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太陽光

今日は、最近あまり耳にしなくなった気がする、この言葉の記念日なのだそうです。 


  日照権の日


今から47年前の今日・1972(昭和47)年6月27日に、違法建築の隣家によって日照を奪われたという訴訟に関し、最高裁が

「日照権(と通風権)を法的に保護するのに値する」

という判断を初めて示し、『日照権』 が確立したことを記念したものだとか。


1970年頃から大都市への人口集中に伴って地価が高騰すると、必然的に高層住宅が建設されるようになり、それに比例して日照不足が問題に。


建設事業者は建築基準法の遵守を、住民側は日照を受ける基本的人権をそれぞれ主張・・・訴訟による建設差し止めや、自治体に対して直接請求を行うなどトラブルはエスカレートしていきました。


ちょうど私が中・高校生時代のことでしたが、その時は田舎にいたので高層ビル・マンションなど見たこともなかったため、連日新聞などを賑わす 『日照権』 という言葉には正直ピンときませんでした。


ただ大学進学のため上京したら、その意味がよく分かりましたが。あせあせ


この判決が出た後の1977(昭和52)年に、中・高層建築物の高さを制限する建築基準法の改正が行われました。


これにより、業者が建築確認を申請した時点で日影規制基準の合否を自治体がチェックするように。


一昔前に比べて、マスメディアがこの問題を取り上げなくなったのは、この法改正のおかげなのでしょうネ。

都内でそれを象徴する形状をしたビルがあります。

それは、解体・建て替えが予定されている、中野サンプラザ

      

中野駅前にある、1973年に竣工した同ビルは、正面からだと分かりませんが、背後に回るとバッサリと斬り落とされたような三角形の形状であることが分かります。

正面は南向きですから、おそらくは背後に住む住民の日照権に配慮したのでしょうネ。


同ビルは今後数年内に解体されると言われていますが、跡地に立つ新ビルはやっぱり三角形になるんでしょうか?


ところで、この日照権・・・個人的には今後再燃する気がします。


それは東日本大震災に伴う福島第一原発事故により、電力確保のために当時の民主党政権が推し進めた太陽光発電を取り入れた家庭やビルが増えたから。


百万円単位の設備投資をして太陽光発電ができるようになっても、その後で自宅の南側に高層マンションが建ったら・・・アウトですょネ。


過去には太陽光発電設備を取り付けた商店街の南側にマンションが建設されたため、「発電量が落ちた」 として建設業者が訴えられ、個別に賠償金を支払わされた実例も。

ソーラーシステム導入を検討されている方は、自宅南側に高層ビルが建つ見込みがあるかどうか、しっかりご確認ください。
晴れ


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島 守

以前拙ブログでは、大東亜戦争末期に多くの沖縄県民を疎開させて生命を救った島田叡(あきら)知事について記事にしました。



そして今日は、彼と共に多くの沖縄県民救出に尽力し、島田知事と同じく今から74年前の今日消息を絶った

 荒井 退造 沖縄県警察部長

についてご紹介したいと思います。

       


荒井部長は1900(明治33)年、現在の宇都宮にある農家の次男として生まれた栃木県人。

父親は農業を継がせたかったようですが、小学校での成績が常時1,2番と頭脳明晰だったため、進学を許可。

名門・県立宇都宮中学校を経て上京、巡査をしながら明治大学夜間部を卒業した苦学生の彼は、1927年に当時最難関と言われた高等文官試験に見事合格し、同年内務省に入省。

麻布六本木や万世橋の警察署長を務めた後、満州に渡り新京の警察部長等を経て、福岡県警察部特高課長や福井県官房長を歴任。

そして戦時中の1943年7月に沖縄県警察部長・・・つまり現在の沖縄県警本部長として現地に赴任しました。


そして戦況が悪化した翌年7月、閣議で沖縄県民10万人を県外に疎開させることが決定。


しかし当時の県知事(後に何度も東京出張を繰り返した挙句、出張中に香川県知事への辞令が出され赴任・・・というより逃げ出した、島田知事の前任者)や県の有力者は軍部の宣伝を信じて日本の勝利を疑わず、疎開に理解を示そうとはしませんでした。

そこで新井部長は、

「我々警察官は常に最悪の状況を念頭に置いて対処しなければならない。 あらゆる機会を捉えて疎開の意義を周知して欲しい」

と訴え、警察部を総動員して講演会や住民集会などを積極的に開催し、説得に奔走。

そして7月17日には県庁職員や警察官の家族752人を率先して疎開させ、県民に範を示しました。

県議会から 「警察部長の独断専行だ」 と非難されても怯まず、毅然とした態度を貫く彼の姿を見て協力者・理解者が増え、9月末までに約3万5千人、翌年3月までに約7万3千人の疎開を実現。

そして翌1945年4月にアメリカ軍が上陸してからも、彼は島田知事と共に住民を安全な場所に保護すべく県職員や警察官を指揮。

同年5月25日に本土の内務省に

「六十万県民ただ暗黒なる壕内に生く。 この決戦に敗れて皇國の安泰以って望むべきもなしと信じ、この部民と相ともに敢闘す」

という悲痛な電文を送信。


そして日本軍が首里から撤退した2週間後の6月9日に警察警備隊の解散を命じた後も県民の救助に奔走。

そして6月26日・・・赤痢の症状が重くなった荒井部長は、島田知事に抱えられるようにして島南端の摩文仁(まぶに)の軍医部壕を出て森に入っていく姿を目撃されたのを最後に、2人の消息は途絶えました。


       


残念ながら2人の遺体は今も見つかっていませんが、現在摩文仁の丘には、約20万人の沖縄県民の命を救った2人の碑が建てられています。

       

沖縄県民なら知らぬ人のない、この本土からやってきた〝役人の鑑〟2人に関して詳しく知りたい方には、こちらのご一読をお勧めします。


 『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり 

(田村洋三・著 中央公論新社・刊)


       


公務員や、公務員を志望する若者に是非読んでいただきたい秀作です。

公式発表では6月26日が消息不明日とされていますが、同書によれば7月に入って洞窟内で生きていた島田知事と会ったと証言する人がおり、その方が数日後に自決した知事の遺体を確認したとのこと。

しかしその目撃者も、荒井部長の姿は見ていません。


命日は確定していませんが、沖縄県民のために命懸けで働いたお二方の冥福を祈るばかりです。笑3


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劇 的

今からちょうど60年前の今日、日本ブロ野球界にとって大きなエポックとなる出来事がありました。

それは、昭和天皇が初めて観戦された


天覧試合


某日、昭和天皇が水道橋方面を眺めていた時、ふと後楽園球場のカクテルライトが目に留まり、


「あの明かりは何か?」


と尋ねられ、「プロ野球の試合であります。」という侍従の答えに関心を示された・・・これがキッカケとなって、史上初となる天皇陛下のプロ野球観戦が実現したそうな。


試合は、読売ジャイアンツ vs 大阪タイガース 伝統の一戦。

初の天覧試合ということで、巨人・水原監督は当日の朝2度も水で体を清め、また島主審は「陛下にお尻を向けてジャッジしていいのだろうか」と真剣に悩んだとか。


※島主審に関する過去記事は、こちら。(↓)



19時から巨人・藤田元司、阪神・小山正明の両エースの先発で試合開始。

追いつ追われつの好ゲームは、4-4のまま9回裏に入った時点で
21時を過ぎていました。


両陛下が野球観戦できる時間は21時15分までと予定されていたため、もし延長戦に突入した場合は試合結果を見届けられず、途中退席になる可能性がありました。


しかし、9回裏の先頭打者としてバッターボックスに入ったのが、長嶋茂雄選手。

カウント2-2から、後に終生のライバルとなる村山実選手の投じた5球目を真芯で捉えると、ボールはレフトスタンドに飛び込みサヨナラ・ホームラン!


       

この時、時刻は21時12分・・・まさに劇的な幕切れとなり、両陛下はそれをしっかりと見届けて席を立たれたのです。

最後はスーパースターのサヨナラホームランで決着! しかもこの試合では王選手もホームランを打っており、いわゆる〝ONアベックホームラン〟の始まりになったというオマケつき。


いかなる作家をしてもこんなストーリーは書けない・・・いや、書いたらわざとらしいと批判を浴びるだろうと思われる程の凄い試合でした。

長島選手自身が、後に最も記憶に残る試合だったと述懐したこの天覧試合を契機に、空前のプロ野球ブームへと突入していったわけです。


※天覧試合の劇的な幕切れを、こちらでご覧ください。



さて、それから半世紀以上経った現在の日本プロ野球界・・・。


長嶋 vs 村山王 vs 江夏江川 vs 掛布野茂 vs 清原松坂 vsイチロー・・・これらのような、誰もが観たがるライバル対決が、殆どなくなってしまったような気がしませんか?


日本プロ野球界のスターが続々とメジャーリーグ入りし、そこで活躍してくれることは嬉しいですが、やはり目の前で勝負してくれる事がファンにとっては有難いとも思うのですが・・・。


それに某球団が〝勝てば官軍〟とばかりに、相変わらずカネで他球団の主力選手を毎年のようにかき集めていますが、こういうやり方もファンの共感を得られるのかどうか。

サッカーを始め、様々なスポーツに人々の関心が分散している中、プロ野球界も運営方法を考え直す時期に来ているような気がします。


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女 王

・・・と言っても、ウチの奥様のことではありません。

今日は、昭和時代の芸能界に君臨した〝女王〟


 美空 ひばり さん


の命日・没後30周年にあたります。


       


1937(昭和12)年、横浜で魚屋の長女として生まれたひばり(本名:加藤和枝)さんは、歌好きな両親が所蔵していたレコードを小さな時から聴いて育ちました。


1943年、父・増吉氏に召集令状が届き、出征前の送別会で彼女が歌った 『九段の母』 が出席者を泣かせるほどの感銘を与えたことで母親がその才能に確信を持ち、以来歌手活動を始めたそうです。


終戦の翌年・1946年にNHK素人のど自慢に出場するも、「上手いが子供らしくない」 驚き顔 という、今では考えられないような理由でカネを鳴らしてもらえなかったひばりさんでしたが、母子はこれにメゲず活動を継続。

古賀政男先生の前で歌い、その歌唱力を絶賛されるなどしました。


全国を巡業する中、横浜国際劇場と準専属契約を結ぶことに成功。


「美空ひばり」の芸名を演出家・岡田恵吉につけてもらった後は映画出演・レコード発売と、順調にスター街道を進み始めます。


1954年、17歳でNHK紅白歌合戦に初出場、翌年には江利千チエミ・雪村いづみと共に〝三人娘〟として人気を博し、1957年の紅白ではトリを務めるなど、スターの地位を不動のものとしました。

        


しかしその後、地方巡業時代からの山口組・田岡組長との関係を取り沙汰されNHKの番組出場を辞退。 


紅白歌合戦には、1973年以降出場することはありませんでした。


また小林旭さんとの結婚生活も周囲との軋轢などが原因で僅か2年で破局(※実際には未入籍)するなど、決して順風満帆の人生とはいえなかったようです。


母や弟を愛しながら、一方で恋を成就できなかった〝御嬢〟の苦悩は、私たちには想像できない程深いものだったのでしょうか・・・1987年に公演先で倒れ緊急入院。


半年後に復帰し、翌1988年に東京ドームで 「不死鳥コンサート」 を開催するまでに。

        

しかし、病魔を完全に克服するまでには至らず・・・1989(平成元)年6月24日、
特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発により、52歳の若さでこの世を去りました。


死後30年経った今も、多くの歌謡ファンの心を捉えて離さない御嬢の歌声。


青山葬儀所で執り行われた彼女の葬儀に参列した約42,000人の会葬者が大合唱したという、名曲 『川の流れのように』 を聴きつつ、あらためて〝永遠の歌姫〟のご冥福をお祈りしたいと思います。


 


御嬢がこの世に残した生前最後の映像と歌声・・・心に沁みます。


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恰 好

今日は、我が愛読誌・月刊『致知』7月号から、発行人・藤尾秀昭氏の巻頭エッセーを抜粋・編集にてお届けします。

           ◆     ◆     ◆     ◆

今月号のテーマ〝命は吾より作(な)す〟とは、運命は自分が作る、ということである。

自らの道を自ら切り開いてきた人は皆、命を吾より作したひとである。

10歳で丁稚奉公に入り、一代で大企業グルーブら創った松下幸之助さんは、その最たる存在である。

ある年の入社式で、松下幸之助ささんはこう訓辞している。

「君らな、僕が今から言う二つのことを守り通したら、松下電器の重役になれる。

一つは、いい会社に入ったと思い続けられるかどうかや。


入社したばかりの時はそう思っても、嫌な上司に出会ったり意に沿わない仕事をさせられてもなお、いい会社に入ったと心からおもえるかどうかは、すごく大事なことや。

もう一つは、社会人になってお金が一番大事と思ったらあかん。

もちろんお金も大事だが、お金はなくしても取り戻せる。


しかし、人生にはこりを失うと取り戻すのに大変苦労するものがある。

それは、信用や。 信用を大事にせなあかん。」

これに付言して、松下さんはこうも言われた。

「人間、9割は自分ではどうにもならない運命のもとに生きている。
その運命を呪ってはいけない。 


喜んで受け入れる。 すると運が良くなる。」

命は吾より作す心得を説いて含蓄深い。

       

〝命〟について、安岡正篤師はこう言っている。

「人間が浅はかで無力だと、いわゆる〝宿命〟になる。
 人間が本当に磨かれてくねると〝運命〟になる。
 即ち、自分で自分の〝命〟を創造することができるようになる。

 それを〝命は吾より作す〟という。」

卓見である。 


ではどうすれば人間を磨き、自分の命を創造できるのか。

古来、多くの先哲がそのヒントになる金言を残している。
ここに先哲の言葉を3つ添えておきたい。

一は『論語』より、「人の生くるや直(なお)し。」

人が生きていく上で最も大事なことは、素直であることだ・・・と孔子は教える。

人間性・個性というが、〝性〟の偏〝忄(りっしんべん)〟は、心が天地に対してすっくと立っていることを示している。

心が歪んだり捻じ曲がったりしていると人間性も個性も発揮できない。
性格が歪んだ人は人生も歪む、孔子が素直を重んじた所以である。

次に『易経』より、「性を尽くして以って命に至る。」

ここで言う〝性〟は天から授かったもの、持って生まれた能力のこと。
それを全て発揮し尽して天命に至ることができる、というのである。

これは命を吾より作す上で欠かすことのできない秀作だと言える。

多くの先達が様々な表現でこの大事を説いている。

坂村真民さんの詩にも、こういうのがある。

「なにごとも 本腰にならねば いい仕事はできない
 新しい力も うまれてはこない 本気であれ 本腰であれ」

最後に、趙州禅師の話。

弟子が名僧といわれた趙州に「大困難がきたらどうしますか」と問う。

趙州は一言、「恰好」 と答えた。

格好とは「よしきた」ということである。


人生に起きる「まさか」にヘナヘナとなってはいけない。
「よしきた」と応じる。

その姿勢こそ吾より命を作す根幹となる。 心したい。


           ◆     ◆     ◆     ◆

先達の言葉に素直に耳を傾け、実践したいものです。


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断 交

今から54年前の今日・1965(昭和40)年6月22日、我が国にとっては実に忌まわしいというか、現在に至るまで禍根を残している

 日韓基本条約
 (正式名称:日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約

の署名が東京で行われました。

    

佐藤栄作総理大臣と朴正煕
大統領との間で締結され、同年12月18日に発効した同条約の締結までには、実に14年の歳月を要しました。

日韓の国交回復交渉は、1951年・・・吉田内閣と李承晩政権時代から開始されましたが、1910年の日韓併合無効を主張し謝罪を求める韓国に対し、日本はこれを拒否。

更に朝鮮戦争や李承晩ラインの一方的な設定等があり、交渉は難航。

しかし1961年、クーデターによって軍事政権を樹立した朴正煕大統領にとっては国内の経済立て直しが急務であり、そのために日本の経済支援が必要だったこと、またベトナムに軍事介入したことから朝鮮半島の安定が不可欠となったアメリカからの仲介(圧力?)により、同条約は締結の運びとなりました。

7箇条からなる同条約により、日本は韓国を正式に国家として認め国交を樹立。


そして日本は韓国に対し3億ドル(当時1ドル=360円)の資金供与、2億ドルの有償援助、3億ドルの民間企業からの資金協力・・・合計8億ドルもの巨額な資金が支払われました。

当時韓国の国家予算が3.5億ドルでしたから、国家予算の2年分以上・・・如何に巨額な支出だったかが分かります。

この資金を元手に韓国はインフラ整備を行い、〝漢江の奇跡〟と呼ばれる復興を成し遂げることができました。


(ただしこの資金には個人に対する補償金が含まれていましたが、同国はその殆どをインフラ整備に回したため、2014年に国内で裁判を起こされています。)

そのかわり、日本に対して韓国は賠償権を放棄することに。

にも拘らず、同国が日本に対し現代にいたるまで慰安婦問題や徴用工問題等で執拗に謝罪や賠償金を要求してきているのは、皆さんもご存知の通り。

いうなれば、交通事故等で示談書を取り交わし支払いも終わっているのに、また何度も謝罪とカネを要求してくるようなもの。

こんなヤ〇ザでもしないような無法を国家がはたらくのですから、呆れます。

そもそも、日韓併合は彼等から望んだことであり、日本の支援のおかげで経済・文化水準は飛躍的に進化しました。


更に彼等は大東亜戦争時には日本軍側であり、実際に日本軍人として連合国と戦ったにもかかわらず、終戦後は一転して戦勝国側だとして日本に対し賠償を求めるという掌返しもしています。

さすがにアメリカら連合国側はその主張を認めませんでしたが。

私に言わせれば、借りた金を返さずに強請り集りを繰り返す、まさに恩を仇で返す背徳行為。

つい先日も、優勝カップに足を乗せた無礼な行為に主催国の支那が怒り、優勝を剥奪されたら、「謝ったのだから許すのが当然」と開き直る始末。

日本がいくら謝っても許さないくせに、この言い草には呆れます。

そういう民族とは、関わるべきではないのです。
かつて福沢諭吉翁ら先人が警告した通りに・・・。

彼等には関わらない、教えない、助けない・・・これが日本に安寧をもたらす最低条件でしょう。

    


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劣 化

私が葬儀屋稼業から足を洗って17年ぶりにゴルフを再開したことは、皆さんご存知の通り。 (↓)



ギアやウェアを買い替え、ダイエットや筋トレをしてやる気マンマン・・・だいぶクラブを振れるようになり、おかげさまでリハビリは順調といったところ。

と同時に、コースに出てからそのブランクの長さを実感する出来事が立て続けに2回ありました。

そのひとつは、ゴルフシューズ。

プレー予約した当日が雨模様だったため、セコい私は買ったばかりの新品を使いたくなくて、約20年前に買った某アメリカメーカーの古いシューズを押し入れから引っ張り出しました。

試しに履いてみたら、特に問題はなさそう・・・ってことで、バッグに入れてコースへ。

ラウンドし始めてしばらくは良かったのですが、5番ホールのグリーン上を歩いていた時に、〝パカッ〟と音がして左足の靴底が剥がれ落ちたんです。

そりゃもう、ビックリ!

もちろん予備のシューズなんて持ってきてませんし、裸足になる訳にもいかず・・・結局、靴底の無いままプレーを続行。

雨が降って芝生が濡れてましたから、水を吸って靴下はビショビショ。

ても左足に力が入れられない分、力が抜けて却ってスコアがまとまったから、不思議。

おかげでいい勉強になりました。

帰宅した私が、その壊れたシューズと同時期に買って保管していたもう1足のシューズを廃棄したことは、言うまでもありません。


そしてもうひとつは、ボール。

20年近く前に購入したボールを数ダース保管していたものの、さすがにもう使えないと思い最初から新品を使用していますが、さりとて未使用のボールをただ捨てるのはもったいない。

ってことで、私はキャディーバッグに何個か練習用に入れることに。

そして先日、スタート前にコースの練習場でそのボールを使って練習をしたのですが、何回か20ヤード程のアプローチをウェッジを使って打っていたところ、空中を飛んでいたボールから、何か白く小さな物体が分離したんです。

目の錯覚かと思い、ポールの落下地点に行ってそのまま再度打ったら、また同じ現象が。

「えっ、何?」

と思って、芝生の上に転がったボールを見たら・・・なんと、ボールに2つの円形ハゲが。

       

そう、カバーが劣化して剥がれ飛び、コアがむき出しになっちゃったんです。

長いことゴルフやってきましたけど、こんなボールは初めて見ました。

帰宅してからあらためてボールの耐用年数をネット検索したら、確たる数値はないものの大体3~5年とのこと。
10年以上経ったボールは使わない方がよろしいようで。

そりゃゴム製品ですから、当たり前でしょうネ。

もしケチッて20年近く経ったボールを本番で使用しドライバーでフルショットしたら、空中で真っ二つに割れてたかも?

物を大切に使うことは悪い事ではありませんが、ことゴルフに関しては程々にってことですネ。

とは言え、食料品と違いゴルフボールって製造年月日が表示されていません。

新品だと思って買っても、実は数年前に製造されていたってことは、十分有り得る話。

やはり極端に安売りしているボールは、手を出さない方がいいかも?


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季節外れ

まだ梅雨入り前の時期ですが、今日は台風のお話です。

今からちょうど70年前の今日・1949(昭和24)年6月20日午後11時頃、まさに季節外れの


 デラ(Della )台風


が鹿児島に上陸しました。

※台風が人名から番号制に変わったのは、1953年から。

詳しくは、こちらの過去記事で。(↓)



6月17日に米軍機によってフィリピン東方沖で発見された同台風は、北北西に進路を取りつつ屋久島を通過し、そのまま紀伊半島に向かうと予想されました。

       


この台風の勢力は強く、21日午前2時頃の愛媛県・宇和島市で最大瞬間風速29.2m、佐田岬で38.5mを記録。

ちょうどこの台風が接近した時、宇和海では不漁続きだった漁民が無理を押して出漁していました。


そこに進路が変わった台風が直撃して海が大荒れとなり、死者・行方不明者211人を出しました。

中でも日振島での被害は甚大で、当時の人口約2,300人の内、106人・・・人口の5%近くが帰らぬ人に。

       

                  日振島の位置


また川崎汽船所有の旅客船 『青葉丸』(599トン)が警報を受けながら20日21時に高浜港を出港し、21日午前2時半に大分県姫島付近で転覆、乗員・上客141名が死亡または行方不明に。

21日6時頃に玄海灘から日本海に抜けた同台風による被害は、死者・行方不明者468名、負傷者367名。

全壊住宅1,410棟、半壊4,005棟、床上浸水4,627棟を数えました。


       

                    宇和島・加周海岸の様子


被害が大きくなった要因としては、まず当時はまだ離島や僻地には電気も通っておらず、台風情報が行きわたらなかったこと。

更にその地域の住民には、「梅雨時の6月に台風は来ない」という言い伝えが浸透していたことが挙げられるとか。

現代のように人工衛星から逐次情報が送られてくる時代ならぱ、船も出航せずここまでの被害にはならなかったでしょう。

とは言え、この台風が急に進路を変えたように、自然は人智を超えた活動をするもの。

まして地球が温暖化に向かい、温帯化しつつある日本列島では、ゲリラ豪雨などがいつ起きても不思議ではないですから。


今年は既に1・2月に1個ずつ台風が発生していますが、意外にもこれは例年に比べて少ない方。
2015年には1~6月までに毎月1,2個、計9個も発生しましたし、2004年には6月単月で5個も。


〝油断大敵〟・・・これが自然災害から身を守る心構えでしょう。うー


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助っ人

今まで長い歴史を誇る日本プロ野球には、過去千人以上の外国人選手が〝助っ人〟としてブレーしましたが・・・ここでクイズです。

戦後初めてその助っ人として日本にやってきた選手は、誰?

中高年の野球ファンでないと分からないかもしれませんが・・・正解は、


 与那嶺 要 選手

〝ウォーリー与那嶺〟という愛称で呼ばれた彼が読売巨人軍の選手としてシーズン途中にハワイから来日し、初めて日本のグラウンドでプレーしたのが、今から68年前の今日・1951(昭和26)年6月19日のことでした。

        


与那嶺選手はその名前からお察しの通り、外国人と言っても父が沖縄、母が広島県出身の日本人という、ハワイ移民2世。


子供の頃から家業のサトウキビ畑で働いていた彼は、その俊足を買われて1947年にアメラグのプロチームに入団したものの、度重なるケガのためブレー続行を断念。

1950年、野球に転向してマイナー・リーグのソルトレイクシティ・ビーズに入団しました。

その俊足に目を付けた巨人のスカウトに勧誘された彼は、1951年シーズン途中に入団すると、初打席でいきなり中日。・杉下茂投手からセーフティーバントを決め、早くも本領を発揮。

本場仕込みの走塁技術を披露すると共に、規定打席に達しなかったものの打率.354をマーク。


    

翌年にはリーグ2位の打率.344と38盗塁をいう成績を残し、オールスターにも選出されると、1954年には打率.361で首位打者を獲得。

1961年に中日に移籍しましたが、1962年に引退するまで実働12年間でオールスター出場8回、ベストナイン7回、首位打者3回、MVP1回。

1,337安打、打率.311、163盗塁をマークして巨人の第2期黄金時代を支え、〝助っ人〟と言われるに相応しい成績を残しました。


そして現役引退後は、中日で打撃やヘッドコーチを務めた後、1972年から5年間監督を務め、1974年には巨人の10連覇を阻んで中日20年ぶりの優勝を果たし、地元ファンを狂喜させました。


       

その後は1988年まで古巣の巨人など複数の球団でコーチや監督を歴任。


日本語での日常会話は出来たものの読み書きがほとんどできなかったこともあり解説者にはならず、38年間ユニホームを着続けるという異例の野球人生を送りました。

1994年に外国人選手としてはスタルヒンに続き2人目の野球殿堂入りを果たした与那嶺氏は、85歳だった2011年にハワイで亡くなられました。

この与那嶺氏には、こういった数字に残る功績の他に、実は間接的に野球界に多大な貢献をされているのです。

あの〝世界の王〟こと王貞治氏が少年時代、後楽園球場で巨人戦を観戦した際、選手にサインをせがんだのですが、差し出したのが玩具のゴムボールだったために、誰もサインしてくれなかったのだとか。

しかし与那嶺選手だけが立ち止まって粗末なゴムボールにサインしてくれたことに王少年は大感激。

それを忘れられなかった王氏は、現役時代から現在までファンからの要望があればできる限りサインに応じてきたのだそうな。

与那嶺氏は、巨人だけでなく日本プロ球界の助っ人だったと言ってよいでしょう。


       

           ハワイで余生を送った晩年の与那嶺氏


過去には、クロマティやバースなど記憶・記録に残る活躍をした選手もいた半面、鳴り物入りで来日しながらシーズン途中、酷い場合はキャンプ中に帰国してしまった選手も少なくありませんでした。

願わくば、成績だけでなく与那嶺氏のような少年ファンに夢と希望を与える選手に来日してもらいたいものですネ。
野球ボール

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意 表

相変わらず夕食抜きダイエット継続中の私・・・2月から4ヶ月余り経過して約12キロ落ち、リバウンドなし。

ってことで、エネゴリ君の店には相変わらずランチ時に行っています。

先日も正午前に入店したんですが、パスタはいつものトマトソースではなく、今回はオリーブオイル仕立ての『甲イカと小松菜』をチョイス。

そして特段辛くしてくれ、とは頼みませんでした。

待つこと暫し、目の前に出されたのが、こちら。(↓)

    

見た目は全然辛そうじゃなかったんですが、一口食べたら・・・

「何コレ。 この前辛くしてって頼んだトマトソースより辛いじゃん。」

「エヘヘ、分かりました?」

「どうやって辛味を出したの? 赤くないけど。」

「唐辛子を細かく砕いて入れたんですョ。 


だから見た目分からないんです。 


普通は1人前に唐辛子1本なんですけど、ハーフサイズに3本入れましたからねェ。 ビックリしたでしょ。 ウッホッホ!」

「何だ、この前のリベンジかョ。 でも意表突かれたナ~。」(↓)



「そう言っていただけると、嬉しいッス。」

「オレが辛味を感じるんだから、普通の人には相当辛いはず。


だけどもっと辛くしたいから、激辛のタバスコ・・・いや、オリーブオイルだから合わないナ。 激辛唐辛子おくれ。」

    

「え~、そんなに唐辛子かけるんですか?

もう人間の食べるもんじゃないですョ。」

・・・ゴリラに言われたくないっつぅの。


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