FC2ブログ
メンコン

クラシック音楽ファンでなくても、この曲はご存知のはず。


と言うのも、おそらく学校の音楽の授業で聴かされているでしょうから・・・。

それは、ベートーヴェン・ブラームスの作品と並び、〝3大ヴァイオリン協奏曲〟と称される


メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲ホ短調 


                                                                                 作品64

この名曲か初演されたのが、今から175年前の今日でした。


※メンデルスゾーンに関する過去記事は、こちら。(↓)



早熟の天才であり、その作品はいずれも美しい旋律に彩られている彼の作品の中でも特にその情緒豊かなメロディーで有名なこの協奏曲は、クラシック音楽愛好家の間で〝メンコン〟と呼ばれ、一流ブァイオリニストの殆どがレコーディングしているはず。


この名曲を作曲する契機となったのは、彼の幼馴染みで1歳年下のヴァイオリニスト、フェルディナント・ダヴィット(1810-1873)。

       

                    Ferdinand David 


彼はメンデルスゾーン家と同じアパートに生まれ、メンデルスゾーン一家が引っ越した後も家族ぐるみで交際していました。

メンデルスゾーンと同じユダヤ系だった彼は、16歳でベルリン王立劇場のヴァイオリン奏者になり、1835年にはライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターに就任。

その同じ年に26歳で同楽団の指揮者に就任していたのが、メンデルスゾーンでした。

かつての幼馴染みが奇しくも一流オーケストラの指揮者とコンマスになったわけですが、自らもヴァイオリンの名手だったメンデルスゾーンはダヴィットの演奏レベルの高さに感銘を受け、彼のためにヴァイオリン協奏曲を創ることを決心。


そしてメンデルスゾーンは、ダヴィット宛てに

「翌年の冬までにはホ短調の協奏曲を贈る」

という内容の手紙を1838年に送っていたのですが・・・実際に完成したのは、それから6年後の1844年9月。

多作で作品を仕上げるのが早かった彼が、なぜそんなに時間を要したのか?・・・その原因は、病気でした。

そして本来は彼自身がゲヴァントハウス管弦楽団を指揮し、ダヴィットがソリストを務めるはずだった1845年3月13日の初演では、メンデルスゾーンの体調不良により
副指揮者のニルス・ガーデが代役を務めました。

そしてこの2年後、メンデルスゾーンは38歳の若さでこの世を去ったのです。

この名曲の演奏は、数々のヴァイオリニストが演奏・録音していますが、個人的に好きなのは


ヤッシャ・ハイフェッツ/シャルル・ミュンシュ指揮・ボストン交響楽団による1955年の演奏。 (下写真・左)

そして1980年に録音された、カラヤン/ベルリン・フィルと天才少女アンネ=ゾフィー・ムター17歳の時の共演(同右)も、よく聴きます。




高校生時代には、アイザック・スターンのレコードを持っていましたが、CDは買わず仕舞い・・・。

皆さんのお好きな演奏があれば、是非教えてください。


それでは最後に、今までじっくり聴いたことのない方りのために、フル演奏動画を。

日本の第一人者・諏訪内晶子さんの奏でる甘く切なく、そして時として力強いストリングスの響きをご堪能いただきたく・・・。
笑3



              人気ブログランキング

スポンサーサイト



グランド

私のようにピアノを弾く人にとって、コンサートホールでこのピアノを奏でるのは、憧れだと思います。

プロのピアニストの98%が使用するという圧倒的な人気と信頼を誇る


 スタインウェイ・アンド・サンズ


Steinway & Sons

テレビでコンサート中継を観ると、ピアノにこの刻印が施されているのをよく目にすると思います。

    

この世界最高峰のピアノ会社が設立されたのは、今から167年前の今日のことでした。

同社を設立したのは、


 ヘンリー・エンゲルハード・スタインウェイ
        Henry Engelhard Steinway


というドイツ人。


       


1787年にドイツのブラウンシュヴァイクで林務官だった父の16番目(!)の子として生まれた彼は、折しも勃発したナポレオン戦争に父や兄が駆り出され、更に飢餓によって母親や兄弟の多くが死んでしまい、父親が戦地から戻ってきた時は3人しか残っていなかったとか。

その上15歳の時に落雷によって家屋が全焼し孤児になるという、過酷な少年時代を過ごしたそうな。

しかし、その後木工々場の守衛になったことが、彼の運命を決定づけました。

そこで身につけた技術を生かして木工職人となった彼は、戦争末期にはオルガン製作工場で働き始め、程なく独立して自身のオルガン修理工房を立ち上げます。

やがて当時普及し始めたフォルテピアノ・・・つまり現在のピアノに興味を持つと、以後その製作に取り掛かり、1836年には部品も全て手作りの第1号ピアノを完成。

そして1848年に欧州で革命が起きるや、長男のクリスティアン1人を残し、妻と残りの8人の子供を引き連れてアメリカへ。

(その長男が、ドイツのピアノ工房を引き継ぎました。)

渡米した際、
ハインリヒ・シュタインヴェークという名を英語風のヘンリー・スタインウェイに改めた彼は、1853年3月5日にニューヨーク・マンハッタンで 『スタインウェイ・アンド・サンズ』 を設立。

1857年に初めて特許を取得した同社は、19世紀末までにほぼ現在と同じピアノ製作技術を確立。

1860年代には新しい工場を建設したことで年間生産台数が500台から1,800台にまで増加。

    


1871年にヘンリーが亡くなった後も、社名の通り息子のウィリアム・スタインウェイによって会社は受け継がれました。

現在まで125件もの特許取得を重ね、それまでになかった独自の製造技術を開発してきた
同社のピアノは


◆楓材等の硬く緻密な木材を使用し、曲げ練り製法により一体として製造されたアウターリムとインナーリム


◆他社に比べ張力が低く、弦の倍音を有効に活用し音量を増大するデュプレックススケール


◆フレームとリムを連結し弦圧を最適化し高音域の響きをリムに伝えるサウンドベル


等々、現在は当たり前になっている音響工学を取り入れた設計により、特に大ホールで豊かな音色を出せるのが特徴だそうな。

私が敬愛する20世紀最高のピアニスト、V・ホロヴィッツがコンサート・ツアーに同社製の同じピアノを運び回ったのも頷けます。


       

※ちなみにそのコンサート・ツアーには、スタインウェイ社に所属する調律師も同行していました。(↓)


しかし製造に長い期間がかかるために生産台数が少ないスタインウェイの経営は順風満帆とは言えず、1972年にはCBSに買収され、その後複数回の買収を経て、1995年にはセルマー・インダストリーの傘下に。

そして現在はそのセルマーグループらと共に構成する楽器製造企業複合体スタインウェイ・ミュージカル・インスツルメンツの一角を担っています。

企業形態はかなり変わったものの、スタインウェイという名がしっかり残されているところに、音楽界におけるそのブランド力の強さが伺えます。

私も死ぬ前に一度、どこかのホールでスタインウェイのコンサートグランドを弾いてみたいものです。

もちろん、観客なしで。
あせあせ


              人気ブログランキング

来 日

葬儀屋時代は、いつ入電があるか分からないため、大好きなクラシック音楽のコンサートは年に一度、年末の第九しか聴きに行けなかった私。

昨年引退してからは、良いコンサートがあれば行こうと思ってはいたものの、中々これは・・・と思える演奏会はなし。

11月にはよくCDで聴いているベルリン・フィルやウィーン・フィルが立て続けに来日したものの、S席50,000円はさすがに手を出せず。

結局昨年末の第九のみに終わってガッカリしていたのですが、今年に入って以前から聴きたいと思っていたアーティストの来日情報を掴みました。

それは以前拙ブログでも記事にした、


 
アンネ=ゾフィー・ムター
          Anne-Sophie Mutter


たまたまクラシック専門チャンネルで見かけた〝カラヤンの秘蔵っ子〟は、天才少女からすっかり美貌と貫禄を備えたヴァイオリン界の〝女王〟に成長していました。

CDも何枚か購入して聴いていた私は、彼女の来日情報を聴きつけ、すぐにチケットを購入。

そして昨夜、サントリーホールでのコンサートに足を運んで来ました。


    


ベートーヴェン生誕250周年記念〟と銘打たれたコンサートの演目は、3曲。

序曲 『コリオラン』 はオーケストラ(新日本フィル)のみの演奏でしたが、彼女は(この日のメインと言える)2曲目の 『ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品61』 からラメ入りのゴージャスな黒いドレスに身を包んでステージに登場。

※ 写真撮影禁止のため、その美しさをお見せできないのが残念!
 
 昨日のイメージに近い画像が、こちら。(↓)

    


この曲は数あるヴァイオリン協奏曲の中でも最も重厚かつ有名な作品ですが、以前テレビで観たムターのドキュメンタリー番組で彼女自身が語ったところによれば、かつてカラヤンと最も数多く共演したコンチェルトだそうな。

ただ彼女が14歳の時にリハーサルをした後、カラヤンは共演を急遽中止。

まだこの大曲を演奏する域には達していない・・・という判断だったようですが、ムターはこれを帝王からの激励と捉え、その後もクサらず精進に励んだそうな。

そしてそれから1年後再びリハーサルに臨んで見事カラヤンのお墨付きをもらい、コンサートでも成功を収めたとのこと。

※私が持っているCDは、その直後・・・彼女が16歳の時、1979年の録音。(↓)


    

そんなエピソードを知った上で聴くと、まるでカラヤン/ベルリン・フィルとの共演を聴いているような錯覚に陥りました。


演奏後ブラボーの掛け声と共に何人もの聴衆からスタンディング・オベーションを受けた彼女は、「今世界中で病気(コロナ・ウィルス)で苦しんでいる方々に」捧げるバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルテイータから1曲をアンコール演奏。


そして休憩の後、3曲目の(偶然?にも↑のCDに収録されている)『ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲』では、長年ピアノ伴奏のパートナーとして組んでいるランバート・オルキスと共演。

さすが超一流アーティストが奏でるヴァイオリンの音色は、どの曲でも実に艶やか。 特に高音域が素晴らしかったです。

『第九』で聴く合唱の圧倒的な音量とは違うものの、たった1挺のヴァイオリンの音がオーケストラに負けず、あそこまでホール一杯に響き渡るとは・・・ちょっと鳥肌が立つくらい感動。

やはり、アンネ=ゾフィーは〝女王〟でした!


              人気ブログランキング

81.4

大晦日恒例の紅白歌合戦・・・第1回がラジオ第一で放送されたのは1951(昭和26)年のことですか、実は1月3日でした。

その後第2回も1月3日、第3回が1月2日に行われ、現在のように大晦日の放送になったのは、テレビ放送が始まった第4回から。

    

当初から人気が高かったそうですが、ビデオリサーチ社が発足し視聴率という具体的な数値が公表されるようになって以降、史上最高の視聴率81.4%を記録したのが、今から56年前の今日・1963年12月31日に行われた第14回大会でした。

20%を超えればオバケ番組と言われる現代では、まさに天文学的な数字ですネ。

この年の会場は、有楽町にあった東京宝塚劇場。
(現在使用されているNHKホールは1972年に完成しましたから、当然ですけどネ。)

       


司会は白組が宮田輝アナ、紅組は当初森光子さんの予定でしたが、新年早々の舞台の関係で急遽人気歌手の江利チエミさんに変更。

その結果、それまで11年連続出場していた江利さんは、史上初の司会兼歌手としての出場となりました。

しかしそれ故に、歌手の方が目立つよう地味な衣装を選ぶなど、いろいろ気遣いが大変だったようです。

出場歌手としては、紅組が雪村いづみ、島倉千代子、越路吹雪にザ・ピーナツ、更には吉永小百合さんも歌っています。

また白組ではアイ・ジョージ、森繁久彌、三橋美智也、村田英雄、橋幸夫、舟木一夫、春日八郎ら錚々たるメンバー。

後に50回連続出場を果たした重鎮・北島三郎さんはこの年が初出場で、三番手に出場した若手でした。

そしてトリは紅組が美空ひばりさん、白組が三波春夫さんと、まさに昭和の香りプンプン。

更に通常はラストで蛍の光を全員で合唱するところを、翌年に東京五輪を控えていたため、『東京五輪音頭』が歌われたとか。

もしかしたら、今年の紅白でも同じような趣向が繰り返されるかも・・・?

幸いにも、この歴史的な紅白歌合戦のビデオ映像が残っています。
3分半の短縮バージョンですが、是非ご覧ください。(↓)

   http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009050264_00000

この動画に登場する、後に日航ジャンボ機墜落事故の犠牲になった坂本九さんは3回目の出場でしたが、この時は本番直前に衣装を全部盗まれ、急遽自宅から持ってきた自前のタキシードでの登場だったとか。

さて史上最高の視聴率を叩き出したものの、それ以降紅白の視聴率は年々下がり気味。

グラフで見ると、一目瞭然です。


視聴率低下の要因としては、視聴者の嗜好の多様化とチャンネルの増加。

また番組のマンネリ化・陳腐化が挙げられます。

しかし下がったとはいえ昨年も40%を超えていますから、他に類を見ない高視聴率番組であることは確か。

さて、今晩行われる第70回紅白歌合戦・・・皆さんは、最初から最後まで観ますか?
それとも私のように、観ませんか?

いずれの方々も、良いお年をお迎えください。扇子


               人気ブログランキング  

大 賞

もういくつ寝ると、お正月・・・ですが、年末恒例といえば、歌謡曲ファンにとっては紅白歌合戦 と


 日本レコード大賞


でしょうか。


このイベントが初めて開催されたのは、今からちょうど60年前の今日・1959(昭和34)年12月27日のこと


1958年にアメリカ音楽界最大のイベント〝グラミー賞〟を視察した古賀政男氏らが、「日本にも同様の賞を」 と創設されたのが、この大賞でした。


 ※古賀氏に関する過去記事は、こちら。(↓)


同年12月に設立された日本作曲家協会の主催での開催が決定しましたが、作品にランク付けすることにレコード各社が反発、賛同したのはビクター社のみ。


テレビ局も、理解を示してくれたのはラジオ局を併設していた東京放送(TBS)だけだったとか。


そして栄えある第1回の大賞受賞曲は、中高年の方には懐かしい 『黒い花びら』。


    


しかしガラガラの神田共立講堂で受賞曲を歌った水原弘さん本人でさえ、

「レコード大賞? なんだ、それ。」

と怪訝な顔をしたほど、認知度は限りなくゼロ。ダメだぁ顔


第10回までは小さな会場で12月中・下旬に行われていたこのイベントが大きく様変わりしたのが、1969年の第11回から。


会場がメジャーな帝国劇場になり、テレビもカラー放送の生中継に。


そして歌手のスケジュール調整をしやすくするため、大晦日・紅白歌合戦直前の19~21時の開催が恒例化。


各賞のノミネート曲を事前に発表し、本放送で大賞曲を決定するというシステムも、この時から始まりました。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-日本レコード大賞


よくレコード大賞受賞歌手が、帝国劇場から紅白歌合戦会場のNHKホールに行くのに手間取り、オープニングに間に合わない・・・なんてこともありまたっけ。


その後歌謡曲ブームと共に視聴率も上昇、1977年には最高視聴率50.7%を記録。 

レコード大賞を受賞することが、歌手にとって大きなステータスに。


しかしその審査基準がレコード売上げだけで決まるわけではなく曖昧なため、その権威が高くなるに従って審査委員と一部レコード会社・芸能プロダクションとの癒着などの疑惑が囁かれるようになり、終いには〝出来レース〟とまで言われるように。


そして紅白歌合戦の放送枠拡大による放送時間や開催日の変更を余儀なくされたことや、歌手の考え方が変わり賞レースに関心が薄くなるなど様々な要因が重なって、現在はそれほど注目されなくなっています。


演歌歌手全盛~ビンクレディー~安室奈美恵~浜崎あゆみ~EXILE・・・その時々の時代を象徴する歌手たちが受賞してきたこのレコード大賞は、一体いつまで続くのでしょう?


というか、殆ど売られていない〝レコード〟をいつまで冠に?


そろそろ 『日本CD大賞』 に変えたほうが・・・・いや、もう時代は日本ダウンロード大賞』 かナ?あせあせ


              人気ブログランキング

最前列

先日夜、我が家における年末恒例行事、N響の 『第九』 演奏会に女王様共々出かけてきました。

       

ここ数年は音響の良さからサントリーホールで聴いていましたが、今年はスケジュールの都合上その日に行けず、久しぶりに渋谷のNHKホールへ。

地下駐車場から地上に出て驚いたのは、ホール前の目抜き通りの並木がLEDのイルミネーションでブルー一色に光り輝いていたこと。


    

今ままではほぼ真っ暗で人通りも疎らだったのに、まるでディズニーランドのように若い男女でごった返していました。

そんな喧騒の中を人混みを分けてやっとの思いでホールに到着・入場すると、ロビーがデコレーションされ雰囲気を盛り上げていました。

    


高揚感を抱きつつ開演を迎えた私ですが、今回のコンサートでは今までにない体験を2つすることができました。

まず指揮者が、オーストラリア出身のシモーネ・ヤングさんという女性だったこと。

2001~03年までオーストラリア・オペラ首席指揮者を務め、2000年のシドニー五輪では、開会式でシドニー交響楽団を指揮し、オーストラリア国歌 『アドヴァンス・オーストラリア・フェア』 を演奏。

2005年から過去にカール・ベームら名だたる指揮者が歴任したハンブルク州立歌劇場総支配人を女性として初めて務め、同年にはこれまた史上初めて女性としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したという逸材。

女性らしい柔らかな腕の振りながら、ボディー・アクションは男性のようにエネルギッシュで比較的早いテンポの演奏は第四楽章のラストまで一気に盛り上げる熱演!

    

今まで(失礼ながら)男性指揮者の禿げた後頭部ばかり見てきた私としては、長い髪をなびかせながら指揮棒を華麗に操る彼女の指揮ぶりは、強く印象に残りました。

それからもう一つは、4人のソロ歌手の立ち位置。

サントリーホールでは合唱団の前・・・とはいえ、オーケストラの後ろだったり、指揮者とオケの間で歌っていましたが、今回は指揮者のほぼ真横・・・即ち観客席から見れば最前列。

たまたま私たちの座席が前から2列目の〝かぶりつき〟でしたから、彼らのノドチ〇コが見える程の至近距離。

これまでになく彼等の歌声が強烈に響きました。

更に4人共歌唱力は十分・・・とかく合唱の大音量に埋もれがちだったメゾ・ソプラノの歌声がクリアに聴き取れましたし、個人的には外国人のテノール歌手の声質と唄いっぷりが出色。

毎年指揮者や座席が違うことから、演奏や音色の違いを楽しんできましたが、今回も新たな発見・経験ができて大満足でした。

例年以上に 「ブラボー!」 の声がかかったホールを午後8時半過ぎに出ると、目抜き通りはイルミノーションを楽しむ人々で相変わらずの大賑わい。

来年は音質のサントリーホールと雰囲気のNHKホール、どちらのコンサートに行くべきか・・・今から迷ってます。

さてその女性指揮者による第九演奏会の模様は、NHK・Eテレにて大晦日・
12月31日(火)午後8時から9時20分まで放送される予定。

紅白歌合戦の合間に、是非お楽しみください!


              人気ブログランキング

巨 人

・・・と言っても、プロ野球の話ではありません。

19世紀を代表する作曲家・指揮者だったグスタフ・マーラー(1860-1911)は生涯に10曲の交響曲を遺しています(※第10番は未完成)が、その中でも演奏時間が比較的短く声楽を伴わないことからコンサートでの演奏や録音が最も多く、また伊丹十三監督作品の映画 『タンポポ』 でも使われるなど、そのメロディーが多くの方に知られている第1番の

 巨 人

がマーラー自身の指揮、ブタペスト・フィルハーモニー交響楽団によって初演されたのが、今からちょうど130年前の今日・1889年11月20日のことでした。


        

                  Gustav Mahler


マーラーがこの曲を創作したのは、1884~1888年の間。

1885年8月にプラハのドイツ劇場の第2指揮者に就任し、1888年10月にはブタペスト王立歌劇場の音楽監督に就任。

ワーグナー作品をノーカットでハンガリー初演し高い評価を受け、更にモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』に至っては、かのブラームスに

「理想的な『ドン・ジョヴァンニ』を聴きたければ、ブタペストに行くべきだ。」

と絶賛されました。

またウェーバーの孫の妻・マリオン・ウェーバーと恋仲になるなど、彼の人生の中では最も充実した時期に書かれた作品といえます。


『巨人』という名は、マーラー自身がつけたもので、これは彼が青春期に愛読していたジャン・パウルの同名長編小説から取ったもの。
ただ曲想そのものとイメージがリンクしているわけではないとのこと。

そのせいか、後にマーラー自身がこの副題を削除しています。
とは言え現代ではそれをつけたまま演奏されたりCDが発売されていますが・・・。


だだこの時の初演は、(よくある話ですが)不評だったとのこと。

これを受けてマーラーはその後何度も手直しをして、初演時には5楽章だった 『ブタペスト稿』(現存せず) を4楽章に短縮。

現在演奏されているのは、その4楽章で初めて演奏された場所に因む 『ベルリン稿』 が基準になっているそうな。

さて、この曲で私が持っているCDは、まず人生で『巨人』・・・というよりマーラーの作品として初めて中学生時代にレコードで聴いた、こちら。


       


指揮者のブルーノ・ワルターは、ハンブルグ歌劇場で音楽監督を務めていたマーラーの下で学んだ愛弟子。

ですからマーラーについて良く知る人物であり、ワルター演奏の録音のために結成されたコロムビア交響楽団とも息がピッタリ。

1961年の録音ながら、リマスター版で音質も良くジャケットもレコードと同じで、私にとっては思い出深い演奏です。


またマーラーに傾倒し、その演奏が高い評価を得ているレナード・バーンスタインの録音。



右が1966年にニューヨーク・フィルの演奏で録音されたもので、それまでワルターくらいしか演奏していなかったマーラー作品にスポットライトを当てた若きバーンスタインの、気迫あふれる演奏。

そして左がバーンスタインが初めて出したマーラー全集の中の1枚で、コンセルトヘボウを振った、1987年の録音。

同じ指揮者でもオケと年代が違うとかなり演奏内容が違うことを実感できます。

さて、ここで我がブログ読者ならお気づきかもしれませんが、私の好きなカラヤンのCDが出てきません。

実はあれだけ多くの楽曲を演奏していたカラヤンなのに、なぜか

マーラーの交響曲第1~3、7、8番は録音していないのです。

この理由については、


◆カラヤンがかつてナチスに入党していたので、ユダヤ系であるマーラーの作品に手を付けたがらなかった。

◆ライバル・バーンスタインがマーラーで売り出したことを妬んだ。

◆初期の作品はまだ粗削りかつ交響曲としては奇形であり、演奏するに値しないと判断した。


等々諸説がありますが、既にカラヤンはこの世にいませんから真相は藪の中。

その理由を皆さんなりに考えつつ、私が最も好きなワルターの演奏を、お聴きください。




どこかで、映画『タンポポ』で主人公のタンポポがジョギングするシーンを思い出すかもしれませんョ。笑2


<              人気ブログランキング

舞 曲

今日・10月17日は、〝ビアノの詩人〟フレデリック・ショパンの命日・没後170周年にあたります。

ショパンに関しては、こちらの過去記事をお読みいただくとして・・・。



今日は、彼の代表作と言っていい、ポロネーズ第6番変イ長調 作品53・・・俗に

 英雄ポロネーズ

と呼ばれている名曲について触れてみます。


〝ポロネーズ〟とは、フランス語で〝ポーランド風〟という意味。

マズルカと並び、ショパンの故郷ポーランドを発祥とするダンスやそれに用いられる舞曲のこと。

その殆どは4分の3拍子で、第1拍が16分音符で細分されているのが特徴。

ただしショパンの作品は舞曲というよりはよりドラマチックで、彼の作品の中でも長く壮大なもの。


彼は生涯で18曲のポロネーズを作曲し、ピアノ独奏用としては16曲。


そのうち彼の生存中に出版された番号付きの作品は7曲。

その中で最も有名かつよくコンサートで演奏されるのが、第7番『幻想ポロネーズ』と、1842年に作曲されたこの第6番・英雄ポロネーズ。

非常に難易度が高く、特に中間部の左手オクターヴの連打は、そう簡単に弾けません。


私自身、初めてこの曲を聴いた時はオクターヴだとは思わず、楽譜を見てビックリしたことを憶えています。

 

さて、〝英雄〟の名に相応しい華麗な作品ですが、これはショパン自身が名付けたものではありません。

では誰がどういう経緯で名付けたのか? というと、実は諸説あってはっきりしていないのです。

ただその中の有力な説として、こんな話が・・・。

ショパンが亡くなる前年の1848年、フランスでは2月革命が勃発。

かつてショパンの恋人で会ったジョルジュ・サンドは、当時小さな新聞を発行しており、そこに自らのエッセイを掲載し、政治的なメッセージを精力的に発信していました。

次々と銃弾に倒れていく労働者たちを目にした彼女は、この曲を聴きながらショパンにこんな手紙を書いたとか。

『霊感! 武力! 活力! これらの精神は疑いなくフランス革命に宿る! これより、ポロネーズは英雄たちの象徴となる!』

以後、この曲は以後〝英雄ポロネーズ〟と呼ばれるようになった・・・というのです。

曲想同様ドラマチックなエピソードですが、何となく後で作られたような話にも思えますょネ。
あせあせ

今となっては事の真偽は分かりませんが、その名曲をお聴きいただきましょう。

まずは2005年に行われた第15回ショパンコンクールの優勝者でショパンと同じポーランド出身の若手ピアニスト、ラファウ・ブレハッチ(1985~)の演奏を、どうぞ。




若さ溢れる、歯切れの良い演奏ですょネ。

続きましては、我が敬愛する20世最高のピアニスト、ヴラディミール・ホロヴィッツ(1903-1989)が1987年3月、83歳の時に行ったウィーンでのコンサートの演奏をお聴きください。



如何でしょうか? ブレハッチの演奏とはだいぶ違いますょネ。


ホロヴィッツも若い時の演奏はもっとテンポが速く、ブレハッチ以上にエネルギッシュでしたが、これは年齢相応の枯れた感じ。

明らかなミスタッチを何箇所かしていますが・・・私は何度も繰り返し聴きたいと思うのは、ブレハッチや若い頃のホロヴィッツの録音ではなく、この録画の方なんです。

確かに現在の若手ピアニストのテクニックは高度ですし、ミスタッチも殆どないほぼ完璧な演奏をしますが、ホロヴィッツのような感動がないんですょネ。

やはり聴衆の心を動かす演奏には、人生経験が必要不可欠なのかもしれません。

な~んて、単に私が歳を取ったからそう思うだけかもしれませんが。
うー


 


                人気ブログランキング

祝 祭

クラシック音楽の世界には人気の高いコンサートが多々ありますが、その中でも最もチケットの入手が困難とされているのが、毎年7~8月にかけて開催される

 バイロイト音楽祭

 Bayreuther Festspiele


このワーグナーの作品だけ(例外的にベートーヴェンの第九)を演奏する演奏会がバイロイト祝祭劇場で初めて行われたのは、今から143年前の今日のことでした。


          


 自作の楽劇を自分の理想的な形で上演することを夢見ていたワーグナーは、専用劇場の建設を決意。

そして最終的に見つけた土地が、ドイツ南西部のオーストリアに近いバイエルン州バイロイトでした。


       

バイエルン国王ルートヴィヒ2世から借金してまで1872年から建設が始まったバイロイト祝祭劇場は、1876年に完成。

第1回の演奏会として、ルートヴィヒ2世やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世、ブラジル皇帝ペドロ2世などの国賓、リストやブルックナー、チャイコフスキーなどの音楽家らを集め、ハンス・リヒターの指揮で 『ニーベルングの指輪』 が上演されたのが同年8月13日のことでした。

しかし評判はあまり芳しくなく、興行としても大赤字でワーグナーは落胆・・・1882年まで音楽祭は開催されませんでした。

その後も第一次世界大戦や第二次世界大戦の影響で開催されない年が何年かありましたが、この音楽会の時だけ編成されるバイロイト祝祭管弦楽団を指揮したのは、R・シュトラウス、トスカニーニ、フルトヴェングラー、ベーム、カラヤン、バレンボイムなど超一流ばかり。


加えて開催時期が僅か1ヶ月あまりのため、必然的にチケットの入手は困難に。

バイロイト音楽祭を鑑賞することは、熱狂的なワーグナー・ファン(ワグネリアン)にとっての夢・・・チケットを取るためには事務所に毎年申し込みをしてワーグナーに対する思いを訴え、5~10年後にようやくチケットが送られてく.るそうな。


料金は一番高くて300ユーロ(約4万円)だそうですが、問題はバイロイトまで行かねばならぬこと。

年にこの音楽祭の時期しか混まない土地柄なのでホテルはそれほど多くなく、また空港はもちろん鉄道の駅すらない辺鄙(失礼!)な場所にありますから、すべてを自分で手配するのは大変。

ドイツ語に自信のない方は、旅行会社が企画している100万円前後の観劇ツアーに申し込む方が無難でしょう。

またサントリーホール(2,006席)とほぼ同規模の1,887席を有するこのバイロイト祝祭劇場は、ワーグナーがより良い演奏と音響を考えて作ったホールのため木造で、椅子も固い木製。


       

彼の作品は演奏時間が長いため、観客が寝ないよう座り心地を敢えて良くしていないそうで、しかも冷房設備なし。

おまけに正装がマナーとされていますから、観客も大変。


時々高齢者が倒れるそうですから、オペラ鑑賞というより難行苦行と言えるかも?

ただしオーケストラ・ピットは観客から全く見えない低い位置に作られているため、団員たちは軽装で演奏しているそうですが・・・。


この劇場に行かれる方は、それなりの資金と覚悟が必要なようです。

とは言え、歴史と伝統のある同音楽会は今後とも開催され続けて欲しいところ。


そして総監督は、代々ワーグナーの子孫及びその係累によってのみ受け継がれており、現在は彼の曾孫にあたるカタリーナ・ワーグナー。


       


彼女の演出は非常に斬新で、過去に賛否両論を巻き起こしたことも。

果たしてワーグナーは天国から現在のバイロイト音楽祭を、どんな気持ちで眺めているのやら・・・?


                人気ブログランキング

帝 王 <下>

今日は、昨日没後30周年ということで取り上げたクラシック音楽界の〝帝王〟・カラヤンに関する知られざるエピソードを、皆さんにご紹介致します。


          ◆     ◆     ◆     ◆


どのオーケストラも初めての指揮者が来ると、そいつがどのくらい力量のあるヤツか、どんな性格のヤツかを試そうとする。

楽員の誰かが、わざと間違えるイタズラを仕掛けるのだ。

その時、指揮者がそのパートをチラッと見てニヤッと笑えば、それで暗黙のうちにオケ全体との信頼関係が成立する。

カラヤンが初めてベルリン・フィルを指揮し、ベートーヴェンの交響曲第5番 『運命』 を演奏した、29歳の時のこと。

彼はどこかで何かを言おうとしたものの、オーケストラのあまりの上手さに文句をつけることが出来ぬまま、曲は最終の第4楽章へ。 


そこで彼は仕方なく、出まかせで

「トロンボーンの二番の音程がちょっと低い。」

と言ったのだ。 これが偶然かどうか的中したそうで、

「もし外れていたら、今日の私はない。」


と、後にカラヤン自身が語ったそうな。

        


そのカラヤンは、楽員に注意する時に演奏を止めて全員の前でいきなり名指しで直接叱ることは、決してしなかったという。


たとえばホルンの第二奏者の音程が少しおかしいと思うと、彼はオーケストラを止めて全く関係のないヴァイオリンの奏者に、演奏のアドバイスをする。

そしてミスをした本人の隣にいるホルンの第一奏者を見てウィンクをするのだ。

再び同じところにきてまだ直っていないと、またそこで演奏を止めてホルンの第一奏者にもう一度ウィンク。

それでやっと気づいた第一奏者が第二奏者にそっと伝える。

回りくどいが決して人前で恥をかかせない気配り・・・これが、楽員たちから大きな尊敬を受けることにつながっていたのだ。

人の温かさを感じた時、誰しもがその人の信奉者になる。

信奉者にさせることがまた、秀でた指揮者の第一条件なのだ。


          ◆     ◆     ◆     ◆


長年ベルリン・フィルを率いることができたのは、決して彼が指揮が上手かったり権力者であったからだけではないことを物語るエピソードですょネ。

彼に若くしてその才能を認められたことで有名になり、現在もヴァイオリニストの女王として活躍しているアンネ=ゾフィー・ムターも、カラヤンを人使いの天才だったと評していますから。

 ※ムターに関する過去記事は、こちら。(↓)


帝王は一日にしてならず。

日々の絶え間ない修練と気配りの積み重ねが、カラヤンという最高の芸術品を作りあげたと言えましょうか。笑3

それでは最後に、カラヤン/ベルリン・フィルによる帝王・・・ならぬ、『英雄』をお聴きください。

           


 

                人気ブログランキング