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有耶無耶

将棋ファンの私にとって、それは少なからずショックを受けた出来事でした。 

それは今から26年前の1993(平成5)年11月22日に起きた


 森安秀光九段刺殺事件

つまり今日は、森安九段の二十七回忌にあたります。

       

森安九段は、1949(昭和24)年に岡山県笠岡市で生まれました。

小学校6年生の時に兄・正幸さんと共に奨励会に入会し、1968年には兄より一足早く四段に昇進。

新人王戦で優勝するなど、関西棋界のホープとして脚光を浴びました。

1980年にはA級八段となり、トップ棋士の仲間入り。

〝森安だるま流〟と呼ばれる粘り強さを信条として、1983年には棋聖戦に勝ち初タイトルを獲得。


しかし翌年A級から陥落し、一時はB級2組まで落ち低迷しましたが、1988年に九段に昇進し復活の兆しが見えてきた矢先に、事件は起きました。


1993年11月23日午前9時前、西宮市にある自宅書斎で森安九段がされて死んでいるのを妻が発見。(死亡推定時刻は22日午後5~6時)

警察に通報しようとしたところ、包丁を持った当時12歳だった中学1年生の長男に襲われ、首に全治2週間のケガを負います。

それでも気丈に包丁を奪うと、長男は


「ボクの逃げ場がないんや」

と絶叫して、そのまま家を飛び出しました。

妻は隣家に警察への通報を依頼し、事件が発覚。


    

警察が長男の行方を追い、翌24日午後2時過ぎ、自宅から約7km離れた行きつけのファミコンショップで発見・保護されました。

警察の取り調べに対して、長男は母を刺したことは認めたものの、受験勉強を厳しく強いていたという父親を批判する供述はしたものの、刺殺についてはは「知らない」と一貫して否認。


そして翌年1月に西宮児童相談所が長男の処遇を決定すると、森安九段を殺したのが誰か分からないまま、事件に関する報道は示し合わせたように一切されなくなりました。

誰が考えても犯人は長男なのに、そう断言するメディアはなく、また少年法に護られて児相がどんな処遇をしたのかも不明のまま、事件は風化しています。

当時より少年犯罪に世間が厳しい目を向ける現代では、実名や顔写真がネット上で拡散されるのでしょうが・・・。

おそらく生きているであろう長男は、現在38歳。
果たして、どこで何をしているのやら?


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触 雷

1939年9月、ポーランドに侵攻したドイツに対しイギリス・フランスが宣戦布告したことで始まった、第二次世界大戦。

しかしその後も日本は商船を欧州航路で運航していたのですが・・・その中の


てる  くに  まる
照 国 丸


が機雷に触れて沈没したのが、今からちょうど80年前の今日のこと・・・これは第二次世界大戦勃発後に日本が喪失した最初の、そして日本が開戦する前に唯一沈没した商船でした。


  


大正時代、日本郵船は箱根丸級の船舶を4隻欧州航路に就航させていましたが、欧州各国の同業他社が新型の大型客船を導入したことで集客力が低下。

それを挽回すべく、1930(昭和5)年6月に全長160.59m、11,931トンの大型船・照国丸を就航させ、同クラスの靖国丸と2隻を従来の4隻に加え、横浜~ロンドン間で月2回の航海を行わせました。


照国丸の船内は基本的に洋風の装飾を施しましたが、特別室内には松田権六の蒔絵を取り入れるなど和風のインテリアを多用したことで、外国人にも好評だったとか。

そして同船は、前述の宣戦布告が行われた直後の9月24日に横浜港をイギリスに向け出港。

11月上旬にフランスのマルセイユに到着すると、ここで乗客の殆どが下船。


船内に残ったのは、乗客28名と乗組員176名のみとなりました。

しかしジブラルタル海峡では英仏の軍艦が行き来し、たびたび浮遊機雷警報が発せられたため、照国丸は見張りを増員したり乗客に対する避難訓練も実施するなど、船内は緊張状態に。

そして11月15日にモロッコのカサブランカを出港した同船は、予定より10日遅れ11月19日にイギリスのダウンズ泊地に到着。

本来ならばここで積荷検査を済ませた後にテムズ川沿いのロンドン港に入る予定でしたが、英海軍が機雷を発見したため航路を閉鎖。

翌日掃海作業が行われ閉鎖が解除されたため、照国丸は11月21日朝、指定された北航路を通ってテムズ川河口に向け、15ノット(時速27.8km)で進行。

見張りを5名増員して厳戒態勢での航海だったのですが、同日午後1時前・・・北緯51度50分・東経1度30分のハリッジ沖で触雷により突然船体に大きな衝撃が。


    

その直後照国丸は大きく右に傾き、船首から沈み始めました。

船長は一旦機関停止命令を出しましたが、沈没を防ぐべく深度の浅い海岸に座礁させようと機関再始動を試みるも、エンジンは始動せず。

航行不能となったため船長は即時退去命令を出し、船体が激しく右に傾く中、船員は迅速に救命艇5隻を降ろし、照国丸は沈没したものの乗客・乗組員全員の救助に成功しました。

この辺り、船長や乗組員が乗客をほったらかして逃げたどこぞの国とは大違いですネ。

しかし日本政府が国際法上の重大な違法行為だとして英独両政府にどちらの機雷が原因だったかの説明を求めましたが、両国とも責任のなすり合いをするばかりで、結局真相はウヤムヤのまま。

泣きをみたのは、日本郵船だけでした。

昔も今も、国際社会に於ける日本の立ち位置は殆ど変わっていないようです。
うー


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巨 人

・・・と言っても、プロ野球の話ではありません。

19世紀を代表する作曲家・指揮者だったグスタフ・マーラー(1860-1911)は生涯に10曲の交響曲を遺しています(※第10番は未完成)が、その中でも演奏時間が比較的短く声楽を伴わないことからコンサートでの演奏や録音が最も多く、また伊丹十三監督作品の映画 『タンポポ』 でも使われるなど、そのメロディーが多くの方に知られている第1番の

 巨 人

がマーラー自身の指揮、ブタペスト・フィルハーモニー交響楽団によって初演されたのが、今からちょうど130年前の今日・1889年11月20日のことでした。


        

                  Gustav Mahler


マーラーがこの曲を創作したのは、1884~1888年の間。

1885年8月にプラハのドイツ劇場の第2指揮者に就任し、1888年10月にはブタペスト王立歌劇場の音楽監督に就任。

ワーグナー作品をノーカットでハンガリー初演し高い評価を受け、更にモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』に至っては、かのブラームスに

「理想的な『ドン・ジョヴァンニ』を聴きたければ、ブタペストに行くべきだ。」

と絶賛されました。

またウェーバーの孫の妻・マリオン・ウェーバーと恋仲になるなど、彼の人生の中では最も充実した時期に書かれた作品といえます。


『巨人』という名は、マーラー自身がつけたもので、これは彼が青春期に愛読していたジャン・パウルの同名長編小説から取ったもの。
ただ曲想そのものとイメージがリンクしているわけではないとのこと。

そのせいか、後にマーラー自身がこの副題を削除しています。
とは言え現代ではそれをつけたまま演奏されたりCDが発売されていますが・・・。


だだこの時の初演は、(よくある話ですが)不評だったとのこと。

これを受けてマーラーはその後何度も手直しをして、初演時には5楽章だった 『ブタペスト稿』(現存せず) を4楽章に短縮。

現在演奏されているのは、その4楽章で初めて演奏された場所に因む 『ベルリン稿』 が基準になっているそうな。

さて、この曲で私が持っているCDは、まず人生で『巨人』・・・というよりマーラーの作品として初めて中学生時代にレコードで聴いた、こちら。


       


指揮者のブルーノ・ワルターは、ハンブルグ歌劇場で音楽監督を務めていたマーラーの下で学んだ愛弟子。

ですからマーラーについて良く知る人物であり、ワルター演奏の録音のために結成されたコロムビア交響楽団とも息がピッタリ。

1961年の録音ながら、リマスター版で音質も良くジャケットもレコードと同じで、私にとっては思い出深い演奏です。


またマーラーに傾倒し、その演奏が高い評価を得ているレナード・バーンスタインの録音。



右が1966年にニューヨーク・フィルの演奏で録音されたもので、それまでワルターくらいしか演奏していなかったマーラー作品にスポットライトを当てた若きバーンスタインの、気迫あふれる演奏。

そして左がバーンスタインが初めて出したマーラー全集の中の1枚で、コンセルトヘボウを振った、1987年の録音。

同じ指揮者でもオケと年代が違うとかなり演奏内容が違うことを実感できます。

さて、ここで我がブログ読者ならお気づきかもしれませんが、私の好きなカラヤンのCDが出てきません。

実はあれだけ多くの楽曲を演奏していたカラヤンなのに、なぜか

マーラーの交響曲第1~3、7、8番は録音していないのです。

この理由については、


◆カラヤンがかつてナチスに入党していたので、ユダヤ系であるマーラーの作品に手を付けたがらなかった。

◆ライバル・バーンスタインがマーラーで売り出したことを妬んだ。

◆初期の作品はまだ粗削りかつ交響曲としては奇形であり、演奏するに値しないと判断した。


等々諸説がありますが、既にカラヤンはこの世にいませんから真相は藪の中。

その理由を皆さんなりに考えつつ、私が最も好きなワルターの演奏を、お聴きください。




どこかで、映画『タンポポ』で主人公のタンポポがジョギングするシーンを思い出すかもしれませんョ。笑2


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2番目

今からちょうど50年前の今日、

 アポロ12号

Apollo 12

の月着陸船が、無事月面着陸に成功・・・アポロ11号が人類初の月面着陸に成功してから約4ヶ月後のことでした。

※アポロ11号に関する過去記事は、こちら。(↓)



同号に搭乗したのは、船長ピート・コンラッド(下写真・左)、司令船操縦士リチャード・ゴードン(同・中)、月着陸船操縦士アラン・ビーン(同・右)の、いずれも海軍出身の3名。


     


同年11月14日、アポロ12号はニクソン大統領が現地に駆け付け見守る中、予定通りケネディ宇宙センターから発射されました。

しかし当日は暴風雨だったため、発射から36.5秒後にロケットに雷が直撃。


更に52秒後に2度目の直撃を受けたため、計器が故障するトラブルに見舞われます。


その危機を管制官ジョン・アーロンとビーン飛行士の経験と冷静な判断・操作によって切り抜けると、同号は予定通り飛行を続行。

1969(昭和44)年11月19日に着陸船イントレビットは無事〝静かの海〟への着陸に成功しました。


11号はアームストロング船長の手動により予定地からかなり離れた場所に着陸しましたが、12号はその課題の一つであった〝目標地点への正確な到達〟を、降下操縦の殆どを自動で行ってほぼ達成。

コンラッド船長が月面に降りた時の第一声は、


「ウヒョー! ニールよりチビの俺にとっては、これは大きな一歩だ。」

という、11号のアームストロング船長の有名な言葉を皮肉ったものでした。

着陸船は31.5時間月面に留まり、2回の船外活動を通して、岩石の採取や原子力で茶道する地震・太陽光・磁場の測定機器の設置、更には以前無人着陸していたサーベイヤー3号の部品を持ち帰るなど、科学的には一定の成果を上げました。

 


ただ反面、初めてカラーのテレビカメラを持ち込みながら誤って太陽光に向けてしまったため撮影できなくなったり、せっかく月面で写真撮影しながらそのフィルム数巻を月面に置き忘れるなど、飛行士のチョンボもありましたが・・・。


宇宙船は89時間月軌道上を飛行した後、地球に帰還。

11月24日太平洋上に着水し、3飛行士は無事生還しました。

(と言っても、ビーン飛行士は着水時のショックで落ちてきた16mmカメラが頭に当たり、6針縫う軽傷を負い、一時気を失ったそうですが。)


それなりのドラマと成果を残した12号ですが、11号の陰に隠れてしまい飛行士の名前さえ憶えている人は殆どいないはず。

やはり2番じゃダメなんでしょうネ。

更に言うなら、次に月面着陸を目指したアポロ13号が船体のトラブルによって奇跡の生還を果たし映画化までされたことも、更に拍車をかけた感が。

その12号の飛行に関しては、その映画 『アポロ13』 (1995年)で主演したトム・ハンクスが製作総指揮と番組内でのナビゲーターを担当したテレビドラマ 『フロム・ジ・アース/人類、月に立つ』(1998年)でその一部を観ることができます。

同番組の再放送を観る機会があったら、この地味なアポロ12号を思い出してください。
笑2

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公 認

今では信じられないことですが、昔は陸上競技においては女人禁制・・・第1回のアテネ五輪でも、陸上競技は男子のみ。

オリンピックで女子の陸上競技種目が登場したのは1928年に開催された第9回アムステルダム大会から。

同大会で人見絹枝選手が日本人初のメダル(銀)を獲得したことは、過去記事でご紹介しました。(↓)

   
https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11513945518.html


ただしマラソン競技に関しては「生理的に無理」という考えが浸透しており、参加は許されませんでした。

その門戸を開いたのは、1967年に世界最古の歴史を誇るボストンマラソンに男性名で登録し、妨害にもメゲず完走したキャサリン・シュワイツァーという女性でした。(↓)



その後ボストンマラソンでは年々非公式ながら女性の参加者が増え、遂に1972年、正式参加が認められました。

そして世界で初めて国際陸上連盟(IAAF)が公認する女性限定のマラソン大会として


 
第1回東京国際女子マラソン

が開催されたのが、今からちょうど40年前の今日・1979(昭和54)年11月18日のことでした。


style="font-family: "MS Pゴシック";">この日は国立競技場をスタートして東京ドーム~東京タワー~皇居~品川駅などを通過し、大森海岸交番前を折り返して再び国立競技場に戻るコースで、参加選手は50名。

小雨の降る悪コンデションの中、水道橋駅前から四谷にかけての高低差が10階建てビルに相当する30mもある世界屈指の難コースを2時間37分48秒のタイムで走り切り、初代優勝者の栄冠に輝いたのは、イギリスのジョイス・スミス選手。

なんと当時42歳で、2人の子供さんがいるママさん選手でした。


     


上の写真で一番右を走っているのがスミス選手ですが、左手にハンカチを持っているのがお分かりいただけると思います。

「道路にツバを吐くのはマナー違反」と考えたスミス選手は、それをハンカチで拭っていたそうですから、なんとも女性らしい気配り・・・。

その行いを勝利の女神が称賛したのか、彼女は翌年の大会も制して2連覇を達成。

一方、第1回大会の日本人選手は2時間48分52秒で7位に入った村本みのる選手が最高。

この大会の2年前からマラソンを始めたという彼女は、38歳で自己記録を11分も縮めたのですから立派。


日本人選手が初めて優勝したのは、第5回大会(1983年)の佐々木七恵選手で、2時間37分9秒。

 ※佐々木選手の過去記事は、こちら。(↓)


https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11943168693.html


その後毎年開催され、歴代優勝者の中には、谷川真理・浅利純子・高橋尚子・土佐礼子・野口みずきら日本を代表するランナーの名がズラリ。

大会のロゴマークも、見た記憶のある方も多いことでしょう。

    


しかし同大会は、東京マラソンと併合されることとなり、2008年の第30回大会で打ち切りとなりました。

その最後の大会で2時間23分30秒のタイムで優勝したのは、尾崎好美選手。(下写真・左)

そしてこの時スターターを務めたのは、初代優勝者のスミスさんでした。(同右)


    

歴史的な大会がなくなってしまったのは残念ですが、東京マラソンで・・・さらに来年のオリンビックで日本女子選手が先頭を切って颯爽と北海道で走る姿を観てみたいものです。扇子


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再取得

先日難関コースの高速グリーンに悩まされて若干凹みましたが、その数日後にちょっぴり嬉しい出来事が。

今年2月から17年ぶりにゴルフを再開しリハビリに励んでいた私は、3月からメンバーコースでラウンドするたびシコシコとスコアカードを提出していたところ、一度消滅したハンデを再取得できました。

郵送されてきたハンディキャップインデックス証明書が、こちら。(↓)

     

20年前は、ハンディキャップの変更があるとコースから通知ハガキが1枚ビラッと送られてきただけでしたが、今回は封書。

しかもJGA(日本ゴルフ協会)だけでなく、USGA(全米ゴルフ協会)共通のもの。

このハンデで日本だけでなくアメリカのアマ公式戦に出場できることに・・・って、行きませんけどネ。


そしていただいたハンデは、〝6.7〟。


ゴルフを封印した時が〝7〟でしたから、ほんのちょっぴり上回ることが出来ました。

筋力の衰えによる飛距離低下はクラブやボールの進歩でも補い切れませんが、それでもハンデが落ちなかったのはその分ボールが大きく飛び散らなくなった事と、アプローチ・ショットが若い頃より上手くなったから。

そして何よりも、年齢を重ねたことで昔のようにカッと頭に血が上らなくなったことでしょうか。

(という自己分析を女王様に話したら、「ふぅ~ん、そう思ってるだ~・・・」と冷たい目で睨まれましたけど。)


ハンデを再取得したことで、リハビリはめでたく終了。


今後はこのハンデを何としても片手(5以下)にするべく、更に練習を重ねたいと思っています。

ハンデが少なくなるほど、1つ減らすのは大変ですが・・・。

その覚悟を忘れぬよう、証明書をアクリルケースに入れて机の上にデンと置きました。


    


悦に入って暫し眺めていると・・・アレッ?

名前のローマ字が〝watanabe〟ではなく〝matsumoto〟になってるじゃありませんか。

    


〝watabe〟ならまだ話は分かりますが、渡辺でどうして〝matsumoto〟? 誰やねん、松本って。 

すぐメンバーコースに電話して確認したら、

「あら~、確かに間違ってますネ。 何でこうなったんだか・・・すぐ訂正して再送しますワ。」

と、悪びれる様子は全くなし。

〝目出度さも 中くらいなり 我がハンデ〟・・・お粗末。 


 


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軍 人

かつて田中真紀子氏に〝軍人〟と揶揄されたのは梶山静六氏ですが、今日は彼のお話ではありません。

今日は将校として数々の戦争に従軍し、また 『戦争論』 の著者として名高い


 カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ
      Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz


の命日にあたります。


         


クラウセヴィッツは1780年にプロイセン王国のマクデブルク市で生まれました。

ポーランド系ドイツ人の父親は従軍経験のある徴税官で、彼の息子4人のうち3人は将校になりました。(クラウセヴィッツは末弟)


早くも12歳の時にフェルディナント親王歩兵連隊に入隊した彼は、2年後に第一次対仏同盟戦争に従軍。


少尉に任官された彼は、上司から非常に頭脳明晰で有能かつ熱心と高い評価を受け、1801年にベルリンの士官学校に推挙され、そこで後に 「父でもあり、心の友であった」 シャルンホルスト中佐の元で軍事学を修得。

また中佐が主宰する郡司学会に出席を許され、そこで数学・地理学・歴史学などの一般教養や軍事学の専門知識を深め、1803年に首席で卒業。


その後は軍事学会の会員だったアウグスト親王が指揮する近衛大隊の副官となりますが、1806年に仏軍と交戦した際は大敗を喫し、捕虜となる経験も。

釈放後ベルリンに移った彼は、恩師・シャルンホルスト推進する軍制改革に助力し、1810年に新設された陸軍大学校の教官に任命され、またプロイセン皇太子の軍事学教官をも務めました。


その後ロシア軍の参謀を務めるなどした彼は、1818年に少将に昇進し陸軍大学校々長に就任。


そして50歳になったことを契機として再び現場勤務を希望した彼は、東方監視軍司令官グナイゼナウの参謀長となり、ボーランドの暴動鎮圧に向かいますが・・・1831年11月16日に突然激痛と痙攣に襲われ、心臓麻痺により51歳でこの世を去ってしまいました。

軍人としては、戦場で死ねなかったことを無念に思ったことでしょう。

さて彼の名が後世に残されたのは、冒頭ご紹介した 『戦争論』 の著者として有名だからですが・・・実はこの著作、彼一人の力で世に出たわけではありません。

大きな力となったのは、1805年に結婚した愛妻の伯爵令嬢マリー・フォン・ブリュールでした。


『戦争論』 は、戦争の暴力性や形態を決める重要な要因として政治を位置づけ、軍事戦略を主題とする最も重要な論文のひとつとして、今日でも各国の士官学校や研究機関で扱われている名著。

クラウセヴィッィツはこれをナポレオン戦争終結後の1816~1830年にかけ、主として陸軍大学校々長時代に執筆しましたが、未完成のまま死去してしまいました。

そこで妻マリーが遺稿と断片的に残された2つの章を編集し、『戦争および戦争指導に関するカール・フォン・クラウセヴィッツ将軍の遺稿』 全10巻として出版。

この第1~3巻が、『戦争論』 として世に知られることになったのです。

夫の著作とはいえ、戦争に関する著作を整理・出版にこぎつけるには、聡明な頭脳と深い愛情がなければできなかったでしょうネ。

『戦争論』で最も有名なのは、この一節でしょうか。

〝一頭のライオンに率いられた百匹の羊の群れは、一匹の羊に率いられた百頭のライオンの群れに勝る〟

まさにリーダー論・組織論の根幹を表現しています。

その壮大な論文に興味がある方には、この書籍をお勧めします。

 『クラウゼヴィッツと戦争論』


           (清水他吉&石津朋之・編 彩流社・刊)


       

これは単なる 『戦争論』 の翻訳・解説ではなく、クラウゼヴィッツの生きた時代や彼の思想を現代に置き換えた場合の考察など、複数の論文を集め元防衛省に勤務していた石津氏らの編集によりまとめられたものです。

これを読むにつけ、人間の本質って昔も今も同じ・・・変わっているのは使う兵器だけって気がするのは、私だけでしょうか?うー

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軍 人

かつて田中真紀子氏に〝軍人〟と揶揄されたのは梶山静六氏ですが、今日は彼のお話ではありません。

今日は将校として数々の戦争に従軍し、また 『戦争論』 の著者として名高い


 カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ
      Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz


の命日にあたります。


         


クラウセヴィッツは1780年にプロイセン王国のマクデブルク市に生まれました。

ポーランド系ドイツ人の父親は従軍経験のある徴税官で、彼の息子4人のうち3人は将校になりました。(クラウセヴィッツは末弟)


早くも12歳の時にフェルディナント親王歩兵連隊に入隊した彼は、2年後に第一次対仏同盟戦争に従軍。


少尉に任官された彼は、上司から非常に頭脳明晰で有能かつ熱心と高い評価を受け、1801年にベルリンの士官学校に推挙され、そこで後に 「父でもあり、心の友であった」 シャルンホルスト中佐の元で軍事学を修得。

また中佐が主宰する郡司学会に出席を許され、そこで数学・地理学・歴史学などの一般教養や軍事学の専門知識を深め、1803年に首席で卒業。


その後は軍事学会の会員だったアウグスト親王が指揮する近衛大隊の副官となりますが、1806年に仏軍と交戦した際は大敗を喫し、捕虜となる経験も。

釈放後ベルリンに移った彼は、恩師・シャルンホルスト推進する軍制改革に助力し、1810年に新設された陸軍大学校の教官に任命され、またプロイセン皇太子の軍事学教官をも務めました。


その後ロシア軍の参謀を務めるなどした彼は、1818年に少将に昇進し陸軍大学校々長にら就任。


そして50歳になったことを契機として再び現場勤務を希望した彼は、東方監視軍司令官グナイゼナウの参謀長となり、ボーランドの暴動鎮圧に向かいますが・・・1831年11月16日に突然激痛と痙攣に襲われ、心臓麻痺により51歳でこの世を去ってしまいました。

軍人としては、戦場で死ねなかったことを無念に思ったことでしょう。

さて、彼の名が後世に残されたのは、冒頭ご紹介した 『戦争論』 の著者として有名だからですが・・・実はこの著作、彼一人の力で世に出たわけではありません。

大きな力となったのは、1805年に結婚した愛妻の伯爵令嬢マリー・フォン・ブリュールでした。


『戦争論』 は、戦争の暴力性や形態を決める重要な要因として政治を位置づけ、軍事戦略を主題とする最も重要な論文のひとつとして、今日でも各国の士官学校や研究機関で扱われている名著。

クラウセヴィッィツはこれをナポレオン戦争終結後の1816~1830年にかけ、主として陸軍大学校々長時代に執筆しましたが、未完成のまま死去してしまいました。

そこで妻マリーが遺稿と断片的に残された2つの章を編集し、『戦争および戦争指導に関するカール・フォン・クラウセヴィッツ将軍の遺稿』全10巻として出版。

この第1~3巻が、『戦争論』として世に知られることになったのです。

夫の著作とはいえ、戦争に関する著作を整理・出版にこぎつけるには、聡明な頭脳と深い愛情がなければできないかったでしょうネ。

『戦争論』で最も有名なのは、この一節でしょうか。

〝一頭のライオンに率いられた百匹の羊の群れは、一匹の羊に率いられた百頭のライオンの群れに勝る〟

まさにリーダー論・組織論の根幹を表現しています。

その壮大な論文に興味がある方には、この書籍をお勧めします。

 『クラウゼヴィッツと戦争論』

           (清水他吉&石津朋之・編 彩流社・刊)


       

これは単なる 『戦争論』 の翻訳・解説ではなく、クラウゼヴィッツの生きた時代や彼の思想を現代に置き換えた場合の考察など、複数の論文を集め元防衛省に勤務していた石津氏らの編集によりまとめられたものです。

これを読むにつけ、人間の本質って昔も今も同じ・・・変わっているのは使う兵器だけって気がするのは、私だけでしょうか?うー

 


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高 速

先日、久しぶりにメンバーコース以外でゴルフをしました。

プレーしたのは、過去に男子プロのツアー選手権も開催された難関コース。

下の写真は浮島グリーンで有名なパー4・・・ゴルフ・ファンの方なら、このホールだけでどこのコースかお分かりになるかも。


    


さて、いつも通りスタート前にパッティング練習したところ、グリーンが異様に早かったんです。

(いくら何でも、こんなに早くすることないのに・・・。)


そう思ってキャディーさんに聞いてみると、

「実は昨日まで4日間、男子プロのQTをやってたもんですから。」

QTとは〝
ジャパンゴルフツアークォリファイングトーナメント〟の略。

これはトーナメント出場を目指すプロが参戦し、翌年度のツアートーナメントなどの出場資格(ツアーメンバー資格)ランキング獲得を目指す予選会。


小平智・星野英正・谷原秀人・近藤智弘・池田勇太各選手などがこのファイナルQTを経て現在ツアーで活躍していますから、若手の登竜門であると同時にシード復活を目指すベテランが鎬を削る戦いの場といえましょう。

ですから、グリーンは完全なるプロ仕様。

ボールの転がりを示すスティンブ・メーターの数値でも、11フィート以上はあったはず。

通常営業のコースは8~9フィート、私のメンバーコースは9.0~9.2と速い方ですが、それでも全く感覚が違いました。。

ちなみに昨日から開催されている
三井住友VISA太平洋マスターズトーナメントの会場で、日本屈指の高速グリーンとして有名な太平洋クラブ御殿場コースは、12.5~13.5フィート。

また毎年マスターズが開催され、〝ガラスの上でパットしているようだ〟と恐れられているオーガスタ・ナショナルの超高速グリーンは14~15フィート・・・もう素人の手には負えません。

※スティンプメーターやグリーンの速さに関しては、こちらをご覧いただければお分かりいただけるかと・・。(↓)


    https://www.mamejiten.com/golf/diary/S/019.htm


しかもその高速グリーンにはローラーもかけられていて、カッチカチ。

ただでさえ大きくてアンジュレーションも芝目もキツいグリーンの難度が数段上がっており、アマチュア・ゴルファーには辛い設定になっていました。

上の写真のホールでは、バック・ティー(青)からプレーした私はティーショットをミスしたものの残り200ヤードのセカンドを見事ナイスオン!

しかしボールはグリーン真ん中の斜面に当たって下の段に転げ落ち、約1mの段差を駆け上がる10m以上のパットが残ってしまい・・・予想通り(?)の3パットで、ガックリ・ボギー。

別角度からご覧いただければ、その段差がお分かりいただけるかと。

    


※一緒にラウンドした我が家の女王様は池ポチャ2回&4パットで〝10〟を叩き、撃沈。


私の場合メンバーコースならハーフ12~3のパット数で収まるのに、この日は〝寄らす・入らず〟の連続で17・17の34も叩き、パーすら容易に取れませんでした。


ラウンド途中、キャディーさんに

「このコンクリートみたいな高速グリーンで、QTのトップはどれくらいのスコア出したの?」

と聞いたら、

「え~と、4日間で20アンダーでしたョ。」

ですって。 青ティーより10~20ヤード後ろのチャンピオン・ティーでラウンドしてそんなスコアを出すとは。

でもそのトップ通過の選手でもレギュラー・ツアーのシード権がなかなか取れないんですから、
やっぱりプロのレベルは凄いですワ。


そのプロゴルフの世界でも、本場アメリカで毎年トップ30に入る活躍を続ける松山選手は、まさに異次元のモンスター!?

カネ払って心身共に打ちのめされ、疲弊した1日でした・・・トホホ。


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記者魂

一昔前に〝翔んでる女(性)〟という言葉が流行りましたが、この方はその元祖と言って差し支えないかもしれません。 その人の名は、


 ネリー・ブライ 

    Nellie Bly


彼女(本名:エリザベス・ジェーン・コクラン)19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカで活躍した女性ジャーナリスト・・・というか、今でいうスキャンダル(暴露)記事の先鞭をつけた記者でした。


1864年に現在のアメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグ近郊の農家に生まれた彼女は、寄宿制の学校を学費が払えなかったため、やむなく中退。

しかし生まれつき文才があったようで、無職だった時に地元のピッツバーク・ディスパッチ紙のコラムに性差別主義に対する反対意見を投稿。

そのハイレベルな文章力に目をつけた同紙の編集長ジョージ・マドンが彼女をリポーターとして採用することに。


たまたま給仕が口ずさんでいた〝アメリカ音楽の父〟フォスター作の名曲 『ネリー・ブライ』 をそのまま彼女のペン・ネームにしたのです。


       


美貌の中にも非常に意志の強そうな眼をした彼女は刑務所や工場に自ら足を運び、今でいうところの〝潜入ルポ〟を執筆して注目を集めます。

しかしスポンサーの圧力などで書きたい記事が書けなくなると、彼女は単身ニューヨークへ。

そして自らを売り込んでジョゼフ・ピューリッツァーの主宰するニューヨーク・ワールド紙に移籍。


入社の条件としてビューリッツァーと交わした約束通り、彼女は患者になりすまして精神病院へ入院すめという、前代未聞の潜入取材を敢行します。


そこでの実体験を綴った連載記事 『精神病院鉄格子のかなたに』 は、ニューヨークで知らない者はいない程の大反響を巻き起こしたとか。

そんな彼女の名を一躍世界的に有名たらしめたのは、今からちょうど130年前の今日・1889年11月14日に彼女が挑戦をスタートさせた一大企画でした。


それは、1872年にフランス人作家ジューイ・ベルヌが発表し世界的ベストセラーになった小説 『八十日間世界一周』 を、実際にやってみようというもの。

まるで 『進め!電波少年』 のヒッチハイク旅行の如き破天荒な企画ですが、飛行機も電車もない時代に蒸気機関車と蒸気船、それに馬車を使って女性が単独で世界一周し、その旅行記を記事にするというのですから、電波少年以上に危険かつ無謀なチャレンジだったと言っていいでしょう。

この旅行を出発の僅か3日前に打診されたという当時25歳だった彼女は、躊躇なく快諾。

11月14日午前9時40分3秒、ニューヨーク近郊のニュージャージー州ホーボーケンの埠頭からオーガスタ・ヴィクトリア号に乗ってイギリスに向け出発した彼女は、途中原作者ヴェルヌにフランスの自宅で会うなどしながら見事翌1990年1月25日、72日6時間11分14秒で世界一周を成し遂げたのです。

その間、連日電報で送られてくる彼女の紀行記事は新聞に掲載され、大人気を博したとか。

ところで、これには裏話が。

ブライの世界一周旅行を知った雑誌社コスモポリタンが、これに対抗すべく急遽同社の女性記者エリザベス・ビスランド(当時28歳)に同じ世界一周旅行をさせたのです。

しかも彼女がその社命を受けたのは、なんと出発日・14日の朝!

ろくな準備もしないままブライは東回り、ビスランドは西回りで世界一周に旅立ち、インド洋上ですれ違った2人は、いずれも日本にも立ち寄っています。

 

しかしビスランドはブライよりもわずかに遅く76日を要して負けた(?)ためか、あまり名前が出てきません。

(とは言え、彼女から富士山や横浜の商店街の美しい情景を聞き及んだ知人の小泉八雲がいたく感激し来日するキッカケになったそうですから、我が国にとっては彼女の方が大きな存在だったのかも。)


でもこの2人には、共通点がありました。


南北戦争で敗れた南軍側の出身で、家は貧しかったこと。


そして男性社会の中で筆一本で生きていくためにどんなチャンスにも飛びつき、度胸と自らの才能でのし上がろうとしたこと。

強烈なハングリー精神がなければ、こんな無謀な企画には乗らないですょネ。


とは言え、女性の強さをまざまざと感じさせます。


その後1895年に富豪と結婚し一時ジャーナリズムの世界から引退したブライでしたが、1904年に夫が他界。

彼の会社を引き継ごうとしましたが、さすがに素人経営ではうまく行かず破産の憂き目に遭い、再び彼女はジャーナリズムの世界に復帰。

女性投票権に関する記事や第一次世界大戦のヨーロッパ戦線を取材するなど精力的に活動しました。


1922年に57歳で天に召された彼女の波乱万丈の人生は、こちらの

 

 『ネイリー・ブライ物語 世界最初の婦人記者 

                                (三省堂・刊)


       


で詳しく知ることができます。


個人的には、ロクに取材もしないのに見てきたかのようなフェイク記事を書いたり、他メディアの情報だけを頼りにしつこく質問をぶつける東京新聞の某女性記者にこそ、この本を読ませたいと思うのですが。


・・・さて、皆さんは会社から 「今日から世界一周して来い!」 といきなり命じられたら、やりますか? やりませんか?あせあせ


 


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