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切 取

ここ数日来、オールドメディアの報道では、「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」などと差別的な発言をしたとして、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長に対するバッシングや辞任要求が高まっています。

しかし、この報道を見聞きして森会長に批判の目を向ける方々は、森会長の発言全容を知っているのでしょうか?

まだご存知ない方のために、今月3日に行われたJOC臨時評議員会における発言の書き起こし文をご紹介します。

『これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさく言うんですね。

だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。

これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかる。


女性が何と10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(笑いが起きる)5人います。


女性っていうのは優れているところですが、競争意識が強い。

誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。

結局女性っていうのはそういう、あまり言うと新聞に悪口書かれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。


私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。

みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。


ですからお話もきちんとした的を得た、そういうのが集約されて非常に我々役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです。


       


如何でしょうか?

確かに不適切というか不必要な表現はありますが、女性蔑視どころか最後には女性を選ぶ、と述べています。


この発言を都合よく切り取って報道している反日左翼メディアは、何としても森会長を辞任に追い込み、政権与党に打撃を与えたいのでしょう。

拙ブログでは何度も申し上げていますが、新聞・テレビが垂れ流す情報を決して鵜呑みにしてはいけません。

オールドメディアが目の敵にするのは、日本にとって有益な政治家だと言えます。 安倍前総理は、その典型例でしょう。

また彼等が擁護したり露出させる特定野党議員や石破茂氏などは、その逆と見て間違いありません。

ついでに言うなら、森会長批判の先陣を切る朝日新聞は7年前、系列誌『AERA』にこんな記事を掲載しています。(↓)




朝日新聞よ、この記事は男性蔑視にならないのか?

自己批判・謝罪記事を掲載しないなら、ダブスタの誹りを免れないと思うが、如何?

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反 旗

「人生には(誰でも)3回チャンスが訪れる」・・・と、よく言われます。 


進学・就職・転職・結婚等々、人によってその〝チャンス〟はそれぞれでしょうが、その人生のターニングポイントを生かすも殺すも、本人次第。


そしてこのチャンスをみすみす逃してしまった (と私が個人的に思っている) 出来事・・・俗に言う


 〝加藤の乱〟


が今からちょうど20年前の今日、政界で起きました。


主役となったのは、自民党衆議院議員・加藤紘一氏。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-加藤


山形県・鶴岡市長、衆議院議員を務めた加藤精三氏の五男として1939年に生まれた彼は、日比谷高校-東大-外務省を経て父親の地盤を引き継ぎ1971年に衆院議員に当選した、典型的な世襲議員。


当選を重ね党内で着々と出世、1984年の中曽根内閣改造時に防衛庁長官として初入閣。 

1995年に橋本内閣で幹事長に就任、3年後には宏池会々長に。


早くから若手ホープとして(山崎拓氏)(小泉純一郎氏)(加藤氏)3人が注目される中では、最も総裁のイスに近いと目されていました。


そんな状況下で2000(平成12)年11月20日、それは起こったのです。


この前年に小渕氏との総裁選に敗れた加藤氏は、その後小渕氏急逝に伴い誕生した森内閣が支持率低迷に喘ぐ中、「森内閣に改造はやらせない」 と党幹部に公言。


山崎拓氏と共に、野党が提出すると目されていた内閣不信任案に賛成する動きを明確に打ち出しました。


総裁選で衝突した小渕氏に干されていた現況を打破しようとしたのか、いわゆる造反により党改革と失地回復を目論んだワケです。


マスコミに露出して注目度を集め、盟友と手を組んで派閥内の支持を受けて大勝負に出た・・・はずなのですが、「不信任案賛成の場合は除名・非公認」 という党執行部の強硬姿勢に怖れをなした味方が次々と切り崩され、クーデターは頓挫。


結局不信任案が提出される11月20日の本会議開催前に加藤・山崎両派閥合同総会を開き、本会議欠席を決定。


それでも1人出席して賛成票を投じようとする加藤氏を派閥議員が押しとどめるシーンがTVニュースを通じて全国に流されましたが、その場面をご覧になった記憶がある方もいらっしゃるはず。

    

             加藤氏を引き留める谷垣氏(右)


私に言わせればこの場面、信長打倒を口にして配下共々本能寺に出向いたものの、いよいよ突入の段になってビビッた腹心から 「やっぱり止めときましょう」 といわれて袖を引っ張られ、スゴスゴと正門前から撤退したようなもの。


結局、何事もなかったかのように不信任案は否決されました。


その後の加藤氏は宏池会の分裂、事務所代表の所得税法違反による離党、さらには放火による自宅焼失など、踏んだり蹴ったり。

そして2012年に落選し、そのまま政界を引退。
その4年後・2016年、肺炎により77歳でこの世を去りました。


もしあの時、止める派閥議員を振り切ってでも本会議で賛成票を投じていたら、その後の政治活動は大きく変わっていたかもしれません。


いやそれ以前に、若い時からプリンスとしてチヤホヤされるばかりで神輿を担ぐ立場になかった彼が、大将としての勝負弱さ・脆さ、政治手腕の稚拙さを露呈してしまった・・・とも言えましょうか。


その後も時々マスコミに登場した加藤氏ですが、その発言がどうしても軽く聞こえてしまったのも致し方ないかもしれません。


また、当時は静観を決め込んだ小泉純一郎氏がその後総理大臣になり、必死に加藤氏の本会議出席を止めた谷垣氏が自民党総裁になったことは、あまりにも皮肉。


ここぞというチャンス・勝負所は逃げてはいけない・・・彼の造反劇の顛末を思い出すにつけ、つくづくそう思うのです。


かく言う私自身、その好機は既に3回来て取り逃がしてしまったようですけど。うー


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合 同

戦後長らく日本の政治を動かしてきた

 自由民主党


この保守政党が誕生したのは、今から65年前の今日のことでした。


終戦直後から、政界では左翼勢力が台頭。

新憲法下最初の総選挙だった1947年の第23回総選挙では社会党が比較第1党となり、片山哲書記長を首班とする民主党・国民協同党との連立内閣が発足。

その後同党は左右両派の対立によって1950年に分裂しますが、1955年10月に再統一。

一方の保守勢力も大物政治家が公職追放されるなどして混乱、分裂・対立が続いていましたが、社会党が統一し大きな左翼勢力としてまとまったことで危機感が高まります。

同じ危機感を持つ財界からの圧力もあり、それまで対立していた自由党と日本民主党が合同に合意。

1955(昭和30)年11月15日、
東京・神田の中央大学講堂に於いて結成大会が開かれ、衆議院298名・参議院115名からなる新政党が誕生しました。


    

※党名については公募され、党内外・全国から2,191通もの応募が集まりました。
 『日本保守党』が第1位、『民主自由党』と『保守党』が同数で2位でしたが、党内からは「日本保守党では選挙で不利」との意見が出て採用されず、党内論議の結果『自由民主党』に落ち着いたとか。


しかし急いで合併したこともあって党内はなかなかまとまらず、結党当初は総裁を置かず総裁代行委員を置き、鳩山一郎(首相で日本民主党総裁)、緒方竹虎(自由党総裁)、三木武吉(日本民主党総務会長)、大野伴睦(元衆議院議長)の4人が務め、鳩山氏が総裁選挙によって初代総裁に就任したのは、5ヶ月後の1956年4月になってから。


       

                  鳩山一郎氏


その後も党内対立は続き、三木武吉は「10年持てば」と言い、松村謙三は「30年後には崩壊する」と予想。

しかし好景気にも支えられ、自民党はその後も着実に勢力を伸ばし、所謂〝55年体制〟は1993年に新党ブームから細川内閣が誕生し自民党が野党になるまで長らく維持されることに。

その後政権交代などもありましたが、現在は安定政権を維持している自民党・・・問題は菅総理が安倍総理同様に長期政権を維持できるかどうか。

それにしても、初代総裁となった鳩山一郎氏・・・自分の孫が自ら作った自民党を飛び出して対立政党を作り、総理大臣となりながら何もせぬまま逃げ出したばかりか、政界引退後の今でも自民党の足を引っ張り続ける姿を、どんな思いであの世から眺めているのやら。

早く宇宙人を迎えに来て欲しい・・・そう願うのは、私だけではありますまい。


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外 見

「人は、見かけが9割。」

なんで言葉がありますが、実際殆どの方は第一印象で人の値踏みをするところがあります。

それは日常生活だけでなく、政治の世界でも同じ。

立候補者のポスターを見て、政策など関係なく美形・美人に投票する有権者は少なくないでしょう。

これは何も日本だけでなく、世界共通のはず。

その外見・印象でアメリカ大統領選挙の結果をも左右するのは今や常識であり、候補者やその陣営は良いイメージづくりに躍起となりますが、そのキッカケとなる歴史的な


 テレビ討論会

が初めて行われたのは、今からちょうど60年前の今日・1960年9月26日(現地時間)のことでした。


出演したのは、民主党・ケネディ候補と共和党・ニクソン候補。


   


それまでの世論調査では、8年間副大統領を務め豊富な経験と演説も巧みなニクソン候補が、若く政治経験も少ないケネディ候補を僅かながらリード。


しかし、当時アメリカで普及していたテレビを使った討論会中継が、流れを一変することに。

それまでリードを許していたケネディ陣営は、この討論会に際し徹底的にイメージ戦略を練りました。

白黒テレビでの中継を考慮し、背景の薄いグレーから浮き立ち力強さを印象づけるよう紺色を選択。

また体型にフィットする細身のスーツで、若さと精悍さをアピール。

これに対してニクソン陣営は、外見よりも演説の中身を重視。


薄いグレーのスーツは背景とかぶり印象も薄くなり、かつブカブカのサイズで視聴者に好印象を与えられませんでした。

またケネディはテレビ用のメイクアップを施し、笑顔が多く表情も豊かで背筋もビシッ。

対するニクソンはメイクアップを拒否したため顔色が悪く無精ひげが目立ち、かつ笑顔が少なく怒っているような感じで、姿勢も猫背でくたびれた感じ。


いかにニクソンのテレビ映りが良くなかったか・・・それはテレビを観たニクソンの母が、討論の直後に息子が病気ではないかと心配して電話した、というエピソードが証明しています。

それでは論より証拠、そのテレビ討論の模様をご覧ください。

(※日本語訳はついていません。)



この討論会をラジオで聞いていた人々は軍配をニクソンに上げましたが、それは全体から見ればごく少数派。


逆に約8,000万人のテレビ視聴者はケネディに好印象を持ち、実際彼が大統領になりました。

その後このテレビ討論は3回行われ、ニクソンはメイクをして出演しましたが、時既に遅し。
視聴率は初回に比べ格段に下落し、イメージ回復とはなりませんでしたから。

いかに第一印象が大事か、ということですネ。

この逆転劇が起きて以降、現在に至るまで選挙におけるイメージ戦略は各陣営にとって最重要課題となっているのです。

でも、本当はそれじゃダメなんですけどネ。

やはり有権者が見た目に騙されず、政治家の力量を冷静に見定められないと・・・。


 


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【特別増刊】 国 辱

我が国にとって8月4日は記念日ではなく、外交上忘れてはならない〝忌念日〟と言えるかもしれません。


今から27年前の今日・1993(平成5)年8月4日、当時の内閣官房長官・河野洋平(以下、敢えて敬称略)が、いわゆる


 河野談話


を発表した日ですから。

まずは、その全文をお読みください。 (※句読点を一部省略・修正)


『いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は一昨年12月より調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。


今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。


慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。


慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も甘言・強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。


また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。


なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集・移送・管理等も、甘言・強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。


いずれにしても、本件は当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。


政府はこの機会に、改めてその出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。


また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。


われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。


われわれは、歴史研究・歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。


なお本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また国際的にも関心が寄せられており、政府としても今後とも民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。』


いかにも役人が知恵を絞って練り上げた文章って感じですネ。


朝鮮人従軍慰安婦を日本軍が〝強制連行〟したと明言してはいませんが、その微妙というか中途半端な言い回しが、結果的に〝従軍慰安婦問題〟として現在に至るまで韓国の外交カードとして使われる原因となったことは明白。


         


元来、〝従軍慰安婦問題〟は日韓間に存在しませんでした。


これが発生した端緒は、下関市議選に共産党から立候補・落選した経歴を持ち、自らも旧日本軍人だったという吉田清治(筆名)なる人物が1983年に出版した 『私の戦争犯罪』 。

同著の中で、彼は大東亜戦争時に日本軍人が朝鮮人女性を慰安婦として強制連行したと証言し、また自らも韓国に赴いて講演・謝罪を繰り返したこと。


しかし彼以外に同様の証言を行う旧日本軍人はおらず、またこの証言に関しては地元・韓国の 『済州新聞』 が取材の結果 「この著作は捏造」 と1989年に発表。


また1992年には日本の歴史学者が現地で聞き取り調査を行った結果全く裏付けが取れず、著者本人も後に創作があったことを認め、現在同書は歴史証言としては全く信用・評価されていません。


ところがこの著作が出版された後、「自分は強制的に慰安婦にさせられた」と証言する朝鮮人女性が現れ始めます。


その証言の多くには年齢的な矛盾点などが指摘されており、当初日本政府は否定的な態度を取っていたのですが、1992年に当時の宮沢首相の訪韓前にこの問題を発端にして反日感情が激化。


情けないことに同首相は、充分な調査を行う前から謝罪を繰り返したのです。


これを受けて韓国政府は徐々に対日圧力を強め、1993年には日本の教科書にこの問題を記述するよう要求。


そしてこの問題の存在を正式に認める形となったのが、河野談話でした。


慰安婦の存在自体は確かですし、それは日本軍に限らず世界中にあったこと。 


しかし地元の新聞社が捏造と断じた書籍を基に朝日新聞が執拗に記事を連載したおかけで、我が国は半ば 〝強制連行〟 したという冤罪を押し付けられ、あろうことかそれを〝政治的判断〟で追認する形になったことは、日本外交史上特筆すべき大失態だと私は思います。


しかしこの問題に関して、大きな動きがあったのは、2014年に入ってから。

産経新聞が朝日新聞の記事の矛盾を指摘したことに端を発し、同年2月、当時の事務方トップだった石原信雄元官房副長官が国会の招致に応じ、河野談話作成の過程に関して


◆ 事実関係確認のため各省庁に資料調査を要請し、またアメリカの図書館まで行って探したが、〝女性たちを強制的に慰安婦に従事させた〟という類の文書は発見できなかった。


◆ 元慰安婦(だったという)16人の聞き取り調査をした際、彼女らの証言内容に関して裏付け調査は行わなかった。


つまり確たる証拠もないまま、半ば従軍慰安婦の強制があったかのような談話を作成した、と証言したのです。


        


更に同年6月、日本政府は河野談話発表前に韓国側と文言調整したことや、慰安婦証言の裏付け調査を行っていなかったことを明らかに。

そしてその約2ヶ月後の8月5日、朝日新聞は慰安婦問題の拠り所である吉田清治の証言を虚偽と認め、記事を撤回。


これにより従軍慰安婦が日本軍に強制連行されたという虚構は崩れ、逆に従軍慰安婦は高い給金で公募された売春婦であった証拠が複数上がっているにも関わらず、現在に至るまで日本政府は河野談話を取り消していません。


この問題の経緯は、竹島や北方領土の実効支配と同じ。


毅然として相手の言い分を突っぱねぬまま、ジワジワ既成事実化されてしまうところが・・・。

残念ながら、我が国には将来を見据えることなくその場凌ぎのために媚を売るヘタレ政治家が多過ぎます。

この談話は彼個人が作成したものではなく、時の政府の弱腰に起因したものではありますが、不用意な発言で計り知れぬ不利益を日本にもたらしたことは間違いありません。

今に至ってもその自覚もなく談話を取り消さない河野洋平や同様の言動を重ね続ける村山富市、そして海外に対して記事の取り消しを公表・謝罪しないだけでなく、南京事件をも捏造し靖国問題を引き起こした元凶である朝日新聞は、売国奴・国賊会社だと断言できます。

我々は彼らを絶対に許してはなりません。うー



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初入閣

現在我が国の新内閣発足時には必ず何名かの女性が入閣していますが、一昔前までは男性が独占。


そんな男尊女卑の見本のようだった政界に初めて女性閣僚が誕生したのは、今からちょうど60年前の今日・1960年7月19日のことでした。


この日船出した第一次池田内閣で厚生大臣に任命されたのが、


 中山 マサ 


現自民党衆議院議員・中山泰秀氏の祖母にあたる方でした。


       


中山氏は1891年、イギリス人の父と日本人の母の間に生まれた〝ダブル〟。


地元長崎の女学校を卒業後アメリカに渡り、アルバイトをするなど苦学しながらオハイオ・ウェスリアン大学を卒業した才女でした。


帰国後女学校の教師をしていた彼女の運命を変えたのは、戦前から衆議院議員を務めた弁護士・中山福蔵氏との結婚。

そして戦後直後の1946年に行われた衆院選で、初めて女性代議士が誕生。(↓)



その翌年に行われた第23回衆院選に民主党公認で大阪2区から立候補したマサ氏は、見事当選を果たします。


(※この時の当選者同期は、田中角栄氏・中曽根康弘氏など。)


以後当選8回を数えた彼女は第5次吉田内閣で厚生事務次官を務めた実績を買われ、その7年後に日本憲政史上初の女性閣僚に抜擢されたわけです。


「婦人が大臣になったからには、婦人問題に重点を置くということです。」

就任当時そう語った彼女は、総選挙と内閣改造により在任期間5ヶ月という短期間ではありましたが、その言葉通り小児マヒ対策や母子家庭への児童扶養手当支給の法制化などに尽力しました。


       


            中山マサ厚生大臣と池田勇人首相


彼女の退任以降別の1名が任命されたものの、女性の閣僚登用は1960年代前半から一旦途切れます。

しかし平成時代に入ってからはほぼ切れ目なく1~複数名が任命され現在に至っています。


2020年1月現在で、衆議院の女性議員比率9.9%、参議院は22.9%。


そして中山氏を含め、女性閣僚経験者は現在まで延べ41名。

(※一部複数回経験者あり)


それでも役職の一定割合を女性に割り当てるクォーター制を導入するなどしている諸外国に比べ、その比率はかなり低いといえます。


また国会議長や県知事に就任した女性はいるものの、他国では既に実現している女性首相はまだ誕生していないところをみれば、すっかり女性上位になったと思われる日本でも、こと政界に於いては男性優位であることは否めません。

私は個人的に、閣僚数も含めもっと女性が政界で活躍できる機会が与えられていい・・・と思っています。


ただそれを実現するためには、当の女性政治家の皆さんに一つ申し上げたいことが。

それは、自らが女性であることを前面に出さないこと。

以前、それをウリにして一時期党を躍進させた女性党首がいらっしゃいましたが、一時の流行に終わりました。

女性というだけでは、真に国民から支持を得ることは出来ません。


政治は人気商売ではなく、また性別も関係なく、あくまで実力勝負・・・有権者もそういう視点で政治家を選ぶ眼力を養わねば日本の政治レベルは上がらない、と思うのです。うー

〝鉄の女〟といわれたイギリスのサッチャー氏やドイツのメルケル氏のような実力派女性首相が我が国に登場するのは、果たしていつなのでしょうか?


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参 政

戦後、GHQの指導によりそれまで日本になかった様々な新しい制度が導入されましたが、その中のひとつに、女性に対する参政権付与があります。

その権利を行使した初めての国政選挙、


 第22回衆議院議員選挙

が行われたのが、今から74年前の今日・1946(昭和21)年4月10日のことでした。

男女問わず満20歳以上の日本国民(※前回まで選挙権の有った台湾・朝鮮籍の者は除外)が選挙権を持ったこの選挙には、定数466議席に対し、衆院選史上最多の2,770名が立候補。

戦後直後の混乱期ゆえ致し方なかったのでしょうが、候補を擁立した政党数が、なんと258!

かつ立候補者の半数近い1,343名が無所属だったそうですから、選ぶ有権者もさぞ悩んだことでしょう。

で、この選挙の結果、39名の女性代議士が誕生しました。


    


よく選挙のたびに話題になるのが、女性議員の比率。

国際的に見て、日本の比率は低い・・・とよく言われます。

実際、39名当選したこの選挙でも女性議員の比率は8.6%。

次の第23回衆院選では女性議員は15名に激減。


2005(平成17)年の第44回衆院選で43名が当選するまで、60年近く最初の39名を超えることはありませんでした。(↓)


  


参議院は衆議院より比率が20%弱と高いですが、これは1989年に社会党々首の土井たか子氏が引き起こした〝マドンナ・ブーム〟が大きく影響していると言えます。

それまでは参議院でも6~7%で推移していた女性議員比率が、一気に17.5%に上がりましたから。

さて、皆さんはこの国会議員の男女比について、どうお考えでしょうか?

女性には睨まれるかもしれませんが、私はこの男女比を気にしません。

「男女比率を半々に」 と主張する方もいますが、私はそういう数合わせはナンセンス・・・政治家は、あくまでその力量・人格で選ぶべきだと思っていますから。

ですから、男性より女性の方が優秀な人材が多ければ、女性議員の比率が50%を超えても構わないと。

しかしただ若いから、とかイケメンだから、とか女性だから・・・という見た目や上辺だけで投票すれば、そのツケは私たち有権者自身に返ってきます。

マスコミの偏向報道に流されて2009年に誕生した民主党政権の酷さが、それを如実に証明していますネ。

選んだ政治家のレベルが、有権者のレベル。

あらためて、私たち有権者はそれを認識すべきでしょう。


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漏 洩

与党を批判するばかりでやたらブーメランばかり投げている現在の特定野党議員と違い、昔の野党には骨のある国会議員がいました。

以前拙ブログでご紹介した大出俊氏やロッキード事件で名を馳せた楢崎弥之助氏などはその代表例ですが、〝オカッパル〟という渾名をつけられた社会党の岡田春夫氏も、その一人。

その〝オカッパル〟がまさに国会に爆弾を炸裂させたのが、今から55年前の今日のことでした。 いわゆる

  みつや  

 三矢研究問題

について防衛庁と政府を追及したのです。

三矢研究とは、その2年前・1963年に自衛隊統合幕僚会議が極秘裏に行っていた机上作戦演習のこと。

正式名称は『昭和三十八年度総合防衛図上研究』であり、この三十八年と毛利元就の〝三本の矢〟の故事にかけ、陸海空の3自衛隊の統合という意味合いからそう呼ばれたといいます。

中身は朝鮮半島で第二次朝鮮戦争が勃発し、北朝鮮軍が38度線を破って南下、在韓米軍の出動やそれに伴う自衛隊の出動、更にはその期に乗じてソ連軍が北海道に侵攻する・・・など、かなり具体的かつ詳細に分析がなされていました。


       

岡田氏はこの内容の一部を入手し、1965(昭和40)年2月10日に行われた衆院予算委員会の質疑で三矢研究の存在を暴露。

その上で同研究の全資料の提出を求め、同時に自衛隊の政治介入とシビリアンコントロールの不在を追及したのです。



政府側は虚を突かれた格好で、答弁もしどろもどろ・・・当然左翼メディアは一斉に政府批判を展開。

防衛庁は 「研究であって計画ではない」、「シビリアンコントロールは厳として存在する」 などと反論。


しかしこの研究が暴露され国会で問題視されたため、その後有事を想定した研究はタブー視され、停滞を余儀なくされました。

こういうシミュレーションがようやくできるようになったのは、その後40年近く経った2003年に武力攻撃事態対処関連三法が、そして翌年に国民保護法等が成立してから。

三矢研究問題が発覚した時の防衛庁長官が小泉純也氏であり、この法整備がなされたのはその長男・小泉純一郎氏が総理大臣だった時・・・というところに、何とも運命的なものを感じます。

まだ昭和40年代は安保問題を含め戦争アレルギーが残っていたでしょうから、国民が神経過敏になっても致し方なかったでしょう。

しかし国防を考えた時、万一の有事の際自衛隊がどう動くべきかは予めあらゆる想定を練り、それに応じた訓練をしなければ意味がないでしょう。

またそれはトップレベルの国家機密であり、国会の場でベラベラしゃべる筋合いのものではありません。

それを公表せよと政府に迫る野党議員は、国防に関して全く無知か、あるいはそれをどこか別の国に知らしめることを目的としているとしか思えません。

しかしそれよりも私が問題視するのは、そういう防衛庁の機密情報が野党議員に漏れたこと。

数年前にも共産党議員が防衛省の機密情報を入手し国会で追及したことがありましたが、一体同省の情報管理はどうなっているのか?

情報漏洩は、コンビューターのハッキングか内部関係者のリークしか有り得ないでしょう。

まして共産党議員に漏れているということは、彼らと繋がりがある中共やソ連にもダダ漏れであるということ。

こういう事例を見るにつけ、我が国はスパイ防止法の成立が急務だと痛感する次第。

同法成立に反対したり、国家機密を公にしようと画策する国会議員こそ、スパイである・・・私はそう確信しています。うー



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難 癖

最近は、特定野党議員が新聞・週刊誌のネタで重箱の隅をつつくように閣僚を批判し政権叩きをする光景を、国会中継等で少なからず目にします。

そんなくだらない粗探しをすることは国会議員の仕事じゃないだろう・・・とツッコミたくなるのは私だけではないと思いますが、これは何も今に始まったことではありません。

戦前にも、そんなことが行われていました。

今から86年前の今日、軍部出身議員らの猛烈な批判を受けて辞任に追い込まれたのが


 中島 久万吉 商工大臣 (1873-1960)


でした。


        


父・中島信行は、土佐藩を脱藩した尊王志士で海援隊に所属したこともあり、明治政府の高官から下野して自由民権運動に参加し自由党の副総理や初代衆議院議長を務め、その勲功により男爵となった人物。

また母親も陸奥宗光の妹という、まさに名士の家庭の長男として生まれ育った彼は、父親から男爵を襲爵し、岩倉具視氏爵の娘と結婚。

明治学院では島崎藤村と同窓で、文学雑誌を主宰して島崎が文学者になる道筋をつけた後、1897年に高等商業学校(現・一橋大学)卒業後、東京株式取引所・三井物産などを経て、桂太郎・西園寺公望の首相秘書を務めた後、1906
(明治39)年に古河財閥入り。

3代目当主・古河虎之助の補佐役を務めるかたわら、横浜護謨(ゴム)・古河電工などの社長を歴任、1916年には日本工業倶楽部創立と同時に専務理事となり、昭和初年の産業合理化運動に尽力しました。

そして男爵議員として貴族院議員(公正会所属)をも務めた彼が、斎藤実内閣の商工大臣となったのは、五・一五事件直後の1932年5月26日。

2年余り無難に務めた中島大臣が突然スキャンダルに巻き込まれたのは、1934(昭和9)年2月のこと。

雑誌 『現代』 2月号に、中島大臣の足利尊氏に関するエッセーが掲載され、その中身について野党議員が噛みつきました。

       

当時、足利尊氏は後醍醐天皇に背いた逆賊とされており、そういう人物を現職大臣が評価するのはけしからん、というのです。

しかし、そもそもこのエッセーは、中島氏が1921年に静岡市にある清見寺に安置されている〝木造足利尊氏座像〟を拝観し、その感想文を俳句同人雑誌 『
倦鳥』 に投稿したもの。

       

それが13年後に転載されたもので、しかもその内容は辻善之助という歴史家の見解をほぼなぞった、尊氏と足利(室町)時代を再評価すべき、という主旨。

現代なら全くの言いがかり・難癖の類であり、ネット時代の現代なら逆に批判した方が世間から叩かれそうなものですが、軍部が絡んでいたからたまりません。

一旦は中島大臣が転載を知らなかったと陳謝して収まりかけたのですが、軍部出身者が多い貴族院では軍縮を目論む斎藤内閣とそれに賛同する中島大臣を更に叩きます。

批判の先頭に立ったのは、予備役の陸軍中将であった菊池武夫・貴族院議員。

この方、尊氏と敵対した南朝の功臣・菊池氏の子孫だったそうですが、
室町時代には足利氏より肥後国守護職に任じられており、逆賊・足利氏の家来でもあったそうな。

ある意味、先祖の恩を仇で返すような所業ですが、その菊池議員が


「逆賊尊氏を礼賛することは輔弼(ほひつ=天皇の補佐)にあたる大臣の任に堪えない」


として、斎藤首相に中島大臣の罷免を要求。

首相は先の陳謝で決着済みと突っ張ねたものの、野党議員は更に中島大臣の爵位辞退までも口にして首相の政治責任を追及。


マスコミがこれを大々的に取り上げたことで宮内庁にまで批判の投書が殺到したため、中島大臣はやむなく2月7日に大臣を辞任したのです。(爵位は辞退せず)

そして結果的にこの辞任が、議会における軍部の台頭を許す端緒になりました。

中島氏はその後も日本貿易会々長や文化放送会長も務め、経済界の発展に貢献しましたから、有能な人材を実に下らない言いがかりでひきずり降ろしたことは、残念至極。

最近は同様の言いがかりを続ける特定野党や隣国の蛮行が目立ちますが、理不尽な攻撃に頭を下げたら相手はますます増長するだけ。

毅然と反撃する姿勢こそが国民から信頼を受けることを、肝に銘ずべきです。


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超法規

10年余り前、当時航空幕僚長だった田母神俊雄氏が民間企業主催の懸賞論文に応募して最優秀賞を受賞したものの、その内容が政府見解と異なることが問題視され、結局田母神幕僚長は論文公表の事前届けを怠ったという理由で解任される・・・ということがありました。

いわゆる文民統制の立場からそうなったわけですが、実は自衛隊トップの発言が問題視されたのは、これが最初ではありませんでした。

それは今から41年前の今日・1978(昭和53)年7月19日、当時の自衛隊トップだった


  来栖 弘臣  統幕議長

が、2日前に発売された週刊ポストに掲載された

「現行の自衛隊法には穴があり、奇襲侵略を受けた場合、首相の防衛出動命令が出るまで動けない。 第一線部隊指揮官が超法規的行動に出ることは有り得る。」

という記事が自らの発言であることを認め、これが文民統制の原則を犯す〝超法規発言〟として問題視されたのです。


        


その後来栖氏は記者会見でも自らの信念を曲げず同様の発言を繰り返したため、当時の防衛庁長官・金丸信氏によって事実上解任されました。


しかし一方で、当時の福田赳夫首相は閣議において有事立法・有事法制の研究促進と民間防衛体制の検討を防衛庁に指示。

これによって国防論議のタブーが破られ、以後数多くの国防論議が巻き起こる端緒になりました。

解任された翌年に防衛庁を退官して参院選に出馬・落選した後、新聞社の客員論説委員や大学の客員教授などを務め、2004年に84歳で亡くなった来栖氏としては、自らの信念が認められなかったものの国防に関する関心が国民の間に高まったことで、多少なりとも留飲を下げたのかもしれません。

さて、その自衛隊の位置づけや国防に関しては、来栖氏が持論を公表した40年余り前と現在とでは、かなり違うと言えましょう。

当時は東西冷戦の中、アメリカという世界最強国と安保条約を結んでおり、一方支那はまだ文化大革命の後遺症から立ち直れておらず、国際社会からは半ば孤立していました。

しかし現在の支那はアメリカに次ぐ経済大国となり、急激に軍備を強化し南シナ海を始めその勢力拡大を狙っています。

更には北朝鮮が日本近海だけでなく日本の領土上空を複数回飛び越えるミサイルを発射するなど、40年前より遥かに来栖氏の言う奇襲攻撃を受けるリスクが飛躍的に高まっていると言えましょう。

もし数百の漁船が尖閣諸島に押し寄せたら、またもし北朝鮮のミサイルが領土内に落下すると分かったら・・・そういった緊急時に、悠長に国防会議を招集して対応を検討していて良いのか?

いくら文民統制が原則とは言え、それでは十分な国防は出来ない・・・と私は思うのですが。

私の手元には、来栖氏が残された著作のひとつがあります。


 『日本国防軍を創設せよ』 (小学館・刊)


        


同著の中で、来栖氏は、


「国家安全保障を考える時、自分達の安全と幸福は自然に降って湧いたものではないことに気付く。

自国だけでなく、必ず相手国を意識しなければならず、彼我の関係如何によっては明日にも危険が迫って来る。

その時、自分は争い事は嫌いだからと、列外に出ることが許されるのか。 相手がそれを認めてくれると思うのだろうか。

日米安全保障条約があるから大丈夫だと高をくくっていたり、それに甘えたりする気持ちは、人間として決して褒められるものではなく、国家ともなれば、自主性・自立心のない国民と受け取られる。

国際社会に名誉ある地位を占めよう、と憲法前文にあるが、それは平和憲法を墨守し、上手に相手の顔色をうかがうことなのか。」


と我々に問うていますが、まるで現在の状況を予見したかのよう。

私は来栖氏の主張に概ね賛成であり、自衛隊が現行法制の中で使命を十分果たせるのかどうか・・・40年前の仮定の話ではなく、今そこに危機がある状況の中で、国民は改憲を含め自衛隊(国防軍)の位置づけを真剣に考えるべきだと思いますが、如何でしょうか?

20年前に刊行されたこの著作・・・(防衛・戦争に関する)専門家の論文ですので少々難しい内容ですが、防衛庁(現・防衛省)と自衛隊の実態や法制との矛盾点を的確に教えてくれます。

むしろ出版当時より、有事法制が成立し国防の緊張感が高まっている現在の方が読者の共感を得られるかもしれません。


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