FC2ブログ
鳥 人

1977(昭和52)年から夏に琵琶湖で開催され、読売テレビ(日テレ)系列で放送される『鳥人間コンテスト選手権大会』・・・毎年楽しみにしている方もいらっしゃるでしょう。

「空を自由に飛びたい」という願望は人間なら誰しも持ったことがあるでしょうし、それを具現化したこの番組が40年以上にわたり続いている人気番組であることが、それを証明しています。

この番組の中で最も飛行距離が長い〝人力プロペラ機ディスタンス部門〟がありますが、ここで飛ばされる


 人力飛行機

が日本で初めて飛んだのが、今から55年前の今日でした。


この人力飛行機制作にチャレンジしたのは、日本大学工学部教授で、後に初の国産旅客機〝YS-11〟開発にも関わった日本航空学会の重鎮・木村秀政氏。


       

 ※YS-11に関する過去記事は、こちら。(↓)



人力飛行機に関しては、過去世界中で制作が試みられてきましたが、1959年に〝クレーマー賞〟から人力飛行機の開発に懸賞金がかけられたことから開発が本格化。

そして1961年にイギリスのサザンプトン大学が初の飛行に成功し、翌年には同じくイギリスのデ・ハビランド飛行機会社の開発チームが910mを記録。

このニュースを聞きつけた木村教授が、卒業研究のテーマとして人力飛行機を取り上げることに。

学生たちは熱心にこの課題に取り組み、遂に1966(昭和41)年2月27日・・・3年がかりで開発した〝リネット号〟が僅か15mながら飛行に成功したのです。(世界で4番目)


    

既に複数の飛行機開発に携わっていた木村教授ですが、この時は学生達と握手したり肩を叩いて喜びを分かち合ったそうですから、本当に嬉しかったんでしょうネ。

以来木村教授の研究室では毎年卒論研究としてほぼ1機の割合で人力飛行機の制作に取り組み、代々課題を継承しながら改良を重ねていきました。

その結果、1976(昭和51)年に〝ストーク号〟で446mの日本記録を、そして翌年には〝ストークB号〟で2,093m・滞空時間4分27秒という当時の世界記録を叩き出したのです。


彼等は前述の〝鳥人間コンテスト〟で第10回から新設された人力プロペラ機ディスタンス部門にも参加し、第11回から3連覇するなど優勝候補の常連でしたが、ここ最近では2016年を最後に優勝からは遠ざかっています。

現在の世界記録は、マサチューセッツ工科大学の飛行距離115km。

そして日本記録は、日大チームが出した飛行距離49.172km。

フロンティアとしてのプライドにかけて、是非日大チームには世界記録の更新を期待したいところです。


              人気ブログランキング

スポンサーサイト



青 黴

皆さんの中にも、お世話になった方がいるかも・・・その抗生物質、


 ペニシリン

  penicillin


の臨床実験が世界で初めて成功したのが、今からちょうど80年前の今日でした。


この世界初の抗生物質を1928年に発見したのは、イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミング博士(1881~1955)。

       

                Sir Alexander Fleming


博士が実験室にあった廃棄前の培地を整理しようと何気なく観察していたところ、黄色ブドウ球菌が一面に生えた中で、黴(カビ)の周囲だけが透明で最近の生育が阻止されているものを見つけました。

       


これにヒントを得た博士は、青黴の濾過液に抗菌物質が含まれていることを突き止め、これを青黴の属名・Penicillium に因んでペニシリンと名付け、論文を発表。


この偶然の発見には、実験室がいつも雑然としていたことか幸いしたようですが、彼はこの他にリゾチームという抗菌物質も偶然発見しています。


運が良い科学者だったと言えましょうが、もちろん運だけでなく人一倍優れた観察眼や発想があったのは間違いないでしょう。

しかしその彼も、ペニシリンの精製・実用化までには至らず。 


この画期的な抗生物質の実用化に貢献したのは、英オックスフォード大学で研究をしていたオーストラリア人のH・W・フローリーとドイツ出身のE・B・チェインの2人。

  

      Howard Walter Florey       Ernst Boris Chain


2人は1940年にペニシリンがペニシリンG・ペニシリンNなどの混合物であることを突き止め、翌1941年2月12日に同大学付属病院で人体臨床実験に初めて成功したのです。


その後ペニシリンの大量培養法が開発され、同時期に勃発した第二次世界大戦において利用されたことで、多くの兵士たちの命を救いました。


人類にとって大きな福音となったペニシリンの発見・開発が高く評価され、フレミング・フローリー・チェインの3名は1945年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。


一方日本では、大東亜戦争中の1943年にドイツの医学雑誌から情報を得た陸軍軍医学校で開発が始まり〝碧素(へきそ)〟と命名され数人の患者に投与がなされましたが、残念ながら大量生産に至らぬまま終戦。


1946年から占領軍が招聘したアメリカ人研究者の指導の下、日本の製薬会社が生産を開始し翌年から全国の病院を通じて広まったとのこと。


現在は点滴や経口薬など様々なペニシリン系の抗生薬が開発・利用され肺炎・中耳炎や梅毒に至るまで様々な病気治癒に役立てられていますが・・・当然のことながら、この薬にも副作用があります。

確率は0.01~0.001%と非常に低いのですが、〝アナフィラキシー・ショック〟を引き起こすケースが報告されており、1956年には東大教授が歯の治療中に注射による〝ペニシリン・ショック〟で死亡し社会問題になったこともあったとか。


万能薬であっても、100%安全なものはなし。

やはり薬は用法・用量を守り、医師の指示に従って服用しなければいけませんネ。


              人気ブログランキング

放射線

9年前の東日本大震災によって福島第一原発事故が起きた後は、盛んに〝ベクレル(Bq)〟という単位がニュースで流れました。

これは放射能の強さを表す単位で、放射性物資から1秒間に放射線が何回出るかを表すもの。

例えば10ベクレルとは1秒間に10回放射線を出すということ。

(※ただし、放射線にはα線・β線・γ線などの種類によって身体に対する影響が違うため、それを表す単位としてつくられたのが、〝シーベルト〟。)

今日は、この単位に名を残す、放射線を発見したフランスの化学・物理学者

 アントワーヌ・アンリ・ベクレル
      Antoine Henri Becquerel


の命日にあたります。


       


1852年に祖父も科学者、父親も光化学の研究者という学者の家系にパリで生まれたベクレルは、エコール・ポリテクニークで自然科学を、国立土木学校で工学を学び、蛍光物質の研究を専攻しました。


1895年にドイツのレントゲンがX線を発見すると、同僚のポアンカレからレントゲンの論文を受け取った際、

「X線が蛍光を生じるなら、蛍光から何らかの放射線が発生するかも」

と言われたことをキッカケに、ベクレルはウラン化合物に日光を当てるとX線が発生することを証明すべく日々実験を繰り返しました。

そして1896年2月、曇天のため実験を中止した彼は、ウラン化合物と写真乾板を一緒に机の引き出しにしまったのですが・・・数日後にその引き出しを開けると、光が当たっていないのに乾板が黒く感光しているのを発見。

       

科学の世界ではよくある〝偶然〟ですが、これが放射線の発見でした。


そしてコレに注目したのが、あのキュリー夫人。

新しい論文のテーマを探していた彼女は、「面白そうじゃないか」と言ってくれた物理学者の夫ピエールと共に実験に明け暮れ、遂にポロニウムとラジウムという新しい放射性元素を発見。

その功績により、ベクレルとキュリー夫妻は1903年にノーベル物理学賞を受賞しました。

       

            マリー・キュリー と ピエール・キュリー


当時は新発見として世界的に注目され、ウラン薬とかラジウム注射、放射性歯磨きや放射性ヘアクリームなんて商品が出回ったそうな。

つまり、その頃はまだ放射能が人体に悪影響を及ぼすことが知られていなかったのです。
 (有害であることが判明したのは、1920年代以降。)

当然発見者の彼らも、そんなことはつゆ知らず。

べクレルはキュリー夫人からもらった塩化ラジウムをガラス管に入れて持ち歩き、人に見せびらかしていたそうですから。

またキュリー夫人が書き残したノートは、100年経過した現代でも安易に手で触れられない程被ばくしているとか。

その被ばくが原因だったのでしょう・・・ベクレルはノーベル賞受賞から5年後の1908年8月25日に55歳で急死。

キュリー夫人も1911年に2度目のノーベル賞を受賞したものの、1934年に再生不良性貧血により66歳で亡くなっています。

彼らの発見と自己犠牲によって原子力エネルギーは実用化に至っていますが、果たしてこの〝諸刃の剣〟は今後人類にどんな影響を及ぼすのでしょうか?


              人気ブログランキング

客 星

皆さんは、〝おうし座〟という星座をご存知でしょうか?

オリオン座の隣に位置し、1等星のアルドバランなどで形成され、日本では〝昴〟と呼ばれ富士重工業のロゴマークにもなっている〝プレアデス星団〟など有名な天体が多い星座なのですが・・・位置は、こんな感じです。(↓)

 

さて、そのおうし座の右角の先に赤いポチ印をつけましたが、ここにあるのが〝かに星雲〟(M1)。

望遠鏡で初めて観測された時、カニに見えたことからこの名がつけられたそうですが、これは超新星


 SN1054

が爆発した時の残骸だとか。

その客星(突然現れて消える新星や彗星)の爆発が初めて観測されたのが、星に名付けられた数字の如く今から966年前の今日・1054年7月4日のことでした。

宋の歴史書 『宋史』 には、この日天関星(おうし座)付近に客星が現れ、2年近く経った1056年4月5日に見えなくなったと記されています。

また同じ宋代に編纂された 『宋会要』 には、突如現れた客星は金星のように明るく、なんと23日間に渡って昼間でも見えたと書かれているそうな。

昼間でも見えるくらい明るく輝く星・・・ちょっと見てみたいですょネ。


そしてこの客星に関する記述は、日本にも残されているのです。

それは、小倉百人一首を選じたことで有名な、藤原定家が書き残した日記・『明月記』。


       

先にご紹介した 『宋史』 とほぼ同様の記述があるそうです・・・が、実はこれ、ちょっとおかしいんです。

というのは、定家が生まれたのは1162年(1241年没)であり、この客星が現れてから108年後のこと。

ですから、彼自身は実際に見ていないのです。


従って正確に言えば、定家自身が日記に記したわけではなく、当時の陰陽師・阿部泰俊から受け取った書状を日記の紙継ぎの部分に挟みこんだ由。

当時の日記は子々孫々に儀式の詳細を書き残すために書かれており、客星の出現は天変地異と密接に関係していると信じられていることから、定家はその史実を調べ後世に語り継ごうとしたのでしょう。

ですから客星については、この1054年以外のものに関しても書き残されているのです。

自然に対する畏怖の念が、その日記には込められていると言えましょうか。

※宋と日本では発見されていたのに、なぜか西洋ではこの客星に関する記述は残っていないのだそうです。


        


(↑)の画像はNASAが撮影したものですが、普通の天体望遠鏡では小さな白い塊にしかみえない〝かに星雲〟は、地球から約7,000光年の距離にあり、今でも毎秒1,100kmの速さで四方に膨張・飛散を続けてるそうな。

因みに1光年とは、約9兆5千億km。
毎秒1,100kmということは1日で約9500万km、1年で約346億km。

ということは、地球にその破片が到達するのは、何年後・・・いや、何万年後?

どうぞ、計算してみてください。


 

                人気ブログランキング

軌 道

我が国の宇宙(ロケット)開発は、糸川英夫博士のペンシルロケットから始まったことは、既に拙ブログでご紹介しました。(↓)




そして東京大学宇宙航空研究所によって、鹿児島県にある内之浦宇宙空間観測所から初の国産人工衛星

 おおすみ

の打ち上げが成功したのは、ちょうど50年前の今日のことでした。

       


人工衛星打ち上げは、1966年から観測用ロケットL-3H型に補助ブースターと姿勢制御装置を搭載したL-4Sロケットで実験を開始。


4回の発射実験を経て、1970(昭和45)年2月11日・・・同ロケットの最上段(4段目)に(直径48cmの球形固体モーターに円錐台状の計器類を装着した)全長1m・全重量23.8kgの小さな人工衛星を搭載したL-4Sロケット5号機の打ち上げに見事成功。

    


〝おおすみ〟と命名したのは、当時開発チームを率いた玉木章夫氏。

困難な開発を支え励ましてくれた内之浦を中心とする人々への感謝の気持ちを込め、研究所のある大隅半島に因んで名付けたとか。


しかし風の影響と第4段の推力過剰により当初予定された軌道から多少ズレた楕円軌道に乗り、また機体が想定以上にの高熱になったことから電池の消耗が激しく、約15時間後に電力供給が途絶えたため、電波の送信も終了してしまいました。

それでも〝おおすみ〟は約33年間軌道を飛行し続け、2003年8月2日にエジプトとリビアの国境付近の上空で大気圏に突入し燃え尽きました。

    


人工衛星の自力打ち上げはソ連・米国・フランスに次いで4番目の快挙でしたが、その3ヶ国にない特徴がありました。

それは、他国が弾道ミサイルすなわち軍事開発の副産物として人工衛星打ち上げ技術を習得したのに対し、日本は大学の付属研究所が民間技術として研究を行い、非軍事目的での人工衛星開発に成功したこと。

そして日本国内では軍事技術への転用も行いませんでした。

いわゆる純粋なる平和的研究というわけです。

また打ち上げたL-4Sロケットには誘導制御装置が付いておらず、世界初の無誘導衛星打ち上げロケットでもありました。

しかしこれは決して開発能力が無かったわけではなく、「誘導装置はミサイル開発に繋がる軍事技術への転用が可能だ」という指摘が野党の日本社会党等からなされたため、開発が大幅に遅れたから。

近年、複数の大学が 「研究は平和利用目的に限る」 などと声明を発表しています。

その理念は理解できるしご立派だとは思いますが、本当にそれで良いのでしょうか?

米ソの宇宙開発競争は実質的に軍事開発と結びついていましたし、多くの国の科学研究も然り。

日本の脅威である隣国の宇宙開発や急激な軍事費増大を目の当たりにしながら、
そんな綺麗事を並べていて十分な国防ができるとは思えないのですが・・・。


              人気ブログランキング

2番目

今からちょうど50年前の今日、

 アポロ12号

Apollo 12

の月着陸船が、無事月面着陸に成功・・・アポロ11号が人類初の月面着陸に成功してから約4ヶ月後のことでした。

※アポロ11号に関する過去記事は、こちら。(↓)



同号に搭乗したのは、船長ピート・コンラッド(下写真・左)、司令船操縦士リチャード・ゴードン(同・中)、月着陸船操縦士アラン・ビーン(同・右)の、いずれも海軍出身の3名。


     


同年11月14日、アポロ12号はニクソン大統領が現地に駆け付け見守る中、予定通りケネディ宇宙センターから発射されました。

しかし当日は暴風雨だったため、発射から36.5秒後にロケットに雷が直撃。


更に52秒後に2度目の直撃を受けたため、計器が故障するトラブルに見舞われます。


その危機を管制官ジョン・アーロンとビーン飛行士の経験と冷静な判断・操作によって切り抜けると、同号は予定通り飛行を続行。

1969(昭和44)年11月19日に着陸船イントレビットは無事〝静かの海〟への着陸に成功しました。


11号はアームストロング船長の手動により予定地からかなり離れた場所に着陸しましたが、12号はその課題の一つであった〝目標地点への正確な到達〟を、降下操縦の殆どを自動で行ってほぼ達成。

コンラッド船長が月面に降りた時の第一声は、


「ウヒョー! ニールよりチビの俺にとっては、これは大きな一歩だ。」

という、11号のアームストロング船長の有名な言葉を皮肉ったものでした。

着陸船は31.5時間月面に留まり、2回の船外活動を通して、岩石の採取や原子力で茶道する地震・太陽光・磁場の測定機器の設置、更には以前無人着陸していたサーベイヤー3号の部品を持ち帰るなど、科学的には一定の成果を上げました。

 


ただ反面、初めてカラーのテレビカメラを持ち込みながら誤って太陽光に向けてしまったため撮影できなくなったり、せっかく月面で写真撮影しながらそのフィルム数巻を月面に置き忘れるなど、飛行士のチョンボもありましたが・・・。


宇宙船は89時間月軌道上を飛行した後、地球に帰還。

11月24日太平洋上に着水し、3飛行士は無事生還しました。

(と言っても、ビーン飛行士は着水時のショックで落ちてきた16mmカメラが頭に当たり、6針縫う軽傷を負い、一時気を失ったそうですが。)


それなりのドラマと成果を残した12号ですが、11号の陰に隠れてしまい飛行士の名前さえ憶えている人は殆どいないはず。

やはり2番じゃダメなんでしょうネ。

更に言うなら、次に月面着陸を目指したアポロ13号が船体のトラブルによって奇跡の生還を果たし映画化までされたことも、更に拍車をかけた感が。

その12号の飛行に関しては、その映画 『アポロ13』 (1995年)で主演したトム・ハンクスが製作総指揮と番組内でのナビゲーターを担当したテレビドラマ 『フロム・ジ・アース/人類、月に立つ』(1998年)でその一部を観ることができます。

同番組の再放送を観る機会があったら、この地味なアポロ12号を思い出してください。
笑2

              人気ブログランキング

生 体

〝臓器移植〟は、今や一般的に認知されている医療技術。

我が国における心臓移植は、1968年に札幌医科大学の和田寿郎教授によって行われたことは、以前拙ブログにて記事にしました。(↓)



同記事に書いた通り、この移植手術に関しては後日様々な疑惑が噴出し告発に至ったこともあり、日本国内では脳死判定基準が問題になりました。

また1984年には筑波大学の深尾立教授が脳死判定による膵臓・腎臓の同時移植を行いましたが、患者が死亡したことで執刀医らが殺人罪で告発されたことも・・・。

この脳死判定について明確な基準を示した
脳死臓器移植法が施行されたのは1997年になってからであり、それまで日本の臓器移植技術は大きく世界に後れを遅れを取ったといわれています。

しかし、この脳死判定とは関係なく行える臓器移植があります。 


その健常人の部分肝臓を用いる


生体肝移植

が日本で初めて(世界で4例目)行われたのが、今からちょうど30年前の今日・1989(平成元)年11月13日のことでした。

執刀したのは、島根医科大学(現・島根大学医学部)の永末直文助教授。(1942-)

死体からの肝移植が世界で初めてアメリカで行われたのは、1963年。 (日本で初めて行われたのは、翌1964年。)

そして生体肝移植が初めてブラジルで行われたのは、それから25年後の1988年でした。

つまり日本では、その翌年に行われたことになります。

この時は肝移植を学ぶためスウェーデンに留学経験がある永末助教授が、先天性の胆道閉鎖症に苦しむ1歳の杉本裕弥ちゃんに、父親の肝臓1/5を切除し移植したものでした。


       

                          永末助教授と裕弥ちゃん


この日、まだ手術中の段階でNHKが日本初の生体肝移植手術が行われていることを報じ、以後メディアの報道は過熱。

無事手術は成功しましたが、その後島根医大や永末教授は連日記者会見を開き、裕弥ちゃんの病状と父親の回復状況などを公表する羽目に。

しかしこれがそれまで閉鎖的だった医学界の現状打破のキッカケになったともいえます。


残念ながら裕弥ちゃんは元々病状が重かったこともあり、術後285日後の翌年11月3日に息を引き取りました。

しかし彼の存命中だった1990年8月に京都大学で2例目の生体肝移植が行われ、以降全国に術例は広まり、現在では移植患者の1年以上生存率は80%を超えているとか。


日本の肝移植は現在のところ、生体肝移植が中心で行われています。(↓)

 


2017末までに成人・小児を合わせた総移植数は9,242例あり、初回移植8,936、再移植291、再々移植は15例。


死体移植は各364・74・9例、生体移植が各8,572・217・6例。

圧倒的に生体肝移植が多く、年間約400例の生体肝移植が日本で行われている計算になります。


死体移植が少ないのは、臓器移植を届け出るドナー数が少ないこと。

2015年まで
日本の提供数315件に対し、アメリカはその80倍近い24,980件だったそうですから、その差は歴然。

「でも生体肝移植できれば、それでいいじゃない。」


と仰る方もいるでしょうが、身体にメスを入れるドナーにも負担がかかるデメリットはあります。

日本人には欧米人と違う死生観・倫理観がありますのでそう簡単にはいかないでしょうが、肝臓だけでなく心臓や他の臓器・角膜など、それを必要としている患者さんの数が圧倒的にドナー登録者数を上回っている現状も認知していただきたく・・・。

もっとも、息子・太郎氏から生体肝移植を受けて生き長らえながら反日発言を繰り返す河野洋平(敢えて敬称略)の醜態を見ると、私は腹立たしくて仕方ないですが。
うー


              人気ブログランキング

証 明

皆さんは、20世紀最高の物理学者アルベルト・アインシュタインの名をご存知だと思います。

そして彼が唱えた最も有名な学説が〝相対性理論〟であることも。


        


これには彼が1905年に発表した特殊相対性理論と1915~16年にかけて複数の論文で発表した一般相対性理論の2つがあります。

※アインシュタイン及び相対性理論に関する過去記事は、こちら。(↓)



ところが、この一般相対性理論を彼が発表した時はちょうど第一次世界大戦の真っ最中だったため、ドイツで発表されたこの画期的な理論は世界的に知られることはありませんでした。

しかし今からちょうど100年前の今日、その一般相対性理論が正しかったことが証明され、世界中がこの話題で持ち切りに。

その証明を行ったのは、前述の過去記事にも書いた通りアインシュタインではなく、別人。 

それはイギリスが生んだ天体物理学者、


 サー・アーサー・スタンレー・エディントン (1882-1944)


Sir Arthur Stanley Eddington


        


2歳の時に学校の校長をしていた父親を亡くしたエディントンは、姉2人と貧しい母子家庭で育ちましたが、非常に聡明な子供でした。

1898年に奨学金を得て16歳の時にマンチェスター大学オーウェンズ・カレッジに入学し物理学を専攻した彼は、1902年に特優の成績で理学士の学位を得て卒業。

更に奨学金を得てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学し1905年に卒業したものの、その後は熱電子放流や数学の分野に進んだものの、芳しい成果は出せませんでした。

しかし大学を離れ王立グリニッジ天文台々長の助手長職を得たことが、彼の運命を大きく変えることに。


1907年に2つの星の見かけの移動量に基づいた新しい統計的手法を編み出して 『スミス賞』 を獲得した彼は、その功績によってトリニティ・カレッジの特別研究員に。

更に1904年にはケンブリッジ天文台々長に指名され、王立協会会員にも推挙されるなど、トントン拍子に出世。

第一次世界大戦中は、彼が科学分野における重要な科学者であると仲間が軍にかけあったため、兵役を免除されてもいます。

まさに芸は身を助けた形ですが、その彼が大戦終了後の1919年5月29日・・・アフリカ・プリンシペ島で日食を観測。


       


<

太陽付近に見える恒星の写真を撮影し、本来の位置から僅かにズレがあることを突き止めたのです。


これによって一般相対性理論で唱えられた〝重力レンズ効果〟即ち太陽の重力場で光線が曲げられることが証明されたのです。

    

この結果が新聞報道されたことで、一般性理論はアインシュタインの母国ドイツだけでなく英語圏でも紹介され広く知られるように。

その時の報道で、〝相対性理論を理解してるのは世界で3人だけ〟などと報じられ、それを聞いたエディントンが

「はて、(アインシュタインと自分以外の)3人目は誰なんだろう?」

と冗談交じりに答えたとか。

そんな彼はその後相対論の講義を平易な言葉で行うと同時に、講義の内容を 『相対論の数学的理論』 という著書にまとめ、アインシュタインから

「このテーマについてあらゆる言語で書かれた本の中で最も素晴らしい解説書」

というお墨付きをもらっています。

    

            アインシュタイン(左)とエディントン

しかし一方で、やはりアインシュタインが一般相対性理論の中で唱えた〝ブラックホールの存在〟に関し、1930年にインドから来た留学生がその存在を理論的に指摘した際、彼はそれをロクに検討せず頭ごなしに否定。

そのためその留学生の指摘は日の目を見ることなく、ブラックホールの研究が1960年代に入るまで行われなかった、という負の遺産も残してしまいましたが。

こういう話を聞くと、いかに優秀な科学者も神様ではないし、下手な権威付けは時として文明や化学の進化にとって足かせになることが分かりますネ。
うー


              人気ブログランキング 

露 光

現在は、誰もが携帯電話やスマホで気軽に日々写真を撮影し、それをSNS上にアップし楽しむ時代ですが、その昔はカメラで撮影するものでした。

そのカメラも時代と共に進化してきましたが、初めて実用的なカメラが完成したのは、今からちょうど180年前の今日でした。

発明したのは、


 ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール

 Louis Jacques Mandé Daguerre


という、フランスの画家。

       


1787年に生まれたダゲールは、フランス初のパノラマ(回転)画家だったピエール・プレボに弟子入りし、パノラマ画や建築技術を学びました。

1822年には照明効果を駆使して像が動いているように見せるジオラマの劇場をパリに造り、人気を博したとか。

その彼が写真を発明するきっかけとなったのは、彼よりも先に写真技術の研究を始めていた発明家ニセフォール・ニエプスと出会ったこと。

彼と共同で研究を進めたダゲールは、1824年に最初の写真術であるヘリオグラフィーを発明しました・・・が、これは露光に8時間も要するという、非実用的な代物。

その後1833年にニエプスが亡くなった後もダゲールは露光時間を短縮するべく研究を続行。

そして1839年3月19日に、露光時間を10~20分に短縮した銀板写真の発明に成功しました。

このカメラは彼の名を取って〝ダゲレオ・タイプ〟と呼ばれ、フランスの代表的科学者フランソワ・アラゴのアドバイスでその特許権を終身年金を受け取る条件でフランス政府に売却。

そしてフランス政府がその技術を公開したおかげで、この画期的なカメラ技術は世界に広まりました。

       


           1839年製のダゲレオタイプ・カメラ

最終的に露光時間は1~2分に短縮されたそうですが、この銀板写真は複製ができなかったため、主として風景撮影や肖像写真に利用されました。

冒頭のダゲールの肖像写真も、このダゲレオタイプで撮影したもの。

また日本で初めて1857年に撮影された島津斉彬公の肖像写真も、このダゲレオ・タイプで撮影されています。


※その島津公の写真に関する過去記事は、こちら。(↓




この写真技術は、それまで活躍していた肖像画家の収入を脅かしたわけですが、反面科学者にとってはその実験結果などを証拠画像として正確に残してくれる画期的な発明だったとも言えます。

画家としてよりカメラにその名を歴史に残したダゲールですが、現在の銀板はおろかフィルムを使わないデジタルカメラを見せられたら、一体どんな反応をするんでしょうネ?
笑2



               人気ブログランキング 

加減乗除

皆さんは、普段計算する時に何を使っていらっしゃいますか?


私が小学生の頃は、そろばんでした。 


今でも店先で、大きなソロバンをはじいているご年配の方も稀に見かけますが・・・殆どの方は 電卓を使っているでしょうし、最近は携帯電話やスマホを使っている方が多いようですネ。


電子式卓上計算機


これを略して〝電卓〟と言いますが、この単語は正式名称として認定されているんですョ。


世界初の電卓はイギリスで1962年に真空管を使ったモノが発表されていましたが、その2年後・・・今から55年前の今日・1964(昭和39)年3月18日に、早川電機(現・シャープ)が世界初の商用化製品としてオールトランジスタ電卓CS-10Aを発表したのです。

(※同日にソニーも電卓開発を発表していますが、こちらは試作品段階でした。)


           
                  
早川電機 CS-10A


同年6月に発売されたこの電卓は20桁もあり、それまでの電動式のものに比べて計算速度が早く、騒音・振動がないのが特徴だったそうです。


とは言え、加減乗除の四則・・・すなわち [+・-・×・÷] しか出来ないのに重量が25kg もあり、しかもその価格が535,000円!


当時は乗用車1台が買えるお値段だったとか。驚き顔    


    


さすがにこんな高価な電卓を個人で買った人は殆どいなかったでしょうが、それでも人気を博したそうな。

その後の開発競争は凄まじく、トランジスタ → IC → LSI へと半導体の発展とともに軽量・小型化、低価格化が急速に進みました。


1970年前後には〝電卓戦争〟なんて呼ばれた時期もありましたが、中でも画期的だったのは、同じカシオが1972年に発売した『カシオミニ』。

サイズは従来製品の1/4以下で、価格1/3以下12,800円。

当時流行っていたボウリングの計算用に開発されたこの製品は 「答え一発、カシオミニ」 のCM効果も相まって大人気を博し、発売後10ヶ月で100万台を販売。


多くのメーカーが市場から撤退する程のインパクトがありました。


        カシオミニ


電卓が正式名称になった、今からちょうど40年前の1979年・・・私が大学生時代に野球でブラジルに遠征した際には、手土産で持って行った乾電池式の電卓が非常に喜ばれたことをよく憶えています。笑2


また、クレジットカードと同じ大きさの極薄電卓を見た時は、「とうとうここまで来たか」と、本当に驚いたものです。


現在は用途に合わせて関数計算や分数計算が出来るものなど、様々な電卓が出回っています。


確かにそれらが便利なツールであることは間違いないのですが。子供の頃 「ご破算で願いましてぇは~・・・」 なんて、そろばん教室に通ってパチパチやっていた頃の方が、はるかに脳ミソを使っていたように感じるのは、私だけ?

現に麻雀の点数計算を暗算でスラスラ出来たのは、そろばんを習っていたから。


「利便性が増す程、人間の能力は退化する」 というのが私の持論ですが、やはり子供の頃は敢えてそろばん使わせた方が良いのかも・・・。



                人気ブログランキング