FC2ブログ
始 祖 

日本美術史上最も有名な流派といえば、狩野派でしょうか。

その狩野派を代表する同派4代目の絵師・狩野永徳については、過去に拙ブログでも記事にしました。(↓)



今日は、その狩野永徳と同時期に活躍し、狩野派に対抗する長谷川派を立ち上げた、

 長谷川 等伯

の命日・没後410周年にあたります。


等伯は1539(天文8)年に、現在の石川県七尾市で能登藩の下級家臣・奥村文之丞宗道の子として生まれました。(狩野永徳の4歳年下)


そして幼少時に染物屋を営む長谷川宗清の養子になりましたが、その宗清が雪舟の弟子・等春の門人だったことから、絵画に親しむ環境に育ったそうな。

10代後半頃から父・祖父から絵の手ほどきを受けていたと思われ、長谷川家が熱心な日蓮宗信者だったことから、法華関係の仏画・肖像画を数多く描いたようです。

20代半ばでは既に熟達した作品を描いていた等伯は、33歳の頃の養父母を相次いで亡くしたことから、郷土の菩提寺・本延寺の本山・本法寺を頼って妻子共々上洛。

一時は狩野派・狩野松栄に学んだものの、千利休や日蓮宗の僧侶・日通らとの交流を通して宋・元の絵画に触れるなどして、独自の画風を確立していきました。

千利休の仲介により、それまで狩野派の牙城であった大徳寺などの大仕事を請け負うように。

 
                
大徳寺山門天井画


等伯が利休に近づいたのは、競争相手だった狩野永徳と親しくなかったからだったとか。


永徳の記事にも書きましたが、彼等2人は相当お互いをライバル視していたようです。


       

         利休没後に等伯が描いた『利休居士像』(重文)


1590年には秀吉が建立した仙洞御所対屋の障壁画の仕事を請け負うべく画策したものの、狩野永徳に巻き返されたことも。

しかしその1ヶ月後に永徳が亡くなると、翌年には秀吉の嫡子・鶴松の菩提寺・祥雲寺(現・智積院)の障壁画制作を等伯が受注。(↓)

 

                
楓図(かえでず)・国宝 


これを大変気に入った秀吉から知行200石を与えられたことで、長谷川派は狩野派と肩を並べることに。

しかし好事魔多し・・・同年に支援者の利休が秀吉に切腹させられると、その2年後には跡継ぎとして育てた長男・久蔵に先立たれてしまいます。

その悲しみを乗り越えて・・・というか振り切るかのように、等伯はこの年から2年の歳月をかけて自らの代表作である水墨画の傑作 『松林図屏風』(国宝) を完成させています。(上・右隻 下・左隻)

    


 


その後、1599年には本法寺寄進の『涅槃図』から〝自雪舟五代〟と落款に冠し、自身を雪舟~等春~法淳(養祖父)~道浄(養父)~等伯と雪舟から自らの養祖父・養父を間にして5代目であると宣言。

これが功奏して大寺院からの制作依頼が次々と舞い込み、当代一流の絵師としての地位を盤石のものとしました。

65歳の時には制作中に高所から転落し、利き腕の右手を負傷したようですが、それでも制作意欲は衰えず。

1610(慶長10)年に徳川家康の要請により次男・宗宅を伴って江戸入りしましたが、その途上で発病し、江戸到着後わずか2日後の同年2月24日に70歳でこの世を去りました。

当時としては長寿だったため多数の作品を残し、また宗宅をはじめ実子をそれぞれ絵師として長谷川派を継承させているのは、さすがといえましょう。


ただし狩野派よりも色彩感覚に優れ斬新な意匠を特徴とする長谷川派も、始祖・等伯の没後は彼を超える優れた画家は輩出できませんでしたが・・・。


あの狩野永徳が一目置いた程の等伯の作品、是非美術本やネット検索で味わってみてください。


    

      『長谷川等伯 生涯と作品』(黒田泰三・著 東京美術・刊)


 


              人気ブログランキング

スポンサーサイト



一枚の写真

1975~86年にかけて、久米宏さんが司会を務めた人気番組『ぴったしカンカン』に、ブログタイトルと同じコーナーがありましたが、今日はその話題ではありません。

今からちょぅど75年前の今日・1945年2月23日・・・その年のピューリッツァー賞を受賞した歴史に残る写真が、太平洋の無人島で撮影されました。


皆さんもご存じであろう、その1枚とは


     硫黄島の星条旗

   Raising the Flag on Iwojima


    


後に太平洋戦争のシンボルとしてアーリントン墓地に建てられた海兵隊戦争記念碑の元になった、有名な写真です。


我が母校・長野高等学校の大先輩であった栗林忠道中将(当時)率いる日本軍が死守せんとする硫黄島にアメリカ軍が上陸を開始したのが、同年2月19日。

 ※栗林中将に関する過去記事は、こちら。(↓)


激しい艦砲射撃や空爆に耐えた日本軍の必死の抵抗も虚しく、遂に米軍兵6名が擂鉢山頂上に日本軍の水道管をポールにして星条旗を掲げ、それを同行したAP通信社カメラマンのジョー・ローゼンタールが撮影したのです。


※しかし星条旗はその後2回にわたり夜間日本兵によって日章旗に取り換えられたとか・・・日本兵の執念が伝わってきます。


この写真は異例の速さでアメリカ本国に送られ、18時間半後には各新聞がこれを掲載。


米国民が熱狂する中、一人の政治家がある策略を巡らせます。

それは、時の大統領F・ルーズベルトでした。

        Franklin Delano Roosevelt  


彼は星条旗を掲げた国民的ヒーローの6人を帰国させ、売れ行きが伸び悩んでいた戦時国債のキャンペーンに利用することを思いついたのです。


結果的に3名がその後の戦闘で死亡し、残ったレイニー・ギャグノン、ジョン・ブラッドリー、アイラ・ヘイズの3名が大統領命令で帰国。

彼らはヒーローとして全国各地を巡り、ルーズベルトの企み通り国債売上に貢献。


実に目標額の2倍に当たる233億ドルを国庫にもたらしました。


私はこの史実を、C・イーストウッドがメガホンを取った映画


  『父親たちの星条旗』 2006年公開)      

   Flags of Our Fathers


を観て、初めて知りました。


       


そしてこの映画でも描かれていますが、本来なら平凡な帰還兵だったはずの3人は偶然旗を立てたことで国民的ヒーローとなり、またその後半生・・・いや、人間性までもが大きく変わってしまいます。


ギャグノンは早く結婚したものの、その後なかなか定職には就けず。

ヘイズは有名になった重圧からその後アルコール依存症に陥り、うつ病も併発。 

何度か留置場の出入りを繰り返した挙句、硫黄島の戦いから10年後に32歳の若さで過度のアルコール摂取により急死。

またブラッドリーも心に深い傷を負い、この一連の出来事を家族には話さなかったと言います。


しかし 「孫たちのために語り継いでほしい」 という妻の強い要請により、1985年に一度だけ過去を語ったそうですが、その話を元に彼の息子ジェームズ・ブラッドリーが関係者を訪問して調査・出版した同名の著書が、映画の原作となりました。


そして隠された事実が、もうひとつ。

この写真、実は2回目の掲揚の時のもの。
これ以前に一回り小さな星条旗が立てられていたのです。


しかし最初の旗を掲げたC・W・リンドバーグ伍長が帰国後周囲にその事実を話しても信じてもらえず、逆に嘘つき呼ばわりされたとか。ダメだぁ顔


もし最初の星条旗掲揚の写真が大々的に報じられていたら、リンドバーグ伍長が時の人となって逆に3人は平穏無事な後半生を送り、更にはイーストウッドの映画は制作されなかったかも・・・。

1枚の写真は、国政から兵士の人生までを大きく変えたのです。


              人気ブログランキング

新大陸

新大陸を発見したとして一般的に有名なのはコロンブス・・・ですが、実際に彼が辿り着いたのは大陸ではなく、西インド諸島のひとつであるサン・サルバドル島。


 

しかしコロンブスは終生ここがアジアのインドだと信じていました。

 ※コロンブスに関する過去記事は、こちら。(↓)



今日は彼の陰に隠れながらも現在の世界最強国というか大陸にその名を残すイタリアの探検家・地理学者、

 アメリゴ・ヴェスプッチ
   Amerigo Vespucci


の命日にあたります。


       


ヴェスプッチは1454年にフィレンツフェで公証人の息子として生まれました。 (コロンブスより3歳年下)

父の弟つまり叔父から教育を受けラテン語やギリシァ語を習得した彼は、プラトンなどの古典文学や地理学に親しむように。

やがて分家の当主ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコに仕えた彼は、1481年にセビリアのベラルディ商会に入り、メディチ家の事業監督者となりました。

そしてスペイン国王フェルナンドが西インド探検航海を企画、それに参加要請を受けたヴェスプッチは43歳にして初めて外洋航海へ。

1497~98年にかけてカリブ海沿岸を探検する(※現在は航海していないとする説が有力)と、1499~1500年にかけての2回目の航海では更に南下してブラジル北岸まで探索。

ちょうどこの頃、カブラルがポルトガル王に命じられ喜望峰経由でインドに向かう途中にブラジルを発見し、同国はその領有を主張。

同地が新発見の島なのか、あるいは既にスペインが探索していた大陸の一部なのかをはっきりさせるべく、その調査役にヴェスプッチを抜擢。

彼は1501~02年に3回目の航海を行い、南緯50度まで南米大陸東岸を南下。

 


この時、彼はアジア最南端のマレー半島やアフリカ最南端よりも南に陸地が続くことから、それが新大陸であることに気づき、1503年に論文 『新世界』 で主張しました。

(その後更に1503~04年にかけて4回目の航海に出たとする説もありますが、これは確認されていません。)


この主張は当時の常識を覆すものとして知識人層には衝撃を与えましたが、彼の名が一般的に知られるようになったのは、1507年に南ドイツの地理学者マルティン・ヴェルとゼーミュラーがこの『新世界』 の内容を含む 『世界誌入門』 を出版してから。

この中に収録された世界地図に新大陸が描かれているのですが、ヴェスプッチに敬意を表して彼の名アメリゴのラテン語名アメリゴ・ウェスプキウスの女性形から〝アメリカ大陸〟と初めて名付けられたのです。


 

        左・矢印の細長い陸地が、アメリカ(南米)大陸


その後多少の紆余曲折がありながらも、アメリカ大陸という呼称が一般的に使われ現在に至っています。

但しこの当時はヴェスプッチ自身も北米大陸の存在は知らず、南米大陸について記述しているのみに留まっています。

北米大陸と陸続きであることがスペインの探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアによって確認されたのは、1512年2月22日に57歳でヴェスプッチが亡くなった、その翌年のことでした。

それでも現在の世界最強国に自らの名が冠せられていると知れば、きっとヴェスプッチもあの世で満足しているかも・・・。

※ちなみにコロンブスの名も南米コロンビアの語源となっており、それなりに名誉を保っています。
あせあせ

              人気ブログランキング

来 日

葬儀屋時代は、いつ入電があるか分からないため、大好きなクラシック音楽のコンサートは年に一度、年末の第九しか聴きに行けなかった私。

昨年引退してからは、良いコンサートがあれば行こうと思ってはいたものの、中々これは・・・と思える演奏会はなし。

11月にはよくCDで聴いているベルリン・フィルやウィーン・フィルが立て続けに来日したものの、S席50,000円はさすがに手を出せず。

結局昨年末の第九のみに終わってガッカリしていたのですが、今年に入って以前から聴きたいと思っていたアーティストの来日情報を掴みました。

それは以前拙ブログでも記事にした、


 
アンネ=ゾフィー・ムター
          Anne-Sophie Mutter


たまたまクラシック専門チャンネルで見かけた〝カラヤンの秘蔵っ子〟は、天才少女からすっかり美貌と貫禄を備えたヴァイオリン界の〝女王〟に成長していました。

CDも何枚か購入して聴いていた私は、彼女の来日情報を聴きつけ、すぐにチケットを購入。

そして昨夜、サントリーホールでのコンサートに足を運んで来ました。


    


ベートーヴェン生誕250周年記念〟と銘打たれたコンサートの演目は、3曲。

序曲 『コリオラン』 はオーケストラ(新日本フィル)のみの演奏でしたが、彼女は(この日のメインと言える)2曲目の 『ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品61』 からラメ入りのゴージャスな黒いドレスに身を包んでステージに登場。

※ 写真撮影禁止のため、その美しさをお見せできないのが残念!
 
 昨日のイメージに近い画像が、こちら。(↓)

    


この曲は数あるヴァイオリン協奏曲の中でも最も重厚かつ有名な作品ですが、以前テレビで観たムターのドキュメンタリー番組で彼女自身が語ったところによれば、かつてカラヤンと最も数多く共演したコンチェルトだそうな。

ただ彼女が14歳の時にリハーサルをした後、カラヤンは共演を急遽中止。

まだこの大曲を演奏する域には達していない・・・という判断だったようですが、ムターはこれを帝王からの激励と捉え、その後もクサらず精進に励んだそうな。

そしてそれから1年後再びリハーサルに臨んで見事カラヤンのお墨付きをもらい、コンサートでも成功を収めたとのこと。

※私が持っているCDは、その直後・・・彼女が16歳の時、1979年の録音。(↓)


    

そんなエピソードを知った上で聴くと、まるでカラヤン/ベルリン・フィルとの共演を聴いているような錯覚に陥りました。


演奏後ブラボーの掛け声と共に何人もの聴衆からスタンディング・オベーションを受けた彼女は、「今世界中で病気(コロナ・ウィルス)で苦しんでいる方々に」捧げるバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルテイータから1曲をアンコール演奏。


そして休憩の後、3曲目の(偶然?にも↑のCDに収録されている)『ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲』では、長年ピアノ伴奏のパートナーとして組んでいるランバート・オルキスと共演。

さすが超一流アーティストが奏でるヴァイオリンの音色は、どの曲でも実に艶やか。 特に高音域が素晴らしかったです。

『第九』で聴く合唱の圧倒的な音量とは違うものの、たった1挺のヴァイオリンの音がオーケストラに負けず、あそこまでホール一杯に響き渡るとは・・・ちょっと鳥肌が立つくらい感動。

やはり、アンネ=ゾフィーは〝女王〟でした!


              人気ブログランキング

北極点

日本ではあまり知られていませんが、今日は西洋人で初めて北極点に到達したといわれる探検家、


 ロバート・エドウィン・ピアリー
Robert Edwin Peary


の命日・没後100周年にあたります。


        


ピアリーは1856年にペンシルバニア州クレソンで生まれましたが、父親を3歳の時に亡くすと母と共にポートランドに移り住み、ボルデウィン・カレッジで土木工学の学位を取得。


1877年に卒業した後、米国沿岸測地測量局でエンジニアとして働き、1881年から海軍に入隊。


その後ニカラグア運河調査の助手などを務めた彼が北極に関心を持つようになったのは、1891~97年にかけて4度グリーンランド探検をしてからのこと。

その間現地イヌイットの女性と結婚し2児をもうけた彼は、翌1898年に北極点到達に挑戦するも、失敗。

そして1909年4月6日、ピアリーら6名(アメリカ人2名・イヌイット4名)が北極点到達に成功した・・・といわれています。

       


この宣言により、それまで同様に北極点を目指していたアムンセンや白瀬中佐らは南極点に目標を変えることに。

 ※アムンセンに関する過去記事は、こちら。(↓)



「したと言われている」 と伝聞形で書いたのは、実際に西洋人として初めて北極点に到達したのが彼だ、という確かな証拠がないから。


この探検から帰還後、以前共にグリーンランド探検をしたものの本の出版を巡ってピアリーと衝突・決別したフレデリック・クック(1865-1940)が、

「自分は1908年4月21日、北極点に到達していた。」

と主張し、論争が巻き起こりました。


        
              Frederick Albert Cook


調査委員会まで設置され事の真偽が審査されましたが、クックが以前宣言したマッキンリー初登頂がウソだったという証人が現れたことで彼の発言の信憑性が疑われ、結局ピアリーに軍配が。

しかし後日、その証人に対しピアリーから現在の貨幣価値で約1千万円もの大金が渡されていたことが明らかになっていますから、偽証の疑いが非常に強いのです。

当時ピアリーのバックにはナショナル・ジオグラフィックやニューヨーク・タイムスがついていたそうですから、彼はメディアによって力ずくで英雄に仕立て上げられたとも言えます。

※クックはその後偽証の罪で収監されるなど、不幸な後半生を歩みました。 実際に北極点には到達していなかったようですから、ある意味身から出た錆とも言えます。
しかし彼の名誉のために付け加えますと、その探検技術は一級品だったようで、前述のアムンセンもそう証言しています。


またピアリーの到達地点は後の調査で北極点から約6km離れた場所だったことも確認されていますから、果たして彼を西洋人初の北極点到達者と認めていいのかどうか・・・。

ただ最初の北極点到達に失敗した際、凍傷により足の指8本を切断したにもかかわらず何度もチャレンジした彼の探検家スピリットは一級品だったことは確か。

いや、もしかしたらスポンサーの関係で止めるに止められなかったのかもしれませんが・・・。
うー


               人気ブログランキング

面 倒

先日、エネゴリ君の店でランチを食べた時のこと。

「ここのところ、付け合わせにカポナータ(野菜のトマト煮込み)が続いてたから、たまには違う料理にしてくれる?」

と彼に頼んだら、

「分かりました~。」

と言って出てきたメイン・ディッシュが、こちら。


    


「何、これ? もしかして、マッシュポテト?」

「お~、よく分かりましたネ~。」

「こらこら、いくら素人でもそれくらい見ればわかるっての。」

早速一口食べてみると・・・

「ほぉ~、美味しいじゃん、コレ。」

とカウンター越しに彼の顔を見ると、

「はぁ、ありがとうございます。」

と口では言ったものの、あまり嬉しくない様子。

「何だょ、この前のパンと同じ反応だナ。」

 ※そのパン事件(?)に関する過去記事は、こちら。(↓)



「あの時はパン屋じゃないとか言ってたけど、これは料理じゃん。
もしかして、業者から出来合いを仕入れたの?」

「いえ、自分が作ったッス。」

「じゃあ素直に喜べょ。」

「いやァ、コレ作るの結構手がかかって大変なんですョネ~。」

「だったら、猶更・・・あ、そうか。 美味しいからまた作ってって言われるのがイヤなんだろ。」

「さすが渡辺さん。 最近ボクのこと分かってくれるようになりましたネ。」

「アホか。 お前さんのことは初めて会った時からだいたい分かってるっての。 しかし、それをオーナーの目の前で言うかネ。」

そこまで黙って聞いていたオーナー、エネゴリ君に向かってただ一言。

「じゃ、今晩もマッシュポテトの仕込み、よろしく。」


             


              人気ブログランキング

【葬儀屋時代の思ひ出】 司 会 <下>

いきなり司会役を放り投げた(?)Sさん・・・結局やりたかったのは、どうやら葬儀委員長だったみたいです。


そして私はいきなり後を託されたわけですが、実は昼下がりにSさんが突然式場にやってきて、二言三言やり取りをさせていただいた時に、


(ハハァ~ン・・・このSさんって、殆ど司会経験はないナ。)


って(失礼ながら)何となく感じていました。


ですから口には出しませんでしたが、

①「やっぱり、や~めた」とドタキャン。
②途中で行き詰まって固まる。

等のアクシデントを想定して、何通りかの進行パターンを予め考えてはいたんです。


さすがに冒頭からこういう展開になるとは予想していませんでしたが、ヘタに中途半端なところでバトンタッチさせられるよりも、私にとって “初期段階での丸投げ” はかえって助かりました。


(司会経験のある方なら、この感覚はお分かりいただけるかと・・・。)


マイクを引き取った私は、

「それでは、まず故人様に黙祷を捧げていただきたいと存じます。
恐れ入りますが、皆様ご起立をお願い致します。」


と進行を引き継ぎ、以降故人様の愛した曲をお聴きいただく “献奏”、そして“献花” 等々・・・時計とにらめっこをしながら式を進め、最後は “喪主様のご挨拶” をいただいて、午後7時過ぎに無事閉式することが出来ました。笑3 ホッ


お食事の席へと皆様をご案内し、皆さんが箸を付け始めた頃・・・部屋からは


「どうだA子ちゃん、ビシッといい通夜になっただろ!」


というSさんの大声が、ロビーにいる私にまで聞こえてきました。あせあせ


       


食事も終わって帰り際、SさんとA子さん、そして私の3人で翌日の打ち合わせをした際には、


「明日は、もうアンタに任せるワ。」


とおっしゃっていたのに、翌日また開式時間ギリギリに式場入りしたSさんが、


「あのさぁ、やっぱりオレ・・・今日の精進落としの料理について最初に説明したいんだけどなァ。」


と言い出すではありませんか。


しかし、さすがに告別式は出棺時間の問題があるので、


「Sさん、お食事の件は告別式の時でなくても、火葬中の待ち時間が約1時間ありますから、その時にお話しされたら如何ですか?」


と申し上げました。 でも、どうしても喋りたいらしくて


「う~~~ん。」

と唸っていたSさんに、それまでズ~ッと見て見ぬふり(?)をしていた奥様が、遂にシビレを切らせたのか、


「アンタ、いい加減にしなさいョ。 今日は静かにしてなさい!」 怒


と一喝。 さすがのSさんも、シュ~ンとして式場に入りました。


おかげさまで告別式は予定通り進行し、皆さんに手向けていただいた花々で一杯になった故人様の棺は、無事火葬場へと向かわれました。


ちなみに火葬場でのSさん、4,5人ずつ座っていたご親戚のテーブルを逐一回って、精進落しの説明を一生懸命していた・・・と、同行した女性スタッフから後で報告がありました。


全ての式次第が無事終了し、A子さんのご自宅に伺って後飾りを設えさせていただいた時、


「一時はどうなることかと心配しましたけど、おかげさまで無事母を送ることができました。 本当にありがとうございました。」


というお言葉をいただき、ホッと一息。


A子さん、さすがにかなりお疲れのご様子でしたが・・・私にとってもドキドキの連続、も~グッタリの2日間でした。

最後に、皆様にお願いがございます。


式当日に「司会をやらせろ」というお申し出だけは、何卒ご容赦いただきますよう・・・って、そんな無茶を仰る方は、拙ブログ読者にはいないでしょうけど。あせあせ


              人気ブログランキング 

【葬儀屋時代の思ひ出】 司 会 <中>

開式5分前になっても姿を見せないSさん・・・ヤキモキする私を尻目に、ご親族の皆さんは涼しい顔。


不思議に思ってお聞きすると、ナントSさんのお住まいは式場から自転車で5分もかからない距離にあるとの事。


(道理で、さっきあんな格好で式場に来られたんだ・・・)


と妙に納得したちょうどその時、定刻の午後6時ジャストにSさんが姿を現しました。


「おっ、皆揃ってるようだネ・・・。んじゃ、始めようか?」


と言って、スタスタと式場に入ろうとするものですから、私は慌てて

「す、すみません。 ちょっとだけ打ち合わせさせてください。」


と言ってロビーの片隅に来ていただき、

「司会はお任せしますが、私から開式の口上だけは述べさせてください。 その後はよろしくお願いしますネ。」


と申し上げました。 するとSさんは


「おう! 分かった、分かった。」


と返事をしつつ、式場内へ。


(ホ、ホントに分かってるのかなぁ・・・)うー


そして予定より10分遅れて、兎にも角にも通夜式は始まったのです。


        


式場中央に綺麗な花々で囲われた棺をご安置し、その周囲を囲むようにご親族全員が着席されました。


私は開式の口上を述べた後、


「ではこれより、S様のお取り仕切りによりまして、通夜式を開式とさせていただきます。 それではS様、よろしくお願い致します。」


するとSさんは、席を立つとその場でマイクを手に持ち、何やら準備してきた原稿をポケットから取り出し、それを読み始めました。


内容は・・・故人様と本家(というかご自分!?)の略歴、そして今回無宗教葬形式になった経緯の説明でした。


(あらら、Sさん・・・それって喪主様が喋る内容ですョ。)うー


なんて思っている内に〝司会者〟Sさんのスピーチ(というか原稿朗読)が終わりました。


するとSさん、こうおっしゃったんです。


「で、このたびの葬儀につきましては、葬儀社ウォームハートの社長さんに大変お世話になりました。 ありがとうございました。」


(Sさ~ん、そんなことは言わなくても・・・。

それにまだ開式したばかりで過去形はマズいでしょ。)


そして、これまた予想外の一言がSさんの口から!


「それでは社長さん、あとはよろしく!」


そう言うなり、ドッカリ椅子に座ってしまうではありませんか。驚き顔


(えっ? ち、ちょっとSさん、貴方さっきまで司会進行やるって言ってたじゃないですかぁ。)


喪主席に座っているA子さんが、もう涙目で私をすがるように見つめています。


嗚呼、一難去ってまた一難・・・どうする、ナベちゃん!?


                ・・・・To be continued!


              人気ブログランキング 

【葬儀屋時代の思ひ出】 司 会 <上>

葬儀屋稼業から足を洗って早や1年が経ちましたが、17年間お世話させていただいた現場では、今もって忘れられない出来事がいくつもありました。

ということで、今後拙ブログでは折を見てそのエピソードをご紹介したいと思いますが、今日はその第一弾を・・・。

           ◆     ◆     ◆     ◆

亡くなられた女性は、娘のA子さんと同居されていた70歳過ぎの方でした。


生前より 「私の葬式は親戚だけお呼びして、無宗教葬でお願いネ。」 とA子さんに伝えていたとのこと・・・。


私は喪主をお務めになるA子さんとご要望に沿う形での打ち合わせをさせていただき、ご親族様のみ約20名での家族葬ということで、特に問題もなく粛々と準備を進めていきました。


通夜当日の昼過ぎまでは・・・。


       


通夜当日の午後、私たちが式場でお通夜の準備を始めた直後、故人様の弟(つまりA子さんの叔父様)と名乗るSさんが、ポロシャツ1枚というラフ(?)なスタイルで突然お見えになったのです。


(開式までまだ何時間もあるのに・・・なんで?)


といぶかる私に、Sさんは予想だにしない言葉を口にしたのです。

「あのさァ、葬儀屋さん。 悪いけど今日の通夜・・・オレが司会進行やるからさァ。 そのつもりで頼むョ!」


「え゛っ!?」

呆気に取られている私にSさんは、


「じゃ、よろしくねぇ~。」


と言い残し、スタスタと式場から出て行ってしまいました。


(い、一体どういうこと?)


頭が混乱しているところへ、入れ替わるようにA子さんが来られました。


早速その出来事をお話しすると、A子さんはため息混じりに


「やっぱり・・・。」


何でも、亡くなったお母様は5人姉弟のご長女。 


上から4人は全員女性、末弟であるSさんのみが男性ということで、本家を継いでいらっしゃるのだとか。


Sさんはご自分が本家筋だという意識が大変強いとの事。 


これまでも事ある毎に親戚が絡む行事に介入してきたそうで、この日も午前中にA子さんに電話をよこして、


「A子ちゃん、オレが仕切ってあげるから大丈夫。 

心配しなくていいから!」


と言って一方的に電話を切ってしまったのだそうです。


A子さんの立場としては、Sさんの〝ご好意(?)〟を無碍に断るわけにも行かず・・・


「渡辺さん、どうしましょう?」


と、不安な面持ちで問いかけられた私は、

「無宗教葬ですので、いざとなれば私の方で何とかしますから、どうかご心配なく。」

と胸を張ったものの、一抹の不安は拭えず。
うー


(まぁ、開式前に打ち合わせさせていただくしかないか・・・。)


そう思いながら、お通夜の準備を再び始めたのですが・・・。


時間は進み、開式10分前の午後5時50分。 

既にご親族は全員式場に到着されています。


ところが、肝心カナメのSさんだけがまだ姿を見せてくれません。


司会進行を自ら申し出られている以上、私が勝手に始めるわけにもいかず。


開式前から風雲急を告げるご葬儀・・・一体どんな展開になるのやら?


                  ・・・・・To be continued!

              人気ブログランキング 

遅咲き

今日は、多くの方がその作品に小説や映画を通して触れたであろう作家

 新田 次郎 さん

の命日・没後40周年にあたります。


       


新田(本名:藤原 寛人[ひろと])さんは、1912(明治45)年に長野県上諏訪で生まれました。

※ペンネームは、生まれ故郷が角間新田(かくましんでん)だったことから新田を〝にった〟に読み替え、次男だったことから次郎としたそうな。

とは言え当初から小説家を目指していたわけではなく、むしろ理系だった彼は旧制諏訪中学校(現・諏訪清陵高等学校)から無線電信講習所本科(現・電気通信大学)を卒業後、1932年に中央気象台に就職。


最初の配属先が、富士山観測所でした。

普通に考えればいきなり過酷な職場に放り込まれた感がありますが、新田さんの場合はこれが後々功を奏したといえます。

そしてもうひとつ、新田さんの運命を変えたのが、結婚。


1939年に所帯を持った相手・兩角(もろすみ)ていさんが、作家だったのです。

結婚翌年に中央気象台布佐送信所に転勤し、1943年には満州の気象台に転属した彼は、1945年の終戦時には新京でソ連軍の捕虜となり、1年間抑留生活を経験。

翌年中央気象台に復帰した頃には既に小説らしきものを書いていたようですが、本格的に小説家を目指すキッカケになったのは、奥さんが書いた 『流れる星は生きている』 という作品がベストセラーになり、映画化されたこと。

当時過酷な職場環境の割に安月給で苦しかった生活が、このヒットで楽になったことで、新田さんは真剣に作家への転向を考えたようです。

アルバイトで教科書の気象関係の執筆や小説を書き始めた彼は、1951年にサンデー毎日が公募した第41回大衆文芸に応募した 『強力伝』 が一等となり、同作品は1956年の第34回直木賞を受賞。


その後も複数の作品を発表すると、1963~65年にかけて気象庁観測部測器課補佐官・高層気象観測課長・測器課長として、富士山気象レーダー建設責任者となり、見事設営に成功。

その翌年、作家一本に絞るべく慰留を振り切って定年6年前に気象庁を退職すると、1967年には富士山レーダー建設を実体験に基づいて描いた 『富士山頂』 を上梓。

       

                 文春文庫・刊

1971年に発表した 『八甲田山 死の彷徨』 が、1977年に高倉健さん・北大路欣也さんが主演した 『八甲田山』 で映画化。

この中で北大路さんが発した 「天は我々を見放した」 という台詞が流行語になったことで、新田さんの知名度は一気に上がりました。


自らの体験を通じて書かれた山岳小説は、他の追随を許さぬ緻密な描写が特徴。

拙ブログでも、過去に富士山頂の観測に命を懸けた野中夫妻の物語『芙蓉の人』(1971 ↓)


や、剱岳に登頂し測量点を設置した柴崎芳太郎の奮闘ぶりを描き映画化もされた 『剣岳点の記』 (1977年 ↓)


    https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12370749060.html


をご紹介しました。

その他歴史作品としても吉川英治文学賞を受賞した 『武田信玄』(1969)や 『新田義貞』(1978)、『武田勝頼』(1980)などを上梓した新田さんが心筋梗塞で67歳の人生に突如幕を下ろしたのは、1980(昭和55)年2月15日のことでした。

作家に転身したのが遅かった故に、自らの健康を顧みない程精力的に筆を進めたことが、彼の命を削ってしまったのかもしれません。

遅咲きながら多くの名作を残した新田さんのご冥福を、彼の作品のページをめくりつつ祈りたいと存じます。
笑3


               人気ブログランキング