山 頂

まずは、クイズです。

【日本で一番高い所にある郵便局は、どこにある?】

今日のタイトルを見れば、もうお分かりですょネ。  そう、正解は富士山頂。

ではもう一問。 その


 富士山頂郵便局

が初めて開設されたのは、いつ?


 ① 明治時代   ② 大正時代   ③ 昭和時代


   


正解は、①  何と今から112年前の今日・1906(明治39)年7月20日のことでした。

官報を見ると、当初は 『富士山郵便局』 であったことが分かります。
(『富士山頂』に改称されたのは、1949年。)


    

この官報では7月30日開設となっていますが、日本郵便の社内資料では7月20日が正しいとのこと。


 まだ登山の装備が充実していない早い時期に開設したのは、やはり観光名所という位置づけで強い要望があったのでしょうか?


="font-size: 1em;">現在でも人気のある、日本初の〝風景印〟の使用が1931年に始まったことも、その人気の高さを伺わせます。

何でもこの風景印を押したいばかりに、大量のハガキを持って山頂を目指す人もいるそうですから・・・。


       


-size: 1em;"> また同郵便局では登山証明書・富士山登頂証を発行したり、富士山頂郵便局セットというオリジナル商品も販売していますから、登頂した方は是非お立ち寄りください。

ちなみに、近年の(8合目以上までの)登山者数は年間約25万人。

(昨年度は例年より多く、約28万5千人)

この郵便局の利用者数は2万5千人程だそうですから、利用率は約10%。

なお、開設期間は毎年7月中旬から8月下旬まで。


期間中は土日も休まず窓口を開けていますが、営業時間は6時~14時ですのでご注意を。


また同郵便局は普通通常郵便物の取り扱いのみを行っており、ここで郵便貯金をしたり簡易保険の加入はできません・・・って、当たり前か。

では最後に、もうひとつクイズです。


【富士山頂郵便局で預かった郵便物は、どうやって下界に運ぶ?】


正解は、原則的に週に一度局員が交代する際に登山用ブルトーザーで降ろすんだそうです。

そりゃあ人間に持たせて万一滑落でもしたら、大変ですもんネ。うー


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達 人

今日は、明治維新前後に活躍した剣術・禅・書道の達人、

 山岡 鉄舟


の命日・没後130周年にあたります。

          


1836(天保7)年に御蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として江戸で生まれた鉄舟は、幼少期を飛騨高山で過ごします。


岩佐一亭に書を学び、15歳で五十二世・一楽斉を名乗る程の早世の天才でした。


また剣術は井上清虎より北辰一刀流を、槍術は山岡静山に学び、後に山岡家の養子となります。


勝海舟と西郷隆盛による江戸城の無血開城会談は有名ですが、実はこれに先立ち、山岡鉄舟が単身で官軍駐留地に乗り込み、江戸城明け渡しの基本合意を取り付けたのでした。


身長188cm・体重100kg超という、当時としては凄まじい体格の持ち主であった鉄舟は、


「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」


と大声を出しつつ悠然と敵陣に乗り込んだそうで、そのあまりの迫力に官軍兵士はただ呆然と彼を通したと言われています。


後に西郷隆盛をして、


「金も要らぬ、名誉も要らぬ、命も要らぬ人は始末に困るが、そうでなければ天下の偉業は果たせぬ。」


と賞賛された鉄舟。


明治維新後はその西郷の依頼により明治天皇の侍従(教育係)を10年に渡って務め子爵にも任じられる一方、侠客・清水次郎長とも親交があったいう底知れぬ懐の深さを持つ漢(おとこ)だった、と言えるでしょう。


また剣術でも一刀流の免許皆伝を許され、禅においては三島の竜沢寺・星定和尚の元に参禅し、大悟したと伝えられます。


達筆で数多くの揮毫を残した鉄舟は、その謝礼を快く受け取ったそうですが、それらは金に困った人を見ると惜しげもなく渡してしまい、本人は生涯貧乏だったとか・・・。

そんな達人の心境・思想に興味のある方には、この本のご一読をお勧めします。


 『剣禅話』 (タチバナ教養文庫・刊)


       


同書は彼の生涯を描いた小説ではなく、彼が遺した自筆の書をまとめたもの。

その言葉から、多才にして豪快、清貧にして心優しき山岡鉄舟の生き様に触れることができます。


1888(明治21)年7月19日、胃癌により52歳の誕生日直前にこの世を去った鉄舟は、皇居に向かって結跏趺坐の姿勢のまま絶命したそうで、葬儀の会葬者は5千人に上ったとか。


その足元には遠く及ばずとも、同じ男として憧れる文武両道の達人の冥福を、あらためてお祈り致します。


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産 地

毎週月曜日の朝、私はエネゴリ君に

「今週のシフトは?」

とメールするんです。 彼の店には週末は混むため平日のみ、そして当然彼の出勤日に行きたいからなんですが・・・。

彼からの返信メールは、こうでした。

「月・火・水曜日、それから木曜日と金曜日はいます。」

・・・って、要するに毎日いるってことじゃないの。
うー

そんな相変わらずのエネゴリ君の店では、時々期間限定のメニューが登場するのですが、先日行った時も


『地ダコの瞬間ガーリックマリネ みょうがと三つ葉をのせて』

という、私にとってはツッコミどころ満載のオイシイ新メニューが。

もともとタコは好きなのでオーダーをしつつ、早速調理に入った彼に尋ねます。

「あのさァ、なんでわざわざ〝瞬間〟って書いてあるの?」

「通常マリネってオイルに1日前後漬け込むんですョ。

だけど、コレは敢えて調理する時にだけかけるんです。」


「ふぅ~ん・・・じゃあ、瞬間ってどれくらいの時間なの?」

「え~と、〝ジュッ!〟って・・・」

「いや、音じゃなくて時間はどれくらいかって聞いてんの。」

「ですから、〝ジュッ!〟です。」

「〝ジュ~ッ!〟じゃなくて、〝ジュッ!〟ってこと?」

「そうです、それが瞬間ってことです。 ウッホッホッ。」

        


         


「じゃあさ、もうひとつ聞くけど・・・この地ダコって、どこが産地なの?」

「さぁ~、知りません。」

「なんだ、そりゃ。 じゃあ、〝地〟ってどういう意味ょ?」

う~んと、多分国産だって言いたいんじゃないかと。」

「産地知らないのに、よくもシャアシャアと・・・だったら、そんなあやふやな表現しないで〇〇産って地名を表示した方がいいんじゃない?」


「そうですかねェ?」

「そうだョ。 他のお客さんからも、産地どこだって聞かれない?」

「いいえ。 そんなこと聞くの、渡辺さんだけですョ。」

「なんだょ、その面倒くさそうな言い方は。 悪かったネ、しつこくて。」

「いえ、そんな風には思ってませんけど・・・ウッホッホッ!」

追い詰められると、ゴリラ笑いで誤魔化そうとするエネゴリ君でした。


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改 称

地方の一城下町であった〝江戸〟が、日本の中心都市に変貌するきっかけとなったのは、1603年に関ヶ原の戦いを制して征夷大将軍となった徳川家康が自らの居城・江戸に幕府を開いたこと。


その〝江戸〟が〝東京〟に変わったのが、今からちょうど150年前の今日・1868(明治元)年7月17日(※旧暦)。

明治天皇が発した 「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」 によって


 東 京 府


が設置されてからのことでした。


元々〝江戸〟の範囲・境界ははっきりしておらず、1818年に幕府から出された江戸朱引図によると

『東は中川まで、西は神田上水まで、南は目黒川辺まで、北は荒川・石神井川下流まで』


とされ、当初の〝東京〟もそれとほぼ同じ範囲(※現在の千代田区・中央区・港区・新宿区・文京区・台東区・墨田区・江東区・品川区の一部・目黒区の一部・渋谷区・豊島区・北区の一部・板橋区の一部・荒川区)を指していました。

ただこの〝東京〟という地名はこの時に新しく考案されたわけではなく、1823年に佐藤信淵なる人物が著した 『混同秘策』 で国防強化のために江戸に都を移し、江戸を東京、大阪を西京とし、京都と合わせて三京にする・・・という構想を既に述べていました。

これに影響を受けた大久保利通が、東京という改称を建言したそうな。 

 

ただし当初は〝東〟という漢字を使用したそうで、また読み方も明治中期までは 「とうけい」 だったとか。


現在でも東京・横浜地区を総称して 「京浜(けいひん)地帯」 というのも、当時の名残りかもしれませんネ。

東京府庁は、幸橋内(※現在の千代田区内幸町)にあった元大和郡山藩柳澤家の上屋敷に設置されました。


また初代府知事には尊王攘夷派の公家で当時江戸府知事に任じられていた烏丸光徳(1832-1873)が、そのままスライド任命されました。

               


もっとも彼は、着任後僅か4ヶ月足らずで退任してしまいますが・・・。     


その後の東京の歴史は、概略以下の通り。


1878(明治11)年 郡区町村編制法により、麹町区・神田区・日本橋区など15区を制定。


1889(明治22)年 特別市制により、『東京市』 に。


1932(昭和 7)年 新たに20区が定められ、東京市は35区に。


1943(昭和18)年 東京都制が施行され東京市は廃止し東京都に。


1947(昭和22)年 地方自治法公布により、35区を23の特別区に改編。


・・・現在の形になるまでには、結構紆余曲折があったんですネ。


※23区制移行に関する過去記事は、こちら。(↓)
 https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12256184238.html


さてここで、皆さんにクイズを一問。


日本の首都は、どこ?】


おいおい、そんなの東京に決まってるだろう・・・まず全員がそう答えられるでしょうが、実はコレ厳密には正解と言い切れないんですョ。


というのも、〝東京が日本の首都である〟とは、どの法律にも明文化されていないそうですから。驚き顔 ヘェ~


日本では歴史上、皇居 (天皇の住まい) の所在地を〝都(みやこ)〟≒首都という扱いでした。


現在では皇居を含め国会・内閣・最高裁判所の3権とも東京に集中していますから、実質的には首都機能が東京にあるのは間違いないところ。

しかし明治天皇が京都から江戸城に転居した際、明確に遷都を言明しておらず、その後も大嘗祭等の皇室行事は京都で行なわれてきました。 (※史上初めて大嘗祭が東京で行われたのは1990年のこと。)


うやむやというか、なし崩しというか、ファジーというか・・・こんなところにも、日本らしさが表れていますょネ。あせあせ


 


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56

今日のタイトルの数字でピンッとくる方は、かなりのプロ野球・・・と言うか、メジャーリーグ通でしょう。

プロ野球には、今後おそらく破られないであろう〝不滅の記録〟がいくつかあります。

その中のひとつに私が挙げたいのが、メジャーリーグの連続試合安打記録の〝56〟。

今から77年前の今日・1941年7月16日にこの記録を打ち立てたのが、ニューヨーク・ヤンキースの主砲


 ジョセフ・ポール・ディマジオ 選手


      Joseph Paul DiMaggio


同年5月15日から始まった毎試合安打を、この日まで56試合続けた間の成績は、安打数91、4安打4試合・3安打5試合・2安打13試合・1安打34試合。

残念ながら57試合目に3打数ノーヒットで記録が途切れましたが、その次の試合からまた16試合連続安打を記録したというのですから、まさに安打製造機。

ただ私が凄いと思うのが、彼が単なるスプレーヒッターではなく、通算361本ものホームランを放ったパワーヒッターだったこと。

更には、彼が右打ちだったこと。


       

いわゆるボテボテの内野安打が左バッターに比べて格段に出にくいことを考えれば、まさに驚異的な数字。

歴代ランキングを見てみると、



 2位  44試合  ピート・ローズ (左右)
 3位  41試合  ジョージ・シスラー(左右)
 4位  40試合  タイ・カップ(左)


と、2~4位まではスイッチヒッターか左。
それでもディマジオより10試合以上も水を開けられています。

ちなみに日本のプロ野球では

 1位  33試合  高橋慶彦(広島・左右) 

 2位  32試合  長池徳二(阪急・右) 
 3位  30試合  野口二郎(阪急・右)

             秋山翔吾(西武・左)

長池・野口両選手は右ですが、記録は遥かに下。


高橋選手が日本記録を更新したのは1979年ですから、40年近く破られていないことからも連続試合安打記録更新がいかに難しいかが分かります。

イチロー選手でさえ、日本では23試合連続を2度、メジャーでは27試合連続に留まっているのですから。

※この連続試合安打記録に関する動画を、こちらでご覧ください。

   イチロー選手も登場してますョ。


 


ディマジオ選手の通算成績は、13年の選手生活で6,821打数2,214安打 打率.325。

「あれ、意外に選手生活が短いかったんだ・・・」

と感じた方も多いと思いますが、それもそのはず。

1914年生まれの彼が最も脂の乗っていたはずの29~31歳すなわち1943~45年シーズンを兵役で棒に振ったから。

もしこのブランクがなければ、ホームランはあと100本は上乗せしていたはず。

彼の背番号〝5〟がヤンキースの永久欠番になるのは当然でしょう。

彼の記録を抜ける選手・・・少なくとも右バッターでは、今後まず出てこないでしょうネ。野球ボール


 


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海の日

今日は7月第3月曜日。


「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」


祝日、『海の日』です。


国旗の掲揚を致しましょう!


 


今日も全国的に暑くなりそうです。


熱中症に、ご注意を!!


 


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中 元

皆さんは、もう贈ったりいただいたりしましたか?

我が国に定着している風習のひとつ、


 御中元

を。 元々は、中国における道教の行事である〝三元〟のひとつ、中元(※一日中火を焚いて慈悲神を祀るもの)と、日本にあった盂蘭盆会 (うらぼんえ=お盆) の行事が合体し、祖先の霊への供物や両親への食べ物を贈る習慣になったもの。

更に、明治30年頃から親戚や目上の人、また日頃お世話になった方に進物するという現代の形に変化したとか。


そして今日・7月15日が、その〝中元〟 にあたる日なのです。

      


ところで御中元を贈る期間は、一般的には6月下旬から8月上旬ですが、地域によって多少違いがあるようですネ。

関東地区では7月初旬~15日頃までで、それ以降は〝暑中御見舞〟、更に立秋(8月7日頃)を過ぎると〝残暑御見舞〟となるようです。


未だお中元を贈っていない方、急ぎましょうネ!あせあせ 


また仕事柄、時々質問されるのですが・・・当方あるいは先方が喪中の場合でも、御中元はお祝いの品ではないので、贈ることは非礼になりません。


ただし四十九日を過ぎていなかったり、あるいは先方の状況によっては時期をずらして、暑中御見舞あるいは忌中御見舞としてお贈りする方がベターかも・・・。


さて、私が『御中元』 で思い出すのは、学生時代・・・春のリーグ戦終了後、夏の合宿費稼ぎのために某一流デパートのお中元発送作業のバイトで毎日のように晴海埠頭の配送センターに通ったこと。

1年生から通い始め、3年生の時には〝主任〟の肩書をもらって年下の学生を指導していた私は、1分間に6,7個の包装ができました。

そのスキルは、葬儀屋となった今、ドライアイスを包むのに役立っています。
あせあせ


まァそれはともかく、今でも憶えている出来事があります。

それはある日、何気なく発送伝票を見ると、送り主欄に当時の日本人なら誰でも知っているような某団体会長さんの名が。


(へぇ~、さすがは一流デパート・・・この方もココを使ってるんだァ。)


なんて思いつつ、品物を見たら、なんとたった1,000円の靴下セット。  


何枚か伝票をめくると、受取人欄には当時の政治家や著名人の名がズラリ。


(な~んだ、こんな有名人達に靴下なんか贈るんだァ。)


と一瞬ガッカリというかビックリしたんですが、直後にそんな気持ちは吹っ飛びました。 


だって、その有名会長さんの発注数が、1,500個以上あったんですもの驚き顔


40年前、お中元だけで150万円以上の出費。 


有名人って大変・・・というか、それだけの数の手書き伝票を書いた方に同情したものです。

かく言う私も、その靴下セットの包装・伝票貼付だけで丸1日を要しましたが。
ダメだぁ顔

でもそのデパートの名前が側面に出るように包装し、それを積み上げるとキッチリその名前が並んでいる光景は、我ながら壮観でした。

今みたいに携帯やスマホがあれば、撮影したのに…残念。

       


昔と違って、現在は何かと〝付け届け〟 にはうるさいご時世。 


政治家や著名人の方々は今、どんなお中元を贈っているのか、ちょっと興味があります。


あっ、政治家は贈ったら政治資金規正法に引っかかるか。うー


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衣紋掛け

今日はある野球選手の没後3周年にあたるのですが・・・タイトルだけでそれが誰か分かった方は、かなりのプロ野球通というか巨人(もしくは日ハム)ファンのはず。

それは巨人のV9に貢献したサウスポー、


  高橋 一三 投手

       

終戦直後の1946(昭和21)年に広島県府中市に生まれた高橋投手は、北川工業高校(現・県立府中東高校)に進学しエースとして活躍し、イイところまで勝ち進むも甲子園に手は届かず。

しかし彼の手の大きさに巨人の木戸美摸スカウトが惚れこみ、1965年ジャイアンツに入団。


いきなり4月に1軍デビューを果たしますが、5月の広島戦で2者連続ホームランを浴び即二軍落ち。

1年間ファーム暮らしを余儀なくされますが、本人は後に 「若い時に地獄を見たおかげで、現役で19年飯を食えた」 と、この挫折の経験が自らを奮起させたと語っておられます。

翌1966年から右バッターの外角に鋭く曲がり落ちるスクリューボールを身に着けて1軍に定着した彼は、1969年には22勝5敗・防御率2.21の好成績で、最多勝・最高勝率・沢村賞・ベストナインと多数のタイトルを獲得。

以後5年連続2ケタ勝利を挙げ、1年下の堀内恒夫投手と共に巨人9連覇の立役者となりました。


しかし1974・75年の2年間で8勝しか挙げられなかったことで、76年には張本選手との複数トレードで日本ハムへ。

巨人時代の本格派から技巧派に変身した彼は、途中腰痛に苦しめられながらも先発ローテーションの一員として活躍し、1981年には14勝を挙げてチーム19年ぶりのリーグ優勝に貢献。


       


1983年に引退するまで現役19年、通算成績167勝132敗12セーブは、ご立派。

ただし通算奪三振が本人の目標としていた2000に僅か3つ足りない、1997。


これが相当悔しかったようで、引退後も三振を奪う夢に苦しめられたそうな。


その気持ち、昔同じくピッチャーをやっていた私にはよぅく分かります。


現役引退後は巨人・日ハムの投手コーチ、巨人二軍監督を歴任。

西崎幸広・柴田保光・武田一浩・内海哲也らチームのエース級を育て上げました。

2009年からは山梨学院大学硬式野球部監督に就任し、学生を鍛え上げていましたが、2014年に体調を崩し辞任。


        


療養を続けておられましたが、2015(平成27)年7月14日・・・心不全により、69歳でこの世を去りました。

若い頃一緒に遊び歩いていた堀内投手が〝悪太郎〟と言われ叩かれたのに対し、高橋投手が全く批判されなかったのは、非常に謙虚かつ実直な人柄で周囲から好かれていたから。

指導者にはうってつけの性格だったのでしょう。

あと10年は生きて野球界に貢献して欲しかったです。

身長178cm・体重78kgというサイズと、〝衣紋掛け〟と渾名がつくほどのいかり肩だったところが現役時代の私と全く同じでしたから、非常に親近感があるピッチャーでした。

その豪快なフォームが、あの 『巨人の星』 の星飛雄馬のモデルだったという〝左のエース〟のご冥福を、あらためてお祈り致します。



 


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映画の都・・・と言えば、ハリウッド。

そのハリウッドの名を耳にした時、多くの方がまずコレを思い浮かべることでしょう。(↓)

     

この有名な


 hollywood sign


が設置されたのが、今から95年前の今日・1923年7月13日のことでした。

意外と古くからあったんですねェ。


ところでこの看板、何を目的として造られたと思います?

実はコレ、映画会社ではなく不動産会社の広告だったんですって。

ハリウッド地区を見下ろす丘陵地に新たな住宅地開発を宣伝するために
不動産開発業者のウッドラフ・アンド・シュルツが建てたもの。

但し当初はハリウッドの後にランドと言う文字がついてました。

     


この文字を設計したのは、制作した看板業者クレセント・サイン社のオーナーだったトマス・フィスク・ゴフ。

ひとつが高さ15m・幅9.1mという巨大な文字看板は、当初1年半で取り壊される予定だったとか。

ところがそちょうどその頃に映画産業が勃興したことで、この広告看板がハリウッドを象徴するものとして撤去されぬまま、現在まで残されているそうな。

しかし元々1年半で取り壊す予定で作られた看板でしたから頑強に作られてはいませんでした。

自動車の転落事故で〝H〟の文字に突っ込んだりしたため1949年に修復工事を行い、その際に “LAND ” を取り除き現在の “HOLLYWOOD ” に。

その後も傷みが酷くなり、1970年代には “O ” が無くなってしまうなど、悲惨な状況になったことも。

     

そこで1978年にプレイボーイ誌の創刊者ヒュー・ヘフナーや歌手のアンディ・ウィリアムスら(法人を含む)9名が一文字ずつの費用を寄付する形で総額約25万ドルを拠出。

以前より一回り小さくなったものの、スチール製の耐久性に優れた看板に作り直され、ハリウッド75周年を祝う1978年11月にお披露目。

その後もペンキの塗り直しなどの修復が施されていますし、現在では認められていませんが、以前は文字を変えたこともあるそうな。

     

ところでこの文字・・・下から見上げると、なんかデコボコしていて見栄えが良くない感じがしませんか?

実はこの設置しているは、山の等高線上に合わせて設置されているそうな。

     

ですから、同じ高さから見ればきれいな一直線で見られるはず・・・って、上の画像から推察すると、相当離れた場所かヘリに乗って同じ高さまで行かないとダメかも。

ま、そこまでする必要はないでしょうけどネ。あせあせ

ロスに行かれる方は、是非その目でお確かめください。

     



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あおいくま

我が愛読誌・月刊『致知』8月号に、タレントの滝川広志さん・・・と言っても、お分かりになる方は少ないでしょうが、芸名なら超有名な

 コロッケ さん

のインタビュー記事が掲載されていました。

様々なものまねで私たちを笑わせてくれる彼が、自らの生い立ちや母親との関わり、そして自らの芸道に関して真摯に語られておりましたので、以下に抜粋・編集にてご紹介致します。

          ◆     ◆     ◆     ◆


僕は昭和35年に、熊本市で生まれました。

家族は母と姉。 遊び人だった父親は僕が物心ついた頃には家に寄り付かなくなっていて、行方不明同然でした。

母は看護助手をしながら子供たちを育てましたが、生活は楽ではありませんでした。

小さな二軒長屋に住み、食事もとてもシンプル。
おかずが三食ともモヤシだったり、お米が無くてアラレだけだったこともありました。

そんな時、母は 「今日のご飯は、アラレたい!」 と明るく言うんです。

それを僕たちも喜んで食べる。


明日の生活もままならないような時に笑顔でいられるこの強さは何なのだろうと、今でもよく考えます。

やはり子供に対する愛情が人一倍強かったからなのでしょう。

そういう母ですから、家に寄り付かない父に対して恨み言めいた事を口にするのを僕は一度も見たことがありません。

「困った時、どうしようかと3日は考える。 でも4日目には悩むのはやめて、1歩前に進むことを考える。 悩んだってしょんなか。」

それが母の哲学でした。


僕が小学校2年生の時、近所に住む3つ年上のガキ大将にいつもいじめられていました。

堪忍袋が切れてしまったのでしょう、ある日母は遂に僕を連れてガキ大将の家に乗り込みました。

出てきたのは、身体が母の2倍はありそうな父親でした。

「子供同士の話に親が出てくることはなかろうもん。」

いきなりそう切り出してきましたが、母も負けていません。

「子供同士って言いなさるなら、あんたがちゃんと子供の躾ばしなっせ。 あんたの子供が年も身体も大きか子に、毎日毎日殴られていじめられていたら、あんたどうすると? どうするとネ!」

最初は居丈高だった父親も、正論で押してくる母に次第に返す言葉もなくなり、すごすごと引き下がりました。


       

その母が、いつの頃からか家の柱にこう書いた紙を貼りつけました。

 あせるな
 おこるな
 いばるな
 くさるな
 まけるな


頭の文字を取って〝あおいくま〟と私が横に読んでましたが、母は笑いながら、

「広志、この言葉だけは憶えておきなさい。 これを覚えておけば大丈夫だから。」

と教えてくれました。


          ◆     ◆     ◆     ◆


コロッケさんは、その母親の猛反対を振り切って芸能人になるべく単身上京し、売れない時代が続いても、この〝あおいくま〟を心の支えとしていたそうです。

それからというもの、僕は事ある毎にこの〝あおいくま〟を思い出し、心の支えとするようになりました。


そして今、ものまね界の第一人者となったコロッケさんは、こう仰っています。

          ◆     ◆     ◆     ◆


僕らの時代には〝石の上にも三年〟という言葉がまだ生きていて、僕自身もそれを自分に言い聞かせながら、ものまねという一つのことに打ち込んできました。


そして10年経った時、もう一つの大切なポイントに気づきました。


それはただ続けるだけではなく、常に変化していかなくてはいけないということです。

会社でもパソコンが使えなければ仕事がこなせなくなったように、淘汰されないために常に変化が求められるのは芸人の世界も一緒です。

そんな思いで創り上げたのが、五木ひろしさんに代表されるロボットバージョンやヒップホップなどのダンスを取り入れたものまねです。


ロボットバージョンも、20年前・10年前のものとは全く動きが違うんです。


一つの芸を取り上げても年々変化できたのは、下積み時代から培ってきた多くの経験が生きてきたからだと思います。

          ◆     ◆     ◆     ◆


芸能界に入って38年も経つコロッケさんがトップの座をキープできるのは、常に変革を念頭に努力を続けているからこそなんですネ。

この母にして、この子在り・・・です。
笑2


 


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