〝米百俵〟ではないですが、国家繁栄のために最も大事なものは、教育です。
戦後の教育制度に関しては様々な批判がありますが、今日はその教育や教師の姿勢と生徒の心構えに関して、先日記事にした升田三冠の終生のライバルにして将棋界の巨人・大山康晴十五世名人の言葉をご紹介致します。
◆ ◆ ◆ ◆
教育のことは、私はアマチュアである。
子供の教育のことも、家内に任せてきた。
ただ私は、将棋のプロという点では、対局者であると同時に教えるという立場にある。
将棋の技術については、私に限らずプロ棋士は厳しい修業を経ているし、一本立ちしてからも長いキャリアを持つ。
アマチュアの方を指導するのは〝稽古〟といって、プロ棋士の仕事でもある。
同時に、プロ棋士はプロの若手を鍛え、育てる義務を持つ。
アマチュアを教える時は応分の報酬をいただくが、プロの若手を教えるのは無報酬である。 というよりは、持ち出しとなる。
私たちが内弟子生活をした時も、食費から万端のことは師匠の負担であった。 内弟子でない通いの弟子からは月謝を取っていた。
不思議なもので、タダで修業させてもらった内弟子は、それぞれに九段、名人と最高位を極めたが、通い弟子の中から最高位に昇った人はいない。
通い弟子は月謝を取るので、師匠も手を取って親切に教えた。
内弟子は師匠からは教わらず、その生活の中から自分で学び取って強くなっていった。
こうしたことは、教育の在り方について、ひとつの問題を提起しているのではないだろうか。
真の教育とは、自分の考えや力で生み出していくものだ、と思う。
私が内弟子生活が良いと書くのも、体で覚えていくことが一番身につくからである。
プロは、若手を教えるといっても手を取って教えるわけではない。
自分で学び取れ、という教育法は棋界の伝統であり、これからもそうした方式は崩れないだろう。
人を教える場合、まず教える側の人間に何らかの実績というものが必要である。
自分の仕事に対して、自信と誇りを持っていなければならない。
教える側にそれだけのものが備わっていれば、教わる方も自然と耳を傾ける。
プロ棋士を例にとって言えば、〝教える〟とは結局のところ、その人の実力を弟子に分からせることだと思う。
戦後も有望な若手棋士が出て、ある期間はまさに天下を取らんばかりの勢いであった人もいる。
新聞は大きく報道するし、当人もそのつもりになってしまう。
勝ち続けている時はそれでもいいが、一旦挫折すると、もう新聞は書きたてない。
木村義雄十四世名人は、「負けても新聞ダネになるようでないと、本当の実力者とは言えない」 という意味のことを書いていた。
勝って派手に報道されるのは、当たり前のことなのである。
戦後の若手の中で、新聞・雑誌や周囲の人に持ち上げられ、それが慢心を呼んで、自分で自分の芽を摘んでしまった人も、何人かいる。
その人は、本当の自分の実力を知らなかったという事になる。
それを教えてくれる人もいなかったし、自分でそれを学び取る努力をしなかった。
プロ棋士としての師匠は、弟子に厳しく当たることが、いかに大切であることか。
厳しさの中にこそ、本当の教育がある。
弟子には手を取って教えないが、疑問には答えてやる。
自分で学ぼうとする姿勢には、師匠としては力を貸してやる。
私は、教えた手を弟子がうまく実践で活用した時は、褒めてやることにした。
しかし褒め方は、批判するより難しい。
褒めてやることが、その人の実力を過大評価するものなら、害こそあれ益はない。
その人は力を過信し、いつかは化けの皮が剥がれる。
そういう褒め方なら、褒めない方がその人のためになるだろう。
弟子を厳しく指導することは、それ以前に自分に厳しくなることである。
教えることは、学ぶことである。
別の言い方をすれば、自分が無心になって相手と同じ気持ちになることであろう。
自分が無心にならなければ、到底相手を納得させることはできないと思う。
※大山康晴・著 『勝負のこころ』 より 抜粋・編集にて
◆ ◆ ◆ ◆ 私たちは、真摯に成功者の言葉に耳を傾け、次世代を担う若者を育てなければなりません。
大山十五世名人は、相手に有利な局面にわざと導いて手が出やすいようにするなど、アマチュアの指導(対局)には定評があったそうですが、さもありなん・・・ですネ。
以前拙ブログでご紹介した料理の鉄人・道場六三郎さんや山中伸弥教授など、それぞれの世界で頂点に立った方の経験談や教えには、やはり共通するものがあります。(↓)
昨日拙ブログで取り上げた白洲次郎氏。
彼のような国際感覚溢れる人物は、いかにして醸成されたのか?
そのヒントのひとつが、彼に関する著作に描かれていました。
◆ ◆ ◆ ◆
留学先・ケンブリッジ大学での白洲氏は、有名な経済学者ケインズも教鞭を取るなど、まさに優秀な教授陣に囲まれ、様々な知識を吸収していった。
(“電子”の発見で有名な)J・J・トムソンという優れた物理学者のクラスで試験を受けた時のこと。
授業を徹底的に復習していた彼は、試験結果に自信を持っていた。
ところが返ってきた点数を見てガッカリした。
案に相違して低かったのだ。
不満げな顔のまま答案を仔細に眺めてハッとした。 そこには、
“君の答案には、君自身の考えがひとつもない”
と書かれていたのだ。
『白洲次郎 占領を背負った男』(北康利・著 講談社・刊)
頭のてっぺんから足先までビリビリッと電気が流れたような気がした。
(これこそ、オレが中学時代疑問に思っていたことの答えじゃないか!)
痛快な喜びがこみ上げてきた。
テストの成績が悪かったことなどどこへやら、誰彼かまわず握手して回りたい気持ちだった。
(よし、やってやろうじゃないかっ!)
次の試験では自分の意見を存分に書いて高得点をもらった。
英国で学ぶことの幸せをかみ締めることのできた瞬間だった。
当時のケンブリッジでは試験の得点だけでなく、何回食堂でチューター (指導主任) と食事を共にしたかも卒業の条件となっていた。
食事の時間を通じてマナーを身につけさせようとしたのだ。
また教授たちは講義を始める前、必ず生徒に向かって “gentrlemen ” と呼びかけたという。
次郎はこの言葉を聞くたび、自分たちは自由であると同時に紳士しての規律を求められているのだ、ということを噛み締めた。
◆ ◆ ◆ ◆
若い時の教育がいかにその後の人生に影響を及ぼすかを、如実に示していますょネ。
少年時代は手のつけられないガキ大将だった白洲氏が、なぜ〝プリンシプルなる紳士〟へと成長できたのか? その理由が伺えます。
日本では〝3+2=□〟という問題を解かせますが、欧米は〝□+□=5〟で複数の回答を引き出す教育法だ、とも耳にします。
受験重視・はめ込み型の日本式教育では、彼のようなダイナミックな人材が生まれにくいのは明らか・・・このままで本当に良いのでしょうか?
〝人生〟という難題には、いくつもの答えが必要とされるのに・・・。
今日は、我が愛読誌・月刊『致知』11月号から、巻頭エッセーを抜粋・編集にてお届けいたします。
◆ ◆ ◆ ◆
哲学者・森信三師をして〝日本教育界の国宝〟と言わしめた東井(とうい)義雄氏は、子供たちに根を養うことの大切さを説き続けた人である。
その言葉がある。
「根を養えば、樹は自ら育つ」
「高く伸びようとするには、まずしっかり根を張らねばならない。基礎となる努力をしないと、強い風や雪の重みに負けて倒れてしまう。」
教育は子供達の心の根を養うものでなくてはならないとは、東井氏の教育者人生を貫いた信条であった。
その東井氏は1912(明治45)年に兵庫県豊岡市但東町にある浄土真宗東光寺の長男として生まれた。
寺の檀家は、僅か9軒。
「私は日本一の貧乏寺に生まれた」と氏自ら書いている。
姫路市版学校を20歳で卒業後、但馬地方の小中学校に勤務。
その熱意溢れる教育指導が評価され、47歳の時に広島大学よりペスタロッチ賞を受賞。
地方にありながら、その影響は全国に及んだ。
52歳の時、請われて生徒数700名の八鹿小学校長となる。
東井校長と八鹿小学校の実践の素晴らしさが広く知られるようになり、各地から多くの参観者が訪れるようになった。
8年間校長を務め、定年退職。
その後は短期大学の講師を務める傍ら全国各地で講演。
その数は年間300にも及んだ。
79歳で没するまで約60年、生涯を教育者として生きた人である。
その東井氏の根を養ったと思わせるエピソードがある。
小学1年生で母親を亡くして以降20年間に6つの葬式を出した東井少年は、この貧乏から抜け出すには勉強しなければと、小学5年生修了時に中学進学を決意した。
しかし、いざ中学受験の願書を出す時になって、父親から 「とても進学させるゆとりがない。こらえてくれ。」 と泣きながら言われた。
東井少年は三日三晩父親の枕元に座り続けて懇願、「合格しても入学はしない」 という条件で受験することだけは許された。
必死の勉強が実って難関の試験は見事合格したが、約束通り中学進学は断念。 授業料が要らない姫路師範学校に進学した。
この体験が人間東井氏の根っこを養ったのだろう。
教育者としての東井氏を際立たせるものに、八鹿小学校長時代発行し続けた『培其根(ばいきこん)』がある。
文字通り其の根を培うという意である。
最初は教師が校長に提出する週録だったが、すべての教師に知って欲しいことを取り上げ、そこに校長としての思いや願いを書き込み、自分でガリ版を切って謄写印刷したものである。
『培其根』は校長赴任の翌年から始まり、退職までの7年間に52号を発行、総ページ数は778ページに上る。
鉄筆を振るっての作業が深夜の1時2時まで及ぶのは再々だったという。
東井校長の教育への烈々たる気迫がその鉄筆の記録から立ち上ってくる。
東井校長のもうひとつの特徴は、毎年卒業していく子供たち一人ひとりに、卒業証書と自筆の色紙を手渡したことである。
最後の『培其根』に、105人への色紙の言葉が載っている。 一部を紹介する。
◇ほんものはつづく。 つづけるとほんものになる。
◇あすがある、あさってがあると考えている間はなんにもありはしない。 かんじんの〝今〟さえないんだから。
◇自分は自分の主人公。世界で只一人の自分を創っていく責任者。
◇問題に追いかけられるものではなく、問題をおいかけていく。
小学校卒業時にこのような言葉を贈られた子は、その言葉を根っこにして自分を養っていったに違いない。
◆ ◆ ◆ ◆
こんな素晴らしい教師に出会えた子供は、幸せですネ。
色紙といえば、以前42年ぶりに中学の同窓会でお会いした恩師も、私たちにわざわざ色紙を認めて下さいましたっけ。
私も良き先生に恵まれた・・・って、気づくのが少々遅過ぎたかも?
拙ブログでは、度々歴史教科書の自虐史観・左傾化について苦言を呈してきましたが、この問題は何も最近始まった事ではありません。
私が生まれる前の今から65年前の今日、1955(昭和30)年8月13日、その3ヶ月後に結党する自由民主党に参画した保守政党・日本民主党が
『うれうべき教科書の問題』
というパンフレットを発行しました。
つまり教科書問題は、終戦後まもなくから起きていたのです。
その中には、歴史・社会科教科書の様々な偏向事例を指摘したものであり、戦後台頭していた共産主義と対峙し教育を正常化する決意を示した次の一文が掲載されていました。
〝他国の侵略とは、必ずしも武力によるものでないとするなら、教科書を通じて、疑いもなく、ソ連や中共の日本攻略ははじめられているのである。
日本の教職員たちは、或いはそれに力をかし、或いはぼう然とそこに立ちすくみ、或いはそれを知らずに、相たずさえて日本の教育の危機をつくっているのである。〟
その危機感が、日教組による左翼・自虐教育によって現実のものとなりつつあることを、多くの方は実感されているはず。
その自虐史観をのさばらせる端緒となったのは、いわゆる 『家永教科書裁判』。
ギネスに認定されるほどの長期裁判でしたが、特に1970(昭和45)年に東京地裁が、
「検定制度そのものは違憲ではないが、それは誤記・誤植の範囲にとどめるべきで、思想内容にわたる検定は違憲」
だとする原告勝訴の判決を下したこと。
これは確定判決ではありませんでしたが事実上検定制度を否定するもので、文部省の検定を著しく制約する絶大な効果をもたらしました。
以降、歴史教科書では次第に左翼思想を取り入れた自虐的記述が目立つように。
そして1996年には、中学の歴史教科書に朝日新聞が捏造した『従軍慰安婦の強制連行』説が一斉に登場したのです。
その後朝日新聞が記事の捏造を認めたこともあり安倍政権下では下火になったものの、今年3月の教科書検定では再びその記述が認められ、これまた朝日新聞の捏造であるいわゆる南京事件が取り上げられることに。
※『南京事件』に関する過去記事は、こちら。(↓)
この史実ではない南京事件に関し、各教科書の記述は次の通り。
2020.3.24付 産経新聞の記事より
もちろん、自虐史観的な記載はこれだけではなく、随所にちりばめられています。
子供達にこんな教科書を読ませ信じさせたら、愛国心など芽生えるわけがありません。
そんな反日左翼勢力の思惑通りにしないためにも、私たち大人がいっかりと子供たちに正しい歴史認識を植え付けなければなりませんし、こんな教科書を認めさせてはなりません。
今日は、我が愛読誌・月刊 『致知』 6月号から、アサヒビール社友・福地茂雄氏による〝巻頭の言葉〟を一部編集してご紹介致します。
◆ ◆ ◆ ◆
昨年12月4日、新聞各紙は国際学力調査の結果を一面トップで報じました。
日本の子供の「読解力」が急落していることが判明したというのです。
アジア諸国の学力が上昇する中で、我が国だけがランクダウンを喫しているこの状況に、私は強い危機感を抱きました。
教育は知育・徳育・体育・食育の四育から成り立つものであり、私たちはそれらを学校で、地域社会で、あるいは家庭で教えられ、学んできました。
しかし今、四育それぞれについて何かしら物足りなさを感じているのは、私だけでしょうか。
日本の教育の現状について思うところを、順番に記していきたいと思います。
まず知育です。
人づくりは喫緊の重要課題といわれながら、事実は言葉と逆行していないでしょうか。
義務教育の週5日制は論外です。
年末年始の休日に始まり、春休み・夏休みと既にたくさんの休みがあります。
例えば教員だけは土曜休日とし、その日は定年退職した旧職員に担当してもらうといったやり方もあると思います。
大学教育での理系・文系の区別は明治の遺物に他なりません。
多様化が進む中、今は環境科学のように文理いずれにも属する科目も数多くあります。
かつての大学では4年間キッチリ勉強できましたが、昨今は就職活動に多くの時間が費やされ、実際の教育は2,3年というのが実情です。
また国立大学での国費負担は毎年減少の一途を辿り、そのしわ寄せは教授陣の減少、とりわけリベラルアーツ担当教授陣の不足を招いているのではないでしょうか。
リベラルアーツは一般的に哲学・心理学・美学などの教養科目といわれますが、文系・理系に囚われることなく幅広い知識を養うことに繋がる学問だと思います。
国際人となるためには、自国の文化や歴史を語れることに加え、幅広い教養が求められます。
また人間は子供の時の方が記憶力が良いといわれます。
意味は分からずとも 『論語』 を暗記させると大人になっても忘れないものです。
成長段階では、記憶力を生かす大切な教養を身につけ、長ずるに従ってAIを使いこなせる判断力を養う教育も求められます。
世界水準と比較しても今の日本の教育は改善すべき点が多く、このままでは知育の後退もやむなしという状況にあると言わざるを得ません。
次に徳育です。
それは挨拶に始まり挨拶に終わる、感謝に始まり感謝に終わるもの、といっても過言ではありません。
しかしながらこの頃、電車やバスの優先席で狸寝入りを決め込んでいる者、スマホに見入っている者などを見る時、昔からいわれてきた日本人の美徳という言葉に虚しさを感じるのは私だけではないでしょう。
今の教育で最も遅れているのは、この徳育です。
3つ目の体育は、学校教育だけではなく、生涯学習といえます。
確かに日本人の身長は伸び、脚も長くなり、体重も増えてきました。
しかし昔に比べて体力は減退しているのではないでしょうか。
そして食育。
母乳に始まり、味噌汁や煮つけの味、栄養バランスを考えた家庭の食育、学校教育による食育を行っても、今は飲食店・ファストフード・コンビニ等々、一歩外に出ればいくらでも美味しい食品を楽しめる環境にあります。
そのため、母親が一所懸命に調理を工夫して子供が嫌いな食材を食べさせる例は少なくなっています。
これは女性の社会進出とも無関係ではないでしょうが、いずれにしても食育は、体格や体力を養う体育とも密接な関係があります。
子供達の健全な思考と健全な肉体を育むことは、日本の未来に向けた最重要課題です。
そしてその軸となるのが、四育なのです。
私たちは、四育の重要性を改めて認識しなければなりません。
◆ ◆ ◆ ◆
仰る通りだと、私も思います。
まずは親の意識改革が必要ですが、それに加えてゆとり教育とか週休2日とか、子供の学力レベルを故意に落とそうとしているとしか思えない、援交を調査だと嘯くスケベ親父をトップに据えるような三流官庁・文科省の解体・再編が急務でしょう。
我が愛読誌・月刊『致知』12月号に、非常に興味深い対談が掲載されていました。
「いかに人を育てるか」 というテーマで対談したのは、現在メジャーで活躍している菊地雄星選手や大谷祥平選手を育て、花巻東高校を甲子園出場を重ねる強豪校に育て上げた、佐々木洋(ひろし)・硬式野球部監督。
そしてサッカーの名門・帝京高校から筑波大学に進み、卒業後は地元・熊本の県立大津高校を強豪校に育て上げ、Jリーガーを約50名輩出した、平岡和徳・同校サッカー部総監督のお2人。
さすが実績を残してきた超一流の指導者同士の対談だけあって、
◆変化の先の進化を実現する。
◆目指すゴールのない者に進む道はない。
◆一人の先生で人生が変わる。
◆経営に学んだチームづくり
◆一番大事なのは考え方を教えること。
◆スポーツを通して人をつくる。
等々、若者の導き方に関して非常に参考になるお話のオン・パレード。
ジュニアチームの指導者だけでなく、部下を持つ上司の立場にある方にもご一読いただきたい内容でした。
本来なら全てをご紹介したいところですが、その中からひとつだけ・・・。
『日本代表監督を務めたイビチャ・オシムさんの息子アマルが僕(平岡総監督)と同世代で、合宿なんかで話をすると、
「日本では不思議な光景をよく目にする」
と言うんです。
「あんな暑い中で45分もプレーした選手たちが、15分しかない休み時間にテントに集まり、椅子にふんぞり返った監督から罵声を浴びせられている。 これでは日本のサッカーはよくなるはずはない。」
と。 「ウチは違うょ」と言っておきましたが、確かに日本ではそういうチームは多いんです。
大好きなサッカーをやり終えて気持ちの高まっている子たちには、やはりコミュニケーションをさせて、それを表現する時間を作ってあげることが大事です。
監督はそれを聞きながら、彼らが自分たちの課題やテーマをどこまで自覚しているかを確認する。
それを踏まえて考えを整理したいから、僕は次の日にしかミーティングはしませんし、個々の気づきの量に応じて翌朝から個別に話をしたりしている。』
確かに生徒を立たせたまま椅子にふんぞり返って偉そうに説教したり怒鳴っている指導者をよく目にします。
中には未だに生徒を殴ったり蹴ったりする暴力教師まで・・・。
私が中学時代バスケをやっていた時も、タイムアウトや試合終了後ベンチに行くと、立ったまま先生のアドバイスを聞いてました。 但し先生も立っていましたが。
アメリカのプロバスケット・NBAでは、逆にタイムアウトになるとそれまでベンチに座っていたコーチ陣や控え選手が席を空けてコートに出ている選手を座らせ、疲れを少しでも取るようにしてミーティングするのが当たり前。
これを見習ってか、最近の日本バスケ界ではBリーグだけでなく高校・大学の試合でも同じ光景が見られます。
まだ高校野球では、炎天下の中ベンチ前で直立不動で円陣組んでいるチームが殆どですが・・・。
お2人の対談の中には、こんなことも語られていました。
◆学ばない者は教えてはならない。
◆長年の伝統の中にも疑問を持つ。
指導者にこそ常に改革・進歩が必要なのでしょう。
もし皆さんのお子さんが入っているチームの監督が生徒たちを立たせて椅子にふんぞり返っているようなら、移籍を考えた方がいいかも?
最近は、注意されたことに逆ギレした中学生が教師に暴力を振るってケガを負わせ逮捕されるという事案が全国で起きています。
私の中学生時代には、教師に生徒が暴力を振るうとか、教師が生徒を〝常人逮捕〟するなんて有り得なかったし、考えられない話。
また以前、運動会の練習で教師が 「起立!」 と5回も言わなければ立たない小学生を目撃して呆れ果てた私は、学校教育はもとより親の躾はどうなっているのか? またこの子供らがどんな大人になるのか?・・・と、大きな不安を覚えます。
2017年4月、安倍内閣が 「憲法や教育基本法に反しない形で教材として使用を認める」 という閣議決定をしたことで話題になったものの、最近はすっかり忘れ去られた感がありますが、私はそんな時だからこそ、その閣議決定通り学校教育の中で是非とも復活させるべきだと強く思っています。 その、
教 育 勅 語
この正式名称・『教育ニ関スル勅語』 が発表されたのは、今から128年前の今日・1890(明治23)年10月30日のことでした。
これは山縣有朋内閣時代、地方長官会議に於いて
「知識に偏る学校教育を修正し、道徳心の育成を重視する」
ことを求め、また明治天皇ご自身が道徳教育に関心を寄せられていたことと合わせ、井上毅・内閣法制局長官が原案を作成し、これを加筆修正したものを明治天皇の名の許に発表されたもの。
それから太平洋戦争の終戦頃まで我が国道徳教育の規範と捉えられていましたが、1947年に施行された教育基本法および翌年の国会決議により、教育勅語は学校教育から排除されました。
皆さんは、この『教育勅語』について、どのような認識をお持ちでしょうか?
戦後教育の影響等で、この勅語は〝天皇制を強制するもの、あるいは偏った戦前の思想教育の根本〟 と思われている方もいらっしゃると思いますが・・・。
しかし冒頭の 「朕惟フニ・・・」 はご存知だとしても、全てを読んだことのある方は意外と少ないのではないでしょうか?
以下に勅語全文(※原文には句読点・濁点・改行なし)を掲載致します。 まずは一度目を通してみて下さい。
◆ ◆ ◆ ◆
朕(ちん)惟(おも)フニ、我ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、德ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。
我ガ臣民克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆心ヲ一(いつ)ニシテ世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此レ我ガ國體(こくたい)ノ精華ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此ニ存ス。
爾(なんじ)臣民父母ニ孝ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相(あい)和シ、朋友相信ジ、恭儉(きょうけん)己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ、業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ、德器(とっき)ヲ成就シ、進(すすん)デ公益ヲ廣(ひろ)メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲(こっけん)ヲ重(おもん)ジ、國法(こくほう)ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急アレバ義勇公ニ奉(ほう)ジ、以テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スベシ。
是(かく)ノ如キハ獨(ひと)リ朕ガ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足(た)ラン。
斯(こ)ノ道ハ實(じつ)ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラズ。
朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ、咸(みな)其(その)德ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。
明治二十三年十月三十日
御名御璽(ぎょめいぎょじ)
いやはや、読むだけでも一苦労・・・お疲れさまでした。
しかしこれだけでは意味がお分かりいただけないと思いますので、以下に(私なりの意訳を含めた)現代語訳を記してみます。
私の思うには、我が皇室の祖先が国をお始めになったのは遙か遠い昔のことで、お築きになった徳は深く厚きものでした。
日本国民は忠と孝の道をもって心を一つにし、今までその美をなしてきましたが、これこそ我が国の優れた点であり、教育の根本もまたこの中にあります。
国民は皆父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の心で接し、学問を行い、手に職をつけ、知能を啓発し、徳と才能を磨き、進んで世のため人のために尽くし、憲法を重んじ法律に従い、もし有事となれば公のため勇敢に仕え、天下に比類なき皇国の繁栄に尽くすべきです。
これらは、ただ国民が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺した良き伝統を継承していくものでもあります。
この道は実に我が皇室の祖先がお遺しになった教訓であり、国民の共に守るべきもので、昔も今も変わらず国内外問わず間違いなき道です。
私は国民と共にこれらを肝に銘じて守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを願うものです。
◆ ◆ ◆ ◆
・・・如何でしょうか?
確かに一部現在では受け入れにくい文言もありますが、主旨は親孝行・家族や友人との人間関係・勤勉・奉仕等々、まさに道徳の基本を説いているのです。
この勅語が発表された動機である 「知識偏重教育を是正し、道徳心を育成」 しなければならないのは、当時の人々よりむしろ一世紀以上経った現代に生きる私たち・・・だと私は思うのですが。
安倍政権では学校教育現場における 『道徳』 の教科化・充実を掲げていますが、たとえ使う文言や名称を変えても〝教育勅語の精神〟を子供達に教える授業を実施させて欲しいもの。
そうすれば、先週末の渋谷でハロウィンのバカ騒ぎをして軽トラックをひっくり返したりゴミを撒き散らす若者はいなくなるはず。
時代は変われど、〝人として生きるべき道〟は不変ですから。
今日は、私の愛読誌・月刊『致知』9月号に掲載された対談から、98歳になられる井口潔・九州大学名誉教授の印象深い言葉を抜粋・編集にてご紹介致します。
◆ ◆ ◆ ◆
ご存知のように日本は戦後、アメリカの占領政策を経て昭和27年に独立しました。
ところが占領期は仕方がなかったとしても、アメリカから押し付けられた教育に問題があればきちんと正すべきなのに、日本は全くそれをしなかった。
それどころか、江戸時代から続く古典の素読など伝統的な教育を捨て去ってしまったんです。
日本人が人間として不可欠な〝自己抑制の機能〟を失い始めたのは、そこからですよ。
アメリカ流の教育はデューイに代表されます。
彼は進歩主義教育運動を主導した教育学者で、要するに管理教育はやめて教師と生徒は友達のような関係になる、その方が子供たちの人間性は伸びる、という今日まで続く子供中心主義の理論的根拠を考え出したんです。
ところが1970年代になると、当のアメリカで教育は荒廃し始め、その荒廃の波は日本にもやってきました。
その頃の日本は管理教育を謳いつつも、アメリカで破たんしたはずの進歩的な教育法を一つの考え方として認める、という姿勢でした。
当然、日本固有の自己抑制教育については何の検討もされないまま、置いてけぼりにされてしまったわけです。
言い換えれば、本当の人間教育ということを考えてはこなかった。
その結果として、自己抑制力が脆弱なすぐキレる子や未熟な大人が増え、近年耳を疑うような青少年の反社会的行為が増えてきたことは、申すまでもないでしょう。
「人間の赤ん坊は類人猿の身体に巨大脳をつけた生物(ヒト)である・・・というのが、私の考えです。
そのニューロン回路は3歳頃までに大人の80%くらい、10歳頃までにほぼ大人の状態に近づくのですが、その時にヒトから人間になるわけです。
体の仕組みは生まれた時から大人と殆ど同じなのに、心は約10年間、大人から教育を受けて人間になるようつくられているんですね。
私は12年前、そのことにようやく気付いたのですが、このことを〝ヒトの心は約10年間の生理的早産〟と言っています。
その10年間の重要さを把握していたのが、江戸時代の伝統的教育なんです。
子供達は6歳から藩校や寺子屋に通い、「意味は分からなくてもいい、今に分かる」 という師匠の指導の下で、『小学』や『論語』、『大学』といった優れた古典を繰り返し繰り返し素読しました。
これは医学的に〝パターン認識〟と言われるものです。
幼年期に教えられた道徳的な教えは、このパターン認識によって感性能(魂)に記憶され、その人の人格形成に影響を与えて行きます。
青年期になって道徳教育を始めても論理的に知性脳に認識されるばかりで、処世術で終わってしまうことが多いんです。
理由はどうあれ、10歳までのに善悪や正邪の区別、人間として恥ずかしいことなど、人間としてあるべき姿を躾ける、そのことで自己抑制力が身について行く。
先人たちは図らずもそのことが分かっていたのだと思います。
◆ ◆ ◆ ◆
鉄は熱いうちに打て、ですネ。
学校でやらないなら、ご家庭で行うしかありません。
我が子の将来のために・・・。
この夏休みから、こんな本を買い求めて親子で素読を始めてみませんか?
拙ブログの読者の皆さんが全員卒業したであろう、小学校。
(※この小学校という呼称は、1685年に長崎・対馬藩において家臣の子弟教育のために設置された学校が小学校と名付けられたことが発祥だとか。)
江戸時代には寺子屋制度がありましたが、明治政府になった後の1872(明治5)年に発布された学制によって近代教育制度としての初等教育は小学校尋常科で行なわれることとなり、3年後には全国に約24,000校の小学校が設置されました。
しかし日本初の小学校は、それより3年前・・・今からちょうど150年前の今日・1869(明治2)年5月21日に、京都で開校した
上京第二十七番組小学校 (柳池校)
下京第十四番組小学校 (修徳校)
の2校でした。
※当時の京都には、上京・下京のそれぞれに番組(学区)という行政区画が置かれ、その番組毎に小学校が創設されたので、〝番組小学校〟と呼ばれたそうな。
そしてこの両校・・・実は官立ではなく、民営の学校だったのです。
上京第二十七番組小学校
京都では混迷する日本の将来を案じ、早くから教育が大事と考えた画家・森寛斎を中心に多くの寺子屋経営者や書家などが寺子屋の近代化について話し合っていたといいます。
既に明治維新前に小学校建設の建白書を町奉行所に、そして明治維新直後にも府知事宛てに小学校建設の急務を訴える口上書を提出。
これを受けて府は1868年(明治元)年に 『小学校建営の布達』 を発布し、番組(地区)ごとに学校を造る際の基本図面を提示。
しかし府からの貸付金だけでは足りなかったため、寄付を募ったり〝かまど銭〟と称して組内の家々から児童の有無を問わず徴収して学校運営資金に充てたとか。
※この寄付の中心となったのが、香商・鳩居堂の7代目当主だった熊谷直孝(1817-1875)。
彼は頼山陽らと親交があった勤王派町人として知られ、倒幕運動に資金援助を、更に明治維新の際には新政府に1,500両もの資金を調達して〝京都大年寄〟と言われた人物。

京都最古といわれる、1859年に撮影された湿版写真『熊谷直孝像』
この2校開校の後僅か7ヶ月で、京都では64もの(番組)小学校が立ち上がりました。
まだ教科書のない時代でしたが、府独自の規則により筆道・算術・読書の3教科を中心に京都の伝統工芸(染物・織物・焼き物)の基礎となる日本画の教育にも力を入れたといいます。
そのおかげで北大路魯山人など多くの優れた芸術家が、番組小学校から輩出されました。
太平洋戦争時は国民学校と名を変えましたが、その一時期を除いて明治維新以降子供の教育の場となっている小学校・・・普及し始めた当時(1874年)の就学率は男子46%・女子17%、全体で32%だったとか。
現在では義務教育化し100%が入学していることと比べると、まさに隔世の感があります。
しかし明治時代の黎明期にはなかったであろう深刻なイジメや受験戦争など、多くの問題を抱えていることも事実。
教育現場の荒廃が叫ばれて久しいですが、こういった小学校の歴史を鑑みるに、その原因の多くは親である大人たちの教育に対する考え方にあるような気がします。
京都の人々が政府に先駆けて小学校を立ち上げたのは、国家や京都の将来に対する危機感・大局観から。
然るに現在の多くの親・大人たちは、我が子の進学や就職などの行く末を案じることが最優先。
子供がいなくとも学校建設資金を拠出した明治時代の京都人と、払えるのに給食費すら払おうとしない現在の親・・・その違いは歴然です。
子供の教育は何のために行うのか?
そして学校の存在意義は何なのか?
小学校が初めて立ち上がった記念日の今日、あらためて考えてみたいものです。
今日は、私の愛読誌・月刊『致知』6月号に掲載された、独自のテキスを使って教師に歴史授業を教える講座を全国各地で開催している、授業づくりJAPANさいたま代表・齋藤武夫氏のエッセイの一部を、抜粋・編集にてご紹介します。
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具体的な歴史の教材として、ここでは誰にでも身近な聖徳太子を取り上げてみます。
太子が生きた6世紀、国外ではある大きな動きがありました。
200年以上、分裂と闘争を重ねてきた国が隋というひとつの国にまとまったのです。
まとまるのは良いことのようですが、困った問題も起きます。
敵を外に求めるようになることです。
当然、日本もそのターゲットでした。
つまり、摂政である聖徳太子にとって、外交は最大の課題となったのです。
煬帝(ようだい)宛てのその手紙には、
『日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。 恙(つつが)なきや。』
と書かれていました。
私は日本の歴史資料の中で最も重要なひとつであるこの手紙を何度か大声で子供たちに読ませた後、次のように話します。
「この手紙を受け取った煬帝は、『東の海に浮かぶちっぽけな国の王よ。 私の家来なのに何という無礼な言葉か』 と真っ赤になって怒ります。
さて問題です。 煬帝は手紙のどの部分に怒ったのでしょうか?」
子供たちは一所懸命に考えます。
一番多い答えは、「日出る処、日没する処」 の箇所について 「これではまるで日本が発展し、隋が没落していくみたいだから」 というものです。
ところが、少し前に私から教わった邪馬台国の授業内容を憶えている子供たちは、また別の見方をします。
「これは天子という言葉に怒ったんだ。日本の国の天皇を天子と言ったのが気にくわなかったんだ。」
卑弥呼は魏の国から親魏倭王の名を与えられました。
これは卑弥呼が魏の配下にある倭国を治める王になる、つまり魏の国の家来になる、と言う意味なのです。
朝鮮半島の高句麗王、百済王なども同様です。
一方の天子とは、天から世界の政治を任される皇帝の意味で、中国の王朝は天子と王を明確に区別していました。
子供たちが言った通り、煬帝はこの〝天子〟という表現に対して激怒したのです。
ちなみに、「日出る処、日没する処」 は東西の位置関係を示す言葉として当時からちょくちょく使われており、決して失礼な表現ではありません。
子供たちはこの手紙を読み解くことで、日本の先人たちが皇帝の家来である倭王となることを拒み、どこまでも台頭に付き合おうとしていたことを理解して行きます。
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私はこんな歴史の授業を受けたかったし、子供たちにも受けさせたいと切に思います。