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切 断

1月2日は、初夢・初荷等々1年の事始めの日。

おそらく彼らも初登りだったのかもしれませんが・・・今から65年前の今日・1955(昭和30)年1月2日に悲劇が起きてしまいました。

登山クラブ 『三重県岩稜会』 所属の石原國利(中央大学4年生、リーダー)、沢田栄介(三重大学4年生)、若山五朗(三重大学1年生)の3名が、北アルプスの前穂高岳・東壁を登攀中、若山隊員が50cm程滑落した際、新品の直径8mmナイロンザイルが切断し、墜落死。 


   


これが世にいう

 ナイロンザイル事件

の発端となりました。

ナイロンザイルは1952年頃から製造が始まり、従来のマニラアサ製ザイルに比べて軽量で柔軟性があり、かつ凍結しにくく安価であることが特徴。

日本山岳会のマナスル遠征隊に使われたことなどから次第に広まり、徐々にマニラアサ製に変わる存在になっていました。


しかしこの事故以前にも同様のナイロンザイル切断事故が複数起きていたことを知った若山隊員の実兄で旧制名古屋大学工学部出身の石岡繁雄さんは、ナイロンザイルの強度に疑問を持ちます。


       


そして実験を繰り返した結果、登攀時に鋭角の岩角にザイルがかかっている状態で人間の体重程度の負荷がかかると簡単に切断することを突き止めました。

一方、ナイロンザイル・メーカーの東京製綱は、日本山岳会関西支部長の篠田軍治・大阪大学工学部教授の指導により1955年4月に公開実験を行い、やはりナイロンザイルが数倍の強度を持つという結果を導き出して、「岩稜会は自分たちのミスをナイロンザイルに転嫁した」などと山岳雑誌などに掲載。

しかし実はこの実験に際し、メーカー側は秘密裏に岩角に丸みをつけていたのです。

岩稜会側は1956年6月に篠田教授を名誉棄損で告訴(※1年後に不起訴処分)し、その1ヶ月後にガリ版刷りの『ナイロンザイル事件』という310ページにわたる冊子を作成し、登山関係者や出版社に配布し、危険を訴えました。

この冊子の存在を知った作家・井上靖さんが朝日新聞に連載したのが、『氷壁』。


        


この作品により当該事件は多くの人の知るところとなりましたが、行政が動くことはありませんでした。

そしてようやく消費生活用製品安全法が制定され、ザイル(クライミングロープ)が対象となり、安全基準が公布されたのは、事故から20年経った1975年のことでした。

その20年間で20人以上の登山者がローブ切断で死亡しており、一方この安全基準公布後にザイル切断による死亡事故は起きていないとのこと。


また日本山岳会は、1977年版 『山日記』 に、「1956年版『山日記』の篠田の記述で多くの人に迷惑をかけた」と21年も経ってから〝お詫び〟を掲載。

つまらぬ権威主義(というか見栄)と緩慢なお役所仕事が多くの人命を失ったことを、忘れてはなりません。


※なお、切断事故を起こした実物のザイルが、長野県の大町山岳初物館に展示されています。(↓)

       


これから冬山に登る方は、くれぐれもお気をつけて!


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触 雷

1939年9月、ポーランドに侵攻したドイツに対しイギリス・フランスが宣戦布告したことで始まった、第二次世界大戦。

しかしその後も日本は商船を欧州航路で運航していたのですが・・・その中の


てる  くに  まる
照 国 丸


が機雷に触れて沈没したのが、今からちょうど80年前の今日のこと・・・これは第二次世界大戦勃発後に日本が喪失した最初の、そして日本が開戦する前に唯一沈没した商船でした。


  


大正時代、日本郵船は箱根丸級の船舶を4隻欧州航路に就航させていましたが、欧州各国の同業他社が新型の大型客船を導入したことで集客力が低下。

それを挽回すべく、1930(昭和5)年6月に全長160.59m、11,931トンの大型船・照国丸を就航させ、同クラスの靖国丸と2隻を従来の4隻に加え、横浜~ロンドン間で月2回の航海を行わせました。


照国丸の船内は基本的に洋風の装飾を施しましたが、特別室内には松田権六の蒔絵を取り入れるなど和風のインテリアを多用したことで、外国人にも好評だったとか。

そして同船は、前述の宣戦布告が行われた直後の9月24日に横浜港をイギリスに向け出港。

11月上旬にフランスのマルセイユに到着すると、ここで乗客の殆どが下船。


船内に残ったのは、乗客28名と乗組員176名のみとなりました。

しかしジブラルタル海峡では英仏の軍艦が行き来し、たびたび浮遊機雷警報が発せられたため、照国丸は見張りを増員したり乗客に対する避難訓練も実施するなど、船内は緊張状態に。

そして11月15日にモロッコのカサブランカを出港した同船は、予定より10日遅れ11月19日にイギリスのダウンズ泊地に到着。

本来ならばここで積荷検査を済ませた後にテムズ川沿いのロンドン港に入る予定でしたが、英海軍が機雷を発見したため航路を閉鎖。

翌日掃海作業が行われ閉鎖が解除されたため、照国丸は11月21日朝、指定された北航路を通ってテムズ川河口に向け、15ノット(時速27.8km)で進行。

見張りを5名増員して厳戒態勢での航海だったのですが、同日午後1時前・・・北緯51度50分・東経1度30分のハリッジ沖で触雷により突然船体に大きな衝撃が。


    

その直後照国丸は大きく右に傾き、船首から沈み始めました。

船長は一旦機関停止命令を出しましたが、沈没を防ぐべく深度の浅い海岸に座礁させようと機関再始動を試みるも、エンジンは始動せず。

航行不能となったため船長は即時退去命令を出し、船体が激しく右に傾く中、船員は迅速に救命艇5隻を降ろし、照国丸は沈没したものの乗客・乗組員全員の救助に成功しました。

この辺り、船長や乗組員が乗客をほったらかして逃げたどこぞの国とは大違いですネ。

しかし日本政府が国際法上の重大な違法行為だとして英独両政府にどちらの機雷が原因だったかの説明を求めましたが、両国とも責任のなすり合いをするばかりで、結局真相はウヤムヤのまま。

泣きをみたのは、日本郵船だけでした。

昔も今も、国際社会に於ける日本の立ち位置は殆ど変わっていないようです。
うー


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爪 痕

今月11~13日にかけて猛威を振るった台風19号は、日本各地に大きな被害をもたらしました。

個人的には、千曲川の堤防が決壊して付近一帯や北陸新幹線の車輛が水浸しになった映像は衝撃的でした。

なぜなら、現場は私の実家があった場所からさほど遠くなかったから。

あそこで氾濫が起きるなんて想像していた方は私を含め殆どいなかったでしょうから、不意を突かれた被災者のショックは大きかったはず。

被災地の一刻も早い復旧を願うばかりです・・・が、実は幸いにも自宅に被害がなくホッとしていた私にも、意外なところで影響が。

台風が夜半に通り過ぎた東京では13日朝から快晴でしたが、その日千葉の袖ケ浦CCで行われる予定だった男子ゴルフのブリヂストン・オーブンが早々と中止に。

それを知った私は心配になって朝メンバー・コースに電話すると、まだコースの状況が分からないとの事。

そこで翌日もう一度電話すると、

「おかげさまで、営業は出来ます・・・一応。」

ん? 一応? 

何か引っかかりを感じた私は、数日後自分の目で確かめるべくコースに出かけました。

平日にも拘わらず、お客さんもそこそこ入り受付も賑わっていたのを見て安心した私は、スタートホールへ。

すると、目の前のフェアウェーには、今まで見たことのない茶色の帯が・・・。

   

何と右側の斜面が崩れ、コースを横断する形で土砂が流れこんでいたのです。

驚く私に、コース係員が、

「ご覧の通りの状況ですので、ティーグラウンドを前に出させていただきました。」

つまりパー4のミドルホールを、土砂の先から打つパー3にしたってわけ。

カートに乗ってその前進ティーに向かうと、その爪痕がクッキリ。

  

土砂崩れは高さの3倍横に広がると聞いていましたが、この現場でもほぼその通りになっているのが分かります。

更に別のホールでも、やはりフェアウェー一面に土砂が広がっていましたが、これも画面左側の斜面の遥か上が少し崩れただけで、この有様。

  

あらためて、自然の驚異・猛威を目の当たりにした次第。

コースをクローズする程ではないにしろ、これだけの土砂を除去・コース修復するのは大変なはず。

果たしてスタートホールが再びパー4に戻るのは、一体いつになることやら?




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季節外れ

まだ梅雨入り前の時期ですが、今日は台風のお話です。

今からちょうど70年前の今日・1949(昭和24)年6月20日午後11時頃、まさに季節外れの


 デラ(Della )台風


が鹿児島に上陸しました。

※台風が人名から番号制に変わったのは、1953年から。

詳しくは、こちらの過去記事で。(↓)



6月17日に米軍機によってフィリピン東方沖で発見された同台風は、北北西に進路を取りつつ屋久島を通過し、そのまま紀伊半島に向かうと予想されました。

       


この台風の勢力は強く、21日午前2時頃の愛媛県・宇和島市で最大瞬間風速29.2m、佐田岬で38.5mを記録。

ちょうどこの台風が接近した時、宇和海では不漁続きだった漁民が無理を押して出漁していました。


そこに進路が変わった台風が直撃して海が大荒れとなり、死者・行方不明者211人を出しました。

中でも日振島での被害は甚大で、当時の人口約2,300人の内、106人・・・人口の5%近くが帰らぬ人に。

       

                  日振島の位置


また川崎汽船所有の旅客船 『青葉丸』(599トン)が警報を受けながら20日21時に高浜港を出港し、21日午前2時半に大分県姫島付近で転覆、乗員・上客141名が死亡または行方不明に。

21日6時頃に玄海灘から日本海に抜けた同台風による被害は、死者・行方不明者468名、負傷者367名。

全壊住宅1,410棟、半壊4,005棟、床上浸水4,627棟を数えました。


       

                    宇和島・加周海岸の様子


被害が大きくなった要因としては、まず当時はまだ離島や僻地には電気も通っておらず、台風情報が行きわたらなかったこと。

更にその地域の住民には、「梅雨時の6月に台風は来ない」という言い伝えが浸透していたことが挙げられるとか。

現代のように人工衛星から逐次情報が送られてくる時代ならぱ、船も出航せずここまでの被害にはならなかったでしょう。

とは言え、この台風が急に進路を変えたように、自然は人智を超えた活動をするもの。

まして地球が温暖化に向かい、温帯化しつつある日本列島では、ゲリラ豪雨などがいつ起きても不思議ではないですから。


今年は既に1・2月に1個ずつ台風が発生していますが、意外にもこれは例年に比べて少ない方。
2015年には1~6月までに毎月1,2個、計9個も発生しましたし、2004年には6月単月で5個も。


〝油断大敵〟・・・これが自然災害から身を守る心構えでしょう。うー


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悲 劇

航空機事故は、多くの人命を一度に失う悲劇ですが、時として組織やスポーツチームに壊滅的な打撃を与えます。

有名なものとしては、マンチェスター・ユナイテッドの選手過半数を失った、1958年の〝ミュンヘンの悲劇〟があります。(↓)



これより9年前・・・今からちょうど70年前の今日、イタリアの名門チーム・ACトリノの選手・監督・コーチの殆どを失う


 スペルガの悲劇
  Tragedia di Superga


が起きました。

ACトリノは、1908年にFC
トリノ (Foot Ball Club Torino)として創設されました。

1936年にACトリノ (
Associazione Calcio Torino) と名を変えた同チームは、1927-28、1942-43、1945-46、1946-47、1947-48と5回もセリエAで優勝し、〝グランデ・トリノ(偉大なるトリノ)〟と謳われた強豪チームでした。

    

         1948-49年、事故前のチーム・メンバー


しかし好事魔多し・・・その1948-49シーズンの優勝を目前にした1949年5月4日、ポルトガルのリスボンで行われた親善試合の帰路、チーム・メンバーを乗せたアリタリア航空のフィアットG212型機がトリノ上空で激しい雷雨に遭遇。

    
               
フィアットG212の同型機


コントロールを失った同機は、トリノ郊外のスペルガの丘に建つスペルガ聖堂の外壁に激突。

     


機体は尾翼だけが辛うじて原型を留めるのみで大破し、ACトリノの選手18名と監督・コーチ・チームフロントの5名と乗員他8名の搭乗者31名全員が死亡してしまいました。

    

犠牲者全員に対し国葬が執り行われ、チームはシーズンの残り4試合をユース・チームで戦わざるを得ませんでしたが、相手チームも敬意を表してユース・チームを出したことで、ACトリノは1948-49シーズンも優勝を飾ることに。

しかし犠牲者はチームのエースであったヴァレンティーノ・マッツォーラを始め、大半がイタリアの代表選手でしたから、チームとしてだけでなくイタリア・サッカー界にとっても大打撃となりました。


病気や家族の都合で運よく遠征に帯同しなかった2人を除きメンバーの殆どを失ったチームは、その後上手く再建が出来ず成績が低迷。

1959-60年にはセリエBに降格するなどし、再びセリエAで優勝したのは、事故から27年も経った1975-76シーズンのこと。

また事故翌年にワールドカップ・ブラジル大会に出場したイタリア代表は、痛ましい記憶から飛行機ではなく長旅の船で移動したこともあってか、予選リーグで敗退しています。

唯一と言っていい救いは、犠牲となったエースのマッツォーラの愛息アレッサンドロ(当時5歳)が、その後父親と同じくサッカー選手となってミラノの強豪・インテルに入団、1960~70年代にイタリアを代表するスタープレイヤーになった事でしょうか。

         




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脱 落

地上波のテレビ番組にはロクなものがありませんが、専門チャンネルで放映される番組には、中々の力作・秀作があります。

その中の一つに、カナダのシネフィックスが製作した、過去に世界各地で起きた航空事故を検証するドキュメンタリー・シリーズ『メーデー!航空機事故の真実と真相』(原題 
Mayday: Air Disaster )があります。

現在シーズン15まで製作されており、私もCSのナショナルジオグラフィック・チャンネルで何度も観ていますが、その栄えある(?)第1話に取り上げられた


 ユナイテッド航空811便貨物ドア脱落事故


が起きたのが、今からちょうど30年前の今日・1989年2月24日のことでした。


サンフランシスコからシドニーに向かっていたジャンボジェット(ボーイング747-122型・機体番号:N4713U)機は、途中ハワイ・ホノルル国際空港に立ち寄り、乗員18名・乗客337名を乗せ、1989年2月24日午前1時52分(ハワイ標準時)に同空港を離陸。

 
         
事故を起こしたジャンボジェット N4713U機


そしてその17分後の午前2時9分、同空港付近の太平洋上空22,000フィート(約6,700m)上空で突如ロックが外れ、貨物ドアが脱落したのです。


同時にドア周囲にも大きな穴が開いてしまい、急減圧が発生。

シートベルトをしていなかった乗客9名と固定されていなかった荷物が機外に吸い出されてしまいました。

その乗客数名と貨物を後部の第3・第4エンジンが吸い込んだことで損傷し火を噴いたため、機長は2つのエンジンを停止。

同時に緊急事態を宣言しホノルル国際空港に戻ると、第1・第2エンジンのみで何とか着陸に成功させました。


これにより、死者はこれだけの大事故にも関わらず吸い出された9名のみ、負傷者も35名に留まりました。
(※但し亡くなった方全員の遺体は発見されず。)


    


 ドアロックが外れた原因は、当初この4年前に起きた日航ジャンボ機123便・御巣鷹山墜落事故と同じ金属疲労と思われました。

しかし
実際は、電気システムの不具合によってドアをロックしていたアームが動いてしまったために外れたことが判明。

この原因を突き止めたのは、何と犠牲になった乗客の遺族でした。
まさに、〝執念〟ですネ。


実は、以前からボーイング747ジャンボ機では貨物室ドアの事故が多発していたとか。

にも拘らず、ボーイング社・ユナイテッド航空・アメリカ連邦航空局(FAA)は何ら対策を取りませんでした。

まさに人災だったんですネ。

この事故から私たち一般人の乗客が学ぶべき教訓は、ただひとつ。

〝席を立つ時以外は、必ずシートベルトを締めるべし!〟
うー


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松 明

”熱海〟と聞けば、多くの方は静岡県の温泉街を思い浮かべるでしょうが、実は福島県郡山市の猪苗代湖に近い場所にも、熱海という町があります。

  


ここで今からちょうど50年前に、当時戦後最悪の

 磐光ホテル火災

が起きたことをご存知の方は、いらっしゃるでしょうか。

(かく言う私は当時10歳でしたが、全く記憶にありません。)


同ホテルは、『磐梯観光株式会社』 という本社を東京・日本橋蛎殻町に置く不動産会社が、1963年に国鉄磐越西線・磐梯熱海駅近くの旅館を買収し、2年後に鉄筋コンクリート造4階建ての本館を建設して経営に乗り出したもの。

その後も新館・別館、更には演芸娯楽施設や食堂を含んだレジャー施設 『磐光パラダイス』 やホテルニュー磐光を約10億円の巨費を投じて建設。

山間部のひなびた温泉街に、客室数220・収容人員1,300人の豪華ホテルが誕生しました。

「来て見てビックリ」 をキャッチフレーズにした同ホテルの目玉は、キャバレーや温水プール・映画館・こどもの楽園などを要する 『磐光パラダイス』。

ここで行われるヌーディストクラブなどのユニークなショーが売り物で、週刊誌などで取り上げられた他テレビCMも流されたことで、それを見たさに連日首都圏から観光バスでお客がやってきたそうな。

しかし、その客集めのために行われていたショーが、結局は仇に・・・。

1969(昭和44)年2月5日夜、本来なら磐光パラダイスの3階で行われるはずのショーが、当日昼過ぎからの強風で屋根の一部が破損したため、急遽ホテル1階にある300畳敷の大広間で行われていました。

そしてそのショーの目玉は、午後9時過ぎに行われる予定だった(女性が全身に金色に塗って松明を手に踊る)金粉ショー。

おそらくそれは、1965年に公開された 『007 ゴールドフィンガー』 で全身を金色に塗られた女性が死んでいる有名なシーンをヒントにしたのでしょうが・・・そのショーでダンサーが使うベンジンを染み込ませた松明を、舞台裏での開演準備中に29歳のダンサーが不注意にもストーブのすぐそばに置いてしまったのです。

ストーブの熱で松明は発火・・・普通に考えれば消火器を使うはずですが、お客に気づかれたくなかったのか、なんとショーと同じように口で吹き消そうとしてしまいます。

それによって火の勢いは却って強まり、舞台の緞帳に引火。

ここで初めて舞台の幕を下ろして消火器を使いましたが、もう手遅れ。

舞台にいて異変に気付いた歌手が、マイクで 「火事だ!」 と叫んだからたまりません。

驚いたお客は一斉に逃げ始めて現場は大混乱。

1階での火災だから簡単に逃げられそうなものですが、煙で視界が悪く、またお土産店やゲームコーナーがあって通路が狭く入り組んでいたため、従業員の懸命な誘導にも拘われず、逃げ遅れた客が犠牲に。

 

               焼けただれたホテル全景

またこの火災は、あまりに多くの悪要素が重なっていたことでも特筆されます。

◆当日は強い低気圧の影響で大雪・強風注意報が出されており、その影響で度々館内は停電したため、その都度鳴る火災警報器を五月蠅いからといって切っていた。

◆出火当時は猛吹雪で路面が凍結していたため各地からの消防車(8台)やポンプ(42台)の現場到着が遅れ、なおかつ低温・強風で放水が飛散して火元に届かないどころか、吹き戻された水が消防隊員に当たって凍るなどまともな消火活動が出来ず。

◆ホテル館内には暖房がつけられていたため空気が乾燥しており、なおかつ使われていた新建材の可燃性が非常に強く、また有毒ガスが発生する素材だったために火の回りが早く被害を大きくした。


その他にも防火扉が設置されておらず、また防火シャッターも故障で動かなかったそうですから、実質的には燃え放題の状況。

鎮火は火災発生から9時間以上経った翌6日午前6時30分。

焼失面積は15,510㎡と、東京ドームのグラウンド面積1.2倍という広範囲に及び、当時の客数259名から死者30名(内25名はショー見物客とのこと)・負傷者35名を出す大惨事となりました。

 ※この火災に関するニュース映像を、こちらでご覧いただけます。



火災の翌日、松明をストーブのそばに置いたダンサーが重失火と重過失致死容疑で逮捕されたそうですが、実際に罪に問われたのは非常扉が開けられなかったり火災報知器が鳴らなかった等の管理責任を問われた総務課長で、禁固2年・執行猶予2年の有罪判決を受けています。

焼け落ちた同ホテルは全て取り壊され、その後新たに名古屋鉄道によって『磐梯グランドホテル』として再出発しましたが、2000年には閉鎖・解体され更地に。

しかし昨年5月に熱海町駅前市有地整備事業により複合施設 『ほっとあたみ』 が建設・オープンしています。


     


この新しい施設の利用客の内、この半世紀前の事故を知っている方は、果たしてどれ位いるのでしょうネ・・・。 うー


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暗 闇

私が小学生の頃、〝日本最長のトンネル〟は北陸本線の敦賀~南今庄駅間にある、全長13,870mの


 北陸トンネル

と習ったものでした。 


    

しかし1972(昭和47)年3月に16,250mの山陽新幹線・六甲トンネルが開通して日本一の座を奪われてしまいます。

それで気が抜けたというわけではないでしょうが、その8ヶ月後・・・即ち今から46年前の今日・1972(昭和47)年11月6日未明に、このトンネル内で乗員1人を含む30名の犠牲者と714人もの負傷者を出す列車火災事故が起きました。


電気機関車に牽引された客車15両編成の大阪発・青森行き夜行・急行列車 『きたぐに』 が走行中、無人だった食堂車(11号車)の喫煙室から出火。 (※原因は、椅子下にあった電気暖房装置のショート)


 

これに気付いた乗客の通報を受けた車掌がかけた非常ブレーキと機関士の急ブレーキにより、列車は午前1時14分に敦賀側入口から5.3km地点で緊急停車。

「なぜトンネル内で停車させたんだ?」

と不思議に思う方、私を含めて多いと思います。 


しかし当時の運転規定では、それが正しい措置でした。


これに先立つ1962(昭和37)年5月に起きた『三河島事故』(死者160名・負傷者296名を出した列車多重衝突事故)以来、国鉄は

『事故が起きたら列車を直ちに停車させ、危険がなくなるまで走らせてはいけない』

と運転士らに徹底指導していたのです。

 ※『三河島事故』に関する過去記事は、こちら。(↓)



しかしそれは〝膾に懲りて羹を吹く〟的なワンパターン・マニュアルであり、トンネル内や鉄橋上など様々なケースにきめ細かく対応した指示ではありませんでした。

換気のできない長いトンネル内で停車したため消防署の消火活動も出来ず、また高熱によって漏水誘導用樋が溶け落ち、架線に触れてショートを起こして停電したため、列車は身動きが取れない状態に。

更に悪いことに、トンネル内の照明は「運転士の信号確認の妨げになる」という組合側の要望により消されており、中は真っ暗闇。


更に深夜で乗客の殆どが就寝中だったため、現場は混乱の極に・・・死者30名・負傷者714名の大惨事となってしまいました。

       


乗客の多くはトンネル内を徒歩で逃げようとしましたが、不幸中の幸いだったのは同時刻に反対の上り線を急行 『立山3号』 が走行していたこと。

一旦赤信号で停車したものの、信号が青に・・・異常を感じた運転士が午前2時頃に徐行でトンネル内を進行したところ、前から逃げてきた乗客を発見したため停車してドアを開放。

225人を救助して逆走し、トンネルを抜けたのです。

もしこの運転士の機転がなければ、犠牲者はもっと増えた可能性大。

しかし国鉄の対応の遅れ等があり、第二次救援列車がトンネル内に入ったのは事故から4時間以上経過した午前6時30分過ぎ。

犠牲者は、全員が一酸化中毒死でした。


「電化トンネル内では火災など発生しない」


と高をくくっていた国鉄は、この事故後火災実験などを通して車両の難燃化および消火器の設置、トンネル内の点灯、またトンネル内や鉄橋上で火災が発生した場合は停車せず安全な地点まで走行するよう、大きくマニュアルを改訂。


しかしこの事故が、国鉄や組合の安全に対する意識の欠如と慢心による人災であったことは明らか。

高速道の屋根落下など、大きな事故が起きて犠牲者が出なければ改善しない・・・という後手後手の対策は、残念ながら現在まで変わっていません。

人間は、いつになったら先手を打てるようになるのでしょう?うー


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尻 餅

御巣鷹山に墜落した日航ジャンボ機の事故については、皆さんもご存知のことでしょう。

その原因については、機体後方の圧力隔壁の損傷により垂直尾翼と補助電源装置が脱落したこととされていますが、その誘因となったのが今からちょうど40年前の今日起きた


 日本航空115便しりもち事故

いわゆる〝尻もち着陸〟でした。

1974年1月に初飛行した当該機(ボーイング747 SR-46 機体番号JA8119)は、より収益を上げるため航続距離を縮めるかわりに通常366人乗りのところを座席数を162増やし528人乗りに改造していました。


     

           事故前の1977年に撮影された同機


そして1978(昭和53)年6月2日、東京(羽田)を離陸し大阪に向かった同機・115便は、伊丹空港に着陸する際に機体尾部を滑走路面に接触させてしまったのです。

この際機体がバウンドし、乗客3名が負傷。

そしてこの時に機体尾部の圧力隔壁が損傷し、メーカーのボーイング社に修理を依頼したのですが、その修理が不適切だったのです。

本来なら金属板を重ねてボルト固定すべきところを、一部別の金属板を当てがったことで金属板の特定箇所に余分な力が加わったことで金属疲労を起こし、あの御巣鷹山への墜落に繋がったと言われています。
 (※下図・赤い矢印部分)


     



実際、御巣鷹山の墜落前から同機には既に不調が起きていました。

修理後、トイレのドアがきちんと閉まらないというクレームが、御巣鷹山の墜落事故の半年前までに28件も報告されていたのです。

しかし、根本的な点検・修理は行られぬまま・・・あの史上最悪の墜落事故は、完全なる人災だったのです。

それから、もう一点。

同機は、大阪でのしりもち事故の後、御巣鷹山墜落までの間にもうひとつ事故を起こしていました。

1982年8月19日に、羽田空港を離陸した同機が千歳空港に着陸する際、視界不良とパイロットの判断ミスにより滑走路の右に逸れ、第4エンジンが地表に接触、着陸をやり直していたのです。

自動車でも、何度も事故に遭うクルマがあるっていう話、聞いたことありませんか?

もしかしたらこのジャンボ機も、何かに憑かれていたのかも・・・。うー


 


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脱 線

戦後、国鉄は 『洞爺丸事故』、『鶴見事故』 など多くの犠牲者を出す大事故をたびたび起こしました。

※洞爺丸事故に関する過去記事は、こちら。(↓)



そして、その〝戦後国鉄5大事故〟のひとつに数えられる

 三河島事故

が起きたのが、今から56年前の今日のことでした。


事故現場は、国鉄(現・JR東日本)常磐線の三河島駅構内。

    

1962(昭和37)年5月3日午後9時30分過ぎ、貨物線から進行方向右側の下り本線に進入しようとした田端操車場発水戸行きの下り第287貨物列車(蒸気機関車D51牽引の45両編成)が、出発信号機の停止信号を通過して安全側線に進入し、脱線。

先頭の機関車とすぐ後ろに連結されていたタンク車が下り本線上に飛び出してしまいました。

そこに下り本線を走行していた6両編成の取手行き第2117H電車が突っ込み、先頭と2両目の車両が脱線し上り本線上に飛び出してしまいます。(下図・上)

更にその7分後、その現場に今度は9両編成の上野行き上り第2000H電車が進入。

先に脱線した下り電車から降りていた多数の乗客を刎ねた上、2117Hの先頭車両と衝突し、1両目全部と2両の前部は粉砕・破壊され線路わきの倉庫に突っ込み、3両目も転落、4両目も脱線したのです。(下図・下)


 


事故当日は東北地方で発生した地震と、東北本線・古河駅で起きた脱線事故の影響でダイヤが乱れており、最初に脱線した貨物列車も遅れていたため、通常通り過ぎる三河島駅で停車し2117H電車に追い越しさせる予定でした。

しかし機関車の運転士が黄色信号を見落として駅構内に減速せぬまま進入してしまい、赤信号を見て慌ててブレーキをかけたものの停車できず駅を通過してしまったのが、最初のミス。

そこに2117H電車が進入し衝突したのですが、この時点では死者も重傷者もいませんでした。

しかし先頭車両が停電して暗くなったため、9年前の1951年4月に起きた炎上した車輛に閉じ込められた乗客が106名も亡くなった 『桜木町事故』 を憶えていた乗客が、非常用コックでドアを開けて外に避難。

そこに事故発生を知らなかった2000H電車が・・・運転士が線路上を南千住方向に歩く乗客を確認して非常ブレーキを掛けましたが間に合わず、乗客をはねながら、2117Hの1両目に激突したのです。

その結果、最初の信号見落としから悪いタイミングが重なったこの3重衝突・脱線事故は、死者160名・負傷者296名を出すという大惨事となりました。


その中には、脱線した電車から外に出ようとして、誤って高架下に転落した方もいらっしゃったとか。


    

この事故に関しては、最初の衝突から上り2000H電車の進入までの約6分間、列車防護の措置を怠ったとして貨物列車の機関士と機関助士、2117H電車の乗務員、三河島駅助役・信号掛に禁固3~8ヶ月の有罪判決が出されました。

ひとつの救いは、この重大事故を契機として自動列車停止装置(ATS)の設置が急ピッチで行われ、1966年までに一応の整備が完了した事。

とは言え、その後も列車の暴走・衝突事故が根絶されたわけではありませんが・・・。


    

                  ATS設置例

余談ですが、この事故に巻き込まれ犠牲になった芸能人がいました。

それは
当時人気漫才コンビであった栗友一休・三休の、一休さん。

相方の三休さんのショックはさぞ大きかったと思いますが・・・彼こそは、後に照代さんとコンビを組んで夫婦漫才師として復活した春日三球さんでした。


       


列車事故で相方を亡くしながらも、地下鉄ネタで人気を博すとは・・・まさに見上げた芸人根性と言えましょうか。

しかし珠代さんは、1987年に番組収録中クモ膜下出血で倒れ、そのまま帰らぬ人に。

再び一人取り残されピン芸人として頑張っていた三球さんは、今もご存命とのこと。

あらためて84歳になられた三球さんのご長寿と、この事故の犠牲者の方々のご冥福をお祈りしたいと存じます。
笑3


 


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