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【葬儀屋時代の思ひ出】  末 期

70歳代で亡くなられたお父様には、2人の息子さんがいらっしゃいました。


奥様の体調が優れなかったこともあり、喪主は金融機関にお勤めの真面目そうなご長男が務められることに。


迎えた通夜当日の午後4時過ぎ、式場内の準備真っ最中だった私に顔を赤らめた見たことのない男性が近づいてきて・・・。


「葬儀屋さんさぁ、この辺にお酒売ってるところないかなぁ?」


「は、はぁ?」 


通夜の開式前に酒屋さんの場所なんて聞かれたことがなかった私は、一瞬呆気にとられましたが、

「少し離れてますけど、コンビニならありますょ。」

と、場所をお教えしました。


「おぅ、ありがとナ!」


といって式場を出て行く男性を見守りながら、そばにいらした喪主様にどなたかお聞きすると、苦笑まじりに


「あれ、私の弟ですワ。」

というお答え。 
何でも建設関係の会社にお勤めで、大変お酒好きの方なのだそうな。


(だけど、今からそんな飲んじゃって・・・大丈夫かなぁ?)  


と、何となく不安な私・・・。


さて仏式葬においては、『末期の水』 を差し上げる儀式があります。


一般的にはご遺体をご自宅にご安置した際にご遺族・ご親族に執り行っていただくものですが、今回は遠方にお住まいのご親族が多かったため、通夜開式前に式場で執り行うようご提案しました。


午後4時30分を過ぎてご親族の皆様が式場に集まってこられましたが、弟さんの姿が見えません。

「弟さんが戻ってこられるまでお待ちしましょうか?」


と喪主様にお聞きしましたが、「いえ、始めてください。」 とのこと。


周りのご親戚からも、「ったく、相変わらずしょ~がねぇヤツだなぁ。」 とヒソヒソ声が・・・。


「それでは始めさせていただきます。」


喪主様から順次故人様のお口に、脱脂綿を巻きつけた割り箸を使って故人様の口にお水を差し上げていただきました。


あと2,3名で終了・・・というところで、突然式場の扉がガラガラッと開き、弟さんが駆け込んでこられました。


「いや~、悪い悪いっ!

コレ買いに行ったら、帰りに道迷っちゃってサ~。」


という弟さんの手には、ワンカップ大関が・・・。  

            
           


「あいつ、こんな時に酒なんか買いに行きやがって・・・」


と訝るご親族に目もくれず、弟さんは一直線にお父様の棺に突き進み、呆然と立ち尽くしていたご親族の手から綿棒を取り上げると、


「オヤジ~、大好きな日本酒買ってきたゾ~! 


 飲みたかったろ! 今オレが飲ませてやるからナ~!」


と、蓋を開けると脱脂綿に日本酒をタップリ含ませて、


「どうだオヤジ~! 美味ぇだろ~!?」


と泣きながらお父様の口に持っていかれました。


その姿を黙って見ていたご親族から、誰とはなく 「なぁ、もう1回みんなでお酒あげようよ。」 という声が・・・。


その瞬間、私は式場内の空気がピシッと一気に引き締まった、というかご親族の気持ちが一つにまとまったように感じたのです。


さっきまで白い眼で弟さんを見ていたご親族の方々は、もう誰も文句を言うことはなく、再度喪主様から順番に粛々と日本酒を差し上げたのです。

その日の通夜は大変に気持ちのこもった、酔い モトイ 良い雰囲気のお式となりました。笑3


式終了後は弟さんの勤務先の社長さんや同僚が、まるでご遺族のように棺に寄り添い、合掌する姿も・・・。


翌日午前9時過ぎに式場に来られた弟さんの顔色は、前夜の酒が抜けなかったのか真っ赤。 ご出棺の際には、最後まで


「オヤジィ~!」


と叫びながら柩にすがりつかれ、会葬者の涙を誘っていました。


良いご葬儀になるかどうかは、参列した方々のお気持ち次第・・・そんなことを、弟さんの姿を拝見しつつ再認識した次第です。

きっと故人様も、天国で 


「おうっ、ワンカップ旨かったぜ!」 


と喜んでおられたことでしょう。笑2


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発 覚

都内某マンションに奥さんと暮らすSさんには、愛人がおりました。


当然それが奥さんにバレたら大変・・・Sさん、愛人の住まいには普段使う石鹸や化粧品を揃えさせ、〝寄り道〟がバレないように細心の注意を払っていたそうな。


幸い(?)にも関係がバレずに数ヶ月が過ぎ、少し気が緩んだ某日。


いつものように愛人宅に寄ってからタクシーに乗って深夜にご帰還・・・ドアを開けると、そこには奥さんが立っていました。


「お帰りなさ~い。」 


にこやかに迎えてくれた奥さんは、玄関で靴を脱ごうとするSさんを制止して、こう言ったのです。


「あなた、ちょっとワイシャツの袖をめくってちょうだい。」


今までそんな事を言われたことのないSさん、怪訝に思いながらも逆らえず、左手の袖をめくって


「ほら、めくったゾ。 それで・・・」



        腕


言い終わらないうちに、奥さんはその手を掴むや・・・何と、腕の内側をペロッと舐めたのだそうな。


「おっ、おい。 何するんだョ。」


慌てて手を引っ込めながら驚くSさんに冷たい視線を浴びせながら、奥さんは一言。


「しょっぱくないワ。」


「はぁっ?」


「1日仕事して帰ってきて、汗ひとつかいてないって、おかしくない?


どこで風呂入ってきたのョ! 正直におっしゃい!怒


全く想定外の詰問に、動揺を隠せないSさん・・・結局玄関先で浮気を自白、その場で土下座をさせられる羽目に。


いやァ、女性って凄いですょねェ。

私には想像すらできない〝浮気判別法〟。


しかしSさん、その後も愛人宅の寄り道は止めなかったとか。


えっ、〝腕ペロリ〟をどうやってかいくぐっているのかって?


彼、それからはすぐに帰宅せず、タクシーを降りたら自宅マンションを全力疾走で1周し、一汗かいてからドアを開けるようにしたんですって。


涙ぐましいというか、呆れるというか・・・。 


身に覚えのある(?)男性諸氏、そしてご主人の行動が怪しいと感じている奥様、双方のお役に立ちますでしょうか? この実例は。


※なお、これはS氏本人の口述を再現したものであり、決して私自身の体験談ではありませんので、念のため。😅


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持 戒

三重県にある、志摩観光ホテル・・・そこに、かつて高橋忠之さんという伝説のシェフがいました。

高橋さんは弱冠29歳で同ホテルの料理長になりました。

その時に2~3,000円で出していたメニューを全て変え、全重役の反対を押し切って晩餐メニューの価格を3倍にするんです。


そうしたら、志摩観光ホテルにはその料理を食べにお客さんが集まってくるようになって、ものすごく発展したのです。

高橋さんは偉い人です。

15歳で中学を卒業して志摩観光ホテルに入社した時に、いろいろな先輩を見て、こう思うんですね。

「自分はここで働く限り、してはならないこと、しなければならないこと、この2つに徹していこう。」

「してはならないこと」とは何か?

当時の料理人の世界というのは、料理長には業者から、いろいろと付け届けが渡される風習があったそうです。


それを使われる身でじ~っと見ていて、高橋さんは「こんなことはしてはいけない」と思うんです。

自分がもし料理長になっても、これは絶対にしてはならないことだ、と。

それとは逆に、もっとしなければならないことはしていく。

そういう人だから、若くして料理長になるわけですね。

これが〝持戒〟です。

       

          2019年に77歳で亡くなられた高橋さん


態度というのは大切です。

うち(致知出版社)の社員でも、朝起きたままの顔で会社に来る者がいる。

朝起きると気分は毎日違うでしょう。

起きたままの嫌な気分で、不機嫌な顔をして出社する人間がいるわけです。

私(藤尾社長)はそういう社員を怒るんです。

「起きたままの気分で会社に来るな!
会社は戦場だ、 起きたままの気分で会社に来るのは失礼だ。」

でも私自身、20代の頃はそうだったんです。
朝起きると気分がすぐれない、何か乗らない日がありました。
そのままの気分で会社に行ってました。

顔を洗っても半分寝ているような感じで、嫌な気分のまま会社に行く。 だから不機嫌です。

こんなことをしてちゃいかんなぁと思っていた時、たまたま読んだ経営者の本に

「自分は毎朝5時に起きて水をかぶって会社に行く」

と書いてあったんです。

ほぅ、こういう人がいるのかと思いました。

私は、いいと思ったことはすぐに真似をするんです。
その時も観「よし、実行しよう!」と、の翌朝から水をかぶりました。

27,8歳の頃です。

冬でも水をかぶった。 頭から3杯、腹に1杯。

そうしたら、もやもやした気分や嫌だなあという邪気がポーンと消えていくんです。

それで「よし、今日も頑張ろう!」という気分になるんです。

それから私はずーっと水をかぶっているんです。

よしっ!と言う気分になる。 体からパッと気力が出てくる。

これが私の〝持戒〟です。

皆さんの中にも、起きたままの気分で会社に行っている人がおられると思いますが、

「自分はこうしよう、こうしてはならない。」
「起きた時の気分で会社へは行かない。」

と、自分で持戒を持つことがとても大事だと思います。


               ※『小さな経営論』(致知出版社・刊)より抜粋・編集にて


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マンモス

現在のようなデフレ不況とは全く真逆・・・東京オリンピックを開催して戦後復興を成し遂げ高度経済成長を続ける昭和40年代の我が国において、東京への人口集中と共に問題となったのが住宅の不足でした。


その深刻な住宅難と共に都心部の地価は急上昇。

庶民にとって東京に一戸建てを手にするのが夢のまた夢となる中、
東京都西南部の多摩丘陵に位置する八王子・町田・多摩及び稲城の4市にわたる総面積2,853ha、東西14km、南北2~3kmの地域で開発されたのが、


 多摩ニュータウン

    


この計画人口約34万人という世界最大の団地に入居が開始されたのが、今からちょうど50年前の今日・1971(昭和46)年3月26日のことでした。


    

               1972年頃の多摩ニュータウン


(※もうひとつ〝夢の住宅地〟といわれた高島平団地に入居が始まったのは、翌1972年。 ↓)



1965年に計画された同団地は翌年に認可されて建設が開始され、多摩市諏訪・永山地区から入居が始まり、以後徐々に開発・入居が続きます。


安く良質な住宅を大量に供給する」という時代で、箱形の中層住宅(5階建て)が横並びに何棟も建設され、ポイントには高層住宅(14階建て)も建設されました。


また1974年には京王帝都電鉄(現・京王電鉄)や小田急電鉄が新規乗り入れして都心への通勤手段が整備され、人口も急増。


大阪の千里ニュータウンなどと共に都市計画のモデルに。


私自身は仕事で何回もこの多摩ニュータウン近辺に行ったことがありますが、結構アップダウンのある丘陵地帯で道が曲がりくねっており、目的地を中々探せなくて苦労した記憶があります。


そんな私が多摩ニュータウンで思い出すのは、このアニメ映画。


 『平成狸合戦ぽんぽこ』


    


1994年に公開されてヒットしたこのスタジオジブリ製作の映画は、開発が進む多摩ニュータウンを舞台に、多摩丘陵に住むタヌキたちが長老や助っ人たちの力を借り、化学(ばけがく)を駆使して人間に抵抗する様子を描いたもの。


可愛いタヌキたちが活躍するアニメとはいえ、子供には理解できないような大人向けの作品で、最後はちょっと笑えませんでしたが・・・。


さて、タヌキたちの住処を奪って(?)作られた多摩NTも開発から半世紀経過した今、そこで育った子供達は独立して家を離れ、残った親たちの年齢は80歳以上。

1989年には僅か5%だった同地の高齢化率は、現在約25%に上昇。


今では巨大老人ホームと化した感があり、エレベーターのない旧型団地では上層階に住む高齢者にとって辛い住環境になっています。


大学の誘致などで若年層の流入を進めるなどしてはいますが、建て替えを含めた団地や街のリニューアルは避けて通れない課題。


前述の高島平団地を含め、おそらく住民の高齢化・過疎化・孤独死は日本全国どこの団地でも抱える問題のはず。


かつては夢のマイホームといわれたマンモス団地が今後新たなタウン開発のモデルとして再生できるかどうか、正念場を迎えているといえましょう。

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脱 亜

今から136年前の今日・1885(明治18)年3月16日、『時事新報』 という新聞に


 脱 亜 論


と銘打たれた、字数2,200・400字詰原稿用紙5枚半分の社説が掲載されました。


       

当日は無署名だったものの、後日 『続福澤全集』 に収録されたことで、執筆者が慶應義塾の創始者・福澤諭吉先生であることが判明したこの主張は、現在日本の隣国との関係を予見したかのような内容であり、私は大いに頷けるものだと思います。

時事新報自体、福澤先生が1882(明治15)年に創刊した新聞。


元々慶應義塾は1881(明治14)年から朝鮮人の留学生を受け入れており、福澤先生は彼らを通して朝鮮への理解を深めておられました。

そして朝鮮への文化的誘導の必要性を感じ、来日した朝鮮使節の依頼に応じて慶応義塾の門下生数名を紹介し、新聞を発行させるべく現地に派遣。

しかし一旦は認められた発行が守旧派の巻き返しにより頓挫し、また清国からの圧力により一人が帰国させられる事態に。

また朝鮮内の内乱により独立党の幹部やその家族が残忍な処刑によって殺害されるに至り、福澤先生は朝鮮および清国に対し大きな絶望感を抱いた中、この小論文が書かれたものと推察できます。


        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


その『脱亜論』 を以下に現代語訳・抜粋にてご紹介致します。

          ◆     ◆     ◆     ◆


世界の交通の道は便利になり、西洋文明の風は東に進み、至るところ、草も木もこの風になびかないことはない。


 (中 略)


近代西洋文明が日本に入ったのは、嘉永の開国を発端とする。


国民はようやくそれを採用するべきことを知り、しだいに活発の気風が生じたものの、進歩の道に横たわる老害の幕府というものがあり、これは如何ともし難かった。 


ここにおいて、我が日本の人士は、国を重く、幕府を軽いとする大義に基づき、また、幸いにも神聖なる皇室の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し新政府を樹立した。

幕府を保存しようとすると、文明は決して入ってくることができない。


なぜかといえば近代文明は日本の旧体制と両立するものではなく、旧体制を改革すれば、同時に幕府も滅亡してしまうからである。


だからといって、文明を防いでその侵入を止めようとすれば、日本国の独立は維持できなかった。


なぜならば、世界文明の慌しい情勢は、東洋の孤島の眠りを許すものではなかったからだ。 


官・民の区別なく、国中が一切万事にわたって西洋近代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではない。


アジア全域の中にあって一つの新機軸を確立し主義とするのは、ただ脱亜の二字にあるのみである。


日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習を脱し西洋の文明に移っている。


しかし不幸なのは、支那と朝鮮という2つの隣国があることである。


この2国の人民も古来よりアジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、我が日本国民と異ならない。


だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗の中にありながら遺伝した教育に違いがあるためか、日・支・韓の三国を比較すると支那・韓国は日本よりかなり近いのである。


この二国人たちは、自分の身の上についても自国に関しても、改革や進歩の道を知らない。


交通便利な世の中にあっては文明の進化を見聞きしないわけではないが、その見聞は心を動かすことにならず、古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔と同じだ。


現在の急激な文明発達の時代に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。


そればかりか、道徳さえ地を掃いたように消えはてて残酷破廉恥を極め、なお傲然として自省の念など持たないようだ。


筆者からこの2国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあって、とても独立を維持する道はない。


 (中 略)


「輔車唇歯」とは隣国が相互に援助し合う喩えであるが、今の支那・朝鮮は我が日本のために髪一本ほどの役にも立たない。


のみならず、西洋文明人の眼から見れば三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・韓国の評価で我が日本を判断するということも有り得るのだ。


例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制で法律が信頼できなければ、西洋の人は日本もまた無法律の国かと疑うだろう。


支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。


支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。


事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。


(中 略)


その影響が現実に表れ、間接的に我が国外交上の障害となっていることは少なくなく、日本国の一大不幸というべきである。


それ故現在の戦略を考えるに、我が国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのだ。


むしろその仲間から脱出し、西洋の文明国と進退を共にし、支那・朝鮮に対する接し方も隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人が彼らに接するように処置すべきである。


悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。


筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。


          ◆     ◆     ◆     ◆


時代の相違や福澤先生の当時の感情が移入しているため、一部現代と馴染まない表現はありますが、隣国に対して日本が取るべきスタンスを誠に鋭くかつ的確に見抜かれていると思います。

脱亜の亜とは、アジア全ての国ではなく、支那・朝鮮を指す・・・そう考えれば、全く違和感がありません。

よく 「お隣り同志なんだから、仲良くすべき」 と仰る方がいらっしゃいますが、全ての人が隣人と仲良くしているのでしょうか?


またそうしなければ、日常生活で何か支障があるのでしょうか?


いや更に言うなら、隣同士仲が良い国なんてあるのでしょうか?

もしあるなら、なぜ国境があるのでしょう。

私はお隣さんであっても理解し合えなければ、個人であれ国家であれ、交流を絶っても構わないと思います。

日本で起業して儲けたくせに、日本人をバカにする支那人や、東日本大震災発生後のサッカー試合でこんな垂れ幕を出す朝鮮人とは、特に。(↓)

    

    

そしてたとえ距離が遠くても、親日国をもっと大切にして親密に付き合うことが外交上有益だと思うのですが・・・皆さんはどうお考えでしょうか?


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DKB

言わずもがなですが、今から10年前の今日・2011年3月11日に東日本大震災が起きました。

〝10年ひと昔〟と言いますが、私を含め皆さんにとっても昔のことでは片づけられないはず。

犠牲者のご冥福をお祈りすると同時に、あらためて大地震に対する備えを再点検したいものです。

           ◆     ◆     ◆     ◆

さて、今日のブログ・タイトルは私のような中高年世代には懐かしいですが、若い方は聞き覚えがないでしょうネ。


それは、今からちょうど50年前の今日誕生した、


 第一勧業銀行(DKB)

国内資金量第6位だった第一銀行と、同8位だった特殊銀行の日本勧業銀行による、戦後初の都市銀行同士の合併でした。

(この合併には当初神戸銀行も加わる予定でしたが、結局は離脱し2年後に太陽神戸銀行と合併して太陽神戸銀行が誕生しました。)


この合併により、同行は当時総資産第1位だった富士銀行を抜いて国内最大の都市銀行に。

2つの銀行はこの合併につして、


「第一の店舗は東京圏中心で、融資先には重化学工業が多い。


一方、勧銀の店舗は地方部にも分散しており、融資先には中小製造業及び流通・運輸・小売業が多い。

このため補完効果が高いうえ、互いに中位行でかつ非財閥系であり、対等合併が可能である」

とその意義を説明。 そして大蔵省も、

「規模の利益を生かし、経営基盤の強化を図り、さらに国民経済の要請に応えることは、金融効率の趣旨に適うもの」

と評価し、実現に至りました。

自ら〝ハートの銀行〟と銘打っただけに、シンボルマークは赤地に白のハートマークで、街の看板や通帳にもこのロゴが入りましたから、見覚えのある方も多いはず。

       

私自身損保会社に就職して最初に配属されたのが、東京・銀座営業所でしたが、その周辺に何店舗かの同行支店があり、月末になると上司に命じられて数千万円の現金をアタッシュケースに詰め込んで、各店舗に預金しに歩き回ったものです。

今から考えれば、よくそんな物騒というか不用心なことをしていたものですが・・・。

確かに画期的な合併ではあったものの、全く系列が違う銀行同士の縁組だっただけに、その人事交流は大変だったそうな。

旧第一銀行は第二次大戦中に三井銀行と合併して帝国銀行となったものの、両行の業務・企業文化の違いから再分裂したという苦い経験から、この合併に際しては頭取や支店長が第一出身なら後任は勧銀出身者、という具合にたすき掛け人事を採用。

人事部も第一・勧銀で別々に置かれたそうですから、中々両行出身者同士が融和できなかったはず。

おそらくそのシコリがなくなったのは、行員が合併後の第一勧銀に入社した人ばかりになってからでは?

そして同行が激震に見舞われたのは、1997(平成9)年。

総会屋に対する巨額の利益供与事件が発覚。

本店が東京地検特捜部によって家宅捜索され、頭取以下11人の役員が逮捕されるという前代未聞のスキャンダルに。

この事件については、同年に
出版された経済小説『金融腐蝕列島』(高杉良・著)やその続編、また映画化もされましたから、ご記憶の方も多いはず。

この不祥事もあって、同行は2000(平成12)年9月、富士銀行・日本興業銀行とでみずほホールディングスを設立し、3行はその完全子会社になりました。

 ※メガバンクの合併に関する過去記事は、こちら。(↓)

第一勧銀といえば、私が思い出すのは宝くじ。

同行の元宝くじ部長が書いた本も面白く読みましたが、高額当選者はちょうど私が社会人になった1981(昭和56)年に完成した日比谷にある本店ビルに受け取りに来ていたそうな。

        

現在はみずほ銀行の内幸町本部ビルとして使われているそうですが、写真右下にある時計台には、DKB時代のハートマークが・・・。

このビルの前を車で通過した際にコレを見るたび、私は大金を持ち歩いた若かりし頃を懐かしく思い出すのです。


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トイレの神様

・・・という歌が以前流行りましたが、今日はその話ではありません。

ソニー創立者の1人、井深大氏が昔経験した実話です。


 ※井深氏に関する過去記事は、こちら。(↓)


          ◆     ◆     ◆     ◆

ソニーの社長時代、最新鋭の設備を備えた厚木工場が完成し、世界中から大勢の見学者が来られました。

しかし一番の問題だったのが、便所の落書きです。

会社の恥だからと工場長に止めさせるよう指示を出し、彼も徹底して通知した。

それでも一向になくならない。

そのうちに〝落書きをするな〟という落書きまで出て、私もしょうがないかなと諦めていた。

するとしばらくして工場長から電話があり、「落書きが無くなりました」と言うんです。

どうしたんだ?と尋ねると、パートで来てもらっている便所掃除のおばさんが、蒲鉾の板2,3枚にある言葉を書いて張り付けたことが原因だったというのです。


さて皆さんが掃除のおばさんだったら、どんな言葉を書いて落書きを止めさせるでしょうか?


       


彼女は、こう書き記したそうです。

「落書きをしないでください。 ここは私の神聖なる職場です。」

この言葉で、ピタッと落書きがなくなったのです。

この落書きの件について、私も工場長もリーダーシップを取れなかった。 パートのおばさんに負けました。

その時に、リーダーシップとは上から下への指導力・統率力だと考えていたのが誤りだと分かったんです。

以来私はリーダーシップを〝影響力〟と言うようにしました。


          ◆     ◆     ◆     ◆

リーダーシップとは、上から下への統率力だけではなく、上司・部下・同僚etc・・・その方向は上下左右なんですネ。

上司を動かせない人は、部下や周囲を動かすことはできない、ということ。

厚木工場のトイレでは、パートのおばさんこそが神様・・・いや、リーダーだったのです。


                     ※一流たちの金言』(致知出版社・刊)より抜粋・編集にて  


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「一国は一人を以って興り 一人を以って亡(ほろ)ぶ」

宋の優れた学者・蘇老泉の言葉である。

一つの国はどういう将がいるかによって発展もするし滅びもする、というのである。

大は国家から小は家庭まで、例外はない。

「其の人の存すれば即ちその政(まつりごと)挙がり、其の日との亡すれば即ちその政息(や)む。」

『中庸』 も同じ事を説く。 将の役割は重大である。

将と言えばこの人を想起する。 住友生命中興の祖といわれる、故・新井正明氏(元社長・会長)である。

ノモンハン事件で右足を失った身ながら、自転車の荷台に乗せてもらって陣頭指揮に東奔西走、社員の心を一つに結び、業界11位だった同社を第3位に躍進させた人である。

どこにいても自然に人に推され、その組織体の長に就いた人であった。

その新井氏が常に座右に置いたのが、『論語』 であった。
中でも全身を貫く教えと実践に励んだのが、次の一語である。

「その身正しければ令せずとも行わる。
 その身正しからざれば令すといえども従わず。」


氏は言ったものである。

「自分が正しいことを一所懸命やっていれば命令しなくても人もその通りに行う、と言うことですが、本当のところ、こちらが言わなければなかなかやってくれません。

しかし、その身正しからざれば令すといえども従わず、というのは真理です。」

ある時、氏が洩らされたことがある。

「今も義足の付け根が痛む。 だが、それを表情に出せば会長は機嫌が悪いと社員が思うから、努めて出さないようにしている。」

       

「春風を以て人に接し秋霜を以て自ら粛(つつし)む」

(人に接するには春風のような気持ち良い態度で臨み、自分に対しては秋の霜が実を引き締めるように厳しく慎む)

佐藤一斎の言葉をそのままに実践し、常に精進を怠らず人格を練り上げていく姿がそこにはある。


これこそ将の条件であろう。

新井氏だけでなく、多くの優れたリーダーの姿勢から将の条件をまとめると、次のように言えるのではないだろうか。

一、将は勝つことを以て本旨とせよ、ということである。
      負けることもあると考える将は、その立場から去らなければならない。

二、将は常に自らを修め、自らの姿勢を正さねばならない。

三、先の二つの条件に深く関連するが、その組織に属する人たち全員の意欲と能力を発揮せる人望を持たなければならない。

塩野七生さんは、二千年前の古代ローマの将の研究をライフワークとしているが、その塩野さんは将の第一条件に〝知力〟を挙げる。

なるほどと思う。

戦略戦術を立てる能力も、判断力・決断力も、いや実行力もまたその根底にあるのは知力である。

将は人の心の身ならず、天地の心を知る知力の人でなければならない。

将の道は任重く、そして遠い。

                
※『小さな人生論4』(致知出版社・刊)より一部編集にて


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復 讐

映画やドラマ、歌舞伎や講談などでよく描かれ、日本人の琴線に触れる出来事といえば、

 仇討ち(敵討ち)

その代表例といえば、曽我兄弟の仇討ちや忠臣蔵でしょうか。

 ※曽我兄弟に関する過去記事は、こちら。(↓)



しかし現在は法律によって仇討ちができないことは皆さんご承知の通りですが、ではいつ禁止されたのか?

それは今から148年前の今日・1873(明治6)年2月7日に、明治政府が 『復讐ヲ嚴禁ス(敵討禁止令)』 を発布してから。

敵討ちとは、基本的に子が親の仇を討つなど、血縁関係にある目上の親族のために行う復讐を指します。

(その意味では、赤穂浪士の討入りは敵討ちではなく単なる復讐?)


歴史的には 456年に起きた〝眉輪王の変〟という仇討ちの記述が『日本書紀』 にありますから、古くから行われていたようです。

そして武家社会となった鎌倉時代以降、仇討ちは数多く行われるようになり、江戸時代に入ると幕府によって法制化されました。

と言っても、それは加害者が行方不明になるなどの要因で本来処罰すべき幕府や藩が手を下せず、やむなく被害者の親族に処罰を委ねる形。

しかも仇討ちが認められたのは父母や兄など尊属の親族が殺害された場合に限られ、妻子や弟・妹など(の姻族や卑属)に対するものは認められなかったそうな。


そして武士の場合は主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要となり、奉行所はその内容を敵討帳に記載し謄本を受け取ることで公認されたとのこと。

もし武家の当主が殺害されたら、その嫡子が仇討ちをしなければ家名の継承が許されなかったといいますから、武士も大変です。

また中には無許可の敵討ちもありましたが、役人が吟味して敵討ちと認められない場合は、殺人罪で罰せられたとか。


もちろん武家以外の仇討ちはありましたが、それはむしろ賞賛されることも。

当時の瓦版では、その仇討ちの模様が報じられ、庶民の注目・人気を博したようです。



また妻が姦通した際に姦通相手と妻を殺害することを女敵討(めがたきうち)といい、江戸時代中期に届け出られた仇討ちの半数はコレだったとか。

「江戸時代に生まれなくて良かった~」 と胸をなでおろす不倫カップル、少なくないかも?

この仇討ちに関し、その研究をライフワークとされていたという時代劇の脚本で有名な長谷川伸さんが書籍を出されていますので、興味のある方はご一読を。

    

さてこの仇討ち、現在は認められないとはいえ、その代わりに裁きを下す司法が明らかに加害者を優遇しており、被害者が泣き寝入りするケースが多いように感じるのは、私だけではないでしょう。

自分の身内が殺されたら仇討ちを認めた江戸時代以前の方が、現在より人権を平等に扱っていた・・・とは、言い過ぎでしょうか?


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R R

「最高級の自動車といえば、何?」・・・そう問われたら、皆さんはどんなブランドをイメージするでしょうか?

私なら、迷わずこの名を挙げます。


 ロールス・ロイス
    Rolls-Royce  


イギリスが誇るこの自動車・重工業メーカーが設立されたのは、日露戦争が終わった翌年・1906年3月のこと。


社名は、2人の創業者チャールズ・スチュアート・ロールズ(1877-1910)とフレデリック・ヘンリー・ロイス(1863-1933)に因んで命名されたもの。

    

       Charles Stewart Rolls   Sir Frederick Henry Royce


ケンブリッジ大学在学中からモータースポーツに関わりレースにも出場していた、いわゆる〝カーキチ〟だったロールズと、9歳から苦学を重ねて電気技術者となったロイス。


この対照的な2人が出会うきっかけになったのは、1904年にロイスが製作した 〝ロイス10HP〟 という小型車にロールズが試乗したことでした。


その性能の高さに惚れ込んだロールズがロイスに販売を一手に引き受けたいと申し出、それをロイスが了承したことで同社が誕生することに。


会社設立翌年に発売された6気筒の新型車〝シルバーゴースト〟が高い評価を受け、ロールス・ロイスの名は世界に知れ渡りました。


「価格を無視しても、品質は存続する 」 というロイスの言葉通り細かいパーツにまで拘り抜いた自動車は非常に高価だったものの、 〝世界最高の自動車〟と銘打って売り出されたことで逆に世界各国の王侯貴族・富豪に愛され、日本でも大正天皇の御料車に。


    
       
御料車にも使われたシルバーゴースト(同型車)


この頃から世界最高級ブランドとして広く認知されました。


1台で4~5千万円、特注のオプションをつければ1億円前後もする自動車は、まさに〝走る一戸建て〟。


クラシックな風格あるフォルムと、ブラックとシルバーに輝くエンブレム、それにボンネットの先端に鎮座ましますマスコット〝スピリット・オブ・エクスタシー〟を一目見れば、すぐロールスロイスと分かります。


今でも路上でこのクルマを見かけると、万が一にもぶつけたくない私は本能的に車間を開けてしまいます。😅


         ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


1931年にベントレーを買収し傘下に収めた同社でしたが、1939年に第二次世界大戦が勃発すると自動車生産を休止し、航空機エンジン製作など軍需産業に特化。


しかし終戦後1960年代に開発したジェットエンジン〝RB211〟 にトラブルが続出。

その開発費が重くのしかかり、同社は今からちょうど50年前の今日・1971年2月4日に経営破綻してしまったのです。


しかし国有化され、ブランドだけは守られました。


1973年に分社化、自動車部門 『ロールス・ロイス・モータース』 はイギリス大手自動車メーカー・ヴィッカーズ社に売却され、その後独フォルクスワーゲン社に売却された後、現在はBMW社(が設立した別会社)がロールス・ロイスのブランドを残して生産を続けているとのこと。


BMWが製作したR・R・・・ちょっと複雑な気分ですネ。うー


ジェットエンジン製造などの工業部門は、その後サッチャー政権下で再び民営化され、現在は 『ロールス・ロイス plc』 社として現在も存続しています。


企業形態は一世紀余りの間に大分変遷してきましたが、ブランドは大切に維持され続けているんですネ。


決して路上では近づきたくないロールスロイス車ですが、一度でいいから運転手付きで最新型ファントムのリムジンに乗って、ゆったりとバカラのグラスに注いだスコッチを楽しむ・・・これが私のささやかな夢のひとつです。笑2

 

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