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貸金業

今日は7月8日・・・その語呂合わせから、

 質屋の日


なんだそうです。


質屋さんはお客さんから物品を担保として預かり、金銭を貸し付ける商売。


歴史は意外と古く鎌倉時代からあったといわれており、以来戦後しばらくまで庶民の小口金融として重宝がられていました。


昔の映画や小説の中では、生活に困った奥様が嫁入り道具で持ってきた着物を手に、路地裏にひっそりと看板を出している質屋さんに人目を忍んで入っては、生活費に換える・・・そんな、何となく暗いイメージ(失礼)で描かれていました。あせあせ


ところが1970年代から、無担保・無保証人で融資する、いわゆる 「サラ金」 が誕生・・・質屋さんはかなり苦戦を強いられたようです。


しかし近年は、従来の貸金業というよりもブランド品や宝飾品の買取で、再び息を吹き返しているのだとか。

               

    ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


バブル期後半からでしょうか? 主に女性が高級ブランド品を質屋さんに持ち込んで換金するようになったのは・・・。


TV番組の企画で質屋さんの窓口に隠しカメラを設置して、店員さんとお客さんのやり取りを紹介することがありますが・・・女性客が入りやすいような、明るくて清潔感のある店内に持ち込まれる品々と繰り広げられる会話は、実に味わい深いものがあります。


一番ビックリしたのは、ホステスさんらしき女性が、全く同じ色と型番の高級ブランドバッグを5つ持ち込んだ時のこと。


「何でこんな同じ品物ばかり持ってるんですか?」


と訝る店員さんに、カラカラと笑いながらその女性が言うことには・・・自分の複数のお客さんに同じバッグをオネダリして買ってもらい、一個だけを残して全部を換金に来たとのこと。


「だってぇ、そうすれば誰とデートした時でも、『アナタに買ってもらったバッグ、いいわよォ』 ってごまかせるじゃない!」 驚き顔


いやはや、女性の逞しさというか、したたかさを見せつけられました。


こんなケースが多いからでしょうか、質流れ品のバーゲンセールは、新品同様のモノが安く手に入るってことで、大変な人気なんですってネ。


さすがにこの不景気では、こんな裏ワザを使える女性は限られるでしょうけど・・・下心を持って、言われるままにプレゼントしようとする男性諸氏は、くれぐれもご用心、ご用心!うー


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副 業

世界で最も有名な探偵・・・といえば、おそらく皆さんもご存じのシャーロック・ホームズでしょう。

〝七夕の日〟の今日は、この名探偵の生みの親


 サー・アーサー・イグナチウス・コナン・ドイル

    Sir Arthur Ignatius Conan Doyle


の命日・没後90周年にあたります。


       


彼は世界的に有名な作家ではありますが、決して最初から文筆業で成功したわけではなく、そこに至るまでに苦労を重ねた人物でした。


ドイルは1859年に測量技師チャールズ・ドイルの長男としてスコットランドのエディンバラに生まれました。


ドイル家は祖父や叔父たちが皆画家やイラストレーターとして社会的に成功する中、父親だけが普通のサラリーマンでしかもアルコール依存症で入院するなどしたため、生活は苦しかったそうな。

それでも裕福な叔父の支援でエディバラ大学医学部に進学し医師の道を目指しますが、勉強は退屈であまり馴染めなかったとか。

しかし同大学に在籍していた教授のイメージから、後に彼が生み出したシャーロック・ホームズやチャレンジャー教授が誕生したそうですから、結果的には貴重な体験だったことは確か。


大学卒業後にアフリカ汽船会社の船医として就職したものの、船内で次々発症したマラリア感染患者の手当てに忙殺された挙句本人も感染して生死の境を彷徨う羽目に。

また友人と共同経営で診療所を開業したものの、ものの2ヶ月で喧嘩別れ。

どうも彼は、生まれつき医師には向いていなかったのかも・・・。

しかしそんな彼が副業として小説を書き始めると、短編小説が安値ながら出版社に買い取ってもらえるように。


そして1884年には、シャーロック・ホームズ・シリーズの第一作となる長編小説 『緋色の研究』 を発表。

1891年に(無資格で)開業した眼科医院に全く患者が来なかったことで、彼は執筆業で身を立てる決心をしました。

そこで彼は、既に2作読み切り小説で主人公として登場していたシャーロック・ホームズのシリーズ化に踏み切るのですが、これが大成功。

『ストランド・マガジン』 に連載された短編小説は人気を博し、同誌の売り上げも急増。

そして1892年にはそれまでの短編12作を集め、『シャーロック・ホームズの冒険』 として単行本化。


       


                      『シャーロック・ホームズの冒険』 初版本


彼の許に届くファン・レターの殆どがドイル宛てではなくホームズ宛てだったそうですから、その人気ぶりが伺えます。


しかし、彼自身は本来推理小説ではなく歴史小説家として世に認められたかったのだとか。


実際彼に会った日本人も、そう打ち明けられたそうですが・・・しかしファンや出版社はそれを許さず。

業を煮やした彼は1893年12月に発表した 『最後の事件』 でホームズを滝に落として死んだことにしてしまいます。

そして1900年にはボーア戦争の従軍医療奉仕団として戦地に赴き、その2年後にはイギリス軍を擁護する 『南アフリカ戦争 原因と行い』という小冊子を発表。

その功績で国王から〝サー〟の称号を賜ることに。

その間政治家を目指して選挙に打って出たものの敢え無く落選した彼は、再び文筆業に専念。

(まるで沈んだはずの宇宙戦艦ヤマトが蘇った如く)死んだはずのホームズも見事に復活、ファンを安心させました。

その後も冤罪事件に関わったり心霊現象にハマるなどしましたが、ホームズ・シリーズを始め歴史小説を書き続けたドイルには、かねてより心臓疾患があり、1929年頃から発作が頻発・・・そして1930年7月7日朝に71歳で天に召されました。

彼の願いも虚しく、現在でもドイルといえばホームズの生みの親・・・他の作品は殆ど読まれていません。

しかもホームズ・シリーズで得た莫大な遺産に関しては、次男と三男(長男は第一次世界大戦で戦死)が散財し、2人の娘を巻き込んで裁判沙汰が絶えなかったとか。

本人の意に沿わぬ形で売れた本の遺産で子供たちが争う・・・ドイルは天国からその様子を見ながら、大きな溜息をついていたことでしょう。

さすがのホームズにも、解決の妙案は浮かばなかった?うー


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閉 門

中高年世代の方なら、この事件名を聞いただけでその概要を思い出すことでしょう。 その


 神戸高塚高校校門圧死事件


が起きたのが、今からちょうど30年前の今日・1990(平成2)年7月6日のことでした。

神戸市西区にある同県立高校では生徒の遅刻を取り締まるべく、毎朝8時30分に学校入口の門扉を閉めていました。

この日も、8時過ぎから校門に3名の教師が立って監視を行っており、事件直前にハンドマイクで 「5秒前!」 などとカウントダウンを開始。

そして8時30分にチャイムが鳴ると同時に、教師の一人Hが、高さ1.5m・重さ約230kgの鉄製門扉をガラガラと閉め始めました。

H本人は、生徒の列が一旦途切れたのを確認してから閉めたと供述しているようですが、過去に生徒のカバンなどを挟んだことがありながら、門扉が重かったため下を向いて力を入れて閉めたとのこと。

そのため15歳の1年生が飛び込んできたことに気づかず勢いよく門を閉めたため、彼女は頭部を門扉と壁の間に挟まれてしまいます。

被っていたヘルメットが砕ける程の衝撃を受け、彼女は頭蓋骨を粉砕骨折。

搬送先の病院で午前10時25分、脳挫滅により死亡が確認されました。

ちょっと信じられないのは、こんな事故がありながら学校では当日行われていた期末テストを中止せず、更には門扉を閉めたHも試験監督を務めていたこと。

しかも学校側は警察の現場検証前に現場に付着していた女子生徒の血を洗い流し、彼女の容態を尋ねる生徒に 「重傷だが生命に危険はない」 と答えたと言いますから、呆れます。

       

偶然ですが、同校の校長は当該事件の起きた前年から兵庫県高等学校生徒指導協議会神戸支部長に、そして同校生徒指導部長は同協議会常任委員に就任しており、更に同校は当時全国で5校しか採用されていない学校安全に関する研究指定校でした。


そして同校が実施していた 「全教師による校門や通学路での立ち番指導」 は協議会で高く評価されていたそうですから、これらのことが生徒の安全より学校・教師側の体面を重んじる姿勢に傾かせた原因だったのかもしれません。

この事件に関し、
兵庫県教育委員会は同月26日、校門を閉めたH教諭を懲戒免職処分に、また管理責任を問い当時の校長を戒告(と同時に校長が提出した辞表を受理)、教頭と教育長を訓告、教育次長2名を厳重注意処分としました。

また11月には学校側が過失を認めた形で、兵庫県が女子生徒の遺族に損害賠償金6,000万円を支払うことで示談が成立。

※刑事事件として業務上過失致死罪で起訴されたH教諭に対しては、被告本人が無罪を主張したものの禁固1年・執行猶予3年の有罪判決が1993年に神戸地裁から出され、確定しました。

しかし事件の余波は、その後も続きます。

学校側は門扉を事件直後に撤去しようとしたものの、保護者や一部住民が反発して一時保留に。

上記H教諭の有罪判決を受けて再び撤去をPTAらに説明することなく記者会見で発表したことで再び紛糾しましたが、1993年7月に現場で小競り合いが起きる中、従来より小型・軽量の門扉に取り換えられました。

       

その後も門扉の撤去は不当だとして工事費などの返還を求める訴訟が起こされましたが、1999年に最高裁で住民の訴えが棄却され、ようやく決着。

まぁ訴訟まで起こして最高裁まで争ったのはごく一部の住民でしょうが、一体何のためにそこまでやったのか?

この事件が起きた原因には様々な要素が絡んでいますが、根本的には生徒が遅刻さえしなければこんな事には・・・って思うのは私だけ?


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女性上位

お寿司のネタは数あれど、今日が記念日となっている江戸前寿司の代表的なネタがあるのですが・・・それは何だと思いますか?

夏が旬で、7月5日・・・7と5にかけて


 アナ(7)(5)の日


なんですって。


昼間は海底の砂中・岩の隙間に潜み、巣穴から頭や上半身を出しているところからアナゴと名付けられたそうな。


実際に泳いでいるアナゴを見た方はあまりいらっしゃらないかもしれませんが、ヌルヌルした円筒形の身体をしていることからも分かる通り、分類はウナギ目。


       


ただウナギと違うのは、鱗がないところ。


双方ともビタミンAが豊富で夏バテ予防に有効な食材なのですが、『土用丑の日』 には爆発的に売れるウナギと違って、アナゴはやや地味。


熱・温帯の海域に広く生息し、150以上もの種類があるそうですが、日本近海で獲れるマアナゴが一般的にアナゴとして国内市場に出回っています。


       穴子


このマアナゴ、寿司ネタだけでなく天ぷらや蒲焼にしても美味ですが、オスが体長40cm程なのに対して、メスは倍以上の90cm。


・・・完全な女性上位ですネ。あせあせ


よく〝一本丸ごと〟皿や丼からはみ出ている豪快盛りがありますが、これはみんなオスなのかも。

※因みに水族館で人気のチンアナゴもアナゴの一種ですが、こちらは観賞用・飼育用で、食用ではありません。

       


と、ここでひとつご注意を。


激安の回転寿司店などで売られているアナゴの中には、マアナゴではなく、ペルー沖で獲れるマルアナゴを代用としている場合があります。


これは同じアナゴでも、ウナギ目ウミヘビ科。 驚き顔 ウヘッ


食感は殆ど同じだそうですし、切り身で出されたら素人には全く見分けはつきませんが、一応知っておいた方がよろしいかと・・・。

せめて〝アナゴの日〟くらいは、東京湾・羽田沖で獲れた江戸前マアナゴで舌鼓を打ちたいものですネ。
笑2


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客 星

皆さんは、〝おうし座〟という星座をご存知でしょうか?

オリオン座の隣に位置し、1等星のアルドバランなどで形成され、日本では〝昴〟と呼ばれ富士重工業のロゴマークにもなっている〝プレアデス星団〟など有名な天体が多い星座なのですが・・・位置は、こんな感じです。(↓)

 

さて、そのおうし座の右角の先に赤いポチ印をつけましたが、ここにあるのが〝かに星雲〟(M1)。

望遠鏡で初めて観測された時、カニに見えたことからこの名がつけられたそうですが、これは超新星


 SN1054

が爆発した時の残骸だとか。

その客星(突然現れて消える新星や彗星)の爆発が初めて観測されたのが、星に名付けられた数字の如く今から966年前の今日・1054年7月4日のことでした。

宋の歴史書 『宋史』 には、この日天関星(おうし座)付近に客星が現れ、2年近く経った1056年4月5日に見えなくなったと記されています。

また同じ宋代に編纂された 『宋会要』 には、突如現れた客星は金星のように明るく、なんと23日間に渡って昼間でも見えたと書かれているそうな。

昼間でも見えるくらい明るく輝く星・・・ちょっと見てみたいですょネ。


そしてこの客星に関する記述は、日本にも残されているのです。

それは、小倉百人一首を選じたことで有名な、藤原定家が書き残した日記・『明月記』。


       

先にご紹介した 『宋史』 とほぼ同様の記述があるそうです・・・が、実はこれ、ちょっとおかしいんです。

というのは、定家が生まれたのは1162年(1241年没)であり、この客星が現れてから108年後のこと。

ですから、彼自身は実際に見ていないのです。


従って正確に言えば、定家自身が日記に記したわけではなく、当時の陰陽師・阿部泰俊から受け取った書状を日記の紙継ぎの部分に挟みこんだ由。

当時の日記は子々孫々に儀式の詳細を書き残すために書かれており、客星の出現は天変地異と密接に関係していると信じられていることから、定家はその史実を調べ後世に語り継ごうとしたのでしょう。

ですから客星については、この1054年以外のものに関しても書き残されているのです。

自然に対する畏怖の念が、その日記には込められていると言えましょうか。

※宋と日本では発見されていたのに、なぜか西洋ではこの客星に関する記述は残っていないのだそうです。


        


(↑)の画像はNASAが撮影したものですが、普通の天体望遠鏡では小さな白い塊にしかみえない〝かに星雲〟は、地球から約7,000光年の距離にあり、今でも毎秒1,100kmの速さで四方に膨張・飛散を続けてるそうな。

因みに1光年とは、約9兆5千億km。
毎秒1,100kmということは1日で約9500万km、1年で約346億km。

ということは、地球にその破片が到達するのは、何年後・・・いや、何万年後?

どうぞ、計算してみてください。


 

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薬研堀

今日は、私のような激辛党のためにあるような記念日・・・そう、7月3日の語呂合わせで、


 七味の日


なんですョ。

今からちょうど10年前の2010年に、大阪市の向井珍味堂さんが制定したそうな。


唐辛子は中南米が原産とされ、メキシコでは紀元前6,000年に遡るほどの古い歴史があるとか。

これが15世紀頃コロンブスらによってヨーロッパにもたらされ、それが南蛮船によって東洋に・・・日本では1542年にポルトガル人宣教師が豊後(現・大分県)の戦国大名・大友義鎮に献上したという記録が最古とされています。


日本では、当初唐辛子は食品ではなく薬用・鑑賞用植物として扱われたとか。


そして、からしや徳右衞門なる人物が漢方薬にヒントを得てこの唐辛子に様々な香辛料などを混ぜ合わせた 『七味唐辛子』 を考案。

江戸の日本橋薬研堀(現・東日本橋)に店を出して売り出したのが、江戸時代初期の1625(寛永2)年のことでした。


(七味)唐辛子を別名〝薬研堀〟と呼ぶのは、このためなんですネ。


では、その七味とは、唐辛子以外に何を調合しているのか?


初代徳右衞門以来、現在でも浅草寺近くで店を出している 『やげん堀』 さんでは、


唐辛子・焼唐辛子・芥子(けし)の実・麻の実・粉山椒・黒胡麻・陳皮


だそうな。


    
             
※やげん堀さんのHPより


しかし同店の他に〝日本三大唐辛子〟に数えられている京都・清水寺の 『七味家』さん と、我が郷土・信州の名店である善光寺の 『八幡屋礒五郎』 さんでは、それぞれに青海苔・紫蘇・白胡麻・生姜など独自の香辛料を調合し、オリジナリティーを出しているようです。


薬味ゆえ人それぞれに好みがあると思いますが、これらの唐辛子店に直接足を運べば希望に沿って調合してくれますし、その様子は物珍しさも手伝って中々に面白いものです。


ちなみに、我が家で現在使っている唐辛子は・・・(

       

七味だけでなく一味も混ざってますが、この中で一番辛いのは過去ブログでご紹介した、左から2番目の『 舞妓はん ひぃ~ひぃ~』。




唐辛子の日に是非お試しいただきたい一品ですが・・・皆さんの食卓には、何種類の唐辛子を置いてらっしゃいますか?


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焼 失

京都に観光旅行をされる方なら、必ず足を運ばれているであろう

 金 閣 寺


    


正式名称:鹿苑禅寺・・・実は、今私たちが見られる金色に輝く舎利殿は、再建されたもの。

室町時代、足利義満によって建てられたものではありません。

なぜなら、今からちょうど70年前の今日・1950(昭和25)年7月2日未明に、全焼してしまったから。


    

原因は、放火。 


当時21歳だった同寺の見習い学僧・林承賢による犯行でした。


この火災により舎利殿の他、国宝・足利義満の木像など文化財6点も焼失。 


辛うじて当時取り外してあった頂上の鳳凰のみが被災を免れました。


林青年は、裏の山林で服毒し腹を切って自殺を図り倒れていたところを逮捕され、一命を取り止めたのです。


舞鶴市内にある禅寺の僧侶であった父の許に生まれた林青年は、成績優秀だったものの吃音があったため周囲からからかわれ、人付き合いがうまくできなかったとか。


病気がちだった父親は自らの死期を悟ってか、我が子の将来を託すべく面識のない鹿苑寺の住職に弟子入り志願の手紙を出し、それが受理されて林青年は入門を許されます。 

(父親はその後まもなく病死。)


しかし1943年4月に金閣寺で得度式を行い、一旦帰郷して1年後に金閣寺入りした彼は、住職の好意で大谷大学予科に進学したものの、成績が急降下。


吃音に対するコンプレックスが酷くなったのか、はたまた住職の叱責に自分が金閣の住職になる道を絶たれたという不満と絶望からか・・・彼は、「火災報知機が壊れている」 という老案内人の言葉を聞き、火をつける決意を固めたとか。


息子に大きな期待を寄せていた母親は、京都府警に呼び出しを受け上京した際に面会を希望したものの、息子はそれを拒否。

失意の中、彼女は帰宅途中に汽車から投身自殺を遂げました。


そして林青年も懲役7年の実刑判決を受け服役、恩赦による出所後まもなく肺結核により26年の短い人生の幕を閉じています。


彼の内面をこれ程まで卑屈にさせたのは、己に対するコンプレックス・母親との確執・周囲の環境や人間関係などが混ざり合った結果だったのかも。


焼失する前は金箔が剥がれ落ちていた舎利殿でしたが、集まった浄財等により1955年に復元。

(その復元なった金閣寺の写真を、林青年は「無意味なことだ」と言って見るのを拒否したそうな。)

そして1987年には総工費7億4,000万円をかけて金箔全面張り替え工事が完成し、1994年には世界遺産の指定を受けました。


郷里・舞鶴の墓地に、並んで葬られているという林母子・・・あの世から現在の光り輝く金閣寺を、どんな思いで見下ろしているのでしょう。

いや、やはり目を背けているのかも・・・。


この放火については、偶然事件の6年前に林青年と出会ったという作家・水上勉氏が出生地などを取材し彼を知る人の証言を集めて書き上げた


 『金閣炎上』  (新潮文庫・刊)


       


というノンィクション小説を上梓しています。 


また、三島由紀夫氏もこの事件を題材に

 『金閣寺』 (新潮文庫・刊)


       


を著しており、中にはこれを三島作品の最高傑作と評する向きも。

興味のある方は、事件の深層を探るべく読み比べてみてください。

読み終わってから見る金閣寺は、より一層輝いて見えるかもしれません。

いや、もしかしたらその逆?うー

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変 人

まずは、こちらをお聴き下さい。 (↓)



穏やかというか、けだるいというか・・・何とも言えぬ旋律ですが、TV番組や飲食店のBGMとして多くの方は聴き覚えがあることでしょう。


しかし曲名をご存知の方は、あまりいらっしゃらないかも・・・。


今日・7月1日は、この〝ジムノペティ〟を世に出した


  エリック・サティ
 Erik Alfred Leslie Satie


という、フランスが生んだ異色の作曲家の命日・没後95周年にあたります。


1866年、同国・オンフルールに生まれたサティは、6歳の時に母親が亡くなったため祖父母に預けられ、祖父から音楽の手ほどきを受けました。


1879年パリ音楽院に入学すると、在学中に冒頭の〝ジムノペティ〟などのピアノ曲をいくつか発表。


しかし学校の水が合わず退学・・・酒場でピアノを弾くことに。


その後は薔薇十字教団聖歌隊長に任命されたり、急進社会主義委員会に入党したりしますが、1925年7月1日に肝硬変により59歳でこの世を去りました。


       


写真を見る限り堅物・大学教授風のサティですが、「犬のためのブヨブヨした前奏曲」 などヘンテコな曲名をつけるなど、良くも悪くも相当変わった人物ではあったようです。


グレゴリオ聖歌の分類に用いられる)教会旋法を取り入れたり、調子記号や小節線のない楽譜を書くなど、その音楽は自由奔放。 


しかしその作風は、ドビュッシーやラヴェルら印象派の音楽家にも少なからず影響を与えました。


あまり一般には知られていない作曲家といえるサティですが、意外(失礼)にも彼の名がギネスブックに載っているんです。


それは、〝世界で最も長い曲〟の作曲者として・・・。


曲名は、 ヴェクサシオン(Vexations )』


実は私、この曲の楽譜を持っているんです。


世界一長いというからには、楽譜も電話帳程の厚さがある・・・と言いたいところですが、実はたったの一枚。(


    


なんでこれが?・・・と思うでしょうが、実は楽譜の冒頭に


「このモチーフを連続して840回繰り返し演奏するためには、大いなる静寂の中で真剣に身動きしないことを予め心構えしておくべきだろう」


と書かれているのです。


以前日本の某TV番組の企画で3人のピアニストが交替で演奏したところ、総演奏時間は何と18時間以上!驚き顔 ヒェ~


曲名の意味は 『嫌がらせ』・・・う~ん、納得です。


さぁ、貴方ならこの曲、何回繰り返し演奏しますか?

私は2,3回で満腹ですけどネ。


変わり者といわれる人物が多い作曲家の中でも、おそらく横綱級であろうサティのご冥福をお祈り致します。笑3

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乱 入

皆さんは、今から71年前の今日・・・終戦後間もない1949(昭和24)年6月30日に起きた


  たいら
 平 事 件


をご存じでしょうか?

同年4月に、日本共産党福島県石城地区委員会が横2.4m×縦1.8mという大型の宣伝用掲示板を設置すべく、平市警察に道路一時使用許可を申請。

警察側は一旦許可したものの、予想外に人が集まり交通に支障をきたしたため、6月25日に許可の取り消しを、更に6月30日午後4時までに撤去するよう通告したところ、これを「政治活動に対する弾圧だ」として共産党が反発。

6月30日午後3時半頃、共産党員と在日本朝鮮人連盟所属の朝鮮人約300名がトラックに乗るなどして平警察署に押しかけます。

署長は代表者との話し合いに応じたものの、彼らはそれで収まらず、労働歌〝インターナショナル〟を歌いながら署内に乱入。

署員に殴る蹴るの暴行を加えてガラスを次々と割り、約80名が所長室に乱入。(↓)

    


更に留置場にも侵入し、拘留されていた被疑者らを解放して逆に警察官を閉じ込めるという乱暴狼藉ぶり。


その上署長の辞任を要求するなどしましたが、午後11時頃に警察の応援部隊が来るという情報がもたらされ、現場から立ち去りました。
(数日後には駐在所が襲撃され、駐在警官が自殺しています。)

その後平市警察署は捜査本部を設置。


県警から約700名の警官の応援を得て231人を騒擾(そうじょう)罪【※1995年から騒乱罪に改称】の容疑で逮捕し、159人を起訴。

最高裁まで争われた結果、有罪が確定しました。

拙ブログでこの事件を取り上げたのは、まず共産党と朝鮮人が密接に繋がっており、彼らが騒乱罪で摘発される犯行を繰り返してきた歴史があることを知っていただきたいから。

騒乱罪が適用された案件としては、1952年に起きた 『血のメーデー事件』・『大須事件』・『吹田事件』 がありますが、そのいずれにも彼らが絡んでいます。


 ※日本共産党の歴史については、こちらの過去記事を参照。(↓)




過去記事のとおり、日本共産党は1922(大正11)年に設立されましたが、その当初から朝鮮の独立を綱領に掲げており、1930年代から日本在住の朝鮮人共産主義者は続々と日本共産党に所属。


同党系労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、最盛時の1931(昭和6)年時点で組合員3万人の内3割が朝鮮人だったとか。

その蜜月関係は、1955(昭和30)年1月に在日朝鮮人との連携解消を宣言したことで終わりを告げました・・・が、同党はこういった過去の暴力事件に関して一切口をつぐんだまま。

そのくせ、現在に至るも暴力革命を目指すことに変わりはありません。

だから同党は公安調査庁の調査対象団体になっているのです。

かつて日本を震撼させ混乱を引き起こした共産党と在日朝鮮人が依然として我が国に存在していることを、私たちはしっかりと認識すべきなのです。うー


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【葬儀屋時代の思ひ出】 S L

「あの、そちらで葬儀をお願いしたいんですが・・・。」

突然高齢と思しき女性から電話がかかってきました。

聞き覚えのないお声でしたし、お名前を伺っても記憶のないその方は、以前お手伝いさせていただいたご葬儀の喪主様から弊社を勧められて電話されたとのこと。

大変ありがたいご紹介をいただいたわけですが、お話を伺うと予てより入院されていたご主人がその日の朝逝去され、まだ病院にいらっしゃる由。


すぐに寝台車のお迎えを手配し、ご自宅に搬送・安置させていただいた後、葬儀の打ち合わせに入りました。

奥様のお話では、90歳近い故人様はかつて国鉄で蒸気機関車の運転士をなさっており、その仕事に大変誇りを持っていらっしゃったとのこと。

葬儀には国鉄時代の後輩も何人か参列されると聞き、私はあることを思いついたのです。

通夜・告別式と葬儀は滞りなく進行し、導師様がご退堂なされた後に生花祭壇のお花を参列者の皆様から全て御柩に手向けていただき、喪主を務められた奥様からのご挨拶が済みました。


私は参列された数人の元・国鉄マンの方々に声をおかけし、御柩をお持ちいただくと、

「故人様、ご出棺でございます。」

と口上を述べると同時に、後方にいる女性スタッフに手で合図を・・・。

それを見た彼女が音響機器のスイッチを入れると、式場内には

〝ポォォォ~~~ッ〟


という蒸気機関車の汽笛が鳴り響き、その直後、

〝シュボッ・・・シュボッ・・・ボッ、ボッ、ボッボッボッ・・・〟

という蒸気の排気音が。


       


故人様のお旅立ちは、長年運転した蒸気機関車の汽笛と共に・・・そう思った私は、葬儀の前日にショップに行ってSLの音源が入ったCDを探し、ちょうど発車の瞬間の音が出るようにセットしておいたのです。

これは、奥様や会葬者には内緒のサプライズ。

ですから実際に皆さんがどんな反応をされるか分からなかったのですが・・・蒸気音と共に柩を外の霊柩車に運ぶ元運転士の方々の目からは、一様に涙が溢れているではありませんか。

そして式場内には、蒸気音と共にすすり泣く女性会葬者の嗚咽も・・・予想以上の反応に、仕掛けた私自身も感動。

そして火葬後の精進落としを召し上がり、会葬者を見送られた奥様からは

「渡辺さん、あの出棺の時のSLの音は、ビックリしましたョ。

でも後輩の方々も感じ入ったみたいだし、なにより主人が喜んだと思います。 本当に、ありがとうございました。」


と最後に言っていただけて、私はホッと胸をなでおろした次第。

式中のBGMに故人様のお好きだった曲を流すことはよくするのですが、たとえ一瞬でも人々の心に深く突き刺さる音がある・・・そんなことをあらためて認識させられました。笑3


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