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閉 門

中高年世代の方なら、この事件名を聞いただけでその概要を思い出すことでしょう。 その


 神戸高塚高校校門圧死事件


が起きたのが、今からちょうど30年前の今日・1990(平成2)年7月6日のことでした。

神戸市西区にある同県立高校では生徒の遅刻を取り締まるべく、毎朝8時30分に学校入口の門扉を閉めていました。

この日も、8時過ぎから校門に3名の教師が立って監視を行っており、事件直前にハンドマイクで 「5秒前!」 などとカウントダウンを開始。

そして8時30分にチャイムが鳴ると同時に、教師の一人Hが、高さ1.5m・重さ約230kgの鉄製門扉をガラガラと閉め始めました。

H本人は、生徒の列が一旦途切れたのを確認してから閉めたと供述しているようですが、過去に生徒のカバンなどを挟んだことがありながら、門扉が重かったため下を向いて力を入れて閉めたとのこと。

そのため15歳の1年生が飛び込んできたことに気づかず勢いよく門を閉めたため、彼女は頭部を門扉と壁の間に挟まれてしまいます。

被っていたヘルメットが砕ける程の衝撃を受け、彼女は頭蓋骨を粉砕骨折。

搬送先の病院で午前10時25分、脳挫滅により死亡が確認されました。

ちょっと信じられないのは、こんな事故がありながら学校では当日行われていた期末テストを中止せず、更には門扉を閉めたHも試験監督を務めていたこと。

しかも学校側は警察の現場検証前に現場に付着していた女子生徒の血を洗い流し、彼女の容態を尋ねる生徒に 「重傷だが生命に危険はない」 と答えたと言いますから、呆れます。

       

偶然ですが、同校の校長は当該事件の起きた前年から兵庫県高等学校生徒指導協議会神戸支部長に、そして同校生徒指導部長は同協議会常任委員に就任しており、更に同校は当時全国で5校しか採用されていない学校安全に関する研究指定校でした。


そして同校が実施していた 「全教師による校門や通学路での立ち番指導」 は協議会で高く評価されていたそうですから、これらのことが生徒の安全より学校・教師側の体面を重んじる姿勢に傾かせた原因だったのかもしれません。

この事件に関し、
兵庫県教育委員会は同月26日、校門を閉めたH教諭を懲戒免職処分に、また管理責任を問い当時の校長を戒告(と同時に校長が提出した辞表を受理)、教頭と教育長を訓告、教育次長2名を厳重注意処分としました。

また11月には学校側が過失を認めた形で、兵庫県が女子生徒の遺族に損害賠償金6,000万円を支払うことで示談が成立。

※刑事事件として業務上過失致死罪で起訴されたH教諭に対しては、被告本人が無罪を主張したものの禁固1年・執行猶予3年の有罪判決が1993年に神戸地裁から出され、確定しました。

しかし事件の余波は、その後も続きます。

学校側は門扉を事件直後に撤去しようとしたものの、保護者や一部住民が反発して一時保留に。

上記H教諭の有罪判決を受けて再び撤去をPTAらに説明することなく記者会見で発表したことで再び紛糾しましたが、1993年7月に現場で小競り合いが起きる中、従来より小型・軽量の門扉に取り換えられました。

       

その後も門扉の撤去は不当だとして工事費などの返還を求める訴訟が起こされましたが、1999年に最高裁で住民の訴えが棄却され、ようやく決着。

まぁ訴訟まで起こして最高裁まで争ったのはごく一部の住民でしょうが、一体何のためにそこまでやったのか?

この事件が起きた原因には様々な要素が絡んでいますが、根本的には生徒が遅刻さえしなければこんな事には・・・って思うのは私だけ?


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因 縁

1923年に始まり、モナコ・グランプリ、インディ500と並び世界3大自動車レースに一つに数えられ、世界中の自動車メーカーが名誉をかけて凌ぎを削る


 ル・マン24時間耐久レース


歴史と伝統あるこの大会には、栄光と共に暗い過去もあるのです。


今から65年前の今日・1955年6月11日午後4時にスタートしたレースは、その約2時間半後に自動車レース史上最悪の事故に見舞われてしまいました。


この大会はジャガー(英)・フェラーリ(伊)・メルセデスベンツ(独)の3大ワークスの対決が注目されていましたが、事故は彼らが絡んだものでした。


フェラーリのエース、エウジェニオ・カステロッティと熾烈な首位争いをしていたジャガー車を操るマイク・ホーソーンが、周回遅れのオースチン車を抜いた直後にピットインするため急減速。


抜かれたオースチン車が追突を避けようとして左へ進路変更したところに後方から迫ってきたピエール・ルヴェーが運転するメルセデスベンツ車が乗り上げる形で衝突。


ベンツ車は空中に飛び上がってしまいます。(↓)


    


この直後コース左側のスタンド側壁に衝突したベンツ車は空中分解。


バラバラになった車体からエンジンやスプリングなどの部品が観客の頭上を襲い、車体は炎上。


逃げ惑う観客と燃え上がる炎・・・現場はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図。


※事故の映像を、こちらでご覧いただけます。(


ドライバーのルヴェーを含めレーススタッフ・観客合計86名が死亡、負傷者200名以上という大惨事になったのです。


    

           事故に巻き込まれたメルセデスベンツ車


しかし観客が一斉に帰路に着くと救急車の走行に支障をきたすと判断した主催者側は、レースを続行。


優勝したのは、皮肉にも事故のきっかけを作ったジャガーで、優勝トロフィーを受け取ったのはホーソーンでした。


事故原因については、亡くなったルヴェーが49歳だったため運動神経の衰えを指摘されるなど数々の仮説が唱えられましたが、5ヶ月の調査の末に査問委員会が出した結論は大会主催者及びレースドライバー・チームいずれにも過失なし、というもの。


しかし事故現場であったホームストレッチは車3台ほどの幅しかなく、しかも緩やかに右にカーブしていました。


コースが完成したのは自動車の最高時速が100kmの時代。


この日、事故が起きた瞬間のレーシングカーの速度は時速175km・・・コースが自動車の技術進歩に追いついていなかったことは明白でした。


そしてこの事故は、自動車レース界に様々な波紋を広げることに。


後日開催予定だったスペイン・西独のグランプリレースは中止。

仏・伊でも政府の許可が出るまでレースは開催できず、スイスではレース自体が禁止されました。


また事故の当事者だったメルセデス・ベンツ社はこの後30年にわたってレースから撤退。

更にはベンツ車のすぐ後ろを走っていて事故の一部始終を目撃した名ドライバーのファン・マヌエル・ファンジオは、翌年以降2度とル・マンには出場しませんでした。


そして3年半後、人々はこの事故の因縁を感じることに・・・。


このレースで優勝したホーソーンは、1958年にF1チャンピオンの座に輝き、栄光に包まれたまま引退を表明。


    
 
            John Michael "Mike" Hawthorn


しかしその3ヶ月後、彼は愛車ジャガーを運転中に前の車を追い越した直後にスピン。


時速150kmという猛スピートで公道を走っていたジャガーは立ち木にぶつかって大破し、彼は死亡してしまいます。


その時追い越した車が・・・・なんと、メルセデス・ベンツでした。驚き顔


それは、単なる偶然だったのか? それともルヴェーやベンツの怨念だったのか?


神のみぞ知るところですが・・・皆さんの判断は、如何に?

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二次災害

かつて私の故郷・長野から東京に出る際には、難所といわれる碓氷峠を越えなければなりませんでした。

今でこそ長いトンネルが貫通し、高速道路や新幹線を利用すれば2時間前後で東京まで行けますが、私が子供の頃はアプト式電車という動輪にギアがついた特殊な電車で急坂を昇り降りしなければならず、片道8時間半もかかったもの。

その(現在は廃線となっている)信越本線・軽井沢~横川駅のほぼ中間点にあった


 熊ノ平駅

で悲劇が起きたのが、今からちょうど70年前の今日でした。 


    


1893(明治26)年4月に信越本線の軽井沢~横川間が開通した際、熊ノ平は給水給炭所として設置されたのがルーツ。

1906年鉄道駅に昇格し、1937年には構内に熊ノ平変電所が設けられました。

そして1950(昭和25)年6月9日、同駅を悲劇が襲います。


       
            アプト式電車が通過する熊ノ平駅


6月に入ってから碓氷峠周辺は降雨が続き、上旬だけで軽井沢測候所で150mmの雨量を観測。

そんな中、山の谷間につくられた熊ノ平駅を土砂崩れが襲いました。

まず8日午後8時半頃も構内の第10号トンネルで約3,000㎥の土砂が崩壊し、本線と突入線が埋没。

幸いこの時は人的被害はなかったのですが、その土砂の除去作業を行っている最中の翌9日午前6時6分頃、更にその上方の山肌から約7,000㎥の土砂崩れが発生、作業員や宿舎4棟を飲みこんだのです。


手作業で救出作業が行われましたが、更に11日・12日にも土砂崩れが発生。


最終的に死者50名・重軽傷者21名を出す大惨事となってしまいました。

信越本線が開通したのはそれから1週間以上経った6月20日、完全復旧したのは6月23日だったとか。

その後も熊ノ平駅は存続しましたが、1966年に信号場に降格。

1997年、北陸新幹線開通に伴う前述の信越本線廃止と同時に、同駅(信号場)も廃止となりました。

私が初めて上京したのは6歳の頃でしたから、少なくとも1度はこの熊ノ平駅を通過しているはず・・・ですが、当然のことながら全く記憶には残っていません。

しかし現在も国道18号線を利用してこの熊ノ平駅周辺の遊歩道に行くことが出来ます。

    

          現在の熊ノ平駅跡 右の白い建物が変電所

ここで、耳より(?)情報をひとつ。

実は同駅では、この土砂崩れ以前の1918(大正7)年3月にも機関車の故障による貨物列車の暴走・転覆事故が起き乗員・駅員4名が死亡(4名が負傷)していることから、心霊スポットとしても知られています。

これから夏場を迎え、避暑で軽井沢に行かれる方・・・もっと涼しくなりたければ、熊ノ平駅跡まで足を延ばしてみてはいかが?
 うー


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帰 還

今からちょうど50年前の今日、世界中の人々が3人の男性に注目していました。


「彼らが、無事地球に帰還して元気な姿を見せることができるのか?」


彼等が搭乗していた乗り物・・・それは


Apollo 13


そう、宇宙船アポロ13号でした。


アポロ11号が人類初の月面着陸を成功した後、アメリカでは立て続けに月面着陸を行うアポロ計画が進行していましたが、人々は同じ事の繰り返しに飽き始めていました。


ですから1970年4月11日に打ち上げられたアポロ13号に関しては、クルーたちの思いとは裏腹に殆ど世間の注目を集めていませんでした。

   

    左からスワイガート司令船操縦士・ラベル船長・ヘイズ着陸船操縦士


ところが、月に向かう途中の軌道上で酸素タンクが爆発 (※この事故状況・原因は後に判明) するというアクシデントに見舞われ、月面着陸どころか地球に戻ることすら危うい状況になったのです。


    


地上スタッフと、J・A・ラヴェル船長以下3名のクルーが知恵を出し合いながら、酸素・電力の節約を行いつつ、遂に4月17日午後6時7分、太平洋に着水。 


3名のクルーは無事地球への帰還を果たしたのです。


   


アポロ計画11~16号の中で、唯一月面着陸できなかった13号。


しかしその不可能に近かった飛行士の帰還を高く評価され、


  “successful failure” 輝かしい失敗、成功した失敗)


といわれました。


この史実は、アメリカ映画 『アポロ13』(1995年公開) で実際の映像やCGを駆使して描かれています。

        


トム・ハンクスを始め、多くの名優が演じる感動的な大作・・・アカデミー賞も2部門獲得していますので、多くの方がご覧になったことでしょう。


私はこの映画の中で、地上で指揮を執るグランツ主任を演じるエド・ハリスのカッコ良さにシビレました。笑2

 
※グランツ主任に関する過去記事は、こちら。(↓)



発射直前の確認作業から、打ち上げ成功までのシーンが、こちら。



そして彼が、最後に宇宙船が無事着水し、クルーの生存が確認された時に涙ぐむシーン・・・何度観ても、ジ~ンときます。泣き1


映画の中ではクルーが意見の対立や苛立ちから、険悪な雰囲気になる場面がありますが、ラヴェル船長本人によると喧嘩どころか感情的にもならず、与えられた課題を必死にこなしていて喧嘩するどころではなかったのだそうで・・・。


まぁ、言われてみれば当たり前かも。


一方で、ラベル夫人が自宅でシャワーを浴びている時に、結婚指輪を排水溝に流してしまう不吉なシーンがあります。 


少々ワザとらしい感じですが、こちらは実話だったんですって。


では最後に、お時間のある方は実際の映像や写真を集めたドキュメンタリー動画をご覧ください。


これだけの損傷を機体に受けながら、よくぞ無事帰還できたものだ・・・と感心すると同時に、いかに映画が忠実に当時の模様を再現したかを伺い知ることができます。




果たして、再び人類が月面に降り立つ日は来るのでしょうか?

いや、それよりも火星に行くことになるのかも・・・。
あせあせ


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カス欠

皆さんは、車を運転中ガス欠になったことがありますか?

幸いにも私は経験ないですが、中には高速で渋滞にハマッてガソリンが尽き、エンジンが止まってしまった・・・なんて方が、いらっしゃるかも?

でも自動車だったらJAFに連絡してガソリンを持ってきてもらえば済みますが、もし飛行中の旅客機がガス欠になったらタダでは済みません。

そんな在り得ない出来事が、今からちょうど30年前の今日・1990年1月25日に起きてしまいました。 それが


 アビアンカ航空52便墜落事故


この日、南米コロンビアの航空会社・アビアンカ航空52便(ボーイング707)が乗員9名・乗客149名を載せてコロンビアの首都ボゴタからニューヨークに向け離陸。

 

               52便と同型のB707型機


事故が起きる時は往々にしてそうですが、この日の同機にも様々なアクシデントが重なりました。

まずこの旅客機の自動操縦装置が故障していたため、機長は約6時間のフライトを全て手動操縦せざるを得ず、彼を含めた乗務員の疲労度が普段よりかなり高かったこと。

そして当日のアメリカは悪天候に見舞われたため各空港は混雑しており、同機はノーフォーク付近上空で19分、アトランティックシティー上空で29分も待たされ、更に着陸予定だったJFK空港上空でも約30分間旋回・待機させられました。

同機の副操縦士はジェット燃料が少なくなっていることに気づき、管制塔に「着陸を優先して欲しい」と連絡。

しかし彼はコロンビア人だったために英会話能力が十分でなかったため、その緊急事態が管制塔に伝わらず、単に順番を繰り上げられただけに留まってしまいました。

そしてやっと順番が来て着陸態勢に入ったところ、滑走路まで僅か数km、高度500フィートのところで突然乱気流に遭遇。

機体が急降下したため、機長は止む無く再び機体を上昇させました。

そして旋回して再び着陸態勢を取ろうとした時に燃料がなくなり、第3,4エンジンが、直後に第1,2エンジンが停止。

同機はグライダー状態となってJFK空港から24km離れたロングアイランドに墜落してしまったのです。

 

機体は前・中央・後部の3つに分割。

しかし不幸中の幸いだったのは、高度が低かったことと燃料タンクが空だったおかげで火災が発生しなかったこと。

そのため機長・副機長・航空機関士のピットクルーを含め73人の死者を出した一方で85人が生還できました。


事故原因に関しては、当然のことながら機長ら乗務員の燃料管理ミスが挙げられますが、それ以上にその緊急事態を管制塔に正しく伝えることが出来なかったことが大きかったとされます。

管制塔との無線通信は全て副操縦士が行っており、〝緊急(emergency )〟という用語は交信の際1度も使われなかったのですが、これはコロンビアの母国語であるスペイン語の〝優先(prioridad )〟には、英語の〝緊急(emergency )〟という意味合いも含まれるため、彼が直訳の英語〝優先 (priority )〟という単語を使ったことで意思疎通に齟齬が生じたのだそうな。

国によって表現が違うとはいえ、言葉って難しいですネ。

今後2度とこんな初歩的なミスによる事故は起きてもらっては困りますが、私には疑問がひとつ。

自動車の場合、燃料計はまだ残量があっても早めに警告灯が点きますけど、飛行機にはそういう〝気配り〟はなされていないんでしょうかネ?注意


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切 断

1月2日は、初夢・初荷等々1年の事始めの日。

おそらく彼らも初登りだったのかもしれませんが・・・今から65年前の今日・1955(昭和30)年1月2日に悲劇が起きてしまいました。

登山クラブ 『三重県岩稜会』 所属の石原國利(中央大学4年生、リーダー)、沢田栄介(三重大学4年生)、若山五朗(三重大学1年生)の3名が、北アルプスの前穂高岳・東壁を登攀中、若山隊員が50cm程滑落した際、新品の直径8mmナイロンザイルが切断し、墜落死。 


   


これが世にいう

 ナイロンザイル事件

の発端となりました。

ナイロンザイルは1952年頃から製造が始まり、従来のマニラアサ製ザイルに比べて軽量で柔軟性があり、かつ凍結しにくく安価であることが特徴。

日本山岳会のマナスル遠征隊に使われたことなどから次第に広まり、徐々にマニラアサ製に変わる存在になっていました。


しかしこの事故以前にも同様のナイロンザイル切断事故が複数起きていたことを知った若山隊員の実兄で旧制名古屋大学工学部出身の石岡繁雄さんは、ナイロンザイルの強度に疑問を持ちます。


       


そして実験を繰り返した結果、登攀時に鋭角の岩角にザイルがかかっている状態で人間の体重程度の負荷がかかると簡単に切断することを突き止めました。

一方、ナイロンザイル・メーカーの東京製綱は、日本山岳会関西支部長の篠田軍治・大阪大学工学部教授の指導により1955年4月に公開実験を行い、やはりナイロンザイルが数倍の強度を持つという結果を導き出して、「岩稜会は自分たちのミスをナイロンザイルに転嫁した」などと山岳雑誌などに掲載。

しかし実はこの実験に際し、メーカー側は秘密裏に岩角に丸みをつけていたのです。

岩稜会側は1956年6月に篠田教授を名誉棄損で告訴(※1年後に不起訴処分)し、その1ヶ月後にガリ版刷りの『ナイロンザイル事件』という310ページにわたる冊子を作成し、登山関係者や出版社に配布し、危険を訴えました。

この冊子の存在を知った作家・井上靖さんが朝日新聞に連載したのが、『氷壁』。


        


この作品により当該事件は多くの人の知るところとなりましたが、行政が動くことはありませんでした。

そしてようやく消費生活用製品安全法が制定され、ザイル(クライミングロープ)が対象となり、安全基準が公布されたのは、事故から20年経った1975年のことでした。

その20年間で20人以上の登山者がローブ切断で死亡しており、一方この安全基準公布後にザイル切断による死亡事故は起きていないとのこと。


また日本山岳会は、1977年版 『山日記』 に、「1956年版『山日記』の篠田の記述で多くの人に迷惑をかけた」と21年も経ってから〝お詫び〟を掲載。

つまらぬ権威主義(というか見栄)と緩慢なお役所仕事が多くの人命を失ったことを、忘れてはなりません。


※なお、切断事故を起こした実物のザイルが、長野県の大町山岳初物館に展示されています。(↓)

       


これから冬山に登る方は、くれぐれもお気をつけて!


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触 雷

1939年9月、ポーランドに侵攻したドイツに対しイギリス・フランスが宣戦布告したことで始まった、第二次世界大戦。

しかしその後も日本は商船を欧州航路で運航していたのですが・・・その中の


てる  くに  まる
照 国 丸


が機雷に触れて沈没したのが、今からちょうど80年前の今日のこと・・・これは第二次世界大戦勃発後に日本が喪失した最初の、そして日本が開戦する前に唯一沈没した商船でした。


  


大正時代、日本郵船は箱根丸級の船舶を4隻欧州航路に就航させていましたが、欧州各国の同業他社が新型の大型客船を導入したことで集客力が低下。

それを挽回すべく、1930(昭和5)年6月に全長160.59m、11,931トンの大型船・照国丸を就航させ、同クラスの靖国丸と2隻を従来の4隻に加え、横浜~ロンドン間で月2回の航海を行わせました。


照国丸の船内は基本的に洋風の装飾を施しましたが、特別室内には松田権六の蒔絵を取り入れるなど和風のインテリアを多用したことで、外国人にも好評だったとか。

そして同船は、前述の宣戦布告が行われた直後の9月24日に横浜港をイギリスに向け出港。

11月上旬にフランスのマルセイユに到着すると、ここで乗客の殆どが下船。


船内に残ったのは、乗客28名と乗組員176名のみとなりました。

しかしジブラルタル海峡では英仏の軍艦が行き来し、たびたび浮遊機雷警報が発せられたため、照国丸は見張りを増員したり乗客に対する避難訓練も実施するなど、船内は緊張状態に。

そして11月15日にモロッコのカサブランカを出港した同船は、予定より10日遅れ11月19日にイギリスのダウンズ泊地に到着。

本来ならばここで積荷検査を済ませた後にテムズ川沿いのロンドン港に入る予定でしたが、英海軍が機雷を発見したため航路を閉鎖。

翌日掃海作業が行われ閉鎖が解除されたため、照国丸は11月21日朝、指定された北航路を通ってテムズ川河口に向け、15ノット(時速27.8km)で進行。

見張りを5名増員して厳戒態勢での航海だったのですが、同日午後1時前・・・北緯51度50分・東経1度30分のハリッジ沖で触雷により突然船体に大きな衝撃が。


    

その直後照国丸は大きく右に傾き、船首から沈み始めました。

船長は一旦機関停止命令を出しましたが、沈没を防ぐべく深度の浅い海岸に座礁させようと機関再始動を試みるも、エンジンは始動せず。

航行不能となったため船長は即時退去命令を出し、船体が激しく右に傾く中、船員は迅速に救命艇5隻を降ろし、照国丸は沈没したものの乗客・乗組員全員の救助に成功しました。

この辺り、船長や乗組員が乗客をほったらかして逃げたどこぞの国とは大違いですネ。

しかし日本政府が国際法上の重大な違法行為だとして英独両政府にどちらの機雷が原因だったかの説明を求めましたが、両国とも責任のなすり合いをするばかりで、結局真相はウヤムヤのまま。

泣きをみたのは、日本郵船だけでした。

昔も今も、国際社会に於ける日本の立ち位置は殆ど変わっていないようです。
うー


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爪 痕

今月11~13日にかけて猛威を振るった台風19号は、日本各地に大きな被害をもたらしました。

個人的には、千曲川の堤防が決壊して付近一帯や北陸新幹線の車輛が水浸しになった映像は衝撃的でした。

なぜなら、現場は私の実家があった場所からさほど遠くなかったから。

あそこで氾濫が起きるなんて想像していた方は私を含め殆どいなかったでしょうから、不意を突かれた被災者のショックは大きかったはず。

被災地の一刻も早い復旧を願うばかりです・・・が、実は幸いにも自宅に被害がなくホッとしていた私にも、意外なところで影響が。

台風が夜半に通り過ぎた東京では13日朝から快晴でしたが、その日千葉の袖ケ浦CCで行われる予定だった男子ゴルフのブリヂストン・オーブンが早々と中止に。

それを知った私は心配になって朝メンバー・コースに電話すると、まだコースの状況が分からないとの事。

そこで翌日もう一度電話すると、

「おかげさまで、営業は出来ます・・・一応。」

ん? 一応? 

何か引っかかりを感じた私は、数日後自分の目で確かめるべくコースに出かけました。

平日にも拘わらず、お客さんもそこそこ入り受付も賑わっていたのを見て安心した私は、スタートホールへ。

すると、目の前のフェアウェーには、今まで見たことのない茶色の帯が・・・。

   

何と右側の斜面が崩れ、コースを横断する形で土砂が流れこんでいたのです。

驚く私に、コース係員が、

「ご覧の通りの状況ですので、ティーグラウンドを前に出させていただきました。」

つまりパー4のミドルホールを、土砂の先から打つパー3にしたってわけ。

カートに乗ってその前進ティーに向かうと、その爪痕がクッキリ。

  

土砂崩れは高さの3倍横に広がると聞いていましたが、この現場でもほぼその通りになっているのが分かります。

更に別のホールでも、やはりフェアウェー一面に土砂が広がっていましたが、これも画面左側の斜面の遥か上が少し崩れただけで、この有様。

  

あらためて、自然の驚異・猛威を目の当たりにした次第。

コースをクローズする程ではないにしろ、これだけの土砂を除去・コース修復するのは大変なはず。

果たしてスタートホールが再びパー4に戻るのは、一体いつになることやら?




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季節外れ

まだ梅雨入り前の時期ですが、今日は台風のお話です。

今からちょうど70年前の今日・1949(昭和24)年6月20日午後11時頃、まさに季節外れの


 デラ(Della )台風


が鹿児島に上陸しました。

※台風が人名から番号制に変わったのは、1953年から。

詳しくは、こちらの過去記事で。(↓)



6月17日に米軍機によってフィリピン東方沖で発見された同台風は、北北西に進路を取りつつ屋久島を通過し、そのまま紀伊半島に向かうと予想されました。

       


この台風の勢力は強く、21日午前2時頃の愛媛県・宇和島市で最大瞬間風速29.2m、佐田岬で38.5mを記録。

ちょうどこの台風が接近した時、宇和海では不漁続きだった漁民が無理を押して出漁していました。


そこに進路が変わった台風が直撃して海が大荒れとなり、死者・行方不明者211人を出しました。

中でも日振島での被害は甚大で、当時の人口約2,300人の内、106人・・・人口の5%近くが帰らぬ人に。

       

                  日振島の位置


また川崎汽船所有の旅客船 『青葉丸』(599トン)が警報を受けながら20日21時に高浜港を出港し、21日午前2時半に大分県姫島付近で転覆、乗員・上客141名が死亡または行方不明に。

21日6時頃に玄海灘から日本海に抜けた同台風による被害は、死者・行方不明者468名、負傷者367名。

全壊住宅1,410棟、半壊4,005棟、床上浸水4,627棟を数えました。


       

                    宇和島・加周海岸の様子


被害が大きくなった要因としては、まず当時はまだ離島や僻地には電気も通っておらず、台風情報が行きわたらなかったこと。

更にその地域の住民には、「梅雨時の6月に台風は来ない」という言い伝えが浸透していたことが挙げられるとか。

現代のように人工衛星から逐次情報が送られてくる時代ならぱ、船も出航せずここまでの被害にはならなかったでしょう。

とは言え、この台風が急に進路を変えたように、自然は人智を超えた活動をするもの。

まして地球が温暖化に向かい、温帯化しつつある日本列島では、ゲリラ豪雨などがいつ起きても不思議ではないですから。


今年は既に1・2月に1個ずつ台風が発生していますが、意外にもこれは例年に比べて少ない方。
2015年には1~6月までに毎月1,2個、計9個も発生しましたし、2004年には6月単月で5個も。


〝油断大敵〟・・・これが自然災害から身を守る心構えでしょう。うー


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悲 劇

航空機事故は、多くの人命を一度に失う悲劇ですが、時として組織やスポーツチームに壊滅的な打撃を与えます。

有名なものとしては、マンチェスター・ユナイテッドの選手過半数を失った、1958年の〝ミュンヘンの悲劇〟があります。(↓)



これより9年前・・・今からちょうど70年前の今日、イタリアの名門チーム・ACトリノの選手・監督・コーチの殆どを失う


 スペルガの悲劇
  Tragedia di Superga


が起きました。

ACトリノは、1908年にFC
トリノ (Foot Ball Club Torino)として創設されました。

1936年にACトリノ (
Associazione Calcio Torino) と名を変えた同チームは、1927-28、1942-43、1945-46、1946-47、1947-48と5回もセリエAで優勝し、〝グランデ・トリノ(偉大なるトリノ)〟と謳われた強豪チームでした。

    

         1948-49年、事故前のチーム・メンバー


しかし好事魔多し・・・その1948-49シーズンの優勝を目前にした1949年5月4日、ポルトガルのリスボンで行われた親善試合の帰路、チーム・メンバーを乗せたアリタリア航空のフィアットG212型機がトリノ上空で激しい雷雨に遭遇。

    
               
フィアットG212の同型機


コントロールを失った同機は、トリノ郊外のスペルガの丘に建つスペルガ聖堂の外壁に激突。

     


機体は尾翼だけが辛うじて原型を留めるのみで大破し、ACトリノの選手18名と監督・コーチ・チームフロントの5名と乗員他8名の搭乗者31名全員が死亡してしまいました。

    

犠牲者全員に対し国葬が執り行われ、チームはシーズンの残り4試合をユース・チームで戦わざるを得ませんでしたが、相手チームも敬意を表してユース・チームを出したことで、ACトリノは1948-49シーズンも優勝を飾ることに。

しかし犠牲者はチームのエースであったヴァレンティーノ・マッツォーラを始め、大半がイタリアの代表選手でしたから、チームとしてだけでなくイタリア・サッカー界にとっても大打撃となりました。


病気や家族の都合で運よく遠征に帯同しなかった2人を除きメンバーの殆どを失ったチームは、その後上手く再建が出来ず成績が低迷。

1959-60年にはセリエBに降格するなどし、再びセリエAで優勝したのは、事故から27年も経った1975-76シーズンのこと。

また事故翌年にワールドカップ・ブラジル大会に出場したイタリア代表は、痛ましい記憶から飛行機ではなく長旅の船で移動したこともあってか、予選リーグで敗退しています。

唯一と言っていい救いは、犠牲となったエースのマッツォーラの愛息アレッサンドロ(当時5歳)が、その後父親と同じくサッカー選手となってミラノの強豪・インテルに入団、1960~70年代にイタリアを代表するスタープレイヤーになった事でしょうか。

         




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