【拡散希望】 侵 攻

先月29日に拙ブログで記事した 『通州事件』 同様、今日も皆さんに是非とも拡散していただきたい〝学校で教えない史実〟のご紹介です。

※『通州事件』に関する記事は、こちら。(↓)
   
https://ameblo.jp/warmheart2003/day-20170729.html


皆さんは、〝樺太〟という地名や場所はご存知のことと思います。

しかし若い方は、地図を見てすぐに指差せるでしょうか?


北海道の北に位置する細長い島・樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境に分割され、その南部分が日本領土となりました。


     樺太


最盛期には約40万人の日本人が暮らしていたこの地で、今から72年前の今日・終戦直後の1945(昭和20)年8月20日に


  真岡郵便電信局事件


という悲劇が起きたことをご存じでしょうか?


同年8月9日、日ソ不可侵条約を一方的に破棄したソ連軍が対日参戦。


それまで平穏だった樺太の北緯50度線を越え、戦車を先頭に南下・侵攻してきたのです。


しかも、同月15日に日本がポツダム宣言を受諾して玉音放送を流し降伏した後も、彼らは攻撃を続行。


混乱と恐怖の中で疎開命令が出され、次々と逃げる日本人達。


にもかかわらず、北洋漁業の港や王子製紙の工場で栄えていた真岡 (まおか) の郵便局 (※当時は電話交換業務を郵便局で兼務) に勤務していた10代を中心とした若い電話交換手20名が、仕事を全うすべく〝決死隊〟として最期まで残ることを申し出ます。

 

              真岡の位置と、その全景


そして8月20日早朝から、真岡沿岸に現れたソ連艦隊が無差別砲撃を開始。


更に上陸したソ連軍兵士の銃撃や防空壕への爆弾投下などで一般住民が次々に虐殺される中、当番の女性交換手12名がいた郵便局別館にも砲弾が。


窓からソ連兵の残虐行為を見て覚悟を決めた班長以下9名が、予め所持していた青酸カリやモルヒネで服毒自決を遂げ、男性職員によって保護されたのは僅か3名。


班長が自決する直前、他の郵便局に伝えた最期の言葉は、


「みなさん、これが最期です。 さようなら、さようなら・・・。」


だったとか。


現在に至るまで、ロシア(旧・ソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印しないまま実効支配を続けており、日本の立場では〝帰属未定地〟となっている南樺太。


ただでさえ国際法上違法な攻撃・支配をしたソ連ですが、この事件に関し我が国にとって更に屈辱的なことがその後に起こっています。


この悲劇を描いた映画 『樺太1945年夏 氷雪の門』 がジャパン・ムービー・ピクチャー社により制作され、1974年4月から東宝系劇場で上映される予定でした。

※ 『氷雪の門』 とは、北海道・稚内市の稚内公園内にある、自決した女性電話交換手9名を含め樺太で亡くなった人々の慰霊碑のこと。


       


当時としては破格の5億円以上という制作費予算をかけ、丹波哲朗・藤岡重慶・千秋実・藤田弓子ら豪華俳優の出演、そして陸上自衛隊の全面協力を得た話題作で、前売り券も大量に売れたとか。


ところが公開直前の2月にソ連当局から圧力がかかり、軋轢を恐れた東宝は止む無く上映中止を決定。


結局その年の夏、東映が北海道・九州の劇場で僅か2週間の限定上映をしただけでお蔵入りになってしまったのです。

しかし2004年、紛失していた同作品のフィルムが奇跡的に発見され、デジタル処理を施された上で制作から36年が経過した2010年7月、全国26ヶ所の映画館で上映されました。


残念ながら当時も大きな話題になることはありませんでしたが・・・。


ただ幸いにも、この映画は現在〝「氷雪の門」上映委員会〟からDVDが発売されています。

       


通販等で入手できますので、是非ご家族でご覧ください。

弱腰外交国家・日本の実態を憂えつつ・・・。うー


ソ無法・残虐なソ連軍の侵攻により、20歳前後の若さで自らの命を絶つことになってしまった女性交換手9名のご冥福を、衷心よりお祈り致します。笑3

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【拡散希望】 提 言

拙ブログでも過去にご紹介させていただきました、〝沖縄のジャンヌ・ダルク〟こと我那覇真子さんが、今年8月15日に靖國神社で感動的なスピーチをされました。

是非とも多くの方々、特に若者に彼女の主張を聞いていただきたいと存じます。





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無 冠

映画ファンなら、この方がメガホンを取った作品を1本も観ていない人は、まずいないはず。

今日は、その

 トニー・スコット 監督 

     Tony Scott

の命日・没後5周年にあたります。


       

       色褪せた赤いキャップがトレードマークだったスコット監督

スコット監督は、1944年のイギリス・ノースシールズ生まれ。

ロンドン王立美術大学を卒業し、当初は画家として生計を立てていましたが、1970年代に映画監督をしていた兄リドリー・スコットが経営するCM制作会社に入社し、ディレクターとしてコマーシャル制作を手掛けるように。


そして1983年に 『ハンガー』 で映画監督デビューを果たすと、兄リドリーの後を追ってアメリカへ。

そして彼の名を一躍有名にしたのが、トム・クルーズ主演の大ヒット映画 『トップ・ガン』 (1986年)でした。

       

この作品の音楽が大好きだった私は、もう数え切れないくらい観ています。

その後も 『ビバリーヒルズ・コップ2』(1987年)、『デイズ・オブ・サンダー』(1990年)、『ラスト・ボーイスカウト』(1991年)、『エネミー・オブ・アメリカ』(1998年)、『マイ・ボディガード』(2004年)などのヒット作を連発。

近年ではデイゼル・ワシントンを主役に起用した 『デジャヴ』(2006年)、『サブウェイ123 激突』(2009年)、『アンストッパブル』(2010年)を制作しました。

個人的に彼の作品で一番好きなのは、2001年に公開された 『スパイ・ゲーム』。

       

ロバート・レッドフォードとブラッド・ピットの2枚看板が共演してCIAエージェントの活躍を描いたこの作品は、最後までハラハラ・ドキドキ・・・何度観ても飽きません。


そして 『トップ・ガン2』 の制作が構想されていたという最中の2012年8月19日昼過ぎ・・・カリフォルニア州サンペドロにかかる橋から男性が飛び降りた、という通報が複数警察に寄せられ捜索したところ、午後4時半に遺体が発見・回収され、スコット監督であることが確認されたのです。

オフィスで遺書が見つかったため自殺と断定されましたが、その内容に関しては明らかにされていないため、動機は不明のまま。 


以前インタビューで、

「私の住んでいる所はコクーン(繭)のようなもの。作品を制作し終わるたび引きこもる。ここまで映画を沢山作ってきても、未だにハリウッド文化の一部として溶け込んでいるとは思えないんだ。」

と語ったスコット監督・・・深刻な病気を患っていたわけではなく、遺体から少量の抗うつ薬と睡眠薬が検出されたそうですから、精神的な悩みがあったのでしょうか。

『グラディエーター』 でアカデミー作品賞を獲得し、『ブラックレイン』 や『ブラックホーク・ダウン』、『エグゾダス 神と王』 など重厚な作品を撮る兄・リドリーと比較すると、娯楽性が強くシンプルなストーリーが特徴のトニーは、ヒットは飛ばすもののメジャー映画賞とは無縁。

もしかしたら、その辺が悩みのタネだったのかも・・・?

今宵はスコット監督の冥福を祈りつつ、若きトム・クルーズの活躍する『トップ・ガン』 を久しぶりに鑑賞するつもりです。笑3


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米 粉

今日・8月18日は、

 ビーフンの日

なんだそうです。  


何の語呂合わせにもなっていないのにナゼ? と思ったら、ビーフンは米の粉で出来た麺だから、〝漢字の〝米〟を分解した八・十・八に因んだとのこと。

ビーフンの発祥は中国・福建省周辺だそうで、漢字では 『米粉』 と表記するそうな。

発音は、ミンナン語・台湾語のビーフン (bí-hún )が由来。

東アジア南部は小麦よりも圧倒的に米作が盛んであり、そのため小麦粉の麺(ミェン)ではなく米粉で作られた粉(フェン)が日常的に食べられるようになったといいます。

作り方は比較的簡単で、精米して水に浸したうるち米を挽いて白濁液にし、これをろ過して取ったデンプンを加水・加熱しながら練ったもの。

通常はそれを乾燥させて販売されています。

もっとも、最近ではトウモロコシなど米以外のデンプンを混合させているようですが・・・。

         

この外来種の麺を日本に定着させたのは、何といっても国内シェア9割近くを占める 『ケンミン食品株式会社』 でしょう。

同社のテレビCMは蚊取り線香の金鳥同様実に個性的かつシュールで、視聴者に対するインパクトは絶大。(

     https://www.youtube.com/watch?v=MkE4ZDu18qU

〝ケンミンの焼きビーフン〟 というキャッチフレーズは、多くの方の脳裏に刻みこまれていることでしょう。


         


社名から、同社の創業者が中華の鉄人・陳建一氏の父である陳建民氏だと思っている方がいらっしゃるかもしれませんが、それは間違い。

1950(昭和25)年に創業したのは、台湾出身の高村健民 (※2009年に87歳で逝去)


              

以来ビーフンの専門メーカーとして同社をオンリーワン企業として育て上げました。

実は我が家の女王様は、大のビーフン好き。
特にカレー味の焼きビーフンが大好物なんです。

今晩は記念日に敬意を表してカレービーフンにする予定ですが、皆さんはどんなビーフン料理がお好きですか?



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不 遇

我が国における陽明学の祖といえば、中江藤樹。(※関連記事は↓)

   http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10889730397.html  

今日は、彼の弟子としてその教えを政治の場で実践した


 熊沢 蕃山

の命日にあたります。


蕃山は1619(元和5)年に現在の京都市下京区で浪人の父・野尻藤兵衛の長男として生まれました。

8歳の時に母方の祖父・熊沢守久の養子となって熊沢姓を名乗り、16歳の時に備前国岡山藩主・池田光政の小姓役として出仕。

しかし島原の乱への参陣を願い出たものの許されなかったため、彼は一旦近江国の祖父の家に帰省。

独学に飽き足らず師を求めていた蕃山が出会ったのが、同じ近江国で陽明学を教えていた中江藤樹でした。

蕃山は、山を2つ越えて藤樹の主宰する私塾・藤樹書院の講義を聴きに通ったそうですが、父親が浪人の身だった故武士と同じ座敷には入れず、廊下で藤樹の教えを聴き続けます。

そして熱心に勉強する蕃山に声をかけ、片道4時間かけて通っていることを知った藤樹が自宅の馬小屋に住むことを勧めると、彼は

「ご親切な気持ちはありがたいですが、山2つ越えて来るからこそ辛抱の甲斐があるのです。」


と自ら師の好意を断ったと言いますから、実に見上げたもの。


時に藤樹34歳、蕃山23歳・・・そして藤樹の弟子だったのは僅か8ヶ月でしたが、そこで得た学びは以降彼の人生の背骨となりました。


       


そして陽明学に傾倒していた池田光政は、中江藤樹に学んだ蕃山を再び召し抱えると、いきなり側役として300石を与え、更に1650(慶安3)年には鉄砲組晩頭として3,000石の大抜擢を行います。


蕃山はその期待に応え、1654(承応3)年に洪水と大飢饉に襲われた際には光政を補佐し、領民の救済に尽力。

また藩政改革に取り組み土木事業や農業政策に効果を上げます。

しかしいつの時代にも、新興勢力の足を引っ張る抵抗勢力は存在するもの。


農民に手厚く武士に厳しい政策は家老らの反発を強め、また当時朱子学を重んじていた幕府(保科正之・林羅山ら)からも目をつけられるようになった蕃山は、39歳の時に岡山藩を去ることに。

その翌年、彼は京都で私塾を開校。


多くの武士や町人らを教えましたが、評判が高まるとともに再び幕府から危険視され、京都所司代から追放処分を受けてしまいます。

その後大和国(現・奈良県)などで隠遁生活を送った後、幕命によって播磨国明石藩主・松平信之に預かりの身となり幽閉。

幕府の支配体制が変わり、1683(天和3)年には大老・堀田正俊から招聘されるも、これを辞退。

そればかりか参勤交代など幕政を批判し、更にはかつて仕えた岡山藩をも糾弾。

その姿勢を変えなかったため、幕府は69歳の高齢だったにも関わらず蕃山に蟄居謹慎を命じ、そのまま1691(元禄4)年8月17日に73歳で病没しました。

もう少し世渡りが上手ければ、不遇な後半生を過ごさずに済んだと思えるのですが・・・そうしなかった、いや出来なかったところが蕃山の蕃山たる所以だったのかも。

人間としての生き方を考えさせられますネ。


彼の没した遥か後、幕末期の藤田幽谷・東湖父子や橋本左内、高杉晋作、山田方谷ら多くの志士たちから敬われ、そして安岡正篤先生も高く評価した〝反骨の陽明学者〟の思想を、一度は紐解いてみたいものです。笑3


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戦 略

今年も熱戦が繰り広げられている、夏の甲子園。

数々の名勝負や名場面を生み出してきたその甲子園で、今から25年前の今日・1992年8月16日・・・日本中に大論争を巻き起こした試合が行われました。


後に巨人やヤンキースの主砲として大活躍した松井秀喜選手が5打席連続敬遠された、あの


 明徳義塾 vs 金沢星稜


の一戦を、皆さまもご記憶のことでしょう。


敬遠策が的中してか、結果的に金沢星稜は2-3で敗退。


しかし勝利を収めた明徳義塾も、試合直後から凄じいバッシングを受けたことが精神的な負担となったのでしょうか、次の試合を落として甲子園を去っていきました。 


    


実はプロ野球で活躍する一流選手って、高校時代に大なり小なりこういうエピソードを残した人が多いんです。


例えば元巨人のエース・堀内投手は、高校時代あまりに対戦相手が打てないので、わざと四球を出しては牽制で走者を殺して遊んだとか、あるいは横浜大洋ホエールズの主砲だった嘗てのホームラン王・田代選手も、無死満塁で敬遠されたとか。


ただ、この試合は地方予選や練習試合と違って、晴れの甲子園が舞台。


〝ゴジラ〟というニックネームがつけられ全国的に注目されていた松井選手が5打席連続敬遠され、しかも星稜が敗退。


なおかつ当時の牧野高野連会長が、暗に敬遠を批判するコメントを発したことも、騒動に拍車をかけたような気がします。


また主催新聞社を中心に、松井選手を〝悲劇のヒーロー〟、明徳義塾を〝ヒール役〟にしようという (偏向) 報道も目につきました。うー


当時盛んに言われたのが、「高校生らしくない」 という批判。


しかし率直に申し上げて、私はこの 「高校生らしく」 という言葉に違和感・・・いや、嫌悪感すら覚えます。


これってどういう意味なんでしょう?


牧野会長が言っていたように、それは 「正々堂々と」 真向勝負することなのでしょうか。


でも〝敬遠〟は戦略のひとつであり、ルール違反ではありません。


真剣に野球に取り組み、甲子園に行くことを夢見て日々辛い練習に明け暮れる選手たちが求めるもの・・・それは〝勝利〟です。 


野球王国・四国の代表として地元の期待を一身に背負い甲子園で戦うチームの監督が、勝つために最も確率が高いと考えた戦略が松井選手の敬遠だったならば、それは尊重されるべきだと私は思います。


(もし真っ向勝負して打たれて負けていたら、おそらく馬淵監督は逆に 「無策だ」 と地元ファンからボロクソに言われたかも・・・。)


また、「教育的見地から望ましくない」 という方もいらっしゃいました。


でもルール違反を犯したわけでもないのに批判を繰り返したマスコミや、試合中メガホン等をグラウンドに投げ入れてそれを選手に拾わせたり、明徳義塾ナインに対し 「帰れ」 コールを繰り返した観客の行為そのものの方が、余程教育上好ましくないでしょう。


    


 毎日の練習や試合から、チームワーク・協調性、そして勝利の喜びと敗北の悔しさを学ぶことこそが教育だ、と私は思うのですが・・・。

敬遠策を批判した人の多くは、単に注目していた松井選手のバッティングを見ることが出来なかったことに怒り、後付けでもっともな理由を付けただけなのでは?


この試合について詳しく知りたい方には、松井選手や馬渕監督ら関係者のインタビューをまとめたこの本をお勧めします。


 

 『甲子園が割れた日』 (中村 計・著 新潮社・刊)


試合に出場した明徳義塾の選手は、同書の中でこう述べています。

「僕が何より嫌だったことは、監督が非難されること。
あの作戦に対して、え?って思ったヤツは一人もいない。
僕らも勝ちたいですもん。 
監督のエゴの犠牲になったみたいな見方は全然違う。
(でも)そういう人たちに一々反論してもしょうがない。」


・・・さて、最後に質問です。

もし皆さんが明徳義塾の監督だったら・・・真っ向勝負させますか? 
それとも黙って一塁を指差しますか?
野球ボール


 


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遺 書

今私たちが平和を享受できているのは、お国のために散華された英霊のおかげ。

その犠牲に感謝すると同時に、彼らの思いに応える日本人でありたい、と私は切に思うのです。

10代・20代の若者に、この動画を是非ともお見せいただきたく・・・。


                         合 掌






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鎮 魂

暑く快晴だった72年前と違い、東京は雨模様の涼しい朝を迎えました。

日本人にとって永遠に忘れられない、いや忘れてはならない日・
・一般的には〝終戦の日〟〝終戦記念日〟などと言われていますが、正式には


 『戦没者を追悼し平和を祈念する日』


が、また巡ってまいりました。


1945(昭和20)年8月15日正午、ラジオを通じて流された昭和天皇の玉音放送を聞く事により、国民の多くが日本の敗戦を知ることとなりました。


※当時の国民が天皇の肉声を聞くのは、これが初めての事でした。 また、陛下が宮中独特の節回しで朗読されたため内容がよく理解できず、多くの国民はこの玉音放送の後に流された補足・解説により敗戦を知ったのだとか。


放送された『終戦詔書』は、かねてより内閣書記官長・迫水久常氏が概略を作成し漢学者・川田瑞穂氏が起草していたものに、8月14日の御前会議に於いてポツダム宣言を受諾し日本の降伏が決定したことを受け、安岡正篤氏が加筆したもの。

 

録音は皇居において14日午後11時20分から翌午前1時頃まで、昭和天皇ご自身の要望によって2度行われ、SPレコード盤2枚組み2セット・計4枚に収録されました。

 


       

             録音に臨まれる昭和天皇


陸軍の一部には徹底抗戦を主張し、このレコード盤奪還の動き(宮城事件)もあったものの既(すんで)の所でこれを回避。

放送は無事15日正午より流されました。

(※使用されたのは1回目の録音。)


以下に 『終戦詔書』 全文 (※原文は漢文体。それを現代漢字・かな使いに修正・改行編集したもの) を掲載させていただきます。

皆様におかれましては是非全文をお読みいただき、72年前のこの日、これを聞いて敗戦の深い悲しみと挫折を味わった先人の無念に思いを馳せ、世界平和への願いを新たにしていただければ幸甚に存じます。


        ( 終 戦 ) 詔 書


(ちん=天皇の自称)深く世界の体勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せむと欲(ほっ)し茲(ここ)に忠良(ちゅうりょう)なる爾(なんじ)臣民(しんみん=天皇制下での国民)に告ぐ 


朕は帝国政府をして米英支(し=中国)(そ=ソ連)四国(しこく)に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり


抑々(そもそも)帝国臣民の康寧(こうねい=安らかなこと)を図り万邦(ばんぽう=諸国)共栄の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは皇祖皇宗(こうそこうそう=天皇歴代の祖先)の遺範にして朕の拳々(けんけん)()かざる所


(さき)に米英二国に宣戦せる所以(ゆえん)も亦(また)実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき=乞い願うこと)するに出て他国の主権を排し領土を侵す如きは固(もと)より朕が志にあらず


(しか)るに交戦(すで)に四歳(しさい)を閲(けみ)し朕が陸海将兵の勇戦朕が百僚有司(ひゃくりょうゆうし=多くの官僚)の励精(れいせい)朕が一億衆庶(しゅうしょ=庶民)の奉公各々最善を尽くせるに拘(かか)わらず戦局を必ずしも好転せず世界の大勢亦(また)我に利あらず


加之(しかのみならず)敵は新に残虐なる爆弾を使用して(しきり)に無辜(むこ=無実の人々)を殺傷し惨害の及ぶ所 真(しん)に測るべからざるに至る


(しか)も尚交戦を継続せむか終(つい)に我が民族の滅亡を招来するのみならず延(ひい)て人類の文明をも破却(はきゃく)すべし


()くの如くは朕何を以てか億兆の赤子(せきし=天皇を親に見立てた人民の称)を保し皇祖皇宗の神霊に謝せむや是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり


朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せざるを得ず


帝国臣民にして戦陣に死し職域に殉じ非命に斃(たお)れたる者及びその遺族に想いを致せば五内(ごだい=五臓→心臓、肝臓、肺臓、腎臓、脾臓)為に裂く


且戦傷を負い災禍(さいか)を蒙(こうむ)り家業を失いたる者の厚生に至りては朕の深く軫念(しんねん=天子が心を痛める意)する処なり


(おも)うに今後帝国の受くべき苦難は固(もと)より尋常(じんじょう)にあらず爾臣民の衷情(ちゅうじょう嘘偽りない心)も朕善(よ)く之を知る


然れども朕は時運の趨 (おもむ)く所 (た)え難(がた)きを堪え 忍(しの)び難きを忍び 以て万世(ばんせい)の為に太平を開かんと欲す


朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠(せきせい=少しの嘘偽りもない心)に信倚(しんい=信頼)常に爾臣民と共に在り


(も)し夫(そ)れ情の激する所 濫(みだり)に事端(じたん=事件の端緒)を滋(しげ)くし或いは同胞排擠(はいせい= 他を押しのけたり陥れる事)互いに時局を亂(みだ)り為に大道を誤り信義を世界に失うか如きは朕最も之を戒いまし)


(よろ)しく挙国一家子孫相伝え確(かた)く神州の不滅を信じ任重くして道遠きを念(おも)ひ総力を将来の建設に傾け道義を篤(あつ)くし志操(しそう=堅く守って変えない志)を鞏(かた)くし誓って国体の精華(せいか=立派な点)を発揚し世界の進運に後(おく)れざらむことを期すべし


爾臣民其れ克(よ)く朕が意を体せよ  


 


御名御璽 (裕仁=昭和天皇の御名前)


各国務大臣副署


     昭和20年8月14日 



                         詔 書(国立公文書館・蔵)


この詔書には「敗戦」・「降伏」という文字が一切使われておりません。


そこに血を吐くような無念さが滲み出ている、と私は感じます。


※昨年公開された録音原版の再生音声を、こちらの宮内庁HPでお聴きいただけます。(

 http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/syusen.html


現在私たちが当たり前のように平和な生活を享受できているのは、この戦争に於いて尊い命を散らされた約310万にも上る先人の犠牲があったればこそ。


本日正午、日本武道館で催される全国戦没者追悼式にお出ましになられる天皇・皇后両陛下をはじめとする参列者の方々や甲子園の高校球児たちと共に、感謝の気持ちを込めつつ謹んで黙祷を捧げ、同時に現在保有する我が国の領土・領海をいかなる国家の侵犯からも毅然として護ることを、英霊・戦没者に誓います。


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女 神

ファッション界に全く疎い私でも、この方の名は知っていました。

今日は、日本を代表するトップ・モデルだった


 山口 小夜子 さん


の命日・没後10周年にあたります。


       


山口(本名同じ)さんは、1949(昭和24)年生まれ。

京浜女子大学横浜高等学校から杉野学園ドレスメーカー女学院に進み、卒業後の1971年にモデル・デビュー。

高田賢三さんや山本寛斎さんのショーで注目を集めると、1972年にアジア系モドルとして初めてパリコレに出演。

続いてニューヨークコレンションにも出演し、おかっぱ頭に切れ長の目で日本人ブームを起こします。

ヨーロッパでは人気が急騰し、〝SAYOKOマネキン〟が販売されたとか。


そして1973年に資生堂の専属モデルとなってCMに出演。


フランス人の世界的クリエイター、セルジュ・ルタンスが手掛けた作品はとくに有名になり、資生堂の名を広めました。


  




また身長170cmとモデルとしては小柄ながら、ゆったりとした日本舞踊の如き独特のウォーキングは独特な雰囲気を醸し出し、日本女性の美しさを世界に知らしめた功績は計り知れません。

1977年には東洋人として初めて 『Newsweek 』 誌で世界のトップモデル6人に選ばれた彼女は、モデル業だけでなくダンスとファッションを融合させたパフォーマーとしても活躍しました。

しかしそんな彼女が急性肺炎で突如この世を去ったのは、2007年8月14日。

仕事が多忙だったからか、独身だった彼女は孤独死という寂しい最期を迎えてしまいました。

生前、彼女は講演でこんなことを仰ったそうな。


 

「心や思いを大切に日々歩めば、自然に背筋も伸びるかもしれない。
相手に対する優しい笑顔も生まれるかもしれない。
挨拶する時のお辞儀が丁寧になるかもしれない。
自然に体から有難うという気持ちが生まれるかもしれない。

・・・それが、本当の美しさだと思う。」


老若男女問わず、この言葉は日本人の心に染み入りますょネ。

世界に日本人女性の美を知らしめたミューズ(女神)の冥福を、あらためてお祈り致します。


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倒 産

戦後最大・約5,200億円の負債を抱えたその倒産は、当然世間を騒がせる一大スキャンダルになるはずでした。

しかしその発表が、たまたま日航ジャンボ機墜落事故の翌日だったため全マスコミの目はそちらに向かい、それほど世間の注目を集めなかった気が・・・。


その日・1985(昭和60)年8月13日に会社更生法を申請したのは、

 三光汽船株式会社

しかし当時私の勤務していた損保会社は同社が大口取引先だったため、社内では墜落事故よりもこの倒産の話題でもちきりになった記憶があります。


1934(昭和9)年に大阪で創業された同社は当初船荷の仲介業務を主に行っていましたが、日中戦争勃発を契機に事業を拡大し、中型船の運航や買収、造船業にまで経営を広げます。

そして1963年には大手海運会社・ジャパンライン社の株買い占めなどで勇名を馳せましたが、1970・79年に起こったオイルショック以降の海運不況により、経営が悪化。

立て直すことが出来ず、会社更生法の申請に至りました。

(※但し同社はその後再度会社更生法の申請を行い、現在は再建し存続しています。)

しかしこの倒産劇は、自民党の有力政治家で滅多に笑わないことから〝笑わん殿下〟の異名を取った


 河本 敏夫 

の運命を少なからず変えてしまいました。 

何故なら、三光汽船を創業したのは彼と彼の義兄であり、同社の実質的なオーナーだったから。

       


1911年に現在の兵庫県相生市に生まれた彼は、旧制姫路高校をトップの成績で入学した秀才でありながら、反戦運動に身を投じて退学に。

その後日大法学部に進学し、在学中に三光海運(後の三光汽船)を創業して1937年には社長に就任。

12年後に行われた衆院選に旧兵庫4区から立候補し、当選。


当選同期には、池田勇人・佐藤栄作・前尾茂三郎・稲葉修各氏ら錚々たる名前が並び、彼自身も以後連続17回当選を重ねます。

1968年の第二次佐藤内閣に郵政大臣として初入閣し、以後通産大臣も務め三木派の重鎮として活躍。

鈴木善幸・中曽根康弘内閣でも閣僚を務め、何度か総裁候補として名前が上がりましたが、結局それを果たすことは出来なかったばかりか、この倒産の責任を取って沖縄開発庁長官を辞任。


1996年秋に引退を表明して三男に後継指名すると、5年後に89歳でこの世を去りました。

その河本氏に関して、田中角栄の元秘書・早坂茂三氏は著書でこう記しています。

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鈴木善幸総理がやる気を失くし、後継者に河本・中曽根の名前が取り沙汰された。 1982(昭和57)年10月のことである。

「オヤジさん、世間では河本の下馬評が高いけど、推すんですか?」

「いや、推さない。」

「(ロッキード事件で対峙する)三木の片割れだから?」

「違う。 オレはそれほど尻の穴は小さくない。


世間はまだ知らないが、河本のやってる三光汽船なぁ・・・あれが今、4,200億円からの負債を抱えているんだ。 1年半と保たない。 

自分の会社を潰すような男に国の舵取りは任せられない。」

「じゃあ、中曽根をやるんですか?」

「まぁ、ねぇ。」

親方が低く笑った。 その後、三光汽船は田中の予言通り潰れた。


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倒産の時期は予想と若干ズレたとはいえ、その3年前から情報を掴んでいたとは、さすが闇将軍・キングメーカーと言えましょうか。

あらためて角栄氏の凄みを感じますネ。

政治家が最高権力を掴むためには、実力以外にも時と運が必要のようです。


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