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焼 失

京都に観光旅行をされる方なら、必ず足を運ばれているであろう

 金 閣 寺


    


正式名称:鹿苑禅寺・・・実は、今私たちが見られる金色に輝く舎利殿は、再建されたもの。

室町時代、足利義満によって建てられたものではありません。

なぜなら、今からちょうど70年前の今日・1950(昭和25)年7月2日未明に、全焼してしまったから。


    

原因は、放火。 


当時21歳だった同寺の見習い学僧・林承賢による犯行でした。


この火災により舎利殿の他、国宝・足利義満の木像など文化財6点も焼失。 


辛うじて当時取り外してあった頂上の鳳凰のみが被災を免れました。


林青年は、裏の山林で服毒し腹を切って自殺を図り倒れていたところを逮捕され、一命を取り止めたのです。


舞鶴市内にある禅寺の僧侶であった父の許に生まれた林青年は、成績優秀だったものの吃音があったため周囲からからかわれ、人付き合いがうまくできなかったとか。


病気がちだった父親は自らの死期を悟ってか、我が子の将来を託すべく面識のない鹿苑寺の住職に弟子入り志願の手紙を出し、それが受理されて林青年は入門を許されます。 

(父親はその後まもなく病死。)


しかし1943年4月に金閣寺で得度式を行い、一旦帰郷して1年後に金閣寺入りした彼は、住職の好意で大谷大学予科に進学したものの、成績が急降下。


吃音に対するコンプレックスが酷くなったのか、はたまた住職の叱責に自分が金閣の住職になる道を絶たれたという不満と絶望からか・・・彼は、「火災報知機が壊れている」 という老案内人の言葉を聞き、火をつける決意を固めたとか。


息子に大きな期待を寄せていた母親は、京都府警に呼び出しを受け上京した際に面会を希望したものの、息子はそれを拒否。

失意の中、彼女は帰宅途中に汽車から投身自殺を遂げました。


そして林青年も懲役7年の実刑判決を受け服役、恩赦による出所後まもなく肺結核により26年の短い人生の幕を閉じています。


彼の内面をこれ程まで卑屈にさせたのは、己に対するコンプレックス・母親との確執・周囲の環境や人間関係などが混ざり合った結果だったのかも。


焼失する前は金箔が剥がれ落ちていた舎利殿でしたが、集まった浄財等により1955年に復元。

(その復元なった金閣寺の写真を、林青年は「無意味なことだ」と言って見るのを拒否したそうな。)

そして1987年には総工費7億4,000万円をかけて金箔全面張り替え工事が完成し、1994年には世界遺産の指定を受けました。


郷里・舞鶴の墓地に、並んで葬られているという林母子・・・あの世から現在の光り輝く金閣寺を、どんな思いで見下ろしているのでしょう。

いや、やはり目を背けているのかも・・・。


この放火については、偶然事件の6年前に林青年と出会ったという作家・水上勉氏が出生地などを取材し彼を知る人の証言を集めて書き上げた


 『金閣炎上』  (新潮文庫・刊)


       


というノンィクション小説を上梓しています。 


また、三島由紀夫氏もこの事件を題材に

 『金閣寺』 (新潮文庫・刊)


       


を著しており、中にはこれを三島作品の最高傑作と評する向きも。

興味のある方は、事件の深層を探るべく読み比べてみてください。

読み終わってから見る金閣寺は、より一層輝いて見えるかもしれません。

いや、もしかしたらその逆?うー

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乱 入

皆さんは、今から71年前の今日・・・終戦後間もない1949(昭和24)年6月30日に起きた


  たいら
 平 事 件


をご存じでしょうか?

同年4月に、日本共産党福島県石城地区委員会が横2.4m×縦1.8mという大型の宣伝用掲示板を設置すべく、平市警察に道路一時使用許可を申請。

警察側は一旦許可したものの、予想外に人が集まり交通に支障をきたしたため、6月25日に許可の取り消しを、更に6月30日午後4時までに撤去するよう通告したところ、これを「政治活動に対する弾圧だ」として共産党が反発。

6月30日午後3時半頃、共産党員と在日本朝鮮人連盟所属の朝鮮人約300名がトラックに乗るなどして平警察署に押しかけます。

署長は代表者との話し合いに応じたものの、彼らはそれで収まらず、労働歌〝インターナショナル〟を歌いながら署内に乱入。

署員に殴る蹴るの暴行を加えてガラスを次々と割り、約80名が所長室に乱入。(↓)

    


更に留置場にも侵入し、拘留されていた被疑者らを解放して逆に警察官を閉じ込めるという乱暴狼藉ぶり。


その上署長の辞任を要求するなどしましたが、午後11時頃に警察の応援部隊が来るという情報がもたらされ、現場から立ち去りました。
(数日後には駐在所が襲撃され、駐在警官が自殺しています。)

その後平市警察署は捜査本部を設置。


県警から約700名の警官の応援を得て231人を騒擾(そうじょう)罪【※1995年から騒乱罪に改称】の容疑で逮捕し、159人を起訴。

最高裁まで争われた結果、有罪が確定しました。

拙ブログでこの事件を取り上げたのは、まず共産党と朝鮮人が密接に繋がっており、彼らが騒乱罪で摘発される犯行を繰り返してきた歴史があることを知っていただきたいから。

騒乱罪が適用された案件としては、1952年に起きた 『血のメーデー事件』・『大須事件』・『吹田事件』 がありますが、そのいずれにも彼らが絡んでいます。


 ※日本共産党の歴史については、こちらの過去記事を参照。(↓)




過去記事のとおり、日本共産党は1922(大正11)年に設立されましたが、その当初から朝鮮の独立を綱領に掲げており、1930年代から日本在住の朝鮮人共産主義者は続々と日本共産党に所属。


同党系労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、最盛時の1931(昭和6)年時点で組合員3万人の内3割が朝鮮人だったとか。

その蜜月関係は、1955(昭和30)年1月に在日朝鮮人との連携解消を宣言したことで終わりを告げました・・・が、同党はこういった過去の暴力事件に関して一切口をつぐんだまま。

そのくせ、現在に至るも暴力革命を目指すことに変わりはありません。

だから同党は公安調査庁の調査対象団体になっているのです。

かつて日本を震撼させ混乱を引き起こした共産党と在日朝鮮人が依然として我が国に存在していることを、私たちはしっかりと認識すべきなのです。うー


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制 圧

過去我が国では様々な人質事件が発生しましたが、今から25年前の今日・1995(平成7)年6月21日に起こった


 全日空857便ハイジャック事件


は、個人的に印象深い出来事として記憶に残るものでした。


乗客・乗員365人を乗せた羽田空港発・函館空港行きのジャンボ・ジェット機は、同日午前11時45分頃にオウム真理教信者を名乗る中年男性によってハイジャック。


犯人はサリンを所持していると言って乗務員を脅し、東京に引き返すよう執拗に要求しましたが、結局函館空港に緊急着陸。


食料の差し入れや人質の解放を頑なに拒否し膠着状態が続きましたが、事件発生から16時間後の翌日午前3時42分・・・夜明け前の夜陰に乗じて警察が突入を決行。


僅か2分で呆気なくハイシャック犯は逮捕され、事件は解決。


    


犯人はオウム信者ではなく精神疾患で休職中だった53歳の某信託銀行員であり、所持していた透明な液体はサリンではなく、ただの水でした。


            


事件としては比較的早期の解決となったこの事件に関して、印象深い理由は2つ。


まずひとつは、乗客の中に歌手の加藤登紀子さんがいたこと・・・ではなくて、同乗していたバックバンドのメンバーが所持していた携帯電話でトイレから警察に通報したこと。




それによって犯人が1人である等の情報が警察に伝わり、事件の早期解決に貢献したから。


携帯電話の普及が、事件・事故の解決に大いに役立つことを教えてくれました。

現代は誰もがスマホによる動画撮影をしていますから、その貢献度は更にアップしていると言えましょう。


そして2つ目は、突入時に活躍した特殊部隊SAP Special Armed Police ) の存在を知ったこと。


1977年に起きたダッカ日航機ハイジヤック事件で、日本は超法規的措置により犯人の要求を受け入れて逮捕されていた過激派グループのメンバーを釈放し、国際的な非難を浴びました。

 ※ダッカ日航機ハイジャック事件に関する過去記事は、こちら。(↓)



ところがその1ヶ月後に起こったルフトハンザ航空機ハイジャック事件において、西ドイツ政府は犯人の要求を拒否した上で人質救出に成功。


この時に強行突入を成功させたのが、1972年のミュンヘン五輪におけるイスラエル選手団人質事件を教訓にして同国に創設された特殊部隊〝GSG-9〟でした。


これを見た警察庁は同年11月にハイジャック対策を主要任務とする特殊部隊を警視庁と大阪府警に設置。


1980年代から警視庁の部隊がSAPと呼ばれていましたが、その存在はあくまで極秘でした。


その彼らがこのハイジャック事件で機内への突入を果たしたのをテレビカメラが捉えたことにより、その存在が初めて明らかになったのです。


    


現在はSAT(Special Assault Team ) と改称 (※正式名称は特殊部隊) され、警視庁・大阪府警・北海道警・千葉県警・神奈川県警・愛知県警・福岡県警・沖縄県警に総勢約300人が配備されているとのこと。


イザという時に、頼りになるはずです。

とは言え、彼らが出動する状況にならないことが、ベストですが・・・。

余談ですが、犯人のコバヤシサブロウ(搭乗者名簿にそう記されていましたが、これは偽名)は札幌高裁で懲役10年を言い渡され収監されたものの、既に出所しているはず。

本名は非公開で分かりませんが、生きていれば現在78歳。
どこで、何をしているのやら・・・。

それと民事裁判で命じられた全日空への賠償金5,300万円、ちゃんと支払ったのかどうか?


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通り魔

その犯行内容の異常性・残虐性から、今もって殆どの方の記憶に残っているであろう

 秋葉原通り魔(無差別)殺傷事件

が起きたのは、今から12年前の2008(平成20)年6月8日のこと・・・犠牲者にとって、今日は十三回忌にあたります。

日曜日だった当日午後0時30分過ぎ、多くの人でごった返している秋葉原の歩行者天国で、その惨劇は起こりました。


    

元自動車派遣工員の加藤智大(ともひろ 当時25歳)が当日沼津で借りたレンタカーの2トントラックで現場に乗りつけ、赤信号を無視して道路に突入。

青信号で横断中の歩行者5人をはね飛ばし、内3人を死亡させ2人にケガを負わせると、トラックを降り、手にしていたダガーナイフで通行人や道路に倒れ込んだ被害者の救護に駆け付けた警察官らに手当たり次第に襲い掛かり4人を殺害、12人に重軽傷を負わせました。


       

その直後、近くの万世橋署から駆け付けた警官が犯人を追跡、路地で追いつき抵抗する犯人に銃口を向け制止。

現場に居合わせた非番の警官と共に身柄を確保した映像は、当時多くの方がテレビ等でご覧になったことでしょう。


       

犯行時間は僅か3分程…その間に死者7名・負傷者14名を出すという日本犯罪史上類を見ない凶悪犯罪であり、その一方で犯人がSNS上に犯行予告を出すという、それまでにない犯行パターンが注目されました。

またこの直後暫くの間歩行者天国が中止されたり、その後同事件を真似た通り魔・無差別殺人事件が起きるなど、様々な形で社会に影響を与えた事件でした。


3ヶ月にわたる精神鑑定の結果、責任能力ありと判断されたことから、東京地検は加藤容疑者を殺人・殺人未遂・公務執行妨害・銃刀法違反で起訴。

2015(平成27)年2月に最高裁が 「動機に酌量の余地は見いだせず、死刑を認めざるを得ない」 として、一・二審の死刑判決を支持して加藤被告の上告を棄却する判決を言い渡し死刑が確定していますが、現時点においてまだ執行はされていません。

個人的にはこの死刑判決は当然であるし、なぜ判決確定後5年以上も経過しているのに執行されないのか不思議ですが・・・それとは別に、私には怒りを禁じえない事実が。

それは、マスメディアの横暴。

この事件後、(一部ではその教育方針が犯人の歪んだ性格を形成したと指摘されていた)母親が精神病を患い入院したとか、父親が会社を辞め実家に引きこもった等々報道されました。

それはまだしも、私が許せないのは犯人の実弟が(一部)マスコミに執拗に追い回されたことで仕事を転々と変えざるを得ず、その挙句2014年自殺に追い込まれたこと。

これはメディアによる殺人と見て然るべき。

普段何かあると、やれ人権がどうのこうのと騒ぎ立てるくせに、自らそれを侵害して罪のない人を死に追いやり、またそれを他のメディアは黙殺し互助会精神を発揮しているのです。


私たちはこの悲惨な事件から様々な教訓を得ると同時に、マスメディアを厳しい目で監視しなければなりません。うー

最後に、あらためて当該事件で命を落とされた犠牲者のご冥福をお祈り致します。

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広 場

今からちょうど70年前の今日、

 人民広場事件

が起きました。 名称からして支那の事件だと思われる方もいらっしゃるでしょうが、場所は日本。

では人民広場って、どこ? 

実は、皇居前広場だったのです。

       


敗戦翌年の1946(昭和21)年、戦後初の中央メーデーが皇居前広場で開催され、以後4年間毎年開催されていました。

それ以外にもその4年間で各種集会が40回も行われ、共産党を中心とする左翼勢力の間では、皇居前広場を〝人民広場〟と呼ぶように。

ホント左翼って人民とか市民って言葉が好きですネ。

しかし日本を占領・統治し民主化・非軍事化を進めていた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は彼等左翼勢力、とりわけ共産党の台頭を危惧。

1950(昭和25)年5月3日、同党の非合法化を検討している旨の声明を発表。

当然のことながら、共産党は激しく反発。

翌月4日に参院選を控えていたこともあり、同党は民主民族戦線東京準備会を指導して、同年5月30日に皇居前広場(人民広場)で大規模な人民決起大会を開催しました。

その最中、私服警官の潜入を追及したことをキッカケに警備をしていた占領軍と小競り合いとなり、民主青年団東京都委員長ら8人の労働者・学生が逮捕されたのです。


共産党は翌々日の6月1日に参院選の選挙妨害だとGHQを批判。


しかしアメリカからすれば、これは日本人が米兵を攻撃し負傷させた占領史上初めての事件であり、しかもその年の5月30日は同国にとって戦没将兵を追悼する〝メモリアル・デー〟(毎年5月り最終月曜日)でしたから、最悪のタイミング。

アメリカ国内でもこの事件が大きく報道されたため、マッカーサーはGHQの威信をかけて厳正な処理を行うよう指示。

事件翌日の31日に逮捕された8名は軍事裁判にかけられ、6月3
日に重労働10年などの有罪判決が下されました。

また警視庁は6月2日、GHQからの要求により当分の間東京都内の一切の集会・デモを禁止。

更に同月6日には日本共産党中央委員会委員24名の公職追放と、機関紙 『アカハタ』 の発行禁止命令を出し、レットバージを本格化させました。

とは言え、現在も公安調査対象団体たる共産党は、公党であり続けています。

この時強権を発動して共産党を非合法化していれば、この2年後に『血のメーデー事件』も起きなかったでしょうし、未だに日本の足を引っ張り続ける同党を潰せていたはず・・・そう残念がる人は、私だけではないでしょう。

 ※『血のメーデー事件』に関する過去記事は、こちら。(↓)


ちなみにその後皇居前広場において、大規模な政治集会は行われていません。

それだけが、救いです。


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未 遂

日本近代(犯罪)史を紐解くと、しばしば〝大逆(事件)〟という言葉を目にします。

この〝大逆(罪)〟とは、大日本帝国憲法下に於いて、天皇・皇后・皇太子等の皇族の命を狙ったり危害を加えたり加えようとする、最も重い罪のこと。


過去にこの大逆罪を適用された事件は


◆1923(大正12)年・・・虎ノ門事件
◆1925(大正14)年・・・朴烈事件
◆1932(昭和7)年・・・・桜田門事件(過去記事 ↓)

  https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12240959273.html


といくつか起きていますが、これらより前・・・ちょうど110年前の今日起きた

 幸徳(秋水)事件


が、一般的に〝大逆事件〟と呼ばれています。

この事件の首謀者は、その名称の通り社会主義者・無政府主義者の幸徳秋水


        


秋水(本名:傳次郎)は1871(明治4)年、現在の高知県四万十市で酒造・薬種業を営む地元の名家に生まれました。

1887年に上京し、同郷・中江兆民の門弟となって新聞記者を目指します。

そして板垣退助が社長を務める 『自由新聞』 等に勤務した後、1898年に我が国のゴシップ報道の先駆といわれる 『萬朝報』 の記者に。

1901年に結成された社会民主党に創立者として参画すると、非戦論から開戦論に転じた 『萬朝報』 を辞めて、堺利彦らと平民社を設立し、週刊平民新聞を創刊。

その後1904年に堺と 『共産党宣言』 を翻訳発表するも、即日発禁。

翌年に新聞紙条例違反で投獄されて以降無政府主義に傾くと、出獄後渡米。

サンフランシスコで地震に遭遇し、市民が自助努力する様子を見て無政府共産制実現の可能性を見ると、帰国後にはゼネラル・ストライキによる直接行動論を提唱し、岩佐作太郎と共に社会革命党を結成。

1909年には 『自由思想』 を発刊したものの、またも即日発禁に。

そして赤旗事件で入獄していた荒畑寒村の妻・管野スガと不倫関係になり、3月に妻・千代子と離婚するのですが・・・これが彼の運命を狂わせることに。


そして1910(明治43)年5月25日から、明治天皇暗殺計画に関与したとされる幸徳秋水・管野スガ・宮下太吉・新村忠雄・古河力作の5名らを始め、多数の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まったのです。

翌年1月18日に死刑24名・有期刑2名の判決が下り、同月11日に秋水ら11名が、25日に管野スガが絞首刑に処せられました。


 

これが幸徳(秋水)事件、または大逆事件と呼ばれているのですが・・・実は秋水は主犯でも直接暗殺計画に関わったわけでもなく、単に著作に専念していただけ、という説があります。

実際に爆裂弾を作り爆破実験を行ったのは宮下であり、その実行計画が練られたのは平民社だったのですが、当時その平民社で秋水とスガが同棲していたのだそうな。

であれば計画そのものを知っていた可能性は強いですが、実行犯でなかったとしたら、とんだトバッチリ・・・。

以前拙ブログでご紹介した、『天粕事件』で殺害された大杉栄もそうですが、なぜか左翼・無政府主義者って女性関係が・・・ねェ。
うー




身から出た錆・・・と言っては、あまりに詮無いでしょうか?

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報道協定

私のような昭和世代の方は、誘拐事件というと1963(昭和38)年3月に起きた 『吉展ちゃん事件』 を思い出す方が多いと思います。

この事件が起きた直後に、通っていた幼稚園で 「知らないおじさんについていっちゃ、ダメですョ」 としつこく注意されたことを憶えています。

しかしこの事件以前に、その後の誘拐捜査や報道の在り方に問題点を投げかけた誘拐が起きていました。

それは、今からちょうど60年前の今日・1960(昭和35)年5月16日に発生した


 雅樹ちゃん誘拐殺人事件

当日朝、東京・世田谷区に住む会社経営者の長男で、慶應義塾幼稚舎に通う雅樹ちゃん(6歳)がお手伝いさんに見送られていつも通りバスに乗車して学校に向かいました。

ところが同日午前11時過ぎに男の声で自宅に「息子さんを預かっています」と言って、現金200万円を要求する電話がかかってきたのです。

お手伝いさんに持たせるなど運搬方法を細かく指示し、かつ警察に通報しないよう要求する内容に驚いた両親は学校に連絡して息子が登校していないことを確認すると、警察に届け出ます。

同日午後2時30分頃2回目の電話が入り、その後犯人の指示通りにお手伝いさんが行動するも、犯人は現れず。

翌日も電報による指示が届き、その通りに動くも犯人は現れず、その日の夜に「警察が動いている」という電話を2度かけてきたのを最後に、プッツリと連絡は途絶えました。


そして翌18日朝、新聞などマスコミ各社が誘拐事件の報道を始めるとすぐに、「似た男の子を見た」という女性の証言を元に警察がその杉並区内の居宅を張り込み。

しかし同日午後8時過ぎ、停めてあったルノーに乗り込んだ容疑者は猛然と走り出し、慌てて追いかけたものの警察は見失ってしまいます。

翌19日朝、乗り捨てられたルノーが杉並区上高井戸の路上で発見され車内から雅樹ちゃんの遺体が発見されるという、最悪の結果となりました。

犯人として指名手配されたのは、杉並区下井草で歯科医院を経営する本山茂久(当時32歳)。

       


新潟県の豪農の長男として生まれた彼は、小学校時代は優秀かつ真面目でおとなしい生徒で、東京歯科大学卒業後勤務医となり、1956年には実家から資金援助を受けて念願の歯科医院を開業。

2児の父として将来を約束されていた・・・はずでしたが、それが気の緩みを招いたのか、彼は愛人を作って二重生活を始めてしまい、それが元で借金を作り離婚。

慰謝料の支払いも途絶え、金に困った末に1960年4月即ち犯行の前月にフランスで起きた自動車メーカー・プジョーの会長の孫が誘拐された 『エリック坊や誘拐事件』 を真似て、慶應幼稚舎に通う子なら親は金持ち・・・という単純な思い付きから犯行に及びました。

エリック坊やは無事保護されましたが、警察に追われたことで目算が狂い人質の雅樹ちゃんを絞殺した本山は、そのまま関西に逃亡。

しかし指名手配されてから2ヶ月後、「犯人に似ている」という通報がもたらされ、敢え無く御用。


       

身勝手な犯行を引き起こして罪のない子供の命を奪ったくせに、この男の生への執着は凄まじく、公判中に自分の大便を食べるなど精神異常者のふりをし、死刑判決が出され執行当日にも鉄格子に噛みついて刑場に行くのを嫌がり歯が折れるほど抵抗。

仕方なく鎮静剤を打たれ、執行時は意識朦朧状態だったとか・・・。うー

犯人も低レベルな人間でしたが、一方警察やマスコミもお粗末でした。

犯人宅のお手伝いさんから「子供がいる」という通報がありながら、外車を乗り回す歯科医が営利誘拐などするはずがない、と思い込み初動捜査が遅れたこと。

そして犯人に警察の動きを察知された時点で、被害者家族から捜査から手を引くよう懇願されながらも捜査を継続。

更に張り込んでいながら犯人の車を見失ったこと。

もしここで逮捕していれば、雅樹ちゃんは無事保護されていました。

更に犯人逮捕後、捜査関係者280人が集まって慰労会を行ったことも、世間から批判を浴びたとか。

一方マスコミも、先を争って報道合戦を繰り広げたことで、犯人の焦りを助長したと言えましょう。

この事件後、現在では当たり前の〝報道協定〟が結ばれることになったそうですが・・・いつの時代でも、犠牲者が出なければ進歩しないのが人間の愚かさといえそうです。


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17歳 <下>

昨日拙ブログでご紹介した『豊川市主婦殺人事件』から2日後、即ち今からちょうど20年前の今日・・・GWを楽しむ人々を震撼させる出来事が、続けざまに起きてしまいました。 それは、


 西鉄バスジャック事件


2000(平成12)年5月3日午後1時半過ぎ、佐賀県から博多どんたくでにぎわう福岡市に向かう西日本鉄道の高速バスが、刃渡り40cmの牛刀を手にした17歳の少年〝T〟によってバスジャックされました。


バスは福岡には行かず、九州自動車道から中国自動車道、山陽自動車道を走行。


    


警察が高速道路を封鎖し、広島県内の小谷ICに強制的に停車させ、ここで膠着状態となります。


その間トイレに行くことを許された女性客からの通報で警察は事件発生を知り、更に2名の乗客が窓から飛び降りるなどして逃亡。

しかし、それに腹を立てた少年が逆上、その都度他の乗客延べ3名に斬りつけ、68歳の女性が死亡・・・日本のバスジャック事件で死者を出す初めてのケースとなりました。


また事件を知ったマスコミがヘリを飛ばして走行するバスを追走、アメリカの犯罪現場中継のような画像は、いやが上にも緊迫感を高めました。

    

            運転手の後方に陣取る犯人〝T〟


そして翌4日午前5時過ぎ、説得にあたっていた機動捜査隊長が乗客の一人だった6歳の女の子の横から犯人が離れたのを確認。


手にした手袋を落として合図を送ると同時に福岡県警・大阪府警の特殊部隊(SAT)が突入。 


犯人を逮捕するとともに、運転手・乗客9名の救出に成功しました。


その瞬間はTVで生中継されましたが、早朝の薄暗い闇の中で突入部隊が放った閃光弾が車内で光り、バスの両側からガラスを割って警察が突入した場面は今でも記憶しています。

※突入の瞬間を捉えたニュース映像は、こちら。(↓) 


ちなみに、この突入時SATが初めて使用した音響手榴弾(スタングレネード)は、これ以後人質籠城事件で広く使われるようになりました。



犯人のT少年は中学生時代にイジメを受けていたようで、高校受験では合格したもののすぐに中退して自宅にひきこもり、親にせがんで買ってもらったパソコンで2チャンネルに熱中・・・同時に家庭内暴力も酷くなったようです。


身の危険を感じた両親が警察や精神病院に相談し、医療保護入院。


しかし入院中のT少年の様子は大変礼儀正しく落ち着いていたため担当医師が外出許可を出したのですが、実は自分が虐められた中学校を襲撃して無差別殺人を計画していたとか。


たまたま連休で学校が休校だったために思いを果たせず、代わりにこのバスジャックを決行。


※〝T〟は2日前に起きた豊川市主婦殺人事件に触発されて事件を起こしていたことが、手記で明らかになっています。

両事件とも犯人の年齢は17歳、そしてこの事件直後にも16,7歳の少年による事件が続発。

当時は〝キレる17歳〟 とマスコミで取り上げられるなど、社会的に10代の少年に対する不安感が広がりました。


いじめ → ひきこもり・家庭内暴力 → ネット書き込み・犯行予告 → 無差別殺傷・・・その後の若者による犯行パターンを全て網羅したような、凄惨な事件でした。


しかし現在の17歳、というよりティーンエージャーは事件の起きた20年前と比べて、よりキレやすくなっていないか? そんなことが気になる私。


そして当時未成年だった〝T〟は医療少年院に送致された後、仮退院して社会復帰を果たしているとか。


この事件を引き起こした原因が何であったのか? 
また彼の奥底に潜む深層心理はどういうものなのか?  

他人には知る由もありません。


ほぼ確実なのは、現在37歳になっている両事件の犯人は今、日本のどこか・・・もしかしたら私たちの身近で、ひっそりと暮らしていることです。うー


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17歳 <上>

メーデーの記事を優先したため昨日アップ出来ませんでしたが・・・今からちょうど20年前の昨日、子を持つ保護者を震撼させる出来事が発生しました。 それは、


 豊川市主婦殺人事件


静岡県に近い愛知県・豊川市のとある住宅に夫が帰宅したところ、血だらけで倒れていた妻(64歳)を発見。

その直後、家から飛び出した犯人と格闘して負傷。
犯人がそのまま逃走したため、警察に通報し事件が発覚しました。

    

              豊川市の位置

妻は鈍器で頭部を殴られたうえ、頸部などを刃物で40ヶ所以上も刺されて死亡。

そして翌2日、交番に 「寒くて疲れた」 と名古屋駅前の交番に出頭してきた犯人は、何と17歳の高校3年生でした。

その少年〝
〟は、地元で江戸時代から続く旧家で広大な田畑や山林を所有する資産家に、教師を務める良心の一人息子として生まれました。

しかし彼が1歳半の時に両親は離婚、その後祖父母・父との4人暮らし。

中学まで祖母を〝母ちゃん〟と呼ばされて厳しく育てられた彼は、礼儀正しく成績は上位だったものの、目立たない子供だったとか。


私立高校に進学した彼は大学受験向けの特進コースに入り、成績上位者に適用される奨学金制度を3年連続で受けていたそうですが、その一方で〝死〟に関して非常に関心が高かったとか。

当初は不老不死の薬品の開発を考えたものの断念、その代わりに殺人に興味を持ったといいます。 そして

「殺人の体験をしてみたかった」

彼は、所属するテニス部の選手として高校総体予選に出場した2日後の2000(平成12)年5月1日、「未来のある人は避けたかったので、老女を狙い」高校近くの民家に侵入、犯行に及んだのです。

        
       
 『人を殺してみたかった』 (藤井誠二・著 双葉文庫・刊)

通常、こういった以上犯罪に手を染めるサイコパスは、その予兆として小動物を虐待したり殺害したりして徐々にエスカレートするものですが、少年Aにそういった前歴はありませんでした。

成績優秀で後輩らの信頼も厚かった学校生活と残念な犯行・・・あまりに乖離した人間性から、精神鑑定が実施され、「犯行時はアスペルガー症候群による心神耗弱状態」 だったと認定されました。


アスペルガー症候群とは、対人関係の障害とパターン化した興味や活動の2つの特徴を有するものの、知的発達障害は殆どない、自閉症に似た先天性の発達障害のこと。

この認定により、裁判所は医療少年院送付の保護処分を決定。


毎度のことながら、被害者のプライバシーは実名を含めて報道されたのに少年の実名は明かされぬまま、やがて事件は風化・・・。

しかしこの事件、これだけで終わりませんでした。

                    
・・・・・To be continued!


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激 昂

映画『八ツ墓村』のモチーフにもなった、日本において単独犯による最悪の30人もの死者を出した『津山事件』については、拙ブログでも過去にご紹介しました。




しかし上には上・・・いや、下には下があるというべきか、お隣・韓国で今から38年前の今日、僅か一晩で津山事件の倍近い57人(55・56・61人説もあり)の死者を出す猟奇殺人事件が起きました。


犯人は、

    
ウ  ボムゴン

禹 範坤


という、なんと現職の警察官(当時27歳)。

       

1955年に釜山市で生まれた彼の父親も警察官でした。

その父親の医療費がかさんだことで家は貧しく、1974年に父親が亡くなると家を手放し、彼自身も大学を中退し1976年海兵隊に入隊。

2年後に除隊し警察官試験を受けるも不合格となった彼は酒に溺れ、些細なことで喧嘩をする日々が続いたとか。

この辺り、津山事件の犯人・
都井睦雄が徴兵検査に落ちた事とよく似た境遇に陥りましたが、それでも1978年には試験に合格し、念願の警察官に。

ソウル市内の警察署などで勤務した後、先輩の推薦で晴れて青瓦台警備を担当することになりましたが、
酒癖が悪く酔って勤務していることが発覚し、慶尚南道宜寧郡という田舎町に左遷されてしまいます。

       
                
 慶尚南道宜寧郡


そして1982年4月26日・・・例によって酒に酔って帰宅したところ、同棲していた女性が彼の胸に止まったハエを叩いたことで口論に。

激高した
禹は警察署に戻って武器庫に入り込んでウィスキーをガブ飲みして泥酔状態になると、午後9時半頃にM2カービン銃2丁と銃弾180発、手榴弾7個を手に外に飛び出します。

そしてまず、犯行の露見を防ぐため警察署近くの郵便局に押し入って電話交換手3人を射殺。

それから近隣の集落5つの家々を次々に襲いもカービン銃を乱射。

また人が集まっていた市場には最初に手榴弾を投げ込み、爆発音に驚いて飛び出してきた人々に銃弾を浴びせ、次々と射殺。


電話交換手が射殺されたこともあり、警察に事件の一報が届いたのは、発生後1時間以上経った午後10時40分頃。

武装警官隊が現場に到着したのは更に1時間以上も後の午後11時50分頃でしたが、既に犯行は終わっていました。


禹は武装警官により山に追い込まれ、翌朝の午前5時半頃、残りの手榴弾2発の安全ピンを抜き、最後の犠牲者となった人質3名を抱きかかえたまま爆死。

犯人が自殺したため動機を含めた真相は明らかになっていませんが、女性に胸を叩かれただけで60名近くも殺害するなんて、尋常じゃありません。

まさに火病の為せる業・・・そう思うのは、私だけではないはず。

また事件後の国内動向も、韓国らしいと言えましょう。

現職警察官による大量殺人に加え、初動捜査の遅れから被害を拡大させたという非難が高まり、当時の劉彰順内閣の責任ばかりか、1980年に軍事クーデターを起こして就任した全斗煥大統領への批判に及びそうに。

世論の沈静化を図るため、徐廷和・内務部長官が事件発生直後に辞任。     


       

そしてその後任となったのが、盧泰愚でした。

これによって彼は政界への足掛かりを掴みも大統領にまで登り詰めましたが、結局退任後に政治資金隠匿の罪で逮捕・有罪判決を受けることに。

また当時の宜寧警察署長が事件発生中に遊興で不在だったことから職務怠慢で起訴・・・ただ彼の場合は最終的に無罪が確定しましたが。

民族性って、そう簡単には変わりませんネ。
うー


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