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国民皆兵

早速ですが、昨日の〝なぞなぞ〟の答えです。


① 両 親   ② 保母さん   ③シカゴ

・・・もう、解説は不要ですょネ。あせあせ


さて、閑話休題。


江戸時代末期に開国した日本は、明治政府になって以降諸外国に対抗するべく富国強兵を目指し、そのためには〝国民皆兵〟が必要と考えられました。

特に大村益次郎が強くそれを主張していましたが、これを導入するとそれまでの身分制度・士農工商が崩れ四民平等となるため武士層の抵抗があり、1869(明治2)年に大村が暗殺されてからは、この構想は一時頓挫。

しかし彼の遺志を引き継いだ山縣有朋がその翌年に徴兵規則を制定し、山城屋事件で山縣が辞職に追い込まれた後も西郷隆盛がその構想を引き継ぎ、1872年11月に徴兵告諭が出され、そして今から147年前の今日・1873(明治5)年1月10日に

 徴 兵 令

が施行されました。


        
                 国立公文書館・蔵


同令では、満20歳の男子から抽選で3年の兵役(常備軍)とすることを定め、兵役終了後は予備役となるよう定められました。


また体格が基準に達しない者や病人は除かれ、また一家の主人たる者や家督を継ぐ者、嗣子並に承祖の孫(承継者)、更には代人料を支払った者(当初は270円、1879年には400円=現在の貨幣価値で80万円前後へ引き上げ)、官省府県の役人・兵学寮生徒・官立学校生徒、養家に住む養子は徴兵免除とされたそうな。


そのため、徴兵逃れに養子になるなど徴兵忌避者が続出し、徴兵免除のマニュアル本まで出版される始末。

        

また徴兵告諭に〝血税〟と書かれていたことから、徴兵されると血を抜かれると本気で思った人も多く、各地で徴兵令反対の〝血税一揆〟も起きたとか。


こんな状況でしたから、国民皆兵を旗印にしたものの結局は20歳以上の男子3~4%しか徴兵できませんでした。

しかし徐々に軍隊で支給される食事が良質で、酒も飲めるという待遇の良さが浸透。

更に農民からすれば、たとえ殴られても毎日の農作業より体は楽で、しかも毎日白米を食べられて風呂にも入れ布団で寝られることから、不況時には兵役が生きる手段として考えられるように。

アメリカでも不景気になると志願兵が増えるそうですから、洋の東西を問わず人間の考えることは同じなんですネ。

その後徴兵制度は政情の変化と共に徴兵免除の範囲が縮小・廃止され、1889(明治22)年の大改正によりほぼ国民皆兵制に。

そして同制度は1945(昭和20)年の敗戦と同時に廃止となりました。


さて、徴兵制といえば、3年ほど前に安保法制の改定がなされた際に野党や左翼メディアが 「徴兵制が復活する」 と盛んに煽って改正に反対しました。

それを真に受けた若者もいたと思いますが、その心配は無用です。

大東亜戦争以前のように、兵士が鉄砲を持って 「うわ~っ」 と気勢を上げて敵に突進・玉砕・・・なんて人海戦術は、近代戦ではありません。

ミサイルなど非常に高度な操作技術を要するハイテク兵器が主力ですから、ズブの素人を徴兵しても実戦では殆ど役立たず。

それにここ数年の自衛官候補生採用試験倍率は約5倍、一般曹候補生採用試験倍率は約15倍前後・・・入隊すること自体大変なのです。

良いか悪いかは別にして、自衛隊もこんなポスター作って募集していますから、狭き門になるのも頷けますが・・・。

  


そしてその安保法制が論議になった際、一部の野党議員が「日本はスイスのような永世中立国を目指すべき」と発言していましたが、それこそ不勉強を露呈したようなもの。


確かに同国は永世中立国ですが、同時に国民皆兵を国是として徴兵制を採用しており、20~30歳の男子には兵役を課しているのです。(※女性は任意)


現在スイス国軍は約4,000人の職業軍人と約21万人の予備役兵を保有し、軍事基地が岩盤をくり抜いた地下に建設され、侵略に備えて国境地域の橋やトンネルには速やかに国境を封鎖すべく解体用の爆薬が設置されており、常に緊張状態を維持しているのです。

そのスイスでも、3年前に「他国からの脅威はなく、金の無駄遣いだ」という反対意見を受け、徴兵制廃止を問う国民投票が行われましたが、圧倒的多数で廃止は否決されました。

これがスイス国民の防衛意識なのです。

翻って、日本はどうか?

「戦後70年以上平和だったのは、憲法9条があったからだ」

と大真面目に考えている人も少なからずいるようですが、そういう方はスイスに行って同じ主張をしてみるといいでしょう。


鼻で笑われるか、相手にされないのがオチでしょうけど・・・。


そんな〝お花畑の住人〟を減らすためにも、私は高校生を1ヶ月程度自衛隊に体験入隊させるべきだと思いますけどネ。

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介 入

皆さんは、アフガニスタンという国がどこにあるか、すぐ地図で指させるでしょうか?

正解は、こちら。(↓)


    


旧ソ連と中東に挟まれインドや支那にも近いという、かなり物騒(?)な位置。

故に歴史的には、周辺国からの様々な影響を受けてきました。

同国では1978年、共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党が政権を樹立したものの、これに対抗する武装勢力が蜂起し全国をほぼ支配下に。

これに危機感を持った政権がソ連に軍事介入を要請すると、ソ連は今からちょうど40年前の今日・1979年12月24日に、いわゆる


 アフガン侵攻

を決行しました。 クリスマス・イヴに、何という無粋なことを・・・。


    

この決定について、当時ソ連のトップだったブレジネフ書記長は病床に伏せていて、知らなかったそうな。 
決定したのは、当時のソ連国家保安委員会(KGB)議長にして後に書記長となったアンドロポフらごく一部の幹部だったとのこと。


ソ連は介入を要請したアミーン大統領に統治能力がないと見るや殺害し、新たな大統領を擁立。

この傀儡政権に対抗して戦ったのがムジャヒディンと呼ばれる抵抗勢力で、アメリカを始め複数国が 「ソ連の介入は主権国家に対する正当な理由なき侵略行為」 だとして彼らに武器供与などの支援を行いました。


ムジャヒディンには20ヶ国以上のイスラム諸国から約20万人の義勇兵も含まれており、その中にはあの9・11の首謀者とされるウサマ・ビン・ラディンも含まれていたそうな。


更に当時のアメリカ・カーター大統領は、翌80年に開催される予定だったモスクワ五輪ボイコットを決め、西側各国に同調を求めた煽りを受けて日本も選手を送らないことを決定。

 ※この五輪ボイコットに関する過去記事は、こちら。(↓)



報復として1984年のロス五輪はソ連を始めとする東側諸国がボイコットするなど、事態は膠着状態に。

流れが変わったのは、ゴルバチョフ書記長の登場でした。

       


アフガン問題やムジャヒディンが登場する007『リビング・デイライツ』(1987年)や『ランボー 怒りのアフガン』(1988年)などの映画が公開された直後、彼の命令により事件発生から10年後の1989年にソ連軍はアフガンから撤退したのです。


しかし結果としてソ連軍が介入して排除しようととしたイスラム原理主義者が撤退後逆に台頭してタリバンが誕生し、アフガニスタン国内はより混乱状態に。

またアメリカが援助したイスラム反ソ勢力が、湾岸戦争後はその武器で反米闘争を展開することになるという、皮肉な結果をもたらしました。

そして侵攻により疲弊したソ連が崩壊する端緒にもなったのです。


結局ソ連のアフガン侵攻は、米ソ両国にとって損失をもたらしただけ・・・スポーツ選手を含めた多くの国民を悲しませ、喜んだのは軍需産業だけだった?



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低 地

今日は、クイズから・・・これは、どこの国の国旗でしょうか?

    

トリコロール・カラーだから、フランスって答える方がいるかもしれませんが、それをこの国の人に言ったら怒られます。

フランスは、縦。 それ故か、この国旗は絶対縦に飾ってはいけないのだそうな。


これはスペインからの独立運動に使われた3色旗がベースで、赤は独立の戦いに臨んだ国民の勇気を、白は神の祝福を願う信仰心を、青は祖国への変わらぬ忠誠心を象徴しているそうな。

そして以前、赤はオレンジ色だったそうで、現在世界的に強豪で有名なこの国のサッカー代表のチームカラーは、そのオレンジ色。


国土面積は日本九州とほぼ同じ、41,864㎢。
人口は約1,718万人。

これでもまだ分からない方への最終ヒントは、こちら。(↓)

       

風車とチューリップとくれば、もうお分かりでしょう。 正解は、


   オランダ王国
 Kingdom of the Netherlands


 


国土の1/4が海抜0m以下(最高地点でも海抜322.5m)にあり、昔から風車を利用して水を汲み上げ、それを運河に流して土地を干拓してきた同国の名が、〝低地の国〟という意味の“Nederland (ネーデルラント)” であることは、頷けます。


とかく私たち日本人は、ドイツ・ベルギー・ルクセンブルクと国境を接しているヨーロッパの国というイメージを持ちがちですが、実は同王国はその他に中米カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテン(その他特別自治領としてボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島)からなっています。


    


昔から多くの戦乱に巻き込まれており、神聖ローマ帝国の支配を経て15世紀末にはスペイン・ハプスブルグ家の領土となるも、1568年に独立運動が勃発。


80年戦争を繰り広げた結果、1648年にほぼ現在のオランダにあたる地域が、オランダ連邦共和国として独立。

その後フランスによる併合(1810年)やドイツによる占領(1940年)を経て、第二次世界大戦終結後に解放された同国でオランダ王国憲章が制定されたのが、今から65年前の今日・1954年12月15日のことでした。

さてオランダといえば、江戸時代に幕府が鎖国政策を取った時代でも西欧諸国の中で唯一長崎の出島を通じて貿易が許されていた国であったことは、皆さんもご存知の通り。

そのキッカケとなったのは、1人のオランダ人が日本に漂着したことがキッカケでした。

1598年に5隻のオランダ船が船団を組んでモルッカ諸島(インドネシア)と日本に向け出港したものの、他国船の襲撃などで残ったのはデ・フリーデ号1隻のみ。

その同号が1600年、大分の臼杵湾に漂着。

乗組員だったヤン・ヨーステンなる人物がオランダ船に興味を持った徳川家康との謁見を許されたのです。

そして彼は家康に気に入られ、幕府相談役の地位を与えられると様々な西洋事情や情報を幕府に提供。

1609年に幕府が朱印状を発行して長崎・平戸の出島にオランダ商館が作られて同国との本格的な通商関係が始まり、歴代のオランダ商館長は通商免許に対する礼として江戸に上り、将軍に謁見しては貿易の御礼を言上して贈り物を献上していたそうな。

    

ですから、もしヨーステンが家康に気に入られていなければ、日本の歴史は大きく変わっていたはず。

ちなみに日本人女性と結婚したヨーステンが屋敷を構えた場所は、彼の名に因んで〝ヤヨース〟と呼ばれ、これが訛って現在の東京駅近くの『八重洲』になったとか。

東京駅地下街の一角にヨーステンの胸像がありますので、歴史好きの方は探してみてください。

       


日本では蘭学が広まり、また今でもビール、オルゴール、お転婆、ランドセル、ポン酢などオランダ語がそのまま日本語として通用する程親密だった日蘭両国は、大東亜戦争時にオランダの植民地解放を巡って敵対関係となり交戦しましたが、サンフランシスコ条約発効と共に関係は修復。

日本の皇室とオランダ王室との関係は非常に親密であり、また貿易高もEU各国の中では2位。

普段あまりニュースには登場しない国ですが、もっと私たちはお付き合いが長いオランダに関心を持つべきかもしれません。

それにしてもオランダ自体は小さい国なのに、東京五輪で苦杯をなめさせられたヘーシンク(198cm)をはじめ、どうしてオランダ人ってあんなに体が大きいんだろ?あせあせ


 


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呼 称

皆さんは、いわゆる〝先の戦争〟を何と呼んでいらっしゃるでしょうか?

おそらく多くの方が 『太平洋戦争』 と仰っていると思います。
学校ではそう教えていますし、私もそう習いましたから。


しかし現在、私は敢えて

 大東亜戦争

と表記・表現しています。

その主な理由としては、今から78年前の今日すなわち真珠湾攻撃の直後である1941(昭和16)年12月12日に、この呼称を正式に閣議決定しているから。

※その閣議決定の内容は、こちら。

今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時間ニ付テ閣議決定


                       (昭和十六年十二月十二日)


一、今次ノ対英米戦争及ビ今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ、 支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス


二、給与、刑法ノ適用等に関スル平時戦時ノ分界時期ハ、昭和十六年


     十二月八日午前一時三十分トス   [以下略]

つまり、アメリカ・イギリスとの開戦前の支那事変まで遡って大東亜戦争とする決定を下したのです。


       

ちなみに大東亜という単語は、1940年7月に第2次近衛内閣で閣議決定された基本国策要綱に初めて登場し、同年8月1日に松岡洋祐外相が『大東亜共栄圏』という用語を始めて使った談話を発表しています。

その松岡外相は、その『大東亜共栄圏』を日本・満州・支那・仏領インドシナ・蘭領東インドも含めた範囲と説明し、大東亜戦争とは、〝欧米諸国によるアジアの植民地を開放し、アジアの独立を目指すという大義を掲げた戦争〟という意味合いが込められていました。

しかし終戦後の1945年9月19日には『プレス・コード』が発令され、マスコミに対し大東亜戦争や八紘一宇など戦時用語の使用を禁止に。

 ※プレス・コードに関する過去記事は、こちら。(↓)



そして同年12月8日から、朝日新聞ら全国紙において連続10回に渡って 『太平洋戦争史』 というGHQの戦争史観を掲載宣伝。

これが歴史の教科書にそのまま引き継がれていったのです。


更に12月15日、GHQは発令した 『神道指令』 の中で公文書でも使用禁止とし、大東亜戦争は太平洋戦争に書き換えさせられました。

この太平洋戦争はアメリカが使用していた“The War in the Pacific ”の和訳であり、多分に日本側がアジアの開放を目指した戦争だという主張を消し去る狙いがあったものと思われます。


    

これによって新聞・テレビからは大東亜戦争という文字が消え、サンフランシスコ条約が発効して占領下から脱したにもかかわらず、そのまま太平洋戦争という呼称を使い続けています。

このような経緯から、私は我が国で定めた呼称に戻すべきと考え、現在でも拙ブログでは敢えて大東亜戦争と表記しているのです。

「そんなの、どっちだって構わないだろう」


と言う方も少なからずいらっしゃるでしょうが、私はそうではないと思います。

例えば祝日の表記も然り。

かつては『紀元節』だった2月11日を『建国記念の日』としているのはまだしも、『天長節』だった11月3日を『文化の日』、更には『新嘗祭』であった11月23日を『勤労感謝の日』とその祝日本来の趣旨をボカしたのは、明らかに日本古来の神道を否定するためであり、これらもアメリカのWGIPの名残り・・・ですから、旧来の表記に戻すべき。

このままだと、時と共に本来の歴史と伝統が人々の記憶から消え去ってしまうのは、必至でしょう。

日本を取り戻すためには、こういう事から取り戻さないと・・・。
うー


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争 議

今でこそ労使協調路線を取る会社・組合が多いですが、昭和時代には両者が激しく対立する場面が多々見られました。

その中で最も大規模な衝突となったのが


三井三池争議


でした。


三井三池炭鉱は、福岡県大牟田市・三池郡高田町(現・みやま市)・熊本県荒尾市に坑口を持っていた炭鉱。

江戸時代から採掘が行われていましたが、1889(明治22)年に三井財閥に払い下げられた後、団琢磨の指揮により主力炭鉱として日本の近代化・工業化を支えました。

 

同炭鉱では終戦後の1946年に労働組合が結成されましたが、当初は労使協調派が強く、労働争議には消極的でした。

しかし結成翌年から大牟田市出身のマルクス経済学者で九州大学教授の向坂逸郎(1897-1985)が同地を頻繁に訪れて労働者に 『資本論』 を教える向坂教室を開き、活動家を育成。

       

そんな中、サンフランシスコ条約発効によってGHQの占領が終結した1953年、既にエネルギー資源が石炭から石油へと移行したため経営不振に陥った三井鉱山は経営合理化のため希望退職を募りました。

しかし退職を希望する者が予定数に達しなかったため、会社側か3,464人に退職を勧告し、従わなかった2,700人を指名解雇。

当然のことながら労働者側は納得せず、ストライキに突入。
結局113日後に会社側が指名解雇を撤回し、組合側が勝利宣言。


実際にはスト中からスト後にかけ、解雇通告を受けた社員の6割が困窮ため会社を辞めていったのですが、これが6年後に起きた更に大規模な争議の伏線となりました。

勝利したと捉えた(向坂教室出身の分子が浸透した)組合側はその活動を先鋭化させ、会社側に様々な要求を突きつけましたが、鉱山の経営は悪化の一途。

遂に会社側は組合員の一掃を図るべく1959年1月に希望退職者6,000人を含む会社再建案を提示。

更に8月には4,580人の人員削減案を発表し、12月2・3日には1,492人に退職を勧告。

そしてちょうど60年前の今日・1959(昭和34)年12月11日に、この勧告に応じない1,278人に対し、指名解雇を通告したのです。


組合は強く反発し、またしても無期限ストに突入。

会社側もロックアウトでこれに対抗。

財界が会社側を全面支援する一方、日本労働組合総評議会(総評)が組合を全面支援・・・まさに〝総資本vs.総労働〟の代理戦争の様相を呈しました。


    

とは言え、あまりに先鋭化した三井労組に対し、同業他社労組は距離を置き、決して同調しようとせず。

しかも総評からのカンパ以外に収入のない組合員は追い込まれ、組合員の約半数が1960年3月に第二組合(三池新労)を結成してストから離脱。

すると第一労組の組合員が第二労組に鞍替えした組合員に対して攻撃を加え、婦人会までもが嫌がらせを始めたため、第二労組組合員の多くが家族を〝疎開〟させるという内部抗争に発展。

会社側と第二組合は操業を再開すべく入山を試みますが、第一労組がピケを張って抵抗。

海上から船で乗り込もうとした第二組合と放水合戦を行うなど、泥沼状態に。

      


4月に中労委から出された斡旋も拒否し中央からの孤立を深める一方、共産党や左翼過激派から支援を受けた第一労組は、ますます過激になり、7月には警察と衝突するまでに。

しかし同月に岸内閣総辞職を受けて誕生した池田内閣は、三池労組排除を指示。

結局中労委が提示した 「指名解雇された労働者は自然に退職したものとみなす」 という不利な条件の斡旋案を第一労組が受け入れることで、争議はようやく終結したのです。


この衝突が安全対策の緩みにつながったのか、同炭鉱では1963年11月9日に死者458人・一酸化炭素中毒患者839人を出す戦後最悪の炭塵爆発事故を起こし、1997年に閉山されました。

いつも思うことですが、そもそも組合の存在は会社あってこそ。

その会社を潰すような組合活動を、なぜするのか? 
私には理解できません。


共産党や極左組織が絡むと、結局組合員の生活も犠牲になる・・・当該争議だけでなく、多くの事例から断言できます。

この争議の舞台となった三池炭鉱(
宮原坑・万田坑・専用鉄道敷跡)は、2015年に〝明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業〟として世界遺産に登録されました。

    
                  
宮原坑跡地

この争議に巻き込まれた組合員の皆さんやその家族は、これをどう捉えてるのでしょう?


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殺 戮

アメリカでは、移民として乗り込んできた白人が原住民たるインディアンを迫害したことは皆さんもご存知だと思いますが、その中でも西部開拓史上最悪といわれる

 サンドクリークの虐殺

 Sand Creek Massacre


が起きたのが、今から155年前の今日・1864年11月29日のことでした。

当時のアメリカでは1861年から南北戦争が勃発しており、北軍が優勢になりつつある時勢。

北軍は南軍との戦いに臨むと同時に、支配圏をミシシッピー川からロッキー山脈周辺にまで拡張。

その過程では、原住民のインディアンとの衝突で激しい戦闘が行われ、双方とも残忍な殺戮を行って憎しみが増すばかり。

1863年には、デンバーの地元新聞社が州を挙げてのインディアン撲滅キャンペーンを張るまでに両者の関係は悪化。

そんな中、1864年9月28日・・・コロラド準州デンバーにあるウェルド基地で、周辺に居住するインディアンのシャイアン族やカイオワ族、アラバホ族の酋長と、コロラド州知事ら白人高官らによる和平会談が開かれました。

その席上、白人側から食糧の提供と狩りの出来る地域への移転を提案されたインディアン側は、サンドクリークの川辺に移動しティーピー(居住用テント)を建てて、そこに居住することで、一時休戦に。

 


               サンドクリークの位置

しかし米軍コロラド軍管区の指揮官ジョン・チヴィントン大佐は、大のインディアン嫌いで、

小さいのも大きいのも、全て殺して頭の皮を剥ぐべき。

卵はシラミになるから。」

とインディアンの皆殺しを公言し、彼等をシラミに例える差別主義者でしたから、黙って引き下がるわけがありませんでした。

       
               
John Milton Chivington


彼は和平交渉から2ヶ月後の同年11月29日早朝、自らが率いる800人の騎兵部隊に命じてサンドクリークのインディアン居住区を襲撃したのです。

12月8日付けの地元新聞 『ロッキー山脈ニュース』 は、チヴィントン大佐の報告を基に、

〝インディアンとの大会戦! 野蛮人どもは追い払われた!
  インディアンの死者500人、我が軍は死者8人・負傷者38人!〟

と大々的に戦果を報じ、虐殺から2週間後にはデンバーで記念行進が行われて市民は熱狂。

チヴィントン大佐は英雄として祭り上げられました・・・が、新聞記事は真実を伝えていませんでした。

実際は、当時サンドクリークの居住区には男性は狩りに出ていたため35人程しかおらず、約600人いたインディアンの殆どは女性・子供・老人。

しかも騎兵部隊が一斉射撃・砲撃で攻撃を仕掛けた際インディアンは無抵抗で酋長は白旗を掲げたにもかかわらず、攻撃の手を緩めない無差別虐殺でした。


  


その殺戮方法は凄惨で、殺したインディアン全員の頭の皮を剥ぎ、手足をバラバラにして・・・と、もうこれ以上ここで書くのは皆さんの気分を害すると思うので、控えます。

その後議会の調査や兵士らの証言によって虐殺の真相が明らかになるにつれ、東部白人社会の世論は一変、チヴィントン大佐に対する非難の声が高まりました。

彼は白旗を掲げたインディアン虐殺を咎められて軍事裁判にかけられ、軍を辞職。

しかし彼が去っても、白人とインディアンの衝突・報復は繰り返されましたが・・・。

この虐殺を題材にした映画があります。 
それは1970年に公開された


 『ソルジャー・ブルー』 (原題:Soldier Blue


        


キャンディス・バーゲンが主役の女性を演じる同作の最後に、この虐殺の凄惨なシーンが描かれています。

かなり昔、この作品を地上波の洋画ロードショー番組で放映したことがあったそうな。

よくまぁ放送できたものだと驚きますが、
私はこういう負の歴史から目を背けないことで、人間の残酷さや愚かさを知ることができると思うんですけどネ。

皆さんは、どうお考えになるでしょうか?


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崩 壊

あれからもう30年も経ったとは、とても思えないのですが・・・1989年11月9日は、あの


 ベルリンの壁


が事実上崩壊した日でした。


壁の上によじ登った群衆が歓声の中ツルハシを振り上げ、壁を壊す映像をご記憶の方も多いと思います。


この日が、ドイツを含む各国の予想を上回るスピードで東西ドイツの再統一を為し得る、大きな分岐点となりました。


ともすると 『ベルリンの壁』 って、東西ドイツの国境と同じだと思いがちなんですが、実は全くの別物。


元来ベルリンは東ドイツ領内のほぼ真ん中に位置しており、ドイツ本土同様、ベルリン市も米・英・仏・ソの4ヶ国による分割統治となりました。


まもなく東西冷戦に突入すると、1948年6月からソ連はベルリンへの生活物資の搬入を遮断。

西側諸国はこれに対抗して、生活物資を空輸。


そして東西ドイツに分かれた後の1961年8月、東ドイツは突如東西ベルリンを結ぶ68の道路全てを閉鎖。


有刺鉄線により境界線を明確にすると以後順次コンクリート製に作り変えられ、1975年に総延長155kmに及ぶ 〝ベルリンの壁〟 が完成。


       

これにより西ベルリンは (空路や東ベルリンに停車しない直通列車により西ドイツと行き来ができるとはいえ) 東ドイツ内の〝陸の孤島〟となったのです。() 


       


以後1989年の壁崩壊まで、西ベルリンに亡命を企て成功した者は5,000名を越える一方で、狙撃され死亡した東ベルリン住民は192名に上ったそうです。


しかし1980年代に入ると、東側諸国の風向きが変わり始めます。

1985年ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、ペレストロイカ(改革)政策とグラスノスチ(情報公開)によって急速に民主化へと傾き、周辺の東欧諸国にも民主化推進の波が。

ところが東ドイツのホーネッカー書記長は秘密警察などを使って逆に国内統制を強化。


それでも1989年5月にハンガリーがオーストリア国境の鉄条網を撤去し、翌月にはポーランドが選挙によって民主化を実現すると、東ドイツ国民はポーランド経由で西ドイツに行くように。

しかしホーネッカー書記長は時代の流れに逆行するかのように、チェコとの国境を封鎖して国民を閉じ込めます。

これに怒った国民がデモを繰り返すようになり、彼の頼みの綱だったソ連も救いの手を差し伸べようとはしませんでした。


そして11月8日に開かれた党中央委員会で政治局員全員が一旦辞任するなど政府内も混乱の極に達し、翌9日にとどめを刺す声明が発表されます。

それは党スポークスマンだったシャボウスキーが

「ベルリンの壁を含めて全ての国境通過点から直ちに出国できる」

というもの。 しかしこれ、正しくは

「ベルリンの壁を除く国境通過点からの出国を認める」


もので、しかもそれは翌10日から・・・という内容でした。

それをロクに中身を確かめないまま、生放送の記者会見で発表したからたまりません。

声明を聞いて喜んだ東ベルリン市民は検問所に殺到。


その凄まじい勢いに、国境警備隊はゲートを開放するしかありませんでした。

        


壁によじ登ってハンマーで叩き割ったのは翌10日未明のこと・・・11月9日は、正確に言えば〝国境検問所の崩壊〟だったのです。

この歴史の大転換は、混乱した政府のミスとホーネッカーの慢心と時代錯誤、そして何より圧倒的な民衆のパワーによる〝寄り倒し〟によって起きたのでした。


検問所の解放という〝アリの一穴〟が開いたことで始まったこの流れは、他国の政治家たちの予想をはるかに上回る早さ・・・ベルリンの壁崩壊から1年も経たない翌1990年10月3日に東西ドイツ統一を成就させたのです。

(もっとも、そのあまりの早さ故に統一ドイツはその後様々な弊害に悩まされることのなるのですが・・・。)

東側の民主化を先導したゴルバチョフ書記長は、後にこう語っています。

「政治家ではなく、国民が英雄だった。」

・・・民衆の力って、凄いんですネ。


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銀 州

今日はクイズからスタートです。

下記の特徴を有するアメリカの州は、どこ?


◆面積が日本の約3/4の286,350㎢で、全米50州の中で第7位。
◆砂漠気候であり、州内面積の80%以上が連邦政府の所有。
  過去に何度も核実験が行われている。
◆特産品から、〝銀の州〟と公式に呼ばれている。


これだけですぐ答えが分かった方は、アメリカ事情にお詳しいはず。

では分からない方に、とっておきのヒントを。

◆ギャンブルの街・ラスベガスがある


いくら何で易し過ぎましたネ。 そう、正解は

  ネバダ州

State of Nevada


同州がネバダ準州から正式にアメリカ36番目の州に昇格したのが、1864年10月31日・・・南北戦争の最中であり、日本では池田屋事件が起きた3ヶ月後の幕末混乱期でした。

    


州名の〝ネバダ〟は同州西の州境にあるシエラネバダ(雪に覆われた)山脈に由来し、「雪に覆われた」を意味するスペイン語の形容詞“nevado ” の女性形。

砂漠が土地の多くを占める州なのに、面白い命名をしたものです。

1859年に、コムストック・ロードという場所でアメリカ初の銀鉱石の大規模な埋蔵が発見され、その2年後にユタ準州の西部を分離してホームベースを縦半分に切ったような形のネバダ準州が誕生。


そして南北戦争末期で、アメリカ合衆国大統領選挙が11月8日に行われる直前に、リンカーン大統領が共和党の議会支配と再選を果たすべく州昇格を急がせた結果、今から155年前の今日に州昇格を果たしました。


ネバダ州はその後しばらく鉱山景気で人口が増え、鉱山町ではギャンブルも規制されず通常に行われていました。

ところが1909年に全国的なギャンブル反対運動の煽りを受けて、同州でも違法に。

しかしその後鉱業が衰退し、世界大恐慌の頃には農業も衰退したことで人口の減少が止まらず、1931年3月に州議会の承認により再びギャンブルを合法化。

そして1960年代からあのハワード・ヒューズがラスベガスを一大カジノ・歓楽街に育て上げました。

    


 ※ハワード・ヒューズに関する過去記事は、こちら。(↓)



ラスベガスだけでなく、リノやカーソンシティーなどギャンブルが盛んなネバダ州は、他の州とは違う特徴を有しています。

まず、個人や法人の所得税(州税)がないこと。
更に消費税は、日本より低い6.85%。


またアルコール類の販売は24時間認められており、ラスト・オーダーはなし。

しかもアメリカでは唯一売春が合法化されているのです。

これだけ聞くと、お金持ちのス〇ベ親父は移住を考えたくなるでしょうが、世の中そう甘くはありません。

その反面、21歳以上であることを証明できればアメリカ人・外国人を問わず、その場で誰でも拳銃を購入しすぐ持ち帰ることができる、全米で最も銃の入手が容易な場所。

それ故かネバダ州は全米屈指の危険な州とされ、犯罪率は全米平均より20%以上高く、特に窃盗が全犯罪の80%以上を占めており、強盗と自動車窃盗率は全米トップ・クラス。

観光客狙いの犯罪が多いのでしょう、実際私と一緒にベガスに行った会社々長はカードに夢中になっていてパスボートが入ったセカンドバッグを盗まれ、エラい目に遭いました。

もう20年程前のことでしたが、一緒にラスベガス署に行って盗難届を出したその数年後に、TVドラマ 『CSI:』 ラスベガス・シリーズを観て、その悲劇(?)を懐かしく思い出したものです。

住むよりは、観光で楽しむために行く場所かもしれませんネ。

私は過去3回ほどラスベガスに行きましたが、今度旅行する機会があれば、是非行ってみたいところがあるんです。

それは、下記地図の青矢印の先に位置する〝エリア51〟。


    

           赤ポイントは、州都カーソンシティー


よくUFOが目撃されることで、ここに秘密の宇宙基地があるのでは? と囁かれている場所。

ラスベガスから約200kmの地点・・・砂漠のド真ん中ですが、あわよくばUFOを目撃できるかも。

それに、ここに行けばカジノでスラずに済みますしネ。
あせあせ


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暴 落

よく株価が急落した際に、〝ブラック・〇〇デー〟とか〝暗黒の〇曜日〟という表現が使われますが、その元祖であり世界大恐慌の引き金となった

 ウォール街大暴落

が起きたのは、今からちょうど90年前の今日からでした。

アメリカ経済は第一次世界大戦(1914-1918)の軍需により好調を維持し、1920年代に入ると投資ブームで株価はジリジリと上昇。

中には借金をして株投資をする人まで現れ、ダウ工業株平均が6年間上がり続けて当初の5倍になり、1929年9月3日には最高値381.17をマーク。

 ※ダウ工業株平均に関する過去記事は、こちら。(↓)



しかし山高ければ、谷深し・・・日本のバブル景気と同じでその後株価は約1ヶ月下がり続け、17%もダウン。

しかもこれは、ほんの序章に過ぎませんでした。

10月に入ると、中旬に向けて多少持ち直したものの、ついに運命の日・・・〝Black Thursday (暗黒の木曜日)〟と言われる10月24日を迎えます。


この日、世界最大の株式市場・ウォール街では、取引開始後1時間で株価が急落。

それを見た投資家たちがパニック状態に陥り、一斉に売りに出たため、市場は大混乱。

取引所の市場介入等によって取引終了時には一旦前日の終値まで戻しましたか、市場には不安と動揺が広がりました。

そしてこの株価暴落を週末の新聞が書き立てると、週が明けた28日(月)と29日(火)には、24日を上回る下げ幅を記録・・・29日は〝暗黒(悲劇)の火曜日〟となりました。


この29日に取引された1,600万株という記録が破られたのは1968年・・・約40年間も破られませんでした。


 


またこの29日だけで市場は140億ドルを失い、それまでの1週間の損失は300億ドル。

これは連邦政府年間予算の10倍以上に相当し、第一次世界大戦でアメリカが消費した金額よりも多かったそうですから、その衝撃が如何に大きかったかが分かります。


この株価急落の余波は世界中に広がり、いわゆる大恐慌の端緒になったことは、皆さんもご存知の通り。


   

      大暴落を伝える新聞と、ウォール街に殺到した投資家たち


その後ダウ工業株平均は1932年に史上最安値を記録したものの徐々に回復し、1929年の水準に戻ったのは1954年11月・・・実に25年の歳月を要しました。

その後の株価は順調に伸びて行った・・・と言いたいところですが、1987年10月12日の〝ブラック・マンデー〟では、1929年の大暴落より酷いダウ平均22%ダウンを記録。

しかしこの時は急速に株価は回復し、2日後には1日の上昇幅の記録を作っています。


  

                       1929年() と 1987年(


現在の株価取引は、これらのような大幅な株価の変動を起こさないよう様々な工夫がなされています。

とは言え、株投資はギャンブルの如し。


素人がいきなり勝負をかけるには、リスクが大き過るかと・・・なんて言ったら、トレーダーに叱られちゃうか?


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【本日増刊】 初 穂

バレンタインにホワイトデー、そしてクリスマスに最近ではハロウィン・・・日本人が外国文化をすんなり取り入れる柔軟性は凄いと思いますが、その多くは商業ベースに踊らされていると言えましょう。

それにいちいち目くじらを立てるつもりはありませんが、だからと言って日本の伝統儀式や風習をないがしろにすべきではない、と思います。


今日・10月17日が、我が国に古来から伝わる大祭のひとつ、


   かん   なめ     さい
 神 嘗 祭

を執り行う日であることを、今どれだけの日本人が知っているのでしょうか?

伊勢神宮では、15日から今日にかけて執り行われます。)


※大祭とは神社の主要な祭祀であり、宮中祭祀のうち天皇陛下自らが執り行う祭祀のこと。  


しかし日本国憲法・現行法では宮中祭祀に関して明文化されておらず、天皇陛下が私的に執り行う儀式と解釈されています。 


それ故に、社会的に広く認知されていないと言えるかも・・・。

〝神嘗祭〟とは、日本神話において天照大御神 (あまてらすおおみかみ) が天上の高天原 (たかまがはら) で初穂(※その年の最初に収穫した稲穂)を食されたことに由来し、毎年の初穂を伊勢神宮にお祀りされている天照大御神にお供えし感謝する祭祀・・・つまり五穀豊穣の感謝祭にあたり、西暦721年から1,300年近く連綿と続く伊勢神宮と宮中での伝統行事。

     


元々は宮中が勅使に御酒と神饌を授けて伊勢神宮に遣わし、それを旧暦の9月11日に奉納する儀式として執り行われていましたが、1872(明治5)年以降は新暦の9月17日に変更。

しかしその時期だと稲穂の生育が不十分なため、1879(明治12)年からは1ヶ月ずらして10月17日となりました。


※伊勢神宮の新嘗祭の様子を、こちらでご覧いただけます。



この儀式自体は知らずとも、天皇陛下が奉納する稲穂を皇居内の水田で刈り取られる様子を、ニュースでご覧になった方も多いはず。


    

       先月19日に稲刈りをされた天皇陛下のご様子


拙ブログでも以前記事にしましたが、皇后陛下は以前 「皇室は祈りでありたい」 と仰られたことがありました。

そのお言葉通り、来月23日に執り行われる大祭 『新嘗祭』 で、天皇陛下は長時間にわたり正座して自ら栽培し刈り取られた稲を供えて収穫に感謝し、国家安泰や国民の繁栄を祈られます。


日本人は農耕民族であり、毎年様々な祈りや感謝を神々に捧げてきました。

しかし終戦後、そういった伝統儀式が(GHQの施策等により)軽んじられてきたように思います。

国家の安寧や子々孫々の繁栄を願うなら、1,000年以上続く伝統行事を疎かにすべきではないでしょう。

天皇陛下や伊勢神宮だけでなく、神嘗祭が執り行われる今日と新嘗祭が執り行われる来月23日は、日本人として自然の恵みに感謝する一日にしたいものです。扇子


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