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崩 壊

あれからもう30年も経ったとは、とても思えないのですが・・・1989年11月9日は、あの


 ベルリンの壁


が事実上崩壊した日でした。


壁の上によじ登った群衆が歓声の中ツルハシを振り上げ、壁を壊す映像をご記憶の方も多いと思います。


この日が、ドイツを含む各国の予想を上回るスピードで東西ドイツの再統一を為し得る、大きな分岐点となりました。


ともすると 『ベルリンの壁』 って、東西ドイツの国境と同じだと思いがちなんですが、実は全くの別物。


元来ベルリンは東ドイツ領内のほぼ真ん中に位置しており、ドイツ本土同様、ベルリン市も米・英・仏・ソの4ヶ国による分割統治となりました。


まもなく東西冷戦に突入すると、1948年6月からソ連はベルリンへの生活物資の搬入を遮断。

西側諸国はこれに対抗して、生活物資を空輸。


そして東西ドイツに分かれた後の1961年8月、東ドイツは突如東西ベルリンを結ぶ68の道路全てを閉鎖。


有刺鉄線により境界線を明確にすると以後順次コンクリート製に作り変えられ、1975年に総延長155kmに及ぶ 〝ベルリンの壁〟 が完成。


       

これにより西ベルリンは (空路や東ベルリンに停車しない直通列車により西ドイツと行き来ができるとはいえ) 東ドイツ内の〝陸の孤島〟となったのです。() 


       


以後1989年の壁崩壊まで、西ベルリンに亡命を企て成功した者は5,000名を越える一方で、狙撃され死亡した東ベルリン住民は192名に上ったそうです。


しかし1980年代に入ると、東側諸国の風向きが変わり始めます。

1985年ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、ペレストロイカ(改革)政策とグラスノスチ(情報公開)によって急速に民主化へと傾き、周辺の東欧諸国にも民主化推進の波が。

ところが東ドイツのホーネッカー書記長は秘密警察などを使って逆に国内統制を強化。


それでも1989年5月にハンガリーがオーストリア国境の鉄条網を撤去し、翌月にはポーランドが選挙によって民主化を実現すると、東ドイツ国民はポーランド経由で西ドイツに行くように。

しかしホーネッカー書記長は時代の流れに逆行するかのように、チェコとの国境を封鎖して国民を閉じ込めます。

これに怒った国民がデモを繰り返すようになり、彼の頼みの綱だったソ連も救いの手を差し伸べようとはしませんでした。


そして11月8日に開かれた党中央委員会で政治局員全員が一旦辞任するなど政府内も混乱の極に達し、翌9日にとどめを刺す声明が発表されます。

それは党スポークスマンだったシャボウスキーが

「ベルリンの壁を含めて全ての国境通過点から直ちに出国できる」

というもの。 しかしこれ、正しくは

「ベルリンの壁を除く国境通過点からの出国を認める」


もので、しかもそれは翌10日から・・・という内容でした。

それをロクに中身を確かめないまま、生放送の記者会見で発表したからたまりません。

声明を聞いて喜んだ東ベルリン市民は検問所に殺到。


その凄まじい勢いに、国境警備隊はゲートを開放するしかありませんでした。

        


壁によじ登ってハンマーで叩き割ったのは翌10日未明のこと・・・11月9日は、正確に言えば〝国境検問所の崩壊〟だったのです。

この歴史の大転換は、混乱した政府のミスとホーネッカーの慢心と時代錯誤、そして何より圧倒的な民衆のパワーによる〝寄り倒し〟によって起きたのでした。


検問所の解放という〝アリの一穴〟が開いたことで始まったこの流れは、他国の政治家たちの予想をはるかに上回る早さ・・・ベルリンの壁崩壊から1年も経たない翌1990年10月3日に東西ドイツ統一を成就させたのです。

(もっとも、そのあまりの早さ故に統一ドイツはその後様々な弊害に悩まされることのなるのですが・・・。)

東側の民主化を先導したゴルバチョフ書記長は、後にこう語っています。

「政治家ではなく、国民が英雄だった。」

・・・民衆の力って、凄いんですネ。


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銀 州

今日はクイズからスタートです。

下記の特徴を有するアメリカの州は、どこ?


◆面積が日本の約3/4の286,350㎢で、全米50州の中で第7位。
◆砂漠気候であり、州内面積の80%以上が連邦政府の所有。
  過去に何度も核実験が行われている。
◆特産品から、〝銀の州〟と公式に呼ばれている。


これだけですぐ答えが分かった方は、アメリカ事情にお詳しいはず。

では分からない方に、とっておきのヒントを。

◆ギャンブルの街・ラスベガスがある


いくら何で易し過ぎましたネ。 そう、正解は

  ネバダ州

State of Nevada


同州がネバダ準州から正式にアメリカ36番目の州に昇格したのが、1864年10月31日・・・南北戦争の最中であり、日本では池田屋事件が起きた3ヶ月後の幕末混乱期でした。

    


州名の〝ネバダ〟は同州西の州境にあるシエラネバダ(雪に覆われた)山脈に由来し、「雪に覆われた」を意味するスペイン語の形容詞“nevado ” の女性形。

砂漠が土地の多くを占める州なのに、面白い命名をしたものです。

1859年に、コムストック・ロードという場所でアメリカ初の銀鉱石の大規模な埋蔵が発見され、その2年後にユタ準州の西部を分離してホームベースを縦半分に切ったような形のネバダ準州が誕生。


そして南北戦争末期で、アメリカ合衆国大統領選挙が11月8日に行われる直前に、リンカーン大統領が共和党の議会支配と再選を果たすべく州昇格を急がせた結果、今から155年前の今日に州昇格を果たしました。


ネバダ州はその後しばらく鉱山景気で人口が増え、鉱山町ではギャンブルも規制されず通常に行われていました。

ところが1909年に全国的なギャンブル反対運動の煽りを受けて、同州でも違法に。

しかしその後鉱業が衰退し、世界大恐慌の頃には農業も衰退したことで人口の減少が止まらず、1931年3月に州議会の承認により再びギャンブルを合法化。

そして1960年代からあのハワード・ヒューズがラスベガスを一大カジノ・歓楽街に育て上げました。

    


 ※ハワード・ヒューズに関する過去記事は、こちら。(↓)



ラスベガスだけでなく、リノやカーソンシティーなどギャンブルが盛んなネバダ州は、他の州とは違う特徴を有しています。

まず、個人や法人の所得税(州税)がないこと。
更に消費税は、日本より低い6.85%。


またアルコール類の販売は24時間認められており、ラスト・オーダーはなし。

しかもアメリカでは唯一売春が合法化されているのです。

これだけ聞くと、お金持ちのス〇ベ親父は移住を考えたくなるでしょうが、世の中そう甘くはありません。

その反面、21歳以上であることを証明できればアメリカ人・外国人を問わず、その場で誰でも拳銃を購入しすぐ持ち帰ることができる、全米で最も銃の入手が容易な場所。

それ故かネバダ州は全米屈指の危険な州とされ、犯罪率は全米平均より20%以上高く、特に窃盗が全犯罪の80%以上を占めており、強盗と自動車窃盗率は全米トップ・クラス。

観光客狙いの犯罪が多いのでしょう、実際私と一緒にベガスに行った会社々長はカードに夢中になっていてパスボートが入ったセカンドバッグを盗まれ、エラい目に遭いました。

もう20年程前のことでしたが、一緒にラスベガス署に行って盗難届を出したその数年後に、TVドラマ 『CSI:』 ラスベガス・シリーズを観て、その悲劇(?)を懐かしく思い出したものです。

住むよりは、観光で楽しむために行く場所かもしれませんネ。

私は過去3回ほどラスベガスに行きましたが、今度旅行する機会があれば、是非行ってみたいところがあるんです。

それは、下記地図の青矢印の先に位置する〝エリア51〟。


    

           赤ポイントは、州都カーソンシティー


よくUFOが目撃されることで、ここに秘密の宇宙基地があるのでは? と囁かれている場所。

ラスベガスから約200kmの地点・・・砂漠のド真ん中ですが、あわよくばUFOを目撃できるかも。

それに、ここに行けばカジノでスラずに済みますしネ。
あせあせ


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暴 落

よく株価が急落した際に、〝ブラック・〇〇デー〟とか〝暗黒の〇曜日〟という表現が使われますが、その元祖であり世界大恐慌の引き金となった

 ウォール街大暴落

が起きたのは、今からちょうど90年前の今日からでした。

アメリカ経済は第一次世界大戦(1914-1918)の軍需により好調を維持し、1920年代に入ると投資ブームで株価はジリジリと上昇。

中には借金をして株投資をする人まで現れ、ダウ工業株平均が6年間上がり続けて当初の5倍になり、1929年9月3日には最高値381.17をマーク。

 ※ダウ工業株平均に関する過去記事は、こちら。(↓)



しかし山高ければ、谷深し・・・日本のバブル景気と同じでその後株価は約1ヶ月下がり続け、17%もダウン。

しかもこれは、ほんの序章に過ぎませんでした。

10月に入ると、中旬に向けて多少持ち直したものの、ついに運命の日・・・〝Black Thursday (暗黒の木曜日)〟と言われる10月24日を迎えます。


この日、世界最大の株式市場・ウォール街では、取引開始後1時間で株価が急落。

それを見た投資家たちがパニック状態に陥り、一斉に売りに出たため、市場は大混乱。

取引所の市場介入等によって取引終了時には一旦前日の終値まで戻しましたか、市場には不安と動揺が広がりました。

そしてこの株価暴落を週末の新聞が書き立てると、週が明けた28日(月)と29日(火)には、24日を上回る下げ幅を記録・・・29日は〝暗黒(悲劇)の火曜日〟となりました。


この29日に取引された1,600万株という記録が破られたのは1968年・・・約40年間も破られませんでした。


 


またこの29日だけで市場は140億ドルを失い、それまでの1週間の損失は300億ドル。

これは連邦政府年間予算の10倍以上に相当し、第一次世界大戦でアメリカが消費した金額よりも多かったそうですから、その衝撃が如何に大きかったかが分かります。


この株価急落の余波は世界中に広がり、いわゆる大恐慌の端緒になったことは、皆さんもご存知の通り。


   

      大暴落を伝える新聞と、ウォール街に殺到した投資家たち


その後ダウ工業株平均は1932年に史上最安値を記録したものの徐々に回復し、1929年の水準に戻ったのは1954年11月・・・実に25年の歳月を要しました。

その後の株価は順調に伸びて行った・・・と言いたいところですが、1987年10月12日の〝ブラック・マンデー〟では、1929年の大暴落より酷いダウ平均22%ダウンを記録。

しかしこの時は急速に株価は回復し、2日後には1日の上昇幅の記録を作っています。


  

                       1929年() と 1987年(


現在の株価取引は、これらのような大幅な株価の変動を起こさないよう様々な工夫がなされています。

とは言え、株投資はギャンブルの如し。


素人がいきなり勝負をかけるには、リスクが大き過るかと・・・なんて言ったら、トレーダーに叱られちゃうか?


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【本日増刊】 初 穂

バレンタインにホワイトデー、そしてクリスマスに最近ではハロウィン・・・日本人が外国文化をすんなり取り入れる柔軟性は凄いと思いますが、その多くは商業ベースに踊らされていると言えましょう。

それにいちいち目くじらを立てるつもりはありませんが、だからと言って日本の伝統儀式や風習をないがしろにすべきではない、と思います。


今日・10月17日が、我が国に古来から伝わる大祭のひとつ、


   かん   なめ     さい
 神 嘗 祭

を執り行う日であることを、今どれだけの日本人が知っているのでしょうか?

伊勢神宮では、15日から今日にかけて執り行われます。)


※大祭とは神社の主要な祭祀であり、宮中祭祀のうち天皇陛下自らが執り行う祭祀のこと。  


しかし日本国憲法・現行法では宮中祭祀に関して明文化されておらず、天皇陛下が私的に執り行う儀式と解釈されています。 


それ故に、社会的に広く認知されていないと言えるかも・・・。

〝神嘗祭〟とは、日本神話において天照大御神 (あまてらすおおみかみ) が天上の高天原 (たかまがはら) で初穂(※その年の最初に収穫した稲穂)を食されたことに由来し、毎年の初穂を伊勢神宮にお祀りされている天照大御神にお供えし感謝する祭祀・・・つまり五穀豊穣の感謝祭にあたり、西暦721年から1,300年近く連綿と続く伊勢神宮と宮中での伝統行事。

     


元々は宮中が勅使に御酒と神饌を授けて伊勢神宮に遣わし、それを旧暦の9月11日に奉納する儀式として執り行われていましたが、1872(明治5)年以降は新暦の9月17日に変更。

しかしその時期だと稲穂の生育が不十分なため、1879(明治12)年からは1ヶ月ずらして10月17日となりました。


※伊勢神宮の新嘗祭の様子を、こちらでご覧いただけます。



この儀式自体は知らずとも、天皇陛下が奉納する稲穂を皇居内の水田で刈り取られる様子を、ニュースでご覧になった方も多いはず。


    

       先月19日に稲刈りをされた天皇陛下のご様子


拙ブログでも以前記事にしましたが、皇后陛下は以前 「皇室は祈りでありたい」 と仰られたことがありました。

そのお言葉通り、来月23日に執り行われる大祭 『新嘗祭』 で、天皇陛下は長時間にわたり正座して自ら栽培し刈り取られた稲を供えて収穫に感謝し、国家安泰や国民の繁栄を祈られます。


日本人は農耕民族であり、毎年様々な祈りや感謝を神々に捧げてきました。

しかし終戦後、そういった伝統儀式が(GHQの施策等により)軽んじられてきたように思います。

国家の安寧や子々孫々の繁栄を願うなら、1,000年以上続く伝統行事を疎かにすべきではないでしょう。

天皇陛下や伊勢神宮だけでなく、神嘗祭が執り行われる今日と新嘗祭が執り行われる来月23日は、日本人として自然の恵みに感謝する一日にしたいものです。扇子


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政 争

学校ではまず教わらないものの、近代日本の行く末を決めた大きな出来事が、今から138年前の今日起こりました。 それは

 明治14年の政変


1877年の西南の役で西郷隆盛が倒れ、翌1878年には大久保利通が暗殺されて明治維新を支えた両巨頭が姿を消した明治政府内では、徐々に国会開設の機運が高まっていました。

しかし政府内では消極論者の右大臣岩倉具視と斬新派の伊藤博文井上馨、更には急進的な大隈重信がいて、決して一枚岩ではない状況。


       

                  大隈 重信   

この政治バランスを大きく崩すキッカケとなる『開拓使官有物払い下げ事件』が起きたのが、1881(明治14)年7月のことでした。

北海道開拓使は、北方開拓のために1869~1882年まで置かれた官庁で、 ロシア帝国に対抗するために国力を充実させるため北海道開拓に力を入れるべきと主張した黒田清隆が長官に就任。


そして十年計画の満期が近くなった1881年に開拓使の廃止方針が固まると、黒田は開拓使の事業を継承させるため部下を退職させて企業を起こし、1,400万円の公費を投じた同計画で作った船舶や農園・炭鉱・ビール工場などを僅か39万円、しかも無利息30年賦という破格の安値で関西貿易商会へ払い下げることに。

       

                                     黒田 清隆


黒田清隆と同商会の経営者・五代友厚が同じ薩摩出身者だったこともあり、これを知った元大蔵卿の大隈重信が反対・・・するのは当然のことだと思いますが、この払い下げが7月に新聞にすっぱ抜かれたことで、世間は大騒ぎに。

このネタを新聞社にリークしたのが大久保だ、と政府内で疑われてしまったのです。

その頃の政府は薩長土肥体制から薩長体制に変わっていましたが、肥前(佐賀)出身の大隈は元々亜流。

本来この官有物払い下げ事件で糾弾されるべきは黒田清隆のはずなのに、あべこべに大隈が批判の矢面に立たされることになってしまいました。

この事件前、冒頭申し上げたように政府内では議会の設置機運が高まり、伊藤を含め各参議が意見書を提出していましたが、大隈だけは未提出。

しかし1881(明治14)年3月、彼は〝密奏〟という形で有栖川宮熾仁親王にイギリス流の立憲君主国家を標榜し早期の憲法公布と国会の2年後開設を主張する意見書を提出したのです。  


頭越しに意見書を提出されたことを知った岩倉具視は、怒って井上毅に相談。

彼は福沢諭吉の民権論と類似した大隈案に対抗してドイツ(プロシア)式の
君権主義国家が妥当とする意見書を作成。

伊藤博文は双方の勝手な動きを知って激怒しましたが、そこで持ちあがったのが、前述の官有物払い下げ事件。


大蔵省内の大隈派が安価な払い下げを公然と批判したことを不快に思った伊藤は、大隈追放に傾きます。

       

                    伊藤 博文

そして大隈が明治天皇の行幸に同行し不在の間に伊藤と井上毅らが協議して大隈の罷免・払い下げの中止・10年後の国会開設を決定。

明治天皇が帰京した10月11日に御前会議の裁許を得て正式決定がなされたのです。

翌日詔勅が公表されると、大隈は伊藤らに促されて辞表を提出。


他に犬養毅尾崎行雄田中耕造前島密ら、また福沢諭吉門下の慶應義塾OBが政府から追放されました。

その後伊藤博文は自ら渡欧し、ドイツ(プロシア)式の憲法導入を決定することになりました。

一方、野に下った大隈は翌1882年に立憲改新党を結成し、また政府の妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を創立。

また慶應義塾OBらは『時事新報』を立ち上げ、実業界へと進出しました。

もしこの政変がなければ大日本帝国憲法はイギリス流となり、また早稲田大学の創立や慶應義塾の財界進出は大幅に遅れ、現在のような両校のライバル関係は存在しなかったかもしれません。

歴史に〝もし〟はないとは言え、卒業生の一人としてはついつい考えたくなります。
うー


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却 下

皆さんも、何度か覗いた経験があると思いますが、今日はその

 望遠鏡の日

なのだそうです。

オランダの眼鏡屋(レンズ製作業)だった、ハンス・リッペルベイ(1570-1619)なる人物が、今から411年前の今日・1608年10月2日に望遠鏡の特許申請を国会に提出したことに因むとか。

       

              Hans Lipperhey


 


ドイツのヴェーゼルに生まれた後オランダのミデルブルフに移住し、1594年に結婚して1602年に同市民となり、終生その地で暮らしたという彼は、そこで眼鏡屋を開業。

※眼鏡は13世紀末に発明され、既に普及していました。

そしてある日、店で遊んでいた2人の子供が1枚のレンズにもう1枚のレンズを重ねた時に物がはっきり見えることに気づき、それを見た彼に望遠鏡の構造が閃いたとか。

(店頭に2枚のレンズを買い求める客が来訪し、それを不思議に思った彼が2枚のレンズを重ねたことから・・・という説も。)


そこで彼は一攫千金(というか年金)の獲得を目論んで、特許を申請。

    
         
提出した特許申請書(一部・左に彼の署名)


しかしオランダ国会は、この申請を却下。 その理由は、

◆単純な構造で、誰でも作れる。
◆多くの人が、この発明を既に知っている。

というもの。 実際、彼の数週間後に、同じくオランダの眼鏡屋ヤンセンが同様の特許を申請しましたが、これも同様に却下されています。

本人はさぞガックリしたでしょうが、この特許申請は確実に人類の科学の進歩に貢献することに。

なぜなら、この望遠鏡発明の噂はすぐさまヨーロッパに広がり、2枚のレンズと筒だけで簡単に作れる望遠鏡は短期間に普及したから。

特許申請したリッペルベイの望遠鏡は倍率が3倍でしたが、翌1609年夏には、パリで3~4倍の望遠鏡が発売されたとか。

そして当時バドゥパ大学の数学科教授だったガリレオ・ガリレイも、自ら望遠鏡を制作。


        


その後彼はその望遠鏡 (上が14倍・下が20倍) を使って月にクレーターがあること、天の川が無数の星の集合体であること、木星に衛星があることなどを次々発見しました。

ですから逆に言えば、もしリッペルベイが特許申請をしなければ、ガリレオは望遠鏡の存在を知らず、地動説も唱えられなかった・・・かもしれません。


存命中の彼は、狙っていた年金を手に出来ず悔しい思いをしたかもしれませんが、科学発展の一翼を担ったこと、また月のクレーターや小惑星などに自らの名が冠されたことをあの世で知って、満足している・・・かナ?


でも、本当に初めて望遠鏡を発明したのは、誰だったんでしょうネ?

眼鏡が発明されてから300年以上の間、誰も2枚のレンズを重ねて見なかった・・・なんてことは、有り得ないと思いますが。


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葉 書

皆さんは、年間何枚これを利用しているでしょうか?

おそらく多くの方は、その殆どが年賀状ではないかと思われますが・・・そう、その

 は が き

が世界で初めて発行されたのが、今からちょうど150年前の今日・1869年10月1日のことでした。

発行したのは、オーストリア・ハンガリー帝国。
実物は、こんな感じ。(↓)


    


正式名称:郵便葉書とは、決められた規格 【長さ14~15.4cm 幅9~10.7cm 重さ2~6g (※いずれも往復はがきは除く)】の用紙に通信文を書き、別の一面に相手の住所氏名などを書いて出す郵便物のこと。


ローランド・ヒルが考案した切手を貼る現在の郵便制度がイギリスで始まったのは、1840年1月から。

 ※ローランド・ヒルに関する過去記事は、こちら。(↓)



そして日本では前島密がイギリスの郵便事情を視察した際に、当時ヨーロッパで急速に普及した低額簡易郵便〝ポストカード〟に着目し、この導入が郵便制度拡充の決め手になると確信。

彼の建議によって東京~京都~大阪間で郵便制度が始まったのは1871年4月ですが、その2年後の1873年には官製はがきが発行されました。

※現在は日本郵便が民営化されたため、〝官製はがき〟は存在しません。


ただ当初のはがきはカード形式に抵抗があったためか2つ折りになっており、その内側に通信文を書く形式。


片面には「他人に見られる可能性はあるけれども、その分安い」という但し書きが付けられていました。


    


※冒頭触れた年賀はがきですが、徐々に枚数が増えて郵便局が混乱するようになったため、現在のように一定の期間に差し出された年賀はがきを元日に配達するシステムが一部郵便局で導入されたのは、1899年から。 そして全国すべての郵便局に導入されたのは、1905年からだそうな。

当初の料金は半銭(5厘)で、10年後の1883年には倍額に1銭に、そして前述の「年賀郵便物特別取扱」が始まった1899年からは1銭5厘に・・・。


    
                 
1銭5厘のはがき


ここでちょっと皆さんにお伺いしますが、この〝1銭5厘〟という金額に聞き覚えがありませんか?


城山三郎さんらの著書や従軍記の中で、

「(軍隊にいた頃)『貴様らの代わりは、一銭五厘でいくらでも来る』と、(上官から)幾度も聞かされた。」


等と記されていますが、これは当時のはがきが1銭5厘だったことから、兵隊の命にはその程度の価値しかない、という比喩。

しかし、実際の召集令状(赤紙)を見てみると・・・。


  


ご覧の通り、はがきではありません。

召集令状は郵便で配達したのではなく、各役場の兵事係員が直接配達しており、出発時刻を記録に残すなど厳重な取り扱いでした。

そりゃそうですょネ。

郵便で送ったら、破り捨てられてしまいますもの・・・。
うー


 


 


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決 戦

日露戦争に於いて日本が優位に立つ分岐点となったのが 『日本海海戦』 であったことは、多くの方がご存知だと思います。

しかし、それより10年程前の日清戦争に於いても、同様に日本を勝利に導く海戦があったことは、意外と知られていないかも。 その


   黄海海戦

 The Battle of the Yalu

が行われたのが、今から125年前の今日・1894(明治27)年9月17日のことでした。



 

                 ×印が交戦地点


1894年上半期に起きた 『東学党の乱』 で混乱した朝鮮の支配権を争う形で対立した日本と清国は、同年7月25日に日本の連合艦隊が豊島西南沖で清国軍艦及び輸送船団と遭遇・交戦(豊島沖海戦)したことから戦争の火蓋が切られました。


(※清国が宣戦上論を発したのは8月1日、日本が明治天皇の8月1日付けの宣戦詔書を発したのは8月2日)

同月29日に朝鮮の成歓、30日には牙山を占領した日本軍は、9月15日に平壌付近で清国軍との戦いに勝利。(平壌の戦い)


そして9月12日から黄海で敵艦隊を探索していた薩摩出身の伊東佑亨(ゆうこう)司令長官率いる連合艦隊は遂に9月17日、清国の主力艦隊である北洋艦隊と遭遇し、午後1時前から戦闘を開始。


       
                  
伊東佑亨中将


北洋艦隊の旗艦 『定遠』 の排水量7,220トンの戦艦に対し、連合艦隊の旗艦 『松島』 は4,217トンの巡洋艦と倍近い差があり、当初の予想では連合艦隊が不利でした。

しかし通常砲・大口径砲の数も勝り、体当たりによる衝角戦術を得意とする北洋艦隊に対し、速射砲の数で優位に立ちスピードに勝る連合艦隊は、常に優位なポジションを取って速射砲を雨霰と敵艦に集中。


         

               速射砲を撃つ日本水兵


その結果、午後6時前に海戦が終了するまでに、北洋艦隊は『超勇』・『致遠』・『経遠』が沈没、他2隻が座礁、旗艦『定遠』を含む2隻が中破、3隻小破と、殆ど壊滅状態。


対する連合艦隊は旗艦『松島』他2隻が大破、1隻が中破したものの、その他の損害は殆どなし。

死傷者も連合艦隊298名に対し、北洋艦隊が850名と、大差が。


    

                      旗艦 『松島』


平壌の戦いとこの海戦に連勝した勢いに乗って戦争を制した日本は、1985年4月17日に調印された下関条約によって遼東半島・台湾・澎湖諸島などの割譲と、多額の賠償金を手にしました。

もっとも、これが西欧列強に危機感を抱かせ、後の三国干渉・日露戦争への導火線となったのですが・・・。


※三国干渉に関する過去記事は、こちら。(↓)


学校では日露戦争以上にサラッと通り過ぎてしまう日清戦争について詳細を知りたい方には、こちらのご一読をオススメします。

 『日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像 

                (大谷 正・著 中公新書・刊)

       


確かに日本はこの戦争に勝利しましたが、貧弱な装備と粗末や兵糧で大国の清を制したこと、また後の日本海海戦の勝利と合わせてカネのかかる軍備の近代化を疎かにし、「神国・日本は不敗」という結果論からくる精神性の重視に走った感は否めません。

(また黄海海戦や平壌の戦いの勝利を大々的に報じた新聞報道に国民が浮かれるというパターンが、後の戦争でも繰り返されました。)

勝って兜の緒を締めよ・・・という諺を忘れたことが、大東亜戦争への突入と敗北を招いたのかも。
うー


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新 旧

その昔(というか今も?)日本一のビジネス街といえば、東京駅を皇居側に降りた〝丸の内〟。

そしてそれを象徴するビルといえば、東京駅の道向かいにある 『丸の内ビルヂング』 でした。

明治維新後、1890(明治23)年に新政府が兵舎を丸の内から青山に移転する財源として丸の内地区の払い下げを行い、入札により三菱財閥の総帥・岩崎彌之助が1坪12円、約10万坪を総額128万円で落札。

当時の相場で2倍以上の価格だったそうですが、現在の貨幣価値でいえば坪3万円前後・・・考えられないくらいの超安値。

そして1914(大正3)年の東京駅開業に伴い、桜井小太郎の設計により地上8階・地下1階のアメリカ式鉄骨高層ビル 『丸の内ビルヂング』 を建設。 (※後に地上9階・地下2階に増築)


      

当時のビジネス中心街はまだ日本橋・兜町だったそうで、いくら東京駅に隣接しているとはいえ、テナントが集まるかどうか未知数の中、現在の貨幣価値で250億円前後という巨費を投じての建設は2代目・小彌太にとってもかなりの英断。

しかしエレベーター付きのオール洋式、総床面積1万8千坪という巨大かつ最新鋭の〝東洋一のビル〟は、会計事務所、弁護士、建築士、医者、雑誌社など予想以上の多様かつ多数のテナントが入り、更にレストランや喫茶店、美容院まで開店するという、日本初の商店街があるオフィスビルとなりました。


堅牢な建物は関東大震災でも倒れることなく、やがて日本一のビジネス街・丸の内のシンボルに。

水や土砂、あるいは巨大建造物の比較としては、昭和時代後期で霞が関ビル、最近では東京ドームが利用されますが、それまでは、「丸ビル○杯分」と表現されていたほど。

しかしさすがの丸ビルも老朽化には勝てず・・・日本建築学会が保存要望書を三菱地所に提出したものの、同社は1997年に取り壊して、


 丸の内ビルディング

の建設を決定。 


地上37階・地下4階、延べ床面積は旧丸ビルの約2.7倍となる159,907.4m² という最新鋭の高層ビルがオープンしたのが、今から17年前の今日・2002(平成14)年9月6日のことでした。


         

旧・丸ビルの面影を残す土台に近代ビルを乗せたようなフォルムが独特で、オープン当初はテレビ局が盛んに報道し、入居するレストランにお客がワンサカ訪れた記憶があります。

しかしその5年後、東京駅から和田倉門を経由して皇居に向かう行幸通りを挟んで立っていた『新丸ノ内ビルヂング』(1952年竣工)も建て替えとなり、2007年に 『新丸ノ内ビルディング』が誕生。

地上38階・地下4階 高さ197.6mと丸ノ内ビルディングよりちょっぴり高いものの、東京駅の丸の内中央口から皇居を望むと、まるで山門の仁王像のように建っている姿は、なかなか圧巻です。

        

新丸ビルがオープンした時もお客さんが押し寄せ、レストランはどこも待たされる状況でした・・・が、あれから10年経った今、人出はどうなんでしょうネ?

その後都内ではいくつも新ビルが建てられましたし、そのたびお客さんはそつらに集中してますから、今なら行き時かも。

画像向かって左が丸ビル、右が新丸ビル・・・と言っても、方向音痴の方には分かりづらいでしょうから、ビルのロゴマークをご紹介しましょう。


          


待ち合わせの時は、これを目印にして、間違えないように・・・って、大して役には立たないか。あせあせ

それでも東京名所であることは間違いありませんので、上京された方は東京駅から徒歩1,2分の〝新旧(?)丸ビル〟に足を運んでみてください。


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85.3

今年もまた、台風シーズンがやってきました。

農作物などに大きな被害が出るような大型台風が日本に上陸しないことを願うばかりですが、台風銀座といわれる沖縄や南西諸島はその直撃を避けることは出来ないでしょう。

その南西諸島のひとつ・宮古島で、かつて日本観測史上最高の最大瞬間風速85.3m/sを記録したのが、今から53年前の今日でした。


    
                 宮古島の位置


 第2宮古島台風

と後に命名されることとなった強烈な台風は、1966(昭和41)年8月31日にグアム島の西海上で発生し、発達しながら北西に進行。

そして同年9月5日に宮古島上空を通過する頃に最も発達し、平良市で最大風速60.8m/s(平地観測で歴代2位)、そして前述の平地観測における最大瞬間風速を記録しました。

(同年9月25日には、富士山頂で91.0m/sを記録しています。)

※風速の定義に関しては、こちらの過去記事をご一読下さい。(↓)



この台風は、猛烈な勢いが合った割に進行速度が時速10kmと遅かったため、宮古島は約38時間も暴風雨に晒され、幸い死者は出なかったものの半数以上の人家が損壊し、さとうきびの約70%が収穫不能になるという大打撃を被りました。

その後この台風は大陸方面に進行し熱帯低気圧に・・・幸いにも日本本土上陸は免れました。


    


この翌年、宮古連合区教育委員会が、一般住民や児童生徒、気象台職員や新聞記者らの証言・体験記をまとめた

『恐怖の38時間 第二宮古島台風の記録


という書籍を出版した程ですから、いかに恐ろしい暴風雨だったかが推察できます。


         

さて、その最大瞬間風速80mとは、一体どれほどの威力なのか?

私は実体験していませんが、2015年に与那国島を直撃し最大瞬間風速81.1m/sを記録した台風21号の映像がありましたので、ご覧ください。


これじゃ、人間でも飛ばされるでしょうネ。

どうか、今年はこんな強烈な台風が直撃しませんように・・・もう祈るしかありません。

但しテレビ局は、こういう大袈裟な(ヤラセ)報道をしないように!




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