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暗 躍

007シリーズを始め、映画やドラマではよくスパイが活躍・・・というか暗躍していますが、実際のスパイはあんなにカッコよくも目立ちもせず、密かに活動しているはず。

そしてその正体は、意外にも重要ポストに就いている場合が少なくありません。

今からちょうど40年前に日本で発覚した


 自衛官スパイ事件

もそうでした。


当該事件が別名 『宮永スパイ事件』 と言われている通り、逮捕されたのは宮永幸久陸将補・・・昔でいうなら少将にあたる幹部自衛官。

彼は陸軍士官学校卒で、調査学院の副校長も務めたソ連情報の専門家。

非常に真面目だったという彼が、再就職の斡旋を求めて1973年12月にソ連大使館のリバルキン武官に接触したことが、事件の発端となりました。

翌年リバルキンに呼び出されて会った際には、中ソ関係について意見を交換する程度でしたが、やがてリバルキンの要望に応じて支那の軍事関連情報を渡し、現金を受け取ってからは次第に要求がエスカレート。

累計数百万円の現金を受け取った弱みからか、はたまた欲をかいたのか、宮永陸将補はソ連のエージェント即ちスパイとなって秘密情報を漏らすように。

その実態が露見するキッカケは、ソ連大使館に出入りする日本人を視察していた警視庁公安部外事第一課が、頻繁に訪れる宮永陸将補を不審に思い内偵を始めたこと。


自衛隊の中央捜査隊もかねてより調査を進めていたことから合同捜査体制となり、1980(昭和55)年1月17日に神田駿河台のニコライ堂付近で宮永とリバルキンの後任・コズロフがすれ違いざまに情報を渡したことを確認。

その翌18日に、宮永陸将補とスパイ活動に関わった自衛官2名が逮捕され、家宅捜索の結果宮永陸将補の自宅からスパイ道具が多数押収されました。


 

               1月19日付 読売新聞


自分からソ連情報を得ようとして近づいたのに、逆に取り込まれた形ですが、3人は守秘義務を定めた自衛隊法第59条違反の罪で起訴。

しかし判決は、宮永陸将補自身が
「こんなに軽くていいんですか?」 と驚いたほど軽い懲役1年、自衛官2名には懲役8ヶ月でした。

※数年前に成立した特定秘密保持法で、もし同様の罪を犯せば10年以下の懲役に処すことができるようになりましたが・・・。


対するコズロフは、日本側の出頭要請を無視して母親の病気を理由に急遽帰国。

まぁ外交特権を振りかざすところは、映画やドラマでもよく描かれていますけどネ。


この事件で宮永陸将補ら3名が逮捕されたのは、あくまで自衛隊法に抵触したからであり、同じ事を自衛隊員以外の人間が行っても、スパイ防止法がなければ逮捕できないのが現状。

なのにこの事件の4年後・1985年にはスパイ防止法が議員立法として国会に提出されたのに、審議未了で廃案となり、現在に至っても成立していません。

そして自衛官が関わったスパイ事件は、この後も起きています。


今年の夏には東京五輪が開催され、世界各国から選手・役員として多数のスパイが入国することが予想されているのに・・・。

スパイの実態について詳しく知りたい方には、2年前に逝去された危機管理の権威・佐々淳行氏の最後の出版(2016年)となった、こちらの著書をご一読ください。


 『私を通りすぎたスパイたち』 (文藝春秋・刊)


       

この著書にも当該事件に関する記述がありますが、お父上がゾルゲ事件に加担した朝日新聞の尾崎秀美と同僚だったという佐々氏が、警察官僚になった後もスパイ事件に少なからず縁があったとは、驚きました。

 ※ゾルゲ事件に関する過去記事は、こちら。(↓)


この自衛官スパイ事件が露見した2ヶ月後の3月18日、モスクワ防衛駐在官ら2人がグルジアのトリビシを視察中、レストランで勧められたウォッカを口にした途端に激しい吐き気やめまいに襲われるという事件が起きました。

これは確たる証拠はないものの、宮永逮捕に対するソ連の報復と言われています。

スパイの暗躍は、リアルに今でも世界中そして日本でも起きていることを、日本人は認識すべきです。

それは国防に関わることであり、一般市民にとっても無関係ではないのですから。

一刻も早く、スパイ防止法の制定を! 
うー


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査 問

拙ブログでは今まで日本共産党の歴史について何度か記事にしてかましたが、今日もそのひとつ・・・というか、犯罪をご紹介します。

1922年に結党された日本共産党は治安維持法により当初から非合法活動を強いられ、収入源に苦しんでいました。

そして1932年10月、同党は『熱海事件』・ 『赤色ギャング事件』 により多くの幹部党員が逮捕され、壊滅的な打撃を受けます。


(※赤色事件に関する過去記事は、こちら。 ↓)



これらの取り締まりをかいくぐって検挙を免れた幹部党員により、同党は辛うじて存続したのですが、しばらくして


 日本共産党スパイ査問事件


が露見することに。

今から86年前の今日・1933(昭和8)年12月23日、当時同党中央常任委員だった宮本顕治(1908-2007)らが中央委員だった大泉兼蔵・小畑達夫両名にスパイ容疑をかけて呼出し監禁。

自白させようと〝査問〟と称するリンチを行い、同日小畑委員は死亡し床下に埋められたのです。

(この時大泉委員は壮絶な拷問に気絶。 しかし宮本氏は死んだと勘違いして引き上げたため、その後蘇生し命拾いしたとか。)

                         

                   宮本 顕治 氏


翌日付の 『赤旗』 紙には 「中央委員小畑達夫・大泉兼蔵の両名は、党攪乱者として除名し、党規に基づき極刑をもって断罪する」 という声明を掲載。

警視庁はこの〝極刑〟という表現に注目。 両名が殺害された可能性があるとみて捜査を開始し、3日後の26日に宮本氏は逮捕。

黙秘を続けたものの、治安維持法違反等の罪で無期懲役の判決を受け収監。


しかし終戦直後の1945年10月、GHQが政治犯の釈放を命じた事により、網走刑務所に収監されていた宮本氏の赦免が決定。


その直後から党を再建した彼は、1958~70年に同党書記長、70~82年まで委員長を務め、実質的には亡くなる2007年まで約半世紀にわたり共産党を指導・支配し続けました。

この事件については、1988年に当時衆院予算委員長だった浜田幸一氏が


「宮本氏が人を殺したと言っただけじゃないか!」


などと発言し、辞任するキッカケとなったことで注目を集めたことも。

しかし宮本氏の影響力は、彼がこの世にいない現在でも同党から払拭されたとは言い切れません。

現在委員長を務めている志位和夫氏は、かつて宮本顕治氏の長男の家庭教師を務めていた人物ですから。うー

共産党はこの〝査問〟事件における小畑・大泉両名に対する暴行の事実をすべて否定しています・・・が、私はとても額面通りには受け取れません。


同党に関して詳しく知りたい方には、(上掲・赤色事件の記事でもご紹介した) 『日本共産党研究』 (産経新聞出版・刊)のご一読をお勧めします。       

また共産党は、オウム真理教関連団体や革マル派・中核派・革労協などの過激派らと同様、公安調査庁の調査対象団体であることも事実。


有権者の方々には、耳触りの良い選挙演説に耳を傾けるだけでなく、政党の歴史や背景も熟知した上で投票していただきたいものです。うー


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交 戦

相変わらず国際社会の意に反し、ミサイル発射や核開発を止めない北朝鮮。


過去に複数回領土・領海上空にミサイルを飛ばした同国の存在は、日本にとって最も頭の痛い存在です。


かの国の指導者の暴走がいつ始まるか全く不透明な中、国防能力・体勢の充実を望むところですが・・・今から18年前の今日、その北朝鮮と一触即発の事態を迎えたことがありました。 それは


 九州南西海域工作船事件


この海上保安庁の巡視船が初めて逃亡する不審船に銃撃を加えた出来事を、ご記憶の方も多いと思います。


2001(平成13)年12月18日、在日米軍から防衛庁(当時)に不審船の情報がもたらされ、それを元に海上保安庁は東シナ海の公海上で船体に 『長漁3705』 と書かれた国籍不明船を発見しました。


無許可操業の疑いがあったため強制捜査を行うべく停船を命ずるも、同船はこれを無視して逃走。

数日間の追跡の末、12月22日巡視船は機関砲による船体砲撃を敢行。


銃弾が燃料に引火し火災を引き起こすも、船員がこれを鎮火。


続いて巡視船が接舷を試みようとしたところ、突然乗組員が小火器や対戦車ロケット弾を使用して反撃。


巡視船はやむなく応戦して激しい銃撃戦となるも、不審船は自爆とみられる爆発を起こし自沈。


この交戦で海上保安官3名が負傷、不審船乗組員は10名以上が死亡したとみられます。 (後に8名の遺体を確認。)


この追跡・交戦映像(10分)を、是非こちらでご覧ください。(



映画やドラマのようなフィクションではなく、実弾が飛び交うリアルな映像に、思わず身体が硬直してしまいます。


この不審船は、北朝鮮・中国に配慮する一部左翼勢力の反対を当時の小泉首相が押し切って引き上げを決定。


沈没地点が中国の排他的経済水域であったため同国と粘り強い交渉の末、1億5千万円の謝礼金を支払って翌2002年9月11日、引き上げに成功。


    


遺留品の鑑定及び発見された遺体の検死結果から、同船を北朝鮮の工作船と断定。


同船は検証後スクラップにされる予定でしたが、日本船舶振興会(現・日本財団)が経費を全額負担して東京に移送・展示されました。


実は私、女房と共にこの展示を見学に行ったんです。


朝一番に行ったら、開館前から長蛇の列・・・まるで上野動物園のパンダ見物のようでしたが、船体に残された機関砲による銃痕の大きさと数の多さに、戦慄で体中の毛穴が開いたことを憶えています。


そして現在も、この工作船を見学することが出来ます。 展示場所は


 『海上保安資料館 横浜館』


所在地は神奈川県横浜市中区新港1-2-1・赤レンガパーク隣

そう、観光名所・赤レンガ倉庫のすぐそばです。


開館時間は10:00~17:00 月曜定休

但し年末は12月29日~1月3日まで休館とのこと。


入場料無料ですので、観光等で横浜に行かれる方は是非足をお運びください。

 ※同館HPは、こちら。(↓)   

https://www.kaiho.mlit.go.jp/03kanku/kouhou/jcgm_yokohama/


    


領土・領海を護るために海上保安官や自衛官が命がけで職務に取り組んでいることを、きっと実感できると思います。


特に普段TVゲームのバーチャル世界でしか戦闘を知らない子供たちには、是非見学させて欲しいもの。


末筆となりましたが、普段暖房の効いた部屋でヌクヌク暮らし平和にクリスマスを楽しむ私たち国民を守るため、寒風吹きすさぶ荒海で監視活動等を行っている海上保安官や自衛官に対し心より敬意を表し、かつ感謝する次第です。扇子


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拉 致

終戦直後からサンフランシスコ講和条約が発効してアメリカの占領から脱するまでの間、日本国内では不審な出来事がいくつも起きましたが、その中の一つ


鹿地事件

が発覚しのが、今から66年前の今日のことでした。

事件の主人公は、鹿地 亘(しかぢ わたる 本名:瀬口 貢) なる小説家。

1903年に大分県に生まれた彼は、東京帝国大学国文科を卒業した秀才ですが、在学中からマルクス主義に傾倒して社会運動に関心を持ち、学外でもプロレタリア文学運動に参加した後、1932年に日本共産党入党。

1934年に治安維持法違反で逮捕されるも獄中で転向。
出獄後1936年に中華民国に渡り、魯迅と親交をもちました。

1937年に支那事変が勃発すると、国民政府と共に武漢から重慶に移動。


1938年12月から蒋介石の承認を得て国民党支配地域で 『日本人民反戦同盟』 を結成、日本人捕虜や居留民に〝教育〟を施しました。


      

終戦後に帰国した彼は民主主義文学運動に参加し、1947年の第1回参議院議員選挙に出馬するも、落選。

そして1951(昭和26)年11月25日、肺結核療養中の神奈川県藤沢市内で、忽然と姿を消したのです。

その後彼の行方は分からず1年余り経った1952(昭和27)年12月7日夜、彼は突然東京の自宅に戻ってきたのです。


    

             帰宅を報じる12月8日付け朝日新聞

事件は衆議院法務委員会でも取り上げられ、彼は解放直後の12月10日に国会で証人喚問を行い、事件の証言を行いました。

それによると、彼は行方不明になった前年11月25日の午後7時頃、自宅付近を散歩中に軍用車から降りてきた複数のアメリカ人に突然殴り倒されて拉致され、当時キャノン機関(GHQ参謀第2部直轄の秘密諜報機関)が接収・使用していた東京・湯島の旧岩崎邸などに監禁されたとのこと。

ソ連のスパイではないかと執拗な尋問を受け、更にアメリカ側の二重スパイになることを強要されたとか。


しかし米軍にコックとして雇われ彼の世話を任されていた山田善二郎(当時24)という人物が、彼の2度にわたる自殺未遂とその遺言書を読んだことから同情し、米軍を辞めて彼の実情を家族に連絡。

それを受けて家族が11月12日に捜索願を提出し、社会党代議士が解放に向けて動き出したのをマスコミが報じたことで、アメリカ側は彼を開放せざるを得なくなったようです。


国会で証言が行われた翌日、アメリカ軍は拉致について 「鹿地がソ連のスパイと自白したため、身柄保全のために保護していた」 と言明。

確かに彼自身、「私はソ連のスパイである」 という内容の自供書を認めていましたが、それは自殺未遂直後の憔悴した状態で、釈放の条件として書かされたと反論。

朝鮮戦争真っ只中のアメリカ軍が、なぜ彼を長期間拉致したのか?
日本共産党の情報が欲しかったのか?

謎を残したまま、彼は1953年11月に米ソ二重スパイ事件の犯人として(スパイ防止法がなかったため)電波法違反で起訴されるも、1969年に無罪が確定。
事件の顛末を上梓した彼は、1982年に没しています。

余談ですが、キャノン機関の名は、司令官だったジャック・Y・キャノン陸軍少佐(のち中佐)の名前を取って名付けられました。

       

                 Jack Y. Canon


同機関は、1949年に続けて起きた国鉄の下山・三鷹・松川事件にも関わっているといわれる、謎の諜報機関。

 ※下山事件に関する過去記事は、こちら。(↓)



キャノン中佐は、鹿地事件発覚前にアメリカへ帰国しており、その後CIA入りした後、諜報活動から身を引きました。

自宅で弾薬の開発をするなど実業家として活躍しましたが、66歳だった1981年に自宅のガレージで胸に銃弾を2発撃ち込まれた死体で発見されています。

自殺か他殺かは不明だとか・・・って、2発撃つ自殺なんて聞いたことないですけど。

諜報活動に携わると、ロクな死に方をしない・・・のかも?


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追 放

残念ながら、国内外を問わず複数のプロスポーツにおいて過去に八百長事件・疑惑が発覚してきました。


野球の場合アメリカのメジャーリーグでは1919年に〝ブラックソックス事件〟という八百長事件がワールドシリーズで起きたり、その後〝ピート・ローズ事件〟も。

アジアでは韓国や台湾でも八百長事件や疑惑が取沙汰されました。

そして日本国内では、国会でも取り上げられるほど大きな社会問題となったのが、いわゆる


 黒い霧事件


この西鉄ライオンズを中心に球界、更にはオートレースにまで広がった大スキャンダルで球界初の永久追放処分が下されたのは、今からちょうど50年前の今日でした。

※〝黒い霧〟は、1960年に発表された松本清張の作品 『日本の黒い霧』 に由来して名付けられたとか。


1969(昭和44)年のペナントレース中、西鉄ライオンズ担当の報知新聞記者が同球団の外国人選手から 「わざとエラーをする選手がいる」 という話を聞きつけ、読売新聞の社会部と合同で調査を開始。


それ以前に八百長行為の事実を掴んでいた球団は、八百長に関わったのが永易将之投手であることを特定。

         

彼をシーズン終盤に解雇しましたが、同年10月8日に 「解雇は八百長が原因」 と報知・読売両紙がすっぱ抜いたことで、この事件が表沙汰に。(↓)


         


そして50年前の今日・1969年11月28日、プロ野球機構・コミッショナー委員会は、永易投手を永久追放処分に。


(上掲の報知新聞は10月8日付ですが、決定する1ヶ月以上前に永久追放と見出しにしています。 どうして断言できたのか、不思議。)


・・・しかし、コトはこれで収まりませんでした。


球界を追われた永易投手は球団や中西監督を脅迫したばかりか、翌年4月に雑誌のインタビューで 「他にもやった選手がいる」 と言明。


更に国会内で記者会見して6人の選手名を公表し、球団が口止め料を支払ったことまで暴露。


    

          中央・マイク前に座っているのが永易元投手


その後オートレースの八百長事件にまで疑惑は波及し、結局永易投手を含め西鉄・中日・東映の選手6名が永久追放処分を下され、その他出場停止・戒告を受ける選手が続出。

オートレース選手19名も警察に逮捕されました。


あの江夏投手や、皮肉にもこの騒動をスクープした読売グループの巨人・藤田元司投手まで処分の対象となり、沈静化するまで2年近くを要する一大騒動に。

主力選手を失った西鉄は低迷を続け1972年に太平洋クラブに身売りする羽目になるなど、球界に大打撃を与えました。


中には永久追放処分を受けた後裁判で無罪を勝ち取り、現役復帰したオートレース選手もいましたが、私が残念に思うのはやはり永久追放された西鉄・池永正明投手のこと。


           


下関商業のエースとして3期連続甲子園に出場し、優勝・準優勝投手となった彼は1965年に鳴り物入りで西鉄に入団。


ルーキーでいきなり20勝を上げ、稲尾投手の後継者として早くも同球団のエースになると、1967年には23勝で最多勝。


入団5年で99勝をマークした将来の大投手でした。


同期入団した甲子園の優勝投手・尾崎将司投手が、キャンプのブルペンで彼のピッチングを見て 「こんな凄いヤツが一緒ではかなわん。」 とゴルフ界に転身したことからも、その才能の凄さが分かります。


その大器の未来を潰したのが、この事件。


先輩選手からの八百長話を断ったものの、「預かってくれ」 と言われた100万円をただ押し入れにしまったままにしていただけで永久追放。


他選手からの嘆願も通じず、当時から見せしめといわれた理不尽な処分で200勝・・・いや、300勝すら可能だった投手の未来を奪ったのですから。うー


ジャンボ尾崎選手や関係者の尽力により、池永氏の名誉回復・追放処分解除がなされたのは、事件から35年も経った2005年のこと。


社会人野球の監督就任など、自ら天職と語った野球にやっと関われるようになったことが、せめてもの救いでしょうか・・・。

一方、事件の中心人物だった永易投手は、2003年にひっそりと病死したことが週刊誌で報じられました。


少年たちの夢を壊し歴史に汚点を残す八百長・不正行為は、二度と起こして欲しくはありません。


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有耶無耶

将棋ファンの私にとって、それは少なからずショックを受けた出来事でした。 

それは今から26年前の1993(平成5)年11月22日に起きた


 森安秀光九段刺殺事件

つまり今日は、森安九段の二十七回忌にあたります。

       

森安九段は、1949(昭和24)年に岡山県笠岡市で生まれました。

小学校6年生の時に兄・正幸さんと共に奨励会に入会し、1968年には兄より一足早く四段に昇進。

新人王戦で優勝するなど、関西棋界のホープとして脚光を浴びました。

1980年にはA級八段となり、トップ棋士の仲間入り。

〝森安だるま流〟と呼ばれる粘り強さを信条として、1983年には棋聖戦に勝ち初タイトルを獲得。


しかし翌年A級から陥落し、一時はB級2組まで落ち低迷しましたが、1988年に九段に昇進し復活の兆しが見えてきた矢先に、事件は起きました。


1993年11月23日午前9時前、西宮市にある自宅書斎で森安九段がされて死んでいるのを妻が発見。(死亡推定時刻は22日午後5~6時)

警察に通報しようとしたところ、包丁を持った当時12歳だった中学1年生の長男に襲われ、首に全治2週間のケガを負います。

それでも気丈に包丁を奪うと、長男は


「ボクの逃げ場がないんや」

と絶叫して、そのまま家を飛び出しました。

妻は隣家に警察への通報を依頼し、事件が発覚。


    

警察が長男の行方を追い、翌24日午後2時過ぎ、自宅から約7km離れた行きつけのファミコンショップで発見・保護されました。

警察の取り調べに対して、長男は母を刺したことは認めたものの、受験勉強を厳しく強いていたという父親を批判する供述はしたものの、刺殺についてはは「知らない」と一貫して否認。


そして翌年1月に西宮児童相談所が長男の処遇を決定すると、森安九段を殺したのが誰か分からないまま、事件に関する報道は示し合わせたように一切されなくなりました。

誰が考えても犯人は長男なのに、そう断言するメディアはなく、また少年法に護られて児相がどんな処遇をしたのかも不明のまま、事件は風化しています。

当時より少年犯罪に世間が厳しい目を向ける現代では、実名や顔写真がネット上で拡散されるのでしょうが・・・。

おそらく生きているであろう長男は、現在38歳。
果たして、どこで何をしているのやら?


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惨 殺

実行犯らが死刑になり、マスコミもあまり取り上げないでしょうが、私たちが決して忘れてはならない出来事が、今からちょうど30年前の今日起きました。 それは

 坂本堤弁護士一家殺害事件

ご存知の通り、オウム真理教が引き起こした凶悪事件のひとつです。


     


横浜弁護士会に所属していた坂本堤弁護士は、江川紹子さんの紹介でオウム真理教からの信者奪回の相談を受けたことをきっかけに、1989(平成元)年5月から 『オウム真理教被害者の会』 を組織し、同教団を批判。

同年9月には『サンデー毎日』 がオウム真理教の特集をスタートさせ、坂本弁護士も取材に応じていました。

それを快く思わなかった教団側は、毎日新聞社の爆破や編集長の殺害を目論むも、実現不可能と踏んで断念。

教祖・麻原彰晃がその矛先を、坂本堤弁護士に向けました。

指示を受けた村井秀夫・早川紀代秀ら実行犯グループは、11月4日午前3時頃に横浜市磯子区にある坂本弁護士の(なぜか施錠されていなかった)自宅マンション内に侵入。

寝ていた坂本弁護士(当時33歳)と妻を絞殺、そして 「子供だけは」 という妻の哀願も聞かず、当時1歳の長男をも絞殺。

3人の遺体は車で上九一色村に運んだ後、3人別々の山中に遺棄されました。

失踪が明らかになって以降、自宅マンションからオウム真理教のバッジ・プルシャが落ちていたことから教団の関与が疑われましたが、教団は当然のことながらそれを否定。

また横浜弁護士会が共産党系であったため神奈川県警も本腰を入れなかったといわれ、捜査は進展せず。

しかし事件が風化しつつあったところで、捜査は急展開。


地下鉄サリン事件が起きた1995年3月以降、オウム真理教に対する捜査が進む中で、実行犯の一人・岡崎一明が同年4月に犯行を自供。

※この岡崎は、それ以前にも犯行をほのめかす手紙を警察に郵送していました。

同年9月に坂本弁護士の遺体が新潟県上越市で、妻の遺体が富山県魚津市で、そして長男の遺体が長野県大町市で相次いで発見されたのです。


    
                
長男の遺体捜索現場


実行犯の一人・村井は暴漢に刺殺され、首謀者・麻原と他の実行犯は2018年に死刑が執行され、事件は一見カタが付いたように見えますが、そうではありません。

オウム真理教はアレフなど教団・団体名を変え現在も存在していますから・・・。

地下鉄や松本サリン事件などを知らぬ若者が、また彼らに取り込まれてしまう可能性は十分あります。

それを防ぐためにも、私たちはこれら忌まわしい事件があったことを次世代に伝えなくてはなりません。

それから、もう一点。

当該事件の発端として、TBSの番組スタッフが坂本弁護士のインタビューVTRを教団信者に見せたことも忘れてはなりません。

松本サリン事件でも被害者であった河野さんを犯人と決めつけて偏向報道したことと合わせ、TBSの悪行も決して風化させてはならない、と私は思います。


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mistake

皆さんは、〝アプレゲール犯罪〟という言葉をご存知でしょうか?

これは終戦後にそれまでの価値観や権威が完全に崩壊し、それによって道徳観を欠いた無軌道な若者が起こした犯罪のことだそうな。

その代表例と言えるのが、今から69年前の今日起きた

 日大ギャング事件


でしょう。

1950(昭和25)年9月22日午後2時頃、日本大学の会計職員2名と運転手1名が銀行から同大職員約100名分の給与190万円を東京・神田の銀行から受け取り自動車で運んでいる最中、19歳の男性Yに “Hey stop!” と停められます。

普通はこの状況で停車させるはずはないのですが、このYは彼らと同僚の運転手。

「何の用だ?」 と気軽に車を停めて声をかけたところ、Yはいきなりナイフを出して同僚を切りつけて脅し、大手町方面に車を運転させた後、3人を車から降ろして現金の入ったボストンバックを強奪・逃走。

あの『3億円事件』より単純かつ荒っぽい手口ですが、簡単に身元が割れる間抜けな犯行ともいえます。

 ※三億円事件に関する過去記事は、こちら。(↓)


このYには、18歳の恋人Fがいたのですが・・・・何と彼女は、日大教授の娘。

大学構内で父親と同居していた彼女は息苦しさを感じていたらしく、宿直室で手紙の受け渡しをした際に知り合った、かつてグレた経験があり腕にジョージという刺青を入れ粋がっていたYに惹かれ、交際をスタート。

しかしそれが父親の逆鱗に触れ反対されたことで家出した彼女は犯行当日の夜、有楽町駅前の喫茶店で落ち合い、逃避行を始めます。

この強盗は、その駆け落ちというか逃亡資金を作ることが動機だったのです。

と言っても、品川区大井の会社員宅の2階をアメリカ人二世という振れ込みで英語を交えて間借りすることに成功したものの、すぐにその会社員の奥さんに新聞に出ていた犯人だと気づかれ、通報で駆け付けた警官に24日午後5時頃にあっさり御用。 

その際にアメリカかぶれのYが

Oh, mistake!

とオーバーに両手を広げて叫んだことが話題になったとか。

今なら間違いなく年末の流行語大賞にノミネートされたでしょうネ。


       

上の写真が、捕まった直後の二人ですが、何とも気取っていておよそ犯罪者には見えないところが、いかにもアプレゲール犯罪という感じ。

ですが、それもそのはず、彼らは逮捕されるまでの2日間で、強奪した190万の内30万円を衣服などの買い物で使いまくったんですから。


当時の大卒初任給が3,000円。 現代が約20万円だとすると、当時の30万は単純計算で約2,000万円!驚き顔

よくまぁそれだけの買い物が出来たもの・・・と怒りを通り越して呆れてしまいます。

翌年2月、東京地裁でYに4年以上7年以下の懲役、Fには懲役2年執行猶予3年の判決が言い渡されました。

その後Fは日大を退職した父親と共に別の仏教系大学に行き、そこで教師となり信者の男性と結婚したとか。

一報のYについては情報がありませんが、もし今生きていれば88歳。

存命ならば、その後の人生と犯行についての感想を聞いてみたいものですが・・・そもそも浪費した30万円を、彼は返済したんでしょうかねェ?うー

若気の至り、という一言では片づけられない、稚拙かつ重大な犯罪でした。


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スパイ

日本においても、過去に〝ゾルゲ事件〟という国家の安全を揺るがす大事件が起きましたが、古今東西を問わずスパイに関わる事件はこれまでに多数起きています。

 ※〝ゾルゲ事件〟に関する過去記事は、こちら。(↓)



その中でも、19世紀末にフランスで起きた

 
ドレフュス事件

  Affaire Dreyfus

ほど、国内外に大きな影響を及ぼしたスパイ事件はないでしょう。


1870~71年にかけて勃発した普仏戦争に敗れたフランスは莫大な賠償金を背負わされ、経済は逼迫。

国民はロスチャイルドなどユダヤ系金融資本が勧める投資になけなしの貯金を注ぎ込みましたが、1882年に起きた金融恐慌で多くの投資銀行が倒産したため、全てを失うことに。

その結果、フランス国内では反ユダヤ感情・反ユダヤ主義が高まりました。

そんなフランス第三共和政が不安定な時期であった1894年9月に、フランス陸軍情報部がパリの駐在武官邸からフランス軍関係者にドイツのスパイがいることを示唆するメモを入手。


即座に漏洩した情報を知り得る立場にいた関係者の調査を開始した陸軍本部は、参謀本部付きのユダヤ人砲兵大尉だったアルフレッド・ドレフュスを反逆罪で逮捕。


        

                     Alfred Dreyfus

しかしその根拠は、筆跡が似ていたという1点のみ。

彼がユダヤ系だったということが疑いをかけられた大きな理由・・・つまりは冤罪でした。

これを反ユダヤ系新聞『自由言論』紙がすっぱ抜き、「
ユダヤ人は祖国を裏切る売国奴であり、その売国奴を軍部が庇っている」と軍部を糾弾。


 


引っ込みがつかなくなった軍部は、証拠不十分のまま非公開の軍事裁判で無罪を主張するドレフュスに有罪判決を下し、彼を南米の仏領ギアナ沖に浮かぶディアブル島に終身城塞禁錮としました。


ところがその後、新たに参謀本部情報部長な就任したピカール中佐がハンガリー生まれのエストラジ少佐が真犯人であることを突き止め、軍上層部に報告。


しかし面子にこだわる軍上層部はそれを握りつぶしたばかりが、ピカール中佐を左遷しエストラジに無罪を言い渡し釈放したのです。 

(※エストラジはその後渡英し、平穏な生涯を送ったそうな。)

失望した彼が事件の真相をドレフュスの弁護士に伝えたことから、再審が請求され、再び同事件は世間の注目を集めることに。

そして1898年1月、『オーロール』紙が作家エミール・ゾラの署名入りのフォール大統領宛ての公開書簡の形で、「余は弾劾す(J'accuse!  )」と題する記事を掲載。


        


その中でドレフュスの無罪を主張し、陸軍当局が証拠をでっち上げ上層部がそれを謀議したこと、軍事裁判も真犯人を秘匿したことなどを激しく告発したのです。

        

                      Émile Zola


ところが反ユダヤ勢力から批判されたゾラは、逆に軍部に対する誹謗中傷で訴えられ有罪とされたため、イギリスに亡命する羽目に。

しかしその後、ドレフュス有罪の証拠を捏造した疑いのある軍人が自殺するなどの疑惑が浮上し、唯一の証拠である密書の筆跡鑑定が再度行われた結果、ドレフュスではなくエストラジのものであることが明らかに。

再審が行われましたが、それでも判決は情状酌量で禁錮10年の有罪判決。


再び収監され失望の底に沈むドレフュスを救ったのは、大統領特赦でした。

再審請求を取り下げることを条件に出されたこの特赦により彼が釈放されたのが、今からちょうど120年前の今日・1899年9月19日のことでした。


ドレフュスに正式な無罪判決が出されたのは、それから7年後の1906年。

軍籍に戻り少佐に昇進した彼は、1909年6月に引退したものの、第一次世界大戦が勃発すると砲兵中佐として参戦したといいますから、天晴れな軍人根性の持ち主だったと言えましょう。


フランス国内では、これで一件落着となった感のある同事件ですが、国際的にはその後大きく歴史を動かすことに。

というのは、この事件を新聞記者として取材していたテオドール・ヘルツルがユダヤ人に対する差別・偏見を目の当たりにしたことから、ユダヤ人国家建設を目的とするシオニズムを提唱し、これがその後のイスラエル建国に繋がっていったのですから。

ただ残念ながら、1935年に没したドレフュスは、その瞬間を目にすることは出来ませんでしたが・・・。


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英 雄 ?

世界で最も有名な絵画は? と問われたら、きっと多くの方がレオナルド・ダ・ヴィンチの傑作、

 モナ・リザ
  Mona Lisa


と答えるでしょう。


        

モデルがフィレンツェの豪商フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リサ・デル・ジョコンドとされていることから、“La Joconde ” とも呼ばれ、1503~1506年の間ポプラ板に油彩で描かれたこの絵画は、現在フランスの国有財産としてハリのルーブル美術館でガラス越しに常設展示されています。

※モナ・リザのモナは
婦人の意で、そこに名前のリザをつけたもの。
つまりリザ婦人(夫人)ということ。


        


しかしガラスケースに納められていたにも関わらず、ルパン三世のように盗もうとする人間は出てくるもので・・・。


〝20世紀最大の美術品窃盗〟といわれる、モナ・リザ盗難事件が発覚したのが、今から108年前の今日の事でした。

その歴史に名を残す犯人は、


 ビンセンツォ・ペルージャ

Vincenzo Peruggia,

という、1881年生まれのイタリア人。


       

当時30歳だった彼は塗装職人として生計を立てていましたが、その前年にモナ・リザを保護するガラスケースの設置作業スタッフに加わっており、ケースや絵の外し方を熟知していました。

1911年3月20日の日曜日、翌日が閉館になることを知っていた彼は館内に潜伏。

翌朝隠れ場所から出てきた彼は、目立たないように職員と同じような身なりをして展示場所に行き、無人であることを確認した上でガラスケースを外してモナ・リザを額から外し着用していたスモックの中に隠して、まんまと持ち出しに成功。

盗難が発覚したのは、翌日の8月22日になってからの事。
ちょっと信じられない悠長さですが、ルーブル美術館は大騒ぎに。
この警備の甘さの責任を取らされて、館長はクビ。


       

もちろん警察は威信を賭けての捜査となりましたが、複数犯の犯行と断定して国際犯罪組織を追跡するなど、当初から見込み違いをしたおかげで、犯人は分からず仕舞い。

とばっちりを受けたのは、ルーブルから彫像を盗んだ犯人とたまたま知り合いで、かつて 「ルーブルなど燃えてしまえ」 と言い放ったことがある、詩人ギヨーム・アポリネール。

彼は逮捕され尋問を受ける羽目に・・・まさに口は禍の元。

更に彼が助けを求めたパプロ・ビカソまで疑われて連行・尋問されたと言いますから、いい迷惑。

当然彼らは無罪放免となりましたが、モナ・リザの行方はようとして知れず。

しかし、2年間パリ市内の自宅でモナ・リザを保管していたペルージャがそれを手にイタリアに戻り、「我が国の誇りの象徴を持っている」と画商に手紙を送ったことから、足がついてしまいます。

トスカーナ地方の画商が 「鑑定したいので、絵をフィレンツェのホテルに持ってきて欲しい」 と連絡すると、ペルージャはノコノコやってきました。

そして
ウフィッツィ美術館の館長による鑑定の結果本物であることが分かった時点で警察に通報され、ペルージャはホテルにいるところを敢え無く御用・・・モナ・リザは、無事ルーブルに戻ったのです。

ところで、なぜペルージャはモナ・リザを盗んだのか?

この動機について彼は「ダ・ヴィンチが描き、ナポレオンが盗んだ祖国の宝物を取り返す」、つまり愛国心からだったと裁判で主張したとか。

※実際はナポレオンが盗んだわけではなく、ダ・ヴィンチがフランソワ1世お抱えの宮廷画家になるべくフランスを訪れた際に献呈したもの。 ペルージャはそれを知らなかった模様。


しかし、それならなぜすぐにイタリアの美術館などに持ち込まず、自宅に2年間も隠し持っていたのか説明がつきません。

また贋作家に唆されたという説もありますが、やはり自ら隠し持っていた事実と符合しません。

個人的には、単にほとぼりが冷めるまで待ち、売ってカネに換えようとした・・・と思うんですけどネ。

しかし彼にとって幸いだったのは、祖国イタリアで逮捕されたこと。

もしフランスで逮捕されていたら大泥棒として厳罰に処せられるところですが、イタリアは彼の主張を受け入れ、出された判決は僅か禁固1年ちょっと。(実際には約半年で出所したそうな。)

まさに愛国者の如き扱い・・・なんだか日本の要人を殺害した犯人を英雄視するどこぞの国と似たような話ですが、まぁ無事モナ・リザが戻ったから、良しとしますか。


出所後の彼は第一次世界大戦にイタリア軍の兵士として従軍、結婚して3人の子をもうけ、フランスに戻った後は塗料庫を経営。

1925年の誕生日に44歳で亡くなりましたが、その時は大きく報じられることはなかったそうな。

イタリアの英雄と言われた割には、静かな最期だったようです。

まぁ本人も家族も、その方が良かったかもしれませんネ。


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