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203

今から35年前の今日、日本柔道界の大エースだった

 山下 泰裕 選手

が、それまでの公式戦203連勝という不滅の記録を残して引退を表明しました。

    

私より1つ年上、1957(昭和32)年に熊本で生まれ、幼少時は虚弱だった彼が祖父のスパルタ教育によって頑健な体格になり、あまりに腕白だったがために始めさせられた柔道で才能を開花。

九州学院高校に進学し、史上初めて1年生でインターハイを制すると、2年生の時によりレベルの高い東海大相模高校に転校。

高校3年生時に全日本柔道選手権に出場し、将来は日本の柔道界を背負う逸材として注目を浴びました。


そして金メダル間違いなしと目されていたモスクワ五輪を政治的な理由から日本がボイコットしたため涙をのんだ彼は、その4年後のロス五輪で途中左足を負傷し足を引きずりながらも決勝でエジプトのラシュワン選手に一本勝ちし涙の優勝を果たしたシーンは、中高年の方ならよく憶えていらっしゃるはず。(↓)



中学2年生の時、〝将来の夢〟という作文に「オリンピックに出場して、メインポールに日の丸を掲げながら『君が代』を聞きたい」と書いたことを見事実現した彼は、その功績を称えられ、ロス五輪後に国民栄誉賞を受賞。

翌1985年4月に行われた全日本選手権でライバル・斎藤仁選手(故人)を僅差の判定で破り、前人未到の9連覇を達成。

 ※その伝説の試合の模様は、こちら。(↓)



そしてこの2ヶ月後の6月17日に引退を表明したのです。

1977年10月の日ソ親善試合から、斎藤仁選手との死闘を制するまで約7年6ヶ月、203連勝無敗(その間引き分けは7度)という前人未到の記録を残して・・・。


引退後、山下氏が講師を務めた講演会を聴きに行った私は、講演後にサインをもらい握手をさせていただきましたが、身長は殆ど私と変わらないものの、その体の太さと握手した時の手の厚みには驚かされました。

本当にグローブみたいだったんですもの!

世界を制するアスリートの肉体の凄さ…実感しました。

その後はコーチ留学から全日本監督、そして国際柔道連盟理事など要職を務め、ロシアのプーチン大統領とも親しい山下氏・・・これからも日本の柔道界、いやスポーツ界にその知名度を生かして貢献してもらいたいもの。

もちろん、来年の東京五輪でも・・・。


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Big unit

野球・・・特にメジャーリーグ・ファンなら、タイトルだけで今日の主役がお分かりでしょう。

そう、アメリカを代表するサウスポー、


ランドール・デビッド・ジョンソン

     Randall David Johnson


一般的にランディ・ジョンソンと呼ばれる彼が、史上最年長の40歳8ヶ月で完全試合(メジャーリーグ史上17人目)を達成したのが、今から16年前の今日のことでした。

それまでの最高齢記録が
、1904年に達成しサイ・ヤングの37歳1ヶ月・・・100年ぶりに更新したこの記録がいかに凄いかお分かりいただけると思います。

殆どの投手が引退している年齢での達成なのですから。


1963年にカリフォルニア州で生まれた彼は、6歳の時から野球を始めましたが、子供の時から人一倍身体が大きく、高校生時代の1982年には早くもドラフト4巡目でアトランタ・ブレーブスから指名されましたが、この時は父親の反対で入団せず。

南カリフォルニア大学に進学した彼は、身長208cmもあったことから当初はバスケットと野球のかけもちをしいましたが、3年生から野球一本に。


そして1985年のドラフト2巡目でモントリオール・エクスポズに指名され、入団。

1986年にはマイナーながら119 2/3イニングで133奪三振、翌年は140イニングで163奪三振と早くも〝奪三振王〟の片鱗を見せましたが、反面四球も1イニング1個前後という制球難も。

1988年にはノーヒットに抑えながら敗戦投手になるという珍記録を作った彼は、その後待望のメジャー入り。

相変わらず三振も取るけれど四球も多いというパターンが続き、中々勝ち星に恵まれませんでしたが、1989年にトレードされてマリナーズ入りすると、1992年にノーラン・ライアンらから指導されメンタル・トレーニングを行ったことで、制球難の克服に成功。

以来、アストロズ→ダイヤモンドバックス→ヤンキース→ダイヤモンドバックス→ジャイアンツと渡り歩き、メジャー通算
303勝166敗 投球回数4,135 1/3 奪三振4,875(歴代2位)、通算奪三振率:10.6(歴代1位)、通算サイ・ヤング賞獲得5回(歴代1位)という、輝かしい戦績を残しました。

その間、ノーヒット・ノーランを1990年に1回達成してしましたが、その上をいく完全試合を達成したのが、2004年5月18日に行われた対ブレーブス戦。

13奪三振を奪っての快挙に、多くのミドル・エイジは勇気をもらったことでしょう。


それでは、その会心のピッチングを試合の録画でご覧ください。(↓)



とても40歳とは思えぬボールのキレと威力ですょネ。

こんな試合を生観戦出来たら、どんなにいいでしょう・・・。

日本での完全試合は、1994年に対広島戦で巨人・槇原投手が達成して以来、26年間出ていません。



この過去記事にも書いた通り、この試合は奇遇にもやはり5月18日に行われていたんです。

〝完全試合特異日〟(?)の今日、もしプロ野球が行われていたら、どこかの球場で達成されていたかも・・・?
野球ボール


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交 流

プロ野球は武漢肺炎の影響で、未だ開幕せず。

本来なら、GWが過ぎれば

 セ・パ交流戦


が始まるはずなのですが、この〝インターリーグ〟戦が初めて行われたのは、今から15年前の今日のことでした。


このインターリーグは、アメリカからの輸入アイデア。

同国のプロスポーツ、アメフト・バスケット・アイスホッケーでは古くから導入されていましたが、実は野球には採用されていませんでした。

しかし1994~95年のストライキでファンの野球離れが深刻化。

その解決策の一つとしてアメリカン・ナショナル両リーグの交流戦が1997年から始まったのです。


日本では観客動員数増加を目論んで早くからパ・リーグが交流戦の実施を望んでいましたが、逆にセ・リーグはドル箱の巨人戦が減ることから難色を示していました。

ところが2004年に
オリックスと近鉄の合併構想を発端とする球界再編問題が勃発。

メジャーリーグ同様ファン離れを恐れた球団経営者らが、交流戦の導入を決定。


結果、日本生命をスポンサーとして翌2005年5月6日~6月16日の1ヶ月余りの間、両リーグの全チーム総当たり・ホーム&アウェー各3試合ずつが行われることに。

    

            2005年の交流戦開幕記者会見


※但し試合数は、2007年からクライマックス・シリーズが導入されるため24試合に、そしてパ・リーグの観客動員数が増加したことから、現在は更に減り(ホームとアウェーを1年毎に交替して)18試合に。


試合数は当初より減ったものの、交流戦では各チームとも独自のユニホームを着用したりして盛り上げる努力はしているようです。

それもそのはず、最近の傾向ではこの交流戦の戦績によって、ペナントレースに勢いをつけられるから。

ただ、ここ数年来パ・リーグの強さが目立ち、セ・リーグ・ファンをがっかりさせる結果が続いているのが気がかりですが・・・。

またこの交流戦によって、肝心の日本シリーズに新鮮味がない事も気がかり。

アメリカはチーム数が多いため各チーム総当たりではなく地域ごとに限定して行うことで、ヤンキース対メッツの〝サブウェイ・シリーズ〟などのような名物カードがありますが、日本にも独自の一工夫があってもいいのでは?

チーム数が違う・・・という観点から、、もうひとつ。

やはりメジャーリーグに倣って始まったプレーオフ制(クライマックス・シリーズ)ですが、あれは止めた方がよろしいかと。

各リーグたった6チームずつしかない日本の場合、上位3チームとなれば半分のチームが出場でき、場合によってはリーグ戦で負け越したチームがペナントを獲得してしまうケースも十分有り得ます。

リーグ戦3位のチーム同士で日本シリーズを戦っても盛り上がりに欠けるでしょうし、どちらが日本一になったとしても選手やファンの気持ちは複雑なはず。

パ・リーグの観客動員数は好転していますから、これを機にシンプルな以前の制度に戻してもいいのではないか・・・と私は思うのですが、如何でしょう?


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名 門

中学生時代にバスケットボールに熱中していた私は、日本リーグの試合に飽き足らず、どうしてもアメリカのプロバスケットボール・NBAの試合が観たくて仕方ありませんでした。

ところが当時NHKはもちろん、郷里・長野で唯一の民放・SBC(信越放送)でも一切放映しておらず、唯一中継していたのは東京12チャンネル(現・テレビ東京)。

そこで私はオヤジを拝み倒して東京のテレビ電波を拾える特殊なアンテナを屋根に取り付けてもらい、ザラザラな画面を目を細めながら観戦したものでした。

その12チャンネルの番組では 『NFLフットボール・アワー』 も楽しませてもらいましたが、もうひとつ欠かさず観ていたのが、1968~1988年まで放送されていた 『三菱ダイヤモンド・サッカー』。

3年前に逝去された岡野俊一郎さんが解説を務めていたこの番組でヨーロッパ・サッカーのレベルの高さを知ったのですが、私が観ていた1970年代前半にドイツのブンデスリーガだけでなくヨーロッパ・サッカー界の頂点に君臨していたのが

  バイエルン・ミュンヘン

  Fußball-Club Bayern München e.V.


このドイツが誇るサッカークラブが創設されたのが、今からちょうど120年前の今日・1900年2月27日のことでした。


     

フランツ・ヨーン監督が11人の選手を集めて結成された同チームは、1932年に全国タイトルのドイツ・チャンピオンシップで初優勝。

しかし1963年に発足したブンデスリーガには初年度に参加を認められませんでした・・・が、加入以降は今季まで1度も2部リーグ降格しておらず、同リーガで通算26勝という歴代最多を誇る、まさに名門。

私がダイヤモンドサッカーを観ていた1970年代前半は、そのままドイツ代表チームの主力であった〝皇帝〟フランツ・ベッケンバウアーと〝爆撃機〟ゲルト・ミュラーが大活躍。

 
          Beckenbauer               Müller


彼らの全盛期であった1971~72年シーズンから、ブンデスリーガ3連覇。

1973~74シーズンからUEFAチャンピオンズカップ3連覇と、まさに黄金時代を私は観ていたわけです。

更に1980年代にもルムメニゲを擁して3連覇と2連覇を達成。

一時的な低迷期もありましたが、2012~13シーズンから昨シーズンまで、ブンデス・リーガ7連勝を達成・・・名門の地位は少しも揺らいでいません。

それどころか、銀河系軍団レアル・マドリードやバルセロナ、マンチェスター・ユナイテッドと共にヨーロッパ屈指の同クラブは、これからもリーガ牽引の重責を担っていくはず。

かつてのスター選手だったベッケンバウアーが元会長、そしてルムメニゲが現会長を務め、創設以来の無借金経営を続けている名門チームのレギュラーとして日本人選手が活躍する姿を、この目で観たいものです。扇子


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往 復

今や正月の恒例行事として定着している、

東京箱根間往復大学駅伝競走


通称〝箱根駅伝〟・・・これは読売新聞社が取得している登録商標だそうですが、この第1回大会が開催されたのは、今からちょうど100年前の今日・1920(大正9)年2月14日(と15日の2日間)でした。


    箱根駅伝


日本で初めて行われた駅伝競技は、1917(大正6)年4月に開催された『東海道53次駅伝競走』 でした。(↓)



この日本初の駅伝大会で関東軍のアンカーを務め、また1919年のストックホルム五輪のマラソンに出場し、後に〝日本マラソンの父〟と呼ばれた金栗四三選手が、箱根駅伝の発案者。


       

                 金栗 四三  選手


「世界と対等に戦うには、駅伝競走を磨くべき。」

そう考えた金栗選手は、若手の強化を図るべくサンフランシスコからロッキー山脈を越えてニューヨークまで走破する『アメリカ大陸横断駅伝』の開催を提唱し、そのための資金調達や大学陸上関係者の理解を得るために奔走。

東京高等師範学校教授・野口源三郎、明治大学・沢田英一と協議し、この駅伝を実施するための代表選考会として行われることになったのが、山登りを含む東京~箱根の往復駅伝だったのです。

コースは現在とほぼ同じく、有楽町報知新聞社前~鶴見~戸塚~平塚~小田原~箱根関所址の5区間の往復でしたが、関東の各大学・師範学校・専門学校に広く参加を打診したものの、長距離選手を10人も出せる学校は少なく、結局参加したのは東京高等師範学校(現・筑波大学)・明治大学・早稲田大学・慶應大学の4校のみ。

我が母校・慶應、昔は出場していたんですねェ。


当初は2月11・12日を予定していましたが、11日は紀元節で各校とも式典があり、また市電のストライキも予定されていたため、14日に変更。

しかしその14日も土曜日で、当時は午前中に授業があったため、スタートは午後1時。

このため1位で明治大学が小田原中継所から5区のランナーがスタートした時にはとっぷりと日が暮れてしまい、小田原中学の長距離選手が提灯を持って伴奏し、箱根町の青年団が松明を振って誘導。


猟銃の空砲を撃って選手の通過を知らせたのだそうな。

翌日は現在と同じく箱根を午前7時にスタート。

往路を7時間30分36秒で制した明治大学が快調に飛ばし、9区では11分30秒の差をつけていたのですが、東京高等師範学校の最終10区のランナー・茂木善作選手が快走。

ゴール手前で逆転し、25秒差で明治大学を制し総合タイム15時間5分16秒で栄えある第1回大会の優勝を飾りました。

        


復路で逆転した東京高師は、復路スタート時首位の明治との差が8分27秒ありましたが、100年経った現在でも最大差の逆転劇なのだそうです。


結局金栗選手が構想していたアメリカでの駅伝大会は実現しませんでしたが、この代表選考会として始まった箱根駅伝は戦争で4回中断したものの、戦後1956(昭和31)年の第32回大会から1月2・3日の開催となり、すっかり名物競技となりました。


第1回大会のように、母校・慶應が出場してくれれば、私も真剣に応援するんですが・・・そんな正月を迎えられるのは、果たしていつになることやら。あせあせ



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鉄 橇

専用の曲がりくねったコースを2人乗り・4人乗りの鉄製の橇(そり)に乗って滑り降り、タイムを競うスポーツ・・・・といえば

 ボブスレー
   Bobsleigh


ですが、今日はこの競技の記念日なのだそうです。


    


今から82年前の今日・1938(昭和13)年2月12日に、第1回全日本ボブスレー選手権大会が開催されたことに因むとか。

盧溝橋事件が起きた翌年、支那事変の最中に開催したのですが、まだ当時の日本には余裕があったようです。


冬季オリンピックでは、第1回のシャミニー・モンブラン大会から正式種目だそうですから、結構歴史が古い競技なんですネ。


    


※第1回からの歴代五輪におけるボブスレー競技の模様を、こちらでご覧いただけます。(↓)


  https://www.youtube.com/watch?v=QPc5YJkNoqo&t=52s


日本国内では、オリンピック以外にテレビで観戦する機会は殆どないマイナー競技(失礼!)ですが、一般的に広く知られるようになったのは、南国ジャマイカブスレー男子4人乗りチームが、1988年カルガリ五輪出場した実話基に制作された映画クール・ランニング1994日本公開されてからでしょうか


        

個人的にボブスレーにまつわる映画で忘れられないのは、1981年に公開された007シリーズ『ユア・アイズ・オンリー』で、追手からスキーで逃げるボンドがコースに入り込んで、ボブスレーの後について滑るシーン。(2分過ぎから。 ↓)



氷で固められたコースをストックなしのスキーで滑ったりバイクで走るのは、スタントマン・・・その勇気に思わず拍手してしまいます。


黎明期は何となく長閑な競技でしたが、最高時速が130~140kmに達し1/1000秒単位でタイムを競う現在では空気力学の観点から研究開発が行われ、マクラーレンやフェラーリ、BMWなど一流自動車メーカーが参戦しており、〝氷上のF1〟ともいわれるハイテク競技に変貌。

そんな中、近年日本国内で話題になったのが、その自動車関連企業 『童夢』 の
関連会社『童夢カーボンマジック』 が東京大学や東京都大田区の中小企業らと共同で2011年に開発した 『下町ボブスレー』。


    


しかし2018年の平昌五輪では、前述のジャマイカ代表男子チームが使用したものの、残念ながら予選落ち。

肝心の日本チームは性能不足を理由に使用しませんでした。

果たして2年後に行われる冬季五輪・北京大会で、技術立国・日本の意地を見せてくれるかどうか・・・けだし注目です。


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交 換

月日が経つのは早いもので、葬儀屋稼業から足を洗って(?)1年が経ちました。

ということは、同時に17年ぶりにゴルフを再開してから1周年。

1年前の久々ラウンドではハーフ47を叩きましたが、その後リハビリを重ね、今ではバック・ティーからハーフ40前後、オフィシャルハンデも現在6.2まで回復できました。

今年の目標は、メンバーコースのシニア選手権に出場して、何とか予選を突破しマッチプレーに進出すること・・・なんですが、ひとつ悩みというか不安が。

実は私、人よりも手が大きいものですから、クラブを買い替えた際は必ずグリップを交換して下巻の両面テープを3重巻きにしていたのですが、それでも細いんです。

もっと下巻を増やしたいのですが、それ以上巻くと今度はグリップが入らなくなるので、それが限界。


そして半年前にグリップをオーバーラッピングからベースボールグリップに変えて右手を強く使うようになってから、一層その細さが気になるように。



というのも、グリップが細いと手首が返りやすくなり、その結果左に曲がるフック(チーピン)が出やすいから。

実際、ラウンド中にちょっと力が入るとボールが左に曲がることがしばしば。

ゴルフ経験者ならお分かりだと思いますが、これって怖いんですょネ。

1年経って、そろそろグリップの交換をしようと思った私は、

(もっと太いグリップはないのか?)

とネットで探していたら、今で使い慣れてきた同じメーカーの、こんな新製品を見つけました。

    

〝PLUS 4〟とは、私が気にしていた右手部分が従来よりテープ4重巻き分も太いこと。

しかもありがたい事に、今まで差していたスタンダードタイプのグリップよりも一回り太い〝ミッドサイズ〟がラインナップされていたのです。

ということで早速ネットで注文し、パターを除く全てのクラブのグリップを交換しました。

グリップエンドを見ていただければ、その太さの違いは明らか。

    

そして正面から見ていただくと、特に下半分つまり右手で握る部分が太くなっていることがお分かりいただけるかと・・・。

      


実際に握ってみると、今までと違いシックリと手に馴染むじゃあ~りませんか。

直径僅か2,3ミリの違いでこんなに感触が違うとは・・・あらためて人間の手って繊細に出来ているものだと実感。

で、早速新しいグリップで先日ラウンドしましたが、確かに手首の返りが鈍くなって、ヒッカケの不安は殆ど無くなりました。

えっ、だったらスコアはさぞ良かったんだろうって?

あはは、そこはゴルフの難しいところで、スコアは殆ど変わりませんでしたけどネ。
あせあせ


でも左へのヒッカケが怖い方は太い、逆に右へのスライスやスッポ抜けで悩んでいる方は細いグリップに交換することをオススメします。

クラブ買い替えるより、ずっと安上がりですから・・・。

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遠 征 < 下 >

青(バック)ティーで6,739ヤード・パー72、コースレート73.1という難コースに挑んだ私は、緊張の中〝エイヤッ!〟とドライバーを一振り・・・すると幸運にもボールはフェアウェーのセンターに。

そしてセカンド・ショットでグリーン・オンに成功、2パットでパーという上々の滑り出し。

しかしそうそううまく行くはずもなく、次のロングホールではティーショットを深いバンカーに入れてセカンドは出すだけ・・・結局ダボ。

その後ティーングエリアからグリーンまで右が全部池なんてホールも。(はグリーン)


    


また距離が200ヤード前後と長いのにグリーンエッジまで池が張り出すという、アマチュアには辛い設定のパー3が2つ・・・とてもワンオンできそうな気がしませんでした。

また大きくて変則形状のグリーンはアンジュレーションが強く、しかも昨年11月にプレーした高速グリーンと同等かそれ以上の速さ。(↓)


更にそのグリーンを外すと入ってしまうガードバンカーが私の背よりも高いなど、至る所にハザードが待ち構えていて苦難の連続。

ライグラスのフェアウェイはアイアンでショットすると草鞋のようなターフが取れて気持ちは良いものの、これじゃプロでも手を焼くのは必至。 

トーナメント開催反対の署名活動が起こるのも頷けます。


それに私のようなアマチュアにとって怖いのは、リゾート内にあるためにコースの脇やグリーン奥に高級住宅がズラリと並んでいること。

クラブハウスロビーに飾られていたリゾート全景を見ると、ン千万~1億円という高級住宅がズラリとコースを囲んでいるのが分かります。

    

うっかりショットを曲げてガラスを割ったら・・・と思っただけで、心臓バクバクでした。

そして有名なモンスター・バンカーがグリーンを囲むように待ち受けているのが、16番パー5。

距離は517ヤードと短めながら、ピート・ダイの仕掛けた罠が口を開けて待ち構えています。

で、実際私の2オン狙いしたボールは少しフックしてそのバンカーへ。

そこから見えるのは、辛うじてピンの頭(部分)だけ。

       

目の前の壁が如何に高いかは、下の画像でピンの長さと比較していただけば、よくお分かりいただけるかと。(×印が私のボールの位置)

    


幸いにも一発で脱出でき、ピンそば2mにつけた私でしたが、そのバーディー・パットを外して、パー。

そして次の17番が同コースで最も印象的であり、ピート・ダイを一躍有名にした、浮島グリーンのパー3(146ヤード)。


〝アルカトラズ〟と命名されたこのショートホールの岩石に囲まれたグリーンは、1オンさせる以外に逃げ道なし。

    


前のホールでバーディーを逃した私は多少気落ちしていたのか、力が抜けたティーショットはちょっとショート気味。

Goooo!」

と叫んだものの、ボールはグリーン手前の岩にコ~ン・・・そして跳ね上がって落ちてくると、再び別の岩にコ~ン。

おっ、これはもしかしてラッキーオン? と思ったのも束の間、落ちてきたボールは無情にも池にポチャン。

アメリカ人父子が “Oh my god!” と叫ぶ中、私がティーングエリアでひっくり返って大の字になると、腹を抱えて笑い出しました。

おそらくこのショット、私は死ぬまで忘れないでしょうネ。

そして18番もグリーンまで巨大な池が広がる難ホールでしたが、何とかパーで上がり45。

    
    
が18番グリーン  構えているのは同伴した息子のデビット君

後半のOUTは大分慣れて41でラウンドでき、トータル86でフィニッシュ。

翌日は飛ばし屋のアメリカ人青年と3人でラウンドし、41・44の85と何とか80台でラウンド出来ました。

2日間で遠征前の目標だったバーディーを1個取れたのは嬉しかったですが、〝アルカトラズ〟では翌日も池ポチャとなり、リベンジできなかったのは残念。

しかし世界的に有名な超難関コースを堪能でき、池にボールを6個奉納したものの何とかハーフを全て40台前半でラウンドできたことは、大きな自信となりました。

ここに比べれば、メンバーコースなんてチョロいもの・・・って、スコアは以前と殆ど変わらないと思いますが。

でも今後日本国内どのコースに行っても、難しくは感じないでしょうネ。

さて同コースでは、来週15~19日(※現地時間)にかけてPGAツアーの〝ザ・アメリカン・エクスプレス〟が開催されます。

上の画像・18番グリーン奥のように、コース内には既に巨大なプレスセンターやギャラリースタンドがいくつも設営されていました。


            
         クラブハウスに飾られていたトーナメントポスター



トーナメントに参戦した気分も味わえてラッキーなゴルフ・ツアーでしたが、私がプレーしたバックティーよりも更に561ヤードも長い全長

7,300ヤードというモンスター・コースで、トップ・ブロがどんなプレーをしてどんなスコアを出すのか?


私はテレビ中継を観ながら、この遠征の記憶を蘇らせつつ楽しむつもりです。


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遠 征 < 上 >

昨年1月末に葬儀屋を廃業してから、早や1年足らず。

17年ぶりにゴルフを再開し、夕食抜きダイエットと筋トレを続けて現在体重は15kg減、念願の公式ハンデも2ヶ月前に取得できました。(↓)


ということで、2019年の総仕上げ(?)をすべく、ゴルフ友達のお誘いに乗って昨年末にアメリカ遠征の弾丸ツアーを敢行しました。

チャレンジしたのは、
ゴルフダイジェストの全米トップ100コースに選ばれている、鬼才ピート・ダイが設計した


 PGAウェスト スタジアムコース

同じくゴルフダイジェストで過去に難易度全米第4位にランクされたこともあり、あまりの難しさに1988~2015年まで選手の署名活動により公式戦での使用を禁止されていたという、まさに超難関コース。


一体どんなコースなのか? まずはこちらの映像でお確かめください。



やたらと池とバンカーが多く、日本のような丸いグリーンが殆どないことがお分かりいただけると思います。

せっかく行くのだからと、この映像を何度も見てコース戦略を練りつつ現地入り。

宿泊したホテルでは、クリスマスが過ぎたというのに巨大かつ煌びやかなツリーがお出迎え。

       

トイレの便器やベッドもそうですが、やはりアメリカは何でもデカいし、出てくる料理の量もハンパなく多くて、還暦過ぎの親父は完食できず。

それに好景気だからか、物価が高いのに驚きました。

そして時差ボケであまり寝られないまま、翌日朝にはコースへ。

    


ロビーにはトーナメント開催の歴史などが誇らしげに描かれており、緊張感が高まります。

    

砂漠地帯にあるだけに、朝は3℃前後と長袖を重ね着する程寒いのに、日が高くなるとどんどん気温が上昇して昼前後には20℃近くと、半袖でないと暑いくらい。


    

こんな気温の変化も日本では経験できませんが、驚いたのが練習場の設備。



なんと幅が100m以上あり、奥行きも軽く300m以上・・・日本のようにネットで囲まれていませんが、ドライバーショットで突き抜けることはプロの飛ばし屋でも不可能なくらいの広大さ。

しかも打席は全て自然芝で、この画像左側には広いアプローチ練習場やパッティンググリーンもあり、ボールがゴロゴロ・・・私のようなゴルフ好きなら1日いても飽きないくらいの充実度。

ここで毎日練習できれば、上達するのは間違いないでしょうネ。

日本に比べてアメリカツアーのレベルが高いのも、頷けます。

その練習場の後ろをカートで走り抜け、いよいよスタートホールへ。

我々日本人2人の組にはアメリカ人の父子2人が入り、一緒にブレーすることに。

私ら2人は英語を殆ど話せませんが、そこは挨拶と 「Good shot!」 などのゴルフ用語だけで和気あいあいとラウンド。

幸いにも、私らが 「せっかく日本から来たからバック(青)ティーでやりたい」 と言うと、すんなり付き合ってくれることに。

そしてIN・10番ホールのティーングエリアに立つと、フェアウェーは緑でラフは枯芝の薄茶色。 

青い空と相まって素晴らしい色のコントラストが眼前に広がります。

しかし正面から左側はグリーンまで全部池。 
そして細いフェアウェーの右側はアゴの高いバンカーがいくつもあって、凸凹・・・上空から俯瞰した動画の予習では分からなかった立体的な視覚の重圧がプレーヤーに襲いかかります。(↓)



       下中央の緑色が青ティーの位置   がグリーン



緊張に震える手でティーに乗せた私のボールは、果たしてどこに飛んで行くのやら?


                  ・・・・・To be continued


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公 認

今では信じられないことですが、昔は陸上競技においては女人禁制・・・第1回のアテネ五輪でも、陸上競技は男子のみ。

オリンピックで女子の陸上競技種目が登場したのは1928年に開催された第9回アムステルダム大会から。

同大会で人見絹枝選手が日本人初のメダル(銀)を獲得したことは、過去記事でご紹介しました。(↓)

   
https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11513945518.html


ただしマラソン競技に関しては「生理的に無理」という考えが浸透しており、参加は許されませんでした。

その門戸を開いたのは、1967年に世界最古の歴史を誇るボストンマラソンに男性名で登録し、妨害にもメゲず完走したキャサリン・シュワイツァーという女性でした。(↓)



その後ボストンマラソンでは年々非公式ながら女性の参加者が増え、遂に1972年、正式参加が認められました。

そして世界で初めて国際陸上連盟(IAAF)が公認する女性限定のマラソン大会として


 
第1回東京国際女子マラソン

が開催されたのが、今からちょうど40年前の今日・1979(昭和54)年11月18日のことでした。


style="font-family: "MS Pゴシック";">この日は国立競技場をスタートして東京ドーム~東京タワー~皇居~品川駅などを通過し、大森海岸交番前を折り返して再び国立競技場に戻るコースで、参加選手は50名。

小雨の降る悪コンデションの中、水道橋駅前から四谷にかけての高低差が10階建てビルに相当する30mもある世界屈指の難コースを2時間37分48秒のタイムで走り切り、初代優勝者の栄冠に輝いたのは、イギリスのジョイス・スミス選手。

なんと当時42歳で、2人の子供さんがいるママさん選手でした。


     


上の写真で一番右を走っているのがスミス選手ですが、左手にハンカチを持っているのがお分かりいただけると思います。

「道路にツバを吐くのはマナー違反」と考えたスミス選手は、それをハンカチで拭っていたそうですから、なんとも女性らしい気配り・・・。

その行いを勝利の女神が称賛したのか、彼女は翌年の大会も制して2連覇を達成。

一方、第1回大会の日本人選手は2時間48分52秒で7位に入った村本みのる選手が最高。

この大会の2年前からマラソンを始めたという彼女は、38歳で自己記録を11分も縮めたのですから立派。


日本人選手が初めて優勝したのは、第5回大会(1983年)の佐々木七恵選手で、2時間37分9秒。

 ※佐々木選手の過去記事は、こちら。(↓)


https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11943168693.html


その後毎年開催され、歴代優勝者の中には、谷川真理・浅利純子・高橋尚子・土佐礼子・野口みずきら日本を代表するランナーの名がズラリ。

大会のロゴマークも、見た記憶のある方も多いことでしょう。

    


しかし同大会は、東京マラソンと併合されることとなり、2008年の第30回大会で打ち切りとなりました。

その最後の大会で2時間23分30秒のタイムで優勝したのは、尾崎好美選手。(下写真・左)

そしてこの時スターターを務めたのは、初代優勝者のスミスさんでした。(同右)


    

歴史的な大会がなくなってしまったのは残念ですが、東京マラソンで・・・さらに来年のオリンビックで日本女子選手が先頭を切って颯爽と北海道で走る姿を観てみたいものです。扇子


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