
殆どの方は、
光市母子殺害事件
をご記憶のことと思います。
当該事件は1999(平成11)年4月14日、少年が山口県光市のアパートに強姦目的で侵入して本村弥生さん(当時23歳)の首を絞めて殺害、そして泣き叫ぶ長女・夕夏ちゃん(生後11ヶ月)を床に叩きつけるなどして殺害したという、日本中を震撼させた凶悪な犯行でした。
つまり今日は、殺された母子の二十三回忌にあたります。
犯行時18歳1ヶ月だった犯人に対し、ご主人の本村洋さん・検察側が死刑を求刑したものの、2000年3月22日に山口地裁の下した判断は無期懲役。
2002年3月14日に広島高裁は検察側の上告を棄却しました。
ところがその4年後の2006年6月20日、最高裁は検察側の上告に対し広島高裁の判決を破棄し、審理を差し戻しました。
その後再び広島高裁での集中審理等を経て2008年4月22日、被告に死刑が言い渡されたのです。
事件から差し戻し判決まで、実に9年以上を要したこの裁判について、私は非常に注目していました。
現行の少年法に対する疑問と、それを将来(実質)的に改定する契機となり得る、もしくは今後の事例に大きく影響する判決となるだろう・・・と思っていたからです。
また平凡なサラリーマンから、一転して悲劇の主人公となってしまわれた本村さんが事件当時23歳という若さであり、最愛の妻子2人の無念を晴らすために闘う・・・それのみに10年近くの貴重な青春時代を犠牲にされたことに、同情を禁じ得なかったからでもあります。
事件当初から、本村さんの言動を拝見するにつけ、20歳代の若者がよくぞあそこまで感情を乱すことなく、冷静かつ客観的に対応できるものだ・・・と感心するばかりでした。
それは偏に「妻子の墓前に良い報告ができるまでは・・・」という強い気持ちで自らの感情を抑制し続けたのだ、と私は推測します。
おそらく多くの国民が本村さんの主張に共感していたと思います。
一方加害者側は、過去の判例から「殺意を認めても死刑にはならない」と、一審からタカをくくっていた節が伺えました。
実際、第二審判決までは想定通り。 ですから
「私は環境のせいにして逃げるのだよ」
「無期はほぼキマリ、7年そこそこに地上に芽を出す」
などと綴られた内容が問題視された〝友人への手紙〟の文面こそが、おそらく気を許した加害者の本心であったろうと私は思います。
犯人のF少年
従ってこの事件に関し、多くの法曹関係者の予想に反し最高裁が広島高裁に差戻したことは、画期的な事だと私は評価しました。
(強いて言わせてもらうならば、差戻しではなく、直接「極刑判決」を出せなかったのか?・・・それが残念ではありましたが。)
最高裁での上告審に、公判開廷を予期していなかった(?)主任弁護人の安田弁護士らが(故意に?)欠席して引き延ばしを図るなどして著しく裁判官の心証を悪くし、挙句の果てには差戻し審で殺意を一転否認、“人権派(?)弁護士”20人以上を集めた上での意見陳述は、裁判に関して素人である我々一般人をも呆れさせるような、荒唐無稽の内容でした。
それに被告弁護側からは被害者遺族の心情を逆撫でする、またこの裁判を被告人のためだけでなく、死刑廃止運動の一環であるかのように捉えているような言動も散見され、また途中解任される弁護士も出るなど、およそプロの法律家集団とは思えない、更に言わせてもらえば非人間的な心象を強く持たざるを得ませんでした。
個人的には、被害者側弁護士20人以上が束になっても本村さん一人の毅然とした言動には到底及ばなかったのでは・・・という印象を強く受けました。
この死刑判決は18歳以上には死刑を宣告できる現行刑法に準拠しており、おそらく多くの国民の感情に沿うものだと思いますし、凶悪化の一途を辿る(少年)犯罪の抑止に繋がることを期待しています。
とは言え、昨年12月に最高裁が特別抗告を棄却する決定を下し、死刑囚の再審請求が認められないことが確定しているものの、現在に至るまで死刑の執行は為されていません。
既に再婚され新たな結婚生活を営んでいる本村さんですが、法務大臣の執行命令が出されるまで気持ちのケジメはつけられないでしょうネ。
犠牲になった母子のご冥福を祈りつつ、一刻も早い死刑執行を望みます。
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葬儀屋時代から、私が非常に関心を持っている〝安楽死〟。
ますます高齢化社会となる日本において、これは避けられない問題だと思っていますが、それが日本で初めて医師によって実行された
東海大病院安楽死事件
が起きたのが、今からちょうど30年前の今日でした。
Fさんは会社の健康診断で貧血と血小板の現象を指摘され、1990(平成2)年4月に東海大学医学部付属病院を受診し、多発性骨髄腫の疑いで入院しました。
検査の結果その病気であることが確定しましたが、本人にその病名は知らされず、長男だけに伝えられました。
多発性骨髄腫は骨髄が侵されるもので、平均余命は1~3年。
骨が劣化して骨折をきたすこともあり、激痛を伴う難病。
病院側の治療にも拘わらずFさんの病状は悪化し、翌1991年4月に入ると激痛に苦しむように。
その様子を見た家族から「早く楽にさせてくれ」と自宅にまで執拗に電話をかけてこられた研修医は根を上げて同月11日に担当から外れ、当月から治療に当たっていたT医師が一人で対応することに。
翌12日、Fさんが昏睡状態に陥ったものの、T医師は治療続行を家族に進言しましたが、家族からの要望により、点滴を外し治療を中止。
この時点で消極的安楽死の措置を取ったと言えますが、その後も苦しそうな息を続けるFさんを見かねて、長男が「早く楽にしてほしい。早く家に連れて帰りたい。」と再三にわたり迫られたT医師が様々な投薬をしたものの容体が変わらず。
「先生は何をやっているのか。まだ息をしているじゃないか!」
と激しい剣幕で家族に怒鳴られたT医師は家族の説得を諦め、4月13日に塩化カリウムを注射・・・その数分後、Fさんは静かに息を引き取りました。
家族からの執拗な要求が無ければ自然死を迎えていたはずなのですが、看護婦からの報告で塩化カリウムの投与を知った大学側は、4月25日付けでT医師を懲戒処分とし、翌日神奈川県警に報告。
おそらく大学側はT医師の個人的な行為と位置付けてトカゲのしっぽ切りを画策したのでしょう。
しかし5月14日の夕刊紙がこの一件を〝医療殺人〟とセンセーショナルに報じたことで、一気に世間の注目を浴びることとなりました。
世間の動向を見極めた上で、横浜地検は事件から1年以上経った1992年7月にT医師を殺人容疑で在宅起訴。
裁判において家族側は「命を絶つ薬なら投与を断っていた」と(私に言わせれば身勝手な)主張。
これに対しT医師は 「早く楽にして欲しいという家族の依頼は、本人の意思を代弁したと推定でき、穏やかな死を願って行なった被告の行為は安楽死に準ずる」 と反論。
結果、1995年に横浜地裁が示した安楽死の許容条件は
①患者に耐え難い激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
②患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
③患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がないこと
④生命の短縮を承諾する患者の明確な意思表示があること
であり、当該事件については昏睡状態なので①を、また患者本人の意思表示がないから④を満たさない・・・として、T医師に対し懲役2年・執行猶予2年の有罪判決を下しました。
(また厚生省の医道審議会は医師免許停止3年の行政処分を下しています。)

『死への扉 東海大安楽死殺人』 (入江吉正・著 新潮社・刊)
個人的には、①は本人にしか分からず、また長男が本人に病名を告知させなかった時点で最初から④は満たせないと思いますが・・・。
また執拗に処置を要求した家族(特に身勝手な長男)に何ら非はないのか? T医師を殺人で起訴するなら、長男は殺人教唆で起訴されて然るべきではないのか?・・・という疑念が残ります。
判決を読み上げた後、裁判長は
「被告には誤った一歩だったが、末期医療の歩みの一歩になるように願う」
とT医師に語りかけたそうてすが、残念ながら事件後30年経過した現在でも(積極的)安楽死に関して法制化は為されていません。
人間に生きる権利があるなら、死ぬ権利だってあるはず。
安楽死について法制化しないと、今後も医師や家族、そして何より苦痛に悩まされる患者本人それぞれにとって不幸な状況が誰にでも起こり得ると思うのですが・・・。
少なくとも私は、病気で苦しみながら他人の手によって不要な治療や延命措置などして欲しくないです。
皆さんは、いかがでしょうか?
※ちなみにT医師は、その後開業医として再スタートし、地域住民に信頼されつつ日々診療を行っているそうな・・・この事件における、唯一の救いと言えましょうか。
私が全く知らない世界のひとつに 〝骨董〟 があります。
以前、『開運 なんでも鑑定団』 を観ていたら、「おっ、これは高そう!」 と思った家宝(?)の評価額がたったの3,000円だったりして私は苦笑い、出品者の顔はみるみるまっ青・・・なんてこともたびたび。
まぁ、個人の所有物だったらまだ笑って済む場合もありますが、それが国の重要文化財だったらそうはいきません・・・が、残念ながら実際にそれが起きてしまったことが。 俗に
永仁の壺事件
と呼ばれる、重要文化財の偽物騒動が、それ。
戦時中の1943(昭和18)年に、「永仁二年」(※1294年) という銘を持つ壷(瓶子=へいし)が愛知県で出土したと地元新聞で紹介され、これを人間国宝の陶芸家・加藤唐九郎氏が鎌倉時代の作品であると解説。
1959(昭和34)年6月27日、文部省は陶芸研究家の文部技官・小山富士夫氏の強い推薦を受け、この〝永仁の壷〟 を鎌倉時代の古瀬戸の基準作品として、重要文化財に指定しました。
(ちなみに、加藤・小山両名は、日本陶磁協会の仲間内。)
ところが、その直後から地元では 「これは鎌倉時代ではなく、現代の作品ではないか?」 という疑念の声が上がり、新聞で取り上げられるなど騒ぎが大きくなったそうな。
そして指定から2年後、唐九郎氏の長男・嶺男氏と、そして唐九郎氏本人が、相次いで 「自分が作った」 と爆弾発言。
更に壷をX線等の科学分析にかけた結果、鎌倉時代のものでないことが判明。
それを受けて今からちょうど60年前の今日・1961(昭和36)年4月10日、〝永仁の壺〟の重要文化財指定取り消しが決定されたのです。 (※文化財保護委員会告示第25号)
そして唐九郎氏は同年に人間国宝の認定を解除され、小山氏も文部技官を辞任する羽目に。
で、ここからが私には理解できないんですが・・・その後、人間国宝でなくなった加藤唐九郎氏の評価は下がるどころか、逆に人気が上がったというのです。
加藤 唐九郎 氏
その理由は、「国を騙すほど腕が良い」 からだったとか。 😱
こういう話を聞くと、つくづく私のような素人は骨董・美術品に手を出しちゃダメだと思います。
他人様の泣き笑いを、テレビで観ている分に損はナシ・・・。
今から26年前の今日、朝8時15分過ぎ。
当時サラリーマンだった私は、出勤のため地下鉄有楽町線に乗っていました。
・・・と、走行中に電車が突然止まり、しばらくして 「先程、築地駅で走行(運行?)障害が発生しました。」 というような車内放送が流れたのです。
普段 「車両点検により・・・」 とか 「人身事故により・・・」 等々の案内は時々耳にしますが、そんなアナウンスは初耳。
(一体、何があったんだ?)
という、何とも言えぬ胸騒ぎというか、イヤ~な予感がしたことを憶えています。
出社してすぐにクルマで営業に出かけた私は、やたらに走り回るパトカーのサイレンを耳にする異様な雰囲気の中ラジオから流れてくる臨時ニュースを聞き、初めて車内アナウンスが何を意味していたのかを知ることに・・・。
それが1995(平成7)年3月20日、オウム真理教によって引き起こされた
地下鉄サリン事件
でした。
12名の死者、そして約6,000名もの重軽傷者を出したこの事件そのものについては、あらためてここで説明する必要はないと思います。

しかしこの事件が起きた日、3名の医師による 〝英断〟が多くの人命を救ったことについて、当時は殆ど報道されませんでした。
最も多くの被害者を出した地下鉄日比谷線・築地駅。
あまりの被害者の多さに、病院に連絡を取る余裕もないまま救急隊員によって続々と搬送される被害者を見て、
◆ 外来患者を断り、事件の被害者治療を最優先。
◆ 全ての搬送を受け入れる。
これを即時決断したのが、当時の聖路加国際病院々長・・・2017(平成29)年7月に105歳で大往生を遂げられた日野原重明氏 。
ベット数が足りず、礼拝堂を開放して軽症患者を運ぶよう指示したのも日野原院長だったそうです。
故・日野原重明先生
一方事態が掌握できなかったため当初は農薬中毒という見方が大勢だったものの、瞳孔収縮等それでは説明できない症状がみられ、治療方法を確定できなかった医師団のもとに一本の電話が入ります。
電話の主は、信州大学付属病院の柳沢信夫医師。(現・信州大学及び東京工科大学名誉教授)
9ヶ月前に起きた 『松本サリン事件』 で被害者治療の指揮を執った方でした。
たまたま観ていたテレビで事件を知り、その被害者の特徴的な症状から 「サリン中毒に違いない」 と確信。
すぐに自ら聖路加病院に直接電話をかけ、特効薬・治療法などをFAXで伝えたのでした。
その電話を受け、最終的に特効薬 ・プラリドキシムヨウ化メチル(PAM ) の投与を決断したのは、同病院救命救急センターの石松伸一医師(現・聖路加病院副院長)。
サリン中毒でなかった場合、この薬の持つ強い副作用で被害者が死亡することも有り得る・・・という状況下での、ギリギリの決断だったそうです。
◆もし聖路加国際病院が全被害者の受け入れを拒否していたら?
◆もし柳沢医師が直接病院に電話せず厚生省等に連絡していたら?
◆もし石松医師によるPAM投与の早期決断がなかったら?
後日アメリカ国防総省から、「死者が70~80名出てもおかしくない無差別テロにもかかわらず、どうして被害を最小限に食い止めることができたのか?」 と日本政府に照会があったとか。
その答えは3人の医師による英断と、救出にあたった警察・消防の方々、また特効薬 “パム” の配送に携わった製造元・スズケンや住友製薬の社員さん、そして非番にも関わらずテレビを見てすぐさま病院に急行し治療に加わった看護士の方々など、多くの人々による献身的な救命活動の集積だった、といえるでしょう。
政治家の優柔不断・実行力不足が目立つ昨今。
国会等で上っ面の空虚な言葉を並べ立て批判や個人攻撃など枝葉末節に拘っている彼らは、非常時に勇気ある決断を下した3人の医師たちの行動を見習うべきでしょう。
そして26年経過したということは、この事件を全く知らない若者が成人になる・・・いや、実質的には現在30歳未満の若者には殆ど実感がないはず。
2018年に松本被告ら当該事件に関わったオウム信者らが死刑になったものの、この教団が名称を変えて存続していることを含めて、
日本国内で起きた未曾有のテロ事件を、絶対に風化させず次世代に語り継がなくてはなりません。
最後になりましたが、この事件で不運にも尊い命を奪われた犠牲者の皆様のご冥福と、今なお後遺症に苦しんでいらっしゃる多くの被害者の一刻も早いご回復を、心よりご祈念申し上げます。
バーミヤン・・・といっても、中華料理チェーン店の話じゃありません。
それはアフガニスタンの中央部に位置する、バーミヤン州の州都。
バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群
があることで有名ですが・・・今からちょうど20年前の今日、その遺跡が破壊されてしましました。
標高2,500mの高地にあるこの渓谷には、1世紀頃から石窟仏教寺院が開削され始め、その数は累計1,000個以上もあります。
東西の文明が融合した優れた仏教美術が遺されており、特に有名な5~6世紀に掘られた西大仏(高さ55m)と東大仏(同38m)は、630年に唐僧・玄奘が訪れた際には金色に光り輝いていたとか。
西大仏
しかしその後イスラム教徒の勢力が入り込み、次第に仏教徒の共同体は消滅しましたが、それでも大仏は放置され顔の部分が崩落したものの、破壊されることはありませんでした。
そして19世紀以降、西洋人や日本人が山岳地帯の奥深くまで探検に訪れて仏教美術が紹介されると世界的文化遺産として注目を集めるように。
ところが1979年にソ連がアフガンに侵攻して以降は外国人の立ち入りが困難となり、学術機関による調査・保存事業は中断。
また1980年代以降の内戦激化に伴い、遺跡の周囲に地雷が埋設されるなど状況は悪化。
1998年に同地がタリバンに占領されると、彼らはイスラム教の戒律のもとバシュトゥーン人の古い慣習を市民に強制し、国際的な非難を浴びて孤立。
そして2001年2月26日、タリバンはイスラムの偶像崇拝禁止に反するとして、バーミヤンの大仏破壊を宣言。
諸外国・国連・イスラム指導者らが反対する中、翌月12日に爆破・破壊してしまいました。
実は当初、タリバンは遺跡破壊を目論んではいませんでした。
しかし実権を握ったビンラディンの意向で破壊が実行されたとか。
同年にアメリカがアフガンに侵攻し、11月にはイスラム統一党がバーミヤンを奪還したものの、時すでに遅し。
紛争終結後の調査により、大仏のみならず石窟の壁面に描かれた仏教画の約80%が破壊されていることが判明。
その後日本からも多額の資金を拠出して修復がなされていますが、元々が岩盤をくりぬいて作られた石造ですから、完全修復とはいかないでしょう。
一度破壊された文化財は、2度と戻ってはこないのです。
本来、宗教とは人々の幸せと安寧を願うはずのものなのに・・・。
2月26日といえば、多くの方が二・二六事件を思い浮かべるはず。
皇道派の影響を受けた一部の陸軍将校らが約1,500名の下士官兵を率いて今から85年前・1936(昭和11)年の今日クーデターを企て、高橋是清ら4人の重要人物(と警官5人)が殺害されました。
※高橋是清に関する過去記事は、こちら。(↓)
実はその4人の中に、本来クーデターの標的ではなかった人物が1人いました。 それは
松尾 伝蔵 陸軍歩兵大佐
この方、反乱軍の標的だった岡田啓介首相の秘書であり、身代わりというか人違いで殺害されたのです。
松尾大佐は、1872(明治5)年に福井藩の槍術師範だった父の長男として現在の福井市に生まれました。
陸軍士官学校を卒業後日露戦争に従軍し、旅順包囲戦や奉天会戦などで戦功を挙げると、1917に陸軍歩兵大佐に昇進しシベリア出兵に従軍。
1921年予備役に編入された後は郷里の福井に帰り、福井市議に就任。
退任後は在京軍人会の会長を務めるなど、面倒見の良さから周囲に信頼され親しまれたとか。
その彼がなぜ岡田首相の秘書を務めたのかというと・・・彼の奥さんが岡田首相の妹、つまり首相の義弟だったから。(岡田・松尾両名とも福井・旭地区出身の同郷)
1934(昭和9)年に岡田首相が誕生するや、彼自身が「傍らで働きたい」と申し出ると、全ての公職を辞して4歳年上だった義兄の秘書官となったのです。
その言葉通り、松尾秘書官は首相官邸に住み込んで甲斐甲斐しく岡田首相の世話をしたそうですが・・・2月26日午前5時、機関銃やピストルで武装した反乱部隊約300名がその官邸を襲撃。
警備の警官4名を次々殺害しましたが、その間に松尾秘書と土井巡査が岡田首相を女中部屋の押し入れに隠すと、その場を離れて中庭へ。
そこで反乱部隊と遭遇し、松尾秘書官は15発もの銃弾を浴びて憤死、土井巡査も抵抗の末銃剣で刺殺されました。
兵士らは遺体を首相の居室に上げ布団に横たえましたが、遺体の顔や欄間にかかっていた岡田首相の肖像画を興奮のあまり銃剣で突いてしまい顔がよく分からず、てっきり岡田首相本人と勘違いし目的を果たしたと喜んだとか。
上の写真、左が岡田首相で右が松尾秘書官ですが・・・まぁ似ていると言えば似ていますが、暗殺を企てながらそのターゲットの顔をロクに知らなかったとは、いかにもお粗末。
結果、岡田首相は義弟が身代わりになってくれたおかげで間一髪難を逃れ、他の秘書官の機転で翌日訪れた多くの弔問客に紛れ官邸脱出に成功しました。
無給で義兄に尽くした松尾秘書官は身代わりとなって本懐を遂げた形となりましたが、事件後憔悴した岡田首相は3月6日に内閣を総辞職。
終戦後の1952年に岡田首相は亡くなりましたが・・・事件から16年後にあの世で再会した義兄弟は、一体どんな会話を交わしたのでしょうか?
1970年代の日本では、三菱重工ビル爆破(↓)など過激派によるテロ事件が頻発したことは、昭和世代の方ならご記憶のはずず。
そのハシリというか、端緒となる
真岡銃砲店襲撃事件
が起きたのは、今からちょうど50年前の今日でした。
事件を起こしたのは、日本共産党(革命左派)神奈川県委員会 [※メディアでは京浜安保闘争とも表記] のメンバー。
1969年12月に逮捕された同委員会議長・川島豪が、獄外最高指導者の永田洋子らに自らの奪還を指示したことが発端でした。
川島豪 永田洋子
永田らは当初、外国領事館等の要人を誘拐し川島との交換を画策しましたが、断念。
次に川島が公判出廷のため拘置所から地裁に護送されるところを襲撃する計画を立て、その際に必要な銃火器の入手を画策。
1970年12月に警官の拳銃を奪うべく東京・板橋区の上赤塚交番を3人のメンバーが襲撃しましたが、警官に発砲され逆に1人死亡し2人が重傷を負い逮捕されてしまいます。
この失敗により警官襲撃を諦めた彼らは、次に狩猟中のハンターから銃を奪うことも考えたものの、最終的に民間の銃砲店をターゲットにすることを決定。
民間人を襲撃することに疑問の声も出たようですが、
「銃砲店は警察権力と一体化しており、その末端機関と見なすべき」
と正当化・・・過激派の自分勝手な論理には呆れるばかりです。
そして1971(昭和46)年2月17日午前2時半頃、栃木県真岡市の銃砲店に実行犯6人が電報配達を装い、勝手口が開いた途端に乱入。
夫婦と子供2人を縛った上で猟銃10丁(散弾銃9・ライフル1)と空気銃1丁、実弾約2,300発を強奪しました。
事件直後に大規模な捜査網が敷かれ、車を乗り捨ててゴミ箱に隠れていた2人が程なく逮捕され、犯行メンバーや永田洋子ら獄外指導者が指名手配されました。
これにより永田ら犯行メンバーは都市部での活動が困難になり、山岳地帯にアジトを移動。
また永田は捜査網からの逃避の中で、強奪した銃を当初の目的だった最高指導者の奪還から、武力闘争の利用へと方針を変更。
強奪した猟銃の一部は赤軍派に金銭との交換で〝相互協力〟という形で譲渡され、同派によるМ作戦(金融機関強盗)の一環として同年7月の松江相銀米子支店強奪事件で使用されました。
またこの時の猟銃は革命左派と赤軍派が合流した連合赤軍による 『あさま山荘事件』 の際、立て籠もり犯が使用しています。

※『あさま山荘事件』に関する過去記事は、こちら。(↓)
事件直後に逮捕された2名を除く4名の実行犯は、1971年8月に1名、同年11月に1名、1972年2月に1名と永田洋子が逮捕され、残る1名は山岳ベース事件で殺害されていたことが後に判明しました。
この襲撃事件により、銃砲店店主が全治2週間の負傷を追い、妻と6歳・5歳の子供は重いPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患ったといいます。
今でこそ過激派のテロ活動は影を潜めていますが、依然構成員は約2万人もいるそうな。
決して安心できる状況ではないのです。

宮家の御婚儀といえば目出度いお話ですが、そうとは言えない天皇家と宮内庁・政府を巻き込んだ大騒動、
宮中某重大事件
が決着したのは、今からちょうど100年前の今日でした。
事の発端は、良子女王の兄・朝融王に学習院の身体検査の結果色弱が発見されたことから、元老・西園寺公望が当時注目されていた優生学の観点から万世一系の皇室の遺伝に障害が生じる可能性を山縣に相談したことにあったとか。
他にも要因があったとも言われますが、良子女王の母が薩摩藩出身であることから、世間には長州出身の山縣が皇室に薩摩の血が入るのを嫌ったという憶測が流れました。
当初は久邇宮家が辞退止む無しとの動きを見せましたが、皇太子に帝王学を教えると同時に良子女王の家庭教師をも務めた東宮御学問所御用掛・杉浦重剛がこれを知って激怒。
「人道上、取るに足らぬ些少の欠点をもって御内定を取り消すことは、満天下に悪模範を示すものである」
として御用掛の辞表を提出すると、各界要人が婚約解消反対の運動を展開。

杉浦重剛
これにより、当初婚約解消の動きは宮内省が厳重な箝口令を敷いて極秘としていたものの、徐々に表面化。
翌年1月に読売新聞が報じたことを皮切りに、各新聞が 『宮中某重大事件』 として書き立てると世間は大騒ぎに。
そして杉浦の動きに呼応した頭山満・内田良平・北一輝ら大物の右翼国粋主義者が婚約解消は長州閥・山縣の策謀だとして、2月11日の紀元節に合わせ決起大会の開催を計画。
※頭山満に関する過去記事は、こちら。(↓)
この混乱が宮家の権威に悪影響を及ぼすことを危惧した宮相・中村雄次郎が紀元節前日の2月10日に、「良子女王殿下東宮妃御内定の事に関し世上種種の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更なし」と婚約解消はないと発表。
翌日の新聞にこれが掲載され、ようやく騒動は収まりました。

もちろん、婚約解消がなくなった背景に裕仁親王の強い意向があったことは言うまでもありません。
しかし皇統の維持を願って動いたはずがすっかりヒール役となってしまった山縣有朋は、枢密院議長職など全ての官職の辞表を提出し勅許のないまま神奈川県小田原の別宅に謹慎・・・失意のうちに、
翌年死去。
また一貫して山縣との協調姿勢を取り、この事件でも婚約解消に反対しなかった当時の首相・原敬は、国粋主義者から〝君側の奸〟と見做され、9ヶ月後の暗殺事件に繋がったともいわれています。
※原敬に関する過去記事は、こちら。(↓)
そして裕仁親王と良子女王は、関東大震災によって延期されたものの1924(大正13)年1月26日に目出度くご成婚。
お2人の間に生まれた皇子女に、色弱はありませんでした。
当該事件について詳しく知りたい方には、こちらのご一読をお勧めします。
『宮中某重大事件』 (大野 芳・著 学研М文庫・刊)