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【緊急増刊】 快 挙

日本時間の今朝8時過ぎまでアメリカのオーガスタ・ナショナルGCで行われていた、ゴルフの4大メジャーのひとつにして〝ゴルフの祭典〟といわれる第85回マスターズで、

 松山 英樹 選手

が日本人・・・というよりアジア人で初めて優勝を成し遂げました。

約40年前、AONの時代から毎年のようにテレビ観戦して出場する日本人選手を応援し続けてきた私は、最終日最終組で日本人がラウンドし18番ホールでウィニングパットを決める瞬間を目撃できたことに感激し、思わず涙ぐんでしまいました。

    

思い返せば2011年に東日本大震災が起きた翌月に、まだアマチュアで東北福祉大学2年生だった松山選手が迷いながらも周囲の後押しもあって出場しベスト・アマに輝いてからちょうど10年後の快挙達成でした。

実力差が殆どない怪物ゴルファーがひしめく世界最高峰のPGAツアー、特にメジャー・トーナメントで勝つには、とんでもないロングパットが入ったり普通なら池に落ちる傾斜でボールが止まったりするなどのラッキーが不可欠ですが、今回の松山選手には初日から〝幸運の女神〟が微笑んでくれました。

前半に5m前後のパーパットを沈めて我慢した後に迎えた13番ロングのセカンドショットを右にフカして、クリークに一直線・・・と思ったら、奇跡的にラフに止まった上にバーディーをを取って初日を2位タイで終えた時、私には(ひょっとして・・・)という予感が芽生えました。

そして2日目、同じ13番でグリーンの外からパターでイーグルを奪った時その予感は更に強まり、3日目をノーボギーの65で回って4打差の単独首位に躍り出た時、それは確信に変わりました。

そして最終日の今日、午前3時過ぎに風呂に入って身を清め、松山選手がスタートする際には正座して手を合わせ必勝祈願をした私(と日本中のゴルフ・ファン)の期待に応え、4バーディー5ボギーとひとつスコアを落としたものの、前日までの貯金が効いて見事グリーンジャケットに袖を通したのです。

    

※最終日の松山選手のプレーを、こちらでご覧いただけます。(↓)


https://www.masters.com/en_US/players/player_32839.html?promo=bio_players


決勝ラウンドでも、幸運の女神は松山選手に微笑み続けました。

まず2日間同組だったX・シャウフェレ選手は同じ体格で飛距離が殆ど変わらない上に、彼の台湾人のお母さんがかつて日本に住んでいたこともありラウンド中は日本語で冗談を言い合うなど、リラックスできたこと。

また15番でセカンドを池に落としてボギーとし、バーディーを決めた彼に2打差と迫られ緊張感が増した直後、今度はシャウフェレ選手が池ポチャでトリプル・ボギーを叩いて精神的に楽になるなど、全てが松山選手に勝たせるようお膳立てがされているように感じました。




とは言え、アイアンの切れ味が鋭く一番凄いプレーをしたのが松山選手であることに違いはありません。

4日間彼のプレーぷりを観ていて感心したのは、イーグルやバーディーを取ろうが、逆にボギーを叩こうが終始笑顔を絶やさず、歩くスピードやショットに入るルーティン・リズムが全く変わらなかったこと。

あらためてゴルフはメンタル・スポーツであることを実感するとともに、普段ミスショットするとすぐクラブで地面を叩いて怒る短気な私は、見習わなければなりません。😅

また圧倒的な飛距離を誇るデシャンボー選手が苦しみ、松山選手が勝利したことで、

Driver is show, putt is money.

という格言を噛み締めた次第。

この快挙を観た小さなお子さんや若者がゴルフクラブを握ることで、最近低迷する日本のゴルフ業界が活気づくことと、松山選手の更なる活躍を心より願ってやみません。

あらためて、おめでとう! 凄いぞ、HIDEKI!


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一発逆転

いよいよ明日、プロ野球が開幕・・・本格的な球春到来です。

今年はどのチームが優勝するのか、ファンの間では喧々諤々の予想合戦が繰り広げられていることでしょう。


さて、〝筋書きのないドラマ〟といわれる野球で最もエキサイティングな場面は最終回の逆転劇・・・更に言えばサヨナラ・ゲーム。

その中でも、これ以上ないという値千金の一発といえば


 代打逆転サヨナラ満塁ホームラン


でしょう。


この最も劇的なホームランが日本プロ野球で初めて飛び出したのが、今から65年前の今日・1956(昭和31)年3月25日・・・後楽園球場で行われた巨人-中日戦でのことでした。


この歴史的な一打を放ったのは、巨人の樋笠一夫選手(1920-2007)。


        

同選手の経歴は少々変わっていて、旧制高松中学で全国中等学校優勝野球大会でベスト8まで進んだものの、卒業後は職業軍人に。

戦後は広島鉄道局などのノンプロで活躍していたところを広島カープの目に留まり、1950年に30歳で入団。


いきなり打点・本塁打でチーム二冠となったものの、僅か1年で退団。

その彼を巨人が熱心に口説き落として獲得したのですが、当時の巨人は青田昇・与那嶺要など外野陣の層が厚く、広島の主力打者も代打に甘んじていました。

その彼がこの試合で代打に立ったのは、9回裏。


0-3で負けていたものの、1死満塁で一発逆転の場面。

相手チームの杉下茂投手の3球目・・・ストレートを狙い澄まして振った樋笠選手のバットは見事にボールをジャストミート!

打球は左中間スタンドに一直線・・・ここに史上初の快挙が達成されました。


ホームインした樋笠選手は、まるで優勝監督のようにナインから胴上げされたそうな。

       

8年間の現役生活で打率.229、ホームラン54本という平凡な記録しか残していない同選手ですが、この一発で見事球史にその名を残しました。


さて、今までこの劇的なホームランは樋笠選手のものを含め、日本プロ野球では8本飛び出しています。

日本国内で初めてプロ(職業)野球の試合が行われたのは、1936(昭和11)年2月9日。(↓)



以来85年・・・現在ではCS・日本シリーズを含め年間890試合程行われていますから、少なく見積もっても累計試合総数は約7万試合。


樋笠選手以降に達成した選手を年代順に並べてみると、


② 1956年6月24日 藤村富美男(阪神) 

    (藤村監督自ら「代打はワシ」と告げて打席に・・・。)

③ 1971年5月20日  広野 功(巨人)

④ 1984年6月11日  柳原隆弘(近鉄)

⑤ 1988年6月18日  藤田浩雅(阪急)

⑦ 2001年9月28日  藤井康雄(阪急)

⑧ 2011年10月22日 長野久義(巨人)


・・・あれっ、⑥は?

はい、決して忘れたわけではありません。

実は2001年9月26日に飛び出した史上6本目は、更に劇的。

現在まで日本はおろかメジャーを含めても史上唯一、いや今後もおそらく出ないであろう〝代打逆転満塁サヨナラ優勝決定ホームラン〟なのです。

打ったのは近鉄の北川博敏選手。


前年阪神からトレードされてきた同選手の、まさに乾坤一擲・会心の一打・・・その映像を、どうぞご覧ください。(※9分過ぎ) 


北川選手の名は、この一打で近鉄ファン・プロ野球ファンの記憶に永遠に留められることでしょうが、この僅か4日後に打った⑦の藤井選手の一発も、実はやはり史上唯一となる2死・(お釣り無しの)3点差での達成だったのです。

しかし
北川選手の一発があまりに劇的だったため、完全に霞んでしまいました。

これもいわゆるひとつの〝運〟ですネ。

さぁ今シーズン、果たして9本目は出るでしょうか?野球ボール


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Q B

団体スポーツ競技で、最も個人の力量がチームの成績に反映されるのは、少年野球や高校野球でしょうか。

「投手で4番バッター」を務める選手の出来が勝敗の約8割を決すると言っても過言ではありませんが、ことプロ野球となるとそこまで比重は高くありません。

では、選手個人の力量が最も戦績に影響する団体ブロスポーツ競技は? と問われれば、私ならアメリカンフットボールであり、そのポジションはクォーターバック(QB)だと答えます。

アメリカのプロフットボール・NELの2020-2021シーズンは、来週2月8日の日曜日(日本時間9日朝)に行われるスーパーボウルでクライマックスを迎えますが、今シーズンはそのQBの重要性をより一層認識させられました。

 ※スーパーボウルに関する過去記事は、こちら。(↓)



それは、アメフト・ファンならよくご存じのQB、

    トム・ブレイディー
 Thomas Edward Patrick Brady Jr.


が、20年間在籍したニューイングランド・ペイトリオッツを離れ、タンパベイ・バッカニアーズへ移籍したことに端を発します。。


    

2000年にドラフトでペイトリオッツに入団以来、昨シーズンまでに地区優勝14回・カンファレンス優勝決定戦9勝、スーパーボウル6勝、QB通算勝利数208という、超スーパースターのブレイディーも、今年で43歳。

昨シーズンのプレイオフ初戦で敗れた際は、すわ引退か? と騒がれたものの、本人は現役続行を決定・・・しかもペイトリオッツから離れるという、思いもかけぬものでした。

彼が選んだ移籍先・バッカニアーズの過去3シーズンの戦績は、

 2019年 7勝 9敗
 2018年 5勝11敗
 2017年 5勝11敗


と、スーパーボウルどころかプレイオフ進出すらできない(失礼ながら)Bクラスのチーム。

いくらブレイディーが司令塔になったとしても、そう簡単には勝てない・・・と思いきや、初戦は落としたものの蓋を開けてみればレギュラーシーズンで11勝5敗と大きく勝ち越し、13年ぶりにプレーオフに進出。

そしてレギュラーシーズンで2敗を喫したニューオーリンズ・セインツを破ると、カンファレンス・チャンピオンシップでは1位シード(私が大のお気に入りである)グリーンベイ・パッカーズに勝って、見事19年ぶりにスーパーボウル出場を決めたのです。

一方彼を放出したペイトリオッツは7勝9敗と負け越し、プレーオフ進出すら出来ず。

QB1人が代わっただけでこれ程までチームの明暗が分かれるとは、正直予想できませんでした。


さて、試合を重ねるごとに強くなっている感があるバッカニアーズが頂上決戦で対戦するのは、若き天才QB・マホームズ率いる、昨シーズンのスーパーボウル・チャンピオンで連覇を狙うカンザスシティー・チーフス。

    
            
Patrick Lavon Mahomes II

新旧QB対決を制するのは、果たしてどちらのチームなのか?

個人的にはオヤジの意地を見せてブレイディーが史上初ついでに本拠地開催ゲームで勝利を収めて欲しいのですが・・・今から楽しみ!


※この試合は、2月9日(月) 午前8:00からNHK BS-1で生中継されます。(キックオフは8:30)

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一本杖

この時期、毎週末になると深夜から関越自動車道に向かう目白通りは渋滞が始まります。


新潟方面のスキー場に向かう若者のクルマやバスが集結するためなんですが・・・今日・1月12日は、その


 スキーの日


なのだそうな。


これはよくある語呂合わせではなく、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人・レルヒ少佐 (1869-1945) が新潟県高田市(現・上越市)で今からちょうど110年前の今日・1911(明治44)年1月12日に、旧日本陸軍・高田第13師団の隊員14名に日本初のスキー指導を行ったことを記念したもの。

       
        
Theodor Edler von Lerch (1869-1945)


しかしこのレルヒ少佐、実はスキーを教えるために来日したわけではありませんでした。


本来の目的は、日露戦争で超大国ロシアに勝利した日本陸軍の研究だったのですが・・・この10年程前に八甲田山で雪中行軍で大勢の隊員が犠牲になる事故を起こしていた日本陸軍は、逆にレルヒ少佐のスキー技術に注目し指導を懇請したのです。           

    


写真のとおり、この時彼が教えたのは1本杖スキー。


しかしほぼ同時期に札幌で普及したのはノルウェー式の2本杖スキーだったそうで、1923年に開催された第1回全日本スキー選手権大会では2本杖が圧倒的多数。


結局少佐直伝の1本杖スキーは急速に衰退してしまいました。ダメだぁ顔


さて、スキーといえば、我が故郷・信州が本場。


私も子供の頃はよくスキーをしました・・・っというか、冬はそれくらいしかやることがなかったんですけどネ。


小・中学生時代はスキー靴履いたまま長野電鉄やバスに乗り込み、おにぎりを詰めたリュックを背負って、リフトが動く出す早朝からうす暗くなるまで滑りまくってました。


主に自宅からリフトが見えた飯縄高原スキー場に行ってましたが、あの閑散とした村営スキー場が約30年後にオリンピック会場となり、そこで里谷選手が金メダルを獲得しようとは・・・当時は想像すら出来ませんでしたネ。

       
      
 現在の飯綱高原スキー場 昔はリフトが3本しかありませんでした。


そんな私のスキー・スタイルは、突貫小僧タイプの直滑降一本槍。


出来る限りスピードを出すために、小6のころから2mの長尺(?)グラスファイバースキーを履いて一気にゲレンデを滑り降りてました。

いわば、〝白銀の暴走族〟みたいなもの。


でも高校1年生の時、志賀高原で滑っていて一度右足が断崖の外にはみ出し危うく転落しそうになり、2年生の時に経験したこんな思い出深い出来事を最後に、もうスキーは卒業。 (↓)


ミカンと板チョコと同級生 <上> | ナベちゃんの徒然草 (ameblo.jp)

ミカンと板チョコと同級生 <下> | ナベちゃんの徒然草 (ameblo.jp)


・・・以来一度もゲレンデに出たことはありません。


さて、冒頭スキー場に向かう若者たち・・・と書きましたが、今はスキーよりもスノーボードを楽しむ方が多いようですネ。


皆さんは、スキー派? スノボ派? それとも私のようにわざわざ寒い所に行くのが億劫な、こたつ派?あせあせ




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デーブ

今日は、皆さんに面白いYouTubeチャンネルをご紹介します。

それは、元西武・巨人で活躍し、楽天ゴールデンイーグルスの監督も務めた大久保博元さんが今年6月から開設している


 デーブ大久保チャンネル

    


複数チームを渡り歩いた大久保さんの幅広い人脈で、多くの元一流選手がゲストで登場して繰り広げるトークは、私のような昭和世代の野球ファンにはたまらない、また地上波テレビでは絶対観られない裏話が満載。

たとえば、清原和博さんとか・・・。



また、エモやんこと江本孟紀さん。(↓をクリック)


 

そして、絶好調男の中畑清さん (↓)


 

長嶋一茂さんの意外な素顔も垣間見ることが出来ます。(↓)




その他にも沢山面白い対談や古き良きというか驚くべき昔のエピソードが楽しめますし、野球人の人間関係がよく分かります。

是非チャンネル登録してご覧になってみてください。

これからの年末年始、マンネリ化したつまらない地上波テレビに飽き飽きしている方には絶対にオススメですし、はっきり言って試合観戦より面白い!?

また他の元プロ野球選手もチャンネルを開設していますので、探してみるのも一興ですョ。


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対 決

今から66年前の今日・1954(昭和29)年12月20日、蔵前国技館に於いて初の

 日本プロレス選手権試合

が行われました。

対決したのは、力道山と木村政彦両選手。

実はこの2人、その10ヶ月前にはタッグを組んで同じ蔵前国技館で初の国際プロレス試合をシャープ兄弟と対戦した仲間でした。


 ※力道山に関する過去記事は、こちら。(↓)



シャープ兄弟との対戦は、今では信じられないことにNHKが生中継。

当時は一般家庭には殆どテレビはなく、皆近所でテレビを置いている家や電気店、あるいは有楽町日劇前や新橋駅前広場に設置された街頭テレビに群がり、当然視聴率は100%。

戦後復興の最中、人々は巨漢のアメリカ人レスラーに空手チョップを浴びせる元・関脇力士だった力道山の雄姿に声援を送り、敗戦の鬱憤を晴らしたといいます。


またその後福岡・大阪・名古屋など10ヶ所で14試合組まれ、全国にプロレスブームが巻き起こりました。

ではなぜ、そのプロレス人気の立役者だった2人が対決することになったのか?

ここで、力道山の対戦相手・木村政彦選手(1917-1993)について。

多くの方は力道山の名は知っていても、彼のことは殆どの方は知らないと思います。


しかし実は、全日本選手権13連覇など15年間負け知らずで 「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われ、史上最強と謳われた柔道家であり、極真空手の創始者・大山倍達館長が兄と慕う人物でした。

       


私の年代ではロス五輪金メダリストの山下泰裕選手が最強でしたが、2人を知る柔道家は異口同音に 「木村の方が遥かに強い」 と証言していますから、モンスター級の選手であったことが分かります。


木村選手は師匠・牛島辰熊氏が立ち上げた国際柔道協会といういわゆるプロ柔道に参画し連勝を重ねたものの、やがて観客が減り興行が成り立たなくなったため脱退してハワイへ渡航。

そこでプロレスラーに転身した木村選手は、ブラジルに渡りグレイシー柔術の創始者エリオ・グレイシーと対戦し、日本人として唯一人勝利を収めます。

その彼を力道山が誘ってタッグを組んだのですが・・・真剣勝負を標榜する木村選手は、常に自分が引き立て役に回されたこともあり、ショープロレスを行う力道山に不満を募らせ、程なく2人は決裂。

どちらが本当に強いのか? その決着をつけるべく、プロレス史上において〝昭和の巌流島〟と称される直接対決となったわけです。

それでは、その試合の模様をご覧ください。



ご覧の通り、試合はあっけなく力道山の勝利。

その後力道山人気は更に上がった反面、木村選手の存在は薄れてしまいました。

「真剣勝負なら絶対に負けない」 と豪語していた彼が、なぜ一方的にやられてしまったのか?


そこには当て身禁止など木村サイドに不利なルーリングだったこと、また通説では試合前に両者引き分けにする筋書きがあったにも関わらず、力道山がそれを無視して一方的に攻撃を仕掛けたからだとも言われています。


現に彼はこの後短刀を懐に入れ力道山をつけ狙ったとされていますが、力道山は数年後暴漢に刺され落命してしまいました。


その木村選手にスポットを当てた著書が、2011年に出版されています。


『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』
                       (増田俊也・著  新潮社・刊)


       

何やら物騒なタイトルですが、新潮社から刊行された700ページにも及ぶこの大著は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した秀作。

プロレス発祥の経緯はもちろん柔道(柔術)は本来立ち技より寝技が中心だったこと、また現在柔道界を支配している講道館が戦前までは数ある流派のひとつに過ぎなかった等々の歴史、また力道山や大山倍達氏らの実像などが綿密に書かれている、格闘技ファン必読の一冊です。


またそれ程までに強かった木村選手がなぜ柔道界で冷遇され、またなぜ彼はプロ柔道からプロレスラーへと転身したのか?

実はそこには、彼の妻に対する愛情が深く関わっているのですが・・・後はこの本をお読みいただきたく。


 

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頂上対決

武漢肺炎騒動により、今年のプロ野球は変則開催となりましたが、昨日から始まった

 日本選手権シリーズ

では、読売ジャイアンツと福岡ソフトバンクホークスが激突。  

この俗称:日本シリーズが初めて開催されたのが、今からちょうど70年前の今日・1950(昭和25)年11月22日のこと。

1949年にリーグがセントラルとパシフィックに分裂したことを受け、その翌年からそれぞれのリーグ覇者が日本プロ野球の日本一を賭けて対戦するシリーズとして創設されました。

 ※リーグ分裂に関する過去記事は、こちら。(↓)


 


対戦したのは、セ・リーグの松竹ロビンス(後に大洋ホエールズ=現・横浜ベイスターズに吸収合併)と、パ・リーグの毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)。

       

↑のポスター左下をご覧いただくと分かりますが、両チームのフランチャイズ球場で交互に試合が行われる現在と違い、当時はまだそのシステムが確立しておらず開催球場が毎試合違っていました。

栄えある第1回の覇者は、4勝2敗で松竹ロビンスを下した毎日オリオンズ。


  


そしてMVPは、別当薫選手でした。

その後日本シリーズは毎年開催されていますが、歴代最多覇者はV9も達成した巨人。

35回出場して23回制覇しています。

逆に最小の1回なのが、楽天と阪神。

両チームの内、早く2回目を達成するのは、どちらなんでしょうネ?

またよく〝人気のセ・実力のパ〟と言われますが、こと日本シリーズに関しては、昨年までセ35勝・パ35勝と完全に五分。

つまり今年勝ったリーグが1勝リードするというわけ。


さて野球ファンの私には、日本シリーズに様々な思い出があります。

その中では1978年のヤクルト-阪急での上田監督による抗議・試合中断も、そのひとつ。(↓)



しかし試合そのものとしては、その2年前・1976年の阪急-巨人第6戦が今なお忘れられません。

3連敗のあと2連勝で盛り返した巨人が、0-7とリードされてから同点に追いつき逆転した時、テレビ中継を観ていて鳥肌が立ったことを鮮明に記憶しています。

また流れは逆王手をかけた巨人・・・と思われた第7戦を、阪急のベテラン足立投手にしてやられた悔しさも。

そして最も記憶に鮮明なのは、1983年の西武-巨人・第6戦。

どうしてなのかは、こちらの過去記事をお読みいただきたく・・・。



さて、皆さんにとって忘れられない日本シリーズ、ありますか?

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魔 女

今から56年前の今日、日本中が湧きかえる試合が東京・駒沢体育館で行われました。

それは、前回の東京五輪・女子バレーボールの決勝、


 日本 vs.  ソ連

まさに宿命の対決でした。


もともと女性従業員の多かった繊維業界においては、レクリェーションの一環としてバレーボールを積極的に取り入れていました。

そして戦後の1950年代に入ると、業界は朝鮮戦争による〝糸へん景気〟に湧き次々と実業団チームが作られ、各チームが会社の看板を掲げて鎬を削るように。

そんな中、大日本紡績が各地の工場に点在するチームを集約し全社的な統一チームとして立ち上げたのが、ニチボー貝塚でした。

そしてチームを任されたのが、当時貝塚工場に勤務していた、あの〝鬼〟の大松博文監督。

 ※大松監督に関する過去記事は、こちら。(↓)



彼が厳しく鍛え上げた同チームは、その後1966年までに国内公式戦258連勝という不滅の金字塔を打ち立てますが、海外では当初ソ連に歯が立ちませんでした。

それまで日本のバレーボールは9人制で行われていましたが、国際大会に合わせ国内でも6人制に移行。

選手全員がボールを打ったり拾ったりとフル活動必要性があることと、圧倒的な体格差のあるソ連に勝つため、大松監督が〝起き上がりこぼし〟を見て閃いたのが、あの回転レシーブでした。

選手たちは毎日毎日何時間も監督が投げつけるボールに食らいつき、身体中にアザをつくりながら約1年でこれを習得。

その猛練習ぶりは社内はもちろん社会的な問題になりかけたそうですが、それが如何に壮絶だったのか・・・1964年のカンヌ映画祭
短編部門グランプリに輝いた 『挑戦』 という作品で、その模様を垣間見ることができます。



そして1962年に行われた世界選手権で見事ソ連を撃破し、念願の世界一の栄冠を掴むと、海外メディアから〝東洋の魔女〟と呼ばれるように。

しかし監督・選手らは、この時点で引退するつもりだったとか。

その予定が狂ったのは、2年後に開催される東京オリンピックからバレーボールが正式種目になったから。

それも当初は男子だけだったはずが、世界選手権で勝った女子を有力金メダル候補として日本側がIOCに女子も加えるよう猛アピール。

最終的に時のブランデージ会長がGOサインを出したのです。

もう苦しい練習をしなくていい・・・とホッとしていた選手たちは、国民の大きな期待を裏切ってまで引退することは出来ず、また2年間毎日毎晩ボールを追いかける羽目に。

でもその苦しみが報われる日はやってきました。

1964(昭和39)年10月23日、全勝同士で対決した日ソ両チームが激突。

実力で勝る日本が粘るソ連を3-0のストレートで下し、見事金メダルを獲得したのです。

 ※その模様を、こちらでご覧いただけます。




この試合のテレビ視聴率66.8%は総合歴代2位、スポーツ部門では断トツの1位。

今観ても感動する試合ですが、それは監督・選手たちの苦労を知っているからかもしれません。


大松監督は選手たちにキッチリ定時まで働かせ、その後練習するというアマチュアリズムを貫き通したそうですが、現代なら間違いなくパワハラで謝罪・辞任に追い込まれるでしょうネ。

確かに大松監督はやり過ぎだったかもしれませんが、ちょっとしたことで大騒ぎする現代の風潮は、子供や若者を軟弱にするだけではないか?

勝利や栄光を掴むためには、人一倍の努力が必要なのに・・・体育会出身の私は、首を傾げざるを得ません。


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最 古

ゴルフ界における4大メジャーといえば、アメリカで開催されるマスターズ・全米オープン・全米プロ、そして唯一ゴルフ発祥の地・イギリスで開催される

  全英オープン
The Open Championship

毎年7月中旬に行われるこの最古のメジャー大会の第1回大会がプレストウィック(現ロイヤル・プレストウィック)で開催されたのが、今からちょうど160年前の今日・1860年10月17日のことでした。

日本はまだ江戸時代・・・咸臨丸がサンフランシスコに渡航した年ですから、いかに歴史があるか分かります。

栄えある優勝者は、ウィリー・パーク・シニア(1833-1903)でした。


       
               William Park Sr.


現在は(原則的に)セント・アンドラュースなど主要5コース持ち回りで開催されていますが、いずれも所謂〝リンクス〟といわれるシーサイド・コース。

マスターズが開催されるオーガスタ・ナショナルと違い、木が殆どなくフェスキューなど枯れ草が生い茂る荒涼とした光景が広がり、所々に点在するタコつぼバンカーに一流プロが苦しめられるのが、この大会の特徴。

以前私の友人がセント・アンドリュースでブレーした時のことを聞いたことがあります。

シングル・プレーヤーの彼がハーフで持って行ったボール1ダースを失くしたことや、ティーグラウンド(現在はティーング・エリアといいますが)に立つと、キャディーがいなければどの方向に打っていいか分からなかった・・・なんて話を記憶しています。

プロの場合は名誉と高額賞金が手に入りますから我慢してプレーするんでしょうけど、私は正直わざわざ行ってプレーしたいとは思いませんワ。

まぁそれはともかく、もうひとつ全英オープンで有名なのは、優勝トロフィー。


       

独特な形状をした銀色のトロフィーは、クラレット・ジャグthe Claret Jug)と呼ばれますが、クラレットとはフランス・ボルドーで作られる赤ワインの銘柄で、ジャグはジョッキのこと・・・つまりこのトロフィーの原型はワインを飲むジョッキということ。

当初優勝者には革製のベルトが持ち回りで贈呈されていたそうですが、それは大会がプレストウィック
の単独開催で、3大会連続優勝した場合はベルトを寄贈するという規定があり、1870年の第11回大会でヤング・トム・モリスが3連覇して見事にゲット。

しかしそのおかげで新たな贈呈品を作る余裕がなかったウェストウィックがセント・アンドリュースのロイヤル&エンシェント(R&A 現在の全英オープン主催者)と
アナラブル・カンパニー・オブ・エジンバラゴルファーズの2団体に大会の共催と贈呈品製作費の折半を提案。

しかしその話し合いがもつれ、翌1871年の大会はなんと中止に。

何とか翌年には開催できたものの、トロフィーの製作は間に合わず、手渡せるようになったのは1873年からだったそうな。

現在そのオリジナルトロフィーはR&Aに保存されており、毎年優勝者に手渡されるのはレプリカなんだそうです。

それにしても、イギリスの大会なのに、なんでフランスワインの名がつけられているのか・・・不思議ですょネ。

また今でこそ4大メジャーとして重要視されている同大会ですが、第二次世界大戦後は一時軽視される傾向にあったとか。

それは一流ゴルファーがひしめくアメリカにおいて、その頃全英オープンの賞金はマネーランキングに加算されずPGAの勝利数にカウントされなかったため、わざわざ渡航費を払ってイギリスに渡ろうとする選手が殆どいなかったから。

その流れを変えたのが、あのアーノルド・パーマーでした。

 ※パーマーに関する過去記事は、こちら。(↓)



4大メジャーを制したアマチュア・ゴルファーのボビー・ジョーンズに敬意を表し敢えてグランドスラム達成のため1960年から全英オープンに挑み2位に入った彼は、その翌年から見事2連覇を達成。

人気者パーマーの活躍により、同大会は再び極光を浴びるようになったのです

R&Aの役員は、パーマーのお墓に足を向けて寝られませんネ。


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測 定

私が社会人になってゴルフを始めた40年前にはなかった文明の利器が、現代にはいくつかあります。

ひとつは、スマホ。

その自撮り機能は、自分のフォーム確認に絶大な効果が。(↓)


そしてもうひとつが、1ヶ月程前に購入した


 ヘッドスピード測定器

以前は自分のヘッドスピードを知ろうとしたら、わざわざゴルフショップに行ってクラブを試打する際〝鳥かご〟の中に装備されている大掛かりな測定器を利用するしかありませんでした。

さすがにクラブを買わないのに何度も測定してもらうのは気が引けますから、スマホ自撮りでフォーム修正してもヘッドスピードが上がったかどうかの確認をその都度することは無理。

ということで、ネット通販で手に入れた次第。

    

コレ、幅60mm×長さ124mmのコンパクトな手のひらサイズなんですが、中々の優れモノなんです。


電波法対応マイクロ波センサーを採用し、ドップラー効果などを利用して多くの実測データを基に高精度を実現したというこの測定器は、ヘッドスピードだけでなくボールスピード・ミート率・推定飛距離を1画面で同時表示してくれます。

練習場に行ってこれを打席の約1m後方に置くだけで、1球ごと瞬時にデータが表示されますから、非常に効率的な練習が可能。


もちろんそれはそれでありがたいのですが、個人的に大いに役立つのはボールを打たない素振りでもヘッドスピードを測定できること。


さすがに室内ではドライバーを振り回せませんが、短いウェッジならフルスイングできますから、毎日素振りするたびに数値を確認しています。

そうすることで、どうスイングすればヘッドスピードが上げられるか、スマホの自撮りと併用してフォームの矯正が出来るというわけ。

ゴルフ専門チャンネルのテレビCMで、倉本プロが

「とかくアベレージゴルファーはヘッドスピードを上げるために(力を入れて)早く振ろうとしますが、それではダメ。

大きな筋肉を使いゆったり振ってシャフトをしなられることが、ヘッドスピードアップのポイント。」

と仰っていますが、この測定器を導入して毎日素振りを繰り返すことで、確かに腕の力を抜いた方がヘッドスピードが上がることを体感・確認できました。

おかげさまで、この測定器購入時より1ヶ月でヘッドスピードを2m/s以上アップすることに成功。

飛距離もドライバーで約10ヤード、アイアンも一番手程伸びました。

もっと飛距離を伸ばしたい・・・そう思っているゴルファーには、この測定器の購入をオススメします。

価格はメーカーにより違いますが、1万円前後の投資効果は十分あると思いますョ。

ただし、直接スコアアップにつながるとは限りませんが。
あせる

※ちなみに、私のドライバーショットはこんな感じ。
 撮影は女王様なので、中心から右にズレているのはご愛敬?(↓)




これは8月・測定器購入前のスイングですのでヘッドスピードは約44m/s、現在のヘッドスピードは約46m/sに上がって打球音が少し変わってきました。

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