【拡散希望】 衆院選

22日の日曜日に衆議院選挙の投票が行われることは、皆さんもご存じでしょう。

既に不在者投票を済まされた方もいらっしゃるでしょうが、今日はその〝清き一票〟を無駄にする事のないよう、お知らせがあります。

特に支持政党が決まっていない方に・・・。

今回の選挙では、小選挙区で候補者名を、比例区で政党名を記入・投票することになりますが、問題はその比例区の投票について。

実は新聞・テレビなどでよく見聞きする既存政党に混じって、


 支持政党なし

という政党が届け出ているのです。

HPもあり、そこで
堂々と〝政策なし〟と謳っている、ハッキリ言って似非政党。


 
             URL : https://支持政党なし.com/


同党は2013年1月に立ち上げられ、2014年に行われた衆院選では比例北海道ブロックで佐野代表と彼の母親が立候補。

議席獲得は出来なかったものの、同ブロックで社民党の約53,000票を倍近く上回る104,000票を獲得。

更に昨年の参院選では比例区に於いて東京(4名)の他北海道・神奈川・大阪・熊本で立候補し、得票数約647,000票で12団体中9位という戦績を残しています。

おそらくは特定政党を支持しない有権者の多くが、投票用紙にある 『支持政党なし』 にアンケートよろしく〇印をつけたのでしょう。

しかしそれは結果的に有権者の意思とは違う投票行動となってしまっているのです。

今回の衆院選では東京ブロックのみで4名立候補したそうですから、都民は要注意!

他の道府県にお住まいの方も今後関係する可能性がありますので、お気を付けください。


またお知り合いに 「どこの政党にも入れたくない」 という都民がいらっしゃる方は、是非この情報を教えてあげましょう。

選挙権の行使は是非ともしていただきたいですが、支持政党がない方は、そのまま白紙で投票し、間違っても『支持政党なし』『支持なし』には〇しないようにお気を付けください。


    

            ※注・画像は前回選挙の投票用紙


それにしても、この党名については以前から問題視する声が数多く上がっているのに、なぜ国会議員らは法改正するなどして止めさせないのか?・・・私は不思議で仕方がありません。

もしかして与党は、この政党に少しでも票が流れて既存野党票が少しでも減ることを期待しているのでしょうか?

だとしたら、セコ過ぎ。
うー

それから、もう一点。 今回の選挙では同時に


 最高裁判所裁判官国民審査


が行われます。

今回は7人の裁判官が審査対象となっていますが、これまでと違い今やネット上で彼らに関する様々な情報が取得できます。



是非それをご覧になった上で、じっくりと審査してください。

何も考えず白紙で投票するのは止めましょう。

だって今回対象の裁判官は全員が60歳以上で定年が70歳、そして国民審査は10年に1度。

つまり実質的に今回しか審査対象にならないのですから・・・。


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膝 上

今からちょうど50年前の今日・1967(昭和42)年10月18日、レズリー・ホーンビーという18歳のイギリス人女性が来日し、日本中が大騒ぎになりました。


・・・といっても、殆どの方が誰のことか分からないかもしれませんネ。


でも彼女の愛称が〝ツィギー〟だと聞けば、中高年の方ならピンとくるはず。


そう、〝ミニの女王〟と呼ばれた世界的なモデルの来日を記念して、今日は


 ミニスカートの日


なのだそうです。


身長165cm・体重41㎏、スリーサイズがB79・W56・H81というスレンダー・ボディーの彼女が膝上30cmの超ミニスカートで記者会見に現れた時は、記者・カメラマンのド肝を抜いたそうな。驚き顔


当時年間1,000万ドル(36億円!)稼ぐといわれたスーパーモデルは日本人女性の羨望の的。


トヨタ自動車や森永製菓など国内8社の合同招待で来日した彼女は、20日間の滞在でCM撮影やファッションショー出演などをこなし、京都などを旅行して帰国。


その後我が国に空前のミニスカブームが起きたことは、皆さんもご承知の通り。


※ちなみに、現在も人気商品である森永製菓のチョコレート菓子 『小枝』 は、彼女の愛称ツィギー (Twiggy =小枝) から命名されたとか。


       


ところで、男性として素朴な疑問がひとつあります。

それは、ミニスカートの定義。

一般的には穿いた時に膝が常に見える状態のものがミニスカートと呼ばれるそうですが、私はもっと短い丈のものをイメージしてしまうんですが、皆さんはいかがでしょうか?

太腿の中央より上の極端に短いスカートを〝マイクロミニ〟と呼ぶそうですが、オッサンにとっては、それこそがミニ・・・えっ、何言ってんの、このスケベって?


まぁそれはともかく、このミニスカートに関しては、昔から囁かれている〝都市伝説〟があります。 それは、


〝ミニスカートが流行する年は、景気がいい〟


これって、本当なんでしょうか?


そもそもミニスカートの起源は1965年・・・アンドレ・クレージュがパリコレに膝上5cmのスカートを出品し、革命的と話題を呼んだのが始まり。


そしてツィギーの来日で日本に初のミニスカ・ブームが起きたのですが、当時は高度経済成長の真っ只中。


下火になったのは、1973年のオイルショック前後。


狂乱物価時代ですから、むしろ生地を使わなくて済むミニスカートが流行りそうなものなんですが、なぜかロングスカートが流行したそうな。


では1990年前後のバブル期はどうか?


実はこの時代には明確なミニスカ・ブームは起きなかったそうな。


逆にバブルがはじけた後の〝失われた10年〟時代でも、女子高生の間ではミニスカにルーズソックスが流行りました。


つまりスカート丈と景気には、明確な方程式は存在しないようです。

ということは、今後消費税が上がって景気が悪くなっても、男性のお楽しみがなくなることはない!?


まぁスカート丈より、私の場合は・・・っと、そこまでにしときます。あせあせ


なお、ツィギーは現在68歳でご健在。

       

相変わらずお綺麗ですネ。

お時間のある方は、彼女のHPやFB、ツイッターも覗いてみてください。(↓)

          http://www.twiggylawson.co.uk/

        https://www.facebook.com/twiggyofficial/

            https://twitter.com/twiggy


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ヒネルトジャー

本日のブログ・タイトルは、平成世代の若者には通じないかもしれませんネ。

今日は、昭和世代には懐かしいこの似非外国語の意味である

 上水道の日

なのだそうな。


今からちょうど130年前の今日・1887(明治20)年10月17日に、日本で初めて近代的上水道による給水が開始されたことを記念したもの。

その場所は、東京ではなく横浜。

そして、この上水道を敷設・指導したのは


ヘンリー・スペンサー・パーマー(1838-1893)

    Henry Spencer Palmer


という、イギリス人の工兵中佐。


       


1856年に王立陸軍士官学校に入学し工兵中尉に任じられた彼は、1858年に調査団の一員としてカナダに派遣されると、道路工事の監督も兼任。

帰国後に地形測量局に勤務すると、今度はニュージーランドやバルバドスに派遣され、1878年には香港で水道を設計。

その彼を水道の専門家として神奈川県が招聘、1883年に来日した彼の指導によって相模川から野毛川の貯水池に引水し、市街地に給水が開始されたのです。

パーマーはその後も日本に腰を落ち着け、1888年には内務省の顧問技師として横浜港築港計画を監督として指揮したり、東京水道会社などの敷設計画にも関わるなど、日本の土木・水道事業の発展に大きく貢献。

1890年には日本人女性と再婚したものの、その3年後・54歳の時にに脳卒中で急逝しました。


その後の日本は徐々に上水道の敷設が進んだものの、2度の世界大戦の影響等で工事が遅れ、1945(昭和20)年の敗戦直後での普及率は、僅か9.8%。

今から60年前の1957(昭和32)年で約41%でしたが、その後の高度経済成長で普及率は急激にアップし、現在では約98%。 

「えっ、100%じゃないの?」

と驚く方もいらっしゃるでしょうが、島国であるがゆえに水道を敷設できない離島や山間部がどうしてもあるんですネ。

世界に目を向けると、普及率100%の国はアメリカ・カナダ・オーストラリアに、イギリス・スイス・スウェーデン・フィンランド・オーストリアなどヨーロッパに多く存在します。

が、だからと言ってその上水道をそのまま飲めずペットボトル入りのミネラルウォーターを用いる国が多いことは、海外旅行をされた方ならご存じのはず。

水道水をそのまま飲める国は、日本を始めフィンランド・スウェーデン(ストックホルム)・アイスランド・アイルランド・ドイツ・オーストリア・クロアチア・スロベニア・アラブ首長国連邦・南アフリカ・モザンビーク・レソト・オーストラリア(シドニー)・ニュージーランドの僅か15ヶ国だそうな。

その中でも、東京都のように水道水をペットボトルに詰めて美味しい水として売れたり、公園の水道をひねって子供が安心して飲める国は、日本ぐらいかもしれません。

   


浄水技術はもちろん、東京都の(水源地から蛇口までの間に水が漏れる)漏水率は、僅か3.1%。

ロンドンやパリなどの大都会では20%が当たり前だそうですから、日本の水道技術は世界一と言えます。

でも、それが日常・当たり前だと思ってはいけません。


水と安全はタダではない・・・私たちは常にその意識を持つべきでしょう。


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親 拝

私たちが神社にお参りするのは〝参拝〟ですが、天皇陛下御自らが礼拝することを〝(御)親拝〟と言います。

今から65年前の今日・1952(昭和27)年10月16日、昭和天皇は戦後初めて靖國神社に御親拝なされました。


    


その後陛下は1954年10月、1957年4月、1959年4月、1965年10月、1969年10月、1975年11月と、戦後は8回にわたり御親拝をされています。

しかしそれ以降はなさらず、今上天皇も未だ御親拝されておりません。

その理由について、一部では1978(昭和53)年10月17日にA級戦犯の合祀がなされたことを気にかけたからという意見が出ています。

2006年に日本経済新聞が元宮内庁長官・富田朝彦氏の遺族から入手した〝冨田メモ〟において、昭和天皇がA級戦犯合祀を不快に思っていたとする内容を公開し、それを裏付けるものとしてマスコミは大々的に報じました。


しかし公開されたのは4枚の内の1枚であり、昭和天皇直筆ではなく伝聞メモの範囲を超えておらず、確証と断じることは出来ないでしょう。

また例大祭の勅使参向と一部皇族の参拝は行われていることからも、A級戦犯合祀を天皇家が問題視しているとは言えません。

A級戦犯合祀後も歴代総理の大平・鈴木・中曽根各氏が21回参拝していますが、これがピタッと止まったのは1985年8月に中曽根首相が参拝する直前の8月14日に支那共産党が初めて公式に首相の参拝を非難したから。

合祀後7年も経過してから急に参拝が見送られるようになったのは、その非難声明の1週間前・8月7日に朝日新聞が〝靖国問題〟を記事にしたことが原因であることは明白でしょう。


以来この〝靖國問題〟は特亜2ヶ国の反日外交カードとして現在まで延々と使い続けられています。


本来、国に殉じた兵士たちに敬意を表するのは世界の常識。

アーリントン墓地にアメリカの大統領が献花することを、他国が避難することはありません。

同様に、我が国の指導者が靖國神社に参拝することに他国が意見することは明白な内政干渉もいいところ。

それを許し続ける政府のヘタレぶりは、情けない限りです。


     

そもそもA級戦犯とか、B・C級戦犯の区別など漠然としたものですし、終戦後の事後法で勝手に戦勝国が規定したものですから、軍人として祀られた魂に差をつけるのはおかしな話だと思いますし、分祀などすべきではないし、出来ない・・・と、私は考えます。

こういった政治の駆け引きに使われることなく、現在の平和をもたらしてくださった先人の努力と犠牲に、国民が等しく敬意を表するべきでしょう。

そのためには、私はまず天皇陛下が再び御親拝をなさることが大きな契機になると考えます。

それがなによりも英霊の魂を鎮めることになりましょう。

一刻も早くそれが実現する日が来ることを、願ってやみません。

そのためには、来月初旬に来日するトランプ米大統領が、安倍総理と共に靖國参拝してくれることが大きなステップになるはず。

何としても実現して欲しいものですが、果たして・・・?


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H21

世界で最も有名なスパイ・・・といえばジェームズ・ボンドでしょうが、あくまで彼は仮想の人物。

実在のスパイで、しかも女性となれば

 マタ・ハリ
  Mata Hari


でしょうか。 今日はその美貌で多くの軍人を篭絡したとされる彼女の命日・没後100周年にあたります。


       


本名をマルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレという彼女は、1876年にオランダ人の父とシャワ系の母の長女としてオランダフリースラント州・レーワルデンで生まれました。

幼少の頃は上級学校に通うなど裕福な暮らしをしていましたが、1889年に父親の破産が原因で両親が離婚。

父親が再婚するも母親が1891年に亡くなってからは生活が暗転、彼女は逃れるように叔父の家へ。


そして新聞広告で結婚相手を募集していた20歳も年上のオランダ軍将校と結婚し2児をもうけたものの、赴任先のインドネシアで現地女性と浮気したため、1902年に離婚。
(※子供は2歳と21歳の時に死亡)

パリに移り住んだ彼女は、1905年に〝ジャワ島からやってきた踊り巫女〟というフレコミでマタ・ハリ(※マレー語で太陽という意味)という芸名でダンサーに。

宝石をちりばめたブラジャーをつけてセクシーな踊りを披露する彼女は瞬く間に人気者となり、同時に政府要人や軍人相手の高級娼婦としても活躍(?)。

       

まぁこの美貌ならば、スケベな男性はイチコロでしょうが・・・その魅力に目を付けたのが、ドイツでした。

1915年にドイツのスパイになるよう依頼された彼女は、既に40歳近くなってダンサーとしての峠を越えていたこともあって、この話を承諾。

ドイツの〝セクション3〟という組織のチーフを務めるワルター・ニコライの指揮下に入ってスパイのノウハウを学び、マドリードのドイツ大使館に勤務するアーノルド・カーレ少佐の配下としてスパイ活動を開始。

この時につけられたコードネームが、007ならぬ “H21” でした。


彼女の諜報活動は、いわゆる色仕掛け(ハニートラップ)でしたが、彼女はさらにフランス人陸軍大尉からフランスのスパイになることをもちかけられ、多額の報酬を条件にそれを受諾・・・つまり二重スパイになってしまいます。

何人ものドイツやフランスの将校と夜を共にしたようですが、ドイツから与えられたH21というコードネームが彼女のものであることをフランス情報部に突き止められ、1917年2月に逮捕。


  
            拘留中に撮影された、マタ・ハリ最後の写真

フランスにおいて 「二重スパイとして第一次世界大戦で多くのドイツ人、およびフランス人兵士を死に至らしめた」 容疑で起訴され、僅か40分の裁判で死刑判決。

同年10月15日早朝、パリ郊外の古城で銃殺刑に処せられ、51歳の生涯に幕を下ろしました。

 

逮捕された際に素直に罪を認めたそうですから、彼女がスパイであったことは確かなようですが、果たしてどれほどの情報を得たのかは不明。

また当時戦況が不利だったフランスが、都合の悪い事実をすべて彼女のせいにしたことも否定できません。

ある意味、彼女は人身御供にされた部分もあったかと・・・。

スパイの運命は映画と違って実に過酷ですが、現在の日本ではスパイ防止法もなく、マタ・ハリ以上の優秀なスパイが何十人、いや何百人も大手を振って歩いていることは断言できます。うー


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平民将軍

ノルマンディー上陸作戦など、第二次世界大戦を描いた多くの映画にその名前が出てきますから、日本でも結構有名な軍人だと思います。 今日はその


 エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル

        Erwin Johannes Eugen Rommel


俗に〝ロンメル将軍〟と言われ、平民出身だったにも関わらず貴族主義だったドイツ陸軍を率いた名将の命日にあたります。


       

(※彼が身に着けているゴーグルは、砂漠で拾った英軍兵士のもの。 周囲の非難を気にせず彼は使い続け、これがトレードマークになりました。)


ロンメルは1891年にドイツ帝国領邦ヴェルテンベルク王国のウルム郊外で生まれました。

祖父・父とも教師で中産階級の出であった彼は、大人しく病弱な子供だったとか。


10歳代の時は飛行機の研究に没頭し、航空機のエンジニアを目指しましたが父親に反対され、仕方なく1910年に士官候補生としてヴュルテンベルク王国軍に入隊。

士官学校を経て1912年には歩兵連隊の少尉になり新兵教育などに携わりましたが、既にこの頃からカリスマ性を発揮していたようです。

第一次大戦では小隊長としてフランス戦線方面で活躍し、1915年には中尉に。

その後山岳猟兵大隊に転属し北イタリア戦線で活躍し、1917年にはカボレット要塞を僅か一個中隊のみを率いて敵の一個師団を攻略・撃退し、帝政ドイツ最高勲章の〝プール・ル・メリット〟を授与され、大尉に昇進。


戦後1933年にゴスラー駐屯第17歩兵連隊猟兵の大隊長となり少佐に昇進した彼の運命を大きく変えたのは、ヒトラーでした。

同年にドイツ首相になった彼を、1936年に開催されたナチスのニュルンベルク党大会で護衛する部隊を指揮したロンメルは、ヒトラー目当てに押し寄せる党幹部の車を見事に制止したことで彼に目をかけられるように。

その後1940年に第15装甲軍団主力第7機甲師団長に、そして翌年には中将に昇進しドイツ・アフリカ軍団司令官に就任。


同年8月には大将に昇進しアフリカ機甲軍司令官を務めると、1942年6月にはトゥブロク要塞攻略の戦功により元帥と、トントン拍子かつ異例の出世。


       


アフリカ戦線で連戦連勝してイギリス軍を追い詰め、チャーチルをして

「ロンメルは勇敢な、きわめて巧みな敵将だ。 戦争という行為は別として偉大な人物だ。」

とまで言わしめ、少ない兵力で勇敢かつ緻密な作戦を立案・実行して連合国軍から〝砂漠の狐〟と呼ばれ怖れられました・・・が、この時期が彼の絶頂期でした。

病気のため一時帰国した彼は、戦況悪化に伴い再びアフリカに帰任するも以前のような勢いは取り戻せず、敗退・撤退を余儀なくされます。

1944年にフランス方面B軍集団司令官に就任し連合軍のノルマンディー上陸作戦阻止の任に就くも、失敗。

※ノルマンディー上陸作戦に関する過去記事は、こちら。(↓)
 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11189218275.html


その翌月にノルマンディーの前線近くで連合国軍戦闘機の機銃掃射に遭い、頭部に被弾して重傷を負って入院。

そしてその3日後に斜体文斜体文シゥタウフェンベルク参謀大佐主導のヒトラー暗殺未遂事件が起きたのですが、ロンメルにも関与した嫌疑がかけられました。

※この暗殺未遂事件に関する過去記事は、こちら。(↓)
 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10548765908.html


そして今から73年前の今日・1944年10月14日・・・ヒトラーの使者としてやってきた2人の幹部将校から

「反逆罪で裁判を受けるか、名誉を守って自殺するか」


と二者択一を迫られた彼は、家族の身の安全を保証させた上で一人自宅近くの森の中に入り、服毒自殺を遂げたのです。

時に52歳・・・圧倒的な戦功で知られた彼の死は戦傷によるものとして発表され、祖国の英雄としてウルムで盛大な国葬が営まれましたが、ヒトラーは会葬しませんでした。


そんな彼の晩年を描いた映画があります。

 『ロンメル 第3帝国最後の英雄 (2012年公開)


       


ヒトラーに目をかけられ出世したものの終生ナチス党員にはならず、時には命令を無視したり戦況が悪化してからはヒトラーを公然と批判していたそうですが、暗殺計画に関わっていたかどうかは不明。

この映画をご覧になった上で、ご判断ください。

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無 麺

最近は糖質を抑える食材・商品やメニューが目立つようになりました。

今年5月には拙ブログでもご飯の代わりに豆腐を出す牛丼チェーン店の記事をアップしましたし、長崎ちゃんぽんのチェーン店でも麺を入れない〝ちゃんぽんスープ〟なんてのが売られてます。

そしてつい数日前、セブンイレブンでこんな商品を見つけました。


 一風堂 白丸とんこつ豆腐スープ


〝一風堂〟とは、ラーメン好きなら知らなきゃモグリと言われるくらい有名な、とんこつラーメンのチェーン店。

そのスープに麺ではなく豆腐を入れた新商品なんです。


     


10月2日の 『豆腐の日』 から、〝セブンプレミアム〟商品として、セブンイレブン(関東エリア)やヨークマート・イトーヨーカドー・ヨークベニマルで発売が開始されたそうな。

元々は一風堂さん自身が昨年麺の代わりに豆腐を入れて販売したところ好評だったことから、チルド商品化したものだそうな。


※同じく10月2日から12月31日(予定)までの期間限定で、
関東・東海の一風堂39店舗でも同じ豆腐スープを出しているとのこと。


私がコンビニで買ったチルド商品は、電子レンジでチンするだけの簡単なもの。

付属の白ゴマと自分で刻んだネギをかけると、こんな感じ。


     

早速試食してみますと・・・うん、なかなかに美味。


(もちろん私は、撮影後に唐辛子の〝赤い雪〟を降らせてから食べましたけど・・・。)
あせあせ

それにラーメンと違って熱量も僅か270Kcalですから、私のようにダイエットを気にする方にとっても有難いです。

これにサラダや煮物などを1,2品足して野菜を摂れば、栄養バランスも良いでしょう。

お値段も税込みで280円弱ですから、お手頃。

既にカップスープでは、同じ一風堂の豆腐スープが今年5月から、そして同じく有名なラーメン店・すみれの名を冠した味噌ワンタンスープは7年前から既に発売されていますが、今後こういった有名ラーメン店の麺無し(豆腐入り)スープのブームが到来するかもしれません。

〝白丸〟だけでなく、一風堂シリーズとして〝赤丸新味〟や私好みの〝からか麺〟味にも挑戦して欲しいところ。

ラーメン大好きな私は、大歓迎です。

皆さんも、是非一度ご試食あれ!
笑2


 


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乳白色

健康と美容のために毎日飲んでいる女性の方、少なくないと思います。 今日は、その

 豆乳の日

10月は食料品についての記念日が多く、体育の日や健康に関する活動が多い月であり、12日を10(トウ)2(ニュー)とゴロ合わせ読みしての制定だそうな。


       


豆乳とは、大豆を水に浸してすり潰し、煮詰めた汁を漉したもの。
(※漉した後の残留物が、おから。 また豆乳にニガリを入れて固めたのが、豆腐。)


高タンパクかつ低カロリーで〝大豆イソフラボン〟を多く含む健康飲料であり、中華文化圏や東南アジアでは昔からよく飲まれている飲料だそうですが、大豆特有の青臭さがあるため日本では殆ど飲まれていませんでした。

豆腐店の店頭では売られていたものの、認知度が低かったこの豆乳を初めて市場に商品として出したのが、水産物加工品・練り物製造大手の 『紀文』。

なぜその紀文が豆乳を・・・と不思議に思う方も多いと思います。

実は魚肉たんぱく質を含む主力商品がおでんなど冬場に需要が固まるため、夏場にも売れる良質なたんぱく質を含む商品開発を目指した同社がたどり着いたのが、豆腐。

しかし大手社が製造販売すると、中小企業の多い豆腐業界を脅かすことになるため、その前工程で得られる豆乳の商品化をすることになったのだとか。

そして今からちょうど40年前のの1977年に豆乳飲料の商品化に成功し、1979年に『紀文の豆乳』として発売されました。

       


当初は消費者に豆乳という耳慣れない商品は認知されず、鳴かず飛ばず。

しかし1980年代初頭に健康ブームが訪れると、風向きが変わりました。

大豆たんぱくが健康に良いことが広まると同時に豆乳に注目が集まり、『紀文 調整豆乳』がヒット商品に。

(※日本農林規格(JAS)は、豆乳類を豆乳・調製豆乳・豆乳飲料の3つに分類し、大豆固形分8%以上を豆乳、同じく6%以上を調製豆乳、それ以外を豆乳飲料と定義しています。)

        
              
1985年頃のパッケージ

豆乳というと、この太陽・鳥・森のパッケージがお馴染みですが、太陽は「明るく健康な未来」、鳥は「希望と躍動感に満ちた生命」、森は「豊かな自然の象徴」を表しているそうな。

現在は飲みやすくする工夫が各メーカーで行われ、コーヒーやら抹茶やら、更には焼き芋味なんてものまで登場して味のバリエーションが増え、消費者は飽きずに飲めるようになりました。

そして現在店頭に並んでいるスリムなパッケージに変わったのは、1988年から。

    

ところで現在販売されているこのパッケージ・・・形以外にも昔と違っている部分があることにお気づきでしょうか?

そう、左上にあった紀文のロゴと社名が消えているんです。

それは、製造していた紀文の子会社・紀文フードケミファが醤油製造最大手のキッコーマンの子会社になったから。


バッケージの中央にキッコーマンの社名が入っているのは、このため。

醤油製造では大量の大豆を使用しますから、ある意味傘下に入るのは必然的な流れだったのかもしれません。

紀文のロゴは消えましたけど、これからも〝太陽・鳥・森〟の図柄は変えないでほしいものです。

さて、今日は久々に豆乳飲みたくなりました。
激辛等の私でも飲める、甘くない味ってありますかねェ~。あせあせ


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【拡散希望】 殉 法

今日は、ぜひ皆さん・・・特に若者に知っていただきたい人物をご紹介致します。 それは

 山口 良忠 判事

名前は知らずとも、この方の逸話を聞けば 「あぁ、あの!」 と思い出す中高年の方は多いと思うのですが・・・今日は、この方の命日・没後70周年にあたります。


       

               山口判事(左)とそのご家族


山口氏は1913(大正2)年、佐賀県の生まれ。


京都帝大を卒業後、高等文官司法科試験に合格すると刑事事件を担当する裁判官となり、1942(昭和17)年から経済事犯担当として東京地方裁判所に勤務していました。


折からの大東亜戦争下、政府は食糧管理法を制定。 


強制的に食料を供出させ、一定量を国民に配給したものの、食糧不足は目に見えて深刻化。


敗戦後の配給米は、ひとり1日2合1勺・・・すなわち380cc、牛乳1ℓパック1/3分しかなく、時々米以外の穀類で代用されることもあり、おまけに遅配は日常茶飯事だったとか。


山口氏が住んでいた世田谷区では、1946(昭和21)年5月の時点で遅配が11日以上・・・即ちそのままでは11日間何も食べられない、という過酷な状況でした。


当然のことながら国民は〝ヤミ物資〟に手を出す事となりますが、山口氏はそのヤミ行為に加担した者を処罰する立場にありました。


「ヤミ物資を取り締まる立場の者が、ヤミ米を食べるわけにはいかない。」


という信念を曲げず、育ち盛りの子供2人に僅かな配給米を食べさせ、妻と共に殆ど汁だけの粥をすすって耐えた山口判事。


あまりの窮状を見かねた義父や親戚が差し入れようとした食料をも受け取ろうとはせず、遂に裁判所内で倒れてしまいます。


郷里・佐賀に帰り静養したものの体調は回復せず、1947(昭和22)年10月11日に極度の栄養失調と肺浸潤のため、子供達が無邪気に階下で遊ぶ自宅二階で33歳の若さで絶命。

実質的には、餓死でありました。


自ら法の矛盾に気づきながらも、職務に忠実であり続けた山口判事。


その立場ゆえ自らの命を捨てる一方で、逮捕された被告たちには同情し情状酌量を加えた判決が多かったといいます。


ここで、山口氏の没後60年を記念して出版された、


『殉法判事 山口良忠 遺文』 (宮村多樫・著 密書房・刊) 


        


から、矩子夫人の回想を以下にご紹介します。(※一部抜粋・編集)


           ◆     ◆     ◆     ◆


・・・一昨年の10月、主人は東京区裁判所の第十四刑事係を拝命いたしました。 これは経済事件係で、事件の審理から判決までを一人で担当する役目でございます。


その夜、主人は私に申しました。


「人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。

私は良い仕事をしたい。 判事として正しい裁判をしたいのだ。 


経済犯を裁くのに、ヤミはできない。


ヤミにかかわっている曇りが少しでも自分にあったならば、自信が持てないだろう。


これから私の食事は必ず配給量だけで賄ってくれ。


倒れるかもしれない。 死ぬかもしれない。

しかし、良心をごまかして生きていくよりは良い。」


その時、主人は既に死を覚悟していたものと思います。 


私は驚いて主人の顔を見つめました。 すると主人は、


「人間は孤独だ。 お前がこれについて何と考えようと自由である。


私はお前や子供たちまで、絶対配給生活を強いはしない。

それはお前たちの好きなようにしなさい。」


と、何か淋しげにもらしました。 


配給量だけなら死ぬことは目に見えております。 


それを承知で云い出した夫。


人間、誰が自分の命を惜しまぬ者がありましょうか。 


しかし、主人は命以上に、正しい裁判官であることを選んだのでございます。


「人間である以上、生きてはいたい。

美味しいものを食べたいと思う。

しかし、正しいことはしなくてはならない。」


と、常日頃申していたおりました主人は、ひと様に何と云われようとも、自分の信念に徹し切っていた人なのでございます。

 

          ◆     ◆     ◆     ◆


・・・この山口氏のような生き方には、異論もあるかもしれません。 


しかし昨今官民問わずに起きる不祥事の数々を見るにつけ、官僚・政治家ほもちろん私たち国民も今一度、山口氏のような〝日本人の、いや人間としての良心〟を思い起こすべきではないでしょうか。


法に殉じた山口氏の信念に敬意を表しつつ、あらためてご冥福をお祈りしたいと存じます。


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保存食

皆さんのお宅にも、非常食・保存食として何個か常備されていると思います。

今日は、その


 缶詰の日

なのだそうです。

※水分の多い食品を詰めて密封して微生物による腐敗を防ぐために加熱・殺菌したものを『缶詰』といい、乾燥食品などを単に金属缶に詰めて密封したものは『缶入り』と呼んで区別するのだそうな。


缶詰が発明されたのは、今から200年余り前の1804年のこと。

当時、戦争の遠征における食料補給に悩まされていたナポレオン・ボナパルトが懸賞金を出して新しい食品の保存法を募集。

それに応えて、ニコラ・アベールというフランス人が長期保存可能な瓶詰めを発明。


これによりフランス軍の士気は大いに上がった・・・そうですが、ガラス瓶だとそれ自体重いのが難点。


そこで1810年にピーター・デュラントというイギリス人が、金属製容器に食品を入れる缶詰を考案・・・これが缶詰のルーツになります。(↓)

    

1812年にはイギリスで世界初の缶詰工場が建設され、翌年から陸海軍に納品を開始。

やはり缶詰は軍用食や非常食として利用され、アメリカの南北戦争でも大いに役立ちました。

しかし当初は密封性に問題があって中身が腐敗したり、また
密封用のハンダに多く含まれていた鉛によって中毒死する人がいたそうですから、何とも恐ろしい・・・。


 
その缶詰が日本で作られたのは、缶詰が発明されてから60年後・・・1871(明治4)年に、松田雅典なる人物が長崎でフランス人の指導を受けてイワシの油漬缶を造ったのが始まり。

そして本格的な缶詰製造は、今からちょうど140年前の今日・1877(明治10)年10月10日に 『北海道開拓使石狩缶詰所』 でサケ缶詰の製造が開始されてから。


       


冒頭の〝缶詰の日〟は、これに由来しているのです。

※ただ当時は、缶詰ではなく〝
管詰〟と表記されていましたが・・・。


    

              初期の管詰に付けられたラベル

日本でも当初は主として軍用に生産されてり、非常に高価だったため庶民の手には殆ど入らなかったとか。

それが一気に普及するキッカケになったのは、1923(大正12)年に起きた関東大震災。


アメリカからの支援物資に缶詰があったことからだそうな。


その後技術革新が進み食材も豊富になって、現在世界では年間1,200種類・800億個以上も製造されているといいます。

さて皆さんのお宅には、どんな缶詰がありますか?


我が家では、以前拙ブログでもご紹介した 『いなばのタイカレー』 くらいですが。(↓)
  https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11945426237.html

今は更にバリエーションを増やして、5種類常備してます。


    


それからもうひとつ・・・こんな物、まだ台所に置いてありますか?



右は、我が家のものですが・・・そう、缶切り。

今は〝イージーオープニング〟という簡単に指で開けられるタイプが殆どですから、あまり利用する機会はないでしょうが、そのせいか最近はこの缶切りの使い方を知らないお子さんがいるとか。
うー

一応非常時に備えて、教えておいた方がよろしいかと。

もちろんコレは缶切り以外にも用途がありますので、それも是非。

えっ、缶切り以外の使い方を知らない?

そういう方は、子供さんに突っ込まれる前にググッておきましょう。
あせあせ


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