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【特別増刊】 沈 勇

4月15日というと、タイタニック号の沈没が有名ですが・・・その2年前、今から111年前の今日、ある意味タイタニック号よりも世界中に衝撃を与えた沈没事故が起きていました。


それは日本海軍の潜水艇だったのですが、悲劇でありながらも世界中の人々から称賛を浴びたのは、艇長以下乗組員たちの散り際の見事さでした。


その艇長の名は、


 佐久間 勉 大尉


        


佐久間大尉は1879(明治12)年に福井県で生まれました。


1901年に海軍兵学校を卒業すると2年後海軍少尉に任官し、日露戦争に従軍。


第一・第四潜水艇長、駆逐艦 『春風』 の初代艦長などを経て、1908年に第六潜水艇長に着任しました。


日本海軍はそれまでアメリカ製の潜水艦を輸入していましたが、メーカーから新型潜水艇の図面を入手し、日本人だけの手で作られ1906年4月に竣工した初の国産ホーランド型潜水艇2隻のうち1隻が、第六潜水艇でした。

    

                  第六潜水艇


当時の潜水艇は、兵器としては未だ実験の段階にあって信頼性に問題があったため、母艦艦長と潜水艇隊司令指揮のもと、艇隊単位で行動するのが普通。


しかし当該第六潜水艇は初の国産潜水艇ということで性能に多くの問題点があったため、第一潜水停滞から離れ単独で潜水訓練を行いつつ問題点の解明と改良を続けていました。


そして運命の1910(明治43)年4月15日・・・同艇は山口県新湊沖で潜航訓練中に浮上することが出来ず、沈没。


30歳の佐久間艇長以下20歳代の乗組員総員14名が殉職したのです。


当時は潜水艦の黎明期・・・世界的に沈没事故が多発しており、この直前イタリアで起きた同様の事故の際には乗組員たちが脱出用ハッチに折り重なったり、我先に脱出しようと乗組員同士で乱闘したまま死亡していることが確認されるなど、艦内はさながら阿鼻叫喚の地獄絵図。


とは言えそれは、生存本能が働けば致し方ないとも言えます。

 

しかし第六潜水艇を引き上げてハッチを開けてみると、佐々木艇長以下殆どの乗組員は持ち場を離れず、最期まで任務を完遂しようとしていたことが判明。


それだけでも称賛に値しますが、更に世界を驚かせたのは佐久間艇長の胸ポケットからずぶ濡れで発見された2冊の手帳に記された遺書の中身でした。


     


『佐久間艇長遺言 小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス、誠ニ申シ訳無シ、サレド艇員一同、死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ、沈着ニ事ヲ処セリ・・・ 』


という文章で始まる手記(遺書)は、あの日航ジャンボ機事故で亡くなった会社員が揺れる機内で書き残した遺書の如く、乱れた文字で埋め尽くされています。


しかし艇内の酸素が無くなりガスが充満しつつあった極限状態の中、艇長は潜水艇の開発に少しでも役立てようと39ページに及び詳細に艇内の様子や事故原因や応急処置の状況を書き残しており、さらに


『謹ンデ陛下ニ申ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭ニ懸ルモノ之アルノミ』


と、天皇陛下に部下の遺族への経済的支援を依願しているのです。


何という部下思いの将校でありましょうか。

沈みゆく船から乗客をほったらかしにして我先にと逃げ出した某国の船長とは、大違いです。


この遺書に感激した諸外国からは弔電が相次ぎ届けられ、アメリカ合衆国議会議事堂には遺書のコピーが陳列されました。


またT・ルーズベルト大統領は国立図書館前にこの遺言を刻んだ銅板を設置すると、真珠湾攻撃が行われた後ですら撤去しなかったといいます。


日本国内でも、修身の教科書に 『沈勇』 と題して取り上げられていたのですが・・・しかし現在の日本国民で、佐々木艇長を知る人はどれ程いるでしょうか?


以前行われた岩国での追悼式で駐日英国大使館付海軍武官がスピーチで発した、


「我が英国軍人に尊敬されている佐久間艇長の精神を、戦後の日本人は忘れている」


という言葉を、私たちは・・・特に政治家や文科省の官僚は噛みしめるべきでしょう。


あらためて武人・佐久間勉大尉と乗員のご冥福をお祈りすると共に、多くの日本人に彼の生き様と最期を知っていただきたいと存じます。

※ちなみに、タイタニック号に乗船し幸運にも生き残った一人の日本人の逸話も、こちらの過去記事にて・・・。(↓)



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起 点

“お江戸日本橋 七つ立ち 初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ
コチャ 高輪夜あけて提灯(ちょうちん)消す コチャエ コチャエ” 音譜


民謡 『お江戸日本橋』 の一節ですが・・・若い方は聴いたことがないかも? その

 日本橋


が初めて掛けられたのは江戸幕府が擁立された1603年のこと。 

当然木造で、その時の様子はおそらく安藤広重の東海道五十三次に描かれている、まさにこんな感じだったんでしょうネ。(


    日本橋


 


その後この日本橋は、木造なるが故に明治維新の頃まで10回も焼け落ちたのだそうで、現在の石造りの二重橋に架け替えられたのが今からちょうど110年前の今日・1911(明治44)年4月3日でした。


子供の頃、学校で 「日本の道路は、全て日本橋から距離が測られている」 などと教わり、いつかその『道路元標』 を見てみたい・・・と願っていた私。


その思いが通じたのか、私が就職した保険会社の本社所在地は日本橋・・・入社後に喜び勇んで見に行ったのですが、意外とこじんまりしていてガッカリした記憶があります。ダメだぁ顔


      


そして30歳過ぎに転勤で東京に戻ってきた際の本店営業部の所在地が、中央区日本橋1丁目1番地・・・日本橋の袂にあるビル。


お客様に名刺を出す時に、プチ自慢だったことを憶えています。


でも毎日のように日本橋の上を歩き続ける内に、いつしか子供の頃の憧れなど何処へやら・・・道路元標には目もくれなくなった私。


いつだったか橋を渡ろうとすると、いかにも地方から旅行で上京されたと思しきお年寄りグループが、記念撮影の真っ最中。


邪魔にならないよう通り過ぎようとした刹那、彼らの声が聞こえてきました。


「さすがは天下の日本橋じゃのう。 

あんなに立派な表札がついておるワ。」


声の方向を振り返ると、おじいちゃんが、上にかかる橋脚に据え付けられた大きな 『日本橋』 の看板(?)を指差しているのです。(


    日本橋


(ああっ、おじいちゃん。 それは首都高速ですって。 本当の日本橋は、アナタの足元!)


そう喉まで出かかったんですが・・・何だか感激の面持ちで上を見上げるお年寄りたちの夢を壊すような気がして黙って通り過ぎた、そんな切ない(?)経験もありました。


一時はその首都高速を地下に・・・なんて構想も話題になりましたが、果たして浮世絵のようにお天道様の下で再び〝お江戸日本橋〟を渡れる日がやってくるのでしょうか?

まぁ個人的には、莫大な費用をかけてそうする必要はないと思っていますが・・・


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激 震

〝地震大国〟といわれる日本では、これまで何度も大きな地震に見舞われてきましたが、我が故郷・信州も例外ではありませんでした。

その最も大きな被害を出した


善光寺地震

が起きたのが、今から174年前の今日・1847(弘化4)年3月24日のこと。


同日夜10時頃、善光寺のある現・長野市内を震源とするM7.4の強い地震が発生。


震源地付近は震度7の激震に見舞われ、余震は翌日にかけて大小約80回、その後約1年間も続いたといわれます。

この地震により善光寺は本堂の内陣造作などが大破し、門や経堂が小破。

大勧進では万善堂・護摩堂・聖天堂などが大破し、善光寺領では3,069戸あった民家の内2,385戸が倒壊。

松代藩士の居宅や民家も多くが全壊・半壊等の被害を受けました。

そして最初の激震後まもなく善光寺周辺の大門町・横町ら数ヶ所で火災が発生。


延焼を食い止められず鎮火まで3日を要し、門前町の殆どが焼失しました。

       


皆さんもご存知の通り、善光寺では7年に1度、秘仏である御本尊の御身代わり前立本尊を公開する〝御開帳〟が行われますが、この大地震が起きた時はまさにその御開帳の最中だったのです。

門前町を中心として全国から7~8千人が宿泊していたそうで、火災発生時には土地勘のない参拝客がパニック状態となり、その多くが火に巻かれて焼死したといわれます。

またこの地震では、「犠牲者は
土葬にされ、火葬にされ、水葬にされ三度弔われた」と言い伝えられるように、各地で起きた地滑りや山崩れによって生き埋めにされたり、またそれによって犀川が何箇所も堰き止められたことで洪水が発生、水死した住民も多数。

死者は善光寺町2,486人、松代藩2,717人、飯山藩1,515人、松本藩67人、須坂藩17人、陣屋中野602人、 上田藩1,177人、 高田藩5人で 計8,586人。 

また住宅全壊2万883戸、 住宅半壊1万1364戸、 山崩れ4万2528ヶ所という、大きな被害を出しました。


この大地震に対し、当時の松代藩主で松平定信(の側室)の子・真田幸貫は自ら足を運んで被災地を視察し、幕府から借りた1万両(無利息)で田畑を失った農民たちを治水事業に起用、また善光寺の修復も進めるなど善政を施したといわれます。

ただ藩
の財政は復興費用が重くのしかかって殆ど破綻状態となり、それは幕末まで解消しなかったそうですが・・・。


専門家によれば、この長野市で同様の大地震が起きる周期は1,000年に1度とのこと。

しかし私は、この説には懐疑的。

なぜなら、この大地震から118年後の1965(昭和40)年から3年間、同地域では 『松代群発地震』 が起きたから。

ちょうど私が小学生の頃でしたが、庭の燈篭がまるでダンスを踊るようにグラグラと目の前で揺れた光景は今でも鮮明に憶えていますし、通っていた木造校舎が電信柱の廃材で両側がつっかえ棒のように補強されていたことも忘れられません。

自然災害は決して規則正しく、また予想通りには起きません。

東日本大震災から10年経過した今、再度防災意識を高めるべきでしょう。


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競 闘

私と同年代の方は、小・中学校時代の運動会というと9~10月の秋に開催された思い出を持つ方が殆どだと思います。

しかし最近は天候や学校のスケジュール、また受験を考慮して多く(東京だと約2/3)の学校が5~6月の春に開催しているとか。

個人的には、仲間意識や連帯感を高める上でも団体競技でもある運動会は新入学とかクラス替えが行われる4月のすぐ後に開催する方が良いと思います。

その運動会が日本で初めて行われたのは、今から147年前の今日・1874(明治7)年3月21日のことだったそうです。(※異説あり)

ただしその時は運動会ではなく

 競闘遊戯会


という、何とも勇ましい名称・・・ということで、行われたのは海軍兵学校でした。

これはイギリス人の英語教師フレデリック・W・ストレンジの指導によって行われたとか。

 
            競闘遊戯会で行われた兵式体操

その4年後には札幌農学校でも行われ、以後北海道内の小中学校に広がっていきました。

 『運動会』 という呼称は、1883(明治16)年に開催された東京大学運動会が初出だそうですが、その運動会を全国の小中学校で実施するよう1896(明治29)年に義務づけたのが、森有礼・初代文部大臣でした。


 ※森有礼に関する過去記事は、こちら。(↓)



この運動会の起源はヨーロッパだそうですが、参加者が一定のプログラムに従い全体としてまとまりながら競技・演技を行う形式の体育的行事は、日本独自なのだそうな。

まさに農耕民族らしい傾向ですネ。

ちなみに、運動会といえば紅白に分かれて対抗戦形式で行われますが、これは平安末期に行われた『壇ノ浦の戦い』がルーツなんですって。

この時敵・味方を区別するため源氏が白旗、平家が赤旗を掲げて戦ったことに由来するとのこと。

 ※『壇ノ浦の戦い』に関する過去記事は、こちら。(↓)





さて皆さん、運動会はお好きでしたか?

中には運動会が近づくと胃が痛くなる方もいらっしゃったかもしれませんが、スポーツ命の私は2ヶ月前からソワソワ・ウキウキ。

だって、目立てるのは年に一度の運動会の時だけでしたら。

小1~6年まで対抗リレーの選手でしたし・・・。

 

            先頭を走っているのは、もちろん・・・。

また、当時は騎馬戦も大好きでしたし、負けず嫌いの私はクラスメイトを鼓舞して相手をなぎ倒したものです。

 
              この中のどこかに私が・・・。

でも半世紀近く前の昭和時代と、今時の運動会はかなり様相が変わってますネ。

私の自宅近くの小学校でも運動会が毎年行われていますが、バラエテイーに飛んだ種目・出し物が行われ、実に華やか。

ただ反面、騎馬戦等の肉弾戦はなくなり、大人しくなった印象が拭えません。

最近はどうだか知りませんが、一時期全員が手をつないでゴールして一等賞・・・なんてことが行われていたそうですが、もし私が生徒だったらそんな偽善的な競争は絶対にボイコットしたでしょうネ。

確かに骨折や命に係わるリスクがある過度の組み体操は止めるべきだと思いますが、ある程度のケガは怖れないで欲しいし、それに耐えうる身体になるよう普段から鍛えておくべき。

だって、どんなに頭が良くても最後に勝つのは健康な人間ですから。

実はウチの女王様、ご幼少の頃から大のスポーツ嫌い。

私に言わせれば運動神経がないというか切れている人間ですが、その彼女が時々しみじみとこう言ってます。

「アンタ見てると、つくづく子供の頃から運動しとけば良かったと思うワ。」・・・って。


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強 奪

世界には、2ヶ国が領有権を主張する地域・海域が点在していますが、それどころかベトナム・フィリピン・マレーシア・ブルネイ・台湾、そして支那の6ヶ国が領有を主張している場所があります。

それは、時々ニュースにもその名が出てくる


 スプラトリー(南沙)諸島

(※日本では同地域を〝新南群島〟と呼んでいましたが、サンフランシスコ講和条約締結時に領有を放棄)

この海域でベトナムと支那が軍事衝突(スプラトリー海戦)したのが、今から33年前の今日のことでした。


    

           スプラトリー諸島・ジョンソン南礁の位置

1988年3月14日、ベトナムは自らが領有を主張するスプラトリー群島のジョンソン南礁の補強工事をするため同国海軍の工兵32名が上陸し、ベトナム国旗を掲揚。

同海域にフリゲート艦3隻を出してそれを監視していた支那海軍がボートを繰り出し、ベトナム兵に銃弾を浴びせたのです。

この銃撃に対し、工事用資材しか所持していなかったベトナム兵は為す術がなく29名が死亡し、生き残った3名も捕虜に。

(捕虜になった兵士が解放されたのは、3年後。)

同時に支那海軍は洋上にいたベトナム艦も砲撃、輸送船2隻を撃沈して揚陸艦を大破させ、この海戦(というか一方的な攻撃)で死亡したベトナム兵は64名、支那海軍側は死者ゼロ。

この勝利(?)により、支那は
ジョンソン南礁(赤瓜礁)の他複数の礁を実効支配することに成功したのです。


2014年には、ジョンソン南礁で埋め立て工事を進め、滑走路など軍事基地を建設していることが判明、着々と領土化を進めていることは、皆さんもご存知でしょう。

両国はこれより前の1974年にも西沙諸島で衝突し、やはり支那が勝利して同海域を占領していますが、これらに関し習近平は通信社の取材に対し、

南シナ海の島々は、昔から我が国の領土だ」

と平気で嘯いているのです。


その支那が領土・領海だと主張しているのが、〝赤い舌〟と呼ばれるこの海域。(↓)

    

他国が領有権を主張する海域とかなりダブッていることが分かりますが、それらも力での制圧を目論んでいるのは明らか。

覇権主義国の欲望は限りがありません。
おそらく世界制覇を達成するまで・・・。

今のうちに世界が彼らの横暴を押さえ込まないと、間違いなく尖閣諸島を含む沖縄と北海道は南沙諸島の二の舞になるでしょう。


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花があったら・・・

現在日本に脅威を与えている武漢肺炎に加え、そろそろ大陸から黄砂やらPM2.5やらが飛んできそうな時節ですが、今から76年前の今日・1945年3月10日未明に上空から雨あられと降り注いだものは、そんなウィルスや微粒子ではなく・・・高性能爆弾でした。


それは太平洋戦争時に延べ100回以上行われた米軍による東京空襲の中で最も甚大な被害をもたらした

 
東京大空襲


と呼ばれる、1機平均6トンもの (日本の木造家屋により大きなダメージを与えるべく開発された) 焼夷弾を搭載した300機以上のB29爆撃機によって、深川・浅草を中心とした下町地区を重点に午前0時過ぎから2時間以上に渡って行われた絨毯爆撃。


日露戦争以降、我が国において3月10日は 『陸軍記念日』 だったそうで、一説には日本の気力を削ぐため敢えてこの日が選ばれたともいわれているこの大規模空爆による被害は、


 死亡者数・・・8万人以上(一説には10万人以上)
 
負傷者数・・・11万人以上

 焼失家屋・・・約27万8千戸

 被災者数・・・100万人以上

 焼失面積・・・約41k㎡(東京ドームのグラウンド3,000面以上)


にのぼりました。

(※犠牲者数は、単独の空爆としては世界史上最悪の数字。)

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-空襲       


例年マスコミはこの大空襲に関して8月の原爆記念日ほど注目しませんし、発生後10年の節目を迎える明日3・11の東日本大震災に関する特集の如き大きな扱いもしないでしょう。


しかしながら被害の規模は広島・長崎の原爆投下に匹敵するこの大空襲を、私たちは平和を願う日本国民として絶対に忘れてはならないと思うのです。


その想いを込めて・・・当時学徒兵として遺体の処理作業に従事された須田卓雄氏が、1970年12月29日付朝日新聞紙上に発表された体験談をご紹介致します。


         ◆     ◆     ◆     ◆


昭和二十年三月十日の(東京)大空襲から三日目か、四日目であったか、私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。

永代橋から深川木場方面の死体取り片付け作業に従事していた私は、無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、さして驚くこともなくなっていた。

午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。

頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変りはなかったが、倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。

着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。

その人は赤ちゃんを抱えていた。


さらに、その下には大きな穴が掘られていた。

母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、つめは一つもなかった。

どこからか来て、もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、その上におおいかぶさって、火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。

赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。


小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。


だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-空襲


わたしの周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。


どの顔も涙で汚れゆがんでいた。

一人がそっとその場を離れ、地面にはう破裂した水道管からちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。


若い顔がそこに現れた。


ひどい火傷を負いながらも、息の出来ない煙に巻かれながらも、苦痛の表情は見られなかった。

これは、いったいなぜだろう。 美しい顔であった。


人間の愛を表現する顔であったのか。


だれかがいった。 「花があったらなあ――」


あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。

私たちは、数え十九才の学徒兵であった。


         ◆     ◆     ◆     ◆


中近東などにおける現代の戦闘では 「誤爆により市民が何名死傷」 などという報道がなされ、そのたびに〝非人道的〟という批判が起きます。


しかし東京大空襲に於いて亡くなった8万人以上もの犠牲者の殆どは非戦闘員である一般市民であり、まさに桁違いの大量虐殺。

これは原爆投下と並び、非戦闘員の殺傷を禁じたハーグ陸戦条約に違反した非人道的行為なのは明らか。

戦後、連合国は極東国際軍事裁判などで〝人道に対する罪〟を犯したとして多くの日本兵をC級戦犯として有罪にしましたが、アメリカにそんな判決を下せる権利があるのでしょうか?


なのに日本政府はこれに抗議するどころか、この大空襲を指揮したカーチス・ルメイ少将に対し、なんと1964(昭和39)年に 「航空自衛隊の育成に貢献した」 という理由で勲一等旭日大綬章を授与しているのです。

※ルメイ少将に関する過去記事はこちら。(



チャップリンの映画 『殺人狂時代』 に「1人殺せば殺人犯だが、100万人殺せば英雄だ!」 という名台詞がありますが、まさにそれを彷彿とさせます。

私たちは、今1千万以上もの人々が平和に暮らしている東京が嘗ては凄惨な修羅場・焼け野原であったことを決して忘れることなく、同時にそのどん底から血の滲むような努力を重ねて目覚ましい復興を成し遂げた先人達に深く感謝し、またこの史実を後世に語り継がなければいけません。


あらためて東京大空襲によって尊い命を奪われた犠牲者のご冥福を、衷心よりお祈り致します。


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縁 談

早速ですが、クイズです。

日本に初めてやってきた外国の元首は、誰だったでしょう?

アメリカ? イギリス? それとも、近場のアジアの国?

いえいえ、正解はハワイ国王だったんです。 同国の


  デイヴィッド・カラカウア  第7代国王
      David Kalākaua


が来日したのが、今からちょうど140年前の今日・1881(明治14)年3月5日のことでした。


        


1836年生まれで、ちょっと小錦関似のデイヴィッドは、カメハメハ5世が後継者を指名しないまま亡くなったため、1872年に行われた国王選挙に立候補したものの、ルナリロに敗北。

しかしそのルナリロも後継指名せぬまま僅か2年後の1874年に亡くなったため再び国王選挙が行われ、今度はカメハメハ4世の未亡人・エンマ女王を破って国王の座に。

イギリス海軍の力を借りてエンマ女王支持者の暴動を鎮圧したカラカウア国王は、ハワイの経済を立て直すため就任後程なくしてアメリカに渡り、グラント大統領と会談してハワイの主力農産物である砂糖や米の輸入自由化を認めさせることに成功。

そしてハワイへの移民を要請すべく、サンフランシスコを経て1881(明治14)年3月5日に来日、その後東南アジア~エジプト~西欧諸国を歴訪したのです。


外国元首として初めて日本にやってきたカラカウア大王は赤坂離宮で明治天皇と会談しいくつかの要請を行いましたが、主としては2点ありました。

ひとつは、移民の要請。
これに関して日本は、積極的に応じました。(↓)



そしてもうひとつは、縁談。

カラカウア国王は、彼の次女・カイウラニと山階宮定麿王(後の東伏見宮依仁親王)との結婚を求めたのです。

日本の皇室と親密になることによってハワイ王国の基盤を強めようとしたのでしょうが、この時点でカイウラニが僅か5歳。

また山階宮定麿王も13歳でしたから、さすがに近代国家では無理のある話。 明治天皇は


「国力増強に努めている新政府に、そこまでの余力はない」

として断ったのは無理もないこと。

しかしこの縁談がもしまとまっていたら、ハワイは日本の領土となって日米関係も違った展開になり、真珠湾攻撃はなかったかも?

ただ結果的にカイウラニは1899年に23歳の若さで亡くなられていますから、そうはならなかった可能性が強いですが・・・。


       

                       Kaʻiulani


その後カラカウア国王は、〝ポリネシア帝国〟を構想するも頓挫。

アメリカ移民の勢力が徐々に勢力を強め、カラカウア国王の退位とアメリカへの併合を求める声が強まり、結果的に新憲法を受け入れざるを得なくなります。

これによってアメリカ系移民の参政権が大幅に認められ、国王は実質的な権力を失うことに。

そのストレスからかアルコール依存わ患ったカラカウア国王は治療のためサンフランシスコに移ったものの、1891年に45歳で死去。

<妹のリリウオカラニが後継者となりましたが、1898年にハワイはアメリカに併合され、ハワイ準州に・・・。

歴史的経緯から致し方なかったとも言えますが、結局は移民を受け入れたことが王国の破滅を招いたことは確か。

外国人を積極的に受け入れ続ける日本の運命は、如何に?
うー


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置 去

私が大学4年生で1ヶ月後には社会人になる、という時でした。

新聞各紙に人民服を着た男女の写真が居住地や本人の記憶する情報と共にずらっと掲載されたのは。

それは今からちょうど40年前の今日・1981(昭和56)年3月2日、肉親捜しのために厚生省の招待で初めて公式に来日した


 中国残留日本人孤児

47名のものでした。

(拙ブログでは通常隣国を〝支那〟と表記していますが、今回は既に上記単語が一般的に定着しているため、便宜上〝中国〟とします。)

中国残留日本人孤児(あるいは中国残留邦人)とは、1945(昭和20)年当時中国の東北地方(旧満州地区)に開拓団として居住していた多くの日本人が、同年8月9日にソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄し同地域に侵攻してきて以降、様々な事情で肉親と離れ離れになって日本に帰国できぬまま同地で中国人養父母によって育てられるなどした孤児や、現地の中国人男性と結婚した日本人女性のこと。

 ※その一例・『葛根廟事件』に関する過去記事は、こちら。(↓)

彼らは日本人であるが故に様々な差別に苦しんだそうですが、1972(昭和47)年に田中角栄首相が訪中して日中国交正常化がなされたことで、1980年には子供と行き別れた両親が訪中できるように。


その翌年、ようやく残留孤児が肉親捜しのために来日したのです。

行き別れた当時の所持品や記憶を頼りに新聞等に情報が開示され、それを元に 「我が子ではないか?」 と名乗り出る人が続々と東京へ。

そして幸い両親との再会を果たした方が多数出ました。


        


しかし全ての孤児が肉親と会えたわけではなく、47名の内身元が判明したのは約半数の26名。

残りの21名は失意のうちに離日しました。

しかし日本語が全く喋れない彼らが必死に肉親を捜す姿がテレビを通じて流されると、この残留孤児問題の関心は高まり、以後厚生省は毎年肉親捜しを実施。

以来現在まで身元調査を行った残留孤児は2,818名。
その内で身元が判明したのは、約45%の1,284名。
(※双方とも、2016年1月末現在)

厚労省では彼らに対し一時帰国・永住帰国・定着自立の各援護を行なっており、永住帰国した中国在留邦人は孤児・婦人を含め約6,700名。


家族を含めると約20,000人が日本で暮らしています。

しかし彼らは来日時日本語が全く話せず生活環境も違うため、実際には多くの在留邦人が家族を含め国の補助金やボランティア組織の寄付金で暮らしているのが現状。

更に私たち日本人にとって身近な問題となっているのが、〝怒羅権 (ドラゴン)〟の存在。

これは、日本に定住した中国残留孤児の2世・3世がマフィア化した半グレ・犯罪集団。

過去には暴力団組員を殺害したメンバーもおり、その凶悪さは想像以上のもの。

    

            警察が押収した怒羅権の押収品

いわゆる中国人マフィアなら逮捕すれば本国に強制送還できますが、彼らは日本国籍を取得しているためにそれが出来ず、警察も手を焼いているとのこと。

戦後70年以上を経過した現在でも、その傷跡は癒えるどころかますます拡大・・・敗戦の代償は、限りなく高くついているのです。うー

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極悪非道

40歳代以下の若い世代の方々は殆どご存知ないと思いますが、1955~75年にかけて東南アジアでは泥沼のベトナム戦争が行われていました。

アメリカ軍が枯葉剤などの化学兵器やナパーム弾を大量に使用し多くのベトナム人を殺傷しましたが、それとは別にこの戦争にアメリカの同盟軍として参戦した韓国軍の極悪犯罪も見逃すことは出来ません。

その中のひとつが、今から53年前の今日・1968年2月25日に起きた


  ハミの虐殺

  Ha My massacre


これは韓国海兵隊・第2海兵旅団(青龍部隊)がクアンナム省ハミ村で女性・老人・子供ら135人を虐殺した凄惨な戦争犯罪。

※この旅団は、その2週間前の2月12日にも同省フォンニィ・フォンニャット村でも69人の民間人虐殺事件を引き起こしていた、ならず者軍団。


    

              矢印先・クアンナム省 


彼らは村民を広場に集め、一斉射撃をしたり手榴弾を投げつけるなどして無差別に殺害したのです。

その傍若無人ぶりに、アメリカ軍内部では韓国軍を完全な後方部隊にするか、敵が完全に支配していて誰を殺しても問題にならない地域に配置転換すべきかを検討したそうな。

実際、それまでにも彼ら韓国軍は各地で複数の虐殺事件を起こしていましたから、アメリカ軍が危惧するのも当然だったでしょう。(↓)



ベトナムでは、戦後しばらく経ってから各地に韓国軍によって殺害された同胞を追悼する記念碑が建てられ、このハミ村にも犠牲者の名前とその惨劇の様子を刻んだ碑が建てられました。


    


しかし韓国政府は退役兵らの要求を受けてベトナム政府に圧力をかけ、碑文の撤去や文面削除を要求。

村民は反発したものの、結局文面は蓮の絵が描かれた石板で隠されてしまいました。


    


日本に対しては単なる高給売春婦だった従軍慰安婦を、朝日新聞の記事に便乗する形で戦争犯罪のように問題化し執拗に謝罪・賠償を求めるくせに、自らの戦争犯罪は隠蔽する・・・これが彼らの民族性なのです。

またベトナム人女性を強姦して産ませたライダイハン問題についても、見て見ぬふり。

これらの
史実を、反日左翼メディアに踊らされて韓流・K-POPにかぶれている若者に教える義務が、我々大人にはあると思うのです。

自分たちの子々孫々が彼らに不用意に近づき、悲惨な目に遭わされないようにするために・・・。


    

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【特別増刊】 紀 元

今日・2月11日は、


  建国記念の日


です。 国旗を掲揚しましょう!


    


さて、これが〝国民の祝日〟として制定されたのは、今から55年前の1966(昭和41)年のこと。

でもこの祝日が、他の祝日とは制定経緯も性格も少々異なることをご存知でしょうか?

ニュース等でアナウンサーが 「今日は建国記念日です」 と事もなげに言うのを過去に何度か耳にしましたが、それは不正確。

とかく世間でも『建国記念日』 と言われがちですが、正しくは 『建国記念〝の〟日』 であることに、その意味が隠されているのです。


「建国をしのび、国を愛する心を養う」 という趣旨により1967年から適用されたこの祝日は、他の祝日が祝日法において日付を定められているのに対し、〝政令で定める日〟 と規定されています。


元々2月11日は、嘗ての祝祭日である 『紀元節』 でした。


これは日本書紀に記された初代・神武天皇の即位が旧暦の紀元前660年1月1日であり、それを新暦に直すと2月11日になることから制定されたもの。


       


しかしこれがGHQの指導により、1948年から廃止。


その後与党・自民党から 『建国記念日』 として復活させる法案が提出されますが、社会党ら野党は「神武天皇即位日は、科学的根拠が薄い」 等々の理由で反対。


その後法案の提出・廃案を9回も繰り返した末、間に〝の〟を入れ 「建国されたという事象そのものを記念する日」 として妥協が成立。


『紀元節』 から 『建国記念の日』 と名称を変え祝日として復活した、いうわけです。


この祝日の制定については現在においても賛否両論がありますが、私はその日付の選択基準はともかくとして、国家には建国記念日が不可欠であると考えます。


現に殆どの国でも建国記念日を制定していますし。

(名称は独立記念日・解放記念日等、様々ですが・・・。)


その記念日を制定し国民全員で祝うことが、国家・民族に対する誇りを持つ第一歩であり歴史を振り返る契機なのですから、それは当然だと思うのです。


ただ我が国の場合、他国のように独立宣言をした日などと明確なものでなく、神話に基づくところが独特。

(※神話に基づく記念日を制定しているのは、他に韓国のみ。)


でも私は、それで一向に構わないと思います。


何故なら、それは見方を変えれば我が国が他に類を見ない長い歴史を持つ独立国家であるというひとつの証しになるから。


神武天皇即位の年を元年として換算すれば、今年・2021年は 『皇紀2681年』。


ひとつの皇室がこれだけ長期にわたって存続してきた国家は、日本をおいて他になし。


(※よく〝中国四千年の歴史〟といいますが、その間何度も支配する皇帝や民族が変わっていますから、日本とは比較になりません。)


おそらく(日教組に属する)教師は、学校でこの歴史や経緯を教えていないでしょう。

単に 「休日でラッキー」 と思うだけではなく、親御さんはお子さんたちに祝日の制定経緯と同時に我が国が稀に見る長期的安定国家・民族であることを教えてください。


「この国に生まれて、そして日本人で良かった!」


そう子供に思わせることは、躾のひとつであり親の義務ですから。扇子


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