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引 用

古今東西、名演説は数あれど・・・おそらくその中で最も有名なものとして多くの方があげるのは、


 〝ゲティスバーグの演説〟


ではないでしょうか。


これは今から155年前の今日・1863年11月19日、第16代アメリカ大統領アブラハム・リンカーンが南北戦争の犠牲者を追悼するため、ペンシルバニア州・ゲティスバーグの国立戦没者墓地での奉献式典(開所式)で行ったもの。


       


ゲティスバーグは、その4ヶ月前に両軍合わせて約4万5千人以上の戦死者を出し、グラント将軍率いる北軍が勝利した南北戦争の激戦地。


    


そこで彼は、アメリカ存続のために戦って命を落とした兵士たちの栄誉を誇らかに称え、有名な一節の、


“government of the people, by the people, for the people”

      人民の、人民による、人民のための政治


は、彼の演説の最後に出てくるのです・・・が、実はこの式典に於いてリンカーンは主役ではありませんでした。


メイン演説を行ったのは、元上院議員で名演説家のエドワード・エヴァレット。


2時間にも及ぶ彼の大演説が終わった後に登壇したのが、現職大統領のリンカーン。


しかも彼は主催者側から 「手短に」 と依頼されていたため僅か2分程の演説に留め、しかも小声で聞き取りにくく当日は殆ど注目されなかったとか。


        

               ゲティスバーグ国立墓地


 しかし、たまたまこの演説を書き留めていた記者が後日記事にしたことによって、日の目を見ることに。


もっとも、この一節はリンカーンが考えたものではなく、1300年代に出された英訳聖書の序文が原典。


リンカーン以前にも複数の政治家がこれを引用していたといいますから、ほぼパクリ。


しかも彼自身が失敗だと思っていたこの演説が後世で有名になったのですから、世の中分からないというか皮肉なものです。


そしてこの演説・・・我が国にも決して無関係ではありません。


日本国憲法の草案前文に、この一節がマッカーサーによって盛り込まれたのです。


government is a sacred trust the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people


そしてこれはそのまま和訳され、前文として採用されました。


『そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。』


逆に言うなら、現在の日本国憲法が過去の名文(や他国の憲法条文)を繋ぎ合わせた代物であることを示しています。

果たしてそんな〝英文和訳憲法〟を、私たちはいつまで金科玉条の如く押し頂き続けるのでしょうか?

おっと、話が少々脱線しました。

それでは最後に、この名演説の英文原稿と和訳をお読みください。


    


Four score and seven years ago our fathers brought forth on this continent, a new nation, conceived in Liberty, and dedicated to the proposition that all men are created equal.


Now we are engaged in a great civil war, testing whether that nation, or any nation so conceived and so dedicated, can long endure.


We are met on a great battle-field of that war. We have come to dedicate a portion of that field, as a final resting place for those who here gave their lives that the nation might live.


It is altogether fitting and proper that we should do this.


But, in a larger sense, we can not dedicatewe can not  Consecrate we can not hallow this ground.


The brave men, living and dead, who struggled here, have consecrated it, far above our poor power to add or detract.


The world will little note, nor long remember what we say here, but it


can never forget what they did here.


It is for us the living, rather, to be dedicated here to the unfinished


work which they who fought here have thus far so nobly advanced. It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain that this nation, under God, shall have a new birth of freedom and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.


87年前、我々の父祖たちは自由の精神に育まれ、人は皆平等に創られているという信条に捧げられた新しい国家を、この大陸に誕生させました。


今我々は一大内戦の最中にあり、戦うことによって自由の精神を育み、自由の心情に捧げられたこの国家が、或いはこのようなあらゆる国家が、長く存続することが可能かどうかを試しているのです。


我々はそのような戦争の一大激戦地で、相会しているのです。


我々はこの国家が生き永らえるようにと、ここで生命を捧げた人々の最後の安息の場所としてこの戦場の一部を捧げるために来ました。


我々がそうすることは、実に適切であり好ましいことである。


しかし更に大きな意味で、我々はこの土地を捧げることはできません。清め捧げることも、聖別することも、足すことも引くこともできません。

我々の貧弱な力を遥かに超越し、生存者・戦死者を問わず、ここで闘った勇敢な人々が既にこの土地を清め捧げているからです。


世界は我々がここで述べることにさして注意を払わず、長く記憶に留めることもないでしょう。


しかし、彼らがここで成した事を決して忘れ去ることはできません。


ここで戦った人々が気高くもこれまで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここで捧げるべきは、むしろ生きている我々なのです。


我々の目の前に残された偉大な事業にここで身を捧げるべきは、むしろ我々自身なのです。


それは名誉ある戦死者たちが最後の力を出し尽くして身命を捧げた偉大なる大義に対して、彼らの後を受け継ぐ我々が一層の献身を決意することであり、彼らの死を決して無駄にしないため、またこの国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして人民の人民による人民のための政治を地球上から決して根絶させないために、我々がここで固く決意することなのです。


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90歳

この有名なネズミを知らない日本人は、まずいないでしょうネ。 


 ディズニーランドのシンボルと言っていい、その


  ミッキーマウス   

   Mickey Mouse


が初登場したのが、今からちょうど90年前の今日でした。


       


1901年に鉄道員の息子として生まれたミッキーの生みの親ウォルト・ディズニーは、新聞配達などをしながら昼は高校に通いながら美術学校の夜間部で学ぶ苦学生でした。


第一次世界大戦時には志願して衛生兵としてヨーロッパ戦線に従軍した彼は、除隊後に漫画家を目指したものの上手くいかず、職場で知り合った友人と共に会社を設立するも長続きせず。


しかし彼はこの時、〝アニメーション〟の大きな可能性に気づきます。


再起を賭けて映画の街・ハリウッドに移住し、兄のロイと 『ディズニー・ブラザース・カートゥーン・スタジオ』 を設立。


多くのアニメーター仲間を集めて作品を制作し、1925年にはリリアンとめでたく社内結婚すると会社も軌道に乗り始めます。


ところが1928年に契約問題でトラブルに見舞われて多くの社員の引き抜き工作に遭い、会社は倒産の危機に。


そこで窮余の一策として、以前のアニメ作品で脇役として使っていたネズミのキャラクターを主役にすることを決意・・・それが〝ミッキー・マウス〟の誕生のキッカケに。


                                                      

                      Walt Disney


ただ、一般的にディズニーが飼い慣らしたネズミを研究し、耳・口・足などを大きくしポイントを付けてミッキーマウスを考案したという逸話が知られていますが、これはウソ。


ミッキーの〝生みの親〟は、ディズニーの親友として彼と共に会社を支えたアニメーター、  


 アブ・アイワークス(1901-1971)

 Ub lwerks


       


彼が円定規と楕円定規で簡単に描けるように考案したキャラクターだったのですが、当初ディズニーは〝モーティマー〟と命名。


しかし、妻・リリアンが反対・・・逆に彼女が提案した〝ミッキーマウス〟に変更したエピソードは有名ですネ。


ただしモーティマー・マウスは、ミッキーの恋人(ネズミ?)ミニー・マウスの幼馴染み(ミッキーの恋敵)としてしっかり登場しています。


そのミッキーとミニーが登場するディズニー社制作の短編映画 『蒸気船ウィリー(Steamboat Willie )』 が初公開されたのが、1928年11月18日だったのです。


※厳密には本作の前に作られた 『プレーン・クレイジー』 と 『ギャロッピン・ガウチョ』 に起用されていたのですが、公開は 『蒸気船ウィリー』 の方が先となりました。


       


スクリーンに初登場するや、ミッキーマウスは爆発的人気を博し、これによって瀕死のディズニー社は劇的な復活を遂げました。


1955年にディズニーランドを開設、さらにその10年後にはホテルをも含めたウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートの建設に着手。


その後の隆盛は、もう説明の必要はないでしょう。 身長3フィート2インチ(約96.5cm) 体重23ポンド(約10.4kg)のミッキーは、ディズニー社の救世主だったわけです。


しかし残念ながら、彼をデザインしたアイワークスはその後 「ミッキーを奪われた」 と次第にディズニーを憎むようになり、彼と決別して自らスタジオを持つに至るのですが・・・。


それではミッキー90歳の誕生日を祝いつつ、彼の初登場アニメをご覧ください。



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通 史

発売前からネット上で大きな注目を集め、通販サイトでも長期間にわたりランキング1位をキープした話題の書籍、

 『日本国紀』 (幻冬舎・刊)

が、今月12日に発売されました。


・・・と言っても、実質的には10日頃から書店に並び始めましたから、皆さんの中には既に店頭で購入された方も少なくないと思います。

       

タレント本でも写真集でもない、歴史を題材にしたお堅い書籍なのに、発売日の翌日13日時点で既に4刷・40万部という、異様に売れる原因は何故なのか?

それは著者が 『永遠の0』 や 『海賊とよばれた男』、『カエルの楽園』 など何冊ものベストセラーを生み出した当代ナンバーワンの売れっ子作家であること。

その百田氏自身がツイッターで先月あたりから盛んに出版のアピールをしたことが挙げられましょう。

しかし私は、それに加えて学校での自虐教育・歪んだ歴史観に違和感を持つ多くの人々が、保守の論客である百田氏がどんな日本史観を繰り広げるのかに期待したことが一番の理由だと思います。


もちろん私もそこに期待して10月から予約を入れ、12日に届いてからすぐに読み始めました。

流石は希代のストーリー・テラーといわれるだけあって、百田氏の文章の構成・つなぎ方が上手いせいか非常に読みやすく、500ページに及ぶ単行本ながら数日で読了。


古代から平成時代まで、様々な知られざるエピソードを挿入しつつ、特に江戸時代以降の近代史に重点を置いて、日本史を一つの物語に仕上げています。


著者本人が仰っている通り、単なる日本(人)礼賛ではなく過ちは過ちとして批判し、また(隣国に阿っているかのような)教科書の矛盾点をも指摘しています。

左翼勢力、中には某大学の名誉教授が発売前・直後から読みもせずに批判したり懸念をネット上で公表していましたが、私に言わせれば全くのナンセンス。


学校で無味乾燥な教科書をブツ切りで読んでいては分からない大きな国史の流れ(特に支那・朝鮮との関わりについて)を、あらためておさらいできました。

学校の歴史教育や反日左翼メディアの報道姿勢に不満のある方が読めば、きっと満足されると思います。

本書を読むと〝歴史は繰り返す〟ことを実感しますし、おそらく著者は今後の日本がその過ちを二度と繰り返して欲しくない・・・という願いをも込めて筆を進めたと推察する次第。

是非一人でも多くの方に同書を読んでいただき、(
特に江戸時代以降の近代史について) 正しい日本史観を持つと同時に、あらためて日本人の素晴らしさを再認識し、累々と歴史を積み重ねてこられた先人に感謝する端緒にして欲しいと思います。

正しい歴史を知らず自らに誇りを持たぬ民族は、滅びますから・・・。

個人的には中・高校生にも是非読んで欲しいのですが、高校・大学の受験では本書を基に回答すると不正解とされてしまう恐れがあるのが、難点と言えば難点でしょうか。
うー

その辺の匙加減は、保護者にご判断いただくしかありませんが。


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録 音

今からちょうど140年前の今日、日本初の画期的な実験が東京大学で行われました。

それは、蓄音機を使った録音・再生実験。

その前年に、エジソンが自ら歌った〝メリーさんの羊〟をフォノグラフに録音させ、それを再生する実験に成功。

そして1878(明治11)年10月下旬に、東京大学理学部の教授として招聘・来日したイギリス人物理学者

 ジェイムス・アルフレッド・ユーイング

        Sir James Alfred Ewing


が、そのフォノグラフを手土産として日本に持参したのです。

       


当時の日本では、この直前に中村正直という方が自ら出版していた 『同人社文学雑誌』 の中で〝蘇言機ノ事〟という記事を紹介しただけで、フォノグラフは一台もありませんでした。

ですからユーイングがこれを手土産に選んだのは大正解・・・日本人の心を鷲掴みにしたのは間違いなかったでしょう。


そして彼が来日したから僅か2週間余りの1878(明治11)年11月16日、〝世紀の実験〟が行われました。

使用したフォノグラフは、ハンドルで回転し徐々にスライドする円筒に錫の箔を貼り付け、円筒に振動する刃を直角に取り付けて、音の振動によって錫箔に傷をつけるというもの。

※ちなみに彼はその後、『ユーイング式水平振子』と呼ばれる地震計を考案し、日本の地震観測学の草分け的存在にもなっています。

振動を記録するというフォノグラフの原理を応用したんでしょうネ。


    

上の画像は、現在国立科学博物館に所蔵されている復元されたフォノグラフですが、構造はご覧の通り至ってシンプル。

それでも再生された音を聞いた人は、さぞや驚いたことでしょう。


それが如何に衝撃的だったのかは、ユーイングが更に翌年3月に銀座の東京商法会議所(現・商工会議所)でも公開実験を実施した際に立ち会った、東京日日新聞社長・福地桜痴が

「このような機械ができると、新聞屋は困ってしまう」

とフォノグラフに録音したことでも伺えます。

幸いにもこの存亡の危機(?)を乗り越えた新聞業界ですが、今再びネットの普及により再び存続が危うい状況。

当時は音だけでしたが、現在は誰もが簡単に映像を撮影しそれをSNS等で公開できる時代・・・今まで彼らが繰り返してきた偏向・捏造報道は、すぐに露見し糾弾されるのですから。うー

初めて日本国内で録音実験が成功してから140年でこんな時代が到来するとは、当時の新聞屋さんたちには予想できなかったでしょうネ。


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小言幸兵衛

今日は、私の大好きだった政治評論家  


三宅 久之 さん


の命日・・・早いもので、七回忌を迎えます。


        


三宅さんは1930(昭和5)年に、日立製作所に務めるエンジニアだった父の四男として、現在の東京都杉並区阿佐谷南で生まれました。


戦時中は海軍の戦闘機を組み立てるなどしましたが、戦後の1949年に早稲田大学第一文学部に入学し、卒業後は毎日新聞社に就職。


 政治部記者として吉田茂首相の番記者などを務めた後、政治部副部長・特別報道部長などを歴任して1976年に同社を辞め、政治評論家に転身。


1978~85年まで、テレ朝の 『ANNニュースレーダー』 のキャスターを、その後は同局の 『やじうまワイド』 ・ 『新アフタヌーンショー』 にコメンテーターとして出演。


私自身それらの番組で三宅さんを見かけた記憶がありますが、政治評論家として注目するようになったのは、『ビートたけしのTVタツクル』 にレギュラー出演するようになってから。


たけし師匠のトークが面白くて毎週同番組を観ていましたが、三宅さんの歯に衣着せぬはっきりとした物言いは、実に痛快。


すぐにカッと頭に血が上っていましたが、それは人間に裏表がない証拠・・・個人的には好感が持てましたし、保守派の論客としての主張には概ね共感を覚えました。


       


残念ながら2012(平成24)年には糖尿病の悪化で評論活動から引退を表明。 同年6月から休養に入り、一旦は回復したことをブログで表明しましたが、11月15日に82歳でこの世を去りました。


 同年9月に行われた自民党総裁選では安倍晋三氏を応援し、その実現を見届けることは出来ましたが、同年12月の総選挙で自民党が与党に返り咲き、念願の安倍内閣誕生は天国から眺めることに・・・。


座右の銘は〝愛妻・納税・墓参り〟で、実際夫婦旅行のために番組を休んだこともあったとか。


英霊を偲び、よく靖國神社へも足を運んだそうです。


著名人であるが故に、何度か選挙への出馬を打診されたそうですが、それを固辞。


また大臣秘書官就任を打診された際も、「子分になると直言できなくなる」と断ったとか。


評論家という仕事にプライドを持っていらしたのでしょう。


そんな政界の〝小言幸兵衛〟のご冥福を、在りし日のお姿を偲びつつお祈りしたいと思います。



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続・ヒモ

先月21日の拙ブログでは、滋賀銀行で起きた巨額詐欺事件をご紹介しました。(↓)


が、それから15年後に当該事件を上回る9.7億円もの資金が詐取された

 青梅信金オンライン詐欺事件

が起きたことを、皆さんはご記憶でしょうか?

その実行犯である同行の女子職員〝S〟が逮捕されたのが、今からちょうど30年前の今日でした。

青梅信金は東京都下・青梅市に本店を置き、1922(大正11)年に設立された、預金残高約7,500億円の国内では中堅の信用金庫。


       


Sは1975年に高校卒業後同信金に入社し、本部経理為替係に配属され、その4年後組織変更により本部事務集中部集中課為替係として真面目に勤務していた、為替業務のベテランでした。

その彼女の人生を狂わせたのは、彼女の実弟を介して1985年に知り合った、元暴力団員のA。

Aは、自らが組織入りさせた彼女の実弟を足抜けさせるために必要だとSに持ちかけ、まず彼女の預金340万円を全額引き出させ、これを浪費。

そしてそれを使い果たすと、今度は包丁を突き付けるなど暴力を用いて脅迫したり肉体関係を迫って結婚をちらつかせるなど硬軟織り交ぜた手法でSを翻弄。

彼女の専門知識と信金の杜撰な管理体制を逆用する形で、約3年5ヶ月の間に不正の振り込み発信をした後にそれを隠蔽する架空伝票を作成するという手口で延べ73回にわたり総計9億7千万円をAの口座に不正送金したのです。

Aはその金の殆どを浪費。 内訳は分かっている範囲で

 ◇ギャンブル等の使途不明金        約2憶5,000万円
 ◇事業資金(といっても思い付きの投資) 約2憶3,000万円
 ◇飲食費等                   約1憶5,000万円
 ◇女性(もちろんS以外)との交際費    約7,000万円
 ◇自動車購入資金               約7,000万
 ◇その他の個人的消費               約5,000万円


お気づきの通り、Sの名がここには出てきません。


それもそのはず・・・Aから彼女に渡されたのは、250万円相当の指輪だけだったとか。

しかしさすがにこんな巨額不正がいつまでも隠せるはずもなく、事件が発覚してSが逮捕されたのが1988(昭和63)年11月14日でした。

当然世間は大騒ぎとなり、Sはもちろん彼女の上司も管理責任を問われて懲戒解雇。


各銀行はオンラインシステムの監視体制強化に躍起となりました。

そして翌年東京地裁八王子支部は、Sの両親が土地建物を売却し弁償金として約250万円を拠出したことなどを考慮しSに対し懲役5年、実質主犯であるAに対し懲役10年の判決を言い渡しました。

当然既に釈放されている両名・・・その後雑誌にSの返済計画云々の記事が出たこともありますが、実際にはどうしているのか?

青梅信金の預金者でなくとも、気になるところです。


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オペラと美食と

イタリア・オペラに於いて、プッチーニ、ベルディと並んで日本人にお馴染みの作曲家といえば、


 ジョキアーノ・アントニオ・ロッシーニ

       Gioachino Antonio Rossini


音楽室に掲げられていた、ふくよかな顔立ちの肖像画をご記憶の方も多いでしょうが、今日はその彼の命日・没後150周年にあたります。


       


ロッシーニは1792年、トランペットを吹く父親と歌手の母親の間に生まれました。


両親は早くから彼に音楽教育を施し、6歳の時には父親の所属する楽団でトライアングルを叩いたとか。


20歳前から早くもオペラの作曲を始めた彼は、21歳頃には作曲家としての地位を確立、有名な 『セビリアの理髪師』 を24歳の時に完成させています。


端正な顔立ちでもあった彼は一躍売れっ子作曲家となり、彼の才能を高く評価したベートーベンが自分の曲が彼ほど大衆に受け入れられないことを愚痴った程でした。              


1829年にパリで大作 『ウィリアム・テル』 の初演を成功させるなど、37歳までに19年間で39曲・・・特に20歳から7年間で27曲もの作曲をこなしたロッシーニ。


中には同じ旋律を使い回したりするなど、かなり要領がいいというか、いい加減なところもあったようですが、音楽の才能は超一級品でした。


ところが彼は、37歳にして作曲活動を殆ど休止してしまいます。


生涯の残り半分以上を何に費やしたのか?・・・それは、料理でした。


政府と交渉して年金を確保したロッシーニは、ボローニャに移り住んでトリュフを掘るブタを飼育したり、まるで北大路魯山人の如くパリでプライベートの美食家専門レストランを切り盛りし、貴族や有名人を接待。


クッキングの世界でも一流だった彼は、後のフランス料理に〝ロッシーニ風〟 と命名される料理を残す程でした。


しかし晩年は様々な病気を発症し、日本ではちょうど明治維新の真っ盛りだった1868年11月13日、手術後に感染した丹毒により76歳でこの世を去りました。


生前は超売れっ子だったにも関わらず、人生の後半を料理に捧げたからか、死後は2,3曲の有名な歌劇の作曲家という程度の扱いが続きます。


しかし近年は再評価の動きがあるとか。


そして皆さんにお勧めしたい彼の作品は、歌劇

 『ウィリアム・テル』

※特に序曲が有名ですので、皆さんもご存じのはず。

  カラヤン/ベルリン・フィルの演奏でお聴きください。
   有名なのは、3分過ぎから。 時間のない方は9分頃から。(↓)


 


ただ、あまりに壮大なオペラなので、全曲を収めた演奏があまり残されていません。

しかしこの作品は、ベルリオーズをして 「第2幕は神が創った」 と言わしめるほどの名作ですので、興味のある方にはこちらのDVDをお勧めします。

       

収録は1988年と少し古いですが、ミラノ・スカラ座の黄金期を築いたリカルド・ムーティの演奏ですので、聴き応え・見応えは十分です。

演奏時間は4時間ありますが、これを鑑賞ながら
音楽と料理に人生を捧げた多才の人・ロッシーニに、献杯! 笑3


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漂 流

皆さんは、John Mung という人物名をご存知でしょうか?


〝ジョン・マン〟と読めるこの名前、何やら中国系アメリカ人らしく聞こえますが、実は有名な日本人なのです。


タイトルの 『漂流』 が大きなヒントになるのですが・・・正解は


 ジョン万次郎


こと、中浜万次郎のアメリカン・ネーム。


今日は、波乱万丈の人生を送った彼の命日・没後120周年にあたります。


       


学校の日本史の授業では、「江戸時代後期に海で遭難・漂流し、アメリカ船に救助されて渡米した漁師」・・・程度しか、教わらなかった私。


ところが調べてみると、彼の存在は江戸時代末期から明治維新以後の日本に大変な影響を与えていたのです。


1827年に漁師の次男として土佐に生まれた万次郎少年は、亡くなった父親の代わりに一家を支えるべく幼い頃から働き通し。


そして15歳の時に漁の手伝いで海に出たところ嵐に遭遇して遭難。


5日余りの漂流の果てに幸運にも無人島に辿りつき、そこで143日間サバイバル生活を送りました。


そして偶然通りかかったアメリカの捕鯨船 (※彼の愛称〝ジョン〟は、この船の名前ジョン・ハウランド号に由来) に助けられ、他の乗組員はハワイで降ろされたものの、万次郎少年はアメリカ行きを希望。


その利発さをホイットフィールド船長に見込まれ、日本人として初めてアメリカ本土の地を踏みしめたのです。


       

そして驚くべきは、この船長の取った行動。


何と彼は、無人島で拾ったこの東洋人少年の才能を見抜き、自らの養子にして学校に通わせたというのです。


万次郎少年もその好意に応えるべく必死に勉強し、英語や数学・測量、・船術を学び、首席を取るまでに。


卒業後数年は捕鯨船に乗って働きましたが、やがて帰国を決意。


ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで働いて渡航費用を稼ぎ、仲間のいるハワイへ・・・そして仲間2人と1851年2月、琉球上陸に成功します。


しかし当時の日本は鎖国状態だったため、彼らは薩摩藩や長崎奉行所から長期間にわたり尋問を受け、故郷・土佐に帰れたのは上陸から2年も経った後でした。


1852年、26歳の時に高知城下の藩校 『教授館』 の教授となり、後藤象二郎・岩崎弥太郎等に直接指導をしましたが、その後の万次郎青年の運命は日本を取り巻く国際情勢と共に大きく変化します。

       
               
帰国した頃の万次郎


日本に初めてネクタイを持ち込んだのも彼だと言われていますが、海外情勢に疎い幕府や土佐藩にとって、アメリカでの生活経験のある彼の存在は殊の外貴重だったのでしょう。

まもなく彼は土佐藩から士分として取り立てられ、出身地から取った 〝中浜〟 姓を名乗ることまで許されます。


そして幕府は彼を直参として江戸に呼び寄せ、老中の前でアメリカの事情について語らせ、来航2度目のペリーの通訳にも適任とされたのですが・・・オランダ語を介しての通訳の立場を失うことを恐れた老中や水戸藩などの保守派からスパイ容疑を持ち出され、通訳から外されてしまいます。


嗚呼、何という島国根性・・・しかし表立った活動はしなかったものの、日米和親条約締結に関し黒子役として適切な助言をしたのだとか。


1860年には批准使節団のメンバーとして咸臨丸に乗船。 


船酔いで苦しむ勝海舟に代わり (実質的な船長として) 操船、上陸後は恩人・ホイットフィールド船長との再会も果たします。


子供の頃は働き詰めで寺子屋に行けず殆ど読み書きができなかった万次郎が、帰国後は薩摩藩の 『開成所』 教授、また明治維新後は開成学校(現・東京大学)の中博士(教授)まで務めたというのですから、本人でなくてもビックリの、まさに数奇な人生。


もし彼が漂流して生き延び、自らアメリカに渡って帰国しなかったら、日本の明治維新・西洋化の歴史は大きく変わっていたことでしょう。


1898(明治31)年11月12日、72歳でこの世を去った明治維新の隠れた功労者・中浜万次郎、いやMrJohn Mung の冥福を祈りつつ、昼食には彼の大好物だったウナギのかば焼きを・・・あるいは夜、居酒屋 『ジョン万次郎』 で一献傾ける、なんてのはいかがでしょうか?笑2

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波 蘭

今日のタイトルは、ある国の漢字表記なのですが・・・お分かりになるでしょうか。

もうひとつの表記・〝波蘭土〟なら、ピンとくるかも?

ヒントは、この国旗。 

       

どうでしょう、もうお分かりになりましたか?


そう、正解は5ヶ月前のサッカーW杯で日本と予選同組だった


 ポーランド共和国
   Republic of Poland


今日は、この東欧に位置しバルト海に面した国の独立回復100周年にあたります。 


面積は日本の約80%(九州,四国を除いた程度)、人口4,000万人弱のこの国について、皆さんはどんな印象をお持ちでしょうか?

 

ピアノが趣味の私としては、どうしても〝ショパンを生んだ国〟という固定観念がありますが、理系の方ならキュリー夫人の名が最初に出てくるかもしれませんネ。

歴史的には、以前は広大なポーランド・リトアニア共和国を形成していたものの、隣国によって度々分割・統合を繰り返した末、ポーランドの国名は、100年以上世界地図から消滅。

第一次世界大戦が終戦を迎えた1918年11月11日に独立を回復しました。

しかし第二次世界大戦中にドイツ・ソ連双方から侵略を受け総人口の20%超を喪失した上に再び分割され、1952年にポーランド人民共和国としてようやく主権を復活。


その後1980年代にワレサ議長が率いる〝連帯〟による自由化運動が活発化し、1989年9月に旧ソ連圏で最初の非社会主義政権を発足させました。

現在はEUにも加盟していますが、昭和世代の私としてはどうしても戦後ソ連を中心としたワルシャワ条約機構に属す社会主義国家だったイメージが強い国。

しかし実は、この地球の反対側に位置するヨーロッパの旧社会主義国が、親日国のひとつであることを知る日本人は少ないと思います。


そのキッカケは、日露戦争時にまで遡ります。

当時のポーランドはソ連に支配されていたため、日露戦争に合わせて蜂起を画策。

ロシア情報を提供すると同時に、当時ロシア軍の約30%を占める徴用されたポーランド兵士の特別待遇を要望。

それに応える形で、四国・松山に収容されたポーランド兵は、ロシア人捕虜とは分けられ特別待遇を受け、外出して地元の人々から心温まるもてなしを受けたそうな。

また第一次世界大戦中の1917年にロシア革命が勃発。


同国内が内戦状態になった時点で、流刑にされたり逃げてきたポーランド人がシベリアに15~20万人もいたとか。、

混乱の中、飢餓や寒さで多くのポーランド人が落命する中、シベリア出兵で同国に駐留していた日本兵が、ポーランド人の要請に応える形で彼らの救出に乗り出しました。

※シベリア出兵に関する過去記事は、こちら。(↓)



軍は日本赤十字社と連携し、1920(大正9)年7月下旬にポーランド人孤児375人が敦賀経由で東京に、そして翌年の第二次救済事業では390名の孤児たちが大阪へ輸送。

更に子供たちが寂しがらないようにと、ポーランド人大人65名も同時に招き入れました。


       

栄養失調で弱っていた彼等は日本で手厚い看護を受け、全員が日本船に乗って無事祖国に帰ることが出来たのです。

この恩義をポーランドの人々は今でも子孫に語り継いでいるそうな。

そのお返しとして、
ポーランド政府は阪神淡路大震災の被災児童らを1995年と翌年の2回、ポーランドに招待。

ワルシャワで4名のポーランド孤児との対面などを通じて子供達を温かく励ましてくれました。

また東日本大震災で被災した岩手県と宮城県の子供達を2週間ポーランドに招待してくれてもいます。

トルコのエルトゥールル号遭難事件と同様の話が、ポーランドともあったこと・・・私たちも子々孫々に語り継がねばなりませんネ。
扇子

※エルトゥールル号事件に関する過去記事は、こちら。(↓)


  https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11970365610.html


ポーランドもトルコも、国旗の色は日の丸と同じ赤と白ですし。


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導 入

今では支払うのが当たり前になっている感のある


消 費 税


この税制が日本で導入されることが決まったのは、今からちょうど30年前。


税制改革関連6法案が衆議院で可決されたのが、1988(昭和63)年11月10日のことでした。


※参院可決は12月24日、施行は1989年4月1日。

時の首相、誰だったか皆さんはご記憶でしょうか?

この方だったんですョ。


       

そう、竹下 登 第74代内閣総理大臣。


現在では世界160ヶ国以上で導入されている消費税ですが、我が国での導入は困難を極めました。

1978年に大平首相が一般消費税(仮称・5%)の80年代導入を決定したものの、野党だけでなく自民党内からも反発の声が上がり、翌年に撤回。

1987年に中曽根内閣が売上税(5%)法案を国会に提出したものの、小売業界からの強い反発と統一地方選の敗北を受け、廃案に。


そして翌1988年、竹下内閣で3%ながら消費税の導入が決まったのです。


その後1994年に細川首相が突然思い付きのように〝国民福祉税の導入を発表するも猛反発に遭って、敢え無く撤回。


1997年の橋本内閣時に税率を5%にアップし、更に2012年の民主党・野田内閣時に8%への増税が決まり、第二次安倍内閣時の2014年4月に実施。


そして現時点では、来年10月に2%上がって10%になることが決まっています。


増税を喜ぶ国民はまずいないと思います・・・が、ここで世界各国の消費税の現状を見てみましょう。



                        (※国税庁HPより 2018年1月現在)


ご覧のように、たとえ10%になっても主要各国と比較するとまだ低い方なのが分かります。


でもこのグラフを見て、アレッ?と思った方もいらっしゃるでしょう。


そう、アメリカが入っていませんょネ。


実はアメリカでは〝小売売上税〟として各州・郡・市などで個別に税率が定められているんですって。


最も高いロサンゼルスの9.75%から、オレゴナン州やモンタナ州などの0%までまちまち。


アメリカの場合は個人責任重視ですから、福祉などに税金を投入する考え方はあまりないのかもしれません。 


だから0%でも良いのでしょうが、日本の場合そうはいかないでしょう。


これからますます少子高齢化が進む我が国で、もし手厚い福祉を国や自治体に望むなら、その財源をどこに求めるのか?

下の税収の推移を眺めつつ、国民も我が身に置き換えて考えるべき


でしょう。(赤矢印は消費税アップ時)


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