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分離独立

早速ですが、皆さんはこの日章旗の色違いのような国旗がどこの国のものか、ご存知でしょうか?

       

国土面積は日本の約40%の14万7千㎢ながら、人口は逆に日本より40%程多い約1億7千万人を有する東南アジアに位置する・・・そう、


バングラデシュ人民共和国

 People's Republic of Bangladesh


同国がパキスタンからの独立を宣言したのが、今から半世紀近く前の今日のことでした。


       

16世紀からムガール帝国の下で商工業の中心地として発達してきた同(ベンガル)地域は、18世紀末にイギリスの東インド会社によって植民地化。

その後インド同様に民族独立運動が盛んになると、イギリスは1906年に 『ベンガル分割令』 を発布し、
ヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルに分割。

これが1947年にインドとパキスタンの分離独立に繋がることとなり、東ベンガルはパキスタンにつき、ここで東西バキスタンが誕生。

しかしインドを挟んで1,000km以上も離れている上、宗教や言語が違うため、同じ国家として存続するには無理がありました。


そして政治的中心だった西パキスタン重点の施策に不満がくすぶる中、1970年11月にサイクロンによる大きな被害が発生。

その翌月に行われた
選挙で人口に勝る東パキスタンのアワミ連盟が大勝。

すると西パキスタン中心の政府は翌1971年3月に軍事介入を行って東パキスタン首脳部を拘束。

これによって東西対立は決定的となり、東パキスタンの指導者シェィク
・ムジブル・ラーマンが49年前の今日・1971年3月26日に西パキスタンからの分離独立を宣言したのです。

       

                   Sheikh Mujibur Rahman


その直後から東西バキスタンは内乱状態(バングラデシュ独立戦争)となりましたが、東パキスタンを支持し西パキスタンと対立していたインドが第三次印パ戦争に勝利したことで、同年12月にバングラデシュの独立が確定しました。

バングラデシュはベンガル語で〝ベンガル人の国〟と言う意味であり、国父であり初代首相に就任したラーマンが国旗制定の際に日の丸を参考にしたそうですから、似たのは必然的。

(因みに赤い円は昇りゆく太陽と独立戦争で亡くなった国民の血を、地の緑色は豊かな大地を表すそうな。)


しかし独立後も、同国の政情は不安定。

内戦や洪水による経済状況の悪化により、1975年には
国軍将校によるクーデターが起きてラーマンが暗殺され、その後しばらくは軍事政権が続きました。

その期間中の1977年に、同国の首都・ダッカで日航機ハイジャック事件が起きたことをご記憶の方もいらっしゃるでしょう。


 ※同事件に関する過去記事は、こちら。(↓)


しかし軍事政権が倒れ、1991年の憲法改正により大統領制から議院内閣制へと移行して以降は、原則的に5年毎に総選挙が実施されており、現在はラーマンの娘シェィク・ラシナが首相を務めています。

       

国旗が似ているせいもあってか親日国であるものの、ここ数年は支那が接近しているバングラデシュの今後に、私たち日本人も注目すべきでしょう。


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【特別増刊】 英 断

今から25年前の今日、朝8時15分過ぎ。


当時サラリーマンだった私は、出勤のため地下鉄有楽町線に乗っていました。


・・・と、走行中に電車が突然止まり、しばらくして 「先程、築地駅で走行(運行?)障害が発生しました。」 というような車内放送が流れたのです。


普段 「車両点検により・・・」 とか 「人身事故により・・・」 等々の案内は時々耳にしますが、そんなアナウンスは初耳。


(一体、何があったんだ?)


という、何とも言えぬ胸騒ぎというか、イヤ~な予感がしたことを憶えています。


出社してすぐにクルマで営業に出かけた私は、やたらに走り回るパトカーのサイレンを耳にする異様な雰囲気の中ラジオから流れてくる臨時ニュースを聞き、初めて車内アナウンスが何を意味していたのかを知ることに・・・。


それが1995(平成7)年3月20日、オウム真理教によって引き起こされた


 地下鉄サリン事件


でした。


12名の死者、そして約6,000名もの重軽傷者を出したこの事件そのものについては、あらためてここで説明する必要はないと思います。


      


しかしこの事件が起きた日、3名の医師による 〝英断〟が多くの人命を救ったことについて、当時は殆ど報道されませんでした。


最も多くの被害者を出した地下鉄日比谷線・築地駅。


あまりの被害者の多さに、病院に連絡を取る余裕もないまま救急隊員によって続々と搬送される被害者を見て、 


◆ 外来患者を断り、事件の被害者治療を最優先。
◆ 全ての搬送を受け入れる。


これを即時決断したのが、当時の聖路加国際病院々長・・・2017(平成29)年7月に105歳で大往生を遂げられた日野原重明


ベット数が足りず、礼拝堂を開放して軽症患者を運ぶよう指示したのも日野原院長だったそうです。


        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-日野原重明先生

                 故・日野原重明先生


一方事態が掌握できなかったため当初は農薬中毒という見方が大勢だったものの、瞳孔収縮等それでは説明できない症状がみられ、治療方法を確定できなかった医師団のもとに一本の電話が入ります。


電話の主は、信州大学付属病院の柳沢信夫医師。(現・信州大学及び東京工科大学名誉教授)


9ヶ月前に起きた 『松本サリン事件』 で被害者治療の指揮を執った方でした。


たまたま観ていたテレビで事件を知り、その被害者の特徴的な症状から 「サリン中毒に違いない」 と確信。 


すぐに自ら聖路加病院に直接電話をかけ、特効薬・治療法などをFAXで伝えたのでした。


その電話を受け、最終的に特効薬 ・プラリドキシムヨウ化メチルPAM ) の投与を決断したのは、同病院救命救急センターの石松伸一医師(現・聖路加病院副院長)。


サリン中毒でなかった場合、この薬の持つ強い副作用で被害者が死亡することも有り得る・・・という状況下での、ギリギリの決断だったそうです。


◆もし聖路加国際病院が全被害者の受け入れを拒否していたら?

◆もし柳沢医師が直接病院に電話せず厚生省等に連絡していたら?

◆もし石松医師によるPAM投与の早期決断がなかったら?


後日アメリカ国防総省から、「死者が70~80名出てもおかしくない無差別テロにもかかわらず、どうして被害を最小限に食い止めることができたのか?」 と日本政府に照会があったとか。


その答えは3人の医師による英断と、救出にあたった警察・消防の方々、また特効薬 “パム” の配送に携わった製造元・スズケンや住友製薬の社員さん、そして非番にも関わらずテレビを見てすぐさま病院に急行し治療に加わった看護士の方々など、多くの人々による献身的な救命活動の集積だった、といえるでしょう。


政治家の優柔不断・実行力不足が目立つ昨今。


国会等で上っ面の空虚な言葉を並べ立て批判や個人攻撃など枝葉末節に拘っている彼らは、非常時に勇気ある決断を下した3人の医師たちの行動を見習うべきでしょう。


そして25年経過したということは、この事件を全く知らない若者が成人になる・・・いや、実質的には現在30歳未満の若者には殆ど実感がないはず。

2018年に松本被告ら当該事件に関わったオウム信者らが死刑になったものの、
この教団が名称を変えて存続していることを含めて、


日本国内で起きた未曾有のテロ事件を、絶対に風化させず次世代に語り継がなくてはなりません。 


最後になりましたが、この事件で不運にも尊い命を奪われた犠牲者の皆様のご冥福と、今なお後遺症に苦しんでいらっしゃる多くの被害者の一刻も早いご回復を、心よりご祈念申し上げます。


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漂 着

今からちょうど420年前の今日、日本史に少なからず影響を及ぼすこととなる船が豊後国(現・大分県)の黒島に漂着しました。


    

それは、日本に初めてやってきたオランダ船の


 リーフデ号

 De Liefde


オランダ語で〝愛〟というシャレた名前を付けられた同船は他の4隻と船隊を組み、極東を目指して1598年9月にロッテルダムを出港。

しかし航海は時化に見舞われるなど惨憺たる状況となり、2隻は他国に拿捕され、2隻は沈没。

ただ1隻残ったリーフデ号も、食糧補給のために寄った港々で赤痢が蔓延したり地元民に襲撃されたりで、出港時110人いた乗組員は、1600(慶長5)年3月16日に漂着した時は、僅か24人に減っていました。(漂着後、更に3人が死亡。)

その中にいたのが、後に日本と大きく関わる・・・というか貢献することとなる、ウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンでした。

ウィリアム・アダムスは1564年のイングランド生まれ。
父親が船員だった彼は、船大工の棟梁に弟子入りするも、やはり航海に関心があり海軍に入隊。


結婚して子供も設けましたが、除隊後も民間会社の航海士・船長として海に出てばかりいた彼は、前述のオランダ船隊で航海士を探しているという話を聞きつけ、弟のトマスと共に乗船。

トマスは航海途上にインディオに襲撃され死亡したものの、ウィリアムは初めて日本に上陸したイギリス人に。


        

                    William Adams


長崎奉行は船員を拘束し積んでいた大砲や火縄銃等の武器を没収。

更にアダムスやヨーステンら船員を五大老首座・徳川家康の指示により大阪に護送し、リーフデ号も回航させました。


当初彼らを海賊だと思い込んでいた家康は、同年5月に彼らを引見して航海の目的やオランダ・イングランドらプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との対立を話したことから気に入ります。

※家康や彼らにとって幸運だったのは、漂着したのが関ヶ原の戦い直前だったこと。

同合戦に於いて家康は
リーフデ号の備砲や砲員・甲冑を利用したそうですし、その功績もその後の乗組員の好待遇に繋がったはずですから。


そして執拗に彼等の処刑を求める宣教師らの訴えを退け、その後も何度か引見を繰り返した後、彼等を釈放して江戸に招聘。

当然の如くアダムスは帰国を願い出ましたが、家康はそれを許さず。

米や俸給を与え、外国使節との対面・外交交渉する際に通訳をさせたりアドバイスを求め、また幾何学・数学などの知識を得たといいます。

そして江戸湾に係留させていたリーフデ号が沈没すると、船大工の経験を買われて西洋式の帆船建造を要請。

アダムスは伊東に日本初の造船ドックを設営して、80トンの帆船を1604年に建造。

更に家康の要請に応えて、1607年には120トンの帆船をも完成させます。

この功績に対し、家康は彼を外交顧問として250石の旗本に取り立てて帯刀をも許し、相模国逸見に采地も与えて三浦按針という日本名を名乗ることを許しました。
(三浦は領地のある三浦郡から、また按針は水先案内人の意)

1602年に日本人女性と結婚しジョセフとスザンヌという子供をもうけた彼は、1613年にイギリス東インド会社のクローブ号が日本に来航した際、一行に付き添って家康らとの謁見を実現させ朱印状を取り付けるなどしましたが、その後も日本に滞在。

しかし信頼を寄せた家康の没後は幕府の方針転換により交易は長崎・平戸に限定され、彼自身も平戸で天文官という閑職(?)に追いやられた末に、1620年5月に55歳で平戸にて死去。

また東京・八重洲の地名の由来となった〝耶楊子(やようす)〟という日本名を賜ったヤン・ヨーステンも、日本人女性と結婚。

彼はアダムスと違い東アジア方面で朱印船交易を行いつつ帰国交渉をしたものの上手くいかず。

1623年に仕方なく日本へ帰る途上、船が座礁し溺死してしまいます。

 ※ヤン・ヨーステンに関しては、こちらの過去記事で。

 


図らずも異国の地に流れついたことで運命が大きく変わったこの2人・・・やはり本国に帰りたかったんでしょうネ。

現在、長崎のハウステンボスにリーフデ号のレプリカ船が係留されています。

訪れた方は、是非アダムスやヨーステンに思いを馳せつつ見学してください。

       


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惨 殺

今日は、学校ではまず教えない、しかし日本人として知っておかねばならない出来事のご紹介です。

それは、今からちょうど100年前にの2~5月に起きた


   に こう
 尼港事件

事件現場となったのは、アムール川河口にある都市・尼港(現・ロシア領ニコラエフスク・ナ・アムーレ)。

    

               中央・上が尼港の位置

1917年、ロシア革命によって帝政が瓦解し、レーニンが政権を奪いました・・・が、各国はこの新政府を承認せず、実際ロシア国内は無政府状態でした。

そんな状況の中、1920(大正9)年1月29日に突然尼港を共産パルチザン約4,300名(ロシア人約3,000名・朝鮮人約1,000名・支那人約300名)が包囲したのです。


    
               パルチザンの幹部たち


パルチザンって戦争映画にも登場する、何となくカッコ良い組織に聞こえますが、とんでもない。

彼らはシベリアに収監されていた囚人が無政府状態の中脱獄して徒党を組んだ、ならず者集団。

ロシア革命後、穏健派だったシベリア総督府が彼らに襲撃され倒されると、1918年8月からシベリア出兵していたアメリカ・イギリス両国は恐れをなして撤退。

同じくシベリアに出兵していた日本は地理的に近かったためそのまま治安維持を名目として残留。

 ※シベリア出兵に関する過去記事は、こちら。(↓)



しかし、如何せんシベリアは広大であり、戦力は分散。


共産パルチザンに包囲された時の尼港にいたのは、白系ロシア人約15,000名、支那人約1,000名、朝鮮人(※当時国籍は日本)約500名。

そして日本人は、治安維持のため派遣されていた日本陸軍・2個歩兵中隊約260名と軍属及びその妻子を含む婦女子440名の計約700名でした。


軍人としては日本軍260名とロシア兵を合計しても、僅か350名。

相手はその10倍以上で武装していましたから、まさに多勢に無勢。



彼らは 「我々に敵意はない」 と食糧の補給だけを要求して市内に入るや否や、白系ロシア兵を全員虐殺。

更に資産家や知識層と思しき一般市民をも次々と殺害して凍っていた川に放り込むと、財宝を略奪。



またユダヤ系の住民を選別して女性・子供を含めて全て虐殺・・・たった一晩で約2,500名を虐殺したのです。


この蛮行を知った現地駐在の石田副領事は、共産パルチザンに抗議すると同時に日本に援軍と救助を打電。

しかし当時は真冬・・・海面は凍結して船舶は動けず、陸路で向かっても40日もかかる状況。

またそれ故に、尼港にいた日本人も脱出することが出来ず。

そして1920(大正9)年3月11日、パルチザンは日本軍に武装解除を要求しましたが、それまでの裏切りや残虐行為を見てきた日本軍は徹底抗戦を決意。

翌12日に日本軍は義勇兵を募り約100名でパルチザン本部を急襲するも、如何せん多勢に無勢でほぼ全滅。

その戦闘中に残った日本人約600名が領事館に逃げ込もうとしましたが、その間パルチザンに捕まったり虐殺され、辿り着けたのは約250名。


そこでもほぼ2日間にわたり徹底抗戦しましたが、領事館内で生き残ったのは僅か28名。


市内全体で生き残った日本人は日本軍の別動隊と民間人合わせて121名のみ。

彼等は全員逮捕・投獄され、食事もろくに与えられぬまま、日本の救援軍に対する防御陣地構築のための土方仕事に駆り出されました。

零下30℃という極寒の中、凍てついた大地に土嚢を積み上げ陣地の構築をさせられ、それが終わると手のひらに太い針金を突き通されて後ろ手に縛られ、凍った河に生きたまま次々と川に放り込まれ殺害されたといいます。

    

               川に投げ込まれた遺体


そして5月に日本の援軍が到着する直前、彼らは生き残っていた日本人女性らを全員殺害し、市中に放火し焼き払って逃走したのです。

    
                
焦土と化した市内

それまでのパルチザンのよる殺害方法は、凄惨の一言。

生きたまま両目を抉り取られたり、五本の指をバラバラに切り落とされたり、2頭の馬に手足を繋がれ引き裂かれるなど・・・もうこれ以上書くと吐き気を催しますので、詳しく知りたい方はネットで事件名から検索してください。

特に支那・朝鮮人パルチザンが残虐な殺し方をした・・・という証言もありますが、この事件で市内の約半数の住民が殺害され、日本人はほぼ全滅。

救援隊が入って事実が発覚した直後、日本国内で報道規制が敷かれたそうですから、現場がいかに凄惨だったかが分かります。

しかし国際的にあったことが認定されているこの尼港事件は教科書に載らず、ありもしない南京事件が載せられている日本・・・一刻も早くこの教育を変えなければ、犠牲となられた先人は浮かばれません。
うー


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花があったら・・・

現在日本に脅威を与えている武漢肺炎に加えて、大陸からは黄砂やらPM2.5が飛来する時節ですが、今から75年前の今日・1945年3月10日未明に上空から雨あられと降り注いだものは、そんな微粒子ではなく・・・高性能爆弾でした。


それは太平洋戦争時に延べ100回以上行われた米軍による東京空襲の中で最も甚大な被害をもたらした

東京大空襲


と呼ばれる、1機平均6トンもの (日本の木造家屋により大きなダメージを与えるべく開発された) 焼夷弾を搭載した300機以上のB29爆撃機によって、深川・浅草を中心とした下町地区を重点に午前0時過ぎから2時間以上に渡って行われた絨毯爆撃。


日露戦争以降、我が国において3月10日は 『陸軍記念日』 だったそうで、一説には日本の気力を削ぐため敢えてこの日が選ばれたともいわれているこの大規模空爆による被害は、


 死亡者数・・・8万人以上(一説には10万人以上)
 
負傷者数・・・11万人以上

 焼失家屋・・・約27万8千戸

 被災者数・・・100万人以上

 焼失面積・・・約41k㎡(東京ドームのグラウンド3,000面以上)


にのぼりました。

(※犠牲者数は、単独の空爆としては世界史上最悪の数字。)

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-空襲       


例年マスコミはこの大空襲に関して8月の原爆記念日ほど注目しませんし、明日3・11の東日本大震災に関する特集の如き大きな扱いもしないでしょう。


しかしながら被害の規模は広島・長崎の原爆投下に匹敵するこの大空襲を、私たちは平和を願う日本国民として絶対に忘れてはならないと思うのです。


その想いを込めて・・・当時学徒兵として遺体の処理作業に従事された須田卓雄氏が、1970年12月29日付朝日新聞紙上に発表された体験談をご紹介致します。


         ◆     ◆     ◆     ◆


昭和二十年三月十日の(東京)大空襲から三日目か、四日目であったか、私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。

永代橋から深川木場方面の死体取り片付け作業に従事していた私は、無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、さして驚くこともなくなっていた。

午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。

頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変りはなかったが、倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。

着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。

その人は赤ちゃんを抱えていた。


さらに、その下には大きな穴が掘られていた。

母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、つめは一つもなかった。

どこからか来て、もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、その上におおいかぶさって、火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。

赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。


小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。


だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-空襲


わたしの周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。


どの顔も涙で汚れゆがんでいた。

一人がそっとその場を離れ、地面にはう破裂した水道管からちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。


若い顔がそこに現れた。


ひどい火傷を負いながらも、息の出来ない煙に巻かれながらも、苦痛の表情は見られなかった。

これは、いったいなぜだろう。 美しい顔であった。


人間の愛を表現する顔であったのか。


だれかがいった。 「花があったらなあ――」


あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。

私たちは、数え十九才の学徒兵であった。


           ◆     ◆     ◆     ◆


中近東などにおける現代の戦闘では 「誤爆により市民が何名死傷」 などという報道がなされ、そのたびに〝非人道的〟という批判が起きます。


しかし東京大空襲に於いて亡くなった8万人以上もの犠牲者の殆ども非戦闘員である一般市民であり、まさに桁違いの大量虐殺。

これは原爆投下と並び、非戦闘員の殺傷を禁じたハーグ陸戦条約に違反した非人道的行為。

戦後、連合国は極東国際軍事裁判などで〝人道に対する罪〟を犯したとして多くの日本兵をC級戦犯として有罪にしましたが、アメリカにそんな判決を下せる権利があるのでしょうか?


なのに日本政府はこれに抗議するどころか、この大空襲を指揮したカーチス・ルメイ少将に対し、なんと1964(昭和39)年に 「航空自衛隊の育成に貢献した」 という理由で勲一等旭日大綬章を授与しているのです。

※ルメイ少将に関する過去記事はこちら。(



チャップリンの映画 『殺人狂時代』 に「1人殺せば殺人犯だが、100万人殺せば英雄だ!」 という名台詞がありますが、まさにそれを彷彿とさせます。

私たちは、今1千万以上もの人々が平和に暮らしている東京が嘗ては凄惨な修羅場・焼け野原であったことを決して忘れることなく、同時にそのどん底から血の滲むような努力を重ねて目覚ましい復興を成し遂げた先人達に深く感謝し、またこの史実を後世に語り継がなければいけません。


あらためて東京大空襲によって尊い命を奪われた犠牲者のご冥福を、衷心よりお祈り致します。


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抜 擢

時代劇でお馴染み、大岡忠相と並んで人気の名奉行といえば、〝遠山の金さん〟こと

 遠山金四郎景元

彼が水野忠邦の抜擢により北町奉行に就任したのが、今からちょうど180年前の今日のことでした。


       


景元は1793(寛政5)年、長崎奉行を務めた遠山景晋の長男として生まれました。

若かりし頃は、養子問題等複雑な家庭事情もあってか町屋近辺で放蕩生活を送ったようですが、1814年に知行4,200石の堀田一定が娘・けいと結婚。

そして1824年に養父・景善が亡くなったことにより翌年から江戸幕府に出仕、江戸城西丸の子納戸勤務となり役料300俵を賜り、当時世子であり後に第12代将軍となる徳川家慶の世話を務めます。

そして4年後に実父・景晋の隠居に伴い家督・知行500石を相続すると、トントン拍子に出世。

1838年に勘定奉行に任命されると、その2年後の1840(天保11)年3月2日、老中・水野忠邦の抜擢により北町奉行に就任。


しかし水野忠邦と目付・鳥井耀蔵が推進する天保の改革の内容があまりに庶民に対し厳しいことから、景元は彼らと対立。

1841年11月
、水野が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対し、小屋の移転だけに留めました。

この景元の動きに感謝した関係者がしきりに景元を賞賛する意味で、『遠山の金さん』 ものを上演したことが、後の金さん人気につながったとか。

それをやっかんだのか、1843年には鳥井の策謀によって景元は北町奉行を罷免され、実質的には閑職の大目付に。

ところが失脚した水野が復職すると、今度は彼を裏切った鳥井が失脚。
更に水野が再度失脚したことで彼が引き上げた南町奉行も異動となり、その後釜として景元が復帰。

歴史上、北・南両奉行を務めるのは異例だったそうな。

 ※水野・鳥井両名に関する過去記事は、こちら。(↓) 



在任中は水野の後任・阿部正弘に重用され、株仲間の復興や寄席の復活などを実行。

 ※阿部正弘に関する過去記事は、こちら。(↓)


  https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12193655323.html


1852年には、家督を嫡男に譲ると剃髪して帰雲と称し隠居。

(上の肖像画は、その晩年の時のもの。)


そして1855(安政2)年に、61歳の生涯を閉じました。

さて、遠山の金さんといえば、トレードマークは〝桜吹雪〟の入れ墨。


       


放蕩時代に博徒と交遊があり、その時に入れたともいわれていますが、入れ墨を知れていたという正式な資料は見当たらないそうな。

ただ奉行時代しきりに袖を気にして、めくれ上がるとすぐ下ろす癖があったそうですから、肘の辺りまで入れていたのかも。

ドラマではお白州で自ら片肌脱いで入れ墨を見せていますから、実際とは真逆?

もっとも史実(?)に忠実なドラマを作ったら、視聴率は全く上がらないでしょうけどネ。


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一枚の写真

1975~86年にかけて、久米宏さんが司会を務めた人気番組『ぴったしカンカン』に、ブログタイトルと同じコーナーがありましたが、今日はその話題ではありません。

今からちょぅど75年前の今日・1945年2月23日・・・その年のピューリッツァー賞を受賞した歴史に残る写真が、太平洋の無人島で撮影されました。


皆さんもご存じであろう、その1枚とは


     硫黄島の星条旗

   Raising the Flag on Iwojima


    


後に太平洋戦争のシンボルとしてアーリントン墓地に建てられた海兵隊戦争記念碑の元になった、有名な写真です。


我が母校・長野高等学校の大先輩であった栗林忠道中将(当時)率いる日本軍が死守せんとする硫黄島にアメリカ軍が上陸を開始したのが、同年2月19日。

 ※栗林中将に関する過去記事は、こちら。(↓)


激しい艦砲射撃や空爆に耐えた日本軍の必死の抵抗も虚しく、遂に米軍兵6名が擂鉢山頂上に日本軍の水道管をポールにして星条旗を掲げ、それを同行したAP通信社カメラマンのジョー・ローゼンタールが撮影したのです。


※しかし星条旗はその後2回にわたり夜間日本兵によって日章旗に取り換えられたとか・・・日本兵の執念が伝わってきます。


この写真は異例の速さでアメリカ本国に送られ、18時間半後には各新聞がこれを掲載。


米国民が熱狂する中、一人の政治家がある策略を巡らせます。

それは、時の大統領F・ルーズベルトでした。

        Franklin Delano Roosevelt  


彼は星条旗を掲げた国民的ヒーローの6人を帰国させ、売れ行きが伸び悩んでいた戦時国債のキャンペーンに利用することを思いついたのです。


結果的に3名がその後の戦闘で死亡し、残ったレイニー・ギャグノン、ジョン・ブラッドリー、アイラ・ヘイズの3名が大統領命令で帰国。

彼らはヒーローとして全国各地を巡り、ルーズベルトの企み通り国債売上に貢献。


実に目標額の2倍に当たる233億ドルを国庫にもたらしました。


私はこの史実を、C・イーストウッドがメガホンを取った映画


  『父親たちの星条旗』 2006年公開)      

   Flags of Our Fathers


を観て、初めて知りました。


       


そしてこの映画でも描かれていますが、本来なら平凡な帰還兵だったはずの3人は偶然旗を立てたことで国民的ヒーローとなり、またその後半生・・・いや、人間性までもが大きく変わってしまいます。


ギャグノンは早く結婚したものの、その後なかなか定職には就けず。

ヘイズは有名になった重圧からその後アルコール依存症に陥り、うつ病も併発。 

何度か留置場の出入りを繰り返した挙句、硫黄島の戦いから10年後に32歳の若さで過度のアルコール摂取により急死。

またブラッドリーも心に深い傷を負い、この一連の出来事を家族には話さなかったと言います。


しかし 「孫たちのために語り継いでほしい」 という妻の強い要請により、1985年に一度だけ過去を語ったそうですが、その話を元に彼の息子ジェームズ・ブラッドリーが関係者を訪問して調査・出版した同名の著書が、映画の原作となりました。


そして隠された事実が、もうひとつ。

この写真、実は2回目の掲揚の時のもの。
これ以前に一回り小さな星条旗が立てられていたのです。


しかし最初の旗を掲げたC・W・リンドバーグ伍長が帰国後周囲にその事実を話しても信じてもらえず、逆に嘘つき呼ばわりされたとか。ダメだぁ顔


もし最初の星条旗掲揚の写真が大々的に報じられていたら、リンドバーグ伍長が時の人となって逆に3人は平穏無事な後半生を送り、更にはイーストウッドの映画は制作されなかったかも・・・。

1枚の写真は、国政から兵士の人生までを大きく変えたのです。


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報 復

無差別空襲というと、私たち日本人は東京大空襲や広島・長崎の原爆投下を想起しますが、それは何も日本に限った事ではありません。

第二次世界大戦中、最大・最悪の空襲といわれた


 
ドレスデン爆撃
  Bombing of Dresden

がイギリス・アメリカによって行われたのは、今から75年前の今日のことでした。

1945年に入ると、連合国軍はドイツへのソ連軍の進軍をいかにして援助するかを協議し、ソ連軍の前に立ちはだかるいくつかの都市の爆撃を決定。

そしてドイツ東部に位置するドレスデンの空爆なくして東部戦線の補給路を断つことは出来ないと判断しました。


    


それまでドレスデンには1944年10月と1945年1月に2回の空襲が行われましたが、そのいずれもが鉄道施設を狙ったもの。

しかしこの空襲は、地域を限定せず街全体を標的とした無差別爆撃でした。

2月13日夕方から翌日午前0時過ぎにかけて、イギリス軍のランカスター爆撃機769機とハビランド・モスキート9機が約1,500トンの爆弾と約1,200トンの焼夷弾を搭載し、2波に分かれて出撃。


    

                ランカスター爆撃機


照明弾を投下してオペラ座やツヴィンガー宮殿、聖母教会など主要な建物に目標を定めさせて、低空から市街地に全爆弾を投下。

更に翌14日にはアメリカ空軍も474トンの爆弾と300トンの焼夷弾を投下、更に15日にも466トンの爆弾を投下しました。

この数度の爆弾投下は、
空爆後に市民が片付けのために地上に出てきたところを狙ってのものだったとか。

ドレスデンにはさしたる軍事施設もなくドイツ軍も殆ど無防備状態だったため、連合軍はやりたい放題。

この数度の爆撃により、ドレスデンは街の85%が破壊され、多くの歴史的文化遺産が悉く焼失しました。

    

上の写真は市庁舎の時計塔から撮影された爆撃直後の街並みだそうですが、石造りの建物が一見残っているように見えます。

しかし実際はまず爆撃によってまず屋根を吹き飛ばし、その後から焼夷弾を落として木造の建物内部を焼き尽くすという周到な爆撃計画により、多くの市民やソ連の虐殺から逃れてきた難民たちが焼死。

その数は2万人とも3万人以上とも言われ、はっきりしていません。

    

爆撃後、さすがにイギリス国内からもやり過ぎとの批判の声が上がったとか。

軍事施設ではなく一般人を無差別に狙った爆撃ですから当然でしょうが、おそらくこれは1940~41年にかけてドイツ軍が行ったロンドン空爆に対する報復の意味合いが強かったのでしょう。


またこの空爆の戦果が、翌月10日や5月15日に行われた東京大空襲に活かされたことは容易に想像がつきます。

彼等連合軍は事後法によって敗戦国を戦勝国が裁くという国際法に明確に違反した裁判で、日本を弾劾しました。

しかしこれらの空爆や原爆投下で多くの非戦闘員を殺害した彼等連合国軍こそ、本当の戦犯ではないか・・・私にはそう思えてなりません。


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告 発

1945年に第二次世界大戦が終結した後のアメリカでは、ソ連との対立や政府内で活動していた同国のスパイが摘発されたこと、また1949年に中華人民共和国が成立したことで、国内に共産主義脅威論が高まりました。

1947年にはハリウッドにおけるアメリカ共産党の活動が調査され、非米活動委員会への召喚や証言を拒否した10人の映画産業関係者が議会侮辱罪で訴追・有罪判決を受けて追放されました。

そしてこのレッド・パージがより一層激しくなる端緒となったのが、今からちょうど70年前の今日・1950年2月9日に、弁護士から巡回裁判所裁判官を経て1947年に共和党所属の上院議員となった


 ジョセフ・レイモンド・マッカーシー 
   Joseph Raymond "Joe" McCarthy


が、同党女性クラブの講演で


「国務省に勤務している共産主義者(250名)のリストを持っている

と爆弾発言をしたことでした。



        


マスメディアはこれに飛びつき、翌月には〝マッカーシズム〟という言葉が登場・・・これがレッド・パージの代名詞に。

この告発を契機に、アメリカでは政官界だけでなく、マスメディアや映画関係、更には学術界でも共産主義者の摘発が行われました。

中でも有名なのは、1951年に逮捕され死刑を執行されたローゼンバーグ夫妻。

 ※この 『ローゼンバーグ事件』 に関する過去記事は、こちら。(↓)



また1952年には、喜劇王チャールズ・チャップリンが、ロンドンに向かう船内で司法長官から事実上の国外追放命令を受けています。

(彼が再びアメリカの地を踏んだのは、アカデミー賞授賞式に出席した20年後のことでした。)


マッカーシーの赤狩りに告発者として協力したのは、後に大統領となったロナルド・レーガンやリチャード・ニクソン、また映画界ではウォルト・ディズニーやゲーリー・クーパー、エリア・カザンなど。

またジョン・F・ケネディーも彼の支持者でした。

共和党はこのマッカーシズム効果で1952年の選挙で大勝し、20年ぶりに大統領選に勝利。

この勢いに乗って、マッカーシーは更に追及を続け、彼自身の前任上院議員だったラフォレット・ジュニアにまで調査の手を伸ばし、自殺に追い込みます。

しかし何事も程々が肝要・・・その追及の矛先をアメリカ軍内部にまで広げたことで、風向きが変わり始めました。

大将を公然と批判した彼に対し、軍は強く反発。
マッカーシー周辺のスキャンダルを暴露して反撃に出ます。


1954年3月にCBSのテレビ・ドキュメントシリーズ “See it Now ” で、ジャーナリストのエドワード・R・マローが冷静に反論したのに対し、マッカーシーは怒鳴るなど激高し、視聴者の印象を悪くします。

       

そしてその翌月に上院で開かれた陸軍・マッカーシー問題特別委員会がテレビ中継されたことで、彼の支持は急落。


同年12月、上院はマッカーシーが同院に不名誉と不評判をもたらしたとして賛成67・反対22で譴責決議を可決。

マッカーシーの野望はここで潰え、元々大酒飲みだった彼は急性肝炎を引き起こし、上院議員在職中だった1957年5月に48歳の若さでこの世を去りました。

       

まさに〝政界の一発屋〟の如き風雲児でしたが、彼の活動は決してアメリカにとって不利益ではありませんでした。

彼が譴責処分を受ける前の1954年8月には
共産党統制法が成立してアメリカ共産党が非合法化されましたし、1995年にソ連の暗号通信の内容が公開された際には、マッカーシーに名指しされた複数の人物が実際にソ連のスパイだったことが判明しています。

ですから譴責処分を受けたとはいえ、彼の
死去に際しては上院議場で告別式が催され、当時の上院議員としては稀な国葬の栄誉に浴したのは当然と言えましょう。

こういう史実を見るに、未だ公安調査対象団体である日本共産党が公党として堂々と活動し、スパイ防止法がない〝スパイ天国〟日本の行く末が心配です。
うー


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反 故

今日は、クイズからスタートです。

【アメリカが初めて戦争をしたアジアの国は、どこ?】

「日本」と答える方もいらっしゃるでしょうが、これは不正解。

正解は、フィリピンなんです。 その


 米比戦争

が開戦したのが、今からち121年前の今日・1899年2月4日のことでした。


1529年以来スペインの植民地だったフィリビンでは、1896年から独立のための戦闘が繰り広げられていました。

一方、1898年4月からアメリカとスペインがキューバの支配権を巡って米西戦争が勃発。

その一環として同年5月1日にフィリビン・マニラ湾開戦が行われ、アメリカが勝利しました。


勢いに乗ったアメリカはフィリビン独立運動の指導者エミリオ・アギナルドに対し、スペインに勝利すれば独立を認めると約束して彼らにスペイン軍を背後から襲わせます。


       

そして7~8月にかけて行われたマニラの戦いでスペイン軍を撃破したアメリカは米西戦争に勝利し、12月のパリ条約でスペインから2,000万ドルでフィリピンを購入。

つまり支配者がスペインからアメリカに変わっただけ。

翌1899年1月1日に、アギナルドが初代大統領に就任し、同月21日にフィリピン第一共和国が建国されたものの、アメリカとは緊張関係に。

そして翌2月4日・・・現在のマニラ市内のソシエゴ通りで、フィリピン兵2名が支配地域内に立ち入ったとしてアメリカ軍に射殺される事件が起こります。

この衝突を受け、アギナルドは軍司令官や各都市の首長に国土防衛命令の電報を打ちましたが、いかんせん多勢に無勢。


人員・物資共に圧倒的なアメリカ軍は大攻勢をかけ、2月中にマニラを、そして3月には共和国の主都だったマロロスを制圧します。

そして8月に入り、アメリカはフィリピン占領のために11,000人の地上部隊を増強しましたが、この時に駐留米軍司令官に着任したのが、1885年にインディアン戦争に参加してジェロニモ以下先住民族を殲滅し、マニラ戦争後に少将に昇進したアーサー・マッカーサー・ジュニアArthur MacArthur, Jr.1845-1912)。

       


ご存知、戦後GHQ司令長官になったマッカーサー元帥の父親です。


彼(の部下)はゲリラ戦でしぶとく抵抗するフィリピン軍に対し、

「10歳以上は皆殺しにせよ」

という命令を出し、各地で残虐な殺戮が行われました。


当時ニューヨーク・ジャーナル紙に掲載された風刺画には、その文言が描かれています。

    


この戦争は(公式には)1902年7月にセオドア・ルーズベルトが声明を出すまで続きましたが、その間約60万人(20~150万人など複数説あり)のフィリピン人が殺戮されたといいます。

※この戦争に際し、アギナルドは武器支援を求め、使者を日本に送っています。

その要請を受け、日本軍は既に使用しなくなった旧式の武器を提供し、三井物産から購入した老朽船・布引丸に乗せ7月に長崎港を出港したものの、途中暴風雨に遭って沈没・・・日本製の武器がフィリピンに届くことはありませんでした。

その後も 『モロの反乱』 など内戦が続き、アメリカが当初の約束通りフィリピンの独立を承認したのは、第二次世界大戦後の1946年・・・つまり約50年近く後のことでした。

今まで幾度となく拙ブログで申し上げていますが、たとえ現在は同盟国であるアメリカも、いつ掌を返すのか分からない・・・これが国際社会の常識だと心得なければなりません。

昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵ですから。
うー


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