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狼少年

中高年世代の方は、今から31年前の今日、兵庫県尼崎市で大きな商業店舗火災があったことを、ご記憶でしょうか? 

出火がしたのは、


 長崎屋 尼崎店

阪神電鉄の尼崎駅と出屋敷駅のほぼ中間点に位置する地上5階・地下1階の同店は、大阪万博が開催された1970年に開業。

1988年11月からはディスカウント業態の〝Big-Off 尼崎店〟として営業していました。


 

その4階・インテリア用品売場に展示されていたカーテンから火の手が上がったのが、1990(平成2)年3月18日のお昼時、午後0時30分頃。

出火に気づいた店員らが消火器や屋内消火栓設備を使って消火を試みましたが、火の回りが猛烈に早く、すぐに手の施しようがない程に猛火・猛煙に包まれます。


       


当時店内には58名の従業員と100名以上のお客さんがいたそうですが、前年に2回避難訓練を実施していたためか、出火した4階とその下の3階のお客さんは全員避難誘導して無事。

そして通報により出火から10分ほどで消防隊が到着したものの、その時既に4階は猛火に包まれており、凄まじい煙が
ゲームコーナー・従業員食堂・放送室などがあった5階に吹き上がってしました。

消防隊はハシゴ車で5階の窓から救出を試みましたが、4階の化学繊維が大量に燃えたことで発生した有毒ガスを吸い込み、従業員12名とゲーム・コーナーに遊びに来ていた子供3名が犠牲に。

(負傷者は窓から飛び降りて逃げるなどした6名。)


犠牲者は全員窓際に倒れていました。

           

5階には火の手は回っておらず、死因は全員が一酸化炭素中毒。


同じ5階にいながら、密閉された放送室に逃げ込んでいた人は無事でした。


さて、避難訓練を定期的に行っており消火設備も使えた同店で、なぜ初期消火が遅れたのか?

その原因は、火災報知器でした。

備えつけられていた火災報知器がそれまで度々誤作動を起こしていたため、この時も鳴ったのに従業員は「またか」と思ってしまった、というのです。

まさに〝オオカミ少年〟状態。

もしこの時にすぐ消火器を使用していれば、犠牲者は出なかった可能性が。

また時はバブル期・・・商品が避難通路にうず高く積まれており、防火扉が閉まらない状態だったことが、煙を遮断できなかった原因になりました。

それまで尼崎消防署から5回も指導を受けていながら改善しなかったわけですから、事故後の裁判で
元店長ら2人が禁固2年6ヶ月・執行猶予3年の有罪判決を受けたのは当然と言えましょう。

ところで、この出火原因はというと・・・火の気が全くない所から出火したため、警察は放火と断定。

目撃者の証言から火災発生から2ヶ月後に不審者6名の似顔絵を公開し、捜査対象者は約1,900名に上りました。

しかし客の出入れが激しいスーパーであり、特定が困難。
さらに動機も不明で証拠品・遺留品も火災により殆ど焼失。

結局2005年に公訴時効を迎え、お宮入りとなりました。

もし防犯カメラが当時からあれば、不審人物の特定はかなりの確率で出来たはず。

やはり犯罪抑止・犯人特定の観点から、防犯カメラの設置はすべきですネ。

ちなみに同店舗はその後営業再開を出来ぬまま閉鎖・解体され、現在その跡地にはマンションが建っているそうな。

そこの住人が以前そこで起きた火災事故について知っているかどうかは分かりませんが、尼崎市は毎年3月18日を 『防災の日』 として消防訓練が実施されているとか。


是非今後も犠牲者の冥福を祈りつつ、続けて欲しいもの。

そしてもし放火犯が生きているなら、名乗り出てその動機を語ってもらいたいです。

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急浮上

中高年世代の方なら、ご記憶があるでしょう。

今からちょうど20年前の今日、愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船


えひめ丸

とアメリカ海軍の潜水艦が衝突し、えひめ丸が大破・沈没するという、あり得ないというかあってはならない事故が起きたことを。

    


アメリカ・ハワイ州オアフ島沖で実習のため乗員35名を乗せて航行していたえひめ丸は、2001(平成13)年2月9日(現地時間 日本時間で2月10日)、海中から急浮上してきたアメリカ海軍の原子力潜水艦グリーンヒルに衝突され、エンジン周辺を大きく損傷。

衝突後僅か5分程で水深約600mの海底に沈没し、海に投げ出された生徒ら26人は救助された(内1名は骨折)ものの、生徒4人・教官2人・乗組員3人の計9名が行方不明に。

グリーンヒルは浮上前からえひめ丸の存在をレーダーで捕捉していたものの、同乗していた民間人への対応で確認作業が遅れるなど複数の要因で衝突したとされますが、いわば完全なる人災かつ過失は100%追突した形の原潜側にありました。


    

当時のブッシュ大統領は日本側に公式に謝罪しましたが、問題となったのは行方不明者の捜索。

当初アメリカ側は船体引き揚げは困難として、えひめ丸をそのまま海底に放置する予定でした。

しかし遺体回収を求める遺族の強い抗議により、船体を水深約35mの浅瀬に移動し、ダイバーによる船内捜索を行うことに決定。

日本から潜水艦救難艦ちはやを派遣するなどし、事故から半年たった同年8月から引き揚げ作業を開始し、10月に完了。


ダイバーによって行方不明者9人の内8名が発見され身元が判明。

しかし残念ながら生徒1人の遺体は発見されませんでした。


    

そして翌11月、えひめ丸の船体は約1,800mの深海に沈められたのです。


この事故に関して、責任者であるグリーンビル艦長のスコット・ワドル中佐は軍法会議にかけられることもなく、減俸処分のみ。

後に軍を懲戒解雇に当たる不名誉除隊ではなく名誉除隊すると、すぐ海軍関連企業に再就職しています。

また一連のえひめ丸引き揚げ費用にアメリカ政府が6,000万ドルを拠出したことを批判するアメリカ人も少なからずいたそうな。

もし衝突・沈没したのがえひめ丸ではなくアメリカの客船で犠牲者がアメリカ人だったら、果たして同じ処分であり拠出金に批判が出たのか?

そう考えると、何とも暗澹たる気持ちになります。


事故の翌年に新しいえひめ丸を寄贈された水産高校では、現在でも実習が続けられていますが、事故が起きた日に合わせ毎年2月10日には犠牲者の数に合わせ9回鐘を鳴らして慰霊と海の安全を祈願しているとか。


明日は、私もハワイのある東を向いて黙祷を捧げるつもりです。


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大爆発

20世紀後半に米ソ間で熾烈な宇宙開発競争が繰り広げられる中、残念ながら人命を失う事故が双方に起きました。

アメリカ側では、1967年に起きたアポロ1号の火災事故。(↓)



一方のソ連では、その7年前・・・つまり今からちょうど60年前の今日、それを遥かに上回る被害を出した

  
ニェジェーリンの大惨事

が起きました。


事故現場は、現カザフスタン共和国・チュラタムにあるバイコヌール宇宙基地。

    

同基地はソ連がICBM(大陸間弾道弾)の発射場として1955年に建設し、以後ロケットの発射場として使用され、有人宇宙船の打ち上げを行った場所。

 ※ICBMに関する過去記事は、こちら。(↓)




ここで1960年10月24日、ミハイル・ヤンゲリが設計した全長30m以上・直径3mもあるICBMのR-16試作機が、発射直前に突然爆発・炎上。

液体燃料を満載したミサイルの2段目エンジンが作業員の誤操作により突然点火したのが原因でした。

ロケットの近くにいた作業員らは即座に焼死。

多少離れていた場所にいた人でも、保安フェンスがあったため逃げることが出来ず、猛火や有毒ガスに襲われ絶命。


※その猛烈な爆発・炎上の模様をこちらでご覧いただけます。(↓)



死者71名を数える大惨事となりましたが、その犠牲者の中に初代ソ連戦略ロケット軍総司令官で、R-16開発計画の責任者だったミトロファン・ニェジェーリン砲兵総元帥が含まれていたため、事故にその名が冠されました。


       

1902年生まれの彼は、1920年に赤軍入りし一兵卒からスタート。

1923年から砲兵部隊に配属されて以降トントン拍子に出世し、第二次世界大戦末期には南西戦線砲兵司令官として活躍、ソ連邦英雄称号が授与されました。

戦後も軍中枢部の要職を務め、1959年には砲兵総元帥に昇進し初代戦略ロケット軍総司令官としてICBM開発を指揮していました。


その彼を開発していたミサイルの爆発事故で失ったソ連の衝撃は、さぞ大きかったでしょう。 


それが証拠に、フルシチョフはこの事故について即時箝口令を敷き、ニェジェーリンは飛行機事故による死亡と発表。

他の技術者らの遺族も、同じ原因で死んだと言うよう当局から指示されたそうな。
 


そしてゴルバチョフが行ったペレストロイカによって報道の自由化が実現した1989年4月に週刊誌『アガニョーク』がスクープ記事を掲載するまで、ソ連政府は30年近くこの事故を公式に認めませんでした。

果たしてニェジェーリン本人は、この情報隠蔽をあの世からどんな気持ちで眺めていたのやら・・・。


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救 出

我が国のすぐ隣には反日国が2,3ありますが、反対に親日国は東南アジアだけではなく世界中に沢山存在しています。

その中でも特筆すべきは、トルコ。

この国が親日国になったきっかけとなったのが、今からちょうど130年前の今日起きた


 エルトゥールル号遭難事件

でした。


1887(明治20)年に小松宮ご夫妻がイスタンブールを訪問した答礼として、当時のオスマン帝国は航海訓練を兼ねて木造フリゲート艦・エルトゥールル号を日本に派遣します。  


    


約11ヶ月の後悔を経て1890(明治23)年6月に横浜港へ到着した同号は、オスマン・バシャ司令官が明治天皇に皇帝親書を手渡すと、オスマン帝国初の親善訪日使節団として歓迎を受けました。

長旅で船員からコレラ患者も出たため長らく停泊していた同号は、9月15日に横浜港を出港し、帰路に。

この時、日本側は船の老朽化などから台風シーズンの出航を見合わせるよう進言したものの、母国の事情等があり同号は出発を強行・・・結局、これが仇となってしまいます。

出航翌日の16日午後9時頃、折から接近してきた台風の強風に煽られた同号は、紀伊半島南端に位置する紀伊大島・樫野埼付近の岩礁に激突・座礁。


    

      下中央・樫野埼                   拡大図

機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし、午後10時30分頃に沈没。
バシャ司令官を含む乗員600人以上が海に投げ出されてしまいました。

生存者の内約10名が樫野埼灯台の下に流れ着き、数十mの絶壁をよじ登って灯台守に救助を依頼。


        

          現在の樫野埼灯台 この岸壁を登った!?


言葉は通じなかったものの、国際信号旗でオスマン帝国軍艦の遭難を知った灯台守は大島村(現:串本町)民にこれを伝えると、住民たちは総出で捜索・救助を行います。

この時村人は、台風で漁に出られなかったため食糧の蓄えも僅かだったにも関わらず、卵やサツマイモ、更には非常食用の鶏も供出して乗組員を介抱したとか。

その結果、残念ながら587名は死亡・行方不明になったものの、69名が救出されたのです。


このニュースを聞いた明治天皇は政府に出来る限りの援助をするよう指示し、新聞でこの事件を知った国民からは多額の義捐金が寄せられたといいます。


そして生存者は日本海軍の 『比叡』 と 『金剛』 に乗せられ、翌1891年1月に無事オスマン・トルコに送り届けられました。


この一連の救助活動が同国の新聞によってトルコ国民に伝えられたことが、日本(人)に対して親近感を持つきっかけになったのです。


更にその後日露戦争で日本がロシアに勝利すると、その圧政に苦しんでいたトルコ人はますます日本に好印象を抱き、日本海海戦のヒーロー・東郷平八郎元帥の名を取って、子供に〝トーゴー〟という名を付ける親が続出したといいます。

同国の小学校では、今でもこの事件を教科書に掲載して子供たちに教え、その恩義を忘れないように努めているとか。

その恩返しをしてくれたのが、今から35年前・1985年3月に起きたイラン・イラク戦争による日本人の救出作戦への協力でした。


※詳細はこちらの過去記事をご覧ください。 (




トルコ人が昔の恩義を忘れずにいてくれたおかげで、何百人という日本人の生命が守られた・・・といっても過言ではありません。

私はこのエルトゥールル号の遭難・救出事件を学校で教わった記憶はありませんが、幸いにも現在では一部の教科書に掲載されるようになったとか。

たとえ学校では教えずとも、2015年に双方の事件を描いた
『海難1890』という合作映画が公開されていますので、是非ご覧ください。

        

義理人情に篤いのは日本人が誇るべき徳性・・・35年前のイラン在留邦人脱出劇共々、こういう史実や恩義を忘れてはなりません。

私たちは、近くの反日国より遠くの親日国を大事にすべきなのですから
扇子


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撮り鉄

一口に鉄道ファンといっても、列車に乗ることを趣味とする〝乗り鉄〟や、走行音・発車メロディなどを録音する〝録り鉄〟など、様々なジャンルに分かれるそうな。

その中に列車の撮影を趣味とする〝撮り鉄〟とよばれる方々がいるのですが、昨今その一部のファンによる軌道内侵入などのマナー違反か問題視されています。

しかし実は、そのマナー違反による最悪の事故が起きたのは、最近のことではありませんでした。 その


京阪100年号事故

が起きたのは、なんと半世紀近く前の今日・・・1976(昭和51)年9月4日のことでした。

同日、東海道本線の京都駅~大阪駅間の開業100周年を記念して、梅小路蒸気機関車館に動態保存されていた蒸気機関車C57 1が客車を牽引して同駅間を往復運行することに。


    

このイベントに関しては数日前から在阪マスメディアが大々的に報道。


一部メディアが列車の通過予定時刻などを詳細に報じたため、当日は午前中から多くの鉄道ファンや野次馬が見物や撮影のために駅や沿線に繰り出しました。

国鉄では前年までに蒸気機関車の営業運行を終了していましたから、SL見たさに人が集まり報道のヘリコプターが上空から追いかけたのも当然のことだったでしょう。

※大阪駅でファンが撮影した京阪100号の動画が、こちら。(↓)



京都駅から大阪駅に向かった午前中は大きなトラブルはなかったのですが、復路の折り返し運転の際、茨木駅手前で当該事故は起きました。

    

                    ×印が事故地点

定刻よりも遅れて走行していたSLが千里丘-茨木駅間に差し掛かった時、多数の(当時はそんな単語はなかったでしょうが)撮り鉄が鉄道用地に侵入して写真撮影を行っていたとか。


そして当日は土曜日だったため、午前中で学校から帰った児童や生徒も沿線に姿を見せめ中、1人の小学5年生が周囲の人々の注意を無視して線路内に入り撮影をした挙句、逃げ遅れて列車と接触。

病院に搬送されるも、亡くなってしまったのです。

SLは高槻駅まで牽引したもののそこで切り離され京都駅までは電気機関車が牽引。

高槻駅に留まったC57は、夜間梅小路に戻されました。


国鉄では、SLの保存運行の本格実施を考えていましたが、この死亡事故が起きたことでほぼ断念。

まさに一部ファンの暴挙によって、贔屓の引き倒しとなりました。

そしてこんな悲劇が起きながら、
線路外からの侵入者対策はなおざりにされたまま。

1980年代に入って、線路の置き石が原因による脱線事故が起きてからようやく私鉄各社が路線にフェンス設置を始めました。

しかしいくらフェンスで囲っても、撮り鉄が線路に侵入するなどの迷惑行為は現在でも収まっていません。

やはりその原因は、道徳教育を軽視したことなのかも?


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閉 門

中高年世代の方なら、この事件名を聞いただけでその概要を思い出すことでしょう。 その


 神戸高塚高校校門圧死事件


が起きたのが、今からちょうど30年前の今日・1990(平成2)年7月6日のことでした。

神戸市西区にある同県立高校では生徒の遅刻を取り締まるべく、毎朝8時30分に学校入口の門扉を閉めていました。

この日も、8時過ぎから校門に3名の教師が立って監視を行っており、事件直前にハンドマイクで 「5秒前!」 などとカウントダウンを開始。

そして8時30分にチャイムが鳴ると同時に、教師の一人Hが、高さ1.5m・重さ約230kgの鉄製門扉をガラガラと閉め始めました。

H本人は、生徒の列が一旦途切れたのを確認してから閉めたと供述しているようですが、過去に生徒のカバンなどを挟んだことがありながら、門扉が重かったため下を向いて力を入れて閉めたとのこと。

そのため15歳の1年生が飛び込んできたことに気づかず勢いよく門を閉めたため、彼女は頭部を門扉と壁の間に挟まれてしまいます。

被っていたヘルメットが砕ける程の衝撃を受け、彼女は頭蓋骨を粉砕骨折。

搬送先の病院で午前10時25分、脳挫滅により死亡が確認されました。

ちょっと信じられないのは、こんな事故がありながら学校では当日行われていた期末テストを中止せず、更には門扉を閉めたHも試験監督を務めていたこと。

しかも学校側は警察の現場検証前に現場に付着していた女子生徒の血を洗い流し、彼女の容態を尋ねる生徒に 「重傷だが生命に危険はない」 と答えたと言いますから、呆れます。

       

偶然ですが、同校の校長は当該事件の起きた前年から兵庫県高等学校生徒指導協議会神戸支部長に、そして同校生徒指導部長は同協議会常任委員に就任しており、更に同校は当時全国で5校しか採用されていない学校安全に関する研究指定校でした。


そして同校が実施していた 「全教師による校門や通学路での立ち番指導」 は協議会で高く評価されていたそうですから、これらのことが生徒の安全より学校・教師側の体面を重んじる姿勢に傾かせた原因だったのかもしれません。

この事件に関し、
兵庫県教育委員会は同月26日、校門を閉めたH教諭を懲戒免職処分に、また管理責任を問い当時の校長を戒告(と同時に校長が提出した辞表を受理)、教頭と教育長を訓告、教育次長2名を厳重注意処分としました。

また11月には学校側が過失を認めた形で、兵庫県が女子生徒の遺族に損害賠償金6,000万円を支払うことで示談が成立。

※刑事事件として業務上過失致死罪で起訴されたH教諭に対しては、被告本人が無罪を主張したものの禁固1年・執行猶予3年の有罪判決が1993年に神戸地裁から出され、確定しました。

しかし事件の余波は、その後も続きます。

学校側は門扉を事件直後に撤去しようとしたものの、保護者や一部住民が反発して一時保留に。

上記H教諭の有罪判決を受けて再び撤去をPTAらに説明することなく記者会見で発表したことで再び紛糾しましたが、1993年7月に現場で小競り合いが起きる中、従来より小型・軽量の門扉に取り換えられました。

       

その後も門扉の撤去は不当だとして工事費などの返還を求める訴訟が起こされましたが、1999年に最高裁で住民の訴えが棄却され、ようやく決着。

まぁ訴訟まで起こして最高裁まで争ったのはごく一部の住民でしょうが、一体何のためにそこまでやったのか?

この事件が起きた原因には様々な要素が絡んでいますが、根本的には生徒が遅刻さえしなければこんな事には・・・って思うのは私だけ?


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因 縁

1923年に始まり、モナコ・グランプリ、インディ500と並び世界3大自動車レースに一つに数えられ、世界中の自動車メーカーが名誉をかけて凌ぎを削る


 ル・マン24時間耐久レース


歴史と伝統あるこの大会には、栄光と共に暗い過去もあるのです。


今から65年前の今日・1955年6月11日午後4時にスタートしたレースは、その約2時間半後に自動車レース史上最悪の事故に見舞われてしまいました。


この大会はジャガー(英)・フェラーリ(伊)・メルセデスベンツ(独)の3大ワークスの対決が注目されていましたが、事故は彼らが絡んだものでした。


フェラーリのエース、エウジェニオ・カステロッティと熾烈な首位争いをしていたジャガー車を操るマイク・ホーソーンが、周回遅れのオースチン車を抜いた直後にピットインするため急減速。


抜かれたオースチン車が追突を避けようとして左へ進路変更したところに後方から迫ってきたピエール・ルヴェーが運転するメルセデスベンツ車が乗り上げる形で衝突。


ベンツ車は空中に飛び上がってしまいます。(↓)


    


この直後コース左側のスタンド側壁に衝突したベンツ車は空中分解。


バラバラになった車体からエンジンやスプリングなどの部品が観客の頭上を襲い、車体は炎上。


逃げ惑う観客と燃え上がる炎・・・現場はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図。


※事故の映像を、こちらでご覧いただけます。(


ドライバーのルヴェーを含めレーススタッフ・観客合計86名が死亡、負傷者200名以上という大惨事になったのです。


    

           事故に巻き込まれたメルセデスベンツ車


しかし観客が一斉に帰路に着くと救急車の走行に支障をきたすと判断した主催者側は、レースを続行。


優勝したのは、皮肉にも事故のきっかけを作ったジャガーで、優勝トロフィーを受け取ったのはホーソーンでした。


事故原因については、亡くなったルヴェーが49歳だったため運動神経の衰えを指摘されるなど数々の仮説が唱えられましたが、5ヶ月の調査の末に査問委員会が出した結論は大会主催者及びレースドライバー・チームいずれにも過失なし、というもの。


しかし事故現場であったホームストレッチは車3台ほどの幅しかなく、しかも緩やかに右にカーブしていました。


コースが完成したのは自動車の最高時速が100kmの時代。


この日、事故が起きた瞬間のレーシングカーの速度は時速175km・・・コースが自動車の技術進歩に追いついていなかったことは明白でした。


そしてこの事故は、自動車レース界に様々な波紋を広げることに。


後日開催予定だったスペイン・西独のグランプリレースは中止。

仏・伊でも政府の許可が出るまでレースは開催できず、スイスではレース自体が禁止されました。


また事故の当事者だったメルセデス・ベンツ社はこの後30年にわたってレースから撤退。

更にはベンツ車のすぐ後ろを走っていて事故の一部始終を目撃した名ドライバーのファン・マヌエル・ファンジオは、翌年以降2度とル・マンには出場しませんでした。


そして3年半後、人々はこの事故の因縁を感じることに・・・。


このレースで優勝したホーソーンは、1958年にF1チャンピオンの座に輝き、栄光に包まれたまま引退を表明。


    
 
            John Michael "Mike" Hawthorn


しかしその3ヶ月後、彼は愛車ジャガーを運転中に前の車を追い越した直後にスピン。


時速150kmという猛スピートで公道を走っていたジャガーは立ち木にぶつかって大破し、彼は死亡してしまいます。


その時追い越した車が・・・・なんと、メルセデス・ベンツでした。驚き顔


それは、単なる偶然だったのか? それともルヴェーやベンツの怨念だったのか?


神のみぞ知るところですが・・・皆さんの判断は、如何に?

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二次災害

かつて私の故郷・長野から東京に出る際には、難所といわれる碓氷峠を越えなければなりませんでした。

今でこそ長いトンネルが貫通し、高速道路や新幹線を利用すれば2時間前後で東京まで行けますが、私が子供の頃はアプト式電車という動輪にギアがついた特殊な電車で急坂を昇り降りしなければならず、片道8時間半もかかったもの。

その(現在は廃線となっている)信越本線・軽井沢~横川駅のほぼ中間点にあった


 熊ノ平駅

で悲劇が起きたのが、今からちょうど70年前の今日でした。 


    


1893(明治26)年4月に信越本線の軽井沢~横川間が開通した際、熊ノ平は給水給炭所として設置されたのがルーツ。

1906年鉄道駅に昇格し、1937年には構内に熊ノ平変電所が設けられました。

そして1950(昭和25)年6月9日、同駅を悲劇が襲います。


       
            
アプト式電車が通過する熊ノ平駅


6月に入ってから碓氷峠周辺は降雨が続き、上旬だけで軽井沢測候所で150mmの雨量を観測。

そんな中、山の谷間につくられた熊ノ平駅を土砂崩れが襲いました。

まず8日午後8時半頃も構内の第10号トンネルで約3,000㎥の土砂が崩壊し、本線と突入線が埋没。

幸いこの時は人的被害はなかったのですが、その土砂の除去作業を行っている最中の翌9日午前6時6分頃、更にその上方の山肌から約7,000㎥の土砂崩れが発生、作業員や宿舎4棟を飲みこんだのです。


手作業で救出作業が行われましたが、更に11日・12日にも土砂崩れが発生。


最終的に死者50名・重軽傷者21名を出す大惨事となってしまいました。

信越本線が開通したのはそれから1週間以上経った6月20日、完全復旧したのは6月23日だったとか。

その後も熊ノ平駅は存続しましたが、1966年に信号場に降格。

1997年、北陸新幹線開通に伴う前述の信越本線廃止と同時に、同駅(信号場)も廃止となりました。

私が初めて上京したのは6歳の頃でしたから、少なくとも1度はこの熊ノ平駅を通過しているはず・・・ですが、当然のことながら全く記憶には残っていません。

しかし現在も国道18号線を利用してこの熊ノ平駅周辺の遊歩道に行くことが出来ます。

    

          現在の熊ノ平駅跡 右の白い建物が変電所

ここで、耳より(?)情報をひとつ。

実は同駅では、この土砂崩れ以前の1918(大正7)年3月にも機関車の故障による貨物列車の暴走・転覆事故が起き乗員・駅員4名が死亡(4名が負傷)していることから、心霊スポットとしても知られています。

これから夏場を迎え、避暑で軽井沢に行かれる方・・・もっと涼しくなりたければ、熊ノ平駅跡まで足を延ばしてみてはいかが?
 うー


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帰 還

今からちょうど50年前の今日、世界中の人々が3人の男性に注目していました。


「彼らが、無事地球に帰還して元気な姿を見せることができるのか?」


彼等が搭乗していた乗り物・・・それは


Apollo 13


そう、宇宙船アポロ13号でした。


アポロ11号が人類初の月面着陸を成功した後、アメリカでは立て続けに月面着陸を行うアポロ計画が進行していましたが、人々は同じ事の繰り返しに飽き始めていました。


ですから1970年4月11日に打ち上げられたアポロ13号に関しては、クルーたちの思いとは裏腹に殆ど世間の注目を集めていませんでした。

   

    左からスワイガート司令船操縦士・ラベル船長・ヘイズ着陸船操縦士


ところが、月に向かう途中の軌道上で酸素タンクが爆発 (※この事故状況・原因は後に判明) するというアクシデントに見舞われ、月面着陸どころか地球に戻ることすら危うい状況になったのです。


    


地上スタッフと、J・A・ラヴェル船長以下3名のクルーが知恵を出し合いながら、酸素・電力の節約を行いつつ、遂に4月17日午後6時7分、太平洋に着水。 


3名のクルーは無事地球への帰還を果たしたのです。


   


アポロ計画11~16号の中で、唯一月面着陸できなかった13号。


しかしその不可能に近かった飛行士の帰還を高く評価され、


  “successful failure” 輝かしい失敗、成功した失敗)


といわれました。


この史実は、アメリカ映画 『アポロ13』(1995年公開) で実際の映像やCGを駆使して描かれています。

        


トム・ハンクスを始め、多くの名優が演じる感動的な大作・・・アカデミー賞も2部門獲得していますので、多くの方がご覧になったことでしょう。


私はこの映画の中で、地上で指揮を執るグランツ主任を演じるエド・ハリスのカッコ良さにシビレました。笑2

 
※グランツ主任に関する過去記事は、こちら。(↓)



発射直前の確認作業から、打ち上げ成功までのシーンが、こちら。



そして彼が、最後に宇宙船が無事着水し、クルーの生存が確認された時に涙ぐむシーン・・・何度観ても、ジ~ンときます。泣き1


映画の中ではクルーが意見の対立や苛立ちから、険悪な雰囲気になる場面がありますが、ラヴェル船長本人によると喧嘩どころか感情的にもならず、与えられた課題を必死にこなしていて喧嘩するどころではなかったのだそうで・・・。


まぁ、言われてみれば当たり前かも。


一方で、ラベル夫人が自宅でシャワーを浴びている時に、結婚指輪を排水溝に流してしまう不吉なシーンがあります。 


少々ワザとらしい感じですが、こちらは実話だったんですって。


では最後に、お時間のある方は実際の映像や写真を集めたドキュメンタリー動画をご覧ください。


これだけの損傷を機体に受けながら、よくぞ無事帰還できたものだ・・・と感心すると同時に、いかに映画が忠実に当時の模様を再現したかを伺い知ることができます。




果たして、再び人類が月面に降り立つ日は来るのでしょうか?

いや、それよりも火星に行くことになるのかも・・・。
あせあせ


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カス欠

皆さんは、車を運転中ガス欠になったことがありますか?

幸いにも私は経験ないですが、中には高速で渋滞にハマッてガソリンが尽き、エンジンが止まってしまった・・・なんて方が、いらっしゃるかも?

でも自動車だったらJAFに連絡してガソリンを持ってきてもらえば済みますが、もし飛行中の旅客機がガス欠になったらタダでは済みません。

そんな在り得ない出来事が、今からちょうど30年前の今日・1990年1月25日に起きてしまいました。 それが


 アビアンカ航空52便墜落事故


この日、南米コロンビアの航空会社・アビアンカ航空52便(ボーイング707)が乗員9名・乗客149名を載せてコロンビアの首都ボゴタからニューヨークに向け離陸。

 

               52便と同型のB707型機


事故が起きる時は往々にしてそうですが、この日の同機にも様々なアクシデントが重なりました。

まずこの旅客機の自動操縦装置が故障していたため、機長は約6時間のフライトを全て手動操縦せざるを得ず、彼を含めた乗務員の疲労度が普段よりかなり高かったこと。

そして当日のアメリカは悪天候に見舞われたため各空港は混雑しており、同機はノーフォーク付近上空で19分、アトランティックシティー上空で29分も待たされ、更に着陸予定だったJFK空港上空でも約30分間旋回・待機させられました。

同機の副操縦士はジェット燃料が少なくなっていることに気づき、管制塔に「着陸を優先して欲しい」と連絡。

しかし彼はコロンビア人だったために英会話能力が十分でなかったため、その緊急事態が管制塔に伝わらず、単に順番を繰り上げられただけに留まってしまいました。

そしてやっと順番が来て着陸態勢に入ったところ、滑走路まで僅か数km、高度500フィートのところで突然乱気流に遭遇。

機体が急降下したため、機長は止む無く再び機体を上昇させました。

そして旋回して再び着陸態勢を取ろうとした時に燃料がなくなり、第3,4エンジンが、直後に第1,2エンジンが停止。

同機はグライダー状態となってJFK空港から24km離れたロングアイランドに墜落してしまったのです。

 

機体は前・中央・後部の3つに分割。

しかし不幸中の幸いだったのは、高度が低かったことと燃料タンクが空だったおかげで火災が発生しなかったこと。

そのため機長・副機長・航空機関士のピットクルーを含め73人の死者を出した一方で85人が生還できました。


事故原因に関しては、当然のことながら機長ら乗務員の燃料管理ミスが挙げられますが、それ以上にその緊急事態を管制塔に正しく伝えることが出来なかったことが大きかったとされます。

管制塔との無線通信は全て副操縦士が行っており、〝緊急(emergency )〟という用語は交信の際1度も使われなかったのですが、これはコロンビアの母国語であるスペイン語の〝優先(prioridad )〟には、英語の〝緊急(emergency )〟という意味合いも含まれるため、彼が直訳の英語〝優先 (priority )〟という単語を使ったことで意思疎通に齟齬が生じたのだそうな。

国によって表現が違うとはいえ、言葉って難しいですネ。

今後2度とこんな初歩的なミスによる事故は起きてもらっては困りますが、私には疑問がひとつ。

自動車の場合、燃料計はまだ残量があっても早めに警告灯が点きますけど、飛行機にはそういう〝気配り〟はなされていないんでしょうかネ?注意


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