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神隠し

皆さんは、グリム童話のひとつ


ハーメルンの笛吹き男

 Rattenfänger von Hameln


を読まれたことがあるでしょうか?

その昔ネズミが大量発生し、その被害に悩まされていたハーメルンという街に派手な服装をした流れ者が現れ、報酬と引き換えにネズミ駆除をもちかけます。

住民が報酬を支払うことを約束すると、その流れ者は笛を吹いてネズミをおびき出すとそのまま川に連れて行って溺れさせ、全てのネズミを見事退治。

しかし住民は約束を違えて報酬を払わなかったため、流れ者は激怒。

今度は笛を吹き鳴らして街の子供達をおびき出して洞窟に連れて行き、そのまま誰一人として戻ってくることはなく、親たちは悲観と後悔に明け暮れた・・・。

だいたいこんなストーリーなのですが、実はこれフィクションではなく、今から736年前の今日、実際に起きた事件を元にした物語なのです。

ハーメルンは、ドイツ・ニーヘダーザクセン州にある、人口約55,000人の都市。

    

1284年6月26日はちょうど聖ヨハネとパウロの祭礼の日にあたり、大人たちが朝から教会に集まっている隙を狙って男が笛を吹いて留守番をしていた子供たち130人をおびき出し、街はずれの山腹にある洞穴に連れて行くと、入口を岩で塞いだのだそうな。

その様子が、1300年頃ハーメルンに建てられた教会のステンドグラスに描かれていたといいます。


(この教会は1660年頃に破壊され、現存しているステンドグラスは過去の文献を参考に復元されたもの。)


  
     現存する最古の水彩画(1592年)     現在のステンドグラス


ネズミの大量発生も後に付け加えられた話だという説もありますが、実際行方不明になった130人もの子供たちはどうなったのか? これについては、

<◆笛吹き男は猟奇殺人犯で、全員彼に殺された。
◆子供たちは天災か病気で死んでしまった。
◆笛吹き男は十字軍のスカウトで、全員従軍させられた。


など様々な説がありますが、その中で信憑性が高いのは、当時の東ヨーロッパでは開拓者が盛んに移住していて子供が貴重な労働力であったため各地で誘拐事件が多発しており、ハーメルンの子供たちもルーマニアに連れ去られた・・・という説。

実際、ルーマニア中世に記された 『キルヒャーの見聞録』 には、「ある日突然、聞いたことのない言葉を話す子供が多数現れた」とあるそうですから、その一部がハーメルンの子供達だったのかも。

とすれば、これは史上稀な同時大量誘拐事件ってことになります。


また消えた130人は子供ではなく、集団でハーメルンの町を去った移民であり、笛吹き男は移民の仲介業者だったという説も。

いずれも今ひとつ決定打に欠ける気がしますが、皆さんはどの説を採用されるでしょうか?

因みにハーメルンでは、現在でもこの130人の子供達が通ったとされる道路で音楽を奏でたり踊ったりする事が禁止されているそうな。


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教 育

2001年、内閣総理大臣となった小泉純一郎氏が国会の所信表明演説で引用したことで多くの人が知ることとなり、その年の流行語大賞にもなった、〝米百俵〟

この話の基であり、現在の長岡市立阪之上小学校・新潟県立長岡高等学校の前身である


 国漢学校

が開校したのが、今からちょうど150年前の今日・1870(明治7)年6月15日のことでした。

        


               国漢学校之図(長岡懐旧雑誌より)


長岡藩は、河合継之助が陣頭指揮を執って戦った北越戦争で新政府軍に敗れ、7万4千石から2万四千石に減知されて財政が困窮。

 ※河合継之助に関する過去記事は、こちら。(↓)



藩士たちが日々の食糧にも事欠く窮状を見かねて、長岡藩の支藩・三根山藩から百俵の米が贈られました。

この米の分配を任されたのが、当時長岡藩の大参事を務めていた


 小林 虎三郎

でした。


       


1828(文政11)年に長岡藩士・小林又兵衛の三男として生まれた彼は頭脳明晰で、幼少時代疱瘡によって左目を失明しながらも長岡藩校・崇徳館で学び、若くして藩校の助教を務めた秀才。


23歳の時に藩命で江戸に遊学して佐久間象山門下に入り、1868(明治元)年に藩の大参事になると、長岡の文武総督として戦火を免れた昌福寺の本堂を仮校舎として、国漢学校を開校しました。

※以前の藩校・崇徳館が漢学のみを教えたのに対し国学をも教授したことから、国漢学校と命名。

そして前述の米百俵が贈られた際、これで生活が少しでも楽になると喜ぶ藩士たちを、

「百俵の米も食えばたちまちなくなるが、教育に充てれば明日の一万、百万俵となる。」

と諭し、その米を売却した資金でその国漢学校を建てたのです。

そして同校は士族だけでなく、一定の学力を身に着けた平民の入学も許されました。

「基礎から人材を養成していけば国は富み、兵は強くなる。

だから国家は学問を興し教育を普及させ、人材を育てて世界の国々と肩を並べるべきだ。」


という教育第一主義を実践した虎三郎は、その後もリウマチ・腎臓病・肝臓病など様々な病魔に襲われながらも教育に対する情熱を失わず郡役所に陳情・嘆願を繰り返た末、1877(明治10)年に48歳で亡くなりました。

教育こそ国家百年の計である・・・と私も思いますが、現代日本の教育はどうか?

未だ戦後の自虐教育から脱却できないばかりか、教育行政を司る文部科学省は霞が関では三流官庁と揶揄され、事務次官ら官僚の不祥事は後を絶ちません。

この現状を草葉の陰から眺めている虎三郎は、さぞ大きな溜息をついていることでしょう。
うー


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隆 起

皆さんは、秋田県にかほ市にある国の天然記念物で、鳥海国定公園の指定地でもある

 象 潟

・・・「きさかた」 と読む地域をご存知でしょうか? 

    


紀元前466年に鳥海山の噴火によって山体が崩壊し、大量の土砂が日本海に流れ込んだことによって浅い海と小さな島々が出来上がりました。

その後堆積作用によって浅い海は砂丘によって仕切られ潟湖となり、島々には松が生い茂って風光明媚な地形が出来上がり、九十九島・八十八潟が景勝地・歌枕の地として知られ、古今和歌集や新古今和歌集にも当地を詠んだ歌が。

そして江戸時代には〝東の松島・西の象潟〟と呼ばれ、あの松尾芭蕉も『奥の細道』で「
松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し」と評し、


象潟や 雨に西施が ねぶの花

[雨に濡れる象潟のネムノキの花を見ていると、世に言う西施(せいし=春秋時代・呉王に寵愛された美女)の美しさとはこのようなものだったのだろう。]


と詠んでいますから、その光景はさぞ素晴らしいものだったのでしょう。

しかし今から216年前の今日・1804(文化元)年6月4日、その光景は一変しました。


この日起きた象潟地震により海底が隆起し、湖が陸地化してしまったのです。

その後本庄藩の水田開発により、島々は消滅の危機を迎えましたが、地元・蚶満寺(かんまんじ)の住職・二十四世全栄覚林の尽力によって保存運動が高まり、消滅を免れました。

そして現在の象潟の風景は、こんな感じです。


    

水田の中に島々(102個)が点在しているのが分かります。(写真後方が、鳥海山)


クルマでお越しの方は、道の駅・象潟ねむの丘の展望台から、この九十九島を望むことができるそうですし、象潟郷土資料館では地震前の象潟の再現模型が展示されているとのこと。


※同館HP (↓)


 http://www.city.nikaho.akita.jp/life/detail.html?id=210


東北・日本海地方に旅行された際は、一度足をお運びください。

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石 庭

京都に旅行された殆どの方は、この名刹を訪れていることでしょう。

その世界遺産にも登録されている、京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院、

大雲山 龍安寺


が建立されたのが、今から570年前の今日・1450(宝徳2)年6月2日のことでした。

        


龍安寺の開基(創建者)は、室町時代の武将にして室町幕府の管領を務め、応仁の乱(1467-1477)で東軍の総大将だった、細川勝元(1430-1473)。


        


元々そこには円融天皇御願寺として984(円融元)年に建立された円融寺がありましたが徐々に衰退し、平安時代末期に藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地に山荘を建立。


この山荘を勝元が譲り受け、妙心寺八世住持の義天玄承を初代住職として迎えたのです。

その後勝元が指揮を執った応仁の乱の戦火に巻き込まれ焼失しますが、勝元の長男政元と4世住持・特芳禅傑によって1499(明応8)年に再興。

その後1797(寛政9)年の火災で方丈(本堂)・仏殿など主要伽藍が焼失したため、塔頭・西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈とし、現在に至っているとか。 (※仏殿は1981年に再建)


当初は南側に位置する鏡容池(きょうようち)に棲息するオシドリの名所として知られていたそうですが、現在は政元が再建した時分に作られたといわれる〝石庭〟が有名。

    


〝方丈庭園〟と呼ばれ堅牢な土塀に囲まれたこの石庭には、幅25m×奥行約10mの敷地に白砂が敷き詰められ、東から5・2・3・2・3個の合計15の大小の石が配置されています。

塀際の細長い石には〝小太郎・口二郎〟と刻まれていますが、この庭の作者であるかどうかは不明。

また石の配置に因んで、支那の説話から〝虎の子渡しの庭〟とか、古来より奇数がおめでたい数字であることから〝七五三の庭〟とも呼ばれていますが、その配置の意図も不明。

この謎だらけの石庭が国際的に有名になり、世界中から京都に観光客がやってくるキッカケを作ったのは、イギリスのエリザベス女王でした。


1975(昭和50)年にご主人と共に日本を公式訪問された際、女王自らが龍安寺の拝観を希望され、お目当ての石庭を見学して絶賛したことが報じられたことが、龍安寺の名を一気に有名にしたのだそうな。

        

ただ一説には、
石庭を見たエリザベス女王は「私にはわからない」と言ったのに、新聞が「エリザベス女王にも理解できない、東洋の神秘!」てな具合で報じ、それを見た読者が龍安寺の石庭に興味を示した・・・とも。

個人的には後者の説が本当っぽく感じますが、こういう印象操作報道なら許せますかネ?

とにもかくにも、1994年に『古都京都の文化財』として世界遺産に認定されたのは、エリザベス女王の訪問が少なからず貢献していることは確かでしょう。

私は中学生時代に修学旅行で訪問した・・・はずですが、残念ながら全く記憶に残っていません。


まぁバスケに熱中していた時期ですから、こんな庭を観ても面白くも何ともなかったんでしょう。

還暦を過ぎた今こそ再度訪れて、どこから眺めても石がひとつ見えない設計になっているというこの石庭の前に、1時間くらい佇んでみたいと思います。

年中無休で拝観できるそうですから、皆さんもいかがですか?


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【特別増刊】  玉 砕

皆さんは大東亜戦争の中期、日米両軍の間で交戦した


 アッツ島の戦い


をご存知でしょうか?

この太平洋上の小島での交戦を敢えて取り上げたのは、大本営が初めて〝玉砕〟という言葉を国民に対して発したから。

一般的に日米間の交戦はハワイ・真珠湾から始まって南方で展開されましたが、このアッツ島は逆に北方・・・アリューシャン列島のひとつ。(

       


なんでこんなところに日本軍が・・・と怪訝に思えますが、これはその前年のミッドウェー開戦に備えた陽動作戦として、このアッツ島(とすぐ近くのキスカ島)を攻略し、守備隊として2,650名を投入して飛行場などを建設したのです。

そのミッドウェー海戦で勝利を収めた米軍がロックウェル少将率いる11,000名もの兵員を率いて同島の奪還を目指し上陸作戦を開始したのは、1943(昭和18)年5月12日のこと。


迎え撃つ日本軍守備隊の司令官は、同年4月に赴任したばかりの山崎保代(やすよ)大佐(※没後2階級特進で中将)

        


開戦直後から圧倒的な兵力・火力を有する米軍を目の当たりにして、山崎大佐は大本営に歩兵1,500名と武器・弾薬・食料の補給を打診。

しかし大本営はキスカ島からの撤退はしたものの無情にもアッツ島は見捨て、一切の補給をしませんでした。


仕方なく山崎大佐は硫黄島の栗林中将と同様、兵を内地・高地に撤退させ米軍を迎え撃つ作戦に出ましたが、兵力と火力の差は如何ともし難く、同月28日にはほとんどの兵力・弾薬を喪失。

そして翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎司令官は生存者を本部前に集めると、各将兵を労った後に

「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す。」

と大本営宛てに最後の打電をすると、約300名の兵と共に米軍本部に向かって突撃し全員が玉砕して果てました。

山崎大佐の遺体は、日本兵の先頭で発見されたといいます。

この戦いに参戦していた米兵は、後に

「あれは、バンザイと叫びながら自殺のための突撃だった。

 日本兵は爆発物を巻きつけて、死のうとしていた。 

 私たちを殺しに来ると同時に、彼らは死にに来たのだ。」


と証言しています。

日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜として生き残ったのは僅か27名・・・生存率はたったの1%。

対する米軍は戦死者約600名、負傷約1,200名でした。


    

           米軍が撮影した、玉砕した日本兵の遺体

実際は〝全滅〟だったのに、なぜ大本営は〝玉砕〟という言葉を使って発表したのか?

それはミッドウェー海戦で大敗を喫して以降、戦況が刻々と不利になっている状況をひた隠しにしてきた大本営が〝全滅〟という国民にとってショックが大きい言葉を使えなかったから。

また部隊を見殺しにした軍幹部に対する責任論を回避するため、とも言われています。

いずれにせよ、大本営の保身を目的としたカムフラージュであることに違いはないでしょう。


〝玉砕〟は、決して日本兵の潔さや忠誠を誓ってのものではなく、大本営の無策・無責任のせいで犠牲になった兵士たちの、無念を象徴した言葉・・・私にはそう思えてなりません。

77年前の今日、北方の小島に散った山崎中将以下2,600名余りの英霊に、黙祷を捧げたいと思います。笑3


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正 史

我が国に現存する最古の正史書といえば、皆さんもよく耳にするであろう

 日本書紀

※但しその日本書紀によれば、それより100年前の620(推古天皇28)年に聖徳太子・蘇我馬子が編纂した『天皇記』・『国記』が史書として存在したものの、蘇我入鹿が暗殺され大化の改新への転機となる645(皇極天皇4)年6月に起きた〝乙巳(いっし)の変〟の際に焼失したとのこと。


同書30巻と系図1巻が舎人親王によって完成・撰上されたのが、今からちょうど1,300年前の今日だったそうな。


     
               
国会図書館・蔵 写本


同書の編纂を命じたのは、第40代・天武天皇。
※舎人親王は、天武天皇の皇子。


実はこの方、712年に完成した 『古事記』 の編纂をも命じています。


    

「あれ、じゃあ古事記の方が古いんじゃ?」

とお気づきの方が多いと思いますが、同じ歴史書ではあるものの両者には違いがあります。

稗田阿礼・太安万侶によって急ピッチで編纂され、第43代・元明天皇に献じられた 『古事記』3巻は、天皇家の歴史をまとめ、その正当性を国内向けにアピールしたもの。

神代における天地の始まりから史上初の女性天皇となった第33代・推古天皇(554-628)時代に至るまでの様々な出来事が物語風に記されています。

残念ながら正本は現存せず、写本が2種類残されているのみ。

これに対して 『日本書紀』は、唐や朝鮮半島を意識して自国の歴史をアピールすべく漢文で書かれており、神話を大幅に削り、かつ川島皇子・忍壁皇子ら12人の皇族・豪族・官吏12人の手にって39年もの歳月をかけて編纂された、神代から第41代・持統天皇までの正史といえます。

もっとも正史とは言え、時の権力者に遠慮していることが伺えるようですが・・・。


従って、ほぼ同じ時代について記されていながら、内容にはかなり違う部分が。


たとえば、有名なヤマトタケルについて古事記は乱暴者という扱いながら、日本書紀ではヒーローのように描かれているそうですから。

歴史とは、たとえ事実がひとつでも見る者の立場によって全くその表現が違ってくるということを示してくれています。


また日本書紀は古事記と違い、ひとつの出来事について異論も併記されていることが特徴だそうで、更に後々加筆修正が行われていることが分かっていることから、正史とはいえ真実を伝えているとは言い切れません。

貴重な史料であることは間違いありませんが、歴史学者を悩ませる正史書だと言えましょうか。

日本の古代史に興味のある方は、岩波書店から文庫全5巻で発売されていますので、ご一読ください。


    


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奇 襲

〝人間五十年 下(化)天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり
                          一度生を享け 滅せぬもののあるべきか〟


今からちょうど460年前の今日、信長はこの 『敦盛』 を一舞いてか


、やおら馬に跨り先陣を切って

桶狭間の合戦


に向かった・・・と言われていますが、果たして本当だったのでしょう


                          

                 織田信長像 長興寺・蔵


1560(永禄3)年5月19日、豪雨の中で行われたというこの合戦については、


『総勢2万5千の今川義元軍が、上洛の道すがら尾張を通過。


これを兵力僅か3千の織田信長が篭城を勧める家臣の意見を振り切り、先陣を切って出陣し熱田神宮で必勝祈願。


折からの豪雨に足止めされていた今川軍の位置情報を予め入手していた信長は、いきなり本陣を急襲。


慌てふためいた今川軍は混乱・敗走。 今川義元は首を取られ、これにより織田信長の勇名が天下に轟いた。』


・・・とまぁ、こんな感じで私は学校の授業で教えられたりしましたが、このストーリーは主として元家臣・太田牛一が著した 『信長公記』 等が基になっています


       

             『現代語訳 信長公記』 (新人物文庫・刊)                    


しかし、そもそも太田牛一がこの合戦に参戦していたかどうかは不明なのだそうで、史実を検証するとこの合戦伝説にはいくつもの疑問・矛盾点がある模様。


ざっと挙げてみますと・・・。


◆桶狭間(田楽狭間)の場所については諸説があり、現在でも特定されていない。


◆今川軍が本当に京都を目指していたのか?

兵力も実際に桶狭間にいた本体は1万前後だった?


◆信長が出陣前に 『敦盛』 を舞ったり、熱田神宮で(予め部下に命じて)白鷺を飛ばしたと伝えられているが、当時信長にそのような余裕があったのか?


◆豪雨の中を今川軍本体に密かに近づき、奇襲をかけたとする通説は現在否定され、正面から攻撃を仕掛けたとする信長公記説が有力とされる。


◆今川義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を正確に知らせた簗田政綱に勲功第一等を与えた・・・という逸話があるが、確認されていない。


等々。 その他の資料を総合すると、この合戦は


【尾張領を制圧せんと侵略してきた今川軍に、織田軍は兵力で圧倒的に劣っていながらも敵方先鋒隊に正面攻撃を仕掛けたつもりが、実はそれが本隊であった。


しかし、たまたまそのタイミングが良かったこともあり、まさかいきなり正面攻撃をかけてくるとは思っていなかった今川軍が混乱・敗走、あっさり大将の首を取られた。】


・・・という事になるようです。


       

                 今川義元像 臨済寺・蔵


これじゃあ、何だか単なるラッキーパンチ一発でチャンピオンを倒した無名ボクサーみたいな味気ないお話になっちゃいますネ。


でも史実って伝えられるほどドラマチックなものでなく、結構こんな感じの泥臭いものなのかも。 さて貴方は、


「それじゃあ夢がなくて、つまんない。 信長は『敦盛』を舞ってカッコ良く出陣したんだ!」 っていうロマン派


それとも、「そんなこと、実際できるワケないだろ!」 って、あくまで真実を追求するリアリストあせあせ


 


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遺 恨

面積592.55㎢は、シンガポー.ル島とほぼ同じ。

本州・北海道・九州・四国・択捉島・国後島・沖縄本島・佐渡島・奄美大島・対馬に次いで第11位で、人口約13万人を抱える島は、どこでしょう?

ちょっとイメージしづらいクイズでしたが、正解は『淡路島』。

    

この瀬戸内海最大の島島は現在兵庫県に含まれていますが、江戸時代から明治維新後しばらくは、四国(現在の徳島県)と密接な関係にありました。

それが兵庫県に編入されるキッカケとなったのが、今からちょうど150年前の今日起きた


  こう ご 

庚午事変

というお家騒動でした。


起きた年が庚午だったためにそう呼ばれていますが、別名『稲田騒動』ともいわれるこの事件は、長年にわたる城主と家臣による軋轢が頂点に達したことで勃発しました。

江戸時代、幕府は大坂の陣で活躍した、元豊臣秀吉の家臣として有名な蜂須賀正勝(小六)に淡路国と阿波国の加増を認めましたが、小六がこれを固辞。

 ※蜂須賀正勝に関する過去記事は、こちら。(↓)



息子の家政が阿波国に封ぜられましたが、父・正勝と義兄弟の契りを交わしたという稲田植元を客将として招き、淡路国と阿波国北部を知行地として任せました。

しかし蜂須賀氏が次第に稲田氏を対等の立場ではなく家臣として扱うようになってから、両家に軋轢が生じるように。

そして幕末期、蜂須賀家すなわち徳島藩側が佐幕派だったのに対し、稲田家側は尊王派となり、対立は深刻化。


明治維新後、徳島藩の禄制改革により蜂須賀家の家臣は士族とされたのに対し、稲田家々臣は(士族より下の)卒族とされたことに憤慨。

徳島藩に士族編入を訴えたものの、それが叶わぬと見るや、洲本を中心に徳島藩から淡路を独立させ稲田家を知藩事とする稲田藩の擁立を画策。

尊王派だったことから稲田家はそれが明治政府によって認められると踏んでいましたが、蜂須賀家が黙って見ているわけはなし。

1870(明治3)年5月13日、怒った一部の徳島藩々士らが
洲本城下の稲田家とその家臣らの屋敷を襲撃。


(前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ちし、稲田家の配地に進軍していました。)


これに対し、士族昇格を願う稲田家は無抵抗を貫き、自決2名・死者15名・重傷者6名・軽傷者14名、他に投獄監禁された者300名余、焼き払われた屋敷が25棟という大きな犠牲を出しました。


当時は版籍奉還後も以前の藩主がそのまま知藩事になるなど旧体制と殆ど変わりがありませんでした。

しかし中央集権化を目指す新政府にとって、この事件は何としても沈静化する必要が。

結局、新政府は襲撃した徳島藩側の首謀者ら10名に斬首刑を言い渡しますが、後に藩主・蜂須賀
茂韶(もちあき)の嘆願により切腹に。

※これが、日本史上最後の〝切腹刑〟となりました。(法的にはこの3年後切腹が禁止に。)


       

                      蜂須賀茂韶


 その他八丈島への終身流刑27名、禁固刑81名、謹慎多数。

徳島藩の取り潰しは免れたものの、知藩事の蜂須賀
茂韶や参事らも謹慎処分を受けました。

一方
稲田家側に対しては、この事件を口実に兵庫県管轄の士族として北海道静内と色丹島への移住開拓が命じられ、彼らは北の大地に転居することに。

それでも士族となったことで、彼らの大義名分は立ったのかも。

そしてこの事件翌年の廃藩置県や1876年の第2次府県統合により、淡路島は兵庫県管轄となりました。

もし当該事件がなければ、淡路島は徳島県管轄になっていた可能性が大。

ちなみに事件後、蜂須賀家側と稲田家側の確執は子供同士の付き合いにまで影響が残ったそうですが・・・150年経過した今でも、地元ではそのシコリは残っているのでしょうか?

現地にお住まいの方からの情報をお待ちしています。
あせあせ


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暹 羅

今日のタイトルは、ある国名の漢字表記なのですが、どこかお分かりになるでしょうか?

ヒントその1・・・国旗は、こちら。(↓)

      

ヒントその2・・・高級な猫に名前がついてます。

中高年世代の方なら、ここで正解が分かった方が多いかも。 そう、正解は

 シャム

えっ、そんな国あったっけ? って、若い方は首を傾げると思いますが、それもそのはず。

現在は、タイ王国ですから。


シャムからタイ王国に変わったのが、今から71年前の今日でした。

        


と言っても、厳密には1939年6月にシャムからタイに変わり、1945年9月にはシャムに戻され、そして1949年5月11日に再びタイとなり、現在に至っているのですが・・・。

※ちなみに 『暹羅』 という漢字表記は、暹(せん)という国と羅斛(らこく)という国が合併して暹羅斛となった国名を省略したものだそうな。


その他にも、私が昔学校で習った呼称が変わっている国があります。


ひとつは、スリランカ。

地図上ではインドの右下にある島国で、1948年にイギリスから独立した際はセイロンという国名でしたが、1972年スリランカに変わりました。

そしてもうひとつは、ミャンマー。


昔はビルマと称していましたが、1989年にクーデターによって軍事政権が樹立された際に変更されました。


しかし個人的には、映画化もされた小説 『ビルマの竪琴』 のイメージが強く、どうしてもミャンマーという国名はシックリこないんですけどネ。


この国名変更は最近も行われており、5年前には、グルジアがジョージアに。

 ※ジョージア(料理)に関する過去記事は、こちら。(↓)


といっても、元々国連加盟国の殆どが同国の2008年に独立した時点から武力衝突した相手のロシア語読みのグルジアから英語読みのジョージアに変更して欲しいという要請に従ったにも拘わらず、日本政府が数年間応じなかったもの。

つまり他国とは時間差があったんですネ。


外務省によれば、国名・地名を変更するには、

 ◆相手国との関係。
 ◆他国の国名・都市名と混同する恐れがない。
 ◆一般的にその国名が浸透しているかどうか。


を勘案して決定するそうな。

おそらく暫くグルジアのままにしていたのは、ロシアに気兼ねしたんでしょう。

ヘタレ外務省の面目躍如・・・いや、ジョージアから各国に国名変更の要請があったのがちょうど政権交代があった時期と重なり、承認したのは第2次安倍政権ですから、旧民主党政権がヘタレだったと言うべきか?うー

ちなみに日本はいつから日本だったのかというと、少なくとも7世紀頃からだったようです。

それまでは 『倭』 と呼ばれていたことは、皆さんもご存知でしょう・・・が、この日本国という国名が将来変わる、いや変えられないことを祈るばかり。

ところで、私にはひとつ疑問が。

冒頭のタイ王国・・・料理はタイ料理って言うのに、なんで猫はタイ猫ではなくシャム猫のままなのかニャ?


       


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団 結

ゴールデンウィークも中盤、5月に入りました。


と言っても、武漢肺炎騒動で先月半ばからずっと連休というか自宅待機が続いている方が多いでしょうが。

さて5月1日といえば、本来なら労働者にとっては大きなイベント、


 メーデー

  May Day


がある日ですネ。 (当然今年は中止でしょうが・・・。)


このメーデー 、本来は欧州各地で催されていた夏の訪れを祝う祭りだったとか。 


労使双方とも、この日ばかりは休戦して共に祝っていたそうですが、1886年5月1日に合衆国カナダ職能労働組合連盟が8時間労働制を要求して統一ストライキを決行したことがキッカケとなり、この日が 『労働者の日』 と位置付けられました。

そして1889年の第二インターナショナル創立大会で連帯してデモを行う決議が採択され、その翌年・・・今からちょうど130年前の今日・1890年5月1日にアメリカやヨーロッパ各国で第1回国際メーデーが実施されました。


そして日本での第1回大会は、今からちょうど100年前の5月2日。

翌年からは5月1日に実施させるように。

その後二・二六事件以降は政府によって禁止されたものの、戦後の1946年に復活。

しかしGHQの占領が解除された3日後の1952(昭和27)年5月1日には、左翼活動家や朝鮮人・日雇い労働者らが
皇居前広場に乱入して警官隊と衝突。


デモ隊側は死者1名・重軽傷者約200名、警察側も負傷者832名を出す惨事を引き起こしたことも。 (※血のメーデー事件)


    


私も1981(昭和56)年に社会人となってから数年間、東京勤務時代は毎年5月1日に動員をかけられ、朝から代々木公園に行かされました。


物凄い人だかりと、無数の赤旗がはためいていたのを今でも憶えていますが、正直何のために自分がここにいるのかも分からず、また演壇に登った来賓たちが何を喋っているのかも聞き取れませんでした。


       


点呼を受けた後、シュプレヒコールをあげなからデモ行進をする人々に混じって歩いたのですが、ちょうど渋谷の繁華街に差し掛かったところで仲間と列から離れてゲームセンターに入り、パックマンに熱中。


時間を見計らって、何食わぬ顔で会社に戻ったものです。


今から40年近く前の当時、景気は良くて会社の業績も右肩上がり。


終身雇用という金科玉条を誰も信じて疑わず、殆どのサラリーマンは脱サラなんて考えていなかったと思います。


その状況の中で、経営者側に毎年ベア(ベースアップ)要求をしていたんですから、今から思えば古き良き時代でした。


現在は会社の存続そのものが問われる時代ですし、株主ファーストのトレンド・・・労使双方が対決している場合ではないはず。


むしろ両者が団結しなければ生き残れない現在のメーデーって、一体どんな雰囲気なんでしょう?


組合活動華やかなりし頃しか知らない私は、逆に興味が湧きます。

でも共産党ら左翼政党の主張は、昔も今も殆ど変わっていないのでしょうネ。


ところで話は変わりますが、映画やドラマ等で飛行機のパイロットが


「メーデー、メーデー。 こちら○▼◇※・・・」


と無線で交信するシーンがありますょネ。


このメーデーは英語の“May Day ” ではなく、仏語の“m'aider で 「助けて!」 という遭難信号なのだそうです。


決して労働者の叫びではありませんので、お間違えのなきよう。あせあせ


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