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〇 辛

「渡辺さん、こんなの見つけたんですョ。

結構辛いんで、試してみてください。」


先日エネゴリ君の店に行った時、オーナーが私にコレをプレゼントしてくれました。(下写真・左)

       

今まで、激辛とか極辛などいろいろなネーミングの唐辛子関連商品がありましたが、これは〝燃辛〟。

メーカーはあのエスビー食品。 裏を見ると・・・


        

「辛さ炸裂  辛さの求道者へ エスビーからの挑戦状」

「5種類の唐辛子をブレンド」


なんて威勢のいい文字が・・・となれば、激辛党員としては受けて立たねばなりますまい。

3年前に口にした世界一辛いと銘打たれた 『舞妓はん ひぃ~ひぃ~』 と同じ条件で、早速試してみました。



日清のどん兵衛・天ぷら抜きにネギをトッピングして、その上に同程度の量を振りかけます。

    


できる限り下に唐辛子が落ちないよう慎重に箸で一口、二口・・・しかし、あまり辛さは感じません。

唐辛子が表面になくなったので、もう一度かけて食べてみました。

    

う~ん、やはり同じ。 結局麺を全部食べ終えおつゆも飲み干しましたが、〝舞妓はん〟のように動悸を感じることはありませんでした。

エスビーさんが挑戦状を叩きつけてきた割には、正直拍子抜け。

でもエスビーさんの名誉にのために申し添えると、舌では辛味を感じませんでしたが、身体にはしっかり汗をかきましたから辛い事は辛いはず。

物足りなかった私は、偶然にもこの燃辛唐辛子を手にした翌日、ブロ友の加藤ジェームズさんからいただいたこちらを続けて試食。

    

『大人限定 地獄柿ピー』 と銘打たれたタクマ食品さん製造の柿の種、こちらは〝鬼辛〟ですって。

メーカーさんもよくまぁ次々と新語(?)を編み出すものですが、写真を見てお分かりの通り柿の種だけでなくピーナツにも唐辛子がこびりついてます。

早速口に入れてみると、こちらの方が少し辛い感じ。
汗の量も増えましたし・・・。
あせあせ

 〇 鬼 辛  判定勝ち  燃 辛 ●

ってところでしょうか。 とは言え、もちろん一袋完食!

でもオーナーと加藤さんからいただいた激辛商品で、まだ肌寒いのにイイ汗をかくことができました。

激辛ダブルヘッダー、どなたかチャレンジしてみませんか?


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反 骨

とかく強烈な個性を放つ創業者の2代目には大人しいタイプが多く、先代が築いた企業を成長させる事例は少ないですが、この方は例外と言えましょうか?

むしろ先代の手法を踏襲するどころか、ほぼ路線変更してなおかつ規模拡大に成功したのが、


  五 島  昇   

今日は、元東急電鉄の社長・会長として東急グループを牽引した、この名経営者の命日・没後30周年にあたります。


        


五島氏は、東京急行電鉄の創業者・五島慶太氏の長男として1916(大正5)年に東京・神田で生まれました。

学習院の初・中・高等科を経て東京帝大経済学部に進学。


野球部ではキャッチャーとして活躍したものの、チームが弱すぎたことから見切りをつけて1年で退部。

その後ゴルフ部に入ると、同部を連戦連勝に導くスポーツ万能選手でした。


1940年に大学を卒業後、父親に反発して東京芝浦電気に入社したのは、同社副社長とゴルフをしたことが縁だったそうな。

しかし戦時中陸軍大尉として従軍した昇氏は、慶太氏の後を継ぐはずだった弟・進氏がソロモン諸島で戦死したことで、終戦後は東京急行電鉄に入社。

当時激化していた組合活動に巻き込まれぬよう東急横浜製作所(現・総合車両製作所)に移籍。

その翌年に日立製作所の創業者にして政友会の総裁も務めた大物・久原房之助の娘・久美子さんと結婚した彼は、その後京浜急行電鉄の取締役に。


そして東京急行電鉄に戻り、父親の意向で不承不承副社長になった昇氏は反発しゴルフ三昧の日々を送りましたが、公職追放されていた父・慶太氏が東京急行電鉄の会長に復帰した2年後の1954年に、37歳で同社々長に就任・・・まさに〝反骨のプリンス〟と言えましょうか。


しかし彼は、かつて〝強盗慶太〟と異名を取った父・慶太氏の強引な経営手法を踏襲しませんでした。


慶太氏が1959年に逝去すると、その直前まで無理な事業拡大を目指して激しい企業間紛争となっていた東洋精糖の買収交渉から即時撤退を断行。

また先代の肝入りだった傘下の自動車製造会社・東急くろがね工業を整理し日産自動車に売却、また1964年に東映をグループから分離。

その一方で、それと相前後して1956年に東急観光(現・トップツアー)、1961年に東急エージェンシーを設立。


1967年に東急百貨店本店を開店すると、その翌年には東急ホテルチェーンを設立。

そして1978年には東急ハンズ開店と、グループを再編し田園都市線開発など鉄道に関連性の高い事業への転換を目指した積極的な多角化・安定経営に乗り出しました。

更に長い年月と多額の資金を投入してハワイのリゾート開発に成功するなど、
先代をワンマンの織田信長とするなら、昇氏は豪胆な信長と我慢強い家康を足して2で割ったようなタイプだったのかも。


でもそのカリスマ性は、先代と比べても遜色はなかったようです。

※現在も使用されている東急グルーブのロゴは、1973
年に東京急行電鉄創立50周年を期して制定されたもの。


       

中央の楕円は地球を表し、内部白抜き部分はTOKYUの〝T〟を図案化したもので、3本の弧は楕円とともに東急グループの当時の4事業部門を指しているそうな。

現在東急グループは傘下に約220社を数えています。


先代のような同族ワンマン経営を目指さず、外部資本を受け入れて近代的経営に転換した五島氏は、財界活動にも積極的に関与。

永野重雄・日本商工会議所会頭から目をかけられて、1973年に副会頭に就任。


1984年に永野氏の後任として会頭に就任しました。

また政界においても中曽根康弘氏のブレーン・後援者として活躍したことも知られています。

日商会頭を辞任した1987年の12月に東京急行電鉄会長に就任した五島氏が72歳でこの世を去ったのは、1989(平成元)年3月20日のことでした。

他の大物実業家・経営者と違って自著を残しておらず、唯一といって良い日経新聞の『私の履歴書』執筆中に逝去された五島氏に関して詳しく知りたい方には、こちらをオススメします。


 『ビッグボーイの生涯 五島昇その人』 

             (城山三郎・著 講談社文庫・刊)


       


サラリーマンや経営者だけでなく、普段よく東急百貨店や東急ハンズを利用する女性も、是非ご一読を!

あらためて多角化・急成長に成功した2代目経営者のご冥福をお祈り致します。
笑3


 


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露 光

現在は、誰もが携帯電話やスマホで気軽に日々写真を撮影し、それをSNS上にアップし楽しむ時代ですが、その昔はカメラで撮影するものでした。

そのカメラも時代と共に進化してきましたが、初めて実用的なカメラが完成したのは、今からちょうど180年前の今日でした。

発明したのは、


 ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール

 Louis Jacques Mandé Daguerre


という、フランスの画家。

       


1787年に生まれたダゲールは、フランス初のパノラマ(回転)画家だったピエール・プレボに弟子入りし、パノラマ画や建築技術を学びました。

1822年には照明効果を駆使して像が動いているように見せるジオラマの劇場をパリに造り、人気を博したとか。

その彼が写真を発明するきっかけとなったのは、彼よりも先に写真技術の研究を始めていた発明家ニセフォール・ニエプスと出会ったこと。

彼と共同で研究を進めたダゲールは、1824年に最初の写真術であるヘリオグラフィーを発明しました・・・が、これは露光に8時間も要するという、非実用的な代物。

その後1833年にニエプスが亡くなった後もダゲールは露光時間を短縮するべく研究を続行。

そして1839年3月19日に、露光時間を10~20分に短縮した銀板写真の発明に成功しました。

このカメラは彼の名を取って〝ダゲレオ・タイプ〟と呼ばれ、フランスの代表的科学者フランソワ・アラゴのアドバイスでその特許権を終身年金を受け取る条件でフランス政府に売却。

そしてフランス政府がその技術を公開したおかげで、この画期的なカメラ技術は世界に広まりました。

       


           1839年製のダゲレオタイプ・カメラ

最終的に露光時間は1~2分に短縮されたそうですが、この銀板写真は複製ができなかったため、主として風景撮影や肖像写真に利用されました。

冒頭のダゲールの肖像写真も、このダゲレオタイプで撮影したもの。

また日本で初めて1857年に撮影された島津斉彬公の肖像写真も、このダゲレオ・タイプで撮影されています。


※その島津公の写真に関する過去記事は、こちら。(↓




この写真技術は、それまで活躍していた肖像画家の収入を脅かしたわけですが、反面科学者にとってはその実験結果などを証拠画像として正確に残してくれる画期的な発明だったとも言えます。

画家としてよりカメラにその名を歴史に残したダゲールですが、現在の銀板はおろかフィルムを使わないデジタルカメラを見せられたら、一体どんな反応をするんでしょうネ?
笑2



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加減乗除

皆さんは、普段計算する時に何を使っていらっしゃいますか?


私が小学生の頃は、そろばんでした。 


今でも店先で、大きなソロバンをはじいているご年配の方も稀に見かけますが・・・殆どの方は 電卓を使っているでしょうし、最近は携帯電話やスマホを使っている方が多いようですネ。


電子式卓上計算機


これを略して〝電卓〟と言いますが、この単語は正式名称として認定されているんですョ。


世界初の電卓はイギリスで1962年に真空管を使ったモノが発表されていましたが、その2年後・・・今から55年前の今日・1964(昭和39)年3月18日に、早川電機(現・シャープ)が世界初の商用化製品としてオールトランジスタ電卓CS-10Aを発表したのです。

(※同日にソニーも電卓開発を発表していますが、こちらは試作品段階でした。)


           
                  
早川電機 CS-10A


同年6月に発売されたこの電卓は20桁もあり、それまでの電動式のものに比べて計算速度が早く、騒音・振動がないのが特徴だったそうです。


とは言え、加減乗除の四則・・・すなわち [+・-・×・÷] しか出来ないのに重量が25kg もあり、しかもその価格が535,000円!


当時は乗用車1台が買えるお値段だったとか。驚き顔    


    


さすがにこんな高価な電卓を個人で買った人は殆どいなかったでしょうが、それでも人気を博したそうな。

その後の開発競争は凄まじく、トランジスタ → IC → LSI へと半導体の発展とともに軽量・小型化、低価格化が急速に進みました。


1970年前後には〝電卓戦争〟なんて呼ばれた時期もありましたが、中でも画期的だったのは、同じカシオが1972年に発売した『カシオミニ』。

サイズは従来製品の1/4以下で、価格1/3以下12,800円。

当時流行っていたボウリングの計算用に開発されたこの製品は 「答え一発、カシオミニ」 のCM効果も相まって大人気を博し、発売後10ヶ月で100万台を販売。


多くのメーカーが市場から撤退する程のインパクトがありました。


        カシオミニ


電卓が正式名称になった、今からちょうど40年前の1979年・・・私が大学生時代に野球でブラジルに遠征した際には、手土産で持って行った乾電池式の電卓が非常に喜ばれたことをよく憶えています。笑2


また、クレジットカードと同じ大きさの極薄電卓を見た時は、「とうとうここまで来たか」と、本当に驚いたものです。


現在は用途に合わせて関数計算や分数計算が出来るものなど、様々な電卓が出回っています。


確かにそれらが便利なツールであることは間違いないのですが。子供の頃 「ご破算で願いましてぇは~・・・」 なんて、そろばん教室に通ってパチパチやっていた頃の方が、はるかに脳ミソを使っていたように感じるのは、私だけ?

現に麻雀の点数計算を暗算でスラスラ出来たのは、そろばんを習っていたから。


「利便性が増す程、人間の能力は退化する」 というのが私の持論ですが、やはり子供の頃は敢えてそろばん使わせた方が良いのかも・・・。



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同 時

私と同世代もしくは若い男性でも、お世話にならなかった方は殆どいないでしょう。

それは、漫画雑誌の

 週刊少年マガジン (講談社)
 週刊少年サンデー  (小学館)


この2誌が同時に創刊されたのが、今からちょうど60年前の今日・1959(昭和34)年3月17日のことでした。


  少年マガジン少年サンデー


漫画本とはいえ、漫画自体の紙面占有率が4割程度で残りは文字だったという両誌の価格は、マガジンが40円でサンデーが30円。

何で価格が違ったのか? 


それは、たまたま両誌とも大日本印刷が契約先だったことから、当時のサンデー誌編集長がライバル誌の情報を入手し、


「もしサンデーがマガジンと同じ値段だったら、付録つきのマガジンにお得感で負:ける」


と判断。 マガジンの印刷開始を確認してからサンデーの値段を決めたのだそうな。


今だったら非難されてもおかしくない反則スレスレ(?)の手を使った故の価格差だったそうで・・・それが功を奏してか、創刊号の売上げはマガジン20万5千部に対し、30万部売ったサンデー側の戦略勝ち。


しかしすぐさまマガジンが価格を30円に値下げするなど、両誌はその後激烈な販売競争を繰り広げてきましたが、昨年後半時点ではマガジン74.5万部に対しサンデー29.6万部と、かなり差がついています。


しかしそのマガジン誌もかつて記録した最高部数450万部からはかなり落ち込み、首位の少年ジャンプ170.7万部からは100万部近く水をあけられての2位。


私が生まれた翌年から刊行された両誌・・・いつ頃から読み始めたのかはさすがに記憶がありませんが、毎月通った近所の床屋さんで、両誌をまとめ読みしていたことを憶えています。


髪の毛を切り終えても、待合席にドカッと座って、全部読み終えるまで帰らなかったなァ~。あせあせ

さすがに社会人になってからは両誌を手に取ることはなくなりましたが、今でも記憶に残っている漫画では、『巨人の星』・『あしたのジョー』・『愛と誠』・『おれは鉄兵』・『空手バカ一代』・『野球狂の詩』(マガジン)、『赤いペガサス』・『プロゴルファー猿』・『六三四の剣』(サンデー)等々・・・。


こうやって並べて見ると、小さい頃はマガジン、少し大きくなってからはサンデーの作品が好きだったみたいですネ。


いずれの作品にも、少なからず感化されたことは間違いありません。


今では歴史本や資格試験参考書までもが漫画になる時代・・・昭和時代より若者に与える漫画の影響は大きいはずなのに、発行部数が最盛期より大きく減少しているのは何故なんでしょう。 


その原因が少子化だけでなく、漫画の内容が昔よりもレベルが落ちたからなのか? 漫画ファンとしては少々気になります。


さて、皆さんにとって思い出深い漫画・・・どんな作品ですか?笑2


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勇 断

三船プロと石原プロがタッグを組み、熊井啓監督がメガホンを取んで1968(昭和43)年に公開された、昭和の日本映画史に残る屈指の名作、『黒部の太陽』。

 ※同作に関する過去記事は、こちら。(↓)



この作品の中で、名優・滝沢修さんが演じていたのが、黒四ダム建設の決断を下した

 太田垣 士郎 

今日は、この関西電力・初代社長の命日・没後55周年にあたります。


        


太田垣氏は1894(明治27)年に現在の兵庫県豊岡市に開業医の息子として生まれました。


父は自分の跡継ぎとして息子を医者にしたかったようですが、そんな思いを知ってか知らすが、士郎氏は子供の頃からヤンチャな暴れん坊で、〝ガキ士郎〟と呼ばれていたとか。

ところが11歳の時、夏休み明けの登校途中に半紙を止める真鍮製の割り鋲を誤って飲み込み、それが気管支に突き刺さってしまいます。

医者だった父親はもちろん京大病院でも鋲を取り出すことが出来ず、これがキッカケとなって太田垣少年は一転血痰と発熱に苦しめられて病弱の身になり、これが後年彼を苦しめることに。

※但し刺さった鋲は、その6年後激しく咳き込んだ際自然に飛び出したそうな。

その後第五高等学校(熊本大学の前身)から京都帝国大学経済学部へと進み、卒業後日本信託銀行に入行。

しかし同行で相場に失敗した太田垣氏は、銀行の経営が思わしくなかったこともあって、当時まだ創業20年程ながら小林一三氏の手腕により急成長中の阪急電鉄に転職。

その小林氏の机のすぐそばで庶務課文書係員として働くこととなった彼は、稀代の経営者の薫陶を受けることに。

そして戦後公職追放で小林ら経営幹部が表舞台から消えるという幸運(?)に恵まれた彼は52歳だった1946年、京阪神急行の社長に抜擢されました。

社長就任早々から激しい労使交渉に晒される中、日本航空に先んじて日本で初めてパン・アメリカン航空と代理店契約締結に成功。

就任2年目の時に22歳の長男を病気で亡くし、看病していた25歳の長女がその死にショックを受け続けざまに亡くなるという不幸にもめげず、〝怒らず・焦らず・恐れず〟の精神で組合との妥結に成功。


更に経営に行き詰まっていたグルーブ会社・東宝の再建にも成功し、〝阪急に太田垣あり〟と一躍有名に。

そして戦後復興に欠かせない電力事業につき、〝電力王〟松永安左エ門が陣頭に立って全国に電力会社9社を立ち上げましたが、そのひとつで1951年に設立された関西電力の初代社長として太田垣氏に白羽の矢が。

電力の絶対的な不足を補うため、太田垣社長は役員会で幹部がこぞって反対する黒部第四ダムの建設に踏み切ったのです。

「経営者が10割の自信を持ってとりかかる事業・・・そんなものは仕事の内に入らない。
7割成功の見通しがあったら勇断を以って実行する。
そうでなければ本当の事業はやれるものじゃない。」
そういう信念のもとにGOサインを出した太田垣社長は、

「こんな危険なところで作業させているのは、社長の私なんだよ。」

と言って部下の制止を振り切り、病身の身体をおしてトンネル掘削現場の最先端まで入り込み、作業員一人一人と握手をしながら

「ご苦労さん!」 「頼みますよ!」

と激励したそうな。 

トップのこの姿を見て、現場が発奮しないわけがありません。


    

            現場視察をする太田垣社長(中央)


大幅な工事の遅れはあったものの、黒四ダムは1963年に見事完成。

当時の関西電力の資本金の5倍にあたる513億円という巨額な総工費をかけ、作業員延べ1万人・殉職者171名を出した同ダムは、関西の需要電力の50%を補い、同地域の工業・経済発展を支える大きな柱となりました。


そして病気がちで度々病室から指示を出していたという太田垣社長は、完成の目途が立った1959年に社長の座を後進に譲ると、その後関西経営者協会々長・電気事業連合会々長などを歴任。

また1964年の東京オリンピック開催資金調達の総責任者を務めるなど、その活躍は多方面にわたりました。

そんな太田垣氏が脳軟化症により70歳でこの世を去ったのは、黒四ダム完成の翌年、そして東京五輪開催の半年前となる1964(昭和39)年5月4日のことでした。

とかく創業社長と違い、サラリーマン社長は度胸や判断力の欠如を指摘されがちですが、そうではない大経営者もいることを自ら示した太田垣氏。

その能力の高さ・器の大きさは、彼を慕う形で作られた経営者懇親会・午七会にあの松下幸之助氏が加わり、太田垣氏の葬儀で彼が友人代表で弔辞を読んだことからも窺えます。

そんな太田垣氏の生き様に興味がある方には、半年前に出版されたこちらのご一読をお勧めします。


胆斗の人 太田垣士郎 黒四(クロヨン)で龍になった男
                         (北康利・著 文藝春秋・刊)

       


今宵は再び同書のページをめくりつつ、〝胆斗の人〟のご冥福を祈りたいと存じます。


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ロングラン
アメリカのブロードウェイでは、時として大ヒット・ミュージカルが誕生します。

『オペラ座の怪人』、『ライオン・キング』、『キャッツ』などがその代表例ですが、今から63年前の今日・1956年3月15日に初演された


 マイ・フェア・レディ

     My Fair Lady

は、以後6年半にわたり2,717回のロングラン公演を行った、当時としては超人気作品でした。

原作は、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』で1914年に初演。
1938年に映画化もされ、これを基にミュージカル化も企画。

しかしショー自身がミュージカル化に難色を示したため、彼が存命だった1950年まで上演することができなかったとか。

※バーナード・ショーに関する過去記事は、こちら。(↓)


著名な言語学者のヒギンズ教授が、ひょんなことで出会った粗野で下品な言葉遣いの花売り娘イライザを一流のレディーに仕立て上げる過程をコミカルに描き、やがて2人は惹かれ合う・・・という、シンデレラ・ストーリー。

イライザ役は、1948年に13歳でデビューした天才歌姫ジュリー・アンドリュース。

      

彼女の素晴らしい歌声は観客を魅了し、同作でトニー賞にノミネート。

この作品で高い評価を受けた彼女は、その後映画『メリー・ポピンズ』(1964年)でアカデミー主演女優賞、『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)でゴールデン・グローブ主演女優賞を獲得、一流女優としての地位を確立。

しかし当然のことながら、私自身はこの舞台を観ることはできませんでした。

この作品に初めて触れることが出来たのは、1964年に公開された映画でした。

この時のイライザ役はオードリー・ヘプバーンで、ヒギンズ教授役はミュージカルと同じレックス・ハリソン。

      

コケティッシュなヘプバーンの魅力と素晴らしい音楽に惚れて、この作品を初めて観た中学生の私は感動してしまい、入れ替え制なんてなかった当時の映画館で朝から3回連続鑑賞したことを憶えています。

その時に、なぜか


The rain in Spain stays mainly in the plain. ”

      (スペインの雨は主に平原に降る。)


というセリフが頭にこびり付いてしまったことも・・・。

しかし後にこの映画では歌が吹き替えでヘプバーンが口パクだったことを知り、酷くガッカリしましたが。うー


ということで、元祖(?)イライザのジュリー・アンドリュースが歌う “The Rain In Spain ” を、こちらでお楽しみください。




嗚呼、彼女の立つ舞台、観たかったなァ~。



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無理数

3月14日は、ホワイト・デー。

男性諸氏にとっては、少々頭・・・より、懐が痛い日かもしれませんネ。


それはそれとして、今日はもうひとつの記念日でもあるのですが、お分かりになるでしょうか?


おそらく〝ゆとり教育世代〟には分からない、というのがヒントといえばヒントなんですが・・・正解はこちら。


 3.14159265358979323846・・・


そう、3.14にかけて、


円周率の日


なんですって。


円周率とは、円周の長さを直径の長さで割った数字。 


〝π〟という記号で表記されますが、これはギリシア語で円周という意味の、


  περιφε´ρεια ” (ペリフェレイア)


という単語の頭文字を取ったものだそうです。


紀元前2000年には既に近似値が求められていたそうで、我が国でも和算の大家・関孝和が正131,072角形(!)を使って少数第11位まで算出したとか。


昔の人々の知恵って、淒いですょネ。

 
※関孝和に関する過去記事は、こちら。(↓)



また円周率は無理数 (※分子・分母ともに整数である分数として表すことのできない実数) であることが1761年に証明され、不規則な数字が無限に続くことが知られています。


以前、事業仕分けで話題となったスーパーコンピューターの開発では、よくこの円周率計算が性能の目安にされます。


最新の記録は22兆桁超だそうですが、一体その計算にどれくらいの費用と時間がかかるやら・・・。


この円周率の歴史に関して興味のある方には、数学者・上野 健爾氏が(比較的)分かりやすく解説してくれる


  『円周率が歩んだ道』 (岩波現代全書・刊)




        


のご一読をオススメします。

ただし読みこなすには、高校程度の数学の知識が必要ですが・・・。


また〝円周率の記憶〟も時々話題になりますょネ。


<

現在の世界最高記録は、日本の原口 證 (あきら)氏 が2010年6月16日に丸1日かけて達成した101,031桁。
(※但し、ギネスブックには未登録)

なんと64歳で自らの記録10万桁を更新したというのですから、恐れ入ります。

人間の脳の無限の可能性を示唆してくれたこの記録に挑戦しよう、という方には、こんな本がお役に立つかと。


  『π』 (暗黒通信団・刊)

         


これ、100万桁の円周率がビッシリと印刷されているんです。

さあ、我と思わん方はこの本を手に入れて暗記を開始しましょう!

まぁ記憶せずとも、この本のページを布団の中でめくれば、アッと言う間に眠れるかもしれませんが。

そんなことを言ってる私、この〝数字羅列本〟は買ってませんけど。


さて最後に、ちゃんと円周率≒3.14と習った昭和世代の皆さんに、ひとつの問題を差し上げましょう。


【 問 題 】


  円周率が3より大きいことを説明しなさい。


誠にシンプルな問題ですが、解けますか?


実はこれ、某私立中学の入試問題・・・つまり小学6年程度のレベル。


下の図をヒントに、挑戦してみてください。


        円周率


・・・あっ、正解は私に聞かないでくださいネ。 あせあせ


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星 空

私の郷里は田舎の信州ですが、それでも昭和40年代の子供時代に戸隠高原でキャンプした時に夜空を見上げた時には、あまりの星の多さに息を呑みました。

そして大人になってからは、アメリカ・アリゾナ州の山中で見た星空も忘れられません。

そんな満天の星空をもう一度観たいものですが、ただそれだけのため海や山に行くのはシンドい・・・と言う場合に、昼間でも夜空が楽しめるのは


 プラネタリウム

    planetarium

ですネ。 この施設が日本で初めてオープンしたのは意外(?)に古く、今から82年前の今日のことでした。


〝プラネット(惑星)〟と〝~アリウム(繋がっている物・場所)〟の合成語である、この光を投影してスクリーンに星空を再現する装置が初めて作られたのは、1933年。

ドイツ・ハイデルベルクにあったバーデン天文台の主任研究員マックス・ヴォルフらが天体運行を再現して説明を行うためにカール・ツァイス社に依頼して製作された、『ツァイスⅠ型』がそれ。

       


同機は、4,500個の恒星と5個の惑星の運行を再現できたとか。


そして日本初(アジアでも初)のプラネタリウムは、1937(昭和12)年3月13日に大阪市立電気科学館(後の大阪市立科学館)の6階に開場・設置された、同社が改良・製作した 『ツァイスⅡ型』 。

同館は当時の大阪市電氣局(現・関西電力、大阪交通局)のPR施設として建設された近代的な建築物で、このプラネタリウムは目玉展示物として作られました。

       

       
大阪市立科学館に展示されていている『ツァイスⅡ型』


国産初のプラネタリウムは、1957(昭和32)年に千代田光学精工(後のコニカミノルタ)社が製作し、その翌年に甲子園阪神パークで開催された科学大博覧会に展示されたもの。

その後技術的な改良が加えられ続け、2012年に開館した東京・多摩六都科学館のプラネタリウム(五島光学研究所製)は世界最多の1億4千万個の恒星を再現できるとか。

一体どんな星空に見えるんでしょうネ?

日本には現在400ヶ所(アメリカ1,500、ヨーロッパ500)あるそうですから、皆さんも1回くらいは見学に行かれたことがあるのではないでしょうか?

私は学生時代に1度行きましたが、途中で熟睡してしまい星空の記憶が全く残っていません。
あせあせ

しかし当時は単純に光の点が静かに動くだけでしたが、最近のプラネタリウムはLEDや音響を駆使した非常に面白い内容だそうな。

都心でもこの最新のプラネタリウムで星空を楽しむことができます。

池袋サンシャシンシティの 『満天』 と東京スカイツリーにある 『天空』 が、ソレ。

『満天』 は2015年12月に最新鋭機の〝 Infinium Σ〟を導入。(↓)


       


また 『天空』 は光学とデジタルのプラネタリウムを組み合わせた〝Geministar III 〟を採用。


素晴らしい星空を映し出すと同時に、特に『満天』には通常の椅子席以外に、芝シートやこんなベッドタイプの雲シートが。

       

いかがですか? ご夫婦や親子、またカップルでこんなフワフワシートに寝っ転がりながら星空を眺めるのは・・・。

是非一度お出かけになってみてください。


不眠症の方もぐっすり寝られるかも・・・って、上映時間は1時間ですが。

あっ、ここでうっかり寝ちゃったら、夜はますます寝られなくなる?うー


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幼児教育

毎月12日は、語呂合わせから 『育児の日』 なのだそうです。

でも親御さんにとって、育児は毎日24時間休みなしですょネ。

小さなお子さんの子育てに日々奮闘しているお父さんやお母さん、また将来子供を持つ予定のカップルに、今日はソニーの創業者・井深大氏の著書 『幼稚園では遅すぎる』 から、育児のヒントを2つ程抜粋・編集にてご紹介させていただきます。

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今でも、心理学者や教育学者の中には、生まれたての赤ん坊に教育という意図的な躾を行うのは罪悪である、という説を唱える人が少なくありません。

小さな頭の中にいろいろなことを押し込むのは、子供をコセコセした性格に育ててしまうだけだ。

幼児期は、育つがままに放置するのが自然で良いというのです。

中には、子供の勝手気ままさえも、自然であるかのように思っている人もいるようです。

世の母親の多くも、この説に従って〝自然放任主義〟を自画自賛しているようです。 それで、自分か物分かりが良くて優しい、しかも進歩的な母親だと安心しているのです。

ところが、いざ子供が幼稚園や小学校に入るようになると、その放任主義をあっさり宗旨替えしてしまいます。

それまでは赤ん坊だからと、したい放題の我が儘を許していたくせに、もう幼稚園児だから、小学生だからというわけで、厳しい躾と教育を始めます。

やさしい母親が、突如として恐ろしい教育ママに変貌するのです。

こうした考え方が、全く母親のひとりよがりなのです。


むしろ幼児期にこそ、真の教育ママであって欲しいし、また教育ママであることの効果が期待できるのです。

私は〝厳しく〟する時期と〝自由に〟する時期を取り違えた母親が、世に非難されたり揶揄されたりしている、いわゆる教育ママだと思っています。


幼児の間にこそ、やさしくしかも厳しく鍛え、自我の芽生え始める3歳以降は、次第に子供の意志を尊重していくべきなのです。

親の干渉は、極端に言えば幼稚園以前に終わっているべきです。

それをしないでおいて、子供が幼稚園に行くようになってから、いろいろな干渉を加える・・・これではせっかくの子供の才能を殺して、いたずらに反抗心を植え付けるだけというマイナスの効果しか生みません。

       

ソニー厚木工場には、2~3歳の幼児を持った共働きのお母さんのために、幼稚園が設けられています。

先日、ここで園児を対象に、どんな音楽が好きかを調査したところ、実に意外な結果が出ました。

幼児が一番興味を示したのは、なんとベートーヴェンの交響曲第5番『運命』だったのです。

テレビで朝から晩まで流している歌謡曲は2番目に人気があり、模様時のための音楽といわれている同様は、もっとも人気がありませんでした。

私はこの結果に、非常に興味を覚えました。

私たち大人が、少なからず敬遠している高度なクラシック音楽を、子供たちは一番面白いというのです。

幼児には、生まれた時から複雑なシンフォニーを理解できるだけの音楽的感覚が備わっているのでしょうか?


ある実験によれば、生後5ヶ月の赤ん坊でも、ビバルディの協奏曲が分かるそうです。 そういえば、私の友人の娘さん夫妻から、こんな話を聞いたことがあります。

クラシック音楽好きのこのご夫妻は、赤ん坊がうまれるとすぐ、1日に数時間、バッハの無伴奏チェロ組曲の2番を聞かせました。

3ヶ月ほど経つと、赤ん坊はバッハの組曲のリズムに乗って躍動するようになりました。

極が終わりに近づきリズムが激しくなってくると、躍動も大きくなり、局が終わると不機嫌になるのだそうです。

むずがったり泣いたりしている時でも、この曲をかけると途端にご機嫌になります。

ところがバッハの組曲の代わりにジャズをかけたところ、大声で泣きだしたというのです。

この話を聞いて、私は生後3ヶ月の赤ん坊でも、バッハの組曲が分かるのかと、あらためて幼児の音楽的感覚の素晴らしさに目を見張りました。

クラシック音楽が全て良いとは申しませんが、複雑なシンフォニーを感覚的に理解できる能力は驚異です。

これまでの日本人が西洋のクラシック音楽に馴染めなかったのは、幼児期に童謡や歌謡曲ばかりを聴かされたためではないでしょうか。


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私自身クラシック音楽鑑賞やピアノを弾くのが趣味ですが、それはオフクロがモーツァルト好きで、いつも彼の作品を聴いていたことと無縁ではないと思います。

井深氏の著書のタイトル通り、子育ての勝負は3歳まで・・・幼稚園に入る前なのかもしれません。

この書籍は50年近く前に出版されましたが、

★おもちゃを与え過ぎると傲慢な性格になる。
★整理され過ぎた部屋は子供の成長を妨げる。


等々、その内容は現代でも十分通用するものだと思います。

また井深氏は、この著書の中で幼児教育における母親の役割の大きさを盛んに説いていらっしゃいますが、この点についても私は大いに賛同したいところ。

初動教育・躾を怠ったり間違えた結果、現在企業を悩ませているバイト・テロが起きている・・・私には、そう思えてなりません。

これから子供作りを考えていたり、赤ちゃんがいるご夫妻には、是非ご一読をお勧めします。


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