異 色

大企業の経営者となれば、休日もいとわず働き詰めで社業に専念・・・というイメージがありますが、今日は世界的に名の通ったグローバル企業のトップとしては、実にユニークな経歴の持ち主と言える、元ソニー社長


 大賀 典雄 


の命日・七回忌にあたります。


大賀氏は1930(昭和5)年に静岡県沼津市で生まれました。

旧制静岡県立沼津中学を卒業後、音楽家を目指して東京藝術大学・音楽部声楽科に進学。

同大在学中、東京通信工業(現・ソニー)のテープレコーダーの音質にクレームをつけたことが、彼の人生を大きく変えることに。

同大卒業後はドイツのミュンヘン国立高等音楽大学・ベルリン国立芸術大学に留学し、帰国後バリトン歌手として活躍していた大賀氏を、盛田昭夫・井深大両氏が熱心に勧誘。

おそらく大賀氏の感性と行動力を、同社創業者の2人は高く評価したのでしょう。 そしてその眼力は、見事に的中。

大賀氏は1959年ソニーに入社すると、その年に早くも第二製造部の部長に抜擢され、更に広報部長・デザイン室長を兼任すると、現在も使用されている同社の〝SONY 〟のロゴをデザインするなど、同社の工業デザインの基礎を築きました。

1964年に34歳で同社取締役に就任すると、その後はCBSソニーレコードの社長を経て1972年に本社常務、74年に専務、76年に副社長とトントン拍子に階段を駆け上り、そして82年に社長就任。

1995年には同社会長となり、その3年後には経団連・副会長に。

その一方で、(財)東京フィルハーモニー交響楽団の会長や東京文化会館の館長も歴任。

押しも押されもせぬ経済界の重鎮であると同時に、ベルリン・フィルを指揮してベートーヴェンの第九を演奏するなど、まさに経営者と音楽家という二足の草鞋を履くというか、趣味と実益を兼ねるというか、実に羨ましい人生を送られました。


         


大賀氏のエピソードで忘れられないのは、私が敬愛する指揮者H・V・カラヤンとの交流。

ご両人はソニーのCD開発を通じて知り合い、家族ぐるみの付き合いでした。

1985年7月、カラヤン邸を大賀氏が訪れ談笑している最中に突然カラヤンが昏倒・・・そのまま帰らぬ人に。

自らの腕の中でカラヤンの最期を看取った大賀氏が、今度は2011年1月に北京でオーケステラの指揮中に倒れたのですが、この時彼は

「カラヤン先生が、向こうから〝おいで、おいで〟と呼んでいる気がした」

そうな。

幸い直ぐに再会することにはならなかったのですが、その直後から長期の療養生活を余儀なくされた大賀氏は、2011年4月23日・・・奇しくもカラヤンと同じ81歳と3ヶ月で天に召されたのです。

更にこの日は、カラヤンが生前最期のコンサートを行った日(1989年)でもあったとか。

何か運命的なものを感じてしまいます。

大賀氏は、ウォークマン発売直後でCDプレーヤーの開発などソニーが最も勢いのある時期に社長を務めましたが、残念ながら現在の同社は苦戦を強いられています。

日本を代表するブランド〝SONY〟が復活するためには、大賀氏のような芸術的感性と経営感覚を持ち合わせた社長の登場が必要かもしれません。

そんなスーパーマン(?)の登場を願いつつ、大賀氏のご冥福をお祈り致します。笑3


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突 入

本来、そんなこと起こり得ないし、あってはならないことでした。 

1996年12月17日夜、ペルーの首都リマにある日本大使公邸で、天皇誕生日祝賀式典が催されている最中に、トゥバク・アマル革命運動(MRTA)のメンバー14名が隣の空き家から塀を爆破して乱入。


青木盛久全権大使を始め、大使館員・ペルー政府要人、各国の在ペルー大使、日本人の民間駐在員ら約600名を人質に取り、逮捕されているMRTAメンバーの釈放などを要求した、いわゆる


 在ペルー日本大使公邸占拠事件


       
            
   MRTAの犯行グループ


ペルーのフジモリ大統領は当初より武力制圧を検討していたようですが、橋本政権は池田外相を現地に派遣し〝平和的解決〟を要請。
(そうしないと政権が持たないとも言明したとか・・・。)


その結果、状況は膠着状態に陥ります。


人質は徐々に開放されて最終的には72人になり、彼らは長期間の抑留生活の中でお互いに母国語を教えあったり、時には犯人たちも加わってゲームに興じたりしていたそうな。


そして事件発生から127日目・・・今からちょうど20年前の今日・1997年4月22日、地下に掘った7本ものトンネルを通ってペルー海軍特殊作戦部隊メンバーらが突入。


      

               突入直後の大使館


人質1人と特殊部隊隊員2名が犠牲となったものの、MRTAメンバー全員を殺害し、ようやく事件は解決したのです。


           ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-ペルー人質事件 

                 救出される人質


日本側は、(他国で起きた事件とはいえ)ただ平和的解決を望むばかりで何もできず、さらにはテレビ朝日取材班が犯人側のコメントを取ろうと無断で公邸内に侵入して世界中から非難される醜態を演じ、我が国の危機管理の甘さを露呈しました。


一方ペルー側は突入2ヶ月前からトンネルを密かに堀り始め、その間公邸と同じ間取りのセットを作り、突入訓練を繰り返していました。


また人質と内密に情報を交換し事前に庭にネズミを放って地雷の有無を確認するなど、作戦は綿密かつ周到に準備され、最善のタイミングを計って決行。


その結果犠牲者を最小限に留め、犯人全員を射殺したことから高い評価を受けましたが、人質を監視していた犯行メンバーの少年が手にしていた銃を乱射しなかったという幸運も重なったようです。


この突入によって、犯人グループのMRTAは主要構成員の多くを失い、かつ国内外からの支援も途絶えたために事実上の活動停止状態に追い込まれました。


       

          制圧後の大使館内を視察するフジモリ大統領


しかしこの事件解決の裏には、政治的陰謀の匂いも。


人質中ただ1人の犠牲者となったのは、カルロス・ジュスティというペルー最高裁判事だったのですが・・・実は彼、反フジモリ勢力の有力者だったそうで、一部ではこの事件に紛れて殺害されたのでは? という憶測が囁かれました。


また犯人殺害に際し不必要な処刑があったとして、数年後に特殊部隊の指揮官らに逮捕状が出され、そして事件解決によりヒーローとなったフジモリ大統領も、その僅か3年後には反政府運動の高まりにより日本に亡命する憂き目に。


どこの国でも、政界の一寸先は闇です。


また舞台となった大使公邸は解決から半年後に取り壊され、事件の爪跡は完全に消し去られています。


しかしそれはそれ。 


私たちは、日本人の人質が全員無事救出された影に、突入部隊・ペルー人2名の尊い犠牲があったことを、決して忘れてはなりません。

日本の国務大臣がペルーを訪問した際は、現在でも必ず犠牲となった特殊部隊々員2名のお墓に慰霊訪問しているとのこと。


私たち日本人は、テロリストには話し合いやこちら側の理屈などが全く通用しないことを心するべきでしょう。


それにしても当時の緊張感と教訓を、現在の外務省がすっかり忘れているような気がするのは、私だけ? うー


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賢 母

土光敏夫氏といえば、経営不振に喘ぐ石川島播磨重工業・東芝の社長に就任するや両社を再生させ、経団連の第4代会長・第二次臨時行政調査会の会長をも務めた名経営者。

〝ミスター合理化〟と呼ばれ、自らもバス通勤するなど質素な生活を貫き、食卓にいつも並ぶところから〝めざしの土光さん〟といわれ、庶民の喝采を浴びた方でした。

今日は、その土光さんの御母堂、


 土光 登美 さん

の命日にあたります。

彼女の人生を顧みると、まさに 「この母ありて、この子あり」・・・あまり知られていませんが、実に凄い女性なのです。


登美さんは1871(明治4)年、伏見家の10人兄弟姉妹の3番目として岡山県御津郡に生まれました。

当時の女性としては珍しく気性が激しく向学心の強かったそうで、東京に出て勉強したい気持ちが強く、家出の機会を狙っていたそうな。

しかし19歳の誕生日直前に、実家から1里離れた場所で米穀肥料仲買をやっていた土光菊次郎と結婚。

土光家の本家は大地主だったそうですが、男勝りな登美さんと温和な菊次郎さんとは仲が良かったそうで、2男3女をもうけました。
 (※長男は1歳で夭折。 敏夫氏は次男。)


        

               登美さんと1歳頃の敏夫氏


生まれ育った岡山は日蓮宗の信仰が篤い土地柄で、登美さん自身も熱心な信者であり、6歳の頃から 『法華経』 を読み親しんだとか。

また小さな我が子を背負って畑仕事をしながら本を読んだといいますから、まさに〝女・金次郎〟とも言うべき勉強家。

そんな彼女の〝個人は質素に、社会は豊かに〟という信念は、確実に次男・敏夫氏に受け継がれ、それがめざしの土光さんと言われる生活信条に受け継がれたと言えましょう。

そして70歳になった登美さんから子供たちに対して驚くべき宣言が飛び出したのは、日本が米英に宣戦布告する直前の1941(昭和16)年9月・・・夫・菊次郎さんの一周忌法要が行われた日のこと。

「国が滅びるのは悪ではなくて、国民の愚による。」

「次の時代の国民を養成するのは母親の責任である。
 そのための女子教育をしっかりやらなければならない」


という信念に基づき、学校を建てると言い出したのです。

高齢の上に資金も土地もなし・・・家族は全員反対したのですが、登美さんの決意は変わらず。

早速友人・知人に片っ端から協力依頼をしたのですが、その殺し文句が凄かった!

「私が亡くなって香典をくださるなら、学校を建てるために必要ですから、今生きている内にください。」

こう言われて断れる人は、まずいないでしょう。

その熱意に心を動かされた人々からの厚志が集まったことで決意表明後の僅か2ヶ月後に土地の賃貸仮契約ができ、すぐに着工。

半年も経たない1942年4月には見事開校に漕ぎ着けたのです。

校名は 『橘女学校』・・・由来は、帰依する日蓮上人の紋章が〝たちばな〟だったことと、校舎が建てられた地が、神奈川県橘郡旭村だったから。

        

           『正しきものは強くあれ』 (宮野 澄・著 講談社・刊)

「私はなぁ、子孫に金を残して、かえって怠け心を起こさせてはいけませんから、できるなら学校を立てて世の子女の教育をしてみたいと思うのですがナ。」

そう友人に語った夢を果たし、また
自らも同校の理事長も務めた登美さんがこの世を去ったのは、学校の開校からちょうど4年後・・・終戦直前の1945(昭和20)年4月21日のことでした。


登美さんの後任理事長は敏夫氏が務めて学校を維持・・・同校は現在 『橘学苑中学校・高等学校』 として、横浜市鶴見区獅子ヶ谷の土光敏夫氏のかつての自宅の真向かいで運営されています。


そして同校には、上の著書名と同じ登美さんの言葉であり、教育理念の一つである


「正しきものは強くあれ」

と刻まれた石碑が建てられているそうな。

明治の激動期を生き抜き、執念で学校を築いた強き母の言葉は、ズシンと私たちの胸に響きますネ。


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掲 載

先日、ちょっと嬉しいことがありました。

愛読している月刊 『致知』 5月号に、私が長年お世話になっている理容室 『銀座マツナガ』・松永巳喜男社長のインタビュー記事が掲載されていたのです。

松永社長は新潟県で理容店を営む両親の長男として生まれ、同じく理容師の道を進むべく中学卒業後に新潟市内にある理容師専門学校にi入学。

その後東京・大阪で業界で名の通った理容師の元で修業を積み、27歳で銀座通り沿いの一等地に店を出し独立。

現在ではその1号店(本店)の他、都内はおろかドイツ・ベトナムに合計22店舗を出店。

従業員100人を抱え政治家や大企業の経営者も常連客に名を連ねる業界屈指のサロンに育て上げた、立志伝中の人物。

76歳の現在も現役の理容師として頑張っていらっしゃる方です。

私がその本店に通うようになったのは1981(昭和56)年から・・・損保会社に入社して最初に銀座営業所に配属された時。

先輩の社員に、「いい床屋さんがあるゾ」 と紹介されたことがキッカケでした。

営業所から徒歩1分の距離にあったその店に初めて足を踏み入れて以来、マスター(私は当時から現在まで松永社長をこう呼んでいます)にカットしてもらっているのです。

何も言わずとも、黙って座ればいつも通りに整髪してもらえますし、東京勤務の時はもちろん、地方に転勤した時も会議等で上京した時は必ず足を運びましたから、かれこれ36年近いお付き合いになります。


     

私が銀座マツナガに通っているのは、そのカットの技術もさることながら、マスターの人柄に惹かれているから。

勉強家でいろいろな知識をお持ちだし、さりとて余分なことは喋らないところが、私に限らず多くのお客様の心を掴むのでしょう。

27歳で銀座の一等地に出店できたのも、ある有力者のバックアップがあったからだそうですが、それも頷けます。

そして私が感心するのは、人の入れ替わりが早い理容業界にも関わらず、従業員教育に熱心で多額の費用をかけていること。

だからこのお店の若手は、礼儀正しく接客が上手・・・それが店の良い雰囲気を醸し出していると思うのです。

マスターはこのインタビューの中で、

「人頼みの姿勢で生きるのではなく、精神的にも技術的にも自分の力で生きていく気構えを持つことだ。
それが原点にないものに良き出逢いやチャンス、天の助けは巡ってこない」


と仰っていますが、彼自身がその体現者であり、この言葉には重みを感じます。

インタビュー依頼があったのも、マスターの生き様を知る有力者が出版社に紹介したからでしょう。

尊敬する経営者が、普段勉強させてもらっている高いレベルの月刊誌に掲載されると、我が事のように嬉しいものですネ。

(余談ですが、『致知』は事前に原稿をマスターに見せて、了解をもらった上で掲載したとか。
取材だけで内容の確認をせず、本人の意図と全く違う記事を平気で掲載する、どこぞの三流週刊誌とは大違い。 さすがです。)


マスターには今後も現役として頑張ってもらい、90歳以上の方が取材対象である同誌の連載シリーズ 『生涯現役』 に再登場してもらいたいもの。

でも、その時私は73歳以上・・・自分はもう引退してる?あせあせ


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戦 略

今日は、昨日の記事に関連した話題ですが・・・皆さんは


 地 政 学
  Geopolitics

という学問分野をご存知でしょうか?

これは民族や国家の特質を、主として地理的空間・条件から説明しようとするもので、歴史・地理・政治経済・軍事・宗教など様々な分野の知識が必要な広くて深い学問。


これを教える大学は日本にはまずないでしょうし、メディアが伝える報道でも殆ど耳にすることはありませんから、一般人には馴染みがないと思います。

しかしこれは世界の近代史を紐解く上で、また未来を占う上で非常に重要なもの。

特に戦後70年以上経過した中で、近隣諸国の不穏な動きによりかつてないほど国防に関して緊張感が高まっている今こそ注目すべき、だと私は思っています。

何冊もこの地政学に関する著作が出版されていますが、今日は少々古いながらも現代の世界情勢を分析する上で非常に役立つ一冊をご紹介します。 それは

 『悪の論理 ゲオポリティクとは何か』 
                (倉前盛通・著 日本工業社・刊)

      

ちょうど40年前の1977(昭和52)年初版ながら、34回も版を重ねた良書です。

本書を読めば、アメリカがアルフレッド・セイヤー・マハン(1840-1914)が唱えた 『海軍権力史論』 を忠実に実行に移し、世界の覇権を手に入れるべくハワイを併合しパナマ運河を手に入れたことが、更には沖縄を重要視していることが分かります。

一方日本も留学した秋山眞之海軍大尉が彼に会っており、日清・日露戦争を通して千島列島や台湾、更には朝鮮半島や満州、小笠原列島やミクロネシア諸島を制圧するなど、マハン理論を忠実に実行しました。


     

                   Alfred Thayer Mahan

しかしその勢力を伸ばす日本が、中国大陸に進出を目論むアメリカにとって邪魔だったことは明白。

故にアメリカは1915年頃から周到に日本を叩き潰す戦略を立て、それを着実に実行して追い込み日米開戦に持ち込むように仕向け、我が国は見事にその罠に嵌ったのです。

世界の大国は何十年単位で周到な計画を立て、自らの国益を守り伸ばそうとしており、そのために必要なものとは手を組み不要となれば遠慮なく手を切ります。

それは21世紀に入っても変わりません。
日本の外交下手や情報収集・分析能力に劣ることも・・・。

なぜアメリカはかつての敵国だった日本と安全保障条約を結んだのか?

それを考えた時、東西冷戦の時代が終わり巨大市場である支那と手を結ぼうとするアメリカが、いつまでも日本を守ってくれると思うのは甘過ぎます。

テロ等準備罪に反対し、覇権主義国の支那が日本を攻撃するわけがないと真顔で主張する国会議員や、「酒を酌み交わして話し合えば戦争にはならない」 などと世迷言を口にする平和ボケの若者には、是非この本を読んで隣国の強かさと恐ろしさを知るべきでしょう。

そしてアメリカの好意(戦略?)に甘え、スパイ防止法もなく情報収集・分析に疎いまま、自ら核武装もせず憲法の条文を金科玉条のように唱えていれば国土と国民の生命と財産を守れるなんて幻想は、一刻も早く捨てなければなりません。

自分たちの子孫に安全な生活を保障したければ、10年・20年・・・いや、50年単位での国家戦略を立案・実行する必要があります。


我が国はエネルギー資源と食糧という、国家存続に不可欠な2つの重大要件を他国に頼っている、綱渡り状態なのですから・・・。うー


 


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争奪戦

今日は、クイズからスタートです。


地中海にあって、温暖な気候で素晴らしい自然景観とクノッソス宮殿など多数の遺跡を有する長さ260km・幅12~60kmという葉巻型の細長いギリシャ領最大の島の名は?


海外旅行がお好きな方なら、もうお分かりですょネ。 そう、正解は

 クレタ島

  Crete


     


〝エーゲ海に浮かぶ真珠〟とも称されるヨーロッパ有数の観光地ですから、行かれた方も少なくないでしょう。

     

画家エル・グレコや歌手ナナ・ムスクーリ、そしてノーベル文学賞詩人のオデッセアス・エリテタィスを輩出し、毎年多くの観光客が訪れる一見平和なこの島も、第二次大戦が終わるまでは大国の領有権争いに巻き込まれていました。


古代ローマ帝国やヴェネチア共和国に支配されてきた同島は、1669年からオスマン・トルコ領に。

しかし1830年に独立戦争を経てギリシャ王国がオスマン・トルコから独立を果たすと、クレタ島に住むギリシャ人の間で自治や独立を目指す運動が起きます。

オスマン・トルコは自治やギリシャ語の使用を認めるなど懐柔策に出ますが、ギリシャ系住民は納得せず、1896年末から大規模な反乱が勃発。

ギリシャはそれを支援しようとしますが、バルカン半島での混乱を嫌った西欧の列強は艦隊を派遣してクレタ島を封鎖。

仕方なくギリシャはクレタ島から軍を撤収し、クレタ島とは逆の北に位置するマケドニアの併合を目論み兵を派遣。

46,000人のギリシャ軍と60,000人のオスマン・トルコ軍が宣戦布告を行った翌日・・・すなわち今からちょうど120年前の今日・1897年4月18日に激突し、『希土戦争』 が勃発。

兵士の数で上回るオスマン・トルコが戦況を優位に進め、開戦から1ヶ月後のドメコスでの戦いでオスマン・トルコが決定的な勝利を収め、ギリシャ軍は総撤退し勝敗は決しました。

     

せっかく守ったクレタ島の領有権を、オスマン・トルコは1913年の第一次バルカン戦争で放棄しギリシャ領に。

しかし安心したのも束の間、1941年に第二次世界大戦が勃発するとイギリス軍が進駐し、更にドイツ軍が彼らを追いかけるように進軍し、激戦の末イギリス軍を駆逐。

その後島の2/3をドイツが、残り1/3をイタリアが支配しましたが、ドイツ降伏後再びギリシャに支配権が戻り、現在に至っています。

関係各国の動向や歴史を顧みると、領土・領海に対する支配欲がいかに強いかがよく分かります。

これは決して地球の裏側だけのことではありません。

尖閣諸島(や竹島)も同じ・・・いつ何時他国が侵略・占有してくるか分からないのです。

「尖閣などくれてやればいい」 という妄言を吐いた国会議員が過去にいましたが、世が世なれば銃殺刑もの。

私たち日本人は、もっと領有権について関心を持ちそれを狙う隣国の動きを警戒すべきでしょう。

彼らは、日本国憲法の条文など全く関係なく攻め込んできますから。うー



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蘭 医

「自宅から一番近い病院は、どこ?」と聞かれて、〇〇大学病院とか△△市民病院とか答えられても、そこの医師の名前までスラスラ答えられる方はそうそういないはず。

でもそんな私のような方でも、この医師の名前は学校の授業で習ったことをご記憶のはず。


 杉田 玄白

今日は、この江戸時代を代表する・・・というよりも日本の近代医学の父といってもいい蘭学医の命日・没後200周年にあたります。


         


玄白は1733(享保18)年に若狭国小浜藩(現在の福井県敦賀市)付き医師・杉田玄甫の子として同藩の江戸下屋敷で生まれました。(母は彼を生んだ際に死亡。)

青年期から父の後を継いで医師になるべく奥医の西玄哲から医学を、儒学者の宮瀬竜門から漢学を学び、1752(宝暦2)年に小浜藩医となり、上屋敷勤めに。

5年後、彼は町医者となって江戸・日本橋に開業。

その直後に物産会を主催した平賀源内らとの交流が始まり、そこから蘭学仲間との付き合いが始まったようです。


そして32歳で小浜藩の奧医師となった彼は、その年に江戸にやってきたオランダ商館長一行の宿泊先を平賀源内らと共に訪問し、オランダ語の習得の難しさを知り、一度は断念。

しかしそれから6年後、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語の医学書 『ターヘルアナトミア』 を玄白の元に持ち込むと、それを見た彼は精密な解剖図に驚愕。

藩にかけあって同書を購入すると、中川順庵と、やはり長崎からこの本を持ち帰った前野良沢と3人で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆。

彼らは協力して 『ターヘルアナテミア』 を和訳し、1774(安永3)年に 『解体新書』 として刊行し、同書は将軍家に献上されました。


※但し日本初の腑分けは、それより20年前の1754年に山脇東洋という医師によって為されました。 

これに関する過去記事は、こちら。(↓)
   http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11881594525.html

  
             
  『解体新書』 表紙と中身

こうやってご紹介すると、すんなり出版に漕ぎ着けたようですが、実際は悪戦苦闘・四苦八苦の末に生まれた労作でした。

考えてみてください。

ABCも知らない中学生が、たった1年半で専門用語がぎっしり詰まった医学書を翻訳するようなものだったのですから。

まさに日本の医学発展のため・・・その一点をモチベーションに頑張り抜いた玄白は、現代なら間違いなく文化勲章を授与される医学界の功労者といえます。

その苦労は、彼が晩年に回想録として出版した『蘭学事始』を読むと、よく分かります。 『解体新書』 と共に、ご一読をオススメします。

読んでいると、こちらまで身体が熱くなりますョ。
 (2冊とも、講談社学術文庫・刊 ↓)



                 

玄白は 『解体新書』 発表から2年後に再び小浜藩の中屋敷を出て浜町に開業すると同時に 『天真楼』 という医学塾を開き、後進を指導。

江戸一番の名医と評判になり、患者は引きも切らなかったとか。

1805(文化2)年には第11代将軍・家斉に拝謁し薬を献上した玄白は、その2年後に家督を子・伯元に譲り隠居。

1817(文化14)年4月17日に、83歳で大往生を遂げました。

多くの方が病気やケガでお世話になる病院のルーツと言ってもいい蘭学医のご冥福を、あらためてお祈り致します。


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博 打

文学界には、時として一作で彗星の如く脚光を浴びる作家がいますが、この方もその一人といえましょうか。

今日は、そのハードボイルド作家、

        
とおる

 白 川  道  さん


の命日・三回忌にあたります。

       


白川(本名:西川 徹)さんは、終戦直後の1945(昭和20)年10月に北京で生まれ、引き上げ後は神奈川県平塚市で育ちました。

学生時代から読書好きで太宰治の作品などを読み漁り、一橋大学に進学した秀才でしたが、大学卒業後就職した大手電機メーカーをたった3ヶ月で退職。

その後入社した大手広告代理店も26歳で辞めた後は先物取引会社に勤務したり起業したものの失敗。

松山市にある奥さんの実家で義父の経営する会社の役員に就いたものの、2年余りで離婚して再び上京。

兜町で自ら投資顧問会社を設立し、折りからのバブル景気に乗り十億円単位の金を動かして一時期は年間に1億円を使う程羽振りが良かったとか。


しかし投資ジャーナルに関わり、インサイダー取引などの違法行為で検挙され、懲役3年の実刑を食らったことも。

でも、そこでタダでは転ばないのが、この方・・・その服役中に小説の書き方を勉強すると、出所後の1994年に 『流星たちの宴』 で、49歳という超遅咲きの作家デビュー。

そして一躍彼の名を世間に知らしめたのが、2001年に発表した

 『天国への階段』 (幻冬舎・刊)


       


私はたまたま書店サーフィンしていた時に平積みされていたこの本をたまたま見かけました。

ちょうど転職したばかりの時期で、たまには違ったジャンルの本でも読むか・・・と買い求めて読み始めたら止まらなくなり、上・下巻を一気に読破。

最後では思わず涙したことを憶えて
います。


この作品は同年の山本周五郎賞の候補作になり、(例によって私は自分の描いたイメージを壊したくないので観ませんでしたが)テレビドラマ化もされました。

しかし残念ながらその後彼の作品は殆ど読まず仕舞いでしたが・・・この方、ヒットを飛ばした後の生活もハチャメチャ(?)。

このヒット作で手にした印税をほぼ競輪に注ぎ込むなど無類のギャンブル好きだった彼は、麻雀にものめり込み、複数の出版社や編集長個人にも100万円を超える借金をこしらえていたとか。

そしてそれを返すことなく、2015年4月16日に大動脈瘤破裂で自宅で倒れ、69歳でそのまま天国への階段を登って行ってしまいました。 

この時の発見者は、元『新潮45』編集長で、彼とは事実婚関係だった中瀬ゆかりさん。

傍から見れば、よくまぁこんなギャンブル狂に愛想を尽かさなかったものだと思ってしまいますが、彼女は

「とうちゃんは、宝だ!」

と公言する程惚れ込んでいたとか。

げに男女の仲は分かりません。 因みに彼女が説く夫婦円満の秘訣は

 ① 1日1回はボディタッチする
 ② 同じ趣味に熱中する
 ③ 笑いを絶やさない


ことだそうな。 どうでしょう、皆さんのご家庭では?

我が家の場合、①が毎日マッサージさせられていること、②はゴルフ(と言っても、私は葬儀社を立ち上げてからは一切やってませんが)、③が私のお愛想笑いでもOKなら、大丈夫ですが・・・。
あせあせ

今宵は久しぶりに 『天国への階段』 のラストを読み返しつつ、人生そのものがハードボイルドだった白川さんの冥福を祈りたいと思います。笑3



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二代目

今日は、クイズ〝一枚の写真〟からスタートです。

下の写真は、誰でしょう?


ヒントは・・・ちょっと三島由紀夫氏に似ているイケメンですが、俳優さんです。


       

どうでしょう、40歳代以上の方ならお分かりになる方もいらっしゃると思いますが…正解は、


           こう 

 西 村  晃  さん

今日は、昭和時代に活躍した彼の命日・没後20周年にあたります。

西村さんは1923(大正12)年に、日本初のロボットといわれる〝學天則〟を作った北海道帝大の西村真琴教授の次男として札幌市で生まれました。

学生時代から父からもらったローラースケートに凝り、日本では先駆者の1人として有名だったそうな。

現在の日大藝術学部に入学し、在学中から舞台で活動していたそうですが、1943年に学徒動員で兵役にとられ、戦争末期には徳島航空隊の特攻隊員に。

一度出撃しましたが、機体不良で基地に引き返しそのまま終戦を迎える幸運に恵まれました。

その時同じ隊で生き残ったのが、裏千家15代家元の千玄室さんと2人だけだったそうですから、彼らは神様に選ばれたのかもしれません。

復員後の1946年に東京芸術劇場の第一期生となるも、翌年に対談して東京青年劇場を結成。

その後1951年に新協劇団の準劇団員となり、その3年後には岡田英次さんらと劇団青俳を立ち上げ。

同年に佐分利信監督の『風雲二十年』で映画デビューしてからは、映画・TVドラマにも活躍の場を広げました。

日活映画『赤い殺意』では、数々の賞を受賞しましたし、声優もこなした西村さんですが、主に悪役が多かったそうな。

個人的には、赤穂浪士のドラマや映画 『四十七人の刺客』 で演じた吉良上野介役が妙に記憶に残っていますが、やはり多くの方にとって一番印象的なのは、人気TVドラマ 『水戸黄門』 シリーズでのご老公役でしょう。


初代の東野英治郎さんから引き継いで1983~92年の9年間・283話の長きにわたって務められましたが、庶民的な東野さんとは一味違うキレのある雰囲気でお茶の間の人気を博しました。

私自身も、西村さんの黄門様が一番シックリきましたねェ。


       

西村さんがこの人気役を降板したのは、決して飽きられて視聴率が下がったわけではなく・・・実は、愛妻・則子さんを亡くされたショックが大きかったからだそうな。

その後も映画やTVドラマに何本か出演しましたが、やはり奥様の死が影響したのでしょうか、1995年11月に食道ガンの手術を受け入院。

一旦は回復したものの、1997年4月15日・・・ご自宅で74歳の人生に幕を閉じられました。

生前の約束により、葬儀委員長は戦友・千玄室さんが務められたとか。


正義の味方・ご老公役のイメージが強いものの、実は怪奇映画などグロテスクなメイクでの演技が好きだったという昭和の名優のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3


        


 


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狂 挙

今日・4月14日は、明治維新直前の倒幕運動に大きな影響を及ぼした志士

 高杉 晋作

の命日・没後150周年にあたります。


彼は1839(天保10)年、長州藩士・高杉小忠太の長男(後は妹3人)として現在の山口県萩市に生まれました。


もともと高杉家のルーツは毛利元就の家臣だったそうですが、先祖も長州藩でも有能な家臣として名を残していたそうな。

そんな血を受け継ぐ晋作は13歳の時に藩校・明倫館に入学し、また柳生新陰流剣術も学び後に免許皆伝の腕前になった、まさに文武両道の人物。

そして1857(安政4)年にはあの吉田松陰が主宰する松下村塾に入塾し、〝松下村塾四天王〟の1人に数えられました。


翌年には藩命で江戸に遊学し昌平坂学問所などで学びますが、1859(安政6)年の『安政の大獄』で吉田松陰が捕えられたため、彼は獄中の師を見舞い世話をしました。

その後藩命で帰郷(※松陰は晋作が江戸を離れた10日後に斬首)し、美人で評判だった山口町奉行・井上平左衛門の次女・まさと結婚。

その後藩命により海軍修練のため長州藩所有の軍艦『丙辰丸』に乗船し江戸へ。 

更に北関東や信越地方を遊学したり佐久間象山らと面談、また1862(文久2)年には(ヨーロッパ使節団随行は取り消されたものの)幕府使節随行員として上海に渡り、清国が西欧の植民地化している実情を見たことが、後の彼の行動に大きな影響を及ぼしたといわれます。


帰国後、晋作は藩内に台頭していた尊王攘夷運動に加わり、江戸・京都で他藩の同志と接触。

外国公使襲撃を企てたり、更には井上聞多らと品川御殿山の英国公使館焼き討ちしたことで帰藩を命じられた晋作は、自ら10年間の隠遁生活を願い出て剃髪。

しかし、時代は彼をそのまま放ってはおきませんでした。


        


1863(文久3)年5月、関門海峡で外国船を砲撃したものの逆襲され惨敗(下関戦争)した長州藩は、晋作に下関の防衛を依頼。

彼は同年6月に藩主の了解を得て、身分不問の〝奇兵隊〟を結成。


しかしその僅か3ヶ月後に奇兵隊士が撰鋒隊と衝突した『教法寺事件』の責任を取らされて罷免。

その後八月十八日の政変で長州藩を中心とした尊王攘夷派が京都から追放されたことを受け、彼は脱藩。

桂小五郎の説得で潜伏先の京都から戻ったものの脱藩の罪で投獄され、出獄後も謹慎処分に。

しかし1984(文久4)年8月、下関が米英仏蘭連合軍に砲撃・占拠されると、晋作は赦免されて和議交渉を託され、(その時通訳を務めた伊藤博文の回想によれば)彼らが要求した領土租借条件を取り下げさせることに成功したといいます。

もしここで租借を認めていたら、日本は植民地化への道を進んだかもしれません。


しかしその後長州征伐を目論む幕府に恭順止む無しとする〝俗論派〟が藩内で台頭したため、彼らの襲撃を恐れた晋作は九州に逃亡。

そして機を見て下関に戻った彼は、伊藤博文率いる力士隊らを率いて挙兵し、1865(元治2)年に俗論派を排斥して藩の実権を掌握。

ところが翌月、下関開港を勧めようとして今度は攘夷・俗論両派から命を狙われたため、愛人おうのと四国に逃亡。

またしても桂小五郎の取り成しで長州に戻ったものの、高杉家からは廃嫡となり、藩命により谷潜蔵と改名。

1866(慶応2)年1月に薩長同盟が結ばれると、6月の第二次長州征伐では海軍総督として戦闘指揮を執り、幕府艦隊を夜襲により撃退。

やがて戦局は幕府不利に傾き、これが後の大政奉還へと繋がりました。

しかし倒幕の立役者であった彼の身体は肺結核に侵され、療養の甲斐なく

〝おもしろき こともなき世に(を) おもしろく〟

という辞世の句を残し、1867(慶応4)年4月14日、まだ27歳の若さで他界・・・残念ながら明治維新の日本をその目で確かめることは出来ませんでした。

波乱万丈という言葉がぴったりの彼の人生について詳しく知りたい方には、この書籍をお勧めします。

 『情熱と挑戦の生涯 高杉晋作』 (角川学芸出版・刊)


        

晋作に関しては司馬遼太郎氏や山岡荘八氏による長編小説がありますが、これは彼の故郷・萩博物館の特別学芸員を務める一坂太郎氏が歴史的資料を精査して書き上げたノンフィクション。

晋作の行動や思想が虚飾なしに浮かび上がってくる労作です。

彼は自身の行動を〝狂挙〟と言っていたそうですが、それは今振り返れば快挙だったのか、暴挙だったのか、それともその通りだったのか?

彼の生涯や残された親族のその後の運命を辿ると、その答えを出すのは簡単ではありません。

同書を再びめくりながら、伊藤博文をして


「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし」


と言わしめた、幕末を疾風怒濤の勢いで駆け抜けた志士の冥福をお祈り致します。笑3



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