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今日のブログ・タイトル、ガソリンスタンドの略じゃありません。

私のような昭和世代には懐かしい、昭和40年代前半に日本の歌謡界を支えたグループ・サウンズのこと。

中でもザ・スパイターズと人気を二分した


 ザ・タイガース

が解散コンサートを行ったのが、今からちょうど50年前の今日のことでした。


同グループの原型は、京都市立北野中学校の同級生だった瞳みのる・岸部修三(一徳)・森本太郎と、夜間高校で瞳の2学年下だった加藤かつみの4名が1965年1月に大阪で開催されたベンチャーズのコンサートに行って触発され、同年10月に結成した『サリーとプレイボーイズ』。

その後4人はボーカルの必要性を感じ、四条河原町のダンスホールでボーヤ兼ボーカルとして出演していた沢田研二さんを勧誘。

1966年元旦に彼が正式にメンバーに加わり、グループ名を
『ファニーズ』に改称。

歌を主体としたボーカル・インストロメンタル・バンドとなりました。


ファニーズは翌月から大阪・難波のジャズ喫茶『ナンバ一番』のステージで演奏する契約を結ぶと、本格的な音楽活動のため大阪市西成区のアパートで合宿生活を開始。

その後人気が出て出演回数も増加すると、5月には「全関西エレキバンド・コンテスト」で優勝。

翌月には『ナンバ一番』の人気投票で1位となり、東京への勧誘が複数持ちかけられました。

そしてプルージーンの内田裕也さんを通じて渡辺プロと契約を結ぶと、メンバーは1966年11月に上京。

渡辺プロの制作部長から依頼を受けた番組ディレクターのすぎやまこういちさんが、

「大阪から来たわけ? じゃあ・・・」

ということで、グループ名はザ・タイガースに。


             後列左から岸部(サリー)、森本(タロー)    
         
前列左から瞳(ピー)、沢田(ジュリー)、加橋(トッポ)


翌年2月にシングル 『僕のマリー』 を発売してデビューすると、翌月から人気が爆発。

5月にリリースされた2枚目のシングル『シーサイド・バウンド』が40万枚を超える大ヒット。

シャボン玉ホリデーの出演等でティーンエージャーにもファン層が広がりました。


1968年1月発売の4枚目シングル『君だけに愛を』のヒット続き、3月発売の『銀河のロマンス/花の首飾り』はオリコン・シングルチャートで7週連続1位、公称130万枚のメガヒット。

同月19日に『花の首飾り』の新曲発表会を開催しましたが、これは日本武道館における日本人バンド初のコンサートとなりました。

以後映画製作や後楽園球場でのコンサートを開催するなど、ザ・タイガースはグループ・サウンズの頂点に。

しかし多くのバンドがそうであるように、やがてグループ内には亀裂が・・・。


元々ビートルズやロックを原点とした音楽志向を持っていたメンバーは、アイドル路線を前面に押し出す渡辺プロに不満を募らせていました。

特に芸術家肌だった加藤さんは強く反発、1968年春頃には脱退話が浮上。

そして翌年3月、加藤さんはレッスン中にスタジオを出て戻らず・・・彼の穴埋めに一徳さんの弟・岸部シローさんが加わり、第二期タイガースとして再出発。


しかし加藤さん脱退に関する渡辺プロの動きに今度は瞳さんが不信感を募らせ、更に同年夏頃からGS人気が急降下したことから、メンバーは個人的な活動にシフト。

結果、瞳さんの脱退意向もあって1970年12月にバンドの解散が発表され、翌1971(昭和46)年1月24日に、思い出の日本武道館での解散コンサート開催となりました。

その後ジュリーこと沢田さんはソロ歌手として、また岸部兄弟は俳優などでそれぞれ活躍しましたが、瞳さんは京都に戻った後高校教師となり、芸能界から去ると共にメンバーとは交流を長らく断つことに。

1982年の同窓会コンサートにも顔を出さなかったものの、2013年の復活コンサートには参加し、オールド・ファンの喝采を浴びました。


それでは最後に、中高年代の方には50年前の解散コンサートをお聴きいただき、古き良き時代を思い出していただきたく・・・。




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S D

先日、毎年末恒例の

 N響 第九演奏会

に行ってきました・・・が、今年は武漢肺炎のおかげで今までにない異例ずくめのコンサートとなりました。

    

まず例年ならチケットの予約は10月初旬から始まるのですが、その頃ネット検索しても一向に告知がなし。 事務局に電話すると、

「感染が収まらないので、今年は開催できるかどうかまだ不明。決定は10月末か11月に入ってから。」

とのこと。 こちらとしてはもう還暦過ぎてあと何回聴けるか分からないだけに、やきもき・・・。

幸いにも11月に入って開催が決定し、ネットで予約することが出来ました・・・が、画面を見ると、予約できる座席が全て1つずつ交互に飛び飛び。

簡単に言えば、チェス盤の如し。

    


感染予防のためですから致し方ありませんが、何とか女王様と2人分の席は押さえられました。

そしてコンサート当日、渋谷のNHKホールに向かうと、街の様子が昨年とは一変。

1年前はホール前の並木が青色LEDでデコレーションされ見物客でごった返しており、如何にも年末らしい賑やかな雰囲気でした。

    

それが今年は電飾もなく通りは真っ暗・・・人通りも殆どなく、女性1人で歩くのはちょっと怖いくらい。


    

何となく暗い気持ちで開場前にホールに到着すると、数人の観客がソーシャルディスタンスで間隔を開けて並んでました。

会場に入って席に座ると、館内放送では

「席の間隔は必ず空けてください。」 
「コンサート後〝ブラボー〟のお声がけはご遠慮ください。」

等々、事細かな注意が何度もなされ、コンサートが始まりました。

心なしか楽団員の数が少なく感じましたが、驚いたのは第2楽章が終わって合唱団が入場してきた時。

なんと彼らもチェス盤のように交互に間隔を空けて着席・・・しかも全員がマスク着用。

初めて見る異様な光景に、思わず1席空けて隣に座っている女王様に小声で

「まさか、マスクしたまま歌わないょナ?」

と話しかけたら、

「んなワケないでしょ。」

とビシャリ。 そして第4楽章に入ると彼らはマスクを外して歌い始めたのですが、如何せん人数が従来のほぼ半数ですから、声量が少なく迫力にイマイチ欠けたのは残念でした。

それでも、「そんなの関係ねぇ~」 でお馴染みの小島よしおがタキシードを着て指揮台に立った如く、スリムで若きスペイン人指揮者パブロ・エラス・カサド(43歳)がオーバーリアクションで、時々ポケットからハンカチを取り出し汗を拭きつつ躍動。

速いテンポで小気味いい演奏には好感が持てました。


    

そして演奏終了後、観客の皆さんは館内放送の指示通り盛大な拍手のみ・・・ところが、カーテンコールでステージに出てきた独唱歌手や指揮者が笑顔で観客席を指差したり手を振るのでその方向を見ると、観客席には〝ブラボー〟と書いた旗を振る人が。

何とも粋な計らいに、少しだけ心が和みました。

この〝SDコンサート〟の模様は、本日午後8時よりNHK・Eテレにて放送されます。

合唱団があるタイミングで一斉にマスクを外す壮観(?)な模様をご覧いただきつつ、演奏をお楽しみください。

私ももう一度、鑑賞するつもりです。
来年は通常モードのコンサートになることを願いつつ・・・。


それでは皆さん、良いお年をお迎えください! 扇子


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鯛焼き

10年程前でしたか、〝白い鯛焼き〟 がブームになったのは。


昭和世代の私にとっても、子供時代に何匹(?)食べたかわからないくらいお世話になったおやつでしたが、鯛焼きで真っ先に浮かぶのは、


 およげ! たいやきくん


この空前の大ヒットを記録した童謡のシングルレコードが発売されたのが、今から45年前の今日・1975(昭和45)年12月25日でした。


もともとこの歌は、同年10月からフジテレビが放送していた 『ひらけ!ポンキッキ』 の中で生田敬太郎さんが歌い始めたもの。


その生田さんが交通事故に遭うなどの諸事情により、子門真人さんに交替してシングルレコードが発売したところ、これが大ヒット。


発売2週間あまりで出荷が150万枚! 

オリコン史上初のシングルチャート初登場第1位、その後11週連続トップの座をキープし、現在までの総売上枚数は450万枚以上で歴代1位。


第2位は〝おんなのみち〟(宮史郎とぴんからトリオ)の326万枚ですから、ダントツの数字です。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-およげたいやきくん


これだけ売れたら、さぞ子門さんは印税で儲かっただろうに・・・と誰もが思うでしょうが、実はそうではなかったそうで。


B面に〝いっぽんでもにんじん〟を吹き込んだなぎら健壱さん同様、このシングルの印税に関して定額・買い取り契約をしていたため、子門さんはたったの5万円(なぎらさんは3万円)しかもらっていないとのこと。


まさか童謡がこんなに売れるとは思わなかったのでしょうが、随分もったいないことをしたものです。


おかげで儲かったのはシングル発売元のキャニオン・レコードら会社側。


同社がこの大ヒットの後に建てた新社屋は、〝たいやきビル〟 と呼ばれたそうな。あせあせ


それにしても、何故この童謡が大人も巻き込んで大ヒットしたのでしょう?


一説には、「脱サラして会社を飛び出したいサラリーマンの気持ちを代弁しているから」 ともいわれていますが、皆さんは歌詞(※一部漢字に変換)をご覧になってどう思いますか?


  毎日 毎日 僕らは 鉄板の
  上で 焼かれて イヤになっちゃうよ


  ある朝 僕は 店のおじさんと 

  喧嘩して 海に 逃げこんだのさ


  初めて 泳いだ 海の底 
  とっても 気持ちが いいもんだ

  おなかの アンコが 重いけど 
  海は 広いぜ 心がはずむ

  桃色サンゴが 手をふって 
  僕の 泳ぎを 眺めていたよ音譜


う~ん・・・私には単純で分かりやすい歌詞とメロディー、そしてスローテンポだったことで記憶に残りやすいから、だと思えるのですが。


現にこの曲、半世紀近く経った今でも私はソラで歌えますもの。


クリスマスの今夜・・・昨日売れ残ったケーキではなく、鯛焼きを買って頬ばりつつこの曲を口ずさんでみましょうか。笑2.


 

ところで皆さんは鯛焼き、頭から食べますか? それとも尻尾から?


私は腹からガブっといってましたが・・・。

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望 郷

おそらく、このシンフォニーの第2楽章を聴いたことのない方はいないでしょう。 


それはチェコ出身の作曲家・ドヴォルザークが作曲した交響曲第9番

   新世界より
  From the New World

この名曲がアメリカで初演されたのが、今から127年前の今日でした。

 ※ドヴォルザークに関する過去記事は、こちら。(↓)



(↑)に書いた通り、私が通っていた小学校では、毎日下校時間になるとこの曲の第2楽章〝望郷〟のメロディーが流れていましたし、テレビ・ラジオでもこれをアレンジした演奏も流れていましたから、おそらく我が人生で最も多く聴いた交響曲だと思います。

この曲は、ドヴォルザークが1892~95年までニューヨークにあるナショナル音楽院の院長を務めていた時期に作曲された、弦楽四重奏『アメリカ』やチェロ協奏曲・・・いわゆる〝ドボコン〟(↓)と並ぶアメリガ在住時の代表作。



『新世界より』 という副題には、新天地というか新世界のアメリカから故郷ボヘミアに向けてのメッセージ・・・という意味合いがあるといわれています。

1893年12月15日に楽譜が出版され、その翌日にカーネギーホールでアントン・ザイドル指揮/ニューヨーク・フイルハーモニック協会管弦楽団によって初演されました。


名曲と言われている作品の多くが初演時に批判や酷評を浴びていますが、この曲は大成功だったとか。

その人気故に現在でもコンサートでの演奏機会は多く、また多くの演奏家が録音を残していますが、皆さんは誰の演奏がお好きでしょうか?

私の場合は、ジョージセル指揮/クリーヴランド交響楽団の演奏が今まで聴いた中では最高の名演だと思っています。

とかくセルの演奏は冷たいと言われますが、私には彼が鍛え上げたクリーヴランド響の精緻な音のハーモニーが、心地良いのです。


       


 

さて、この曲についてのトリビアをひとつ。

実はこのシンフォニーには、皆さんも音楽室で鳴らしたことがあるであろうシンバルが登場するんです。

しかしその音が鳴るのは、第4楽章でたったの1回!

 


それも目一杯〝ジャジャ~ン〟と鳴らすわけではなく、クラシック・ファンでも 「えっ、いつ鳴らしてるの?」 と気づかないくらいの弱音で。

そのせいかどうか、奏者が居眠りしてその1回を鳴らせなかったとか、うっかり床に落として大きな音を立ててしまったなどという失敗談があるそうな。

このように僅か1回・1パートだけ登場する楽器に注目してみるのも、クラシック音楽を聴く際の楽しみかもしれません。

それでは私がイチオシのセル/クリーヴランド響による演奏(1959年)をお聴きいただきながら、そのシンバルの音を探してください。



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初演奏

  〝君が代は 千代に八千代に さざれ石の  

                      巌となりて  苔のむすまで


この

 君が代 

が1999年に制定された 『国旗及び国歌に関する法律』 によって日本の国歌となったことは、皆さんもご存じの事と思います。


オリンピックで日本人選手が金メダルを獲得し、表彰式でこの曲が厳かに流れるのを聴くたび、選手同様に感激する国民は多いはず。


『君が代』は、今から約1,100年前に編纂された日本最古の歌集・『古今和歌集』 に収められている詠み人知らずの和歌がルーツとされています。


ただしその和歌の冒頭は、〝君が代は〟ではなく〝我が君は〟ですが。


元来は年賀のための和歌でしたが、鎌倉時代以降冒頭が〝君が代は〟に変わると共に年賀に限らずおめでたい和歌として使われるようになり、様々な歌集に収められるようになりました。


一方国歌は他国との盛儀大典の際にお互いの国歌を演奏するため、近代西洋で誕生したもの。


その流れの中、明治維新を迎え西欧諸国との交流が始まった日本でも、国歌の制定が必要となりました。


そして1870(明治3)年にイギリス公使館護衛隊の軍楽隊長J・W・フェントンから国歌を制定すべきと進言。

       
              
John William Fenton (1831-1890)

これを受けた当時の薩摩藩歩兵隊長(で後に元帥となる)大山巌が、自らの愛唱歌だった薩摩琵琶の『蓬莱山』の歌詞から『君が代』を採用したといわれています。       


 ※大山巌元帥に関する過去記事は、こちら。(↓)
 



最初はフェントン自身が作曲したものの、西洋音楽調だったため日本人には馴染めず、1876(明治9)年に海軍音楽長・中村祐庸が 『天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀』 を提出するも西南戦争が勃発し、国歌制定は一旦凍結。


それから4年後に宮内省・式部職の奥好義がつけた旋律を一等伶人・林廣守が曲に起こし、更にドイツ人音楽家F・エッケルトが和声を付けて完成。


この『君が代』が初めて演奏(試奏)されたのが、今からちょうど140年前の今日・1880(明治13)年10月25日のことでした。


そして翌月3日の天長節で初めて公に演奏され、1893(明治26)年に文部省が 『君が代』 を収めた 『祝日大祭日歌詞竝樂譜』 を官報に告示。


以降この曲は事実上国歌として用いられ、前述の通り1999年正式に国歌として制定されたのです。


各メディアの世論調査では、約7割の方が『君が代』を国歌として認めているようですが、残りの方はこの曲が軍国主義や天皇制護持を想起する等々の理由で反対しているとか。


君が代の歌詞そのものについては様々な解釈がなされていますが、それに関してここでご紹介することは差し控えます。


ただ他国の国歌はそれこそ軍国主義丸出しで血生臭く、とても子供たちに学校で歌わせたくないようなものが多々ある中にあって、『君が代』は非常に厳か且つ穏やかな曲であり日本の国歌として十分相応しい、と私は思っています。

 ※フランス国歌に関する過去記事は、こちら。(↓)



1903年にドイツで開催された〝世界国歌コンクール〟で(世界最短にも拘わらず) 『君が代』 が一等賞に輝いたことが、その証明と言えましょう。


1,100年以上前から先人たちの想いを積み重ねてきたこの曲を、次世代以降の子々孫々にも引き継いでもらいたいものです。

それでは、リブログ記事でご紹介した野々村綾乃さんとは別に、富永春奈
さんの天女の如き素晴らしい歌声での『君が代』をお聴きください。扇子



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大ヒット

今から75年前の今日・1945(昭和20)年10月11日、戦後初の邦画・『そよかぜ』が封切られました。

レビュー劇場の照明係をしながら歌手の道を志す少女みちが、楽団員に励まされ、遂にはデビューする・・・というストーリー。


     

                  街に登場した広告看板

ですが、この作品を実際に観た方は今殆どいないかもしれません。

かく言う私もその一人ですが、ではなぜこの作品を取り上げたのか?

それは、この映画の(実質的な)主題歌


 リンゴの唄


が、殆どの方が聴き覚えあるであろう戦後初の大ヒット歌謡曲だから。 

タイトルを聞いただけで、〝赤い リンゴに 唇寄せて・・・〟という歌い出しを思い出せる方が多いでしょう。

作詞は、映画の佐々木康監督に依頼された、サトウハチローさん。


撮影が始まっても完成せず、万城目正さんはロケ地・秋田に向かう汽車の中で作曲したそうな。

主役を演じこの曲も歌った並木路子さんは父と次兄を戦地で亡くし、東京大空襲で母をも亡くして失意のどん底・・・当初は明るく歌えなかったとか。

    

そこで作曲した万城目さんが 「君ひとりだけが不幸じゃないんだょ」 と諭して並木さんを励まし、彼女は気を取り直して見事に歌いました。

またこの曲のヒットを予感していた霧島昇さんは、万城目さんに「並木さんと共に歌わせて欲しい」と直談判し、急遽並木さんとのデュエットという形になったそうな。

そんな経緯で誕生した同曲は、敗戦に打ちひしがれた人々の心に沁み入り、戦後初の大ヒットとなりました。

では、その懐かしい名曲を、レコード盤にてお聴きください。




封切りから2ヶ月後に発売されたレコードは、2年間で12万5千枚以上という、当時としては異例の大ヒット。

また当時リンゴはまだ貴重品で、レコード発売直前に行われたラジオ公開番組で並木さんが歌いながら客席に降りてリンゴを配ったところ、観客がその奪い合いで大混乱になったというエピソードも。

その後並木さんがこの曲を歌う際には、リンゴを投げるパフォーマンスが定番になったそうな。

そして1995年に阪神淡路大震災が起きた際、並木さんは避難所を慰問し仮説ステージでこの曲を熱唱、人々を勇気づけたそうな。


彼女は2001年に亡くなりましたが、東日本大震災ではその遺志を継ぎ現地のコミュニティFMが〝りんごラジオ〟と命名されています。

名曲は、時代を超えて人々を勇気づけてくれますネ。


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路 線

今日は、まず最初にコレを聴いて下さい。




私のような昭和世代の方は、懐かしくて思わず涙ぐんでしまうかもしれません。

現在では殆ど使われなくなった、国鉄・JRの車内放送時に使われたチャイムですが、このメロディーの基となった

 鉄道唱歌

の第一集・東海道編が発売されたのが、今からちょうど120年前の今日・1900(明治33)年5月10日のことでした。

冒頭ご紹介したチャイムは、この東海道編に使われているメロディーを転用したもの。


汽笛一声新橋を   はや我汽車は離れたり

   愛宕の山に入り残る  月を旅路の友として〟


という歌詞は、有名ですょネ。


この唱歌は、大阪の出版社・昇文館を主宰する市田元造が企画し発売したものですが、当時既に同社の経営が悪化していたため宣伝もできず印刷部数は僅か3,000部に留まり、殆ど売れぬまま倒産。


このまま曲も消滅・・・かと思われましたが、救いの主が現れます。

それは大阪で楽器店(現・三木楽器)を営んでいた、三木佐助という人物。

       

鉄道唱歌の版権を市田から買い取った彼は、再度出版すると同時に楽団を乗せた列車を走らせるなど斬新な広告戦略を展開。

これが人々の関心を集め、曲は大流行。

同年末までに路線を拡大して第5集まで発売され、大正初期までの20年間に2,000万部を売る大ヒット商品となりました。


※実はこの鉄道唱歌、市田のアイデアを基に全て2通りの作曲が為され、消費者が好きな方を選べるよう出版されましたが、多梅稚が作曲した冒頭のメロディーが圧倒的に支持され、現在歌われたり演奏されるのは、殆どが彼の作品の方。



   

             発売当時の表紙と、その1ページ目


また「地理教育鐵道唱歌」と表紙に銘打たれている通り、元々は子供の地理の学習のために作られた曲でありました。


しかし詞の中に沿線の地理・歴史、民話・伝説、名産品の紹介を織り込んだことで、大人の間でも人気となっとのこと。


その後も類似の路線唱歌が発売されたことからも、その人気ぶりが伺えます。

それでは最後に、元祖というか本家・鉄道唱歌をご一緒に歌ってみてください。



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誰のために?

老若男女にかかわらず、ピアノを弾き始めた方の多くが、この曲を弾くことを第一の目標にしていることでしょう。


 エリーゼのために


L.V.ベートーヴェンがこの作品を書き上げたのが、今から210年前の今日・1810年4月27日だったとされています。


あの厳つい顔(失礼!)のベートーヴェンのイメージからは程遠い(再度失礼!)切なくそして甘美な旋律は、ザ・ピーナツの 『情熱の花』 やザ・ヴィーナスの 『キッスは目にして』 など様々な楽曲にアレンジして使われている、まさにピアノ曲の代表作。


この曲、私にとっても実に思い出深い曲なんです。

6歳からピアノ教室に通い出した私でしたが、野球第一・ピアノは二の次・・・って感じの日常。 


当然のことながら赤や黄色のバイエルをチンタラ弾いていた劣等生だったのですが、なぜか小学校3年生になった途端、急にこの〝エリーゼのために〟を弾きたくなったのです。


「どうしても弾きたいっ!」 って駄々をこねまくり、「アナタはまだそれを弾ける段階じゃありません」 とたしなめる女先生に 「いや、ボクなら弾ける」 と大見得を切った私。


結局先生が折れて、教則本を一旦中止してこの曲の練習を許してくれました。


でも人間って、自分からやる気を出すと進歩するもんですねェ。


ピアノピースの楽譜を買い込んで、鍵盤の前に2,3時間向かう毎日・・・結局ものの半月も経たないうちに弾けたんです!笑2


教室で弾き終り、ドヤ顔で振り返った私が見たのは、先生の 「信じられない」 という引き攣った顔。


しかしその後先生との関係は一層ギクシャク、ますます練習に身を入れなくなった私が上達するはずもなく・・・要するに、私のピアノが上達しなかった原因は、この〝エリーゼのために〟にあったのです!


な~んて、結局才能がなかっただけなんですけどネ。


    


上の写真が、我が家に現存する当時の楽譜。


すっかり黄ばんでますが、ウラを見てみると値段が35円!


半世紀の時の移ろいを感じますネ。


さて、この名曲が捧げられたエリーゼとは誰なのか?


これが長らく音楽界の謎とされてきました。


というのは、ベートーヴェンと交流のある女性にエリーゼという人物が見当たらなかったからなのですが・・・作曲から100年以上経過した1923年に、ドイツ人音楽学者マックス・ウンガーが


「筆跡鑑定の結果、エリーゼ(Elise )はテレーゼ(Therese )と読める」


と論文で発表。


実はベートーヴェン、相当な悪筆で写譜屋泣かせだったことが知られていました。


おそらく出版元の読み違えだろう、というのです。


(※ただし原譜は紛失しており、確認はできません。)


そのテレーゼ・マルファッティは実在の女性で、実際この曲の楽譜は彼女の手紙箱の中から発見されています。


       

                 Therese Malfatti


しかも彼女は18歳の時に当時40歳だったベートーヴェンから求婚されたそうな。


曲を捧げたにもかかわらず残念ながら彼はフラれ、テレーゼは後に伯爵夫人の座に収まりました。


こんなエピソードを知ると、イ短調のこの曲のメロディーがより一層哀しく聴こえてしまいますネ。


だからといって、今更曲名を〝テレーゼのために〟に変えようという話は聞きません。 


もしこの説が真実だとしたら、ベートーヴェンの心の傷を蒸し返すことになりますしネ。


ところが10年前、ドイツの音楽研究者クラウス・マルティン・コピッツが


「エリーゼは、ベートーヴェンのオペラ作品にも出演したテノール歌手ヨーゼフ・アウグスト・レッケルの妹で、当時エリーゼと呼ばれていたソプラノ歌手エリザベートの可能性が高い」


という新説を発表。


はてさて、真実は?・・・顔に似合わず(またまた失礼)恋多きベートーヴェン自身に、あの世で聞いてみるしかなさそうです。うー

それでは最後に、この名曲をお聴きください。


まずは、日本の代表的ピアニスト・園田高弘さんの演奏で・・・。(↓)




もうひとつ、こんな超絶技巧版も見つけました。(↓)



皆さんは、どちらのエリーゼがお好き?



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メンコン

クラシック音楽ファンでなくても、この曲はご存知のはず。


と言うのも、おそらく学校の音楽の授業で聴かされているでしょうから・・・。

それは、ベートーヴェン・ブラームスの作品と並び、〝3大ヴァイオリン協奏曲〟と称される


メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲ホ短調 


                                                                                 作品64

この名曲か初演されたのが、今から175年前の今日でした。


※メンデルスゾーンに関する過去記事は、こちら。(↓)



早熟の天才であり、その作品はいずれも美しい旋律に彩られている彼の作品の中でも特にその情緒豊かなメロディーで有名なこの協奏曲は、クラシック音楽愛好家の間で〝メンコン〟と呼ばれ、一流ブァイオリニストの殆どがレコーディングしているはず。


この名曲を作曲する契機となったのは、彼の幼馴染みで1歳年下のヴァイオリニスト、フェルディナント・ダヴィット(1810-1873)。

       

                    Ferdinand David 


彼はメンデルスゾーン家と同じアパートに生まれ、メンデルスゾーン一家が引っ越した後も家族ぐるみで交際していました。

メンデルスゾーンと同じユダヤ系だった彼は、16歳でベルリン王立劇場のヴァイオリン奏者になり、1835年にはライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターに就任。

その同じ年に26歳で同楽団の指揮者に就任していたのが、メンデルスゾーンでした。

かつての幼馴染みが奇しくも一流オーケストラの指揮者とコンマスになったわけですが、自らもヴァイオリンの名手だったメンデルスゾーンはダヴィットの演奏レベルの高さに感銘を受け、彼のためにヴァイオリン協奏曲を創ることを決心。


そしてメンデルスゾーンは、ダヴィット宛てに

「翌年の冬までにはホ短調の協奏曲を贈る」

という内容の手紙を1838年に送っていたのですが・・・実際に完成したのは、それから6年後の1844年9月。

多作で作品を仕上げるのが早かった彼が、なぜそんなに時間を要したのか?・・・その原因は、病気でした。

そして本来は彼自身がゲヴァントハウス管弦楽団を指揮し、ダヴィットがソリストを務めるはずだった1845年3月13日の初演では、メンデルスゾーンの体調不良により
副指揮者のニルス・ガーデが代役を務めました。

そしてこの2年後、メンデルスゾーンは38歳の若さでこの世を去ったのです。

この名曲の演奏は、数々のヴァイオリニストが演奏・録音していますが、個人的に好きなのは


ヤッシャ・ハイフェッツ/シャルル・ミュンシュ指揮・ボストン交響楽団による1955年の演奏。 (下写真・左)

そして1980年に録音された、カラヤン/ベルリン・フィルと天才少女アンネ=ゾフィー・ムター17歳の時の共演(同右)も、よく聴きます。




高校生時代には、アイザック・スターンのレコードを持っていましたが、CDは買わず仕舞い・・・。

皆さんのお好きな演奏があれば、是非教えてください。


それでは最後に、今までじっくり聴いたことのない方りのために、フル演奏動画を。

日本の第一人者・諏訪内晶子さんの奏でる甘く切なく、そして時として力強いストリングスの響きをご堪能いただきたく・・・。
笑3



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グランド

私のようにピアノを弾く人にとって、コンサートホールでこのピアノを奏でるのは、憧れだと思います。

プロのピアニストの98%が使用するという圧倒的な人気と信頼を誇る


 スタインウェイ・アンド・サンズ


Steinway & Sons

テレビでコンサート中継を観ると、ピアノにこの刻印が施されているのをよく目にすると思います。

    

この世界最高峰のピアノ会社が設立されたのは、今から167年前の今日のことでした。

同社を設立したのは、


 ヘンリー・エンゲルハード・スタインウェイ
        Henry Engelhard Steinway


というドイツ人。


       


1787年にドイツのブラウンシュヴァイクで林務官だった父の16番目(!)の子として生まれた彼は、折しも勃発したナポレオン戦争に父や兄が駆り出され、更に飢餓によって母親や兄弟の多くが死んでしまい、父親が戦地から戻ってきた時は3人しか残っていなかったとか。

その上15歳の時に落雷によって家屋が全焼し孤児になるという、過酷な少年時代を過ごしたそうな。

しかし、その後木工々場の守衛になったことが、彼の運命を決定づけました。

そこで身につけた技術を生かして木工職人となった彼は、戦争末期にはオルガン製作工場で働き始め、程なく独立して自身のオルガン修理工房を立ち上げます。

やがて当時普及し始めたフォルテピアノ・・・つまり現在のピアノに興味を持つと、以後その製作に取り掛かり、1836年には部品も全て手作りの第1号ピアノを完成。

そして1848年に欧州で革命が起きるや、長男のクリスティアン1人を残し、妻と残りの8人の子供を引き連れてアメリカへ。

(その長男が、ドイツのピアノ工房を引き継ぎました。)

渡米した際、
ハインリヒ・シュタインヴェークという名を英語風のヘンリー・スタインウェイに改めた彼は、1853年3月5日にニューヨーク・マンハッタンで 『スタインウェイ・アンド・サンズ』 を設立。

1857年に初めて特許を取得した同社は、19世紀末までにほぼ現在と同じピアノ製作技術を確立。

1860年代には新しい工場を建設したことで年間生産台数が500台から1,800台にまで増加。

    


1871年にヘンリーが亡くなった後も、社名の通り息子のウィリアム・スタインウェイによって会社は受け継がれました。

現在まで125件もの特許取得を重ね、それまでになかった独自の製造技術を開発してきた
同社のピアノは


◆楓材等の硬く緻密な木材を使用し、曲げ練り製法により一体として製造されたアウターリムとインナーリム


◆他社に比べ張力が低く、弦の倍音を有効に活用し音量を増大するデュプレックススケール


◆フレームとリムを連結し弦圧を最適化し高音域の響きをリムに伝えるサウンドベル


等々、現在は当たり前になっている音響工学を取り入れた設計により、特に大ホールで豊かな音色を出せるのが特徴だそうな。

私が敬愛する20世紀最高のピアニスト、V・ホロヴィッツがコンサート・ツアーに同社製の同じピアノを運び回ったのも頷けます。


       

※ちなみにそのコンサート・ツアーには、スタインウェイ社に所属する調律師も同行していました。(↓)


しかし製造に長い期間がかかるために生産台数が少ないスタインウェイの経営は順風満帆とは言えず、1972年にはCBSに買収され、その後複数回の買収を経て、1995年にはセルマー・インダストリーの傘下に。

そして現在はそのセルマーグループらと共に構成する楽器製造企業複合体スタインウェイ・ミュージカル・インスツルメンツの一角を担っています。

企業形態はかなり変わったものの、スタインウェイという名がしっかり残されているところに、音楽界におけるそのブランド力の強さが伺えます。

私も死ぬ前に一度、どこかのホールでスタインウェイのコンサートグランドを弾いてみたいものです。

もちろん、観客なしで。
あせあせ


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