憾

「春の うららの 隅田川」 
「春高楼(こうろう)の花の宴(えん)  巡る盃(さかづき)影さして」

中高年の方なら、自然と歌える『春』と『荒城の月』の冒頭歌詞ですネ。

今日は、この名曲を生み出した日本を代表する作曲家


 瀧 廉太郎


の命日にあたります。


       


廉太郎は1879(明治12)年、江戸時代に日出藩(現在の大分県)の家老職を務めた上級藩士の家系を受け継いだ瀧家の、内務官僚として大久保利通・伊藤博文に仕えた瀧吉弘の長男として、現在の東京都港区西新橋に生まれました。

父親の転勤に伴い1886年に神奈川県師範学校付属小学校に入学した彼は富山県、東京都と転校し、1890年に麹町尋常小学校を卒業。

それと同時に15歳で東京音楽学校(現・東京藝大)に入学します。

本科から研究科へと進む間にピアノと作曲の腕を磨いた彼は1900(明治33)年に冒頭の 『花』 や 『荒城の月』 を作曲。

それまで外国語を無理やり翻訳して嵌め込んだ〝翻訳唱歌〟ばかりだった故に、日本語に日本人が曲を付けた廉太郎の作品は、人々に大いに歓迎されたといいます。

そして翌1901年に、廉太郎は日本人音楽家として2人目(※1人目は女流ピアニストの幸田幸)となるヨーロッパ留学生としてドイツ・ベルリンへ。

ところが渡欧後わずか5ヶ月後に、彼は肺結核を発病。
現地で入院するも病状は回復せず、1902年7月にドイツを発ち、10月に横浜に到着。

父親の故郷・大分で療養を続けましたが、その甲斐なく・・・今から114年前の今日・1903(明治36)年6月29日に23歳の若さで天に召されてしまいました。

死因が結核だったため、彼の作品の多くは焼却されたそうで、現在彼の作曲作品として確認されているのは、僅か34曲だそうです。


      
        『滝 廉太郎』 (海老沢 敏・著 岩波新書・刊)


さて、ここで彼に関するちょっとおぞましい話をご紹介します。

皆さんは、この歌をご存じですょネ。

「ぽっぽっぽ 鳩ぽっぽ 豆がほしいか そらやるぞ。
                みんなでなかよく 食べに来い。」

廉太郎は1901年に 『鳩ぽっぽ』 という曲を発表していますので、この曲も・・・と思ってしまいがちですが、実は私たちがよく知っているこの歌は、1911年に文部省が尋常小学唱歌として教科書に掲載した 『鳩』 (※1941年に『ハトポッポ』と改称) という、別の歌。

でもこの曲、廉太郎作品と酷似しているんです。

しかも 『鳩』 の方は、作詞・作曲不詳。

教科書に掲載するのは如何か、と思われる作品。


実はお馴染みの 『雪やこんこん』 も、同じ現象が・・・。

自らが選んだ翻訳唱歌より、廉太郎の作品に人気が集まったことを文部省がやっかみ、留学という名目で彼をヨーロッパに追いやって結核に罹患させ、そして死後にその作品を焼却させた・・・という筋書きは、決して突飛なものとは思えません。

しかも廉太郎が亡くなって 「パクリだ!」 と抗議できなくなってから、彼の作品とそっくりな作詞作曲不詳の歌曲を教科書に載せるところが、いかにも小賢しい木っ端役人の手口。

なぜそんなことをご紹介するか? というと、ひとつの根拠があるからなのです。
それは、彼が生前最後に残したピアノ曲の題名が〝憾(うらみ)〟だから。

この〝憾〟とは、「心残り、未練、無念」 を表す言葉だそうですが、彼が誰を、あるいは何を憾んでこの曲を書いたのか?


・・・後は皆さんのご想像にお任せします。

その心情に思いを馳せつつ、我が国の西洋音楽の黎明期を支えた若き作曲家のご冥福をお祈り致します。笑3


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常 連

先日、エネゴリ君の店でいつものように彼と喋っていた時のこと。

「そういえば、最近ウチの店に外人さんが来るようになったんスょ。」

「へぇ~、どこの人?」

「白人なんで、多分アメリカ人じゃないかと。」

「ふぅ~ん。 で、言葉は英語?」

「いえ、ちょっと変ですけど日本語話せる人なんです。」

「あはは、キミに変な日本語とか言われたくないだろうナ、その人。
でも最初にその外人さんが入ってきた時、ビビッたろ。
思わず厨房の奥に隠れたんじゃないか?」


          

と、ここで店のオーナーが、

「よく分かりますねェ、渡辺さん。 

こいつ、ホントに厨房の奥に隠れたんですょ。
で、その外人さんが日本語喋ると分かってから出てきたんですワ。」


「やっぱり、そうかァ。 キミも小心者だからナ。」

「だって、何言ってるか分からないの、イヤじゃないですか。」

「だからって、追い返すわけにいかんだろうが。

でもまぁ、日本語話せるお客さんで良かったじゃん。
じゃあ、今度オレが日本語話せない外人さんを連れて来ようか?」


「やめてくださいょ。 ボクほんとに店から逃げちゃいますから。」

すると、ここでオーナーが助け舟(?)を出します。

「その外人さんが、なぜかエネゴリ君を気に入ったみたいで、仲間とテーブル席に座っていても、何だかんだとカウンター席にやってきては彼に話しかけるんですョ。」

「へぇ~、凄いじゃん。 


遂にエネゴリ人気も国際的になってきたわけだ。」

「いやァ、カタコトの日本語で話しかけられても困るんですょネ。
正直、あまり有難くない常連さんになりそう・・・。」


「なに言ってんだョ。 常連さんを邪険にするお店は、流行らないゾ。」

とたしなめた私。 そしたら彼、こう言うんです。


「渡辺さんの会社にも、そういう面倒な常連さんっているんでしょ?」

「アホか。 葬儀屋に毎週来るような常連客がいるわけないだろ!」
うー


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能 弁

我が国の外交史を語る時、この方を外すわけにはいきません。

今日はその

         ようすけ        

    松岡 洋右 元外務大臣


の命日にあたります。


       


松岡氏は1880(明治13)年、現在の山口県光市に廻船問屋 『今五』 の四男として生まれました。

10歳の時に警察署長とかけあって中止と決まった祭りを復活させたという逸話を残す彼は、幼少時から頭脳明晰かつ能弁で大人からも一目置かれていたとのこと。

しかし11歳の時、
兄たちの遊蕩によって家業が傾いたため、彼は現地で成功を収めた親戚を頼って12歳の時にアメリカへ留学。

(その留学費用を、母親と共に親戚の家を借り回るという辛酸を舐めています。)


幸いにも心優しいペパリッジ夫人の世話になることができ、アメリカ人の影響を受けキリスト教に入信しましたが、一方で人種差別も受けた経験から、

「アメリカ人には、たとえ脅されても自分が正しい場合は道を譲ってはならない。 
力に力で対抗する事によって、はじめて真の親友となれる。」

という対米意識を醸成しました。

1900年にオレゴン大学を卒業し、母親が病気になったため帰国すると独学で外交官試験を目指し、見事首席で合格。


外務省入省後は、上海や関東都督府などに赴任。

ロシア・アメリカ勤務を経て、寺内内閣時に総理大臣秘書官兼外務秘書官となり、シベリア出兵に深く関与。

更に1919年のパリ講和会議に随員として派遣された際には得意の英語で日本政府のスポークスマンとして西園寺全権をも唸らせる活躍をすると同時に、後に深く関わることとなる近衛文麿と出会いました。

しかし自らの意志で世の中を動かしてみたいと願う彼は官僚主義が蔓延る外務省に嫌気がさし、政治家を目指して41歳の時に退官。

彼の能力を高く買っていた早川千吉郎社長に請われて満鉄の理事に転じ、
副総裁に就任した後1930年に満鉄を退職すると、同年2月の衆院選に山口2区から立候補し当選、念願の代議士に。

そして翌1931年に勃発した満州事変を受け、国際連盟が派遣したリットン調査団が満州を国際管理下に置くことを求める報告書を提出したことに反発した日本政府は、満州事情を熟知し英語が闊達かつ能弁な彼に白羽の矢を立て、日本首席全権として派遣します。

その期待に応え、松岡全権は国連総会において原稿なしで1時間20分の大演説を行い、各国代表から喝采を浴びます。

しかしその喝采はあくまで彼の英語力に対してのみ・・・採決では賛成42・反対1(日本)・棄権1の圧倒的多数で報告書は採決され、松岡全権は最後の演説を行った後、そのまま席に戻らず代表団と共に退場。


       

               議場を退席する松岡全権

国連での演説は国民に好評だったものの、これ以降日本は国際社会での孤立を深めていきました。


彼はその後議員を辞職し、再び満鉄に入り総裁に就任。

〝二機三介〟の一人として権力をふるいましたが、1940年に指名されて近衛内閣の外務大臣に。


「私が外相を引き受ける以上、軍人などに外交に口出しはさせません」


と大見得を切り、イギリス特命全権大使・重光葵以外の主要外交官40数名を更迭するという大ナタを振るいました。


そして元々ドイツ人嫌いだったにもかかわらず、軍部の説得工作を受けた彼は、吉田茂らの反対を押し切って1940年9月に日独伊三国協定を締結。

更に1941年3月には日ソ中立条約の電撃的成立に尽力しました。


※しかしこの条約締結は、英チャーチルからもたらされた「ヒトラーは近いうちに必ずソ連と開戦する」という情報を無視してのもの。

もしその忠告を受け入れていれば、歴史は大きく変わったかも・・・。


       

           ドイツ外相と車上で談笑する松岡外相


ソ連との中立条約をまとめ意気揚々と帰国した彼でしたが、自分の外遊中に日米交渉が進められていたことに激怒。

その交渉に外相として関わり始めますが、彼は元々イギリスとの戦争は不可避でもアメリカとの開戦は望んでおらず、また開戦するはずがないと考えていたようです。


しかし近衛首相との関係は急速に冷え、1941年7月に近衛内閣が(松岡外相を外すために)総辞職し、松岡抜きの第3次近衛内閣が発足。


直後アメリカとの関係は急速に悪化し、その5ヶ月後に日米は開戦に至りますが、その際周囲に

「三国同盟は僕一生の不覚。 死んでも死にきれない。 陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」

と号泣したと伝えられていますが、同時に真珠湾攻撃成功の報を聞き、〝欣喜雀躍〟したとも。

その後結核に罹り別人のようにやせ細った彼は、敗戦後GHQにA級戦犯として逮捕されされ1回は法廷に立ったものの症状が悪化。


巣鴨プリズンから駐留アメリカ病院から東大病院に移された後、1946(昭和21)年6月27日に66歳でこの世を去りました。

意見に相違はあったものの吉田茂氏とは親交があったそうですが、その一方で昭和天皇には大変嫌われていたそうな。

とにかく喋り出したら止まらない、「僕は誰にも議論で負けたことがない」 と自負し、「ヒトラーに臆することなく対談できたのはソ連のモロトフ外相と東洋の使者マツオカだけだった」と通訳に言わしめた彼の饒舌ぶりが、却って昭和天皇の癇に障ったのかもしれません。


明末の碩学・呂新吾は人間的な魅力について

深沈厚重ナルハ是レ第一等ノ美質。 

 磊落豪雄ナルハ是レ第ニ等ノ美質。 

 聡明才弁ナルハ是レ第三等ノ美質。

と述べており、どんなに聡明でもおしゃべりは魅力に乏しいと位置付けていることを、彼が証明しているのかも・・・。


彼の外交手腕と決断に関しては、こちらの書籍でじっくりと再検証していただきたいと思います。


 『松岡洋右 悲劇の外交官 (豊田譲・著 新潮社・刊)

結果論でいろいろ批判は出来ますが、ヒトラー・ムッサリーニ・スターリンという錚々たる相手と直接互角に渡り合った外相としての能力・力量は、遺憾砲しか撃てない現外相とは比較にならないでしょう。

良くも悪くも日本の命運を決した外交家であったことだけは、確かだと思います。



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ガチンコ

昨年6月3日にプロボクシング元世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリが亡くなった際、彼の追悼番組として映像が流されましたが、初めて観て 「こんなファイトがあったんだ!」 と驚いた若者も多かったことでしょう。

一時期ブームになった〝異種格闘技〟を代表する試合と言っていい、プロレス対ブロボクシング

 アントニオ猪木 vs. モハメド・アリ戦


が日本武道館で行われたのは、今から41年前の今日・1976(昭和51)年6月26日のことでした。

当時WBA・WBCの統一世界チャンピオンとして君臨していたアリは、ファイトも口も絶好調。

前年の1975年3月、日本レスリング協会々長・八田一朗氏が出席していたパーティーの席上で、

「100万ドルの賞金を用意するが、東洋人でオレに挑戦するヤツはいないか?」

と発言。 アリ本人は軽口を叩いたつもりだったんでしようが、これを耳にしたアンテニオ猪木が食いつきました。

「100万ドルに900万ドル足して1,000万ドル(当時の円ドル為替で30億円、現在の貨幣価値で60億円近く)を用意する。ベアナックル(素手)の殴り合いで、試合の日時・場所は任せる。」

という挑戦状をアリに送付。

当初アリ側は冷淡でしたが、マレーシアで6月9日に行う世界タイトルマッチに向かう途上来日し、

「猪木なんてレスラーは知らないが、相手になってやる。」

と挑発。 これにマスメディアが飛びつき、アリ得ないと思われていた異種格闘技マッチがにわかに現実味を帯びてきました。

そして日本中の目が注がれる中、遂にゴングが・・・。

当時高校3年生でアリ・ファンだった私も何日も前から楽しみにしていたのですが・・・リングトイド席が30万円という超破格の試合は、残念ながら単調というか凡戦というか、そもそも試合になりませんでした。

猪木選手は試合時間の半分以上、お尻をリングにつけるグラウンディング態勢でアリに蹴りを入れるだけ。

またアリはその猪木選手の周囲を蝶のように舞うだけ・・・殆ど組み合ったり殴り合う場面がないまま15ラウンドが終了し、判定は引き分け。

       

※ダイジェスト版の映像は、こちらでご覧いただけます。

   https://www.youtube.com/watch?v=ZgizgIScJIk&t=2s


こういう試合になったウラには、致し方ない事情がありました。

そもそもアリ陣営は、この対戦をショーと割り切っていたのですが、試合前の猪木の真剣な公開スパーリングを見て、猪木側がガチンコ(真剣)勝負であることを知り、途端に態度を硬化。

試合を中止するとまで言い出したため、賞金をかき集めるために借金をした猪木側は何としてもそれを翻意させるべく交渉を重ねた結果、殆どアリ側の要求するルール・・・つまりプロレス技を封じられてしまったのです。

見た目は茶番劇でしたが、それは台本なしのガチンコだったから。


それ故に、身長190cm・体重100kg前後の超一流格闘家同士の対決は、それぞれにダメージが残りました。

試合後、猪木選手はアリのジャブがかすっただけで、リング下の観客の顔が二重・三重に見えたそうですし、蹴りを入れた右足の甲は剥離骨折。

そしてアリは猪木選手に蹴られた膝が腫れ上がって血栓症を起こし、アメリカで1ヶ月の入院を余儀なくされました。

結果的に彼はこの試合から5年後に引退するのですが、その時期を猪木選手のキックにらよって早められたともいわれています。

一方の猪木選手は “Inoki ” の名を世界に知らしめたものの、この一戦で莫大な借金を背負い込むことになり、その返済のためにその後も異種格闘技戦を続けることになりました。

ただ救いなのは、試合後の両者は親密な関係になり、アリの結婚式に猪木夫妻が招かれるなどしたこと。

お互いに格闘家として相手をリスペクトしていたんでしょうネ。

この一戦に関してもっと詳しく知りたい方には、猪木選手自身が語った


 『真 実』 (ゴマブックス・刊)


     

のご一読をオススメします。

これからの格闘技界で、この一戦以上にファンの期待が盛り上がる試合が実現するでしょうか?


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海の恋人

地球上のあらゆる生物はそこから生まれた・・・と言われながらも、未だ多くの謎に包まれている〝海〟。


今日はその海の研究に生涯を捧げ、多くの功績を残した海洋学者、


 ジャック=イヴ・クストー

   Jacques-Yves Cousteau


の命日・没後20周年にあたります。


        


クストーは1910年にフランスのボルドーに生まれました。

子供の頃から探検に興味を強く抱いていた彼は、海軍兵学校から航空士官学校に進んだものの、自動車事故に遭ったため海軍砲術官に。

空軍から海軍への転向が、彼の運命を決したのかもしれません。


海という未知の世界に魅せられて研究に没頭し始めた彼は、1942年にエミール・ガニャンの技術協力を得て潜水用の呼吸装置スキューバ(商品名:アクアラング)を開発。


             
            クストー自ら着用した初期のアクアラング


紅海を皮切りに、1950年から海洋調査船カリプソ号で世界中を巡って海洋調査に乗り出した彼が1953年に出版した 『沈黙の世界(The Silent World )』 がベストセラーに。

更に1956年には撮影した映像を使って同名の映画 を制作し、カンヌ映画祭グランプリ(パルムドール)を、そして翌年にはアカデミー賞・長編ドキュメンタリー賞を受賞。

その翌年に海軍を退役しモナコ海洋博物館の館長に就任した彼は、より一層海洋調査に力を入れるように。

1959年には海の国連と呼ばれる 『世界水中連盟』 を創設する一方、深海潜水艦を作って深海調査に熱意を燃やし、1964年には映画 『太陽のとどかぬ世界』 で再度アカデミー賞を受賞。

その翌年には、水深100m地点に6人を1ヶ月滞在されることに成功。


また1968~76年のかけて、TVドキュメンタリー・シリーズ 『クストーの海底世界』 が世界で放映され、人気を博しました。

私も日テレの 『驚異の世界』 で何度か観た記憶があります。

その活動を通して、クストーは徐々に環境保護に目覚めるようになり、1992年の地球サミットでは海洋汚染を警告し、母国フランスの核実験再開を激しく非難しました。

彼は 「海は無尽蔵で、食べ物でも何でも欲しい物があれば海で獲ればいいという考えは、人間の驕りだ」 と考えていたといいます。

前述のドキュメンタリー 『沈黙の世界』 では、カリプソ号と衝突して死にかけていたマッコウクジラの赤ちゃんを射殺し、更にその死骸を狙うサメをも射殺した凄惨なシーンを

「これが真実であり、これを見れば、かつての自分たちがどんなことをしたか、自制心を失った人間がどれほど野蛮な行為に走れるのかがよく分かる」

と言って、頑としてカットすることに反対したのだそうな。

そんなクストーの思想に触れたい方には、彼の友人にして彼とJ・マイヨールを引き合わせるなどした、元ユネスコ本部主席広報官・ユネスコ事務局長顧問を歴任した服部栄二氏の編・著によるこの本をお勧めします。

 『未来世代の権利  地球倫理の先覚者、J‐Y・クストー
                             (藤原書店・刊)


        


特にゴミを海に捨てまくっている隣国の人々に、読んでいたただきたい一冊です。

1997年5月25日、心臓麻痺のため87歳でこの世を去った、赤いニット帽がトレードマークだった〝海の恋人〟の冥福をお祈り致します。笑3


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未確認

今からちょうど70年前の今日・1967年6月24日、米ワシントン州にあるカスケード山脈付近を自家用飛行機を操縦していたケネス・アーノルド(当時32歳)さんが、上空を飛行する9機の三日月形をした奇妙な物体を目撃し

「投げた皿か円盤が水面上をスキップするように、高速で急降下や急上昇を繰り返しながら飛んでいた。」

と証言。 彼はこの物体を〝空飛ぶ円盤(flying saucer )〟と呼び、この目撃談が全米で報道されると、同様の目撃証言が相次いだそうな。


       
           Kenneth A. Arnold (1915-1984)


事態を重視した米空軍が、これを〝UFO (Unidentified Flying Object:未確認飛行物体)〟と命名したことから、今日は

 UFO記念日

なのだそうです。

米空軍は、彼の目撃証言などを基に調査を開始。

       
           アーノルドが空軍に提出した目撃リポート

しかし結局正体は分からず仕舞い・・・空軍は1969年に、「目撃者の目の錯覚」という報告を出しました。


とは言え、その後もUFOの目撃談やそれを捉えたとする写真・映像は日本を含め全世界で数えきれない程報告されています。

       

また最近では、UFOの一団がワープ(?)する映像も。(↓)

      https://www.youtube.com/watch?v=cj8MqMPLtrI


もっとも、その多くは合成などの捏造であることが判明していますが・・・。

さて、皆さんはUFO・・・というより、宇宙人の存在を信じますか?


私は、この広大な宇宙で人類が最高知能を有する唯一の生物だとは思えません。


むしろ人類よりも遥かに進化した生物が地球に来ていても、何の不思議もない、と。


ナスカの地上絵とか、イースター島のモアイ像とか、果てはエジプトのピラミッド等々、地球上には現代科学でも説明できない建造物や事象がたくさんありますが、それらを高等知能を有した宇宙人の仕業だ・・・と考えた方が納得いきますし。

※関連記事は、こちら。(↓)
  
http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11543993057.html


私は生きているうちに1回はUFOを目撃し、できれば宇宙人と遭遇を果たしたいと願っているんです。

ただし映画に出てくるエイリアンやプレテダーみたいな獰猛な怪物は勘弁してもらいたいですけど。

もっとも、既に街中で人間の擬態をした宇宙人とすれ違っているかもしれませんが。


あっ、そうそう・・・せっかくの記念日なので、もうひとつUFOのお話。


 

       


こちらのUFOは 『未確認飛行物体』 じゃありませんょ。


(うまい)(太い)(大きい)ですから~!


・・・・・お後がよろしいようで。 あせあせ

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更 新

一部の憲法9条信者を除けば、戦後70年以上にわたって我が国が平和を享受できたのは、


 日本国とアメリカ合衆国との間の


                        相互協力及び安全保障条約

 Treaty of Mutual Cooperation and Security

                           between the United States and Japan


のおかげであることは、皆さんも十分認識されていると思います。

この所謂 『日米安保条約』 は1951(昭和26)年9月8日にサンフランシスコ講和条約が締結された直後に吉田茂首相がアメリカとの間で結んだのが始まり。
(※この時の条約名には、「相互協力及び」はありませんでした。)

この旧安保条約により、連合国軍は撤収。 


ただしアメリカ軍だけは在日米軍として駐留を続けソ連に対して睨みを利かせることに。

そして1960(昭和35)年1月に岸信介首相とアイゼンハワー大統領の間で、日米双方が日本及び極東の平和と安定に協力することを規定した(冒頭の正式名称である()新安保条約が新たに締結され、同条約が発行したのが今から57年前の今日・同年6月23日のことでした。


       

同条約が一昨年の平和安全法制成立により(限定的ながら)集団的自衛権の確立がなされ、日米同盟が一層強固なものになりました。

しかし、この条約には以下の条文が・・・。


【第十条】

(前略)  この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する。

つまり1970年以降は、日米どちらかが条約破棄を一方的に通告でき、1年後には失効することが認められているのです。

幸いにして契約締結後10年経過した1970年以降、同条約は破棄されることなく現在に至っています。


しかし昨年のアメリカ大統領選でトランプ候補が 「日米安保条約は不平等だ!」 とブチ上げたことで、アメリカ国民の多くがこの条約の存在を知り、不満を持ったことは否めません。

そしてそのトランプ氏が大統領に当選しましたから、安保条約の破棄をいつ言い出してもおかしくないですし、そうでなくても尖閣を巡って日本と中国が衝突の危機を迎えた時に、果たして米軍を出動させるかどうかは甚だ疑問です。

我が国としては、アメリカからいつ三下り半を突き付けられても独立を守れる体制を築かなければなりません。

それには、最低でも憲法改正と核軍備が必要でしょうが、僅か1年では到底無理な話・・・言われてからでは遅いのです。うー


 


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猥 褻

タイトルの漢字、読めない若者が多いかもしれませんネ。


中高年の方ならご存じ、『わいせつ』・・・意味は、徒(いたずら)に性欲を興奮または刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反すること。

この〝猥褻〟に関しては、『わいせつ物頒布等の罪』 があり、刑法第175条で


『わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。(以下略)』


と規定されています。

ただ、その猥褻か否かの判断基準に関しては明快に定義されておらず、しばしば裁判論争になることも。

その代表的な事例といっていいのが、

 四畳半襖の下張り事件


今から45年前の今日・1972(昭和47)年6月22日に、『四畳半襖の下張り』 を掲載した月刊誌 『面白半分』 7月号が、わいせつ文書販売の疑いで発売禁止になりました。

            

『四畳半襖の下張り』 は、永井荷風が1917(大正6)年に雑誌 『文明』 に発表した、主人公が様々な経験を経て最後には置屋の主人になるという短編小説。

しかし掲載されたのは、それとは別に伝荷風作 (※荷風は自身が書いたのは冒頭部分だけと主張) として終戦前後から一部愛好家(?)の間で知られるようになった春本の傑作と言われるもの。

当時同誌の編集長だった作家・野坂昭如氏が掲載したのですが、これが刑法175条に抵触するとして発禁処分となり、更に野坂編集長と株式会社面白半分の佐藤嘉尚社長が起訴されました。

同裁判では五木寛之・井上ひさし・吉行淳之介ら著名作家が次々と証人申請して世間の注目を集めましたが、最高裁まで争った結果被告側が敗訴し罰金刑が確定。

判決文は難しい単語を羅列していますが、要は 「この作品はわいせつであり有害だ」 ということ。

それでは、その作品の一部を以下にご紹介しますので、この作品がわいせつ(有害)図書に該当するか否か、ご判断ください。

『遊びに馴れぬお客ならば、大抵この辺にて、相手の女もよがり出せしものと思込み、意気地なく往生遂ぐるなるべし。


然れども兵に馴れたるものは、敵の計画を利用して、却つてその虚を衝く。


さても女、早く埒を明けさせんと急りて腰をつかふ事激しければ、おのづとその身も幾分か気ざゝぬわけには行かぬものなるを、此方は時分を計り、何もかも夢中の体に見せかけ、片手に夜具刎のけるは、後に至つて相手をはだかになし、


抜挿見ながら娯しまんとの用意なり。』


・・・作品内には、もう少しダイレクトかつ過激な描写があるのですが、拙ブログの品位を落とさぬよう除外致しました。あせあせ

それにしても、如何でしょうか?

ネット上で無修正画像・動画が閲覧できる現代においては、個人的には発禁処分・有罪になるような代物ではないと思うんですが・・・。

まぁ猥褻の基準が時代と共に緩くなってきていることだけは確かですけどネ。


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破天荒

〝座頭市〟というと、若い方は北野武監督の映画をイメージする方が多いと思いますが、私のような昭和世代は、この方を思い出すはず。

 勝 新太郎 さん

今日は、昭和を代表するこの大俳優の命日・没後20周年にあたります。 


       


勝(本名:奥村 利夫)さんは、1931(昭和6)年に千葉県で生まれました。

長唄三味線方の父・杵屋勝東治の手ほどきで幼少時から長唄・三味線を習い、10代の時から深川の芸者に稽古をつけていたそうな。

その勝さんが映画界入りしたのは、1954年に渡米し巡業していた時に撮影所で紹介されたジェームズ・ディーンに感化されたからだそうな。

23歳の時に大映京都撮影所と契約すると、すぐに 『花の白虎隊』 でデビュー。

しかし当初は全く売れず、映画館から 「主役から外せ」 という苦情が続出したというから意外です。

ところが1960年に 『不知火将校』 で悪僧を演じてからは評価が一変。


1962年に中村玉緒さんと結婚した後の 『座頭市物語』・『兵隊やくざ』 で人気は不動のものに。

そして1967年に勝プロを設立すると、兄・若山富三郎さんを起用して 『子連れ狼』 を製作するなど、時代劇を中心に作品を制作。

松平健さんを弟子にして鍛え、彼の人気を定着させた 『暴れん坊将軍』 の主役に育て上げました。

自らも1974~79年にかけてTVドラマ 『座頭市』 シリーズをに主演し気を吐きましたが、この辺りから様々なトラブルに見舞われるように。

1978年に麻薬不法所持で書類送検されると、その翌年には 『影武者』 の主役に抜擢されたものの、黒澤明監督と衝突して降板。

そして無類の大酒飲みで遊び好き、更に見知らぬお客にも奢る大盤振る舞いを繰り返した挙句、勝プロは1981年に12億円の負債を抱えて倒産。

その借金を妻・玉緒さんが返済に走り回りましたが、後に長女・長男も大麻密売で逮捕されるなど、苦難の道は続きます。

そして極め付きは、1990年1月にハワイ・ホノルル空港でパンツの中に隠していたマリファナ・コカインを見つけられ現行犯逮捕されたこと。

逮捕後の会見で飛び出した 「もうパンツは履かない」 という迷セリフ、ご記憶の方も多いはず。


       

更に翌年には日本国内でも麻薬取締法違反で逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けた勝さんは、1996年7月に下咽頭ガンを発症。

4ヶ月後の記者会見では 「もうタバコは止めた」 と言ったそばからタバコに火をつけて記者を呆れさせました・・・が、これはあくまでも勝さん流のパフォーマンスだったとか。

根っからの役者・エンターテイナーだったんでしょうネ。

しかし抗がん剤・放射線治療の甲斐なく、1997年6月21日に65歳で旅立ってしまいました。


築地本願寺で執り行われた葬儀には1万1千人が参列したといいますから、その人気の高さが偲ばれます。

また債権者の中には、香典代わりに借金をチャラにした方もいたといいますから、愛される・・・というか憎めないキャラだったことは確かでしょう。


まさに〝古き良き時代〟の体現者・・・日本映画界の全盛期を駆け抜けた、良くも悪くも桁外れのスケールを持った大御所の冥福を、あらためてお祈り致します。 笑3


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愛 人

今日はスウェーデンの貴族であり、同国のグスタフ3世・4世に仕えた


 ハンス・アクセル・フォン・フェルセン

       Hans Axel von Fersen


の命日にあたります。

「えっ、それ誰?」 と思う方も多いでしょうが、『ベルサイユのばら』 の読者なら、〝フェルゼン〟という名で登場している人物なのでピンとくるはず。

実は彼、
フランス革命により最期はギロチン台で処刑された王妃マリー・アントワネットの愛人だったのです。


         


彼は1755年に、スウェーデンの貴族で王室顧問を務めていたフレデリック・アクセル・フォン・フェルゼンの子として生まれました。

父親がフランスを第二の故郷として愛し、フランス語を話していたという家庭環境で育ち、容姿端麗・高身長・貴族出身と3拍子揃ったフェルゼンは、18歳の時にフランス社交界にデビューするやたちまち上流階級のご婦人方のハートを鷲掴み。

そして1774年1月、仮面舞踏会で、既にルイ・オーギュスト(後のルイ16世)と結婚していたマリー・アントワネットと運命の出会いが。

偶然にも同い年であったことから2人の関係は親密になっていきます。


この交際にはスウェーデンの国益を考えたグスタフ3世の意図が反映していたともいわれていますが、彼女に対するフェルゼンの愛情は深まるばかり。


        

しかしルイ15世の死去により1774年5月にルイ16世が即位しマリーが王妃になると、彼は一旦帰国。


4年後にフランスに戻り、アメリカ独立戦争に従軍した後にフランス王室スウェーデン人連隊長に任命され、1788年には第一次ロシア・スウェーデン戦争にも従軍。

その間いくつもの結婚話が持ち上がりましたが、彼はその全てを断り、マリーに対して一途な想いを持ち続けたといいます。

彼女が1785年に産んだ次男ルイ・シャルル(後のルイ17世)の父親がフェルゼンであるという説は根強く、実際ルイ16世もそれを疑っていたようですし、フェルゼン自身も

「あの子はフランスに残してきた最後の、そしてたったひとつの心配事だった」

と言い残しています。


そしてフランス革命し情勢か悪化すると、フェルセンは日本円で120億円もの資金を注ぎ込んでルイ16世一家を革命勢力の手から逃がす計画を練り、1791年6月20日に実行(ヴァレンヌ事件)。

しかしこの逃亡計画は失敗に終わり、王室一家はパリに連れ戻されてしまいます。

それでも諦め切れないフェルセンは、彼らが幽閉されているテュイルリー宮殿に忍び込み再び脱走を進言するも、ルイ16世はそれを拒否。

結局ルイ16世と王妃はギロチン台の露と消えました。

最愛の人を殺した民衆を憎むようになったフェルセンは、人が変わったように暗くなったとか。

そして暗殺されたグスタフ3世の後を引き継いだグスタフ4世から外交顧問に任命された彼は、1799年元帥に昇進。

しかし民衆を憎む彼の為政は強権的であり、それがまた国民の恨みを買うという悪循環に陥ってしまいます。

1809年にグスタフ4世がクーデターによって退位した後も臨時政府に加わったものの、後任のカール13世の王太子が事故死したことに関して国民からは彼が首謀して暗殺したと疑われます。


そして1810年6月20日、王太子の葬儀執行をカール13世から命じられたフェルゼンが馬車に乗って式場の広場に出てきたところを群衆が取り囲み、投石。

逃げようとするも群衆につかまり、殴られ、惨殺されました。

その間、現場にいた近衛兵らはフェルゼンを守ろうとせず、丸裸にされた彼の遺体は側溝に投げ入れられるという無残な最期を遂げたとか。

道ならぬ恋が、彼の人生を狂わせた・・・マリーを救うべく脱出作戦を決行した日と同じ6月20日に殺された彼の心中は、いかばかりだったのでしょうか? うー


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