつけることですぐに名声を博すように。

名曲を量産し続けましたが、1943年にロレンツが48歳で亡くなってしまい、このコンビは解消。

パートナーの死にショックを受け落ち込んだロジャースでしたが、やがてそれ以上の名コンビとなる人物との出会いが。

それは作詞家・作家だった、オスカー・ハマースタイン2世。

    

         Richard Rodgers & Oscar Hammerstein II


ロレンツが亡くなった1943年に発表された新コンビによるミュージカル『オクラホマ』は大ヒット。

これに気を良くした2人は、『
回転木馬』(1945)、『アレグロ(1947)、『南太平洋』(1949)、『王様と私』(1951)、『MEJULIET(1953)、『パイプ・ドリーム』(1955)、『フラワー・ドラム・ソング』(1958)とヒットを連発。

そして極めつけが、1959年の『サウンド・オブ・ミュージック』。


半世紀以上経った今でも世界のどこかで上演されていると言われる名作中の名作ですが、私を含め殆どの日本人は1965年に公開された映画でこの作品を知ったはず。


       

 ※この映画に関する過去記事は、こちら。(↓)



最も有名な『ドレミの歌』は、私を含め殆どの方が小学校で歌った経験があるでしょう。

しかし残念ながらこの超人気ミュージカルがブロードウェイで公演中だった1960年8月にハマースタイン2世が65歳でこの世を去ってしまったため、黄金コンビによる作品は、これが最後になりました。

それでも
ロジャース&ハマースタインが創り上げたミュージカルは、トニー賞を34回、アカデミー賞を15回、ピューリッツァー賞を2回、グラミー賞を2回、そしてエミー賞も2回受賞。


これら全てを受賞したのは、過去にロジャースともう一人しかいないそうな。

生涯に出版された彼の曲は900以上、そしてブロードウェイで上演されたミュージカルを40作品も残した彼が77歳でこの世を去ったのは、1979年12月30日のことでした。

亡くなった日の夜は、ブロードウェイの劇場全てが灯を消して彼の死を悼んだそうな。

それでは20世紀にアメリカが生んだ名作曲家の冥福を祈りつつ、黄金コンビが遺した作品のストリングス・メドレーをお聴きください。

皆さんもご存知の旋律が、いくつも登場するはずです。




そして曲だけでなく、リチャード・ロジャースの名も記憶に刻んでいただきたく・・・。笑3


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