死 辛

先日エネゴリ君の店に行った時のこと。

いつになくカウンター内でニヤニヤしている彼に、

「なんだか今日はやけに機嫌良さそうだナ。
何か良い事でもあったの? 彼女が出来たとか。」

「いやァ、彼女なんていないっスょ。
出来たら真っ先に報告しますって。」


「それもそうだナ。 聞かれる前に言うだろうし・・・。」

その後も他愛ない話に終始し私が席を立ってレジに向かうと、彼が急ぎ足でカウンターから出てくると、

「渡辺さん、コレ食べてくださいョ~!」

と言ってレジの下から出してきたのが、こちら。(↓)

    

「なぁんだ、コレを渡したくてウズウズしてたのか。
これをオレが完食できるかどうか、試したいんだろ?」

そう言われた彼は、満面の笑みで

「ウッホッホ!」

実は彼、以前私にトムヤムラーメンをプレゼントしてくれたことがあったんです。

※その時の記事が、こちら。 
 この時が拙ブログにおけるエネゴリ君の初登場でした。(↓)




しかしこのカップ麺、私には全然辛くなく、後日店に行った時に、


「どうせなら、もっと辛いのくれョ。」

と言ったものですから、以来ず~っと探していたんでしょうネ。

でコレを見つけて、試しに激辛好きの友達に食べさせてみたら、「こんな辛いもん、食えるか!」と言われ、自信を持って準備していたそうな。

ってことで、早速試食してみました。
敢えて裏面を読まず、予備知識なしで・・・。

見た目は、こんな感じ。

    


とかく激辛カレーというと焦げ茶色系が多いのですが、これは赤・・・というか少し橙色がかっています。

見た目は少々拍子抜けでしたが、食べてみると確かに辛いです。
と言っても、食べられないという程ではなく、水なしで一気に完食。

少しだけ汗はかきましたけどネ。


    


比較は難しいですが、以前ご紹介したLEE×30(45)倍が重い辛さだとすれば、こちらは鋭い辛さって感じ。

食べ終わってからパッケージの裏面を読んでみると、メーカーはベル食品工業。

そう言えば大昔、私が小学生の頃オフクロに

「バーモントみたいな甘いカレーはイヤだ。もっと辛くして!」


 と頼んだら、ベルカレーってのを買ってきてくれて、それが結構辛かったことを思い出しました。

そしてこのカレーは、アメリカで人気の 『ブレアーズ サドンデスソース』 を使用しているとのこと。

だから〝デスカレー〟なんですネ。

調べたら、原料が世界一辛い唐辛子とされるジョロキアやハバネロだそうですから、なるほど食べている途中からカレーよりも唐辛子の味がしたわけです。

LEEで物足りない方は、一度お試しあれ。

さてと・・・私は死ななかったので、これを通販で仕入れてエネゴリ君に食べさせ、死ぬかどうか確かめてみようっと。あせあせ



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風 格

「日本の俳優で、最も総理大臣に適役なのは?」 と問われたら、皆さんは誰の名を挙げられるでしょうか?


年代によって答えは様々でしょうが、私にとってはこの方がNo.1。


         そう

  山村 聰  さん


今日は、私と同年代以上の方にはお馴染みの、この名優の命日にあたります。


1910年に奈良県天理市に生まれた山村(本名:古賀寛定)さんは、一高 → 東京帝国大学文学部という秀才コースを歩みましたが、大学卒業後はなぜか研究劇団に入団して役者の道に。


戦後1946年に映画に初出演し、1950年には小津安二郎監督作品 『宗方姉妹』 に主演、第1回ブルーリボン賞・主演男優賞を受賞。 


また自らプロダクションを立ち上げて映画監督も務めました。


私が山村さんを初めて画面で見たのは、おそらくTVドラマ 『ただいま11人』 だったと思います。


さすがにストーリーは憶えていませんが、(現在では殆ど見られないような)大家族の中で悠然と構えた家長たる父親役・・・という姿がうっすらと脳裏に残っています。


そして山村氏は父親役もさることながら、大物役も板についていました。


中でも印象的なのは、日米合作映画 『 トラ トラ トラ!』 における山本五十六元帥役。(


    山村聡


その知性と威厳溢れる立ち居振る舞いは大将役の風格十分、本物の山本元帥もかくあらん・・・という名演でした。


また時代劇では 『あゝ忠臣蔵』(1969年)の大石内蔵助役、『必殺仕掛人』(1972~73年)での元締・音羽屋役や 『柳生一族の陰謀』 (1978~79年)での柳生宗矩役が見事にハマッてましたネ。


また映画・ドラマで通算4度も総理大臣役を演じ、トヨタ・クラウンのCMにも長く起用されたのも頷ける、風格ある俳優でした。



まもなく60歳にならんとする私ですが、今でもああいう威厳のある男になりたい・・・そう思わせる山村さんが急性心筋梗塞で90歳の生涯に幕を閉じたのは、2000年5月26日のこと。


日本を代表する大物俳優のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3


 


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足 技

 靴底のつま先と踵に金属板をつけて、リズミカルに床を踏み鳴らす・・・今日・5月25日は、その

 タップダンスの日
 National Tap Dance Day


なのだそうです。

由来は、〝タップの神様〟といわれたアメリカの黒人ダンサー、ビル・ボージャングル・ロビンソン(1878-1949)の誕生日だから。

       

               Bill "Bojangles" Robinson


まずは、その彼の名人芸をご覧ください。(




う~ん、さすが神様と言われるだけのことはありますネ。 

このタップダンスは、18世紀にアメリカ南部の黒人奴隷によって生み出されました。

もともと彼らは労働後にダンスを踊る習慣があり、その際にはドラムを打ち鳴らしていたとか。

ところが1739年にサウスカロライナ州で暴動が発生して以降、白人がそのドラムを禁止に。

そこで黒人たちがドラムの代わりに足を踏み鳴らして音を出したことが、そのルーツ。

20世紀に入り、映画や音楽と共に世界に広まりました。

〝タップ〟は、靴底につける金属板をタップスと呼んだことから。

昭和世代の私としては、タップダンスでまず頭に浮かぶのは、サミー・デービス・ジュニア。

でも最近では、黒人だけでなく日本人でも国際的に活躍するタップダンサーが何人もいます。

個人的には、2003年に公開された北野武監督作品『座頭市』のラストシーンで演じられた団体タップダンスが強く印象に残っています。

しかし、何で時代劇にタップダンスが出てきたのか、今だに不思議ではありますが・・・。

それでは最後に、記念日に相応しい(?)壮観なタップダンスをご覧ください。



 


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分 裂

ここ2,3年、若い世代にも注目されているという、落語。

『笑点』 は相変わらず高視聴率を誇り、テレビには人気落語家が何人も出演していますから、その人気の底堅さが伺えます。

が、今からちょうど40年前・・・その落語界を揺るがす〝事変〟が勃発しました。 それは、


 落語協会分裂騒動


それまで、真打昇進は師匠・会長・席亭全員の承認を得て決まる・・・という建前はあったものの、実質的には会長の専断で決められていました。


1965~72年まで(江戸落語の団体である)落語協会の会長を務めた三遊亭圓生師匠は、真打昇進について


「真打になるだけの能力がある者がなるべきであって、2つ目で終わる者は終わっても構わない」

という厳しい考え方の持ち主でした。

それ故、圓生師匠の弟子ですら真打になれず、若手落語家の間では不満がくすぶっていました。

そして柳家小さん師匠が圓生師匠の跡を継いで5代目会長に就任すると、三遊亭圓楽・立川談志らを新理事に登用し、理事会に合議制を導入。

10年以上2つ目で留まっていた若手の声に応える形で、協会最高顧問だった圓生師匠は反対したものの、理事会の多数決により同年3月と10月にそれぞれ10人ずつ、20人もの真打を誕生させたのです。

そしてしばらく沈静化した後、1978年5月8日に再び10名の真打昇進が理事会の多数決により決定したことに、圓生師匠が反発。

同年5月24日に、圓生師匠は意を同じくする直弟子の圓楽・志ん朝・圓蔵らと共に赤坂プリンスホテルで記者会見を開き、真打乱造による落語の低質化を問題視し、新たに 『落語三遊協会』 の立ち上げを発表したのです。


   

         三遊亭圓生                  柳家小さん

当初は圓生師匠の憂いに共感するファンも多く、小さん師匠ら落語協会幹部に批判が集まりました。

しかしそれまで組織の頂点に君臨し独断専行だった圓生師匠の根回し下手が影響してか、当初移籍を期待していた金原亭馬生・林家三平・立川談志の各一門らが合流せず、また直弟子だった三遊亭さん生・好生も同調しないなど、結局三遊協会に加盟したのは圓生・志ん朝・圓蔵一門だけ。

その様子を見ていた落語芸術協会も反発し、また寄席を仕切る席亭も「三遊協会の出演は認めない」 ことを翌25日に決定。

プロ野球に例えるなら、新リーグを立ち上げたものの東京ドームや甲子園で試合をさせてもらえないってこと。

落語三遊協会の命運は、旗揚げ後僅か1日でほぼ決してしまいました。

席亭の決定を受け、圓蔵・志ん朝一門はすぐさま小さん会長に頭を下げて落語協会に復帰。

言い出しっぺの圓生師匠は意地で新団体を存続させようとしたものの、席亭から締め出されたために地方公演や公民館などでの小規模な寄席しか活躍の場がなくなってしまいました。

新協会存続のため働き詰めとなった圓生師匠は、旗揚げから1年4ヶ月後の1979年9月3日、習志野文化ホールで開かれた落語三遊協会後援会発足式の席上で一席演じた直後、楽屋で心筋梗塞を起こし昏倒・・・そのまま帰らぬ人に。

奇しくもその日は、圓生師匠79歳の誕生日でありました。

誕生日に弟子たちが贈ったイタリア製の靴を玄関で履いたら、

「こりゃ、重いねェ。 うん、重すぎるょ。 悪いけど換えてきておくれ。」

と言った数時間後に息を引き取ったそうな・・・もう身体は疲れ切っていたんでしょうネ。

大黒柱を失った三遊協会は、事実上崩壊。


傘下の落語家たちは協会を解散し、1980年2月に落語協会に復帰し、一連の騒動は収まりました。

しかし多くの落語家の運命はこの騒動に巻き込まれる形で変わりましたし、5代目・圓楽師匠は復帰を拒み独自路線を歩むことに。

※その圓楽師匠に関する過去記事は、こちら。 (↓)



結局、この分裂騒動ではお互いに得るものはなく、ギクシャクした人間関係だけが残った形。

この騒動に関して詳しく知りたい方には、その渦中にいた圓生師匠の弟子・三遊亭円丈師匠が綴ったノンフィクション小説

 『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち  (主婦の友社・刊)


       


のご一読をお勧めします。

登場人物は全て実名であり、著者本人が 「95%
は事実、残り4%は細かい言い回しの違い、1%はギャグ」 と述べている本書は、落語ファンでなくとも読み応え十分。

(ただし、この円丈師匠がかなり圓楽師匠を嫌っていたことを割り引いて読んだ方がいいかもしれませんが・・・。)

この本を読むと、何やら以前政界で起きた〝加藤の乱〟を彷彿とさせます。

大騒ぎした割には尻すぼみってところが、ソックリ!?あせあせ


 


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ポイッ!

古今東西の歴史を顧みると、国家間の戦争は些細な出来事から始まることが少なくありません。

皇太子が暗殺されたサラエボ事件をキッカケにヨーロッバ全土はおろかアメリカや日本まで巻き込む第一次世界大戦になったことは、その典型。

そこまで大事にはならずとも、今からちょうど400年前の今日、国家間戦争の火種となる出来事が起きました。 それは

         そうがいとうてき
 プラハ窓外投擲事件


その前年・1617年にカトリック教徒で対プロスタント強硬派だったハプスブルグ家のフェルディナンド(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がボヘミア王に即位。

すぐにプロテスタントを迫害しようとしたことにボヘミア貴族は反発。

フェルディナントの即位を認めず、対立が深まっていきました。

そして1618年5月23日、ボヘミアの民衆がプラハ城を襲撃。

中にいた国王の顧問官2名と書記1名の計3名を、3階の窓から放り投げてしまったのです。

       


現在でもプラハ城には多くの観光客が訪れているそうですが、実際に放り投げたのが、下の画像左の×印がついた窓。

       

これだけだとあまり高くなさそうですが、別角度からみると・・・

        

高さは約20mもあるそうですから、普通なら命を落とすか半身不随になってもおかしくないですょネ。

ところが当日は幸い(市民にとっては不幸?)にも地面に干し草が積んであったそうで、3人はケガをしただけ・・・命からがらフェルディナントのいるウィーンに逃げ帰って事の次第を報告。


この事件直後、ボヘミア貴族たちは新たにプロテスタント教徒のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア王に迎えましたが、そんなことをフェルディナントが認めるわけはなし。

ハプスブルグ家は即座に鎮圧軍を派兵し、1620年の白山の戦いで撃破。

ボヘミア貴族らは財産没収の上、国外追放に。


この厳しい処断にプロテスタント教徒が激しく反発し、その後双方の戦争が長期化したそうな。

そして同地では、窓から人を放り投げたのはこれが最初ではありませんでした。


この事件から遡る事約200年前の1419年に、やはり宗教問題でローマ教会と対立したボヘミア王ヴァーツラフ4世が和解案としてローマ教会派だけの参事会を組織したところ、旧勢力のフス派が激怒。

プラハ市庁舎を襲撃し、ドイツ人市長と参事会員を窓から放り投げ、これを聴いたヴァーツラフ4世がショック死し、その後フス戦争が勃発し20年近く民族運動が続いたとか。

民族性は様々ですが、ボヘミアンは窓から人を放り投げるのが好きなんでしょうか?

今後もしヨーロッパに旅行してチェコ辺りに行かれる方は、窓に近づかない方がいいかも・・・。あせあせ


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腹 心

『太閤記』 などに、豊臣秀吉の家臣としてその名が出てくる


 蜂須賀 小六(正勝)


彼は歴とした実在の人物であり、今日が彼の命日にあたります。


秀吉が生まれる11年前の1526(大永6)年に蜂須賀正利の長男として生まれた小六は、時代小説などで野盗や野武士のように描かれ、とかく秀吉とは偶然に出会ったような設定になっています。


しかし実際は尾張の蜂須賀郷を拠点とした領主の子孫であり、1553年に父が亡くなった後は齋藤道三に、その後織田家に仕えたことがあるものの、基本的には木曽川中洲を本拠地にしていた武装集団・川波衆を束ねる独立系の武将だったとか。

また秀吉の父・木下弥右衛門が蜂須賀正利に仕えていたとされ、その縁で秀吉は少年時代から小六とも面識があったと思われます。


そして彼は〝顔中髭だらけの荒くれ男〟というイメージで時代劇に登場しがちですが、実際にはこんなスッキリした方だったようです。(↓)


         


小六の名が一躍表舞台に躍り出たのは、木下藤吉郎(秀吉)が信長の命を受け、佐久間信盛・柴田勝家が果たせなかった 〝墨俣一夜城〟 の築城に、大きく貢献してからのこと。


齋藤道三の攻撃を凌ぎつつ軟弱な土壌に短期間で築城することは、地元の人脈・地理・河川事情に通じた川並衆を差配できた彼の存在なくしては成しえなかったといわれています。


その後も秀吉の毛利征伐に同道するなどして軍功を挙げましたが、その恩賞として与えられた阿波一国を息子・家政に譲り、さらに自分よりも後から秀吉に仕えた武将を立てて、ひたすら年下の主君・秀吉のそばに仕え続け、


「秀吉の動くところ正勝のあらざるなく」


とまで言われたという蜂須賀小六。


こんな忠臣が1人でもいてくれたら・・・そう思う経営トップも多いのではないでしょうか?あせあせ


秀吉が世を去る12年前・1586(天正14)年5月22日に彼は60歳の生涯を閉じますが、息子・家政も秀吉に仕えて小田原征伐や文禄・慶長の役に従軍し、徳島城主として君臨。


その家政の子・至鎮は家康の養女を妻に迎えたことから東軍に属し、以後蜂須賀氏は徳川大名として明治維新まで家を継いだそうです。


秀吉の〝腹心〟は豪放磊落というより、あたかも〝ミニ家康〟。

己の分を弁え、年下でも有能な上司・秀吉に尽くして一族を守った、深慮遠謀の智将だったようです。笑2


さて、この蜂須賀小六の子孫が現在芸能界で活躍しているのをご存知でしょうか?

それは、この方・・・。

        

そう、女優・タレントの釈由美子さん。

彼女の本姓は〝釋〟であり、これは蜂須賀小六の末裔が出家して四国に渡った際に改名したものだとか。

もっとも、これは釈さん本人が仰っていることなんですけどネ。

信じるか信じないかは、貴方次第ですが・・・。


 


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母 子

今日は、現在の千円紙幣の顔でもあり、日本を代表する医師・細菌学者である、


 野口 英世 博士


の命日・没後90周年にあたります。


       


1876(明治9)年に福島県の貧しい農家に長男として生まれた野口氏。 幼い頃に負った左手の酷い火傷にも負けず、必死に勉強した末に医師となり、アメノカに渡って研究を続け、黄熱病の病原体を発見するなど病理学会に多大な貢献をされたことは、既に多くの方がご存知のことでしょう。


子供の頃、何度も野口氏の伝記を読んだ私・・・今は野口氏ご本人のことより、彼を支え続けた母・シカさんにどうしても目が行ってしまいます。(そういう歳になったってことですかネ?)


1歳の時、母シカさんが畑仕事に出て目を離したスキに、ハイハイをして囲炉裏の中に左手を突っ込み、大火傷を負った清作(※英世氏の幼名)。


「我が子のケガは自分の不注意によるもの、指が癒着してくっついてしまった以上農業はできない。 

何としても勉学で身を立てさせなければ・・・。」


清作を学校に行かせる覚悟を決めたシカさんは、学費を稼ぐため以前にも増して働いたそうです。


昼は畑仕事、夜は川でエビを獲って朝それを売りに出る・・・重い荷物を背負って20kmの山道を日々歩いたとか。


しかし我が子が左手のヤケドのせいでいじめられ、学校に行かなくなったことを知ったシカは、

「許しておくれ。 火傷をさせてしまったのはお母ちゃんのせいだ。 

辛いだろうがここで勉強をやめてしまったらせっかくの苦労も何にもならない。 おまえの勉強する姿を見ることだけが楽しみなんだ。 

我慢しておくれ。」


と涙を流して我が子に詫びたのだそうです。


その母の姿を見た英世少年は一念発起、猛勉強を始めて見事に世界的な学者になりました。


        

                 母・シカさんと野口博士


渡米して研究で多忙を極める野口氏の元に、年老いた母がおぼつかない字で書いた手紙が届きます。


それは、ひたすら最愛の息子に会いたい・・・という、殆どひらがなのみで書かれた母の願いでした。


 おまイの。しせ(出世)には。みなたまけ(驚き)ました。
 わたくしもよろこんでをりまする。
  なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。 
 よこもり(夜籠り)を。いたしました。


 べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。
 いぼし(烏帽子:近所の地名)。ほわ(には)こまりをりますか。
 おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。

 はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いて(行って)しまいます。

 わたしも。こころぼそくありまする。
 ドカ(どうか)はやく。きてくだされ。

 

 かねを。もろた。こトたれにもきかせません。
 それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。


 はやくきてくたされ。
 はやくきてくたされ。
 はやくきてくたされ。
 はやくきてくたされ。


 いしよの(一生の)たのみて。ありまする


 にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。
 ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。

 きた(北)さむいてわおかみおります。
 みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。


 ついたち(一日)にわしをたち(塩絶ち)をしております。
 ゐ少さま(栄晶様:修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわ
 おかんてもろておりまする。

 なにおわすれても。これわすれません。

 さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。


(神様に捧げるように頂く) 

 はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
 これのへんちち(返事を)まちてをりまする。
 ねてもねむられません。


 

             シカさんの書き遺した唯一の手紙


この手紙を読んだ後、友人から送られてきた写真を見て母の老いて小さくなった姿に愕然とした英世氏は、1915(大正4)年に15年ぶりの帰国を決意。


ノーベル賞候補になった世界的細菌学者の凱旋帰国ということで大歓迎を受けた英世氏は、シカさんを一緒に連れ歩きながら全国各地へ講演旅行をしたそうで、行く先々で 「お母さん、お母さん」 と世話を焼いたのだとか。


たった一度の親子水入らずの国内旅行・・・野口母子の心情はいかばかりだったのでしょう。


この3年後、シカさんはスペイン風邪をこじらせ66歳で死去。


母の死に目にも会えぬまま海外で活躍を続けた英世氏は、1928(昭和3)年5月21日・・・自らが研究していた黄熱病に罹患。


「私には分からない」 という最後の言葉を遺し、51歳の若さでこの世を去りました。


もしかしたら英世氏は、天国でお母さんに 「いくら会いたいからって、来るのが早過ぎるべ!」 なんて叱られたのかもしれませんが・・・きっと今でも2人仲良く一緒にいることでしょう。笑3


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リンディ

昨年、リンドバーグが史上初の大西洋単独横断飛行に成功した記事を掲載しました。(↓)



そして今日は、その3年後に2人目の・・・と言うより、女性初の大西洋単独横断飛行に成功した


 アメリア・メアリー・イアハート

       Amelia Mary Earhart


をご紹介します。


       


イアハートは1897年、カンサス州アッチソンの裕福なドイツ系の家庭に生まれました。

医学を学ぶためコロンビア大学に入学した才媛でしたが、1年で中退。

第一次世界大戦中はカナダの米陸軍病院で看護助手として働いていたという彼女が飛行機に関わるのは、24歳の時。


たまたま友人と訪れたカナダ・トロントの博覧会で第一次世界大戦時に活躍した飛行機の展示飛行を見て、すっかり魅了されてしまったのです。


そして彼女は操縦を習う傍ら、カメラマンやトラック運転手、電話会社で速記などをして貯金し、なんと飛行機を購入。

しかし家庭の事情で1924年には飛行機を売却し、ソーシャル・ワーカーとして働き始めましたが・・・その4年後、彼女に1本電話がかかってきました。

電話の主は、ヒルトン・ライリー大尉。 

彼が最後に問いかけた 「大西洋を飛びたいと思いますか?」 という言葉に、彼女の心はときめきました。

この誘いに乗った彼女は、後に結婚することとなる出版業者ジョージ・パットナムと出会い、彼のコーディネートでパイロットのウィルマー・スタールズと副操縦士ルイス・ゴードンのチームに共同パイロットとして参加。

同年6月にフォッカーF.Ⅶ機に同乗し、大西洋横断に成功。

しかしこの時はただ同乗していたに等しく、彼女自身も

「私はただの荷物、ジャガイモの袋みたいなものョ。」

という、自虐的なコメントを残しています。

負けず嫌いの彼女が、こんなことで満足するはずもなく・・・その4年後、即ち今から86年前の今日・1932年5月20日、リンドバーグと同じ日に同じコースを飛行すべく、ニューファンドランド島のグレース湾からロッキード・ベガに単独で乗り込み離陸。

残念ながら強風と飛行機の不調のため、目的地とは違うアイルランド・ロンドンデリー近郊の農場に着陸。

しかし見事に女性初の大西洋単独横断に成功したのです。


       

これによりリンドバーグになぞられて〝ミス・リンディ〟と呼ばれた彼女は、いわゆる〝一発屋〟ではありませんでした。

この快挙の前後に打ち立てた記録は、


 ◆女性による達成高度の世界記録:14,000フィート(1922年)
 ◆オートジャイロで飛行した最初の女性(1931年)

 ◆世界で最初にオートジャイロで米国横断(1932年)

 ◆女性初の空軍殊勲十字章授与者(1932年)

 ◆女性初の東海岸から西海岸への飛行(1933年)


等々・・・。 これらの活躍で、彼女は一躍国民的ヒロインに。

しかし、そんな彼女に悲劇が訪れます。


1937年5月21日、赤道上世界一周飛行のためにロッキード・エレクトラでオークランドを離陸した彼女は、6月30日にニューギニアのラエに到着。

    

            イアハートとロッキード・エレクトラ


7月2日にラエを飛び立ち、無人のハウランド島を目指す途中、何度かの無線交信の後、全旅程47,000kmの内36,000kmを消化したところで消息不明になってしまったのです。

    

この事故に関しては、ガス欠による墜落説、不時着説、果ては日本軍による撃墜・捕虜説なんてものまであるそうですが、未だに確定されていません。

2014年に、ニクマロロ島沖の海底から引き揚げられた機体の一部がロッキード・エレクトラの部品であることが判明しましたが、その一方でミリというマーシャル諸島の環礁に不時着したという目撃談が現地で長年語り継がれてもいます。

彼女のためにも、早く事実が判明すれば良いのですが・・・。

 

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二刀流

今日・5月19日は、日本人なら誰もが知っているであろう剣聖、

 宮本 武蔵

の命日にあたります。


       

日本で最も有名な剣士と言っていい武蔵ですが、その出自については明らかになっていません。
※自著によれば、1584年・播磨国(現・兵庫県南西部)生まれ。


父親は赤松氏の支流・新免氏の一族・新免無二とされていますが、これにも異説が。

本人曰く、13歳の時初めて新当流・有馬喜兵衛と対決して勝利して以来、29歳までに60回以上の勝負を行い、全勝だったとか。

その中には、吉岡一門との決闘や、佐々木小次郎との〝巌流島の決闘〟が含まれているのは、皆さんもご存知でしょう。

しかしあまりに有名になったためか、その戦績や試合内容に関してはかなり脚色されて伝えられていることもあり、史実としてはこれまた確定はしていません。

※『巌流島の決闘』に関する過去記事は、こちら。(↓)  



しかし、その後大阪の陣で徳川方に参陣し活躍したことは、複数の資料で確認されています。

更に姫路藩主・本田忠刻との交流の中で都市計画の策定や庭造りを行ったり、尾張国周辺で剣術(円明流)を指南。

また1638年の島原の乱にも参戦した記録も残されています。


その2年後には熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ、300石を支給されるなど破格の扱いを受けますが、それから4年後・・・今から373年前の今日・1645(正保2)年5月19日、熊本城東部の千葉城にて死去。 61歳前後の生涯でした。

若い時分の戦績については詳しく分かりませんが、彼が遺した 『枯木鳴鵙図』 や 『芦雁図』 などの絵画を見ると、確かに剣術だけでなく文武両道の二刀流であったことが分かります。

     
               
芦雁図(永青文庫・蔵)


そして剣術家・兵法家としての真骨頂は、『五輪書』 を遺したことでしょう。

熊本で過ごした晩年に記されたこの書は、剣術とは無縁の私たち現代人が読んでも多くを学ばせてくれます。

何冊も関連本が出版されていますが、私がオススメするのは数年前に刊行された、こちらの一冊。


 『決定版 五輪書現代語訳』 (草思社文庫・刊)


       


タイトルの通り現代語訳されており、原書よりもはるかに読みやすく理解しやすいものです。

単なる剣豪としてではなく、思想家・兵法家・芸術家としての武蔵に是非触れてみて下さい。



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規 格

昔、ドリフターズや吉本新喜劇のお笑いの小道具として、また女子プロレスの極悪同盟が凶器(?)としてよく利用したものといえば?


・・・そう、〝一斗缶〟ですょネ。


相手のアタマを殴ると 「バ~ン!」 っていう派手な音が出ますが、意外とダメージが少ないので小道具としては重宝な一品。


もちろん本来の利用目的は人を殴るものではなく、液体を運搬する容器なのですが・・・実はこの〝一斗缶〟、現在は正式名称じゃないって、ご存じですか?


最初は、石油を入れたので〝石油缶〟。


(この名残で、現在普及しているポリタンクも同じ容量なんですって。)


その次に容量が一斗だったので〝一斗缶〟。


戦後は、同じく容量の単位から〝5ガロン缶〟。


そして現在はJIS規格によって、〝18リットル缶〟が正式名称に。


今日・5月18日は、その5ガロンと18リットルにかけて、


 18リットル缶の日


なのだそうです。 


                         


ところで、このスチール製の缶、なぜ容量が半端な18リットルなのか?


それは、一升瓶1.8リットル10本分が、人間の手で運べるほぼ最大の容量だから。


では、どうして形が味気ない直方体なのか?


その理由は、輸送時や保管時に隙間なく積み込めコストが軽減されるため。


;">JIS規格により、一辺が238±2mm、高さが349±2mm、質量が

1,140±60g、容量19.25±0.45リットル・・・と厳格にサイズが決められており、何と10段くらいまで積み上げられる強度があるとのこと。

       


コントでは殴ると簡単に凹みますが、実は丈夫な容器なんですネ。

通販などで1個1,000円前後で入手でき、年間流通量が約2憶個という、縁の下の力持ち的存在の18リットル缶。


飲食店では燻製器として利用したり、リサイクル製品としても優れているそうですから、簡単に殴ったり蹴ったりして凹まさず、大切に利用しましょう!


        

          エネゴリ君の店にあるオーナー手作り燻製機


・・・って、コレを自宅に於いている方、いらっしゃいます?あせあせ

 


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