FC2ブログ
惨 殺

実行犯らが死刑になり、マスコミもあまり取り上げないでしょうが、私たちが決して忘れてはならない出来事が、今からちょうど30年前の今日起きました。 それは

 坂本堤弁護士一家殺害事件

ご存知の通り、オウム真理教が引き起こした凶悪事件のひとつです。


     


横浜弁護士会に所属していた坂本堤弁護士は、江川紹子さんの紹介でオウム真理教からの信者奪回の相談を受けたことをきっかけに、1989(平成元)年5月から 『オウム真理教被害者の会』 を組織し、同教団を批判。

同年9月には『サンデー毎日』 がオウム真理教の特集をスタートさせ、坂本弁護士も取材に応じていました。

それを快く思わなかった教団側は、毎日新聞社の爆破や編集長の殺害を目論むも、実現不可能と踏んで断念。

教祖・麻原彰晃がその矛先を、坂本堤弁護士に向けました。

指示を受けた村井秀夫・早川紀代秀ら実行犯グループは、11月4日午前3時頃に横浜市磯子区にある坂本弁護士の(なぜか施錠されていなかった)自宅マンション内に侵入。

寝ていた坂本弁護士(当時33歳)と妻を絞殺、そして 「子供だけは」 という妻の哀願も聞かず、当時1歳の長男をも絞殺。

3人の遺体は車で上九一色村に運んだ後、3人別々の山中に遺棄されました。

失踪が明らかになって以降、自宅マンションからオウム真理教のバッジ・プルシャが落ちていたことから教団の関与が疑われましたが、教団は当然のことながらそれを否定。

また横浜弁護士会が共産党系であったため神奈川県警も本腰を入れなかったといわれ、捜査は進展せず。

しかし事件が風化しつつあったところで、捜査は急展開。


地下鉄サリン事件が起きた1995年3月以降、オウム真理教に対する捜査が進む中で、実行犯の一人・岡崎一明が同年4月に犯行を自供。

※この岡崎は、それ以前にも犯行をほのめかす手紙を警察に郵送していました。

同年9月に坂本弁護士の遺体が新潟県上越市で、妻の遺体が富山県魚津市で、そして長男の遺体が長野県大町市で相次いで発見されたのです。


    
                
長男の遺体捜索現場


実行犯の一人・村井は暴漢に刺殺され、首謀者・麻原と他の実行犯は2018年に死刑が執行され、事件は一見カタが付いたように見えますが、そうではありません。

オウム真理教はアレフなど教団・団体名を変え現在も存在していますから・・・。

地下鉄や松本サリン事件などを知らぬ若者が、また彼らに取り込まれてしまう可能性は十分あります。

それを防ぐためにも、私たちはこれら忌まわしい事件があったことを次世代に伝えなくてはなりません。

それから、もう一点。

当該事件の発端として、TBSの番組スタッフが坂本弁護士のインタビューVTRを教団信者に見せたことも忘れてはなりません。

松本サリン事件でも被害者であった河野さんを犯人と決めつけて偏向報道したことと合わせ、TBSの悪行も決して風化させてはならない、と私は思います。


                人気ブログランキング

スポンサーサイト



mistake

皆さんは、〝アプレゲール犯罪〟という言葉をご存知でしょうか?

これは終戦後にそれまでの価値観や権威が完全に崩壊し、それによって道徳観を欠いた無軌道な若者が起こした犯罪のことだそうな。

その代表例と言えるのが、今から69年前の今日起きた

 日大ギャング事件


でしょう。

1950(昭和25)年9月22日午後2時頃、日本大学の会計職員2名と運転手1名が銀行から同大職員約100名分の給与190万円を東京・神田の銀行から受け取り自動車で運んでいる最中、19歳の男性Yに “Hey stop!” と停められます。

普通はこの状況で停車させるはずはないのですが、このYは彼らと同僚の運転手。

「何の用だ?」 と気軽に車を停めて声をかけたところ、Yはいきなりナイフを出して同僚を切りつけて脅し、大手町方面に車を運転させた後、3人を車から降ろして現金の入ったボストンバックを強奪・逃走。

あの『3億円事件』より単純かつ荒っぽい手口ですが、簡単に身元が割れる間抜けな犯行ともいえます。

 ※三億円事件に関する過去記事は、こちら。(↓)


このYには、18歳の恋人Fがいたのですが・・・・何と彼女は、日大教授の娘。

大学構内で父親と同居していた彼女は息苦しさを感じていたらしく、宿直室で手紙の受け渡しをした際に知り合った、かつてグレた経験があり腕にジョージという刺青を入れ粋がっていたYに惹かれ、交際をスタート。

しかしそれが父親の逆鱗に触れ反対されたことで家出した彼女は犯行当日の夜、有楽町駅前の喫茶店で落ち合い、逃避行を始めます。

この強盗は、その駆け落ちというか逃亡資金を作ることが動機だったのです。

と言っても、品川区大井の会社員宅の2階をアメリカ人二世という振れ込みで英語を交えて間借りすることに成功したものの、すぐにその会社員の奥さんに新聞に出ていた犯人だと気づかれ、通報で駆け付けた警官に24日午後5時頃にあっさり御用。 

その際にアメリカかぶれのYが

Oh, mistake!

とオーバーに両手を広げて叫んだことが話題になったとか。

今なら間違いなく年末の流行語大賞にノミネートされたでしょうネ。


       

上の写真が、捕まった直後の二人ですが、何とも気取っていておよそ犯罪者には見えないところが、いかにもアプレゲール犯罪という感じ。

ですが、それもそのはず、彼らは逮捕されるまでの2日間で、強奪した190万の内30万円を衣服などの買い物で使いまくったんですから。


当時の大卒初任給が3,000円。 現代が約20万円だとすると、当時の30万は単純計算で約2,000万円!驚き顔

よくまぁそれだけの買い物が出来たもの・・・と怒りを通り越して呆れてしまいます。

翌年2月、東京地裁でYに4年以上7年以下の懲役、Fには懲役2年執行猶予3年の判決が言い渡されました。

その後Fは日大を退職した父親と共に別の仏教系大学に行き、そこで教師となり信者の男性と結婚したとか。

一報のYについては情報がありませんが、もし今生きていれば88歳。

存命ならば、その後の人生と犯行についての感想を聞いてみたいものですが・・・そもそも浪費した30万円を、彼は返済したんでしょうかねェ?うー

若気の至り、という一言では片づけられない、稚拙かつ重大な犯罪でした。


                人気ブログランキング

スパイ

日本においても、過去に〝ゾルゲ事件〟という国家の安全を揺るがす大事件が起きましたが、古今東西を問わずスパイに関わる事件はこれまでに多数起きています。

 ※〝ゾルゲ事件〟に関する過去記事は、こちら。(↓)



その中でも、19世紀末にフランスで起きた

 
ドレフュス事件

  Affaire Dreyfus

ほど、国内外に大きな影響を及ぼしたスパイ事件はないでしょう。


1870~71年にかけて勃発した普仏戦争に敗れたフランスは莫大な賠償金を背負わされ、経済は逼迫。

国民はロスチャイルドなどユダヤ系金融資本が勧める投資になけなしの貯金を注ぎ込みましたが、1882年に起きた金融恐慌で多くの投資銀行が倒産したため、全てを失うことに。

その結果、フランス国内では反ユダヤ感情・反ユダヤ主義が高まりました。

そんなフランス第三共和政が不安定な時期であった1894年9月に、フランス陸軍情報部がパリの駐在武官邸からフランス軍関係者にドイツのスパイがいることを示唆するメモを入手。


即座に漏洩した情報を知り得る立場にいた関係者の調査を開始した陸軍本部は、参謀本部付きのユダヤ人砲兵大尉だったアルフレッド・ドレフュスを反逆罪で逮捕。


        

                     Alfred Dreyfus

しかしその根拠は、筆跡が似ていたという1点のみ。

彼がユダヤ系だったということが疑いをかけられた大きな理由・・・つまりは冤罪でした。

これを反ユダヤ系新聞『自由言論』紙がすっぱ抜き、「
ユダヤ人は祖国を裏切る売国奴であり、その売国奴を軍部が庇っている」と軍部を糾弾。


 


引っ込みがつかなくなった軍部は、証拠不十分のまま非公開の軍事裁判で無罪を主張するドレフュスに有罪判決を下し、彼を南米の仏領ギアナ沖に浮かぶディアブル島に終身城塞禁錮としました。


ところがその後、新たに参謀本部情報部長な就任したピカール中佐がハンガリー生まれのエストラジ少佐が真犯人であることを突き止め、軍上層部に報告。


しかし面子にこだわる軍上層部はそれを握りつぶしたばかりが、ピカール中佐を左遷しエストラジに無罪を言い渡し釈放したのです。 

(※エストラジはその後渡英し、平穏な生涯を送ったそうな。)

失望した彼が事件の真相をドレフュスの弁護士に伝えたことから、再審が請求され、再び同事件は世間の注目を集めることに。

そして1898年1月、『オーロール』紙が作家エミール・ゾラの署名入りのフォール大統領宛ての公開書簡の形で、「余は弾劾す(J'accuse!  )」と題する記事を掲載。


        


その中でドレフュスの無罪を主張し、陸軍当局が証拠をでっち上げ上層部がそれを謀議したこと、軍事裁判も真犯人を秘匿したことなどを激しく告発したのです。

        

                      Émile Zola


ところが反ユダヤ勢力から批判されたゾラは、逆に軍部に対する誹謗中傷で訴えられ有罪とされたため、イギリスに亡命する羽目に。

しかしその後、ドレフュス有罪の証拠を捏造した疑いのある軍人が自殺するなどの疑惑が浮上し、唯一の証拠である密書の筆跡鑑定が再度行われた結果、ドレフュスではなくエストラジのものであることが明らかに。

再審が行われましたが、それでも判決は情状酌量で禁錮10年の有罪判決。


再び収監され失望の底に沈むドレフュスを救ったのは、大統領特赦でした。

再審請求を取り下げることを条件に出されたこの特赦により彼が釈放されたのが、今からちょうど120年前の今日・1899年9月19日のことでした。


ドレフュスに正式な無罪判決が出されたのは、それから7年後の1906年。

軍籍に戻り少佐に昇進した彼は、1909年6月に引退したものの、第一次世界大戦が勃発すると砲兵中佐として参戦したといいますから、天晴れな軍人根性の持ち主だったと言えましょう。


フランス国内では、これで一件落着となった感のある同事件ですが、国際的にはその後大きく歴史を動かすことに。

というのは、この事件を新聞記者として取材していたテオドール・ヘルツルがユダヤ人に対する差別・偏見を目の当たりにしたことから、ユダヤ人国家建設を目的とするシオニズムを提唱し、これがその後のイスラエル建国に繋がっていったのですから。

ただ残念ながら、1935年に没したドレフュスは、その瞬間を目にすることは出来ませんでしたが・・・。


                人気ブログランキング

英 雄 ?

世界で最も有名な絵画は? と問われたら、きっと多くの方がレオナルド・ダ・ヴィンチの傑作、

 モナ・リザ
  Mona Lisa


と答えるでしょう。


        

モデルがフィレンツェの豪商フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リサ・デル・ジョコンドとされていることから、“La Joconde ” とも呼ばれ、1503~1506年の間ポプラ板に油彩で描かれたこの絵画は、現在フランスの国有財産としてハリのルーブル美術館でガラス越しに常設展示されています。

※モナ・リザのモナは
婦人の意で、そこに名前のリザをつけたもの。
つまりリザ婦人(夫人)ということ。


        


しかしガラスケースに納められていたにも関わらず、ルパン三世のように盗もうとする人間は出てくるもので・・・。


〝20世紀最大の美術品窃盗〟といわれる、モナ・リザ盗難事件が発覚したのが、今から108年前の今日の事でした。

その歴史に名を残す犯人は、


 ビンセンツォ・ペルージャ

Vincenzo Peruggia,

という、1881年生まれのイタリア人。


       

当時30歳だった彼は塗装職人として生計を立てていましたが、その前年にモナ・リザを保護するガラスケースの設置作業スタッフに加わっており、ケースや絵の外し方を熟知していました。

1911年3月20日の日曜日、翌日が閉館になることを知っていた彼は館内に潜伏。

翌朝隠れ場所から出てきた彼は、目立たないように職員と同じような身なりをして展示場所に行き、無人であることを確認した上でガラスケースを外してモナ・リザを額から外し着用していたスモックの中に隠して、まんまと持ち出しに成功。

盗難が発覚したのは、翌日の8月22日になってからの事。
ちょっと信じられない悠長さですが、ルーブル美術館は大騒ぎに。
この警備の甘さの責任を取らされて、館長はクビ。


       

もちろん警察は威信を賭けての捜査となりましたが、複数犯の犯行と断定して国際犯罪組織を追跡するなど、当初から見込み違いをしたおかげで、犯人は分からず仕舞い。

とばっちりを受けたのは、ルーブルから彫像を盗んだ犯人とたまたま知り合いで、かつて 「ルーブルなど燃えてしまえ」 と言い放ったことがある、詩人ギヨーム・アポリネール。

彼は逮捕され尋問を受ける羽目に・・・まさに口は禍の元。

更に彼が助けを求めたパプロ・ビカソまで疑われて連行・尋問されたと言いますから、いい迷惑。

当然彼らは無罪放免となりましたが、モナ・リザの行方はようとして知れず。

しかし、2年間パリ市内の自宅でモナ・リザを保管していたペルージャがそれを手にイタリアに戻り、「我が国の誇りの象徴を持っている」と画商に手紙を送ったことから、足がついてしまいます。

トスカーナ地方の画商が 「鑑定したいので、絵をフィレンツェのホテルに持ってきて欲しい」 と連絡すると、ペルージャはノコノコやってきました。

そして
ウフィッツィ美術館の館長による鑑定の結果本物であることが分かった時点で警察に通報され、ペルージャはホテルにいるところを敢え無く御用・・・モナ・リザは、無事ルーブルに戻ったのです。

ところで、なぜペルージャはモナ・リザを盗んだのか?

この動機について彼は「ダ・ヴィンチが描き、ナポレオンが盗んだ祖国の宝物を取り返す」、つまり愛国心からだったと裁判で主張したとか。

※実際はナポレオンが盗んだわけではなく、ダ・ヴィンチがフランソワ1世お抱えの宮廷画家になるべくフランスを訪れた際に献呈したもの。 ペルージャはそれを知らなかった模様。


しかし、それならなぜすぐにイタリアの美術館などに持ち込まず、自宅に2年間も隠し持っていたのか説明がつきません。

また贋作家に唆されたという説もありますが、やはり自ら隠し持っていた事実と符合しません。

個人的には、単にほとぼりが冷めるまで待ち、売ってカネに換えようとした・・・と思うんですけどネ。

しかし彼にとって幸いだったのは、祖国イタリアで逮捕されたこと。

もしフランスで逮捕されていたら大泥棒として厳罰に処せられるところですが、イタリアは彼の主張を受け入れ、出された判決は僅か禁固1年ちょっと。(実際には約半年で出所したそうな。)

まさに愛国者の如き扱い・・・なんだか日本の要人を殺害した犯人を英雄視するどこぞの国と似たような話ですが、まぁ無事モナ・リザが戻ったから、良しとしますか。


出所後の彼は第一次世界大戦にイタリア軍の兵士として従軍、結婚して3人の子をもうけ、フランスに戻った後は塗料庫を経営。

1925年の誕生日に44歳で亡くなりましたが、その時は大きく報じられることはなかったそうな。

イタリアの英雄と言われた割には、静かな最期だったようです。

まぁ本人も家族も、その方が良かったかもしれませんネ。


              人気ブログランキング

脱 線

今からちょうど70年前の今日・1949(昭和24)年8月17日・・・『下山事件』・『三鷹事件』と並び〝国鉄三大ミステリー事件〟のひとつといわれる

 松川事件

が起きました。


※『下山事件』・『三鷹事件』に関する過去記事は、こちら。(↓)



当該事件が起きたのは、1949(昭和24)年8月17日午前3時過ぎの深夜、場所は現在の福島県松川町金沢の東北本線・松川駅-金谷川駅間。(※東北新幹線高架下すぐそば)


   


この路線を走行していた、蒸気機関車C51が牽引する青森発上野行き上り旅客列車が突然脱線したのです。

先頭の蒸気機関車が転覆し、後続の荷物車2両・郵便車1両・客車2両も脱線し、機関車の乗務員3名が死亡。


    

現場検証の結果、転覆地点付近の線路継目部分のポルト・ナットが緩められて継目板が外されており、レールを枕木に固定する犬釘も多数抜かれていることが確認されました。

更に長さ25mのレール1本が外され13m動かされていたことも。

これじゃあ脱線するのは不可避・・・当該事件は、前述2事件に続く国鉄事故として注目され、世間・警察共にそれらとの関連性を疑いました。

そして当局は当時の国鉄大量人員整理に反対する東芝松川工場と国労組合員の共同謀議による犯行とみて捜査を進め、事件から24日後の9月10日に元国鉄線路工の少年を傷害の別件で逮捕し取り調べ。

少年が9日後に犯行を自供し、その供述に基づいて共犯者を続々と逮捕。 合計20名が逮捕・起訴されました。

翌年12月に福島地裁が出した判決では、死刑5名を含む全員有罪。


そして1953年12月に仙台高裁が出した二審判決では、死刑4名を含む有罪17名、無罪3名。

しかし最高裁に上告されると、それまで検察側が被疑者の無罪を証明するアリバイを秘匿していたことが明るみに出たり、証拠として検察が提出したスパナでは線路のボルトが緩められないことが判明。

1959年8月に最高裁が出した判決は、高裁差戻し。
1961年8月の差し戻し審で、全員無罪。


そして1963年9月に最高裁は検察の再上告を棄却し、被告全員の無罪が確定しました。

無罪確定後、真犯人追及の捜査が継続された形跡はなく、1964年8月17日に公訴時効が確定し、当該事件は〝お宮入り〟に。

また犯人の目撃証言が複数ありながらも、警察側が真犯人を逃すかのような不審な動きをした形跡があり、1958年には真犯人を名乗る者から手紙が被告側弁護団に届いたことも。

この文面には、目撃証言の犯行グループ9名と符合する部分があり、弁護団は信憑性が非常に高いと判断。

また犯行グルーブがレールを外しているところを目撃したSさんは、路線の修理か検査だと思って帰宅したところ、グループの一人が追いかけてきて、「口外すればアメリカの裁判にかける」と脅されたそうな。

そして事件の5日後、GHQの出先機関であるCICの福島事務所に出頭するよう見知らぬ男に告げられたもものの、身の危険を感じたSさんは弟のいる横浜に逃亡。

しかし2ヶ月後の1950年1月に行方不明となり、40日後水死体で発見され、知られを受けた弟が警察に駆け付けたところ、既に遺体は火葬済みだったとか。

やはり犯行は、GHQが裏で糸を引いていたのか? 

その辺について知りたい方は、真犯人を名乗る者からの手紙を受け取った弁護士ご本人が書いた、この書籍のご一読ください。


『謀 略 再び歴史の舞台に登場する松川事件 


(松本善明・著 新日本出版社・刊)


       


冒頭ご紹介した下山事件・三鷹事件など、他の謀略事件についても同著で言及しています・・・が、著者の松本氏は共産党員ですので、その点は考慮してお読みください。


              人気ブログランキング

人違い

世の中には、理不尽な犯行によって命を奪われてしまう方がいらっしゃいますが、アメリカの美人女優だった

 シャロン・マリー・テート

 Sharon Marie Tate


もそのひとり・・・今日は、彼女の命日・没後50周年にあたります。

       

1943年にテキサス州ダラスに生まれた彼女は、テレビドラマから映画に進出し、1968年1月に出演した『吸血鬼』のメガホンを取った映画監督ロマン・ポランスキーと結婚。

子供も妊娠して幸せ絶頂の最中、悲劇が突然彼女に降りかかりました。

1969年8月9日、自宅にいたところを突然3人組に襲われ、偶然居合わせた3人の友人と、これまた偶然犯人らに声をかけた通行人1人と共に惨殺されてしまったのです。

妊娠8ヶ月だった彼女が 「子供だけでも助けて」 と懇願したにもかかわらず、犯人たちはナイフで16ヶ所も刺すという、実に残忍な犯行でしたが・・・実は、人違い殺人だったのです。

実行犯らに殺害を指示したのは、


 チャールズ・ミルズ・マンソン
    Charles Milles Manson


       


1934年生まれで、未成年の頃から犯罪に手を染め、それまでの人生の大半を刑務所で過ごしたというこの札つきのワルは、出所後に家出した少女を集め〝ファミリー〟と称し集団生活を始めます。

LSDを用いて少女たちを洗脳し、男性を誘惑してファミリーに取り込んだ彼は聖書を独自解釈したカルト教団を作り上げ、数件の残忍な殺人事件を計画し配下のメンバーに実行を命じていました。

その中のひとつがこの事件だったのですが、彼が殺害しようと企てたのはシャロンではなく、音楽プロデューサーのテリー・メルチャー(1942-2004)でした。


       

元々マンソンは歌手志望で、たまたま知人だったビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンがコロムビア・レコードに所属していたメルチャーを紹介。

しかし結局コロムビア社と契約することが出来なかったマンソンは、メルチャーを逆恨み。

ファミリーのメンバーに彼の殺害を指示したのですが、彼はその直前に転居しており、その後に引っ越してきたのが、ポランスキー夫妻だったのです。

メルチャーは命拾いしましたが、シャロンは代わりに我が子共々命を落とすことに・・・。

マンソンは共謀罪を適用され、1971年に死刑判決を受けましたが、翌年カリフォルニア州で死刑制度が一時的に廃止されたため、実行犯共々終身刑に減刑。

結局彼は2017年に脳腫瘍で死去するまで生き長らえました。

何の罪もない女優が26歳の若さで殺されたのに、その加害者が獄中とは言え83年間生き続ける・・・私には不条理に思えてなりません。

そして幸運にも殺されずに済んだメルチャーも、心苦しい後半生を過ごしたことでしょうネ。


              人気ブログランキング

異常性愛

あれからちょうど30年の時が流れましたが、中高年の方には未だ鮮烈に記憶されている方が多いと思います。 


正式名称・『警察庁広域重要指定117号事件』、いわゆる


 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件


のことを。

事件名だけではピンとこないでも、この写真を見ればすぐに思い出されることでしょう。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


そう、犯人は宮崎勉・・・彼が逮捕されたのが、今からちょうど30年前の今日・1989(平成元)年7月22日のことでした。

と言っても、それは当該事件そのものではなく、別件の猥褻事件の容疑者としてでしたが。

そして取り調べの最中にそれまで未解決だった幼女誘拐殺人事件の犯行を自供。


供述通り少女の遺体が発見されたのが、翌8月10日のことでした。


この日以降彼の自供によって次々と遺体が発見されたこの事件は、単なる誘拐殺人ではありませんでした。


被害者が4歳と7歳の幼女であり、しかも犯行声明を新聞社に、そればかりか被害者の遺骨を遺族に送り付け、更には遺体をビデオ撮影するという日本犯罪史上でも例のない残忍な犯行は、当時日本中を震撼させました。


また彼の自宅から膨大なマンガ本やビデオテープが出てきたことや、公判中の 「ネズミ人間が現われた」 などの不規則・意味不明発言も世間の注目を集めました。


       


おそらく 〝オタク〟 とか〝ひきこもり〟 という言葉に注目が集まるようになったのも、この事件がきっかけだったのでは?


犯行の異様性やマスコミの過熱報道ぶりも問題になりましたが、私が個人的に興味を持ったのは、宮崎被告に対して行われた度重なる精神鑑定の結果でした。


自供直後に簡易精神鑑定を受けた結果、人格障害の範囲に留まるとして起訴されましたが、公判開始後精神科医5人と臨床心理学者1人によって精神鑑定が実施され、やはり人格障害の判定。


更に弁護側からの依頼により鑑定医3人による再鑑定が実施された結果、1人が統合失調症、2人が解離性性同一性障害と判定。


長期間の鑑定調査の中では彼自身の発言も変わった部分もあったでしょうが、結果的には鑑定医の意見の一致は見られませんでした。


結局は人間の本心や深層心理など、他人には分かり得ない・・・いや、本人にすら分からないのかもしれません。


殺人犯など重大犯罪の被告弁護人は、時として心神喪失を理由に無罪を主張しますが、それを他人が断定することは非常に危険だと思うのです。


結局、最高裁で死刑が確定したのは事件から17年後の2006年。


死刑執行が2008年であり、その間隔が僅か2年だったことも異例でした。


被害者やその家族にとっては、精神状態がどうであれ犯人を憎む気持ちに変わりはないはずであり、量刑はその犯罪の内容でのみ判断されるべき・・・この事件を通して、私はそう思うのです。


                人気ブログランキング  

陰 謀

戦後まもなくの頃、国鉄では事件・事故が続発しましたが・・・今からちょうど70年前の今日起きたのが下山事件・松川事件と並び後に〝国鉄三大ミステリー事件〟のひとつに数えられることとなる

 三鷹事件

でした。


※下山事件に関する過去記事は、こちら。(↓)



1949(昭和24)年7月15日午後9時過ぎ、国鉄三鷹車庫(現・JR東日本三鷹車両センター)から7両編成の63系電車が無人のまま暴走。

三鷹駅の1番線に時速約60kmで進入し、脱線・転覆。


車両は線路脇の商店街に突っ込み、男性6名が死亡、20名の負傷者を出す大惨事となりました。


     


その当時、国鉄では職員の大量人員整理問題で労使の対立が激しかったため、捜査当局は事故を起こして革命を計画したとして国鉄労働組合(国労)組合員の日本共産党員10名と、非共産党員で元運転士だったT・Kを逮捕。

アリバイか成立した1人を除く10名と、偽証罪によって別に2名を起訴しました。


しかし東京地裁は、1950年にTKの単独犯行として往来危険電車転覆致死罪により無期懲役を言い渡し、他の被告には無罪判決。

※地裁は死刑判決でなかったことについて、国鉄を解雇されたことに対する反発、計画性がなかった、人命を奪うという結果を想定していなかったことを情状酌量の理由としました。

この判決を不服して、検察は被告人全員の有罪を求めて上告・起訴しましたが、東京高裁はTK以外を無罪とした反面、T・Kには求刑通りの死刑を言い渡しました。

弁護側は死刑撤回を求めて最高裁に上告したものの、最高裁は1955年6月に死刑が確定。

その後TKは雑誌に陰謀説を訴える投稿などをして無実を訴えたものの、1967(昭和42)年に脳腫瘍により45歳でこの世を去りました。

       


この裁判経過には、不審な点がいくつかあります。

まずT・Kの弁護士が、被告にとって有利となるアリバイ証言をなぜか証拠として採用しなかったり、T・Kに対し自白を勧めるかのような発言をしていたこと。

そのせいか、T・Kの証言も無罪・単独犯・共犯者有り等々7回も変わるというふらつきぶり。

一方の裁判所も、証拠や供述内容にいくつかの矛盾点がありながらも高裁は公判を開かず書類審査だけで死刑判決を出し、最高裁も口頭弁論すら行わず仕舞い。

まるでT・K被告をスケープゴートにして幕引きを急がんばかり。

そして彼が獄中で脳腫瘍になった際も、ろくな治療が施されず、実質的には〝成り行き死刑〟を執行されたようなものだったとか。

しかし共産党員は無罪放免となったものの、この事件を端緒として国鉄に対する抵抗運動は下火になり、人員整理は進められました。

この事件前、警察内部では「7月15日に三鷹駅で事件が起きる」という噂が囁かれており、転覆によって大破した三鷹駅前の交番にはその時警官は一人もおらず、更に住民台帳も予め持ち出されていたとか。


警察がもし事前に犯行を知っていたのなら、黒幕は一体誰なのか?


    

                          事故現場付近

国労の抵抗を削ぎたい国鉄側と、身内から犯人を出したくない共産党それぞれの思惑が一致する落としどころが、非共産党員だったT・Kを犯人にすることだった・・・そう考えれば辻褄が合うと私は思うのですが、皆さんは如何お考えでしょうか?


                人気ブログランキング 

謀 殺

我が国犯罪史上において真相や犯人が分からない、いわゆる〝迷宮入り〟した事件は多々あれど、政治絡みでVIPが絡んだ大事件・・・といえば、今からちょうど70年前の今日・1949年7月5日に起きた


  下山事件


ではないでしょうか。


ほぼ1ヶ月前に発足した日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山定則氏は、同日朝8時過ぎに自宅を公用車で出発。


        


出勤途上、運転手に日本橋・三越に行くよう指示し、午前9時30分過ぎに 「5分くらいだから待ってくれ」 と運転手に告げて店内に入った後、車に戻らぬまま失踪。


捜索願を受けて警察が動いたものの見つからず、時計の針が深夜0時を30分程過ぎたあたりで、常磐線北千住-綾瀬の両駅間の線路上で轢断死体となって発見されました。


       

                 現場検証の様子


当時は大陸の内戦で支那共産党の勝利が決定的となり、また朝鮮半島では共産政権と親米政権の衝突が必至の状況だったため、アメリカを中心とする占領軍は日本をアジアにおける反共産主義の防波堤と位置付けます。


またインフレを立て直すため緊急財政策の一環として大規模な公務員の削減・・・特に国鉄に対しては10万人近い人員整理を要求。


これに対し、当然のことながら国鉄労働組合は猛反発。


その厳しい労使交渉の矢面に立ったのが下山総裁であり、彼が組合側に約3万人の解雇通告を行った翌日に事件は起きたのです。   


下山氏の死亡原因については、過酷な労使交渉によるストレスが原因とする自殺説と、遺書がなく三越内で数人の男と共に歩く姿を目撃されていることから他殺とする説が取り沙汰されました。


また他殺だったとした場合、その犯人は組合関係者であるとする説や、そう見えるよう偽装したアメリカ諜報機関による犯行説などが様々な方面から唱えられました。


しかし肝心の警察はその死因を断定・公表することなく、約半年後の同年12月31日に捜査本部を解散。


その後も執拗に捜査を続けた刑事を突然転任させるなどして捜査を打ち切り、事件は〝お宮入り〟に。


まるで 〝日本版・ケネディ暗殺事件〟 の如く謎多き事件・・・その直後に起きた三鷹事件・松山事件と共に国鉄三大ミステリーといわれたこれらの事件は、終戦直後の日本混乱期を象徴する出来事でした。


この事件に関しては過去に熊井啓監督によって映画化されたり、何冊もの検証書籍・小説が出版されており、また近年では劇画化されコミック誌にも連載されました。

その中で私がお勧めするのは、この一冊。


 『謀殺 下山事件』 (矢田喜三美雄・著 祥伝社・刊)


       

発生直後からこの事件を追い続けた新聞記者の筆による考察は、最も事件の真相に近づいている・・・そんな気がします。


下手な推理小説より面白いといっては失礼ですが、お読みいただく価値は十分あるかと。

私は遺体から血液が殆ど検出されなかったこと、遺体の場所より手前から血痕があったこと、そして捜査本部が数ヶ月後に実質的に解散したこと等々を考えあわせ、占領軍(GHQ)が別の場所で血を抜き取って失血死させて遺体を線路上に遺棄して自殺に見せかけ、圧力をかけて捜査を打ち切らせた・・・と推測しています。

しかし、その動機は? と問われると、答えに窮しますが。
うー

皆さんも、学校では教えない日本の裏面史に触れてみて下さい。


                人気ブログランキング

フェイク

科学が進歩した現代においても、地球にはまだまだ〝謎〟が沢山あります。


そんな中で、〝20世紀最大のミステリー〟 といったら・・・皆さんは何を連想されるでしょうか?


私のような昭和世代の方なら、この騒動を挙げるかもしれません。


舞台となったのは、ここ。(↓)


       

スコットランドの北部・ハイランド地方にあるイギリス最大の淡水湖で水深が最大230m、長さ約35km・幅約2kmと細長く、いかにもイギリスらしい少し寒々とした雰囲気のある湖。


       

ここまでくれば、もうお分かりですょネ。

ミステリーとは、このネス湖(Loch Ness )に棲息するといわれた怪獣、


 ネッシー 

   Nessie


この未確認生物が突然世界中の注目を集めたのは、今から85年前の今日・1934年4月21日のことでした。

この日デイリー・メール紙に、その〝ネス湖の怪獣〟だとする1枚の写真が掲載されたのです。

     

もともとこの湖では、西暦690年頃に著された『聖コロンバ伝』に〝ネス川の怪獣〟の記載があり、以後様々な目撃談が地元で語り継がれていました。


しかしこの 『外科医の写真』と言われた1枚の写真で、ネッシーはすっかり注目の的に。

その後も多くの目撃談や写真が公表され、1973年には石原慎太郎氏によってネス湖怪獣国際探検隊が組織されるなど、その存在はかなりの信憑性をもって語られたのですが・・・。


しかし一方で、早くからこの写真に関して信憑性を疑う意見もあったことは事実。

そして写真公表からちょうど60年後・・・今から24年前の1994年3月、その真贋論争に終止符が打たれました。

同月13日の英サンデー・テレグラフ紙に関係者の証言が掲載されたのです。


     


見出しの “Mock ” とは、模造品・偽物という意味ですが・・・クリスチャン・スパーリングなる人物が死ぬ直前に遺した


「養父マーマデューク・ウェザラルが、自ら発見したネッシーの足跡を偽物と鑑定されたことに腹を立て、オモチャの潜水艦に30cm程のネッシーの首の模型をつけて撮影し、それを社会的地位のある友人のウィルサン医師に公表を頼んだ。 

ジョークのつもりだったが世界的な話題になってしまい、後に引けなくなった。」


という告白が、英サンデー・テレグラフ紙に掲載されたのです。


これにより、歴史的写真がフェイクでだったことが確定しました・・・が、それでも怪獣そのものの存在を否定する証拠にはなりません。


2005年にネッシーの牙と言われる新たな証拠も発見され、その後もネッシーの目撃報告が後を絶たないのです。


それに、恐竜より遥か古代から生息していたとされるシーラカンスは、その生体が確認されていますし。


さて皆さんはネッシーの存在・・・肯定派?  否定派?


私の正直な心情としては・・・「いて欲しい!」 笑2


 


              人気ブログランキング